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Pathwork in Japan
No.195 同一化と意図:ネガティブな意図を克服するための霊的自己との同一化
Pathwork Guide Lecture No. 195
UNEDITED版
1971年11月19日
同一化と意図:ネガティブな意図を克服するための霊的自己との同一化
IDENTIFICATION AND INTENTIONALITY: IDENTIFICATION WITH
THE SPIRITUAL SELF TO OVERCOME NEGATIVE INTENTIONALITY
ここにおられるみなさん一人ひとりに、祝福とご挨拶をお届けします。スピリットのパワーがみなさんを活気づけ、みなさんを通して生き、そして顕在化するままにしておいてください。そのときにのみ、あなたは現実の世界に存在するようになり、あなたの人生は意味を持つのです。この方向に向けてあなたが踏み出す一歩一歩が、新たなエネルギーを生み出します。友人のみなさん、この道でこのワークに真摯に関わり、これにともなう一切を込めてコミットしているあなた方は、この新たに働きはじめたエネルギーがどのような意味を持っているのかということに、少しずつ気づき始めています。あなた方は、自分の個人的な人生において、これまで以上にますます多くの部分で、さまざまに現れるこのエネルギーを体験しています。あなたは、本当の自分を知りたいと真に願い、古い破壊的な思考そして反応のパターンを手放すという犠牲を払う覚悟を決めました。そして、自分の中に見いだすものが、犠牲という言葉がまったく滑稽に聞こえてしまうほどに、どれほど比類ない宝であるかに気づくでしょう。なぜなら、すべてを得るために、あなたが手放さなければならないものは何ひとつないからです。
ここ数ヵ月の間に、個々人の努力によって、そしてまたグループ全体の努力によって、強力な新しいエネルギーが生み出されています。みなさんは、自分が知っている人間の人生よりも、確かに偉大な何かを動かし始めたのです。これは、それを見たい、感覚で受け取りたいと望むすべての人にはとてもよく分かるようになっています。それを見ないよう故意に自分に無理強いでもしない限り、あなた方の目覚ましい進歩、つまりあなた方の内側と外側両方の人生における新たな動きや、感情の再生、新しい体験の深さに気づかずにいることはできないでしょう。あなた方はみな、自分自身についてこれまでよりはるかに敏感に気づくようになってきており、そのために、人生はますます開き始めています。同様に、このグループの中に、この同じ新しいエネルギーが流れ込んでいることは明らかです。それは、ダイナミックな動きの中に、感情を経験するということの中に、感情に対する正直さ、他者とのより親密な関わりの中にはっきりと見て取ることができます。さらに、あなた方の努力と進歩の結果、霊的な力は今やとても強くなっているため、あなた方の中で最も疑り深い人たちですら、自分たちの懐疑的な態度は、それ自体、自分が選んだ防衛であることを理解し始めています。現時点では、このパスワークの有効性はもはや理論や哲学ではありません。それは、疑問を抱く余地のない現実、そして経験となったのです。
あなたは、成長進歩した結果、霊的な力をより鋭く知覚し、同調するようになり、スピリットの現実が、見たり触ったりできる物事よりもはるかにリアルであることを知っています。そして、新しく生み出されている霊的なエネルギーは、尽きることなく永続するようになります。これもまた、あなたの個人的な人生においても、あなたの公的な仕事においても、明らかに見て取ることができるでしょう。もちろん、最大の進歩を遂げたとしても、あなたにはまだまだ取り組まなければならない、さまざまな防衛、いまだ解決されていないネガティビティや抵抗、歪み、暗闇があります。ゆえに、私たちは、自分の人格のネガティブな側面、非現実性、そしてマスクをさらにいっそう取り除くために、霊的な強さをもっと手に入れるために、自分のワークをしっかり進めていかなければなりません。そのためには、いつもの通り、まずこれらの側面を十分に認識し、受け入れなければなりません。なぜなら、そうすることこそが、それらを手放すための必要不可欠の前提条件だからです。自分が持っていることや表現していることに気づいていないと、それらを手放すのは不可能なのです。
