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No.194 瞑想-その法則と多様なアプローチ-ポジティブな人生を創造するための瞑想についての概要

Pathwork Guide Lecture No. 194
1996年版
1971年10月22日


瞑想-その法則と多様なアプローチ-
ポジティブな人生を創造するための瞑想についての概要
MEDITATION: ITS LAWS AND VARIOUS APPROACHES --
A SUMMARY (MEDITATION AS POSITIVE LIFE CREATION)


こんばんは。ここにいるみなさん全員に祝福がありますように。魂やスピリット、そして身体を癒す多くのエネルギーや愛、ヒーリングパワーがここに集まっています。それは、あなたの内に、または外にある意識や感情、経験を新しいレベルへと到達させたいというあなた自身の欲求の統合されたものから来ています。そしてそれは、肉体を持ってはいませんが、確かにここにいる霊的な存在からも来ています。度々お話ししているように、ここにいる人間の数よりもさらに多くの存在たちが、この冒険的なコミュニケーションに関わっています。あなた方と同じように、手助けをすることで使命をまっとうする存在もいれば、今の段階では、ただ学ぶだけの存在もいます。しかし、彼らが気づくか気づかないかは別として、進化におけるすべての段階には有益な影響があり、そしてそれにより、他者に教えることができるのです。

 今回のレクチャーは瞑想についての概要です。私はこれから、瞑想とは何かについて、そして瞑想の持ついくつかの法則についてお話します。その次に、いまだ分離した側面であるローワーセルフと、全人格との統合を目指すというこのパスワークの目的を満たすために、特にどのような瞑想が、最も適しているのかを明確にします。そのほとんどが、必然的に同じことの繰り返しのように聞こえるかもしれませんが、このことは、どんな要約においても避けることはできません。しかしながら、これは、あなた方すべてに、瞑想の意味やその法則についてのよりよい理解をもたらすので非常に役に立つと同時に、瞑想を実践しようとするあなたの試みをより容易にするでしょう。

 瞑想とは、意識的で、意図的な創造です。それは、想像できるかぎり最もダイナミックで創造的な行為のひとつです。そのことを知っていようといまいと、あなたは常に創造しています。あなたが何者であるのかによって、感情と、意識的または無意識的な考え方や信念の総計がどのようなものなのかによって、そして行動や反応を決定づける概念によって、さらにはあなたの目標や態度によって、あなたは創造しているのです。あらゆる思考は創造物であり、それには結果が伴います。それは、その思考を表すような特定の結果をもたらします。人は、多くの矛盾する思考から構成されているため、そしてときに、その思考や信念は、人の感情によって大きく変化をするため、その結果としての人の創造物は、それに応じて必然的に変わります。ほとんどの人が送っている混ざり合い相容れない混乱した人生は、この事実を証明しています。分別のない間違った思考や破壊的な感情、抑制の効かない願望は、意識的に行う行為と同じくらい確かなものとして、ネガティブな結果をもたらすということを知らないままに、無意識に創造している人がいます。そのような人と、自分の持つ考え方や概念を観察し、検証する人、真実を探し、彼らの考え方と目的をそれに合わせる人、どんなに痛みを伴おうとも、勇気と誠実さ、知恵、そして自分の内に存在するものは簡単に避けることはできず、経験しなければならないという知識を持ってそれらを調べ自分の感情を浄化する人、そのような人との間には非常に大きな違いがあります。人生に対する後者のような姿勢は、結果として、人生の意図的な創造行為になります。そして、これが意味のある瞑想なのです。

 瞑想は創造行為です。あなたはとても高度で強力な創造の物質の中で生きています。それはわれわれも魂の物質と呼ぶものです。あなたはその中で生き、その中で動き、その中に存在しています。この物質に送られる意識のすべてが、具体的な形をつくります。あなたが話したり考えたりする言葉や、あなたが理解し口にする感情に満ちた思考は創造的行為です。あなたがその中を生き、あなたの中に生きているこの創造の物質は、形作られた思考様式に刻みこまれます。この物質は、意識的な思考と意図に満たされながら絶えず変化しています。このようにして、創造は無数の形で姿を表します。

 意識的な創造においては、あなたがさまざまな思考、感情、姿勢を表現し、それらすべての総計が、人生全体を創り出しています。すべての考え方や意見、すべてのものの見方や欲求は意志の方向性を生み出し、この創造的な力が、魂の受容的な物質を活性化します。この原理を理解すれば、他者の人生において、彼らがどの部分で満足し豊かで、どの部分で貧しく欠乏しているのかをみるときに、他者が-意識的にでも無意識にでも-考え、感じ、信じていることを正確に理解できるようになるでしょう。
それゆえに、あなたが考え、知り、気づき、心に抱き、信じ、欲するすべてを意識することがこの道で最も重要な目的のひとつなのです。そうすることによってのみ、あなたはすべての葛藤や誤解を見ることができるのです。そうすることでのみ、人生を創造し始めることができるのです。瞑想は、誤解や破壊的な考え方を取り除くというまさにその目的のために使うことができますし、使うべきなのです。瞑想の助けを借りて、あなたの持つ誤解とは何か、なぜそれが間違っているのかに気づくことができます。そしてまた、瞑想の助けを借りて、少しずつ魂の物質に正しい信念をはっきりと刻み込むこともできるのです。

