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No.178 成長の力学の普遍的原理

Pathwork Guide Lecture No. 178
UNEDITED版
1969年12月5日


成長の力学の普遍的原理
THE UNIVERSAL FUNCTIONING PRINCIPLE OF GROWTH DYNAMICS


 ここにいらっしゃるすべての人にご挨拶と祝福をお送りいたします。内なる統一のために努力し、模索し、葛藤するおひとりおひとりにご挨拶と祝福をお送りいたします。皆さんは一人残らず、意識的であれ無意識であれ、この内なる統一という衝動に動機づけられています。この衝動は、物事を引っ張り先導する生命の力です。生命力には、人を特定の方向に向けて進むよう動機づけるひと押しが含まれているのです。内側から沸き起こるこのひと押しが持つ深い意味に人は気づきもしないかあるいは、そもそも意味の存在にさえ気づいていないかもしれません。多くの人は内側で起こる漠然とした緊迫感を経験はするのですが、それが何を意味しているのかは分かりません。誰もが人生のどこかで遅かれ早かれ、こういった緊迫感を意識的に経験することになります。今我々が取り組んでいるような、最も深い問題を解決しようと努力し、眠っている素質を実現しようと試みる献身的な道のりに出会う人では、この内なる衝動は大分意識に上がっていることと思います。また別の状況にいる人にとっては、自分の内側にある不穏さの意味を真に理解することなく、漠然とした衝動と取っ組み合いをしているような状況にあることでしょう。生命力そのものに含まれているこの内なる声がたとえ大声で訴えようとも無視を続ける人は多くの場合、人生の深刻な危機に陥ることになるでしょう。多くの場合、この深い衝動の存在に気づくことで初めて、危機を正しく理解することができるのです。

 今夜のレクチャーではダイナミックな成長、つまり成長というプロセスにおいて自然発生的に起こる統一の動きを題材に扱っていきたいと思います。成長というダイナミクスの力学全体には話が及ばないにしても、いくつかの側面についてお話ししたいと思っています。言うなれば人生のすべては成長のプロセスです。いつも言っていることですが、しっかりと意図的かつ献身的に取り組まないかぎり、行き当たりばったりの無意識的な試みとなってしまい、盲目的な反対の力によって妨害され、停滞の状態へと後退の方向に引っ張られてしまいます。
成長のダイナミクスについてもう少し理解を深めることにしましょう。この題材に深く入っていく前にお伝えしておきたいのは、今夜のレクチャーをじゅうぶんに理解するためには、今年一年を通してお送りしてきた一連のレクチャーの流れの一環として、今夜のものを捕らえる必要があるということです。今夜のレクチャーの終わりで簡単に要約したいとは思いますが、この一年でいくつかの段階を経ながら非常に体系的にレクチャーを学んできました。今夜のレクチャーは一見、他のものとは繋がりがないように思われるかもしれませんが、深い理解と共に最後まで聞いてくだされば、そこには繋がりがあり、有機的な連続性があることがお分かりいただけると思います。

 まずは成長の真の意味について、その概念を体得しましょう。普通人は、成長や人生、死や愛、そして悦びなどの言葉を、あまり深く考えずに口にするものです。概念が単調なものになっているのです。いくつかの言葉については、何度も他の言葉に置き換えて話をし、欠けている意味合いを埋める必要があるのはこのためです。成長とは、単に生命体が大きくなるというだけのことではありません。もちろん成長は拡大ではありますが、それはひとつの側面にすぎません。成長とは、これまで克服できなかったことを克服するということなのです。自分がいる環境や自己の中に障害として姿を現わしていたものは、一度それを克服してしまえば、自己の領域の一部となるのです。