ここでまた、あなた方の多くが今いる場所の共通点をあげてみたいと思います。言うまでもなく、これが当てはまるのは、あらゆる面において、手に入れられるすべての助けを得て真摯にこの道を進む人たちにだけです。あなた方が今、いつのまにか極めて重要な地点に来ていることが、すぐに明らかになるでしょう。今夜はこのことについて話します。みなさんの中には、この地点を通り過ぎて何歩か先を行っている人たちもいます。それ以外の人たちの中には、依然、自分自身に気づくというこの地点を検証しようともがいている人もいるかもしれませんが、彼らは自分たちが入口に立っていることにたぶん気づいていることでしょう。けれども、友人のみなさん、あなた方の大半は、私が今まさに話そうとしている地点にいるのです。
みなさんに共通するこの地点とは、以前は隠していたけれども今は意識している、あなたのネガティブな意図への気づきです。この気づきは、ほんの少し前まではアクセスできないものでした。あなた方は、自分にもローワーセルフがあること、自分には欠点や性格上の短所があることを認めているでしょう。あなた方はそのいくつかに向き合い、正直に建設的に取り組んでさえきました。けれども、これはネガティブな意図とは異なります。もちろん、ネガティブな意図と、性格上の短所、イメージ、誤認、そして破壊的な感情との間にはつながりはありますが。
私たちは何年にも渡って、人が恐れているものは何であろうとその人が無意識に望んでいるものだということ、また人が経験することもまた何であろうとその人が無意識に望んでいるものだということを話してきました。このパスワークはすべて、この真実、この人生の事実に基づいています。何年間にも渡りこの道を行く中で、あなた方は随所で自分の中にある、この事実を裏付けるさまざまな側面を検証してきました。けれども、これほど多くのみなさんが、人生に対する基本となる否定的な態度に真剣に向き合うようになったのはごく最近のことです。この態度とは、与えたくない、愛したくない、貢献したくない、手を差し伸べたくない、受け取りたくない、豊かに暮らしたくない、と表現している態度です。想像し得るすべてのことを叶えたい、とそれだけを望む意識的なマインドにとっては、これはばかげたことに聞こえるかもしれません。けれども、魂のこのもうひとつの場所が存在するのです。それは、精神の隠された一画にあり、まったく反対のことを言うのです。そして魂の中のこの部分は、たとえそれによって苦しみや喪失がもたらされるとしても、憎むこと、悪意に満ちた状態でいること、与えないことを望んでいるのです。
魂の中のこの部分を理解することは、もちろんきわめて重要です。これは、かならずしも自分の大部分をしめるということではありません。実際には、この否定の中に閉じ込められた意識というのは比較的小さな部分にすぎず、自分の中の大部分はそれとは反対のこと(与えること、愛すること、など)を求めているのです。けれども、解放されたポジティブな自己の側面との関係性において、その部分がどれほど「小さい」ものであろうとも、その小さな部分は、それが認識されていないがために、またそれが存在するという自覚が欠如しているために、その人の人生に対して磁力を持つことになります。
このネガティブな意図に対する完全な気づきが現れると、あなたはこの破壊的な態度がどれほど自分を支配しているかに気づき始めます。あなたは、この態度がどれほど破壊的なもので、いかに愚かなものであるかを知っているにもかかわらず、それでもなぜか、この態度を手放すことが「できない」でいます。これはつまり、「する気にならない」ということです。自分の人生についての、このショッキングな気づきを受け入れられるようになる前に、抵抗を克服するための相当な努力が必要です。実際には、あなた自身そしてあなたの仲間の中にみる抵抗の多くは、まさしく、このようなばかげた破壊性や否定が自分の内部に存在するのを見たくないという気持ちに基づいています。
しかし、あなたが最終的にこれを見ることができるようになると、それは祝福となります。そのとき、あなたは、人生に対するこの否定に取り組むことができます。もちろんあなたはこれまでにも、かなりの程度それに取り組んできてはいますが。ネガティビティの「理由」---もしそう呼ぶことができるならですが---はたくさんあり、あなたはすでにこれをかなり自覚しています。それにもかかわらず、あなたは今もこの地点から動くことができません。それでも、孤立、孤独、愛の欠如、憎悪や憎しみを望んだのは自分だということ、そしてこれは何気なく降りかかってきた運命などではないことをあなたが知っている、というその事実だけで、進歩と進化の鎖の次の環を確立するための重要な鍵となります。