 最初に、どんなものであれあなたから瞑想を阻んでいるものを取り除くために瞑想を使う必要があります。これは、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。もしあなたが間違ったネガティブな信念を持っているなら、いい人生を創り出すことができません。むしろあなたは知らず知らずの内に創造的物質を破壊しているか、その創造的物質をネガティブな表現に変えています。いったん、その間違った考え方を取り除けば、より望ましい経験や、よりよくより深い感情と潜在能力、より独創的な自己表現、さらなる喜びや平穏を能動的に創造することができるのです。これらすべては、この宇宙に実際に無限の豊かさとして存在しており、すべてを手に入れることが可能なのです。唯一の制限は、間違った考え方やネガティブな感情、そして、それらから生じる態度が原因でこの豊かさを無視している、あなた自身のマインドなのです。

 能動的な原理と受容的な原理が融合し、新しい何かを創造すれば、この宇宙におけるあらゆる行為は実現化します。これは本当に小さくて最も取るに足らない行為から最も崇高なものに至るまですべてに当てはまります。ほんの小さなものを創造するあなたであろうと、新しい銀河を創造する宇宙の知性であろうと、どちらの場合でも能動的原理と受容的原理が常に調和し融合しなければなりません。もちろん、同じことが瞑想にも当てはまります。

 あなたの進化におけるさまざまな段階で、人格のそれぞれのレベルに応じて、瞑想への異なったアプローチを用いることができます。それぞれのアプローチ方法は、能動的な部分がどのレベルを担い、受容的な部分がどのレベルを担うかで、変化します。このことに関しては、また後でさらに具体的にお話しします。今お伝えしたいのは、意識的なマインドは、最初の段階において、言葉を話すことや思考や意図を簡潔に述べることによって、常に能動的な役割を果たしているということです。意識的なマインド゙がより簡潔に主張し、宣言すれば、思考や意図は、より建設的で真実に満ちたものになります。そして現実的かつ誠実に取り組むことができれば、内面の無意識の障害はより解決していくでしょう。

 例えば、あなたがパートナーとのより満足した関係について瞑想をするとします。それに値し、それが可能であり、神聖な法則と調和したものであるというあなた自身の確信の力は、愛したくないという願望に向き合ってきた度合いで決まります。この願望に気づいていないとき、もっと満たされたいという要求は、確信を欠くでしょうし、疑いで浸されるでしょう。しかし、憎しみ、そして愛への欲求というこの不釣合いな態度に向き合い、本当に手放すなら、あなた自身のさらなる愛する力のために瞑想ができるでしょう。このようにして、満たされることへの障害は現実的に対処され、すべての抵抗と本当にあなたが十分値するかどうかという疑問は消えてなくなるでしょう。

 魂の物質は、受容的原理に従って機能します。あなたの願いの表明が、より一点に集中し、より矛盾がなく、ネガティビティからくる隠れた疑いによって汚染されていなければ、受容的な部分すなわち魂の物質は、より深く明確にその表明に刷り込まれるでしょう。魂の物質は、意識の強さ、確信、そして、明瞭さによって形作られるのです。

 すべてのものに浸透している創造主も、すべての人間が使っている原理-それを使っていることを知っていても知らなくても-とまったく同じものを使っています。存在の持つ思考や考え方がより高度に進化し、より真実であれば、その存在が創り出すエネルギーはよりパワフルになります。究極の創造主の場合、そのエネルギーは、葛藤やマインドの制限、不完全な視覚化によって消滅されることは決してありません。

 知識の正確さ、拡張と体験の新しい可能性の視覚化、正しい概念と、魂の物質の受容性との間にも関連性があります。概念が本質的で、それゆえに、宇宙の豊かさが無限であることを正しく認識するなら、その考え方はポジティブなものとなり、愛と真実に関する宇宙の法則と調和するでしょう。このようにして、防衛は必要なくなります。この防衛のない状態で、魂の物質は解き放たれ、活発になり、受容的になるのです。魂の物質は、より刻み込まれやすく、影響を受けやすい状態になります。そして、創造は、前に向かって継続的に流れるのです。

 逆に言えば、考え方が歪んでおり、破壊的な態度やネガティブな感情を心に抱いていると、宇宙の法則は、破壊されます。これは、罪悪感や恐れを引き起こし、次には防衛を必要とするようになります。防衛は、魂の物質の表面を固く傷つきやすい状態にし、あなたの概念にそれらを刻み込むことや刷り込むことをより困難にします。

 最初は、この理解が単に理論的で知的なものであったとしても、このプロセスをある程度理解することは、あなたのこの瞑想への試みにとって大変役立つものとなるでしょう。   

 創造的な瞑想は、次のステージから構成されています。

 (1) 意識的に概念を生み出す
 (2) 創造の物質を刻み込む、刻まれるのを許す
 (3) 視覚化する
 (4) 信頼する

 これがどのように働くか見てみましょう。

 瞑想は、意識的なマインドから始まらなくてはなりません。すべての行動と同様に、瞑想は、意志と意図の決定から始まります。意識的なマインドから生み出される概念や思考は、最初のツールになります。繰り返して言いますと、明快さ、信念、簡潔な願いの表明、そして矛盾のない方向性が、このプロセスの力とエネルギーを決定づけます。もし意図の表明において弱さと疑いを感じるなら、それはまずあなたの持つ障害に取り組まなければいけないという差し迫ったサインです。そして、あなたの注意を、例えば、ローワーセルフの側面である無意識のネガティビティ、歪んだ概念を明らかにする方へと向けなければなりません。