 障害が克服されないとき、自己の内側、あるいは自己と外の世界との間には不統一が姿を現わします。成長が起きれば、不統一は統一に至ります。つまり、成長とは常に統一のプロセスです。成長とは常に、溝に橋渡しをすることであり、葛藤の克服であり、矛盾や一見した矛盾を解決することを意味しています。これは存在のすべてのレベルに当てはまります。身体的な技術の習得という、最も表層のレベルの非常にシンプルな例を挙げてみましょう。幼児が立ち上がり、歩くことを学び始めるとき、身体が持つ力と重力の法則、そしてこの子供がいる環境あるいは世界との間に不統一が存在することになります。歩く能力が獲得されなければ、世界と自己の間に矛盾、もしくは分裂が存在するとも言えるでしょう。歩くことが一度達成されてしまえば不統一は消えてなくなります。当初の食い違いは当人にとって、操作可能な延長されたフィールドとなるのです。領域は増加し、これまでは自分のものではなかった新たな「一部」を手に入れることになります。以前は不統一と共に、存在としての幅や力が制限されていたわけですが、成長の努力は存在に幅を与え、より多くの力と統一をもたらしたのです。歩くことを学ばずにいれば、無力で依存的なままにし、歩くというある意味では世界を勝ち取ること、眠れる可能性を引き出すことを妨げます。これは特定の不幸な感覚や弱さ、痛み、制限を生み出しますが、こういったものはすべて歩く能力を獲得するときに克服されるのです。

 人が人生で経験するすべての段階は、これまで習得してこなかった新たな領域へ分け入ることを意味しています。ひとつの転生から次へ、そしてさらにはそれを越えた在り方や創造性へと進んでいくという、魂の進化の全体にも同じことが当てはまります。進化の一連のはじめではいつも、無能さや何かができないことは当たり前と捉えられ、人はこれに気づきもしません。次に人は、それを乗り越えることが可能な障害として認識し、克服しようと努力をします。この努力に何が含まれるかは後でお話ししたいと思います。こうしてはじめて、人は何かに勝利し新たな能力を獲得します。これはすべてのレベルに対して言えることです。赤ん坊が歩くことを学ぶという、先程概要を述べた例とまったく同じ原理が心理的な葛藤にも適用されます。特定の困難さがそれと認識される以前では、無意識の無力感や窮屈さが存在します。この感覚を経て、問題は問題として認識されるのです。その後この問題をどうにかしようと決心し、不統一を解決するための可能性を詳細に思い描くようになり、葛藤の道に着手することになるのです。探求し、模索し、自分の能力をあらゆる方法で試し始めます。やがて、新たな統一を獲得し、これによって人生が持つ新たな力が与えられ、また人生を手にする力が新たに与えられることになるのです。以前は異質で手が届かなかった領域は今や居心地の良い、自分や自分の人生に安心できるホームグラウンドとなるのです。これが成長です。新たなホームグラウンドの獲得は同時に、新たな安全と平和をもたらします。不安と恐怖を携えた古い無力感を、新たな力が排除するからです。 

 すべての成長には随意的および不随意的な機能の両方が必要です。それぞれに等しく重きが置かれなければ、調和のとれた成長を達成することができません。最終的な成長自体は何の努力もなしにやってきます。結果として現れるこの成長は、不随意的な能力の顕現であり、随意的な能力に反応して起こるものです。随意的な能力は多くの意味で、努力を必要とします。粘り強さや忍耐、模索や探求、新たな方法やモダリティをすべてがぴったりとはまるまで永遠に試し続け、自分自身に当てはめて試し、防衛や虚栄心を取り除き、勇気と真実性を自己の内に習得する。こういったことはすべてが努力です。自分がこれまでに楽をしてきた方法を繰り返し克服していく際に、最も意義ある努力とはこういったものなのなのではないでしょうか。取り組みのはじめにおいては、さまざまな方法を試し、最終的に統一が確立されるまで産みの苦しみは続くわけですが、この苦しみなしに人生の新たな次元を発見することはありません。産みの苦しみと単に寓話的に言っているのではありません。というのも、すべての些細な統一は、少しずつではあっても、スピリチュアルな再生だからです。誕生とはいつでも、自己の新たな発見であり、これまでより多くの才能が表に出て、自己が活性化され新たな形をとることだからです。新しい技を獲得することはいつでも、ある意味では再生であり、自己の中に隠れていた新たな才能を発見することによって今までは知らなかった人生の領域を発見するということなのです。自分に欠けていた技術が原因で存在していた溝に、新たに獲得する技術が橋を渡すのです。

