


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No.198 ポジティヴ・インテンションに移行する
Pathwork Guide Lecture No. 198
1996年版
1972年2月11日
ポジティヴ・インテンションに移行する
TRANSITION TO POSITIVE INTENTIONALITY
皆さんようこそいらっしゃいました。神は、ここにお集りの皆さんを祝福しています。充足と豊かさを皆さんに伝えたいと求める“次元”に意識を向けてください。そこに集中することを選択しさえすれば、それは皆さんに豊かさを届けてくれます。全ては、高い集中力と強い意図を持てるかどうかにかかっているのです。それが難しいと感じるときは、内なるガイドに力を借りてください。そうすれば、今晩のレクチャーもまた、自己探究の旅を続けるための更なる一歩となることでしょう。
今日は、ネガティヴな意図をポジティヴなものに変える方法について、もう一度お話しいたします。今回は、前回とは違うアプローチで、より深いレベルにまで触れてみたいと思います。パスワークを続ける皆さんの多くはすでに、ご自分の中にあるネガティヴ・インテンションに、少なくともある程度はお気付きのことでしょう。最終的には、誰もがそれまで無視し、否定し、押さえ込んでいた部分について多くを知ることになります。この“気づき”が自己を知り、自己と対面し、自己を浄化するためにどれほど大切な意味を持つのかは、言うまでもありません。“明らかにどうしようもないこと”の裏には、何が隠れているのでしょう? そして“見るからにポジティヴな意図”あるいは“実際にポジティヴな意図”の後ろに本当は何があるのでしょうか? ほとんどの人は、それに気づいていません。実は、「自分はこう感じるのだから、仕方がない」という態度にこそ、その人のネガティヴな意図が現れているのです。もちろん、自分にはネガティヴな意図があり、否定的な態度を取ることを自ら選ぶこともある、と自覚している人の方が、本当の自分から目をそらし、知らない素振りをしている人よりも遥かに進歩しています。ですが、このように自覚しているだけでは不十分です。真の意味で自らを発展させるには、そこからもっともっと前進しなければならないのです。
すでにお伝えしました通り、ネガティヴな意図をポジティヴな意図に変えるのが難しい根本的な理由の一つは、多くの人がネガティヴな意図に備わる破壊的な部分と自己とを無意識のうちに同一視していることにあります。それゆえ、破壊的な部分を手放すことが、あたかも自分自身を失うことであるかのように思えてしまい、だからこそ、そこに恐怖や危険性を感じるわけです。従って、ここでのポイントは、無意識の部分の変容、つまり、知らず知らずの内に作り上げてしまった間違ったアイデンティティをどうやって是正するか、ということなります。自分の中のネガティヴな部分を自覚せず、間違ったアイデンティティが保持されていると、それはいつしか、皆さんの中で深い罪悪感と自己疑念の大きな塊になります。この情念の塊を敢えて言葉にすると、次のようになります。「本当の自分、それは、100%の悪に満ちた私。でも、それが本当の私である以上、私にはどうしようもない。自分が嫌いだからといって死にたいわけでもない。私にできるのは、自分を偽り、善の振りをするだけ」
このような状況は非常に危険です。このままでは心はつねに乱れ、真の自己からますます遠くに離れて行ってしまうからです。知性に頼り、理論的に正しいと思われる考え方に救いを求めても、痛みに満ちた心の混乱を収めることはできません。ではどうしたらいいのでしょう?今日のレクチャーでは、皆さんの意図をネガティヴからポジティヴに変えるために有効なプロセスについて、詳しく触れて行きたいと思います。
まずは、自分の中にあるネガティヴな意図が完全に無意識なものではない、ということに気づく必要があります。心の奥深くに仕舞い込まれた、皆さんの知らない何かがあなた方にネガティヴな態度を取らせているわけではありません。実際には、皆さんご自身がそうすることを選択しています。つまり、これは非常に意識的な表現形態の一つなのです。元々、ネガティヴ・インテンションがあることを皆さんは知っていたのですが、知らない振りをするように選択し続けた結果、その存在を忘れてしまっただけなのです。何かから意識的に目をそむけ続けていると、最後にはそれが本当に見えなくなってしまいます。すると、たとえそこに目が向けられても、本当は存在しているはずのものが認識できません。“敢えて見ようとしない”ことと“無意識”とはまったく違います。この違いに大きな意味があるのです。
現在、皆さんの多くが、ネガティヴ・インテンションと多少は向き合おうとし、その存在を認め、受け入れています。ですが、全てを見ているわけではありません。無視しようとしている部分は依然として残されています。その残りの部分も自覚し、すべてをポジティヴなものに変えていくためには、一見何でもないような日常的な思考パターンについてもう一度よく考えてみる必要があります。こうしたパターンはあまりにも当たり前に過ぎて、普段はほとんど気に留めることもありません。ですが、そこには驚くほど巨大な力が隠されていますから、しっかりと見つめ直してみる必要があります。人間は自分の考えや反応の多くを“しごく当然のもの”として受け止められているため、その重要性に気づいていません。そうすることで、実際には悪い意志・妬み・非難といったものが引き起こしているはずの反応をも無視しているのです。ネガティヴな意図にある程度気づいている一方で、大事な部分を見過ごしています。真に見つめ直さねばならないのは、実は、こうした普段の何気ない反応や思考や習慣なのです。