一緒に取り組んでいる私たちのこのワークのこのあたりで、ネガティビティとネガティブな意図との違いを明確にしておくのは役に立つことでしょう。ネガティビティという言葉は、あまりにも意味の広い言葉です。これには、欠点、敵意、歪んだ現実、羨望、憎悪、恐れ、プライド、怒り、あるいはどのようなことでも含まれます。けれども、私たちが「ネガティブな意図」について話すとき、この言葉は別の意味を持っています。それは明確にいうならば、人生と自己を否定する状態にしがみつこうとする意図、のことです。意図という言葉だけの場合、それは自ら関わっている(責任を負う)という意味を含みます。つまり、自分が慎重に選択すること、意図して何かをし、行動すること、そしてそうあろうとすること、です。そして、あなたが最も破壊的で残酷で、残忍な態度を白状するときでさえ、そこには常に、自分がそのような状態にあるのは仕方がないのだと暗に示しているのです。が、あなたが自分のネガティブな意図を明らかにするときには、あなたはもう、ネガティブなことが自分に「起こる」のだと、自分の都合のいいように解釈することはできません。あなたは遅かれ早かれ、自分の人生は自分の選択の結果なのだということを受け入れなければならないのです。そして選択には、別の態度を選ぶという可能性が含まれています。言い換えれば、あなたは深いレベルで、自分が自由であることを真に発見するのです。あなたがたどる、自分が選んだ道の結果が、たとえ狭く制限されているとしても、あなたはこの道を変えることを選択するまで、この道をたどることになるのです。
意識的なマインドにとっては、このようなネガティブな意図は考えられないように思われるかもしれませんが、今私が話していることを聞き、読んでいる人、そしてこれらをまだ確かめてはいない人、みなさん、ネガティブな意図は確かに存在すると確信してください。これに広く深く取り組むには、かなりの奮闘、努力、忍耐、そして抵抗の内面的克服が必要とされます。私は、そこかしこにある漠然としていてかすかにわかる程度の理解について話しているのではありません。そのようなかすかなものは、そのまま放っておかれます。実際のところ、ネガティブな意図に真剣に取り組むというのは、人生における重大な危機であり、根本的な移行を意味します。これは人が容易に手に入れることができるようなものではありません。
ここで、この移行に関して、いくつかの主要な段階と進行について見てみることにしましょう。人は、自分の頑固で取り除くことが難しいネガティブな意図について、何の自覚もない状態でこの道を歩き始めます。前にも話したように、もし人がこの事実に向き合おうとしても、その人はそれを自分自身の中で感じたり観察したりすることはおろか、信じることすらできないでしょう。その人は、いくつかの欠点や破壊的な態度、いくつかの神経症的な振る舞いや感情に気づくことはあるかもしれませんが、これは、ネガティブな意図に気づくこととはまったく違います。このことはどれほど強調しても強調し足りません。
パスワークで十分に進歩すると、人は、自分自身について、より深く、より正直な洞察を得るようになります。そして、自分の痛みに満ちた感情と同時に、自分の善良さも受け入れられるようになります。人は強さと客観性を獲得します。自分自身の中の真実に向き合うことへのコミットメントを何度も新たにし、それにより霊的なエネルギーの最も純粋な部分を何度も何度も活性化することによって、最終的に、人生のあらゆる善きことに対する自分の意図的な否定性に気づくことができるようになります。その人は、自分が切に願っているものを手に入れられないことに苛立てば苛立つほど、内なるネガティブな意図が増大し、これと取り組む気がなくなっていくことに気づきます。 この相関関係はきわめて重要です。疑いについても、同じことが当てはまります。すなわち、人は、自分が望んでいることが目に見える形で現れないことを恐れれば恐れるほど、人生の中で信頼感を持てなくなり、自分のネガティブな意志とのつながりが薄くなります。
苦しみという代価を払ってまでも、あえて否認、憎しみ、憎悪という道を自分が選ぶなどということは、とても受け入れがたいことです。けれども、いったんこれを受け入れてしまえば、人が実際にドアを通り抜ける準備ができる前だとしても、その扉は自由へと開かれていることになります。自分が新しい選択をする準備ができる前だとしても、人生に対する別の道、別のアプローチがあり、自分のエネルギーや資源を注ぎ込むための別の道、別のアプローチがそこにあるということだけで、現実的な希望を与えてくれます。誤った希望ではなく、現実的な希望を。
