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No.185 相互性:宇宙の原理と法則

Pathwork Guide Lecture No. 185
UNEDITED版
1970年10月9日


相互性:宇宙の原理と法則
MUTUALITY: A COSMIC PRINCIPLE AND LAW


 親愛なるみなさん、ようこそいらっしゃいました。皆様に祝福と愛がありますように。

 今夜のレクチャーは相互性についてです。相互性は、宇宙の原理と法則です。この内容を次の三部に分けて話します。第一部は宇宙の原理法則としての相互性について、第二部はこの法則が人生にどのように顕われるについて、第三部は相互性の法則を妨げる障害の要因と起源についてです。

 相互性とは宇宙の法則であり、霊的法則です。相互性がないところには創造は起こり得ません。相互性とは、2つの明らかに、そして表面的に異なる存在もしくは側面が結びつき、ひとつの包括的な全体性を創造する目的でお互いに歩み寄ることを意味します。お互いに自らを開示して協力し、影響を与え合い、新しい神聖な創造物を作りだすのです。自己表現の新しい形態は、自己がそれ自身を超えた何かと融合したときに初めて顕われるのです。相互性は二元性と統合の溝を埋める際に起こるものなのです。分離があれば、それを取り除くために相互性は必要なのです。

 相互性がなければ、新しい銀河にせよ、芸術作品にせよ、善い人間関係にせよ、何も創造されることはありません。最も単純な物体さえも同じです。この原理を詳しく説明するために次の例を挙げましょう。最初に思考を使って、その物体を形作らなければなりません。このような思考なしには、また既存のものへの気づきを超えて拡張したマインドによる創造的なインスピレーションと想像力なしには、計画さえも立てることはできません。この創造的な側面は、相互性の第二の側面である、2つが相互的に協力し合う態度、つまり実行へと次第に変化していきます。これには、労働、努力、根気強さ、そして自己鍛錬が含まれます。創造的思考と機械的でエゴにより動かされるすべての活動が調和しない限り、その物体は創造されないのです。第二の側面である、実行するという圧力をその計画に加えない限り、第一の側面、創造的思考とインスピレーションが創造を完了することは決してないでしょう。これは例外なくすべての創造過程にもあてはまります。物体を創造するにせよ、交響曲を作るにせよ、絵を描く、小説を書く、食事を作る、科学分野で新しい発見をする、病気を癒す、互いに思いを寄せ合う状況を作る、自己実現の道で成長する、どれも相互性の法則はすべての努力、無事成就したすべての物事、すべての有意義な自己表現にあてはまるのです。ひとつには、創造性、想像力、思考の統合と、もうひとつには実行が起こらなければなりません。これらは一見まったく異質の態度です。

 創造的態度は自由に流れ、自然に現れるものです。実行は、エゴの意志決定を通して行われる行為です。こちらの方がより機械的で手がかかり、一貫性と努力を必要とします。自発的で、自然な流れによる創造的思考とは全く異なる特徴を持っているのです。人間は次の2つの理由で非創造的だと言えます。創造的思考に従うために必要な自己鍛錬を進んでやりたがらない、もしくは個人の創造的チャネルを開くには、霊的にも感情的にもあまりに収縮してしまっているかのいずれかです。

 前者は、困難に遭遇することや、試行錯誤することによって煩わし思いをすることをまるで子供のように拒んでいます。後者に関しては、インスピレーションが欠けています。このような偏った態度は、個人がこの道に沿って成長し、内面の葛藤を解決していくことで相殺されていきます。自分自身を見出した健全でバランスの取れた人は、自分の人生に最も深い満足感をもたらしてくれる創造性の表現手段を必ず見つけるものです。

 この不均衡は、人間関係の領域において特に影響を及ぼします。最初のうちこそ、二人を引き寄せ、愛で結びつける創造的で、自発的で、努力を必要としない行動は湧き上がりますが、このようなつながりが保たれることはめったにありません。これにはさまざまな理由が挙げられますが、多くの場合、内面の軋轢に取り組む「努力(労力)」がなおざりになっているのです。一度、最初の行動を起こしたら、その後の二人の関係の道筋を決める力は自分には無いのだ、という子どもじみた考えが支配的なのです。関係性を二人から独立させ、全く別の存在であるかのごとく見なし、それ自体が良くも悪くも道を進むかのごとく扱います。この誤認については次のセクションで詳しく見ていきます。