たとえば、理屈では説明のつかない怒りや憎しみが自分の中に沸いてくることを自覚している人がいるとします。その人は、こうした反応がまったく非合理的なものである、と外的には認めているかもしれませんが、心のどこかでは、それが当然の反応だと感じています。その人の中の何かが「私は不公平な扱いを受けている」と訴えているからです。つまり、その人の中には完全に消化しきれていない過去の経験があり、その経験に対していまだに反応しているのです。このような過去の痛みや怒りは、その人の中で文字どおり抑圧されています。この過去の痛みから自由になり、“今”の出来事に対して直に反応できるようになるには、自分の中にあるディフェンスと真剣に向き合わねばなりません。このディフェンスこそがネガティヴ・インテンションの現れだからです。先ほども言いましたが、このディフェンスは本当の意味で無意識な存在ではありません。過去の痛み、つまり“無かったもの”として無視しようとしている経験が、歪んだ反応となって、今に現れているわけです。もちろん、この歪んだ反応もまた、あるがままに見つめる必要があるのは言うまでもありません。
たとえば、あなたが今、怒りや憎しみを感じているとします。あなたは、それがネガティヴな感情であることを一応自覚しています。ですが、感情的には「そう感じるのも仕方ない」と自らの気持をどこかで肯定しています。この時、あなたの中にはとても大きな混乱が生じていますから、激しい痛みを感じることもあるかもしれません。一方では、自分の要求や反応が正しくないと感じながら、他方では、自分は激しく損なわれていると感じ、世界が自分を中心に回っているかのような反応をしてもいいのだ、と考えます。そして、このような混乱を抱えることで、全体像をありのままに客観視することができなくなってしまうのです。
この段階で必要とされるのが、あなたの中で凝り固まっているその間違った考えを取り出し、成熟した大人の部分でそれをよく検証することです。混乱した思いがどこから来ているかを知るためには、全神経を集中し、使える情報や能力を全て駆使して、その思いをどこまでも掘り下げる必要があります。自己に対する理解を更に深めていくのです。こうして初めて、ネガティヴな感情およびその裏に隠れるさまざまな歪んだ思考と、現実的で成熟した、真に信頼できる思考とが顔を合わせます。もちろん、成熟した“大人の思考”が“子供の思考”の姿を隠すようなことがあってはなりません。これは、絶対にしてはいけないことです。また、この地点に到達したあなたには、そのような落とし穴に再びはまってはいけない、ということも十分に分かっているはずです。このプロセスを正しく行なうためには、意識的な対話が必要です。これについては、瞑想と浄化のプロセスに関するレクチャーで申し上げました通りです(レクチャーの182番を参照のこと)。この統合的なプロセスを通過することで、最終的には、あなたの中で分裂していたものが一つになり、建設的で成熟した真の自己との自己同一化が確立されます。
このように、間違った態度、破壊的で悪意に満ちた考え、非現実的な思考といった存在をまずは自覚しなければなりません。ただし、それだけでは不十分です。次に、それがどうしてネガティヴなのか、そして、それが真実をどのように歪めるのかを正確に知ることが必要となります。そうすれば、歪んだ信念や子供じみた思考の数々から離れ、現実を直視し、状況を知的に捉えることができるようになります。まず、ご自分の破壊的な態度の裏にある非合理的な欲望や意図を明確な言葉にして表し、次に、それが現実・公平さ・真実からどれほど逸脱しているのかについてはっきりと口にすれば、たとえ皆さんの中にどれほどネガティヴなものがあったとしても、あなた方はそれをポジティヴな存在に変えるための更なる一歩を確実に踏み出したことになります。ここに至れば、本来は不要なディフェンス、人々に真の人生を経験させないようにしていた邪魔物、あるいは“本当はとても脆い壁”はすでに取り払われていることでしょう。
感情的に引っ掛かっている何かしらの問題があるとします。その問題について、皆さんの中の“子供”は破壊的な思考を続けています。ここで必要なのは、ご自分の中の“大人”に働きかけ、その問題について理性的かつ成熟した意見を述べさせることです。そうしたい、と真に望みさえすれば、これは誰にでもできます。何かを本気で願えば、たいていの場合、思考プロセスは正しく機能するものです。自ら強く望むことで、一般的に、思考プロセスの精度は高まり、浄化プロセスに寄与することも可能となります。そうして初めて、皆さんの感情は変わり始めます。心の奥底に潜んでいる真の感情が姿を現すのです。
