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Pathwork in Japan
No.197 歪んだエネルギーと意識:悪(Evil)
Pathwork Guide Lecture No. 197
1996年版
1972年1月14日
歪んだエネルギーと意識:悪(Evil)
ENERGY AND CONSCIOUSNESS IN DISTORTION: EVIL
お集りの方々、私の友であるみなさん、ようこそいらっしゃいました。霊界から発せられた神聖なる祝福と力がみなさんに向かって降り注ぎ、それぞれの内側へと浸透します。そして、その神聖な祝福と力はあなた方の奥深くに存在する泉からも溢れ出し、みなさんの人間性の中へと流れ込みます。ただし、見たくないものや知りたくないものを避けるために、この神聖な力を使ってはなりません。この力は、自分にもっと素直になるために利用すべきものです。そうして初めて、真の愛が育まれるのです。そうして初めて、みなさんお一人一人の中に、この世界の中に、平和が生まれるのです。
今日のレクチャーはこれまでの続きで、特に前回と前々回のお話と深い関係があります。みなさんもご存知の通り、このレクチャーでは似た内容がしばらく続き、一つの流れが終わったように見えるところで、また別の側面に焦点を当てた話が始まります。ただし、主題が何であろうとも、主題に関係する話題がどんなものでも、その源はただ一つです。すべては、鎖状または螺旋状になってどこまでも続いていく大きな“全体”に端を発しています。この宇宙では、創造と調和している動きはすべて螺旋状に進むのです。
今晩のお話では、悪(Evil)という概念を別の視点からもう一度見つめたいと思います。創造はさまざまな部分から成り、各部分には複数のレベルがありますから、その一つひとつをいくつもの視点から見つめ、論じることができます。今日は、前の二つのレクチャーの流れに沿った形で、この問題に迫ってみたいと思います。
あなた方の哲学には、「悪は存在しない」、「悪は幻想に過ぎない」と主張するものもありますし、「悪とは、現実を直視する者ならば誰もが見つけることのできる事実である」と言うものもあります。また、悪は一つの主要な源、つまり悪魔(Devil)と呼ばれる存在から生まれ、善は神という擬人化された存在からやってくる、というような説を強く主張する宗教哲学も複数存在しています。この見解によると、善と悪は別々の実体から生まれることになります。また、善と悪の力は個々の持つ原則・エネルギー・態度といったものとして存在する、と言う考え方もあります。
これまでと同じように、まずは、宇宙・霊・哲学といった文脈の中で、この悪について触れたいと思います。それから、みなさんが個々の歩み(パス)を続けていく際の役に立てますよう、個人レベルでの悪についてもお話し致します。実践できない哲学は、底の浅い、抽象的な概念の枠を出ることはありません。そのままでは、知性の部分を越えて人間性を構成する他のレベルへと浸透していくことができないからです。
以前も申し上げましたように、悪とは何なのか、それはどこからやってくるのか、といったことにはさまざまな説がありますが、実はそのすべてが真実です。ただしそれはあくまで、自説と矛盾するように見える説を否定しなければ、という条件が伴います。たとえば、あるレベルには悪はまったく存在しないと言う発言は間違いと言えますが、究極的な真実において悪が存在しないのは確かですから、その意味ではこの発言は正しいということになります。つまり、これだけが正しい、というような考え方をするやいなや、その説は間違いになってしまうわけです。このように聞くと、みなさんには矛盾しているように思えるかもしれませんし、実際、そう見えることも多いでしょう。ですが、もっと深い地点から、物事がよく見えるところから、広い視野でこの問題を捉えてみると、正反対に見える物事同士がたちまちのうちに調和し、互いを補い合うものになるはずです。