 宇宙はすべて、何の努力も必要のない創造性に満ちたイマジネーション(想像)と実行との間の調和のとれた相互作用によって成り立っています。実行は常に努力、(時間や労力の)投入、コミットメント、自己鍛錬を課してきます。この相互性という架け橋は、大変重要な側面です。相互性は、二元的な原理の対極にある統合の原理と同じではありません。統合の原理と相互性の原理の違いは、後者が統合への入り口だということです。相互性の原理は、統合へと向かう行動を指すのであって、統合そのものにまだ至っていない状態なのです。

 相互性が起こるには、もう一方の態度、側面、相手に向かう拡張的で互恵的な動きがなくてはなりません。言い換えれば、2つの拡張的な動きが、与え受け取る、相互協力する、積極的に開示するといった調和的なやりとりとして、互いに双方に向かって流れ出している必要があります。別の言い方をすれば、2つの肯定する流れ(Yesの流れ)が互いに働いてなくてはならないのです。受け入れ、耐えて、喜びを保ち続ける能力は人間の中で少しずつ強められていく、それ以外にないということを、私たちは知っています。私たちはそれをこれまでの私の言葉やこのパスワークで行ってきたワークでも学んできました。これは到達するのにもっとも難しいゴールのひとつなのです。この能力は、その人がどれぐらい統合しているか、全体性の中にいるかに直接関わってきます。ゆえに、相互性とは、肯定するチャンスが訪れたとき、その存在がYesと言う(肯定できる)能力を持っているかどうかにかかっています。

 これを受けて、このレクチャーの第二部に入っていきます。では、相互性の原理は現在の人間の発達状況にいかに適用できるでしょうか?相互性に関しては、人間の発達は3つの段階によって決まります。もっとも未発達で、未だ恐れと誤解に満ちている人間は、ほんの少ししか拡張することができません。拡張と相互性は、互いに持ちつ持たれつの関係なので、拡張が否定される分だけ、相互性を築くことが難しくなります。パスワークに従事しているみなさんはご存知のように、どのような人間でもある程度自分を開示することを恐れるのです。このような内なるワークを始めた頃は、そのような恐れが自分にあることを疑いもしなかったことでしょう。仮にもし疑ったことがあるとしても、恐れがあるのを認めるのはあまりにも恥ずかしいことであったため、うまくごまかしていたかもしれません。きちんとした価値ある人間が、決して他者には話さないような何かが自分の中に内在していて、自分だけが特別におかしいのではないかと誤って思っていたのです。自分にそのような欠点があることを誰にも疑われないようにしなければならなかったのです。しかし、ワークを続けるうちに、自分の中にあるこの問題の普遍性を完全に認め、受け入れ、そして正しく理解することを学びました。地道なワークによって、多くの人が自分を開いて拡張していくことに対する恐れを今では認められるようになりました。ときにはこの恐れや、自分のエネルギー、感情、生命力をどのように押さえ込んでいるのか、十分に気づいているかもしれません。収縮しているとき、自分がコントロールすることによって安全だと思い込んでいるのです。このことを真実だと思えば思うほど、あなたは相互性について問題を抱えることになります。自分の内にある真実から最もかけ離れ、もっとも未発達な人は、あらゆる拡張を否定し、ゆえに相互性をも否定することになるでしょう。これは、相互性への切望が無くなったことを意味するわけではありません。切望は常にあります。ただ、ほとんどの転生においてこの切望をどれほど感じないできたか、それに気づかないまま、なんとか押さえ込んできたか、それもまた真実でしょう。分離と孤独という偽の安全性で自分を満たしているのです。その方が脅威が少なくて済むし、そのように見えるからです。