友人のみなさん、あなた方は、誤った希望にずいぶん大きな期待をしています。あまりにも大きな期待です!あなた方は実際に、自分の最善のものを、実現し得ない希望とまったくの幻想に基づいた神経症的な解決法に注ぎ込んでいるのです。しかし、本当の、現実的な、実現可能な希望---失望や幻滅に行きつくことのない希望、ゆっくりとではあっても確実に成長して現実や事実へと現実化する希望---は存在するのです。つまり、自己実現、自分の中にある最善のものの現実化、そしてそれにより、人生が差し出すものに手が届くようになる、という希望が。人生が差し出すもの、あらゆる可能性について、ちょっと考えてみてください!それらは無限で、あなたが求めれば手に入るのです。
しかし、自分の中のネガティブな意図の存在を発見することは確かに重要なことではありますが、発見することと手放すこととは同じではないと、私たちは知っておかなければなりません。この地点までたどり着いたみなさんは、これがこの上なく真実だということを知っています。ネガティビティを十分に認識し、受け入れていても、これを手放す準備がまだまったくできておらず、これを手放す気になれない、ということがあり得るのです。これは、すべての認識や洞察について必ずしも真実だというわけではありません。時には、ある破壊的な態度やゆがんだ態度への気づきが自動的にそれを取り除くことも起こります。けれども、いつもそうだというわけではありません。この特定の側面については、ネガティブな意図がどれほどばかげていて破壊的であるかがよくわかっていても、マインド、意志、そして意図を変えるためには、それを認識している以上のことが必要とされることを、ほとんど誰もがワークの中で繰り返し気づかされています。
もちろん私たちは、なぜそうなのかについて、多くの理由や動機、信念や誤認をすでに詳しく検討してきました。私たちはそれらの多くについてワークをしてきています。過去そして現在について、未知のことへの恐れ、傷つけられ、屈辱を与えられることへの恐れ、苦痛を味わうことへの恐れと拒絶、が存在します。ネガティブな態度は、つまり、本当の感情に対する防衛です。ネガティブな意志の方向にしがみつくのは、人生において責任を引き受けたり、「理想的でない」状況に取り組むことを拒んでいるためでもあります。それは、まるで自分の悲惨さを武器として、「悪い親」に「良い親」になるよう「強いる」ための、内なる要求です。そのとき、この悲惨さは、実際にそのようなものとして利用されます。ネガティブな意図は、人生(悪い親)を罰するための手段でもあります。これらの感情、反応、そして態度のすべてについて、私たちはすでに十分に探求し、検証し、ワークをしてきています。が、みなさんの多くはいまだにこれにしがみつくことを求めています。なぜなのでしょうか?
私たちはこの否定性のもとになったことについてもワークをしてきています。それはたいていの場合、子どもが自分というものを守るための唯一の方法です。もし内なる抵抗を維持しなければ、その人は脅威を感じます。すなわち、子どもにとって抵抗を放棄することは、自分自身の人格を放棄して降伏することに等しいのです。みなさんの多くは、このことも分かっています。そして、みなさんは、かつては役に立った態度を、もう役にも立たずまったく破壊的であるというのに、現在へと持ちこむことの不適切さも理解しています。
まだ自己発見に至っていない人にとっては、望ましくない結果しかもたらさないまったく無意味で、無駄な態度を認め、いまだにそれを持ち続けることにこだわっていることが、まったく想像もできないことに思えるかもしれません。
明らかに無意味なこの拒絶が存在するのはなぜでしょうか?あなたはそれが、自分と他者とに痛みを引き起こし、十分に生き、喜びの中に身を置くチャンスをあなたから奪い、深刻な罪の意識と自己懲罰を引き起こすと知っているのにもかかわらず、この拒絶はなぜ存在するのでしょうか。前述の要因はいずれもそれ自体は真実ですが、そのどれをも明らかに超えた、強力な理由が存在するはずです。みなさんの多くは、この地点で行き詰まった状態になっています。これを超えていくためには、助けが必要です。
あなたが次にように言うことを真に妨げているものは一体なんなのでしょうか。「私は憎みたくはない、私は愛したい。私はもうこれ以上与えるのを控えたくはない、私は自分の最善のものを人生に与えたい。私には悪意は必要ない、私はそれを手放したいと心から願っている。私はいっぱいに手を伸ばして人生に与え、そして同時に、人生が差し出す最高のものを受け取りたい」と。このレクチャーは、みなさんがこの抵抗をさらに理解する助けになるでしょう。
このネックとなる部分と取り組むためには、同一化の問題に焦点を当てる必要があります。あなたは自分のどの部分と同一化しているでしょうか?この同一化は、意識的なエゴ(自我)が選んだものではありません。それこそが、ここでもまた、あなたの観察するマインドが発見しなければならないことなのです。あなたは自分のどの部分と、どのように同一化しているのでしょうか?