では、なぜ、互いに矛盾し合うように見えるものがどちらも真実なのでしょうか。この説明の前に、まずは、宇宙が意識とエネルギーによって成り立っている、という点をもう一度お伝えしたいと思います。統合状態にある意識とエネルギーは一つです。分離状態では、両者は必ずしも一つというわけではありません。ときに、エネルギーが非人間的な力に感じられることもあります。この場合、エネルギーには意識が含まれず、意識を表現していないように見えるため、それは機械的な力のように感じられます。もちろん、このようなエネルギーの方向性を意識によって定めることはできます。ただし、ここで言う意識は、決断や自己知識といった、みなさんの考える一般的な意識とは異なります。たとえば、それは電気や原子力エネルギーのことです。マインド(心)の持つエネルギーでさえ、その意識の源と分断されてしまうことが少なくありません。おそらくは、私の申し上げていることがみなさんにもある程度は感じられることでしょう。たとえば、あなた方の多くは、自分の思考・態度・感情の持つ力が実際の生活にすぐさま影響を及ぼしはしない、ということをすでにご経験していることと思います。こうした力はあなた方の人生に間接的に影響するのです。ただし、最初はその源との結びつきが見えないため、そこにあるはずの因果関係の理解には、かなりの集中力と注意力が必要となります。みなさんの意識が拡大して初めて、マインド(心)の莫大な力とそれが発するエネルギーが一つであること(ワンネス)を感じることができます。この両者の密接な関係は建設的にも破壊的にも機能します。ですが、そこにある原則は同じなのです。
分離した、二元的な人の心(マインド)は、エネルギーと意識は二つの全く異なる形である、という幻想を作り出します。このような分離した概念を人間はたくさん持っています。自己と生命、神と人間性、原因と結果など、多くの概念や現象について、人間は分離という考えを当てはめるのです。地球上には、この宇宙を純粋なるエネルギー現象として経験する人がいます。また、別の人はこれを崇高なる意識として経験します。もちろん、どちらも真実です。ただし、もしも一方が他方の経験を否定し、自分の見解だけが真実だ、と主張し出すと、それはたちまちのうちに間違いになってしまいます。二つはひとつなのです。思考は動きでありエネルギーなので、本質的な部分でエネルギーから意識を分離させることは不可能です。たとえ意識とエネルギーはつながっていないように見えても、分離させることはできません。
みなさんの「生」については、さまざまな説や考え方が存在しています。その中には、互いに相反するように見えるものもあります。では、どうしてそのすべてが正しいと言えるのでしょうか?この点について、もっと詳しく見ていきましょう。統合状態という究極の真実において悪が存在しないというのは、間違いのないところです。この状態では、思考は純粋で嘘も偽りもなく、感情は愛と祝福に満ち、意志の方向あるいは意図もポジティブで建設的です。そのため、ここに悪は存在しないわけです。ところが、これとまったく同じ意識が憎しみ・恐れ・残虐といった感情を伴うことで、その人のマインドを信頼するに足らない、非常に限定的な思考プロセスへと変えてしまうことができます。つまり、思考の方向性がネガティブな意志や意図に変えられてしまうわけです。そうなると、意識全体、またはその一部に歪みが生じ、同時に、エネルギーもネガティブな形にその姿を変容させるのです。
悪が顕在化したものの本質は純粋な意識やエネルギーと同じである、と私が申し上げる理由がここにあります。悪に見えるものも、実際にはただ単に善から悪へと方向または焦点が変えられてしまっただけなのです。ですから、本質において悪は存在しないと言うことも、人間のレベルでは悪が存在していると言うことも、どちらも正しいというわけです
発展途上にあるこの地球には悪という現実が存在しています。人類はこの事実を受け入れねばなりません。この事実と向き合い、本当の意味でそれを乗り越えるために、これは絶対に必要なことなのです。個々の人間が自己の内側にある悪を直視し、各人がそれを乗り越えていかねばなりません。そうすることで初めて、自己の外にある悪に対しても対応できるようになります。この順序を逆にしても、上手くは行かないでしょう。なぜなら、全ての始まりは内なる中心でなければならず、自己こそがその中心だからです。