 とはいえ、成長が少し進むと、この切望がさらに強まり、そしてより意識するようになります。次の段階では、程度差やそれにとって代わる状態が多々ありますが、おおまかで簡潔な説明としては、自分を進んで開示したいけれど、実際に相互性を結ぶとなるとまだ恐れている状態にあると言えます。拡張の至福感、喜び、そして統合が体験できる唯一の方法は、空想状態にいることです。そしてこうすると次のような不安定な状況を頻繁に体験するようになります。このような人は、この切望が真の相互性を築く準備が実際に整ったことを示していると思い込むのです。結局、その人は空想の中でそれをとても美しく体験します。相互性を現実に体験できないのは、こういった空想を実際に体験するのにふさわしいパートナーに出会える幸運が自分にはないからだと考えます。ついに、人生にパートナーが現われても、古い恐れがまだ蔓延しています。魂の動きは収縮し、空想は現実化することはありません。さまざまな外部要因によって通常は言い逃れできますし、実際、本当なのかもしれません。パートナーの側には、本人の夢を現実化するにはあまりに多くの障害があるのかもしれません。しかし、収縮が正当化されるようなパートナーを確実に引き寄せてしまうという事実自体、本人の精神の深いところで、何かが起きていることを示唆してはいないでしょうか?というのも、より深い自己は常に自分がどこに立っているかを知っているからです。もし、真により深い問題に進んで直面しようという気持ちが欠けているならば、言い逃れや弁解はエゴを温存するために必要となります。しかし、関係が失敗に終わるということは、自己が真の相互性を実際に現実化する準備がまだできていないことを常に示唆しているのです。

 多くの人は、この時期を --- つまり孤独感、激しい切望、それに続いて外的あるいは内的な障害によって十全な相互性を妨げられるために体験する一時的な充実感を交互に体験し続けます。結果として生じる失望感により、無意識の恐れをさらに正当化し、自らを開いて、人生の流れに委ねまいと固く決意します。この段階で囚われてしまう痛みと混乱にはとても深いものがあります。しかし、この痛みと混乱こそが、内面にある不安定さの真の原因をつきとめようと完全にコミットするところへ、最終的に導いてくれるのです。

 何のためにこの成長段階があるのか、その意義はほとんど理解されていません。痛みと混乱が生じるのは、まさに不安定さの真の意義が認識されていないためです。成長しつつある人が、孤独に過ごした時期によって比較的安全な環境で自分を開示し、必要なリスクが無くてもある種の充実感を、たとえ他者の身代わりとしてでも、体験できる機会を与えられているという認識に至ると、その人は自己実現に向けてまさに大きなステップを踏み出したことになります。同時に彼もしくは彼女が、関係性を持っている時期に遭遇する困難を、内在する真の意義の中で認識することができれば、それもまた同じことが言えます。一人きりの時期と他者とつながっている時期を交互に体験するそれぞれ時期には、一時的な安全弁が組み込まれているのです。どちらも分離の中で自分を守り、同時にある程度は思い切ってそこから抜け出すのです。分離から出る準備ができている程度に応じて、そこから抜け出すことができます。

 しかし、個人の進化の過程のある時点で、誰もが、この不安定さがどれほどつらいかを完全に認識する時期が来ます。そしてそれに続く相互性と充実感、他者とのやりとりと拡張、協力とポジティブな喜びに開いていくコミットメントに到達するのです。そのためにはネガティブな喜びと偽の安全性を常に手放していくことが必要です。すると、魂は相互性、愛、喜びを学び、試し、リスクを引き受けるようになり、開かれた状態で安心して機能するようになります。

 第三の段階にいるのはもちろん、実際の相互性を維持する能力がある人です。その人は、空想の中ではなく、単に切望しているだけでなく、「まるで相互性があるかのような」状況にいるわけでもありません。言うまでもないことですが、この地球上での安定した関係性すべてが真の相互性を表現しているわけではありません。実際、ほんのわずかな人々だけなのです。多くの関係性は他の動機が土台となって築かれます。あるいは相互性の元々の動機を維持できず、他の動機に取って代わることもあります。

 これらが相互性を築く上で人類が通り抜けなくてはならない3つの発達段階です。もちろん、これらの段階は説明通りにはっきり区別できるわけではありません。それぞれの段階は重複したり、変動したり、入れ替わったりします。つまり人格のさまざまなレベルにおいて各々の真実があり、実に多くの程度差があるのです。ある特定の人間にとってのあるレベルの真実は、別のレベルでは必ずしも真実としてあてはまらないのです。