過った態度を取り続けるのがどれほど悪いことで、それによってどのような悪影響が生じるのかを知ることは、必ずしなければならないことです。例えば、あなた方が今感じている怒りや敵意、嫉妬や羨み、さらには自分勝手な態度はどうして間違っているのでしょう?その理由を明確にしてください。そうすれば、何が健全で、何が不健全な怒りなのかが分かります。怒りを経験しても、それが健全なものであれば、罪悪感、自己疑念、弱さ、終わりのない悪影響といったことから自由になることができます。ただし、嫉妬や羨みには健全と呼べるものはありませんから、これを正当化することはできません。また、怒りや痛みには健全なものとそうでないものがありますから、自分の感情を正当化することもできますが、その両者の区別ができない限り、混乱することに変わりはありません。罪の意識と憤り、自己と他者、さらには人生に対する否定と拒絶の間で、いつまでも揺れ動くこととなります。このような人は、たくさんの実例を挙げ、「だから、私のしていることは間違っていないはず」と思い込み、自己疑念を必死で抑えようとします。ですが、その一方では、恐怖と弱さに常に麻痺させられて、自らの正当性を確信できずにいるのです。また、こうした人々は、非合理的で子供じみた要求ばかりを他人に押し付け、それが通らないと分かると、今度は破壊的な意図を露にします。ところが、そうしながらも、自分の弱さをどこかで感じるものです。あるいは、真実の名の基に自らの権利を守らねばならないような場面でも、自分の中を整理できずに、いたずらに混乱ばかりしてしまいます。さらには、善と悪の二つの思いが一つの場面で同時に現れることもありますから、余計に混乱してしまいます。このとき、“頭”で問題の解決を図ろうとしても、葛藤を収めることはできません。まずは、自分の中に破壊的な部分があることを認めてください。それから、その破壊的な部分を知的に見つめ、理解し、その上で、ネガティヴィティを正しくポジティヴなものへと変えていくのです。
もちろん、たとえ“大人”の知性を使ったとしても、その目的が、痛みに溢れた混乱を合理化したり、自分を守るだけの都合のいい実例を作り上げたり、状況を自分勝手に正当化したり、破壊的意図の存在を認めないようにしたり、といったことにしかないと、何も得ることはできません。“大人”の知性を上手に使い、非合理的な要求に光を当て、それがどんなに非現実的で独善的なものかということと、そのような無理な要求によって生まれる感情的反応が結局は破壊的なものでしかない、ということが分かれば、そこから多くを学ぶことができます。そうして初めて、問題の全貌、つまり真の姿が明らかになるのです。
次の段階で皆さんを待っているのが、このワークです。皆さんはすでに大きな進歩を遂げ、ネガティヴ・インテンションの一部を認めることはできました。ですが、この“自認”が巧妙な“逃避”になっていることも少なくありません。破壊的感情が現れても、その存在をただ単に繰り返し認めるだけで、それが何故よくないのか、どこが悪いのかと、より深い探究を試みないのは、裏口の小さな扉を開けて、問題から逃げようとしているのと同じです。破壊的感情を認めるのは一見“正しい”ことのように思えるかもしれませんが、そこで終わっていては、その地点で立ち止まり、先に進むのを拒んでいるのと変わらないのです。
悪の誘惑は実に巧妙です。あらゆる真実は、“歪み”の手によって捕らえられる可能性があります。だからこそ、常に厳重な警戒が必要なのです。正しいことをするだけでは宇宙の法則との同調は保証されない、という理由がここにあります。これまで長い間、正しいはずの法則や真実の理論が悪の力によって歪められてきたのは、そのためなのです。「こうしていれば絶対に悪から身を守ることができる」というような決まった型はありません。あなたを悪から守ってくれるのはご自身の中にある誠実なハートだけです。ですから、ハートの誠実性とそこから生じる良い意志を何度でも掘り起こす必要があります。そのためには、常日頃から自分自身について振り返り、瞑想を通じて霊を浄化し、真実・愛・正直さ・誠実性に満ちた神の世界にコミットしてください。いつでも怖がり、皆さんの歩みの邪魔ばかりするリトルエゴ(小さなエゴ)がもたらす目の前のわずかな利益に惑わされてはいけません。その幻惑を振払い、礼節と真実と愛と公平さを重んじる、という意志を保持していれば、解放に確実に近付いていきます。内側でこれを行なう人は、表面的な部分だけでなく、自らの内部とコンタクトしているわけですから、このワークを通じて、さらに深い部分まで浄化することができるのです。
皆さんは、しばしば、自分の中に破壊的で憎しみに満ちた感情があることを正直に認めます。ですが、多くの人々はそれを認めるだけで、その感情がどうして悪いことなのかを知らずにいます。皆さんの感情が、個々の状況の裏にある真実を完全に表現していないのなら、それはすべて破壊的と言えます。だからこそ、自分の感情の持つ力をよく鑑みて、その悪影響の可能性について十分に理解することが必要なのです。感情や反応、あるいはその奥に隠れている自分なりの理屈の中にいる自分が、真実という中心からどれほど離れてしまっているのかを明確に知ってください。ネガティヴな感情を認めることは、一種の“逃避”にもなり得ます。たとえば「やりなさい、と言われているから」という理由だけで破壊的な感情をとりあえず認めてはいるけれども、その実体を知らずにいるのならば、それは大事な問題から逃げているのと同じなのです。