この両極はいずれも、真に完成された人間意識の中には存在しません。ですが、今はまだみなさんの意識は発展途上にありますから、善と悪、純粋性と歪み、神と悪魔といったものが存在しているのです。つまり、自らの魂を浄化し、悪を乗り越えることこそが、すべての人間に課せられたタスク(課題)なのです。繰り返し生まれ変わり − 実際、何百回という単位ではなく、何千回という転生が必要とされます − 進化という長い道のりを歩みながら、この課題に取り組むのです。
ではここで少し、悪とは何を意味するのかについて、エネルギーと意識という観点から考えてみましょう。エネルギーがねじれると、破壊性が姿を現します。エネルギー本来の周波数が低くなり、歪んだ意識と同調し始めます。この歪んだ意識が、ネガティブな思考プロセスへと向かう意志を選択し、ネガティブな行動パターンを引き起こします。エネルギーの動きが遅くなればなるほど、意識の歪みも増します。すると、悪がますますその姿を現しやすくなっていく、というわけです。
悪へと逸脱してしまい、エネルギーが歪んでしまうと、また別の状態が生じます。それが収縮です。収縮したエネルギーは、二元的に分離した状態を指します。人が高度に発達するほど、その者が持つエネルギーは純粋度を増し、周波数が高まり、さらなる輝きを放つようになります。逆に、人がひどく歪んで破壊的であればあるほど、意識の顕在化した形も小さくなります。みなさんもご存じの通り、各種の問題となって現れているものは全て、この縮小が進んだ状態なのです。ですから、何らかの問題に関与している意識は、その思考・行動パターンを浄化し、本来のエネルギーの動きが持つ高い周波数へと戻るための方法を見つけねばならないのです。
では、悪を意識の状態の一つとして見た場合、それは何を意味するのでしょうか?もちろん、みなさんの宗教はこれについて多くを語っています。憎しみ、恐れ、自己中心、不誠実、恨みといった言葉を通じて、あるいは、払うべき代償を払わずになんとかごまかしながら生きていこうとしたり、与えるよりも多くを受け取ろうとしたり、といった破壊的態度に言及することで、宗教はこの悪の意識状態について語っているわけです。この点についてはみなさんもよくお分かりでしょうから、これ以上説明する必要はないと思います。そこで今日は、この悪が作り出す現象について、もう少し分かりにくい、とても微妙なレベルのお話を致しましょう。
「悪に抵抗してはならない」 − イエス・キリストのこの発言はさまざまな形で誤解され続けています。あまりにも言葉通りに受け止められてしまったために、これが意味するのは、搾取する者には好きなようにさせた方がいいとか、自らの人権を行使したり、威厳を保つために主張したりすべきではないということだ、と一般的には考えられています。そして、この間違った解釈のせいで、従順でマゾキストでいるという、神聖なる真実とは相容れない考え方が広まってしまっているのです。これは神聖なる真実と調和するどころか、悪の存続を助長し、他者の周りに悪を科する加害者でいるのを助長するわけです。
真実というものは、いろいろな方向から見つめ、これを解釈することができます。もちろん、その全てが正しいのですが、今日のレクチャーは、悪は意識とエネルギーの顕在化したものであるという見方に基づいて行なっていますから、「悪に抵抗してはならない」という言葉も、この観点から解釈してみましょう。キリストがこの発言を通じて言わんとしたのは、「抵抗すること自体が悪なのであり、それによって悪が生じる」ということなのです。
一切の障害を受けないエネルギーは、滑らで調和しながら流れます。たとえて言いますと、それは穏やかな川の流れのようなものです。ところが、抵抗によってエネルギーの流れが遮られると、動きが鈍くなり、収縮が生じ、水路も詰まってしまいます。抵抗は、エネルギーから滑らかさと柔軟さを奪います。本来は動いているべきものをその場に留めてしまうのです。
“
このように、エネルギーの流れをせき止め、柔軟さを奪ってしまうことの責任は意識にも間違いなくあります。実のところ、この「責任」という表現は100%正しいものではありません。ですが、人間の言語では、意識とエネルギーが本質的にひとつである状態(ワンネス)を伝えるには限界があります。ですから、実際には意識はエネルギーの流れに対して「責任を負う」わけではないのですが、ここでは他に言いようがないので、これで妥協せざるをえないというわけです。いずれにしても、みなさんの目から見れば、この言い方でも十分に真実を現していることになりますから、問題はありません。歪んだ思考、意図、感情や態度は、真実・生命・神 − つまり、宇宙内に溢れる善を構成するあらゆる側面 − に抵抗します。これらは、人生というプロセスそのものを信頼しようとしないため、悪意やネガティブな意図を生むことになります。善に対する抵抗が起きないところには、悪を示す姿勢や行動も生まれ得ません。つまり、生命が一切の抵抗を受けず、ゆるやかな流れが保たれていると、必ずや、そこは調和と祝福と創造性に溢れている、ということになります。