 ではこのレクチャーの最も重要な三つめのセクションに入りましょう。双方の相互性を妨げている障害とは何でしょうか?これは常に人類の持つ問題だ、と説明されています。そして部分的にはかなり正確ですが、十分とは言えません。前回のレクチャー(悪の意味とそれを超越すること)に続くこのテーマについてもう少し光を当ててみたいと思います。

 相互性は、関わりのある個人同士が以前に隠した破壊的な側面、つまり悪に気づき、つながっている程度に比例して存在することが可能です。逆に言えば、善なるもの、愛、良識に向かって意識的に努力している層と、破壊や、憎しみ、否定に偏った無意識の層に裂け目があれば、相互性は起こらないのです。私がここで強調したいのは、相互性が無い原因は悪の側面が存在するからではなく、それらに対する気づきが欠如しているからなのです。ここははっきりさせておくべき大変重要な点です。通常、人間はまったく逆のアプローチをします。人は最初にすでに存在している悪を取り除かなくてはならないと思います。そうしなければ、自分は相互性からもたらされる至福を受けるに値しないと思うのです。すでにある悪をあまりに恐がっているために、認めることができないのです。すると生きていく中で、意識的な自己への気づきと無意識の自己への否定との間にある裂け目がますます深まっていきます。

 もし、自分の無意識から離れていたら、自分の中で存在しているとわかっている深い部分を行動に出しているに違いありません。あなたは他の人にそれを行動化し、他者の良く似た無意識で隠されたレベルに影響を及ぼします。この鍵となる部分が十分に理解され適用されない限り、関係性は行き詰まり、報われないものとなるでしょう。真の意味での相互性は起こらないでしょう。ゆえに自分の存在における無意識の破壊的な部分とつながり、それを強めていくことが大変に重要なことなのです。もちろん、私たちはこのパスワークに従事し始めて以来、まさにこのことを目標にしてきました。それでも、意識できる善の部分と無意識の悪の溝を埋めることがどれだけ難しいことか!どれほどの苦闘に耐えていることか。そしてどれだけ多くの人が、以前受け入れられなかった面を受容することに対し、あまりにも痛みを感じ、難しいと思い、この探求を止めたい誘惑にそそられることか。しかし、これが起こらない限り、人生を真に生きることは出来ないのです。

 あなたの内面の裂け目は、自分自身について十分に意識的になれない限り、自分と他者との間で再び顕われるでしょう。意識的になることは、その裂け目を修復するための最初の足がかりになります。というのも意識化は裂け目を小さくするからです。意識は、かつては否定されたものをいずれ受容するように導きます。あなたの自分に対する基準、要求、期待が非現実的であるがゆえに、もしあなたと、あなた自身のすべての側面との間に相互性が築かれていなければ、あなたと他者との間に相互性は決して存在し得ないでしょう。

 あなたが内面の悪を拒んでいるとき、あなたとあなた自身の間に相互性はありません。悪を拒絶すると、あなたは悪の中にある生き生きとした原初の創造的エネルギーを無視し、否定することになります。このエネルギーはその人が全体性を取り戻すために生かされなくてはなりません。前回のレクチャーでも触れましたが、このエネルギーの歪んだ状態に気づくとき、初めて変容できるのです。けれども、現在顕われているそのエネルギーを拒絶すると、いったいどのように元に戻せるというのでしょう?ゆえに、裂け目は自身の中に存在し続け、もしこれが意識にのぼらなかったら、裂け目 --- もしくは欠けているものが、あなたの関係性の中で映し出されることでしょう。自分の中にある特定の特質がどんなに邪悪で受け入れ難いものであっても、どんなに破壊的で望ましくないものであっても、そこにあるエネルギーと物質は欠くことのできない生命力であり、それ無しではあなたは完全に機能できないのです。自分の全体性を取り戻した人のみが喜びを持続することができるのです。十分な気づきを持った人のみが全体性を手に入れられるのです。そのとき初めて、人は他者のエネルギーの流れと魂の動きを受け取るために自らを開示させ、拡張の動きをブロックすることなく、別の存在の内なる宇宙に向けて自身のエネルギーを流すことができます。