 しかし、努力が成され、成長の結果としての統一が実際に最終的に起こるとき、それは不随意的に起こります。あたかも勝手に、事も無げに起こります。費やした努力とは無関係のごとく起こるのです。実際これはとても欺瞞的になりえ、努力は無駄だったのではないか、それなしでも起こりえたのではないかと惑わされます。同様に、随意的な努力による目に見える直接的な結果を求めてしまうと、この期待はフラストレーションや落胆に姿を変えることになります。皆さん、成長のプロセス、つまりは創造のプロセスにはお伝えしているふたつの側面があるということを意識することはとても大切です。皆さんのスピリチュアルな成長において最も重要かつ大きなことと捉えていることにも当てはまりますが、最も些細なことや、瞑想についても同じです。これ以上ないほどに平凡な技術を習得する際にも適応されるのです。

 随意的な努力には、随意的な機能と不随意的な機能が正しいバランスで含まれていなければなりません。人は常にこのバランスを模索する必要があるのです。そして模索というもの自体を検証しなければなりません。つまり、落ち着き払った努力と規律を携えながらも同時にくつろいでいるという、正しくバランスの取れた模索である必要があるということです。成長におけるすべてのステップ、葛藤や混乱、無知や無力への勝利は、人生の新たな技術の獲得や熟達、統一を意味し、この統一はまず個人の中で達成され、次にその個人とその人の人生との間の統一へと繋がります。

 統一された原理という究極の現実の反対には、この地球上にある二元性があります。これについては頻繁にお話ししていますね。地球上というよりは現在の意識の状態における二元性と言った方がいいかもしれません。これまでに私がお伝えしようとしていたことは、今皆さんにお話ししていることなのです。すべての生命はさらなる統一を獲得するための進歩そのものであり、それは不統一をどんどん排除していきます。新しく獲得する統一はすべて新たな安全圏となり(安全圏という以外の言葉で表現することもできるとは思いますが)新たに生まれる余裕やホームベースとなります。成長が継続されると、これまで発見することのなかった不統一の要素がこの新たなホームベース内に検出されます。すると当人は、再び試み、模索し、葛藤しながらこの不統一を統一するために新たな領域へと進出していくのです。そしてこれは完全な統一に至るまで続きます。古い不統一の状態に留まる方が新たな統一へと冒険するよりも安全だと感じられることもあるかもしれません。しかし、そう思えるのは一重に、そこには必要となってくる努力があるからです。努力というものが無機的で「存在するべきでない」ものとして捉えられるとき、それは悪性な何か、もしくは望ましくない何かとして経験されます。反対にもしも努力が生命の動きの一部として捉えられるのなら、それは挑戦して立ち向かうもの、あるいは楽しいものとして経験されます。後者の捉え方では、努力と努力を必要としない状態の双方に正しく重きが置かれ、随意性と不随意性の正しいバランスも姿を現わします。

 最終的に不随意的な能力が姿を現わすとき、それは 時として非常に唐突に顕現し、努力を必要としない自然な形で新たな技が人格の一部となることがあります。繰り返しますが、これは人のすべてのレベルに当てはまることです。身体的なレベルでは皆さん経験済みだとは思いますが、随意的な努力、つまり練習や学びそして頑張りといった大変な苦労をする段階と、技が急に第二の天性のように当たり前に自然になるときには違いがありますね。これはスポーツにも見られますが、人としての新たな在り方や、これまでにはなかった反応の仕方を感情面で獲得したときなど、精神的なレベルでも同じことです。たとえば、人がとある破壊性や特定のネガティブ性と対峙し始めるとき、これを意志の力で変えることは不可能です。その代わりに、問題のより深い部分への理解や気づきを模索すること、問題の根源やそこから導き出される結果に面と向かい、本当に変えたいと望むことに意志を向けなければなりません。今述べたことはすべて意志の領域です。すると突然、新しく建設的でポジティブな形で、いとも自然に事に反応するという、新たな反応の仕方が身に着いているのです。これが自発的で自動的な統一です。こうなればもう、新しい技や在り方、反応、感情、活動を意識し望むという大変な努力を費やす必要はなくなります。