ご存じのことと思いますが、こうした抵抗の結果が「問題」の最も明らかに現れた状態で、そこではひどい分離が起きています。問題は固まり、滑らかさが失われ、動きの鈍くなったエネルギーです。この状態に置かれた者は真実が見えないだけでなく、痛みも必ず経験します。抵抗と問題と盲目は、二元性と分離と悪と苦しみ − 実際はすべて同じものなのですが − を引き寄せます。抵抗は流れに歯向かい、それを完全に止めます。つまり、宇宙のエネルギーの動き、愛と真実、永遠に続く生命の動きといったものが、自らを開き、神聖な姿となって現れることを阻んでしまうのです。抵抗は創造の持つ美しく大切な側面の障害以外の何ものでもありません。だからこそ、抵抗は悪が顕在化したもののひとつなのです。
自分の中に深く入っていくと、そこにある抵抗を比較的簡単に見つけることができます。この抵抗は、普通、他者の目にはいつでも見えます。もちろん、中にはそれに気づかない人もいます。たとえば、あまりにも物事が見えなかったり、未発達だったり、意固地に「絶対に見ない」と言い張ったりする人です。彼らは、あなた方の言うことにいつでも賛成したり、あなた方が抱く自分の理想のイメージを維持させたりすることに関心を持っている人かもしれません。ですが、それ以外の人びとはすべて、みなさんの抵抗に気づいているのです。当然ながら、あなた方自身もまた、自ら望みさえすれば、自分の抵抗を自覚することができます。そして、抵抗に気づけば、それが意味するものも理解できるのです。
この「抵抗」という言葉は、心理学の分野で頻繁に使われていますが、大抵の場合、その本当の意味は忘れ去られています。言葉だけが流通し、人びとはこの言葉の持つ本来の意味 − 力に満ち溢れた真実 − とのコンタクトを失っています。どんな言葉でも、無感情に、無闇やたらに使われてしまうと、その本来の意味が失われていきます。だからこそ、私は同じことを説明するのに、わざと頻繁に言葉を変えているのです。みなさんの理解に新たなインパクトを与え、言葉の盲目的使用を避けるために、そうしているわけです。ですが、ここでは敢えて、この抵抗という言葉を使いたいと思います。その理由は、イエス・キリストがこの言葉を使ったことにあります。
「悪」という言葉もまた、抵抗と同じような運命を背負わされています。あなた方の宗教は、歪んだ機械的な形で、そして時には本来の意味とは別の形で、この言葉を使ってきました。その結果、多くの人々が、この言葉を耳にすることに対してまさにアレルギー反応を示すようになってしまいました。それゆえ、私はこの言葉をなるべく避け、ごくたまにしか使わないのです。ですが、基本の概念と表現に戻り、みなさんの理解にインパクトと新たなエネルギーを与えるのも、時にはみなさんのためになるのです。
内側深くにしみ込んでいるネガティブな意図に目を向け、これを受け入れれば、それと抵抗を結びつけることができます。「とにかく、本当のことなんて知りたくない」− 抵抗はいつでもそう言います。そして、この破壊的な力は真実が自然に動くことを邪魔しますから、結果的に、悪の力が生み出されることになるわけです。
自己発展に向けて努力を続ける中で、私たちは、悪の三大要素がプライド、身勝手さ、そして恐れであることに、何度も何度も気づかされます。この三つは常に結びつき合い、悪の顕在化した姿は、結局、すべてここに端を発しています。加えて、この三つはそれぞれが抵抗の結果として生じたものであると同時に、その一つひとつがさらなる抵抗、あるいは悪を生み出します。たとえば、身勝手さは「自分のやり方以外、全てに抵抗する」と言います。そして、この「自分のやり方」が、しばしば、生命あるいは神を否定しているものなのです。身勝手さは真実・愛・統合に抵抗します。たとえそれを望んでいるように見えたとしても、実際はその反対です。頑固な身勝手さが生じた瞬間、神聖な側面は表れなくなってしまうのです。