 自分自身と統合できていないのに、他者との統合はあり得ません。それを期待することは全く愚かなことです。だからといって、最初に自分が完璧に統合されないといけない、というわけではないのです。現在続いている関係性を物差しにして、内面でどれくらい分離しているのかを測り、自分の中の否定的な部分を進んで受け入れるという意志をどれぐらい持っていられるかを測れば、より大きな自己受容へと成長することができるでしょう。同時に自己受容に比例して相互性を築く能力も育ってくるでしょう。あなたの関係性は改善され、さらに深く、意味のあるものとなるでしょう。過去に自分が拒絶し、それゆえに気づいていることを否定した自分の中にあるものを受容することによって、あなたが対応しなければならない他者に対して即座に大きな受容と理解が作りだされるでしょう。そのとき相互性が可能になるのです。同様に、自身の中にある悪を認められず、結果として「私は、自分を受け入れ、愛し、信頼し、自己尊重ができるようになるには、まず完璧でなければならない」と自分に言うとき、この同じ態度を他者に対しても取っていることでしょう。彼もしくは彼女が完璧には程遠いという現実をあなたが理解しはじめると、他の人に対しても、自分に対するのと同様のことをします。つまり、自分をどのように扱っているか気づかないよう、多くの時間を過ごすのです。そしてこれはなんとも残念なことです。そのような状態のとき、他者に対してもどのように接しているかというと、相手をもありのままに見ないようにしているのです。言い訳は如何ようにでもできます。こういった言い訳によって、自分自身や他者の言葉にしがたい現実をどれほど拒絶してきたかを観察することから注意を逸らしてくれます。そしてそのことによって裂け目ができ、相互性と至福に到達することが不可能になるのです。

 みなさんは、私がここで伝えるとても実践的で、すぐに手がかりとなる内容を自分の内面のワークで使うことができます。すべての関係 --- パートナー、同僚、友人、仕事を通じての知り合い --- こういった人々とのあらゆる状況を見てください。すべての関係性をくまなく見て、また、いらいらさせられる状況をじっくり観察してください。他者の現実にあなたはどれだけ本当の意味で開いているでしょうか?この問いに正直に答え、そして自分は開いていないということが分かれば、あなたにとってこれが手がかりとして使うことができます。もちろん言い訳したり、正当化したり、合理化して自分を忙しくさせ --- さらには、自己受容と大変混同し易いのですが、厳しい自責の態度というあからさまな自己否定が、受容することから乖離させ、現実を見ることを簡単に避けることができます。

 もちろん自分も他者も完璧からほど遠いという真実をマインドでは十分に理解しているのですが、上辺の同意にすぎません。しかし本当に心底からこのことを受け入れているでしょうか?この質問に感情のより深いレベルから答えようとしたら、大抵の場合、進んで受け入れようとする気持ちはあまりないことに気づくでしょう。あなたの反応がマインドで思っていることとは反対であることを証明してくれるでしょう。しだいに、他者をありのままに受け入れることに対する自分の忍耐の無さ、批判的である様、拒絶する様を発見していくことで、あなたは、自分自身にも同じことを自動的にしていることに気づくでしょう。

 投影され、行動化されている他者のネガティビティを受け入れるのは確かに難しいことです。そのネガティビティは常に防衛を使い、その防衛は自分自身の中の自分が防衛しているものよりも、さらにいっそう破壊的です。あなたに対する他者の反応的で破壊的な態度に対応できないのは、繰り返しますが、あなたが同じことをいつ、どのようにしているか --- おそらく別の方法でしょうが --- その気づきに欠けていることを映し出しているのです。

 他者への反応を指標として使って(最初のうちは、こちらがわかり易いからです)、自分に対して自分が何をしているかを知るのはより簡単です。自分の中の受け入れられない部分を否定することによって自分が自分に負わせている害は、あなたに以前私が伝えた通りのことをさせることになります。すなわち受容できない部分は隠すしかないのだという口実を与えてくれます。そして、このような口実は、原初否定したいかなるものよりも、さらに受け入れがたいものなのです。ゆえに自己嫌悪をさらに増幅させ、裂け目をさらに作りだすのです。