 その障害に取り組むことで、それを取り除き、意識的なマインドが強く簡潔に形成されるとき、内にある意志は、魂の物質が刻まれるのをゆるし、リラックスしている必要があります。そうして初めて、望ましい人生や新しい考え方、よりよい経験や出来事や永遠の進化を創造することができるのです。

 マインドが今の状態のような狭い枠組みの中にとどまるなら、発展や創造は不可能です。ですから、瞑想は、マインドに新しい可能性と自己の新しい意識の状態を心に描き、思い切って飛びこんでいくことを求めます。もしあなたが今、あなたの生き方を妨害している特定の態度から自由になることを想像できないとしたら、物事は変えることができ、あなたがそれを望んでいるということを、まずは知性で理解しなければなりません。

 最初に、あなたは、マインドで物質を形作り創造する権利と能力を持っていることを知り、それを信じる必要があります。このような可能性を考えたことすらもないかもしれませんが、今、ここであなたの考え方を、よく調べてみてください。あなたは、自分がそれをできるということを強く疑っていることに気づくかも知れません。これが確かな真実であると知るときまで、まずは仮説としてこの可能性を受け入れてください。

 もし、あなたの無意識のマインドが、あなたの意識は無意識のマインドに重ね合わされているのだという考えを拒絶する場合、このプロセスはうまくいかないでしょう。あなたは、あなたが意識的な思考についてどう感じるのかによって、それを拒絶するかどうかをいとも簡単に決めてしまうのです。。あなたが拒絶しているのを感じるならば、内面にある矛盾に取り組み、その問題を解決するために瞑想の創造プロセスを使わなければなりません。そうすることで、恐れと抵抗を乗り越えることができ、向き合わなければならない真実と向き合い、感じなくてはならない感情を感じられるようになるのです。このことを繰り返す必要はないかもしれませんが、ここがとても重要なポイントです。多くの人が瞑想をあきらめてしまうのは、それがうまく働かないように思えるからです。そのような人たちは、無意識の内にある、相反する思考の存在を無視しており、あきらめてしまうのです。

 例えば、もし無意識の中に意識的な欲求と衝突する強力で神経症的な欲求があるとしたら、意識的なマインドはこの欲求を否定し、それを認めることに対して闘い、その欲求を排除するでしょう。無意識の内のこの戦いが続く内は、意識の持つ欲求は無力のままです。少なくとも欠乏感に関する隠された欲求が明るみに出るまで、意識は、満たされることと欠乏感の間を揺れ動きながら、無意識の中の相対する欲求と戦うことになるのです。

 瞑想は、あなたがどれだけ満たされるための意識的でポジティブな欲求に抵抗をしているのかを検証するためのとても素晴らしい方法です。あなたは、本当はどの程度それを欲していますか?あなたが最も欲しているもののある部分をあなたは多分恐れていますが、それはどの程度だと思いますか?あなたは実際、どのくらい喜んで代償を払えますか?あなたが作り出す思考に対する感情的な反応を見過ごさないのであれば、瞑想は、マインドを正しい方向へと向けることができます。

 このようにして、意識的な概念は、無意識の領域に浸透していかなければなりません。あなたが瞑想の主題として、ゴールや欲求、あなたが拡大したいと願う状態を選ぶとき、意識と無意識の概念の間に少しでも葛藤があるかどうかを見つけ出すことは、とても重要になってきます。

 意識と無意識との間の統合は、(創造の物質を)刻み込む、刻み込まれるという二番目の段階へ直接影響をおよぼします。意識が統合されていると、強く刻み込まれます。防衛も、何かを隠す必要性もありません。そうすれば、あなたの魂の物質は、あなたの送る真実の概念はただちに刻み込まれます。種子が土に落ちて芽を吹くように、あなたの考えがあなたの中に「染み込んでいく」のを実際に感じるでしょう。防衛がなければ、あなたは、その発芽のプロセスが起こるままにさせるでしょう。そして、疑いや恐れ、焦りでそれを邪魔することもないでしょう。無意識の破壊的な態度を背負うことがなくなれば、創造のプロセスが働いていることをさらに感じることができるでしょう。限定された外的なマインドからくるセルフウィル(身勝手さ)や先入観で邪魔をすることなく、そのプロセスを信じ、それ自体がもつ有機的な方法で物事が起こることを許すようになるでしょう。あなたが考えていたような方法とは少し違うかもしれませんが、このようにして新しい創造はゆっくりと姿を表していきます。

 これが最も望ましい創造の方法です。そして、実際には、これが唯一可能な方法です。瞑想の最初の反応が、さらなる障害を示すこともあります。そのような答えに対する準備がなければ、最初はそれを見過ごしてしまい、特定の出来事や反応が、今本当に必要としている答えだということを理解し損なうかもしれません。起こるべき困難を引き受ける準備ができるようになればなるほど、意図した創造プロセスの言語をより容易に理解できるようになるでしょう。

 すべての創造行為と同様に、瞑想は、能動的な原理によって創造の物質を刻み込むことと、受動的原理によって刻み込まれること、これらふたつの行為から成り立っているということをいくら強調してもしすぎることはありません。この相互関係を感じるようになればなるほど、創造行為は効果を増していきます。どのように上手く意図したとしても、強い防衛があれば人は瞑想できないという理由はここにあります。そのような人の意識的マインドは、適切な概念を明確にするのに十分に活発なので、強く刷り込まれることはあるかもしれませんが、内面では何も起こりません。受け入れたくないものをまだ隠しておくための防衛を取り去っていないので、刻み込むことができないのです。

