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No.202 ネガティビティが引き起こす精神面の相互作用

Pathwork Guide Lecture No.202
1996年版
1972年6月16


ネガティビティが引き起こす精神面の相互作用
PSYCHIC INTERACTION OF NEGATIVITY


 親愛なる友のみなさん、こんにちは。みなさんに祝福があらんことを祈ります。歩みを続け、成長して行くにつれて、愛の力と真実の強さがみなさんの中で開花し、永遠に大きくなり続けることでしょう。

まずお伝えしたいのは、今やみなさんの大半がネガティビティの存在に気づき、その多くを認めるようになったということです。この進歩がどれほど重要なのかについては、まだ認識もされていません。ですが、自分がネガティブな意図を持っていることに気づいているのと、手当りしだいに模索し、それを行動化し、その結果として肉体的な痛みよりもさらに多くの痛みを伴うある特殊な混乱に苦しむことになるのとでは大きな違いがあります。自分の中のネガティビティを自覚するというこの新たな気づきは、本人にはもちろん、他者にとっても同じように有益です。今日のレクチャーでは、あなたと他者との間の無意識下で起こっている精神的な相互作用(psychic interaction/サイキックに行われるやりとり)に触れ、それが前回のレクチャーで話した愛の喪失と罪悪感の痛みとどのように関係するのかについてお話ししていきます。

自分の中のネガティビティにぼんやりとしか気づかず、そのネガティビティが他者に与える痛みをぼんやりとしか感じていないと、非難、自己正当化、無力感、自己拒絶、自己疑念が起こす戦いにはまり込んでいることになります。さらには、他者を、他者の中で無意識の内に起きている様々な葛藤と共に、自分のネガティビティの中に引きずり込み、その人にも同じような葛藤を経験させてしまうわけです。

みなさんの多くは、自らのネガティビティを否定することで二重の罪の意識にさいなまれることに気づき始めています。まず、問題となるネガティブな行動をとることへの罪の意識があります。これを一次的な罪の意識と呼ぶことにします。次に、そのネガティビティを否定することへの罪の意識があります。これを二次的な罪の意識と呼びましょう。この一次的な罪の意識を認め、そこから派生する全ての物事を真に受け入れることができたならば、それはもはや罪ではなかったはずです。そうならなかったことで二次的な罪の意識が生まれ、みなさんの魂に重くのしかかることになります。この重荷はみなさんの大切な生命エネルギーの大半を奪い取ります。自分の中のネガティビティを否定する態度は、他者への内側、外側の有害な行動が他者に対する有害な行動を伴います。有害であるがゆえに、それは本当に罪(sin)なのです。なぜならば、あなたは自分自身の欠点、ネガティブな意図、愛の欠如、不正直さ、悪意、公正さを欠いた要求のために他人を罰しているからです。

もしもあなたが、自分は愛したいと思っておらず、愛したいと思っているふりもしていないことに気づいているとすれば、それは全てあなた自身の責任になります。自分に愛が欠如しているという事実に対して大きな代償を払うことになると自覚し、さらには「それでもいい」と納得しているのならば、少なくとも、愛さないことへの罪の意識に他者を巻添えにすることはありません。もちろん、この場合あなたは孤独になります。ですが、あなたは自ら一つの選択をしたのです。孤独になることを知ったうえで、それに対する代償を支払うという選択です。あなたが、自分の中にある大いなる愛の領域、広い広い愛の世界から逃げ出しているということ、これはまぎれも無い真実で、その意味であなたは間違いを犯していることになります。

ところが、あなたが自分の愛が欠如していることで他者をせめるとき、たとえ自分の言い訳に他者が実際に持っている欠点を使ったとしても、愛さないことで起こる結果を他者のせいにして罰し、愛することから引き下がっている(抑え込んでいる)ことを正当化するために他者を論破しようとするとき、このような行いは、本当の罪(sin)なのです。

このプロセスは、あらゆる所で起きていて、実にあたりまえのものなのですが、とても微妙な形で起きているので、かなりの「自己への気づき」を持っている人だけが自分の中、そして他者の中にこのプロセスが存在していることをようやく認め始めている、というのが現状です。この姿勢が全ての基本となります。もちろん、同じ認めるにしても、その程度は様々です。愛を与えることを拒絶し、その事実を認めないと、次のような態度の中にそれが現れることになります。「私はあなたには何も与えない。あなただけじゃなくて誰にも何も与えなんかしない。だけどあなたには私にすべてを与えることを求める。もしもくれないのなら、あなたを罰する。」これはまさに典型的な態度です。このような態度を内に隠し、意識的に表現することをしないと、自分にも他者にもそれとわからないままに影響を及ぼすことになります。こうした態度を正当化するために半端な真実だけを利用したり、その態度を否定し、正当化し、歪め、隠し立てたりすることは比較的に簡単です。