例えば、あなたがもっぱらエゴ---人の中にある意識的で意欲的な、行動する部分---と同一化している場合、エゴの領域を超えたところにある変化をもたらすことは、自動的に不可能です。エゴのきわめて限定された機能によっては、人の最も深いところにある態度と感情を内的に変化させることはできません。変化の可能性をとにかく信じるためには、人は、明らかに自己のより深く賢く、より有能な側面と同一化しなければなりません。別の場で、違う文脈でお話ししたことですが、この変化は、エゴ自体がこの変化を望むとコミットし、霊的自己が変化をもたらす不随意のプロセスを信頼することによって、起こります。もし霊的自己との同一化がなければ、このような信頼や、プレッシャーのないポジティブな期待は存在し得ないことは明白です。そしてまた、霊的自己との同一化が存在しなければ、人はそれを望むことすらできません。というのも、失敗という信念はエゴにひどく不愉快なやり方で無力感を痛感させることになるからです。そのため、制限されたエゴにとっては、「私にはできない」と言うよりも、「私は望んでいない」と言う方が望ましいのです。
表面的なレベルでは、まったく逆の状況が存在します。すなわち、「私はしない」という言葉は「私にはできない」という言葉によって打ち消されます。より深くより微妙なレベルでは、エゴは自らの制限を認めたくない上に、自己はスピリットと同一化するための方法を知らないので、これとは逆の状況になります(「私にはできない」という言葉が「私はしない」という言葉によって打ち消される)。
同一化は、他のあらゆることと同様に、最もポジティブかつ建設的なやり方において存在し得るのです。そしてまた、最もネガティブで妨害的で破壊的なやり方での同一化もあり得ます。これらの違いは、あなたが人格のさまざまな側面の中のどの側面と同一化するかには左右されません。それではまるで、この側面は良く、他の側面は悪いと決めつけているようですが、それによって違いが生まれるわけではないのです。自分のどの側面と同一化したとしても、望ましく実り多いこともあれば、その反対もあり得ます。これはどうしてなのかを見てみることにしましょう。
例えばあなたはこんなふうに思うかもしれません。ハイアーセルフと同一化することが破壊的であるなんて、そんなことがあり得るだろうか?あるいは逆に、ローワーセルフと同一化することが望ましいなんて、そんなことがあり得るだろうか?どちらもあり得ます、というのが私の答えです。
あなたがもしローワーセルフやマスクセルフ(マスクとしての自己)、自分の防衛、自分の不正直な意思、自分のネガティブな意図などを真に理解せずにハイアーセルフ、自分のスピリットと同一化する場合、ハイアーセルフとの同一化は逃避や錯覚となります。この同一化は、まったく真実ではありません。これらの状況のもとでは、それは本物の体験ではあり得ません。それはむしろ、ある信条に口先だけで同意していたり、それを頭だけで信じていることにはるかに近いでしょう。自分は神聖なるものが顕在化した存在であること、意のままに使える無限の力---自分や自分の人生を変える力---を潜在的に持っていること、自分は宇宙のスピリットが顕在化した存在であることを知っているのは、どれもみな素晴らしいことです。それは真実なのです。けれども、このような同一化のために、しっかりと吟味し、偏りのない注意を払うことを必要とする部分を見過ごしてしまう場合、そこには半分の真理しかありません。
同様に、自分のローワーセルフとの同一化についても、望ましいこともあれば、望ましくないこともあり得ます。おそらく、次のように言うとよく分かるのではないでしょうか。つまり、あなたが自分のローワーセルフ(あるいはマスクセルフ)と同一化することと、それがローワーセルフだと認識することは、まったく別のことなのです。あなたがローワーセルフと同一化しているときには、自分にとってはこれがすべてだと信じるでしょう。それがローワーセルフだと認識するときには、あなたはこれを観察し、これを認め、これに取り組みます。けれども、この場合は、それがすべてだと信じることはありません。もしそれがすべてであるとすれば、あなたはこれを認識したり、観察したり、評価したり、分析したり、そして変えたりすることはできません。なぜなら、あなたの中の、このすべての観察をしている部分(観察者としての意識)は、観察され、評価され、変えられたりする部分(ローワーセルフ)よりも、さらに多くの責任を担っており、さらに多くの力を持ち、より能動的で本質的な部分であることは確実だからです。あなたが何かを認識し特定するとき---それが良いものであれ、悪いものであれ、どちらとも言えないものであれ---認識し特定する部分は、認識し特定される対象物よりも、よりあなた自身なのです。観察者は、観察されるものよりも、より本質的で、より多くの責任を担っています。