一方、プライドは個と個が結びついてひとつになることに抵抗します。プライドは自らを他と切り離し、自分を高い位置に持っていこうとします。そうすることで、真実と愛、創造に満ちあふれた生命の顕現に抵抗するのです。プライドは謙虚と正反対に位置します。屈辱の反対ではありません。実は、謙虚であることに抵抗する人は、必ずや屈辱を受けることになります。というのも、このような抵抗はいつか必ず行き詰まってしまうからです。真実を曝け出すことを嫌がり、真実を認めることを嫌がる理由は、すべてこのプライドにあります。プライドは抵抗を引き起こし、さらには抵抗からプライドが生じるのです。
同じように、抵抗は恐れを生み出し、この恐れが抵抗を育みます。抵抗でガチガチに固まり、エネルギーの流れが滞ってしまうと、自らの経験を見る目に影がさし、目に映る世界も暗くなります。つまり、人生が何か恐ろしいものに見えてしまうわけです。抵抗が強くなるほど、恐れも増しますし、恐れが増せば、それだけ抵抗も強くなります。真実に対する抵抗は、真実は自分にとって害になりかねない、という恐れから生じますが、この恐れは真実に対する抵抗によって形成されているのです。この繰り返しを続けていると、真実から逃げ隠れることはどこまでも困難になり、真実を暴露することもますます恐ろしいものとなってしまうわけです。真実に対する恐れ、つまり抵抗は、宇宙の持つ良性の資質を駄目にします。自己という真実を、その思考・感情・意図を含めて、全て台無しにしてしまいます。自分を駄目にすることの根源はすべて抵抗にあります。この行為自体が悪であるだけでなく、そうすることでさらなる悪が創造されるのです。
内側に隠された思考や意図、そして本当の感情を避けようとすると、そこに抵抗が生じます。抵抗は「傷つきたくない」という思いと何らかの形で繋がっています − ここで言う傷には、現実と想像上の傷のいずれもが含まれます。この抵抗はまた、「傷つけられるわけにはいかない」と言い張る身勝手さ、「自分が傷つけられるなんて、絶対に認めない」と言うプライド、「傷つけられたら、耐えられないに違いない」と言う恐れと結びついていることもあります。このような抵抗はすべて、宇宙に対する不信を表現しています。実際のところ、傷はいつか必ず消えます。悪と同じように、これは究極的な状態ではないからです。ですから、痛みをありのままに経験すればするほど、それだけ早く痛みを消滅させ、本来の状態の中へと戻してやることができます。本来の状態とは、常に動き続けるエネルギー状態のことで、そこから喜びと祝福が創造されるわけです。
もちろん、抵抗が何から生じるのかは問題ではありません。それが身勝手さやプライドや恐怖から生まれようが、無視や否定から生まれようが、結果は同じです。抵抗は神を、生命の流れを妨害します。壁を作り、真実と愛から − 内なる統合から − みなさんを切り離します。進化の途上にある人は、何度も転生を繰り返しながら、自らのタスクを成し遂げる方法を手探りで求めますが、みなさんもご存じの通り、そういう人の内面は常に葛藤を抱えた状態にあります。人間を構成する大部分はすでに解き放たれ、かなり発達しているのですが、それでもまだ、歪み・無知・悪意・抵抗・悪といった側面は残されているのです。
内面が部分的に解放された状態にある人 − つまり、真実と愛と光を持ちながら、一方では身勝手さやプライドや恐れを手離せないでいる人 − は、この葛藤状態から抜け出す方法を見つけなければなりません。このような人は、自分の中にネガティブな感情や態度が存在しているという事実に抵抗することで、逆にそうした感情や態度を生み出しながら、同時に自己発展と浄化を強く求めているわけです。この二重状態を続けていると、何らかの危機が必ず引き起こされます。この点については、以前にこのテーマだけで1回レクチャーをしたことがありますが、ここでもう一度、この危機が不可避である、ということを繰り返しお伝えしたいと思います。正反対の動き、あるいは相反する二つの願望が一人の人間の中に存在し続けていると、いつか必ず限界に達し、その人の人生に危機が訪れます。たとえば、ひとつの「動き」があなた方の中でこう言います。「その通り、私は悪が何なのかを認めたいと思っている。