 もしあなたが、深み、喜び、親密さに欠ける浅くて、不満足な関係性にいるならば、つまりほんの表面的な自分しか見せていないということですが(おそらくは自分が唯一受け入れられると思える理想の自己像しか見せていないかもしれませんが)自分がどの程度開示できているかのよい物差しとなります。自分を受け入れることができないので、チャンスを生かそうともしていません。あなたの真の、本物の自己が受け入れられるはずがないと思い込み、同時に他者の現在、成長しつつある中での通過点を受け入れることができないのです。こういったすべてが相互性の可能性を除外してしまいます。

 開示し、受け入れるという動き、すなわち他者のエネルギー・フィールドに流れ込んでいき、その他者のエネルギー・フィールドの放射を受け入れる、そのリラックスした至福感 --- この至福感は自分を憎んでいる人にとっては堪え難く、危険に思えます。一時的に開示することができる度、そこにコンタクトできる程度だけ、このことが起きていることに気づけるのです、そしてそれはあなたが悪だからとか、至福を感じるに値しないからではなく、あなたがすべての生命力とエネルギーをありのままに受け入れられないことからくるのです。あなたはそこに閉じ込められたままで、それらを変換させることが出来ないのです。

 ですので、相互性の原理はまず、自分と内面の自己との関係にあてはめなければなりません。そうして初めて他者との関係性へと広げていくことができるのです。ただ、ここで、見通しの良い、高次の意識から言わせていただけるならば、あなたの領域ではとてもリアルに見えるあらゆる分離は、あなたと内面のあなたの間にある分離と同じくらい幻想でしかないのです。否定されたがゆえにもっぱら作り事として顕われているのです。この段階で偶然に全人格(分離していない状態)になっても、その状態に目と意識を閉じることによって、あなたはあきらかに二人の自己を作りだすのです。すなわち、受け入れられる自己と受け入れられない自己の二人です。しかし現実には二人の存在などないのです。今このことを知ることについて選択しようがしまいが、二人ともあなたなのです。しかし、あなたは本当に二人の人間ですか?もちろん違います。この同じ幻想はすべての明らかに分かれている存在にもあてはまります。ここでもまた、分離とはいわゆるマインドが勝手に作りだした人工的な作り物なのです。現実にはそのような仕切り/境界は存在しません。このことは、今の段階で感じることは容易ではないでしょうが、だからといって、痛みと苦しみの原因となっている分離という幻想の中に人類が生きているという事実は変わりません。現実には、すべてはひとつなのであり、すべての存在は宇宙のその他すべてと繋がっているのです。そして、これは単に言葉の綾ではないのです。一なる意識は宇宙に、そしてそこにあるすべてに浸透していきます。しかし、除外されたり、否定されたり、切り離されたりする部分ももはや自分の中に存在しなくなるときにのみ、あなたはこの統合を経験し始めます。

 このテーマについてなにか質問はありませんか?

 質問:エネルギーの観点から、肉体的、精神的、そして霊的なレベルにおける相互性の側面を話して頂けますか?

 答え:もちろんです。エネルギーの観点から見ると、拡張する動きというのは、外に向かい、流れていく動きです。二人の人間が、互いに開示して、収縮することなく開かれた状態で流れを受け取ることができるとき、片方の人間からのエネルギーが他方のエネルギー・フィールドに浸透し、またその逆も同様です。常に流れのやりとりがあり、交換しています、分離しているままの人、収縮している人、お互いに開示できない人の場合、そのような二人は閉じたままです。つまりそれぞれが孤島のように、ほとんど、もしくはまったくエネルギーの交換はありません。そして交流がブロックされるとき、その分だけ偉大なる進化の計画は妨げられるのです。