これが、認識し特定することと同一化することのとても大きな違いです。マスクセルフやローワーセルフ、ネガティブな意図、不正直なゲームが特定されるとき、本当の感情が感じられ、正直に体験されます。もう痛みを否認する必要はありません。なぜならば、エネルギーはもはやありのままを否定することに費やされることがなくなり、むしろありのままのものをもたらすことになるのです。そして、あなたが自分の感情を真に感じることができるとき、あなたは霊的自己と同一化することができます。ローワーセルフは認識、特定されるべきであり、霊的自己とは同一化されるべきです。認識し特定するのはエゴです。そして、エゴは自らを投じて自発的に霊的自己へと統合していきます。
人がネガティブな意図を手放すとき、自分が、すでに溶けてなくなるべきローワーセルフ以上の存在であることを体験します。つまり、このローワーセルフのエネルギーは、溶けていき、転換され、修正され、新しく、よりよい方へとその経路を変えていきます。しかし、ネガティブな意志を手放すことへの無意識の拒絶が存在する場合、その拒絶が存在するのは、その人が自己のこの側面と完全に全面的に同一化しているためです。そしてこれは、自己の中の、これがまったく当てはまらない進歩した側面とは関係なしに、そうなります。別の言い方をするならば、これは全体的な状態ではないということです。人は、その人が完全にローワーセルフと同一化していたり、ローワーセルフと同一化している部分がもはやまったくない、などということはありません。必ず常に両方の状態が混ざり合っています。自己の中の側面のいくつかは解放されており、そこでは深い霊的な同一化が感じられます。同時に、まだ認識、特定されていないローワーセルフの側面、まだ感じることができていない感情が、部分的に、ローワーセルフの中に沈み込みこんでしまう恐れに満ちた状況を作り出します。そして、これが唯一の現実だと信じ込んでしまうことになります。そして、第三の同一化というものも存在します。今度は、唯一正当で、信頼できる機能であると信じられているエゴとの同一化です。同一化に関しては、こうして人は分離の状態になります。
部分的ではあっても、ローワーセルフとの隠された同一化が存在する場合、これを手放すことは自分が壊滅するかのように感じます。自己の中の破壊的で残酷で、憎悪と悪意などに満ちた部分にとっては、これが本当の自己と感じられます。それ以外のものは本物ではなく、おそらく偽物であるようにすら感じられるでしょう。ローワーセルフの現実を覆い隠すために、実際に偽物のうわべを貼り付けている場合には、特にそう感じられます。憎悪や悪意、そしてネガティブな意図を手放すことは、自分の存在そのものを放棄することのように感じられるでしょう。喜びと充足は自己犠牲から生まれる、といういかにもそれらしい約束が手招きをしているように思えたところで、この自己破壊としか思えない危険を冒すことはできません。いやしくもこの喜びが存在しているとしても、それは、自分がよく慣れ親しんだ自分ではない他の誰かのために存在しているように思われるでしょう。楽しさ、充足、喜び、自己を大切に敬う気持ち、豊かさ、これらが自分以外の他者にしか味わえないとなると、それがどんないいことを成し得るのでしょうか?!これが、不明瞭ではっきりしないけれど確かにそこにある感情や精神的風土なのです。
克服するのが一番難しいのは、この部分なのです。あるいは、二番目に難しい部分、と言い直すべきかもしれません。一番難しいのは、自分自身についての真実を見つけだすことに最初にコミットすることです。これには、自分の本当の考えや感情を知的に観察してこれを認めること、すべての感情を体験すること、そしてあらゆるレベルでそれらを認めること、が含まれます。二番目に難しいのは、いかにしてローワーセルフとの同一化から自分を解放するか、ということです。
ローワーセルフの中でしか自分を本当の自分として体験できない場合(その程度がどれほどであっても、これは真実です)、自己はローワーセルフを手放すことはできません。手放すことへの拒絶は、生きるための、誤った判断に基づいた意志です。これは、あなたが、自分の中には自分の最もネガティブな側面を超えるものは何も存在しない、という錯覚の中で生きているということです。あなたは、ネガティビティと破壊性が顕現するときにのみ現実を感じることができ、エネルギーを得ることができると感じるのです。環境がどれほどそれを抑圧し、このエネルギーを自分の内側でだけ感じることを強いるとしても関係ありません。外側の死んだような感じや無感覚(麻痺したような感覚)は、悪を「手放した」結果のように思われます。けれども、それはまったく手放されてはいません。そして、そうする必要もありません。いったんあなたがそれを否定するのをやめたとき、同じこのエネルギーは変換されて元に戻るのです。
友人のみなさん、これを十分にあなたにしみ込ませ理解してください。あなたの中にある、自分が最も憎悪しているもの、自分が最も憎悪すべきだと感じているものを手放すことへの抵抗は、間違った同一化によるものです。