 3番目の段階は、視覚化です。最初に、視覚化ではないものは何かをきちんと理解しておきましょう。それは、希望的観測やぼんやりと白昼夢や夢想にふけることや空虚な望みではありません。これらはすべて、向き合ったり手放したりしたくない破壊的な態度や特質、もしくは経験したくない未解決のままの感情からくる絶望を追い払おうとする試みなのです。

視覚化とは、手に入れたいと望むこと、体験したいこと、なりたい自分の状態を理解し、そのような状態にあるあなたを感じることを意味します。この瞑想で、怒りではなく愛することを、絶え間ない不足感や空虚さではなく満足感を、心配や憂鬱ではなく喜びや安心を、そして、関心のある他のどんなことでも経験することができます。視覚化は、適切な想像のあとに続きます。想像するとは、望む状態や体験を可能であるとみなすことを意味し、視覚化とは、そのような状態のあなた自身を感じることを意味します。それは、特定のことを想像することではありません。それは、いともたやすく希望的な白昼夢となって、助けとなるよりもむしろ妨害をする可能性があります。

 もしあなたが、あなたの望むマインドや感情、経験の状態を視覚化できないとしたら、それは、あなたが無意識の内に「真実に反すること」を利用してあなた自身をブロックし、それゆえに魂の物質を固く動かない状態のままにするか、思考の力を弱めるか、または、その両方をしているという直接のサインです。そのときは、その部分に対してワークをする必要があります。視覚化のプロセスは、つねに内面の反応に気づいた状態を求めるのです。

 4番目の段階は、信頼です。はじめのうちは、実験的な態度によって信頼をただ手探りするだけでした。信頼を意志の力として強要することはできません。それでは、不誠実になります。それは、楽観的な信頼のようなものを、内面の疑いやネガティビティ、否定の上に覆い被せるということになってしまいます。残念なことにこれは、宗教において頻繁に起こっていることで、本当に望ましくない結果を招いています。覆い隠すことと本当の経験の違いの分からない人には、霊性自体が信頼できないものなのです。

 もし、あなたが無知や否定の中で生きていて、それゆえに宇宙の真実から切り離されているために信頼を欠いているとしたら、あなたは最も誠実な方法でこの態度に取り組まなければなりません。勇気を持ってこの態度をよく見て、あなたがそれを維持しようとしているかどうか、これがもたらすものは何かをあなた自身の内面で調べてください。本来、憎しみではなく愛することが、絶望ではなく喜びが人間の本質です。そしてまた、あなたは生まれながらに、あなたの内にそして宇宙にいる優しさに満ちたスピリットの存在を知っています。もし、それを知らないというのなら、ある時点で、それを知らずにいることを決断したからです。この不誠実さは、突き止められなくてはならず、それを認めて、最後には手放さなくてはなりません。

 そして、あなたは、オープンに、そして正直に質問をする姿勢を持つ必要があります。オープンな状態とは、あなたがまだ経験したことのない可能性について考えるということを意味しています。あなたは、この可能性にチャンスを与えなければなりません。まさにそれは、正当なチャンスなのです。忍耐強い知恵や経験を超えたところにあり多くの可能性を知っているあなたの知性、そして、あらゆる方法を探している善意があなたを助けます。もし真摯に答えを探すなら、あなたはそれを受け取り、本当の宇宙の意志があなたに語りかけるでしょう。

 この態度を培えば、ポジティブな結果は必ず得られます。まだ疑いの晴れない状態にいる人間は、最初の明示や答えを偶然のことだと信じてしまいがちです。それは、起こったけれど、何の答えにもなっていないと思うのです。これは、よくあることで、避けようのないことでもあります。これはあなたに罪悪感をもたらすものではありませんし、もちろん、他の反応のようにそれを隠すべきではありません。むしろ、このような考えに向き合い、再び誠実さと知性を利用してください。

 例えば、「そう、これは奇跡のようだ。確かに生きたプロセスと知性が働いていてひょっとすると想像を超えたことが起こるかもしれない。しかしそれは、話しが上手すぎるようだ。それは、私が望んだものだけども、私の中には、それが真実であるのか疑っている部分もある。でも、さらなるチャンスを与えよう」ということができます。まさにここにあなたの葛藤と疑いがあり、瞑想を使うべきところでもあります。疑いを抱いている部分が何を欲して、何を欲していないのかを調べてください。それ自体に表現させてください。このことに対してガイダンスを求め、あなたにとってのさらなる答えを求めてください。

答えは、インスピレーション、あなたが普通あまりそれを期待していないときに浮かぶ新しいアイデア、感情に対する新しい気づき、そしてどこかで聞いたり読んだりする言葉などを通して、いろいろな方法でもたらされるでしょう。瞑想を進めるうちに、この答えが生きたプロセスの表現であり、とても意味深く有機的で、知性では考えが及ばないほどのものだということに気づくでしょう。そして、瞑想がもたらすそのような答えや悟りはジグソーパズルの一片であり、次第に包括的な完成図を形作っていくということも理解するでしょう。結局、他の何ものでもなく、あなたはこのプロセスを信頼するようになります。それは、この物質世界のどんなことよりもより現実的です。それは、紐解かれていくあなた自身の道であり、最後には、あなたが今この地球上に存在する理由や今の輪廻転生の意味を明らかにしてくれるでしょう。この内面での体験や確信が訪れるとき、あなたは信頼を手にするのです。