本当の自分と向き合って、自分を偽ることをやめたい。偽りは、結局は嘘でしかないから。そして、自分自身を拡張して、最高の自分を引き出そう。そうすれば、この生から受け取りたいと願っているのと同じぐらい生命に貢献でき、多くを与えることもできるはずだ。これまでは自分をごまかしてばかりいたけれど、そういう子供じみた態度はもうやめにしたい。人生に対して怒り、憎しみを抱き、自分の要求を押し付けてばかりで、何にも与えようとしなかった。だけど、もうそれも全部終わりにしたい。自分の人生を信頼しながら、その流れに乗っていきたい。そして、人生をありのままに受け入れて、神を敬いたい。」
ところが、あなた方の中の別の部分は同時にこのように言い張ります。「だめだ、絶対に自分のやり方は曲げない。進歩はしたいし、真面目で素直になりたいとさえ思うけれど、私を有罪にしてしまうような部分は絶対に見たくないし、触れたくもないし、認めたくもない。そんな代償を払うのは絶対に嫌だ。」そして、この葛藤の結果として生じる危機によって、この間違った二重構造は壊されることになるわけです。
このとき、破壊性に向かう動きが、創造に向かうポジティブなものと比べて遥かに弱いと、結果として訪れる危機も比較的小さなもので済みます。精神構造の全てを破壊せずとも、間違った部分を解放してやることができるからです。裏返せば、成長と真実に向かう動きが、淀み・抵抗・悪といった動きよりもずっと弱いと、危機もそれだけ大きい、ということになります。ひょっとしたら、この危機をしばらくの間は避けることができるかもしれませんが、それはその人の人間性が長い間淀んだままになることを意味します。そしてもちろん、善へと向かう動きが十分に強くなっているのにも関わらず、抵抗が相変わらず残り、その人全体の動きをブロックし続け、その人の内面が混乱し、何も見ることができず、破壊的な行動の中に捕われたままになっているのならば、何かが為されなければならないのです。
たとえば、あなたが一軒の家を建てることにしましょう。目の前には、しっかりしていて美しく、品質の素晴らしい建材が揃っていますが、その一方には、腐った木材、明らかな不良品、安っぽいまがい物もあります。この全く相容れない二種の素材を混ぜて建てられた家は、構造がもろいため、しっかりと建っていることができません。このとき、家全体を壊さないように気をつけながら、腐った木材を取り出せれば、家が潰れて、そこで暮らす人の現在の人生が危機に晒されることは避けられます。人間性の場合も、これと同じです。そして、この腐った部分を取り出す作業が上手く行くかどうかは、すべて当人の決意にかかっています。ただし、あまりにも長く抵抗を続けていて、善の意志の動きが常に不足し、その結果として内面がひどく混乱し、簡単には元に戻せなくなってしまっているような人の場合、解決策はひとつしかありません。純粋な形にもう一度作り直せるよう、一旦、全てを破壊せねばならないのです。
このプロセスでは、あるエネルギーの動きが起きるのですが、これを人間の言葉で説明することは大変に難しいと言わざるを得ません。悪に抵抗するとは、自分の中にある悪から目をそらし、それを受け入れようとしないことを意味します。このような抵抗によって、莫大な量のエネルギーが封じこめられます。そして、溜まり過ぎたエネルギーは最後に爆発します。この破壊 − 後に待ち受けている爆発 − のには、驚くべき真の意味が隠されています。溜められたエネルギーは、爆発することで、その元々の悪を生み出した悪を破壊するのです。残念ながら、その様子をみなさんの言葉でご説明申し上げることはできませんが、とにかく、この爆発が起きると、その人の生の多くが細かく砕かれます。このとき、全てが粉々になってしまうように見えるかもしれませんが、実は、魂の実体が持つエネルギーの動きによって腐った構造だけが崩壊します。そして、真に価値あるものだけが自然に、そして有機的に自らを再生するのです。
何かひとつの存在の中で、互いに反発し合う二つの動きが激しく、ぐるぐると回りながら、外と内の両方で爆発を起こし、自らを破壊する様子を思い浮かべてください。このとき、その魂も二つに裂かれますが、同時に自らを再生もします。つまり、そこでは創造が起きているのです。このように、危機とは創造に欠かすことのできないものです。それゆえ、賢者はあらゆる危機を大切に抱き締め、これをしっかりと受け止めます。そうすることで、危機に対する抵抗をさらに取り除くわけです。自分の中にある悪に抵抗してはなりません。自分の中に悪は存在しない、という偽りや見せ掛けを手放すのです。すべてを手放し、生命の流れに身を任せ、その動きと共に進んで行ってください。