ここでもう一度、嫉妬や羨みや競争心について考えてみましょう。こうした感情や反応はどうして正当化することができないのでしょうか?人間は誰しも、完全に非現実的な感情をある程度は経験するものです。子供は親や兄弟や友人を見ながら、大人は周りの人々を見ながら、非現実的な感情を経験します。つまり、周りの誰かが自分に無いものを持っていたり、自分にできない経験をしていたりするのを見ると、嫉妬や羨みや競争心がその人の心に芽生えるわけです。では、このような感情がどうして“非現実的”なのでしょうか?それは、こうした感情の元には、「世界は、自分が望むものや経験を無尽蔵に与えてくれるわけではない。だから、誰かがそれを手に入れるということは、それが私から奪われていることを意味する」という過った信念、すなわち、現実離れした思い込みがあるからです。
頭でいくら考えても、この非現実的な思い込みの実像はなかなか見えにくいものです。“大人”の思考を使っても、その難しさは変わりません。ですから、嫉妬や羨みの本当の意味を知らず、さまざまな感情が曖昧なままに乱れているような状態の中にいる人には、その真の姿が見えるはずもないのです。以前にも申し上げましたが、こうしたネガティヴな感情の存在を認めることは、もちろん大きな進歩には違いありません。以前にはそれさえもできなかったのですから、それに比べれば、皆さんは随分と前進しています。ですが、ここがゴールなのではありません。今度は、こうした感情がなぜ現実離れしているのか、どうして破壊的なのかを明確に知る必要があります。皆さんは真実の言葉を多少は知っているかもしれません。ですが、その言葉の意味について深く考え、それを自分の中のネガティヴな感情に直接ぶつけてみようとはしていないわけです。
「あの人は私に無いものを持っている。だから、私が奪われていると感じるのも当然だ」と思い込んだ瞬間 − 実際、これが嫉妬や羨みを生むのですが − 人は、「自分がそれを手に入れる可能性を自ら無くしている」という事実を否定しています。欲しいものが手に入らないのは、誰かのせいではありません。あるいは、皆さんは、“奪われている”と思い込む原因は自分の行動や思考や感情にある、と心のどこかでは知っているのかもしれません。歩みを続けた結果、この“気づき”に到達した人もいることでしょう。一方では望み、他方では否定している何かを手に入れるには、ある程度のリスクや代償が必要なのに、そうすることをどこかで拒絶している、と認める人もいるでしょう。ですが、このような人々も、依然として、その知識を完全には生かし切れていません。せっかく大切なことに気づいているのに、その知識を自分の中に芽生えた羨み、他者はもっと持っているのではないか、という不安、あるいは、自分よりも多くを得ている人に対する憤り、といった部分に、その知識を当てはめようとしていないのです。
このような人は、まず、嫉妬や羨みや競争心とった感情をしっかりと見つめ直すことから始めてください。次に、自分の羨む何かの訪れを避けているのは他ならぬ自分自身だ、ということを認めてください。そして最後に、自分がどのようにしてそれを遠ざけているのかを検証するのです。「いいなあ。うらやましいなあ」と思っている何か、そこにはそれを手に入れるために必要な部分が必ず附随しているのですが、皆さんはそれを拒絶しています。その拒絶がどのようにして起きているのかを確かめるのです。そうすれば、あなた方の羨む人々は創造的経験に備わる自然の法則、つまり、この経験をするのに必要な要件をすべて満たしている、ということが分かるはずです。この点に対する理解が深まれば、宇宙は受け入れる体制が整っている者、自らを開く者には公平に、“善”を無限に送り届けてくれる、ということも分かるはずです。そうすれば、他者を羨む必要はどこにもない、ということも理解できるはずです。
誰かを羨んでいることに気づいたら、自分は今、ネガティヴな思いを抱き、それが行動に現れている結果、自らの幸せに気づく機会を敢えて破壊してしまっているのだ、と考え、その様子をしっかりと見つめてください。どうやって自分自身を閉じているのか、そして、満たされることを拒絶するようなネガティヴな態度にどのように固執しているのか、自分の姿をよく観察するのです。皆さんの多くは、満たされない思いや空しさと、自らのネガティヴな態度とを結び付けようとはしません。そのために、他者に対して憤りを感じ、破壊的になるのが当然であるかのように感じてしまうのです。
ご自分のニーズが満たされない原因は、すべて皆さん自身にあります。もちろん、それに気づくことだけで満足して、破壊的意図を心の奥底に再びしまい込むようなことがあってはなりません。適切な形で自らに対する尊厳を保ち、自分自身を受け入れることができるようになるためには、自分の悪いところを素直に認めることが必要です。「私の悪い部分には価値がないし、愛すことなんてできない」などと考えてはいけません。このような話を聞くと、皆さんの中には大きな葛藤が生じることでしょう。皆さんはこれまで、他者に愛され、尊敬されるようになるためには、悪いことをしてはいけない、と思い込んできたからです。ですが、このような思い込みをいつまでも抱いていると、激しい混乱と大きな損失を経験することになります。実際には、自分は無価値だ、と感じずに自らの破壊性を認めることは可能なのです。