 等しく望ましくないふたつの選択肢を抱え、人が引き裂かれたような状況にあるとき、そしてその選択肢そのものが人生を無駄にしているとき、あなたは完全なる不統一にあり、二元性に身を置いているということになります。生命とはどのような時でも成長のプロセスそのものです。それにも関わらず、どこにも出口がないと推察することは成長のプロセスを否定することなのです。一方で、解決策を見つけようとする姿勢はそれ自体が、新たに拡大していく人格の部分や、人生に対するあなたの覚悟を示しています。今の自分の無力感や窮屈さを越えて、何か新たなものを習得する準備が整っているということなのです。いつでも最初の一歩とは最も難しいものです。具体的に何が自分にとって不統一なのかが分かっていない状態であり、むしろ、具体的に不統一とは一体何なのかも分かっていない始めのころが最も難しいのです。というのも多角的に見ればそこにはもちろん様々な不統一があるわけですから。今目の前に浮かび上がっている具体的な不統一を発見し、明言し、面と向かい、対峙し、克服し、明らかにするためにここで、随意的な力を強固にしなければなりません。先にも述べましたが、克服するために力を投じ、内なる覚悟をすることは随意的な力が担う部分です。この段階を経てはじめて、また別の、不随意的なプロセスが気づきやインスピレーション、ガイダンスや啓示をもたらし、すべてが完全にはまるまでパズルにピースをひとつずつ加えていくのです。こうして随意性と不随意性は交互にやってくるわけですが、次なる洞察を得るときには、そこで改めてまた新たな覚悟や探求が必要であり、これはまた有機的に次の段階が自ずと姿を現わすまで続きます。そしてこれが繰り返されます。今申し上げていることは、自発的で自動的な統一のプロセスの説明に留まらず、道そのものの説明でもあるのです。道とはまさにこれなのです。今はまだ不統一であるものが統一へと変化できるように思考の中に場所を空けることは、随意的な能力が担わなければならない仕事の一部です。今はまだこの統一はあなたからすり抜けてしまってはいますが、獲得することは可能だと断言しなくてはなりません。実際にあなたは獲得していくのですから。どれだけそこに力を注ぐかで結果が決まります。確かに、統一への欲求は大抵の場合そもそもの原理に備わってはいるのですが、いざダイナミックな成長の段階になり随意的な力が必要となるような実際の難しさに直面すると人は、不快感や一見不快に見える事柄を避けて通ろうとします。虚栄心が脅かされるときや、人の目が気になるときには自己をさらけ出したくないと思ってしまうのです。しかしまさにここで、これまで大切にしてきた偏見や幻想に挑まなければなりません。停滞は攪拌されなければならず、自発的な統一が起こるためには全人格がこのプロセスに力を注ぎ、協力しなくてはなりません。

 感情的、心理的、そしてスピリチュアルな成長を語る際には、今お話ししているような精神や意志、そして感情面でどれだけの力を注ぐことができるか、そして身体的または純粋に精神的な新たな技術をどれだけ獲得できるかは、ワークがどれだけ継続できるかに相当します。新たな技術とはしかし、すでに人の内にあるものです。統一も同様で、たとえそれまで不統一が存在していたとしても、すでに人の内にあるものなのです。

 この道を歩むときに最初にあなたの元にやってくる自然発生的な統一の状態は、一度手に入れればその先ずっと残るというものではありません。統一が完全ではないため、一度手に入れたとしても消えてしまいます。新たな題材、新たな側面を自分の中に見つけていく必要があり、新たな姿勢を獲得していかなければなりません。習得したことは深められ、そこには広がりが生まれなければならないのです。つまり、次にこの統一が自然と姿を現わすまで随意的な努力を続ける必要があるということです。そしてふたたび随意的な努力し、三回、四回、五回と努力なく不随意的な機能としての自然発生的な統一が顕現するまで随意的な努力と不随意的な顕現を交代に繰り返さなければなりません。こうして少しずつ新たな技は第二の天性として、あたかも当たり前だったかのように人格に組み込まれていくのです。