 それまでは、信頼に達するのを妨げる段階に取り組むことを学ばなければなりません。これには、何年もかかるかもしれません。その間、あなた自身の無意識の、または部分的には意識的な信念や姿勢、感情や反応をつねに調べなければなりません。私たちが信頼と呼ぶ疑う余地のない経験は、あなたが自分にチャンスを与えたとき、マインドを広げたままで、自分自身に誠実になったときにのみ訪れます。近頃では、人は、他者からの嘲りを恐れているため、大抵の場合、マインドを閉じたままにしています。ですから、人の持つ不信感は、かつての誤った宗教がそうだったように、日和見主義と順応主義を重ね合わせ、あらゆる点において不自然で、誠実さに欠けているのです。

 同じように、人はしばしば正直な質問に対して、もたらされる答えが「いいえ」であるかもしれないということへの恐れと、把握できることや物質を超えたところには何もないのではないかという恐れから、それらを受け入れません。人は、この可能性をとても恐れているため、十分にそれを手放さず、オープンで受容的な状態でいることができません。本当の答えは、緊張や恐れに満ちた態度がなくなったとき、そして、どのような答えが本当にそこにあったとしても向き合える用意ができたときにもたらされます。ネガティブな答えを恐れているため、あなたは絶えずそれを休止状態にしておくことを選んでいます。あなたは、真実を検証する責務という断崖絶壁に向かう前に、動揺し、理論を立て、そしてその崖の縁にとどまっています。幾生もの間、理論に留まる状態が続く場合があります。望まない答えを得るという危険を冒すことに、あなたは勇気を振り絞る必要があります。このようにして、真実は明かされます。理論は、幻想的な信頼だけを認め、真の信頼は決して認めないのです。

 本当の信頼とは、知恵であり、もう何も疑う余地がないという内面の経験です。本当の信頼は、望まない答えを敢えて求める準備ができ、それに取り組むことを決意した人だけが手に入れられるものです。もし、どのようなことが人生やあなた自身にやってきても、それに向き合う準備ができているのなら、あなたは恐れずに立ち向かうことができ、真実を見つけるでしょう。それをする用意ができておらず、詭弁で空論にふけることに満足しているとしたら、あなたは決して内面の論争を超えて進むことはできないでしょう。

 そのような正直なコミットメント(関わりあい)や本当のことに取り組む準備は、ローワーセルフに対する態度とよく似ていて、それらは密接に関連していることを理解する必要があります。ローワーセルフから隠れて、それに向き合うことに抵抗する度合いに応じて、宇宙の真実を含む他のどんなことにも取り組む勇気がもてないでしょう。

 この4つの段階は、もちろん密接に相互依存し合っています。これから、瞑想の手順と継続についての全体像を持っていただくために、瞑想のいくつかの法則を説明します。

 重要な法則のひとつが、あらゆる経典に繰り返し書かれていることですが、あなたは信念どおりのことを体験するというものです。これは、私が以前お話ししたすべてのことから、もう実際に明らかになっていますね。あなたは、無限の適応性を持つ創造の物質の中に生きているので、あなたの信念は、その影響をうけた物質を形作り創造するのです。あなたが動き、呼吸をし、考え、自己を表現している力強い灼熱の海のようなエネルギーは、あなたが考えうるどんなことでも-地獄のような陰鬱な状態から天国のような崇高な状態に至るまでの間にあるあらゆることを具現化することができます。このことに気づくことは、実際に人生にとても意味深い変化をもたらします。このことに関して深く考え、瞑想の中でインスピレーションとガイダンスを求めることをお勧めします。ここで視覚化を使います。考え、創造の物質を刻み込み、刻み込まれ、そして視覚化し、信頼を手に入れることにおいて、あなたは創造された反応としてそのとき経験する特定の信念に基づいて表現、行動するのです。

 心に描いたり視覚化されたようには信念を変えることができず、宇宙と敵対し、あなたの究極の運命が悲劇であるならば、あなたは本当にそして必ずそれをそのまま経験します。あなたの行動や反応は、これを引き起こすようなものになります。逆に言えば、あなたがネガティビティや破壊性、絶望、惨めさ、貧困から抜け出して成長し変わることができ、宇宙はあらゆる点で豊かな喜びであり、この真実を経験することができると本当に信じるなら、そのときには必ずあなたはそうならざるをえなくなります。この信念には、あなた自身の障害を喜んで手放すということも含まれなければなりません。もしこれに対して誠実にコミット(専心)するなら、宇宙の豊かさを経験する可能性をますます自由に感じるようになるでしょう。

 非常によくできた内部のメカニズムは、あなたが度を越して神の法則を犯すことを防ぎます。つまり、例えば、憎しみや悪意に向かって無意識の内に進んでいるのに、愛や満足感の可能性について信じることはできません。もしあなたが、無意識の内に自分が与える以上に求めることで人生を欺くことを望むなら、それは、また別の宇宙の重要な法則を冒していることになります。ですから、どれほど人生の豊かさの可能性を信じようとしても、それはうまくいきません。それでは、目的が達成されませんし、あなたの創造の物質は、この法則の侵害が取り除かれるまではそれを刻み込むことを拒むでしょう。人生を欺くことはできません。そして、これはこれでいいのです。