 人が、相互性の機会が全くないときにだけ開示できたり、あるいは相互性があまりに恐ろしいものに思えるがゆえに肯定する流れ(Yesのエネルギー)が否定する流れ(Noのエネルギー)で邪魔される場合、片方のエネルギーが流れ出しても、閉じたエネルギー・フィールドから跳ね返って戻ってくるだけです。後者は壁のようになっていて、入ってくるエネルギーを振り払うのです。ゆえに二つの流れは決して一つにはならないのです。この現象は日常生活で容易に観察できます。お互いのやりとりが無いときや明らかに理解し難い理由で恋に落ちたり、相手が深い愛情を感じているときに恋から醒めるたりします。さらに微細なレベルでは、継続している関係性についても同じ原理が当てはまります。つまり片方が開いているとき、もう一人は閉じているという状態です。また逆の場合も同じです。安定した発達と成長こそがこの状態を変化させ、そうすると双方が互いに開いたままで居続けることを学びます。

 霊的かつ感情的なレベルでは、激しい恐れの状態が存在するとき、最も低い段階にいることを示唆します。現状況の自己を受け入れることへの恐れは、真の相互性と至福から逃げ出したいという恐れ(真の相互性と至福を経験することに対する恐れ)と本質的に同じなのです。そこに恐れがあるということは、憎しみ、そしてそれから派生するすべてが生じているはずです。

 今のありのままの自分を受け入れられない限り、人は理解できないことに対してきちんとした説明を求めるのです。そしてこのプロセスを回避することによって、メンタル(精神)レベルは影響を受けます。精神/思考活動があまりに活発になると、自己の高次の声や宇宙の深い真実の声を「聞く」こと、知覚すること、あるいはそれに意識を合わせることができなくなります。このようにしてさらなる分離が生じます。この精神/思考の雑音によって、感情との繋がりがさらに薄くなり、この状況を最初に作り出した状態につながりにくくします。このような人は、自分自身の選択によって、常にフラストレーションと満たされなさを感じる状況の中で生きることを強いられるのです。

 これは、みなさん既に良くご存知のように、肉体的にあらゆるブロックを作りだします。

 第二の段階、開いたり、閉じたりが交互に起こる状況では、精神/思考活動は混乱しています。自己が最悪の部分を受け入れられるまで、探求し、模索している中では真実の回答が生み出せないでしょう。精神/思考の混乱はさらなるフラストレーションと怒りを作りだします。なぜ人は常に相互性を築けないのかを説明してくれるはずのものが不完全であれば、ただただフラストレーションが増すのみで、結果的に怒りと憎しみが増大します。感情的には、切望と失望の間を行ったり来たりする状況が存在します。つまり空想の中で満たされ(ゆえに開いたり、流れたりという態度はみられるのですが、それは真の相互性ではありません)、引きこもり、そして収縮します。後者にはやはり怒りと憎しみ、失望と非難が含まれます、

 自己受容が相互性を可能にし、エネルギーのやりとりが行われるとき、宇宙の動きは均等に流れます。健康的な形で交互に拡張と収縮があり、静止の原理が浸透しているので、人は永続的なリズムの中に自己を見出し、宇宙と調和します。

 次回の質疑応答では、みなさんが持ち寄りたいと思っている特定のテーマについて、さらに多くの質問を受け付けます。これはグループワークと言って、パスワークの中でも非常に重要なものです。そして、もちろん内容を明らかにしていきます。このグループワークに関わっている人はどうぞ、ご自分の質問、わからなくて困っていることを言葉にできるようにしてきてください。そして今ここで学んだことを、自己と向き合うという側面にどのように生かせるか尋ねてください、グループでの体験としてこれを最も有意義な形で生かすにはどのようにすればいいか尋ねてください。私はみなさん全員にお答えできれば、とても嬉しく思います。

 親愛なるみなさまに祝福がありますように。このレクチャーがご自身の内面で起きていることを照らす小さな灯火の役割を果たし、今のあなたをありのままに受け入れる方向に力強く導いてくれるために希望と力を与えてくれますように、そして別の面からその道を示してくれますように。欲しいままに自分を甘やかすでもなく、言い訳をするでもなく、ただ、なにが起きているかを見ること、恥と恐れであなたを縮こませる誇張無しに、十分にその不完全性を受け入れてください。こういった歪んだ態度をすべて消し去らなければなりません、というのもこれらは、あなたが憎んでいるさまざまな側面よりも、さらにあなたを惨めな思いにさせる落とし穴だからです。この態度を持って、このような方法を適用できれば、あなたは自分と宇宙とをつなぐ幸福と真実を見出すことができるでしょう。

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