 新たな習得が身体的なものであれ、精神的、感情的、スピリチュアルなものであれ、それらは例外なく一種の亀裂を克服することを意味します。亀裂が実際のものでも、幻のものでも、誰かが何かを深く経験した、痛い溝であることに違いはありません。新たな習得は常に幻の二元性や不統一にとうとう橋が渡されたということであり、本来の自然な、真の状態に修復されたことを意味するのです。

 不統一とはいつでも、痛く、不快なものです。ひとつ前のレクチャーでお話しした悦びは例外なく統一の状態に依存します。人生を拡大していくということは、これまで馴染みがなく一見敵意に満ちていた世界がいわば自分の故郷となるような、そんな絶え間ない前進を意味します。統合が起こるときはいつでも、一見異質であった世界の側面が自分の世界となり、つまりあなたが新たな楽さ、快適さを見つけたということでもあるのです。同時に、亀裂を統一しようとするあなたの努力によって世界に楽さや平和を、新たな経験を通して見出したということなのです。  

 皆さん、今お話ししていることはことのほか大切です。皆さんはよく拡大や成長、経験という言葉を簡単に口にします。しかし多くの場合、言葉が持つ深度をじゅうぶんに捉えることなく使っているのではないでしょうか。

 まとめると、無理のない自発的な成長や統一は、努力と葛藤の結果としてのみ起こります。これには人生に向かい前へと進む動きを必要とします。この前進はしかし落ち着き払ったものでなくてはならず、くつろいだものでなければなりません。努力は必要ですが、ここでいう努力とは緊張して強張ったものではなく、自己規制の働いた、くつろいだものです。緊張や強張りは、そこに無意識の気後れがあることを暴いています。反対に自己規制が働いたくつろいだ状態の努力には気後れがないため、努力が可能なのです。つまりくつろいだ形の努力が不可能だと感じるときには、無意識の中に前進することに対して消極的なところがないかどうかを見る必要があります。くつろいだ状態の動きはそれ自体が楽しいものです。逆に隠れた消極性を覆い隠す強張った動きには痛みが伴います。奥にある消極性を否定するのではなく、むしろ焦点をあてなければなりません。

 人生にくつろぎ、かつ確信を持って次々と統一を達成しようとすることは難しく、課題が多く、多くの場合骨の折れる作業ですが、同時にその動き自体が楽しいものです。ひとつ統一するたびにそこからさらに悦びが生まれ、その悦びはまた次なる統一へと繋がります。こうして無限に人生の流れが脈々と続いていくのです。不統一を「すでに卒業しているべきもの」とする思いを手放してはじめて、統一は悦びをもたらし、そして統一自体が悦びとなり得ます。このようにして宇宙全体は自己に統一され、自己は宇宙全体に統一されます。

 窮屈さや制限、動きのなさや静止、停滞があるということは、人格の中に非常に限定された状態が含有されているということなのです。つまり成長のダイナミクスは不統一を統一することとは別に、無知とネガティビティを克服することでもあるのです。同時に、誤解を乗り越えることでもあります。誤解はいつでも、さらなる分裂、分割、不統一を生み出します。しかし誤解も元はといえば、間違った方法ではありますが、統一を見つけようという努力に由来するのです。神経症とは、方法は間違っていても、健康やよい存在であろうとする試みなのだと以前にもお話ししましたね。盲目的な独自の方法で、トラウマ的で痛みのある何かと和解をしている状態です。この道を歩む上で皆さん、度々同等の誤解と出会っているのではないでしょうか。例えば、愛を痛みや危険と間違い、悦びを屈辱や辱めと、自己主張を受け入れられることのない攻撃性と、その他たくさんの誤解を自分の内に見出してきたのではないでしょうか。このような誤解が理由で人生にとってきわめて重要なものを否定しなければなりませんでした。伴う副産物があまりに望ましくないように思えたからです。今挙げたものは間違った統一の典型的な例です。本物の統一や全体性、じゅうぶんさ、そして調和を見出すためにはまず、こういった間違った統一を一度分解し、不統一とする必要があります。