 飛び越えて進むことのできない別の法則があります。もし法則を犯す障害を取り除くことに依存する結果を望むのなら、まずにその障害に取り組まなければなりません。ですから、瞑想の目的は、この先変わるかもしれません。道を塞いでいるものを進んで正そうとしなければ、結果は得られませんし、この領域では創造は起こらないでしよう。

 ここで、あなたには悪循環と好循環のどちらかという選択の自由があります。悪循環はこのようなものです。「私が無意識に感情を抑え込み真実と誠実さへの責任を果たしたくなかったり、私が喜んで与えるものよりも多くのものを子供じみた態度で不当に手に入れたいと望むなら、それは私の信念が欠けているということだ。もしくは、もし私が、私自身の存在の中の必要な変化を起こしたいと思わずにポジティブな結果だけを欲すると、変化が私にとって可能であるということを必然的に疑うことになる。だから、私の概念、信念や視覚化したものは、創造の物質に刻み込まれるには、とても弱く、魂の物質はとてももろいものになる。このことが、私の持つ疑いと否定を強めているのだ。」

 逆に言えばこうなります。「真実や愛、誠実さやオープンさの法則を満たし、防衛を取り除いて、ローワーセルフに向き合い、心から変わることを望むとき、私は宇宙の本質に備わる絶対的な豊かさを生まれながらの権利として経験するだろう。もし道の途中で行き詰ったり、何も見えていないなら、答えが見つかるかどうかは、自分次第だ。それは私の一部が信じたいと思っているような不確かなものではない。私が望めば、明解な答えを見つけることは常に可能なのだ。」

 覚えておくととても役に立つことのひとつとして、瞑想のために瞑想することができるということがあります。つまり、あなたの進む道のどのような局面でも、正しい話題、集中、懸念、言葉や態度を見つけるために、ガイダンスとインスピレーションを求めることができるのです。あなたは、真実でないことに閉じ込められ、乱され、それを緩めるための助けを受け取る必要のあるあなたの魂の物質の中の気づきを求めて瞑想することができるのです。瞑想は、この先のあらゆる段階で使うことができますし、使われるべきです。あまりにも抵抗を感じるときは、あなたはポジティブなものを望んではおらず、依然としてネガティブなものを望んでいるということを理解するべきです。ですから、この願望に取り組まねばなりません。ネガティブな欲求を否定しながらも、望む結果を得られないことに不満を持つなら、瞑想は実際に問題を抱えるものになってしまいます。あなたがネガティブなものを望んでいることを知った瞬間、あなたは一歩前進します。なぜなら、そのことで、その問題について瞑想することができるようになるからです。

 瞑想の技術が進歩すればそれだけ、あなたは能動的そして受容的原理、自発的そしてその反対の力の間には絶え間ない相互作用があるということへの気づきを深めます。マインドが能動的でそれを刻み込み、受容的な魂の物質に影響を与える瞑想のこの最初の段階を超えると、人の意識のさまざまなレベルが能動と受容の相互作用の多様な役割を担い、別の可能性をもたらします。意識的なエゴのマインドが神聖なプロセスを活性化し、そのプロセスを反応させます。霊的な自己は、意識的な善意とマインドに刻み込まれ、呼び起こされます。しかし、そのとき、別の相互作用が起こります。表れはじめた霊的な自己は、能動的な原理となり、意識的なマインドは受容的で、耳を傾け、柔軟でその霊的な自己に刻まれやすいものとなるのです。それに注意を払い、もたらされる霊的なメッセージを理解しなければなりません。

 また別の可能性としては、あなたは意識的なエゴのマインドを能動的に使いますが、今度は、それに対して自己表現させるように求め、低次の破壊的な部分に取り組むのです。それからまた、受容的になり意識的なマインドで耳を傾けます。このようにして、ローワーセルフは、本当に自己表現を聞いてもらうことができます。これは、意識的なマインドがローワーセルフに屈しているとか、それと一体化しているとか、そういう意味でそれを刻み込まれたということではありません。それよりはむしろ、意識的なマインドは、耳を傾け、理解し、評価をして識別しているのです。

 意識的なマインドが、霊的な自己によって導かれるようになると、ローワーセルフも意識的なエゴのマインドと聖なる自己の両方から導かれるようになります。恐らく、このような順番で。ローワーセルフの破壊的でばかげた言動を、その自由な表現を妨げることなく聞けば、どこに間違いがあるのか、なぜそれが間違っているのか、それが引き起こすダメージと同様にその誤解が何かということが分かります。相互作用、すなわち対話はこのように展開します。

 恐らくその少し後になると、あなたは、聖なる自己に対してローワーセルフに指示を出すように要求できるようになります。聖なる自己にあなたの意識的なマインドと未発達なローワーセルフに対して語らせてください。それを聞き、すべてのレベルで教えを受け、インスピレーションを受け取ってください。エゴのマインドを通してそれに語らせ、書くことで表現させてください。