今、あなた方の多くは、自分自身について困惑していることでしょう。みなさんは、なぜ自分がこのひどく不快で望ましくない内なる態度を変えたいと思わないのか、理解していません。あなたは外に素晴らしい世界が待っていることを知っています。そして、あなたがこの事実を否認するのであれば、それもまた自分の態度を正当化するためのひとつの手段です。つまり、素晴らしい世界がどうせ存在しないのであれば、どのみちすべてが悲惨な状態なのであれば、あなたの状態についておかしなことは何ひとつありません。だからこそあなたは、宇宙はひどく不快で無意味なものだと信じることを自分に強いるのです。あるいは、そうでない場合、ネガティブな意図に影響を与えるような、宇宙が良きもので、素晴らしいものだというあなたの信念を生み出すことはできません。
あなたがこのネガティブな意図を手放すことへの抵抗という姿勢へとしばりつけられ、その姿勢のまま固まってしまったのは、意固地さや悪意によるものばかりではありません。もしそうなら、あまりに馬鹿げているでしょう。とはいえ、意固地さや悪意に満ちた状態によって、あなたの姿勢は硬化し、ローワーセルフを手放すことによる破滅への恐れの強さが増し、ネガティビティが自己永続することになります。そのときあなたは、自分の最悪の部分が自分の現実であるように思われる、この小さな自己閉塞的な世界の中で生きることになります。
あなたは、どうしたらここから抜け出す道を見つけられるのでしょうか? 第一にすべきことは、自分自身に次のように問いかけてみることでしょう。「これは本当に自分のすべてだろうか?ネガティブな意図や意志を手放すとこの現実が存在しなくなるというのは真実なのだろうか?自分のためにここにあるものは、これですべてなのだろうか?」と。あなたがこれらの問いを正直に自分に投げかけたということだけで、扉はもう開かれるでしょう。答えがやってくる前にさえ---そして最終的に注がれる前にさえ---これらの問いを投げかけたというそのことにより、あなたはこの成長の第二段階に入ることを許されるでしょう。この段階において、あなたは、これらの問いかけをした部分が、あなたが自分だと思っているものを超越している、ということに気づきます。こうしてあなたは、すでに新たな橋を掛けていることになります。そこから先、あなたが自分の中にある声を見つけるのはそれほど難しくはなくなるでしょう。内側にあるその声は、あなたがかつて執拗に守っていたローワーセルフの制限された範囲を超えた新しいやり方で答えを返してくれます。
善意と誠実さをともなった質問を、断定せずにまずは試しに自分に問いかけ、答えへと手を伸ばしましょう。これは、あなたが自分の牢獄と不必要な苦しみから抜け出る出口を見つけるための、まさに最初のステップです。これを行うとき、あなたはもう、制限された壁を越えたところにあるものを何ひとつ知らず、ネガティブな状態からアイデンティティと現実を引き出すローワーセルフと同一化することはなくなります。その代わりに、あなたは、ローワーセルフを識別し、その観察者となることができる地点へと至ります。観察者との同一化はそのとき、慣れ親しんだ自己体験(自分というものの体験/ self-experience)からの最初の一歩となり、その自己の体験を超えて拡張します。
例えば、あなたが高慢で冷淡で軽蔑的な人間として自分を体験することに慣れてしまっていると仮定してみましょう。この態度を手放すのは死ぬことであるように思われます。が、どこに消えてしまうというのでしょうか?あなたは、真の自己の中へと消えて行くのです。そこには、あなたの本当の感情があり、自分という真の存在があるのです。あなたが自分の感情を進んで感じようと思うならば、その感情の本質が何であるかを問わず、自分が誰なのか、ありのままの自分を知るでしょう。もし感じようとしなければ、あの硬い硬直し、制限された「自己」のままでいるしかありません。選択するのはあなたです。
あなたがネガティブな意図を手放せば、すぐさま宇宙の至福を---あるいは地上的な至福さえも体験することができる、と断言することはできません。あなたは自分の本当の感情を体験します。そしてそのいくつかはとても痛みに満ちたものかもしれません。けれども、あなたが持ち続けている態度に比べれば、痛みに耐える方がはるかに簡単です。そして感情というのは本質的に流れるものであるため、人生という川のように、あなたを新たな、もっと良い状態へと運んで行くでしょう。
コミットメントをするときには、常に自己に対して---自己の本当の感情、考え、あり方に---コミットしなければなりません。自己にコミットすることが目標であるならば、あなたが理解するのは自分自身以外にはありません。あなたは、感情の新たな深みや領域を体験することになるでしょう。あなたは痛みすら喜んで受け入れるようになるでしょう。なぜならそれは本当のものであり、流れているものだからです。それは動いていて、まさにあなたそのものです。
自分の問いかけに対してあなたが受け取る最初の答えは、まだ深い霊的自己から来るものですらないかもしれません。あなたは魔法のような天啓やビジョン、神秘的なインスピレーションを体験することはないかもしれません。最初の答えは、自分の意識的なマインドからやってくるかもしれません。あなたの、新たな可能性と答えを明確に述べる能力、すでにあなたの意識に統合されている真実に関する知識を活用する能力は、安心を感じ、それが本物だと思うでしょう。同時に、それはあなたに、その知識を、以前のお決まりのやり方とは違う方法で思うままに使いこなすための新たな鍵を与えてくれるでしょう。