 誤解の結果、前へと向かうすべての動きが危険に見えてしまいます。多くの場合、統合のために間違った統一を引き裂かなければなりません。一時的で、犠牲が大きく、無駄で、限定的な「平和」を刺激しなければなりません。安全だと思っている場所から一見危険なところへ出ることが必要なのですが、人は停滞し窮屈で、限定的な人生を危険にさらして一歩を踏み出したいとは思わず、そこを安全だと思ってしまいます。パスワークという道をすでに歩み始めている人であれば一人残らず、今お話ししているような隠れた非合理的な感情や態度、そして反応に対峙したことがあると思いますが、その裏には形は違っても必ず、皆さんが意識し始めている抵抗が存在しているのです。もしも偏見なく、シンプルな形で真に自分に問うことができれば、成長への抵抗とは恐れであり、停滞したまま今の自分であろうとする態度は、今の在り方以外に安全はないのだという考えから来ていると分かるはずです(とはいえ、幸せや悦び、全体性や愛、拡大を犠牲にしているのだと、ぼんやりとではあってもどこかでは分かっているものです)。別の言い方をすれば、停滞を悪化させる誤解は、限定的な生き方の幻の安全だということです。新たな境地の獲得をしないことや無知が安全かのように見えるのです。今の自分の人生の基盤や座標軸、動き、狭く限定的な状況に身を置くといったほんの小さな安心を探し求めることは、あなたに普遍的に与えられている運命を放棄することに等しいのです。自分自身を限定的な囲いの中に追いやることは、人生と成長を否定することです。悦びを否定し、魂の一番深い部分で人が持っている最も価値のあるスピリチュアルな力を使って、あまりにも不必要で無駄なものを作り出しているのです。この力を解き放つために人が持っている特権とは、挑戦する態度、努力、そして何かを習得する姿勢です。この特権をすんなりと選択できるようでなければなりません。そうすることで、成長は冒険となり、悦びとなるのです。

 この真理からすると、成長しないことは人生に対する罪ということになります。とんでもない発言だとお思いになるかもしれませんが、それでもやはり真実なのです。皆さんは神聖さの表われであり、神の表現です。ですから、今より多くのより偉大な統一を成し、より多くのスピリチュアルな技能を獲得し、不統一に橋を架け、不統一を排除し、自分の中に新たな場所を見つけ続け、統一し続けることによって至福を生み、自分自身を全うすることはあなたが生まれ持った権利であり、運命なのです。

 多くの人は、留まることなく次々と身体的または思考的な技術を身に着けることには前向きです。もちろんこれも価値あることであり、人生への前進であり、不統一の克服を象徴しています。新たな技術の達成は、今までとは違う悦びをもたらし、自己を克服する感覚を与えてくれます。つまり、ひとりの人の世界に新たな宇宙の断片がはまることになるのです。こういった新たな技術の習得への歩みは、内なる宇宙を発見し、拡大していく際に必要となってくることと本質的には同じです。片方は多くの場合人生における機械的で外的な側面を扱い、他方は人の内の最奥の自己や人生の本質を象徴するものを扱っているわけですが、それでも基本的には同じ性質が必要となってくるのです。外的な技術の習得がたとえ生命の内なる拡大の単なる代替手段であったとしても、完全なる停滞よりは好ましいでしょう。なぜなら完全なる停滞は最終的には一時的なものであるとはいえ、身体的な死に繋がる運命にあるからです。内側のレベルで起こる真にスピリチュアルな成長や習得、ダイナミックな動きを伴った成長や、感情面や心理面での亀裂の自発的な統合、つまりはスピリチュアルな統合は内なるバランスと調和を併せ持っています。そこから有機的かつ自然で力みがなく自発的で直観的なガイダンスや知恵が生まれ、結果として外的な統一がもたらされるのです。身体的および精神的な技術や理知的な成長は、それぞれに価値あるものですが、内なる成長の代替手段である場合には的外れなものとなり、誇張された活動となることも多いのです。成長が人の中心に置かれているとき、振り子が極端に振れることはなく、すべてがあるべき場所に収まります。必要のない目標は自然とふるい落とされていくことでしょう。