 聖なる自己は、大抵は無意識なままのローワーセルフにさまざまな方法で指導することができます。あなたはあなた自身の中にある意識のこのふたつのレベルの間で交わされる内なる対話を実際に聞くかもしれません。そして、エゴは、聖なる自己と同盟を結ぶことができるのです。もしくは、このプロセスはあなたが眠っていて、意識的なマインドが直接関与していないときに起きる可能性もあります。このプロセスは、最初は理解できないかもしれないいっときの混乱を創り出すこともあります。それは、ローワーセルフを浄化したいという欲求から来ているのかもしれないのです。あなたが、プロセスがどのように働くのかを完全に理解すれば、-あなたは、このことに対して責任を負わなければならないので、これはつねに必要で、省略することはできません-聖なる自己の影響は、無意識のレベルにまで及ぶでしょう。あなたに必要なことは、同調し、受容的になり、気づくことです。このかなり進んだ状態は、あなたが前の段階を習得し、実践したときにだけ起こります。

 たとえこのような道に関わっていなくても、時折、すべての人の人生の中でこのような内面のプロセスが起こる期間があります。それは、今世の前から生じている意図が原因かもしれません。人が、本当の道とその道が示すすべてのことに向かうために、内面のガイダンスを外側の決断やコミットメント(約束)の道具として用いるような特定の岐路に到達したのかもしれません。そのようなガイダンスは、激動の期間に、説得力のある夢を通じて、もしくは、連続して起こる特定の出来事を通して訪れるかもしれません。しかし、内面の現実に深く関わって、それに同調していなければ、その意味を読み解くことができないでしょう。あなたには、他者の助けと助言が必要です。それでも、そのようなガイダンスのすべての意味が明らかになるのはかなり後になってからかもしれません。

 あなたの意識的そして無意識のマインドが、そのような内面のガイダンスの邪魔をせず、待って聞くなら、その期間の後には途方もない進化が起こるでしょう。あなたは、さらに開き、さらなる悟りを得るでしょう。しかしもし、意識が抵抗して無意識で否定をし、恐れやブロックがその道を妨げるのなら、とても有害なプロセスが始まるでしょう。なぜならば、内面は拡張するのに外的にそれを抑えこもうとするからです。これは、危機に結びつきます。これは、どんなレベルにおいても、もしくは、すべてのレベルで起こることがあります。一方で拡張に向かって引き込まれ、もう一方で妨害され、それらが強すぎる場合、精神的な崩壊を引き起こしかねません。外側の妨害している側がつねに、内面の拡張への強い衝動に道を譲らなければなりません。それは、正しいタイミングを知っている神聖で真実の声だからです。すべての危機は、このように見られるべきなのです。
 
 あなたがこの道をさらに進んでいくと、内面のプロセスに対してより受容的になります。つまり、受容的になることと積極的に行動を起こすことを交互に繰り返すことができるようになるでしょう。内面のプロセスに対する気づきやそれに同調することがより多くなれば、内面の真実の世界にとって、より大きな現実からあなたのエゴを分かつ強固な壁を最終的に取り除くことができるでしょう。

 瞑想は、内側のそして外側のすべての人生経験と自己表現に適用することができます。それが正しく実行されれば、瞑想は内側と外側の人生経験を交互にもたらします。外部での実現が内側で妨害されなければ、実現のための瞑想は、内面に刻み、刻まれ、視覚化され、その結果として信頼となり、直ちに正しい考えをもたらすでしょう。創造のプロセスが働き、あなたはそれを感じます。しかし、もし内面に障害があれば、瞑想は、その障害に焦点が合わせられるため、外的に望むゴールに対する瞑想は、後になって再開されることになるでしょう。

 もっと意味のある方法で人生を経験するという目的のために瞑想を使うか、もしくは、あなたの一番の関心事があなたの内にある創造主を経験することかは、関係ありません。これは、同じ内面の状態を意味しており、外的には、同じ経験をもたらします。内面で神を経験し、自分が神の具現化であることを知れば、人生は豊かになり満たされるに違いありません。もしくは、人生の豊かさを心に抱くことからはじめるのなら、豊かさとは創造の本質であり、神の意志であることを知るとき、あなたの望みは成就するでしょう。両方の目的を手に入れるためには、取り組みたくない不快な部分を分離することで起こる間違った統一を維持しようとするよりもむしろ、真の統一のために内面の障害を取り除かなければなりません。

 あなたは、最も深いところにある恐れを見つけ、それに取り組むことに瞑想を使うこともできます。ガイダンスと悟り、強さと勇気を求めてください。恐れの中で生きていく必要はありません。しかし、恐れはそこに入っていき、それが本当は幻影であるということを明らかにしたときにだけ消えてなくなるのです。

 死を恐れない人間はいません。内面の壁は、死を越えた人生のプロセスから人を切り離します。これも、瞑想のテーマにすることができます。この壁を取り除くことを望み、必要なガイダンスを求めるかもしれませんが、あなたは本当にそれが実現するための条件を満たそうとしていますか?もしそうならば、壁は必ず取り除かれます。あなたは死を恐れることなく生きることができます。あなたは、永遠の生の真実を、まさに今ここで、あなたの身体で経験することができます。しかしそれはすべてのエゴからくる態度を手放すことを意味します。それは、エゴを維持し、増長させるすべてのことへの途方もない執着であり、プライド、セルフウィル(身勝手さ)、恐れ、虚栄心、分離、二元性、要はあなたと他人との間には違いがあり、どちらがより重要なのかというような信念を手放すことなのです。これらの間違った幻想である態度は、エゴ意識の部分であり、あなたが本当は何者であるかを気づくことを阻害しています。より大きな意識は、壁というものはなく、それゆえに恐れるものは何もないということを知っています。あなたは死というものを見もせずに、死を恐れていないと自分を欺くかもしれませんが、あなたのその恐れは、あらゆる方法で表れてくるでしょう。エゴの壁の中に閉じ込められている限り、たとえ、敵意を持ち、逃避したいという破壊的な死への願望を持っているとしても、あなたは死を恐れます。エゴの態度を手放したとき、この恐れを本当に取り除くことができます。他者より優位に立たず、それゆえに他者より劣っているということも感じないで、ごまかすことなく正々堂々と対等に人生を生きること、そのことによって本当にあなたから恐れをなくすことができるのです。恐れは、エゴによって作られます。あなたは、それを知っているのですが、忘れることを選択したのです。