誰かに嫉妬している人には、宇宙の真実に対する信頼が欠けています。ハートや心や意識の他、感受性を司る能力を全開にしさえすれば、世界は無限の豊かさに満ちたものになります。一方、ネガティヴ・インテンションにしがみついている限り、いつまでたっても受容的にはなれません。受容性は、ポジティヴ・インテンションの一部であり、それを包含するものです。ネガティヴティと受容性は絶対に相容れませんから、互いを排斥し合います。だからこそ、ネガティヴな人はつねに“奪われている”ことになるわけです。ただし、ネガティヴな人は、周りの世界が自分から何かを奪い取っているように感じますが、実際には、いつでも手に入るはずの豊かな現実世界から自らを切り離しているだけなのです。
競争心とは嫉妬と羨みの一種ですから、これもまた、間違った思い込みから生まれます。間違った思い込みとは、「自分の価値は、他者という物差を自己に当てがい、両者を比較することで決まる」というものです。当然ながら、これもまた、真実を大きく歪めた考え方です。一人の人間を他の誰かと比べることなど、できるはずがありません。周りの人がどんなに立派に見えたとしても、どれほど成功し、創造性に溢れ、十分に満たされているように思えたとしても、その人たちが皆さんよりも優れていたり、恵まれていたり、より多くの特権を与えられていたり、ということはありません。あなた方の羨むその人々は、創造の能力をあなたよりも上手に活用しているに過ぎないのです。彼らはきっと、自分に合った何かを見つけ、充実感を味わい、自らの中心が何であるかを知っていることでしょう。それに対して、あなた方は依然として、自分の中心に居ることを嫌がり、それに抵抗を続け、内に眠る潜在能力に目を向けることを拒んでいるのです。
このようにして、人は宇宙の存在や自然の法則に不信感を抱き、宇宙の持つ真の豊かさを否定します。宇宙が望んでいるのは、皆さんが充足感を味わい、拡張し、喜びに溢れながら自己を表現すること以外の何ものでもないのですが、多くの人々がその恵みを自ら否定するという、まったく矛盾した状態にいるわけです。頭の中で色々と考える振りをしながら、本来は手に入るはずの豊かさをわざわざ疑い、その存在を意識的に否定する一方、心の中では、自分に無く他者が持っているものを羨んでいるのです。
とても大切なことなので、何度でも繰り返しますが、このような破壊的で矛盾した態度、つまり、嫉妬、羨み、憤慨、競争心、非難といった感情によって生じる否定的な態度を認めるだけで満足し、ネガティヴな感情を心の奥底にもう一度隠してしまってはなりません。ネガティヴな感情をその場に留めて、ありのままの姿を見続けてください。ネガティヴなエネルギーの流れがポジティヴに変わるまで、そうするのです。ネガティヴな感情を抱くことで自らの活力が確実に失われていく、という事実を一瞬足りとも忘れてはなりません。活力を失うことに利益はありません。一方、活力が奪われると、普通、人は傷き、激しく損なわれます。活力を失う、とはつまり、創造の豊かさから自分自身を切り離していることだからです。
今日のレクチャーを通じて私が申し上げたいことは、ご自身の中にあるネガティヴ・インテンションを静かに観察し、探究と探索を繰り返し、詳細な調査と吟味を行ない、それがなぜそれほどまでに破壊的なのかをしっかりと理解して頂きたい、ということです。今晩のお話がその動機付けになれば、と思っています。また、比較するために、真実と現実に基づいた態度についても、これと同じことを行なってください。そして、このプロセスを行うために、ガイダンスとインスピレーションを求めるのです。宇宙の豊かさをより多く経験するために必要な援助を求めてください。そうすれば、頭の中の自分だけの小さな世界と格闘を続ける必要はなくなります。何かを求めて必死に手を伸ばしながら、その一方ではその求めるもの自体を否定することもなくなります。否定と拒絶は、不信を意味します。否定と拒絶が作り出すエネルギーの動きは、“閉塞”です。閉塞状態にある人には、宇宙からの流れは届きませんから、無限の豊かさを得ることもできません。自らを開き、受容の準備が整った人にだけ、宇宙はその豊かさを与えてくれます。宇宙の豊かさは無限です。宇宙はどこまでも肥沃で、無尽蔵の柔軟性と適応力を備えています。創造力に満ち溢れているのです。ですから、受け取りたいと思うものが何であったとしても(もちろん、それが愛の法則に適っている限りにおいて)、その人に受け取る準備さえできていれば、宇宙は必ずそれを届けてくれるはずです。
自らを開き、受容の状態にいるためには、自分の内にあるものを外へと出す準備が整っていなければなりません。開放的かつ受容的であることと、防御を下ろすことは同じです。開放と受容とは、内面の緊張を解き、自らの内または外で何が起ころうとも決して恐れない状態を指します。例えば、痛みを恐れ、痛みを感じるのを避けようとしている人がいます。その人は、“痛みを経験しても、ばらばらに引き裂かれずに済む”ということを知りません。この人の頭の中や心の中は緊張に満ちています。あらゆる防御を下ろし、リラックスし、完全に開いた状態にいる、とは言えません。嫌な感情を避けたり、望ましくない経験を拒んだりすると、その人はたちまちのうちに“悪”に捕らえられてしまいます。このように、何かを故意に避けようとすること自体が、“悪”、すなわち、ネガティヴな態度なのです。
ですから、受容的な姿勢を手にいれるには、まず、皆さんの中にある“悪”を外に出すことから始めなければなりません。“悪”の存在を否定することを止め、破壊的な自己に対する恐れを捨てるのです。ここで初めて、人は“痛み”を経験することができます。これを続けてください。そして、自己に対する恐れが薄れ、痛みや悪に対する恐怖が無くなるにつれて、人は正しい受容の状態に近づきます。このような状態に到達した段階で、宇宙の肥沃さについて真剣に考え、その豊かさを受け取るための準備を積極的に開始できれば、あなた方自身も宇宙の豊かさに寄与していることが、自分が望んだ分だけその豊かさに貢献していることが分かることでしょう。