 宇宙の真理を無視するとき、そこには無知の程度に応じた不統一が存在します。一歩一歩、統一に向けて葛藤し、無知という状態に橋渡しをすることは生きとし生けるものすべての運命です。この橋渡しの作業は、隠された、最奥の、感情のレベルでは最も難しいものです。というのも、感情は意志によって直接働きかけることができませんし、常に意識できているものではないからです。つまり、統一の作業が始まる前に、まずは不統一を探し当てる必要があります。進化の全体像を見てみると、人はいくつかの段階を経験することが分かると思います。より原初的な段階にいるとき人は外的なレベルを扱う必要があり、その後内なる世界の統一に課題の比重が置かれるようになります。

 痛みを伴う不統一や葛藤に挑戦し、人の宇宙が大きくなりつつあるときには不随意の機能を信頼することが不可欠です。この信頼は、ゆっくりとしか手に入れることができません。なぜなら皆、不随意の機能をまだ経験したことがないところからスタートするからです。つまり、自分自身にそれを経験する機会を与える必要があるということです。もしも不随意な機能の顕現を止めてしまうと、すべての努力は無駄になってしまいます。顕在意識がくつろぎ落ち着いた、忍耐強い、信頼した形で場所を作り、不随意な機能に注意を払うことがなければ、それは姿を現わすこともなければ、顕在意識がその存在に気づくこともないでしょう。成長の過程においてこれは重大な部分を担っています。努力では直接的な結果を生み出すことができないのだと気づくとき、期待もしていなかったような、自発的でダイナミックな何かが、もしかすると最も予期せぬタイミングで結果をもたらしてくれるのだと気づくとき、そして内なる準備がしっかりと整った状態で待つことができるとき、随意的なものと不随意的なものの間には調和が生まれ、ひとつの原理として確立するのです。これが最も大切なことです。調和とは言っても、測りにかけたような形でそれぞれが同等だということではありません。何か月もの間、随意的な思考と意志のプロセスで模索をし、それによって一瞬にして内なる感覚が自然と姿を現わすこともあります。こういったものは長く続くものではありませんが、その深みや密度、変化や安全そして人生とは何であるかといった気づきという意味における重要性は、意志によるすべての努力や代償をもってしても測れるものではありません。つまり、随意的なものと不随意的なものの間に生まれる調和は主に、あなたの態度や意識、期待や見通し、そして活動を双方に等しく置くことによって生まれることになります。これらふたつの機能をいつどのようにして組み合わせ、交代させるかを、あなたの直感を使って模索する必要があるということです。

 たとえば、私がレクチャーでお話ししたネガティブ性に関する四つのステップを、骨身を惜しむことなく皆さんが行ったと仮定しましょう。四つ目のステップに到達するとき、自分の不随意的な力の自発的な顕現に漠然としか意識を向けていないという事実が邪魔となってくることが多いのです。不随意の力を心底信じていないところが、ネガティブなものではなくポジティブな態度を自分は欲しているのだと断言し主張する力を弱めてしまいます。もしくは、悦びに対する恐れや抵抗の克服を諦めたいと思うようになり、人生で演じている役柄や見せかけといった自分の前に立ちはだかる障害を乗り越えるのを止めてしまいたくなるのです。克服への欲求は、落ち着いた信頼と、確固たる確信によって支持される必要があります。この時点では間接的で自然発生的な統一が起こるまで、随意的な力は不随意的な力に場所を譲らなければなりません。自分が欲しいものはこれだという揺ぎなく同時にくつろいだ気持ちによってこの統一は起こるのです。これが随意的なものと不随意的なもの、そして能動性と受動性の原理の融合です。

 今皆さんに注がれている意識の光と共に成長というものを見ることができれば、恐れや絶望、そして無駄な努力の多くを取り除くことができます。同時に、今はまだ不統一があるその場所に、統一が作り出されるまでにかかる時間に対して、今よりは焦ることが少なくなるのではないでしょうか。