 どのような質問、問題、葛藤、闇をも瞑想に持ち込んで、誠実に取り組むことができますし、そうするべきです。みなさん、ここでの唯一の問題は、すでに瞑想の真実を経験しており、それに対して純粋な信頼を寄せる場合でさえ、まだこの素晴らしいコミュニケーションを使うことを忘れがちになるということです。いつでもそれを使うことを単に思いつきませんし、生きていく中での最も小さな問題や最も大きな問題にもどれ程有効にそれを使うことができるか忘れています。実際には、大きいも小さいもありません。すべてが重要なのです。すべての問題に、建設的であるか破壊的であるかを選択する余地があります。真実か間違いか、神聖なものか悪魔のようなものかをあなたが選択できるのです。あなたのものの見方次第で、すべてのことは重要か重要でないかが決まりますが、すべてに瞑想を取り入れることができるのです。

 ブロックを取り除くために瞑想をするとき、あなたは次第に危機を乗り越え、その導きに沿って生きるようになり、今のあなたという特別な実存としての神聖な表現の顕現となるでしょう。そのとき、もはや壁もエゴもなくなります。あなたは聖なる意識なのです。考え、集中し、思考を強化し、聞いて、そしてあなたを連れ去りたいというマインドの気まぐれな変動を追いやるという意味においては、あなたはもはや瞑想という特定の行為に入る必要はありません。あなたは、努力する必要はありません。あなたは、ただ創造をあふれさせればよいのです。あなたは、創造を生き、それを呼吸し、創造そのものになるのです。本当のあなたが自由になったとき、すべての表現、思考、感情は、創造的で瞑想的な行為になります。

 簡単に説明しておきたい大切な段階が他にもあります。最も目覚めの度合いが低い人々は、嘆願的な祈りを使います。私たちは、これをする必要はありません。というのは、あなた方の誰も、もはやその状態にはいないからです。外界の存在が願いを聞いてくれるとか、思いどおりにご利益を得るというような概念は、明らかに幼稚で未発達の状態の結果です。そのような人々は、十分に謙虚に嘆願すれば、その願いが分離した他の存在によって与えられるだろうと想像します。しかし、このような原始的で嘆願的な祈りでもしばしば聞き入れられることがあります。なぜなら、信念の力や視覚化、「信じるとおりに経験する」という法則に基づいているからです。思考の力もそうです。信じていることが未発達でも、愛や精神の謙虚さ、誠実さが、思考の力が働くために手を貸すかもしれません。

 次の段階は、さらに目覚めている段階で、それは要請です。それは、あなた自身に特定の方向へ進むことを求めるということを意味します。つまり、あなたはこのプロセスはいずれ答えをもたらし、あなたの望みは、不変的で神聖な法則に調和していることをあなたは知っているということです。

 3番目の段階は、あなたの願いは叶えられると知っている、というものです。なぜなら、あなたは、ネガティブで、障害を引き起こすすべての態度を進んで手放すので、あなたにはそれを実現する権利があり、あなたはそれに値するからです。この完全なるコミットメント(専心)によって、あなたの内にある神聖な力と意識は、いずれは答えをくれると信じることができます。

 4番目の最も進化した段階では、あなたの願いは、表現される前からもう実現しているとあなたは知っています。進行中の普遍の神聖なプロセスを経験していく中でこれにピンとくることがあるでしょう。これは、すべての疑いが取り除かれた状態です。なぜなら、ネガティビティが取り除かれているからです。

 あなたの人生においては、ある領域は二番目の段階におり、他の領域は3番目の段階で、さらにまた他の領域は4番目の段階にいるかもしれません。これは、あなたにとってよいものさしです。4番目の段階では、あなたは融合の段階にいることを意味します。

 親愛なるみなさん、私が去って、あなた方がしばらく一緒にここにいるとき、多分、あなた方のひとりが自然に口に出して瞑想したい気になるでしょう。そして、少しずつ他の人はそれに参加することができます。それをなるがままに任せてください。あなたは、そのようにしてあなたの進む道におけるどんな目的にでも使うことのできるエネルギーを生み出すことができるのです。最終的にあなたは、私が今あなたにしているのと同じように、特定の目的のためにそのエネルギーを必要としている誰かにそれを直接使うことができます。それはそれ自体でさらに強力なツールになるでしょう。たくさんの人のエネルギーはひとりのエネルギーより強力であるだけでなく、その力が正しい方向に向けられたとき、あなたがどんな力を生み出せるかを理解させてくれます。あなた自身にインスピレーションをもたらし、来るものを来させてください。愛と真実と力の祝福がありますように。


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