誰もが豊かな創造力を思い通りに発揮することができます。そして、その豊かさは皆さんが出会う限界のすべてを超越してくれます。たとえどのような困難に出会ったとしても、創造の聖なる力がそれを無くしてくれると信じていれば、困難は必ず消えるはずです。もちろん、これは何もせずに手に入る“魔法”のような力ではありません。その反対に、聖なる力は、個々のプロセスに対して各自がしっかりと責任を負うことを求めます。自分のことについて自らが100%責任を負うことは、自然の法則に適ったプロセスなのです。たとえば、ネガティヴな姿勢に頑固に固執している人がいて、その人が「ネガティヴな部分は私の中にこんなに深く染み付いている。今さら消せるはずがない」と思っているとします。すると、この疑いの気持によって、浄化に向けての道のりの途中に、とても乗り越えられそうもないような巨大な障害が作り出されてしまうのです。一方、 その“悪”の部分に対する自己の責任を受け止め、「私は、聖なる力が具現化した存在です。聖なる力は、私が真に望みさえすれば、願いを叶えてくれます。その力とは、つまり私自身なのです」と信じることができれば、誰もが自らを浄化できます。この事実に対する理解が深まるほど、自己浄化に至る時期もそれだけ早くなるのです。
自らを開きなさい。そして、内にあるものが外に出て行けるようにし、宇宙が与えてくれるものを内に取り込むのです。自らを開くとは、自分の内側から出て来るものをしっかりと見つめていく、ということでもあります。感情と精神(マインド)のレベルを一つにしてください。次に、自分の中で起きる感情的経験の意味を探り、一つ一つの感情の正当性とその裏側に隠れる真実の存在を検証してください。「こういう感情が生じるのは仕方がない」という気持が見つかったら、それが本当に正しいかどうかをよく確かめてみるのです。もちろん、破壊的で非現実な感情が見つかったとしても、その存在を“何となく”認めるだけでは不十分です。これについては、先ほど申し上げました通りです。そのような曖昧な“気づき”によって、感情の裏側にある間違った信念がより一層固まってしまうからです。奥底に隠れている誤った思い込みを見つけ出し、ありのままに見つめ、再考を加え、最終的には、それを“正しい”考えに変える必要があります。あらゆる破壊的態度は、その裏側に潜む価値判断基準の現れに過ぎません。ですから、まずは、この“隠された価値判断基準”の正当性を明確にする必要があるわけです。また、皆さんは、いつどのような反応をするか、という選択を常に行なっていますが、いつ、どのようにして、どういうわけでそれを選ぶのかについても、ご自分の中で明確にしておく必要があります。つまり、自分の反応のうち、どこまでが正しくて、どこからが間違っているのかをはっきりと区別しておくのです。日々、小さな感情的反応が何かの拍子に生まれては消えて行きます。大抵の場合、皆さんはそうした細かな感情の変化に注意を払いませんが、それではいけません。感情が通り過ぎるままにせず、その一つ一つに注意を払い、リラックスしながら集中し、本当に正しいものかどうかをしっかりと検証してください。
“信じる”という姿勢を保つだけの余裕を持ち、信じることを実際に試してみなければ、疑念を捨て去ることはできません。自分の中にある“不信”を認めるだけで、それが本当に意味するものが何なのか、なぜそれが悪いことなのか、どうしたらそれを“信”に変えられるのかを探ろうとしない限り、いつまでたっても現状から抜け出すことはできません。現在、皆さんの多くがまさにこの地点にいます。「私には憎しみ、羨み、嫉妬、怒りといった感情や、非合理的な要求の数々がある」と言える人はたくさんいることでしょう。また、「ぼくは意地悪です」「とにかく破壊してやりたい」「全部私のものよ。何一つだってあげないわ」という気持があることを自認できる人もいるでしょう。ですが、自分の気持の真意を探ろうとせず、こうした態度を底で支える思い込みや信念や解釈がどれほど非現実的であるかに気づかない限り、ディフェンスという名のネガティヴィティを捨て去ることも、真の人生経験をすることもできません。意地の悪さ、不信感、嫉妬心、敵意といったものには、何らかの考えや結論が附随しています。まずは、そうした考えや結論の正当性を検証し直してください。実は、そうしたものはすべて、皆さんの頭の中で作られた単なる“勝手な思い込み”に過ぎないのです。
人間の頭の中では、一日24時間、あらゆる種類の小さな思考がたえず生まれては消えています。皆さんは、そうした考えにあまり注意を払わずにいますが、実は、その一つ一つに大きな意味があります。思考には実に大きな力があるのです。思考は創造を行ないます。感情と同じく、思考の一つ一つもまた、皆さんの行動や経験を作り出しているのです。つまり、あなた方の身体、精神、魂、霊の状態は、ご自身が何を考えているかによって決まるのです。