 質問に入る前にここで、今年行ったレクチャー全体の流れが持つ大切さに触れたいと思います。まずはじめのレクチャーでは創造的なプロセスそのものを扱いました。この創造的なプロセスが人生のポジティブおよびネガティブな状況を生み出し、人は自分が何を信じているか、考えているか、そして望み、感じ、熱望しているかによって故意に、または意図しないままにさまざまな状況を経験するということをお話ししました。生きることや存在することは必然的に創造することだと示しましたね。なぜなら、生命を成している物質は常に、本人の意識と無意識の表現すべてによって形作られているからです。成長と統一のダイナミクスという題材でお届けしている今回のレクチャーの文脈では、不統一に果敢に挑む人と、狭い場所に自らを閉じ込めている人とでは結果的にまったくちがった人生を創り出すことは明らかなのでないでしょうか。そして今年二回目のレクチャーでは、人のネガティブ性がいかに重要かをお話ししました。ネガティブ性が悲惨さや失敗、不満を生み出しているにもかかわらず、そこには創造のプロセスが関与しているため人はネガティブ性に魅了され、放棄するのがいかに難しいかをお話ししました。今回のレクチャーとの関連で表すと、ネガティブ性がいかに生まれるのか、そして狭い範囲に閉じ込められた人生がいかに継続してネガティブ性を中心に回り、自転しているのか、統一ではなく不統一を生み出し、悦びではなく痛みを生み出しているのかということになります。自然と発生する統一のダイナミクスと成長のプロセスの視点から言えば、より幅のある人生または統合された人生を創り出せるかどうか、または視野の狭い人生や不統一や痛みではなく、至福や悦びを作り出せるかどうかは本人の内なる覚悟と決断にかかっているということです。今回のレクチャーの内容と照らし合わせてみても明らかですが、三回目のレクチャーの題材であった悦びと、創造性における悦びの重要性については、悦びとは統一され拡大され、常に大きく成長する状態でのみ可能だということです。自分自身に押し付けた狭い囲いを詳しく取り上げることによって、より多くの宇宙を自分自身のものとし、結果として自分自身の運命を達成することになるのです。現実には、随意的および不随意的な機能は別々ではありません。個人の理知や意識が宇宙のそれとは別々であり同時にひとつであるのと同じです。宇宙の真実にどれだけ気づいているかに依存するのです。自分自身の意識の中にどれだけの解離があるかによって、これらふたつの要素は別々になるのです。とはいえ、現実にはすべてはひとつであり同じです。ひとつの同じ意識であり、ひとつの同じ力の一部であり、理知の、創造性の、知の流れとひとつであり一部なのです。それが現実です。

 しかし現時点でのあなたの意識の状態や、人間としての限界ある枠組みの中に随意的な能力と不随意的な能力という実際にはひとつであるものが姿を現わすとき、あなたはふたつのまったくの別物を扱っているように感じ、完全に別個の「脳」と向かい合っているように感じることでしょう。内側と外側、意識と無意識、直接的に触れるものと直接触ることができないものといった具合です。

 こうした言葉はとりあえずの手がかりとなる雛形でしかなく、ここから皆さんは不統一からの自然発生的な統一へとさらなる挑戦をし、そこから得ることになる限定的な統一からまたひとつ、より幅広く、より細かく分化された不統一に取り組むことになるでしょう。そしてこの取り組みによって不統一を修復し、より広く、深く、そして分化されていない統一に至ることになるのです。これが繰り返されます。そうしてあなたの人生は拡大していきます。今はまだ弱く、無力で、依存的な断片もどんどん自分のものにしていくのです。今はまだ痛みの中にある部分にはより多くの至福をもたらし、今は間違いの中にあったとしても、そこにはさらなる真実がやってくることでしょう。間違いや痛み、そして苦しみや無力感、停滞、不統一はひとつの単位であり、悦びと成長、統一と拡大はまた別の一括りです。真実、愛、そして成長を、何度も何度も繰り返し選択し直し、その選択を覚悟し直すことができますように。神という、あなた方の真の姿でありなさい。
   



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