先ほど述べたような破壊と創造のプロセスは、スピリットの目には見事なものとして映ります。一方、物事が見えない人間には、ひょっとしたらその素晴らしさが、一時的にですが、見て取れないかもしれません。このプロセスについて驚くべき点は、そこに良性の暴力が存在している、という事実です。このプロセスでは、新たな動きが生じると同時に、古い動きがその方向、色、色調、音を変えます。自分の奥深くに入り込み、危機の真の意味を深く感じれば、この創造的プロセスの輝きをその手でつかむこともできるかもしれません。非完全な魂の物質だけに限って言うと、間違いなく、このプロセスは創造的であると同時に破壊的であるのです。
悪は最終的には必ず自らを破壊する、という事実こそが、創造に永遠に備わる究極的かつ本質的な良性の資質の素晴らしさを何よりも雄弁に物語っています。悪によって作られたものはしばらくの間存続するかもしれませんが、最後には必ず崩壊します。これで、破壊性の破壊が建設的で創造的な現象である、ということがみなさんにも理解していただけると思います。つまり、長い目で見れば、あらゆる破壊は建設的であり、創造に力を貸すのです。どのような場合でも、この真実は変わりません。もちろん、個々の人生においては、それが必ずしも明白に見えるとは限りませんが、歩みを続けるにつれて、この真実も次第にはっきりと分かるようになります。この現象を真の意味で経験するには、瞑想してみるのもいいでしょう。内なる悪を手放すと決意することで、そのプロセスに自ら力を貸すことができるからです。みなさんは、悪が外からやってくると間違って思い込んでいます。そんなはずはないときでも、そう信じているのです。
真実に対するコミットメントに新たな動きを与え、ネガティブな意図を解き放ち、これをポジティブな意図に変えるならば、この「建設的な破壊」の持つ暴力性を減ずることもできます。正確な言葉で自らのネガティブな意図を表現すれば、そこから新しい動きを創造することができます。すべてはあなた次第なのです。もちろん、たとえそれができるようになる前であっても、自分の中には自ら生み出した悪意があることを認めさえすれば、より深く真実の中に入り、悪の行動に − ときに、自己正当化のために起こしてしまう、そうした行動に − 傾倒することを減らすことができます。そう認めることによって、人は自分が誰かを知ることとなります。すると、不思議なことに、自分の中の悪を認めるほど、自分を誇らしく思うようになります。自分自身をより深く知り、大いなる感謝を抱くようになるのです。
同じことが痛みにも言えます。痛みを受け入れれば受け入れるほど、痛みをあまり感じなくなります。逆に、痛みに抵抗すると、往々にして、その痛みは耐えられないものになってしまいます。自分の中の憎しみを受け入れるほど、憎しみを抱かないようになりますし、自分の醜さを受け入れるほど、人は美しくなります。自らの弱さを受け入れるほど、人は強くなります。自分の傷を認めるほど、他人がどのように見るかにかかわらず、自分に対して深い威厳を持つことができるようになります。この法則は普遍的なものです。これこそが私たちが歩む道なのです。
このワークの中では、とてもたくさんの素晴らしいことが起きています。同時に、浄化すべきことともたくさん現れます。この浄化を行なうには、常に注意を怠らないことが必要となります。私がお伝えしたいのは、みなさんの歩みは大いなる祝福を受けている、ということなのです。
さあ、私の大切な友人であるみなさん、どうかこの素晴らしい努力を続けながら、真実の中に居続けてください。自分の誠実性を疑わしいと感じるとき、ハートの中では、自分が今いる場所をよく知っているはずです。大切なのはそれです。ハートで感じること、それが全てなのです!
みなさまに祝福がありますように。みささまが真実の自分 – 神 - でいられますように!
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