ですから、ネガティヴ・インテンションについて私が申し上げましたことは、正真正銘の事実なのです。つまり、ネガティヴ・インテンションを抱くこともまた創造的プロセスの一つである、ということです。ただし、この場合は、ネガティヴィティだけが創造されることとなります。ポジティヴな経験の創造力と全く同じだけの力が、ネガティヴ・インテンションにも備わっています。皆さんの多くは、ネガティヴ・インテンションの存在を認めることはできます。ですが、そこにこれだけの“力”があることは認めなくない、と感じています。全部ではないにしろ、ある部分においては、ネガティヴな態度をこれからも維持していきたいと望んでいる、と認める人もいるでしょう。ですが、そのネガティヴな態度が周りに与える影響を無視していると、他者のネガティヴィティが自分に及ぼす影響も見えなくなります。これは、本当に辛く、混乱ばかりが生じる状況です。ネガティヴィティの相互的影響力の問題を解決するには、自分の中にあるネガティヴな部分を明確にして、それが現実を歪めたものだと気づき、他者に与える悪影響についても熟知する必要があるのです。
他者への影響力を無視していると、心の中が落ち着かなくなります。どの程度無視するかに応じて感じ方の度合いも変わってきますが、きっと、内側が何となくざわざわとするはずです。他者のネガティヴィティが自分に影響を及ぼしているにも関わらず、その事実がよく分からないからです。何が起きているのか、何を意味しているのかがよく分からず、漠然と、何かがおかしいとだけ感じます。そうした不可解な思いを抱いたまま、他者に対する怒りと自己に対する罪の意識との間をいつまでも行ったり来たりするわけです。これについては、以前にも申し上げました。また、このように自分のことがよく見えていない人は、必ず、自分を疑い始めます。そして、自分に疑念を抱くことによって、その人は弱く、臆病になっていきます。間違ったことを信じ、疑う必要のないことに疑問を抱いてしまうわけです。
このような状態では、他者の行動や態度がネガティヴなものなのか、それともただ単に自分にとって不都合なだけなのか、という区別ができなくなります。誰かから本当に意地悪で悪意に満ちた仕打ちをされたときと、そうでないとき、つまり、ネガティヴ・インテンションに基づいた行為とそれとは無関係の行為との違いが分からず、何をされても不公平な扱いを受けたと感じて憤慨するようになります。一方、自分自身を知っている人は、他者のこともよく見えますから、この違いがはっきりと分かります。ですから、これらのまったく異質の二つの経験に対して、適切な対応をすることもできるわけです。現在、皆さんはこの二つの現象を区別できません。そのため、他人に権利を行使して欲しくないと思うときに自分の権利ばかりを主張して、結局、どん欲で自分勝手で分からず屋の子供のようにふるまってしまいます。同時に、皆さんには他者のネガティヴィティが全く見えておらず、何かがおかしいとぼんやりと感じながら、間違った方法でそれに対処しようとします。ネガティヴィティをぶつけてくる他者に対しては怒りを感じ、反抗しようすることもあるでしょう。ですが、これは純粋かつ適切な反応とは言えません。自分の中の非現実的な部分に対する理解や深い自己認識に基づいた反応ではないからです。
ここで重要なのは、他者との関係性の中でどのような混乱が起きているのかをしっかりと理解し、その混乱具合を一つの物差として、自分のことがどの程度見えているのかを知ることです。自分を知っている人は、他者のネガティヴィティや破壊性が自分に向けられても、決して慌てることはありません。他者の目的がすぐに分かるからです。もしかしたら、怒りを感じることはあるかもしれません。ですが、混乱したり、弱さを感じたり、罪悪感や恐怖を抱くことはありません。他者によって自分という存在が滅ぼされてしまう、と感じることもないはずです。また、誰かが自分の感情や権利や生命力を適切な形で表現しているときには、たとえそれが自分の願望とぴたりと一致しないものであっても、相手を受け入れることができます。相手のすることが自分のしたいことと合わないと、最初は憤りを感じるかもしれません。ですが、その怒りが正しくないということにはっきりと気づき、それを真に理解すれば、怒りは必ずどこかに消え、他者の好きなようにさせることができるようになります。
そうなれば、あなた方の中にいる“幼い子供”が「大事なのは自分だけ。自分の気持がいつでも最優先。他人なんてどうでもいい」と主張することもなくなります。もしも皆さんの中にこのような思いがあるようでしたら、それを一旦外に出してやってください。そして、必ず、そのような気持が非現実的で破壊的だということを知ってください。また、それがどうして非現実的で破壊的なのかについても、明確に理解しなければなりません。ここに至って初めて、この“気づき”が完全で明確なものとなり、他者の態度に対する混乱という、痛みに溢れた辛い状況から解放されることもできるのです。そうすれば、他者に対してどのように接したら良いのか分からない、と悩むことも無くなるはずです。