このような新しい考え方は、ポジティブな意図を試しに使ってみることを興味深く、望ましいことだと考えるかもしれません。最初は、あなたが自分の思考装置をセットするやり方で、新しい思考を形成したり、新しい可能性と選択肢を秤にかけたりして遊んでみることもできるでしょう。これは、わくわくするような試みであり、この試みは、あるコースに沿って進むことを義務づけるものではりません。これは単に、型にはまって動かないマインドに新たな視野を与えるためのものにすぎません。あなたはいつでも、自分がもと居た場所に戻る権利を行使することができ、あなたが人生から、あるいは誰かから何かを強要されることは決してありません。選択するのは常にあなたです。これを知っていれば、新しい方向へと思考を向けるという明らかな「リスク」をそれほど究極の選択だとは思わないようになります。ポジティブな意図を働かせるのがどんな感じがするか、ちょっと調べてみてください。この新しい自由を使うようになるにつれて、自己をより大きく拡張していくために、別の裂け目を埋めるための橋を構築します。あなたは少しずつ静かになり、自分自身に耳を傾けるようになります。絶えず存在し、常に続く真実の声、そして神の声に気づくようになるでしょう。この声は、強さと頻度を増していき、いずれあなたは自分が、存在するものすべてであることに気づくでしょう。友人のみなさん、あなたでないものなど何ひとつありません。これは、はるかかなたにあることのように聞こえるかもしれませんが、今あなたが思っているほど遠くへだたったことではありません。
ここにいるみなさんの中の何人かは、このレクチャーが終わった後、このステップに取り組んでみることができるでしょうか?みなさんはおそらく、以前にもしたように、一緒に瞑想して、お互いに助け合うことができるでしょう。おそらく何人かの人たちは、ある程度このステップを進めることができるでしょう。最初に自分の内にある真実を見つけることにコミットしたときのように、このステップは何度でも再三繰り返さなければなりません。けれども、小さなステップに取り組むたびに、いっそう多くのエネルギーが解放されるようになり、その後に続くステップに取り組むのがやさしくなっていきます。ここで今、私は、力(the force)を欲しいと思う人に、助けが欲しいと望みコミットメントを打ち立てる人に、その力を与えましょう。今後は、みなさん全員が、それぞれ自分の瞑想とコミットメントを立てることにより、非常に大きな霊的エネルギーを生み出すことができるようになります。このレクチャーが終わった後、私が話したステップを進める人は、自分自身を助けるだけでなく、同じ分岐点で立ち往生している他の人びとのことをも助けることになります。コミットをして、力(the force)を求める人びとも、このようなステップを進みます。これは、真にマインドと感情を開いている、あるいは少なくとも徐々にこのオープンさを生み出したいと願うあらゆる人びとをも助けることになります。
概念や受け取り方、そして内なる態度の中の新たな可能性にいつでも応じられるように準備を整えておく人は、宇宙の豊かさ、自分の最奥にある存在がもたらす豊かさを体験することになるでしょう。そこから、新しい行動が、そして新しい外的な経験があふれ出します。自分の古い可能性の中にだけ閉じこもり続ける人は、人と比べてどれほど進歩した人であろうとも、満足できない状態に留まらなければなりません。静止しているものは何ひとつありません。同じところにじっとしていれば、自分を制限することになります。絶えず拡大し続けるときにのみ、あなたは真に自分自身になることができます。
美しい黄金色の力は雲を通り抜けて進むことを望みます。雲はますます散り散りになって消えてゆきます。あなたがただ望むことに向かってステップに取り組むとき、取り組めば取り組むほどその度合いに合わせて、雲は薄くなってゆきます。あなたが、自分の巣穴から出てくることに対する最も強力な防衛である、否定と疑いの背後に隠れていれば、その分だけ金色に輝く太陽も力も出てくることができません。それでも、それはそこにあります。違う人間にならないといけないとは思わないでください。あなたはすでに自分がそうであるところの最高の自分になるのです。そうなるとき、あなたはそれを認識するでしょう。そしてその慣れ親しんだ感じを体験し、それがどれほど安全か、どれだけ自分らしいかを感じるでしょう。それは最高のあなたです。あなたは自分の現実を裏切ることはなく、自分が恥じずにはいられないような何かになることはありません。これを信じてみてください。ここにおられるみなさん、少しだけでも手放してください。光をあなたの中へと招き入れ、現実が悲惨なだけのものではないことを受け入れてください。現実はまったく素晴らしいものです。宇宙は愛に満ちています。真実は愛であり、愛は真実です。自分自身のスピリットの自由は、真実と愛の中で経験されます。あなた方すべてに祝福がありますように。
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