これこそが、ネガティヴ・インテンションを手放し、ネガティヴな表現を止めるための方法です。こうすれば、変えることができるのです。ポジティヴィティの現れとは、たとえば、真に欲しいものがある場合に、それを手に入れることを純粋に望み、代償を支払うことも厭わず、それゆえに他者に嫉妬することもない、という状態を指します。この状態にある人は、もしも、何かを望みながらも、それに必要な条件を受け入れることを嫌がっている、と気づいたら、自ら進んでその理由を検証したいと感じます。そして、自分の心を深く掘り下げ、このように思うのです。「私は十分に満たされているじゃないか。他者にそれを持たせてあげてもいいだろう。そうしよう。第一、私はそれを本当に欲しいと思っているのだろうか?今、羨ましいと感じているそれを手に入れるために、相応の代償を払うことが私にできるだろうか?それを手に入れるためには、相応のコミットメントが必要だけれども、自分にそれができるだろうか?それだけの覚悟がない自分に、それを他者から奪い取ったり、他者を妬んだりするだけの権利があるだろうか?」そうしてから、今度は、自分が今ここにいながら、他者を愛することができるように、と、今のままで、他者が喜びを享受するのを進んで受け入れることができるように、と祈りを捧げるようになります。
皆さんもご存知のことと思いますが、人は、自分自身に接するのと同じように他者にも接します。もちろん、その反対もまた真実です。つまり、他者に対する態度は、自分に対する態度とまったく同じなのです。ですから、他者が寛容と公平さを抱けるようにすると、その瞬間、自分自身もそれと同じものを手に入れていることに気が付きます。宇宙に対して自らを開き、拡張しようとすると、大きな不安を感じることと思いますが、そうした不安もまた、このようにして徐々に、時には突如として、どこかに吹き飛んでしまいます。そして、宇宙が喜びに満ちているという経験をいつまでも持ち続けられるようになります。喜びに溢れた宇宙がご自分の内と外でいつまでも振動を続けている、そう感じるはずです。そして、この振動を続ける宇宙が皆さんを常に正しい方向に導いてくれます。皆さんの耳にも、真実と愛の声がはっきりと聞こえるようになるはずです。豊かな喜びの姿を感じ、経験することもできるでしょう。もちろん、そのためにはハートと精神を小さく固まらせてはいけません。他者が喜びを感じるのを素直に受け入れるようになってください。そして、ご自分の中にあるポジティヴな力を、恐怖と不信と嫌悪に満ちた態度で包み隠すことを止めてください。危険を冒し、信じることのできる人だけが、つまり神を信じ、その信心を神の世界の中ではっきりと現すことのできる人だけが、真実という喜びを知るのです。
親愛なる友の皆さん、期は熟しています。もっともっと多くの人々が、この移行に向けてのステップを踏み出します。悪を否定し、隠された痛みを無視するのではなく、悪を善へと変えるための現実的な歩みを始めるのです。ご自分の中にあるすべての感情を深く経験し、あなた方が真に希望する人生を手に入れられるように、自らの意識に十分な力を与えるのです。あなたは今、何かを経験することを恐れていますか?もしもそうならば、自分自身に向かって次のように言い聞かせてください。そうすれば、たちまちのうちに、全く新しい状況を作り出すことができるはずです。「どうして怖がっているのだろう?何をそんなに恐れているのだろう?喜びや創造的な自己表現や幸せが、私にも経験できるだろうか?その前に、まずは痛みや怒りや恐怖や失望を、安全に、そして完全な形で経験することができるだろうか?ネガティヴな部分をしっかりと経験し、そしてポジティヴな状態に至るために必要な力を、今、私は強く求めます」
このようにしてポジティヴな創造は形作られていきます。こうして、皆さんの望みは叶えられるのです。常に細心の注意と高い意識を維持できるよう、一歩進む毎に内なるガイドに助けを求め、今見るべき問題を心の奥底に押し込み、目の前から隠さないようにしてください。そうして進んでいけば、自分という存在を構成する繊維の一本一本を知ることができるだけでなく、自分が恐れているものが実は全くの幻想で、宇宙は豊かさと喜びに満ちあふれた場所であることを感じ、経験することもできるはずです。
(ここで、“力” − ある種の特別なエネルギー − がエヴァの両手を通じて、数人の参加者に授けられました。この力に関してはレクチャーの185と186番を参照のこと)
今日、この特別な力を受け取った人々は、それを内に取り入れてください。それは皆さんの力と一つになるはずです。なぜなら、どちらも元々は同じものだからです。私の授けた力は、皆さんがご自身のチャンネル(水路)を開き、自らの創造力を外に出すための手助けをするだけなのです。
このエネルギーを皆さんの元に預けます。どうぞ、このエネルギーと共に瞑想し、ワークを続け、ご自身を開いてください。ここ数カ月の間、以前にも増して熱心に行なっているワークをこのエネルギーと共に行なうのです。このエネルギーに包まれ、進むべき方向に導いてもらってください。インスピレーションを受け取り、今晩ここにお集りの皆さんが、各々の方法で自らを表現できるようになってください。自らがチャンネル(水路)となり、このエネルギーを受取り、皆さんが前進するための力としてください。たとえ今、どのような状況にいるとしても、あるいは、私の申し上げていることがその状況にとってどのような意味を持つにしても、同じことです。あなた方の全員にお伝えします。今後、瞑想をする際には、宇宙に対する信心を表現するようにしてください。無限の豊かさ、喜び、人生の充足、受肉における充足をすべて手に入れることができる、そして、満たされることで心に深い平和が訪れる、と信じてください。親愛なる皆さんに神の祝福があらんことを祈ります。
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