最近になり、親愛なる友であるみなさんも、こうした態度が自分にだけではなく他者の中にも存在している、ということに気づくようになりました。この気づきが起こると、精神の真実がもたらす、健全できれいで新鮮な空気の流入もすぐに生じます。二次的な罪の意識から自らを解放した結果として、これが起きるのです。他者に与えまいとする意図と自分勝手な要求の数々、そしてその要求が満たされないからという理由で誰かに与えようとする罰、これらの間に存在する相違点を詳細に至るまで明らかにすればするほど、あなたは罪の意識から自分を解放することもできるわけです。自分が他者に与えているものと比べると、自分が他者に要求しているものがどれほど非常識で公正さを欠いているか、自分が他者をどう扱っているのかを顧みずに、自分は他者にこう扱ってくれと主張しているのか、そして自分がどんな形で他者を罰しようとしているのか、これらをよりはっきりと見ることができるようになれば -- 人はトラブルや責任を回避するためにそうするのですが -- 重荷から自らを解放することもそれだけ早く実現されます。この重荷とは、鬱、不安、心配、絶望、肉体的な病、物理的な欲求不満などを引き起こすもののことです。

あくまでも与えまいとする自分の態度に対して他者が愛を持って応じてくれないと、人はその他者を様々な形で罰します。中でも最もよく使われる方法は、相手に罪の意識を与えることです。つまり、相手が自分のみじめさや不幸の原因であると見えるように、それがいかにも本当のことであるかのような事例を作り上げてしまうことです。人はそれが事実であると自らを納得させることがとても上手いのですが、これは自分が愛することを抑え込んでいること、悪意から、またはおそらくは臆病のために与えないこと、これらの態度によって生じる結果だけを見ようとするからです。自分の精神が人生に対していまだにネガティブで、与えないという態度の中にどっぷりつかっていると、他者は自分が相手にしてほしい通りには対応できないという事実を無視することを選択するのです。

その人の中にあるネガティビティはこう言います。「私は真実を否定する。そして、私にすべてを与えてくれないこと、私の勝手な要求を通してくれないことであなたを責めたててやる。もしもあなたが生意気にも反応をしめそうものならば、もっともっと憎み、激しく責めて罰を与えてやる。」 この道を歩み始めたばかりの人や、理想の自己イメージに強い思い入れがあり、今お話している真実を受け入れるだけの余裕を持たない人は、このような話しを聞くとすぐに、自分がそんなことをするはずがないと思うかもしれません。そんなことが本当に自分の中にあるのか、あるいはどの程度あるのかを測るのに一番良い方法は、自らのこころと感情に直接尋ねてみることです。他者と一緒にいるときに不安を抱かず、いつもとても心地良いと感じ、日々喜びに満ちた形で人生を拡大し、時に訪れる困難の一つ一つも自分にとって必要な意味のあるものとしてとらえているのならば、その人は、私が今言ったような非常に有害な態度をほぼ克服しています。ですが、そのような人も有害な態度をもっていました。そして真実に満ちた方法で、その態度と向き合い対処してきたに違いありません。最初からネガティビティをから完全に解放されている人など、どこにもいません。ですから、もしもあなたが自分の中にそうした姿勢があることにまだ気づいていないのなら、自分のプライド、そして偽りと臆病さにどれほど自分が傾注しているかに気づき、それらを通して自分のやり方についてのワークを続けてください。

自分の中に存在するネガティブな意図を認めるとは、愛の最も基本的な行動を起こすことでもあります。自分がしていることを認めた瞬間、そうと知ってか知らずかに関わらず、みなさんは愛の行動を起こしているのです。ネガティブな意図を認めないでいると、たとえ多くを与えたとしても、本当に大切なものを与えるところまではいきません。物やお金、さらには功徳、優しさ、気づかいまでも与えたとしても、自らのネガティビティを正直に認めて他者を自由にしないのであれば、それは中味のない空虚なギフトにしかなりません。

愛を出し惜しみ、自分勝手な要求ばかりをつきつけ、悪意を抱くことから生じる罪の意識、そして自らのみじめさや不幸を他者のせいにして罰することから生じる罪の意識が混ざり合って、それらは次第に強さと自己表現を奪っていきます。すると、その人は本当の意味で弱くなってしまうのです。このようなネガティブな姿勢を持ち続けている人が、どうして自分自身に自信を持ち、自由な人間としての尊厳が自らに備わっていると信じることができるでしょうか?みなさんの中には、あらゆる手段を講じて自分に自信を植え付けようとしている人もいるでしょう。ですが、この二次的な罪の意識と正面から向き合い、その存在を認めることによって真に解放されない限り、本当の意味で自信を持つことはできません。また、中には一次的な罪の意識、つまり他者を愛したくないことへの罪の意識を背負ったままで生きることを敢えて選択する人もいるかもしれませんが、この場合は、少なくともその責任を自ら引き受けると自覚してそうしているわけです。

親愛なる友のみなさん、これが二元性の世界なのです。そこにはあまりにも多くの混乱が存在しています。これかそれのどちらか一方しかない、という概念によって混乱が発生します。そして、今日お話しているような部分は特にこの混乱の影響を受けやすいのです。責められるべきは自分か他人のいずれかだという考えのせいで、人類の進歩は阻まれています。自分が悪いか、さもなければ相手が悪いという考え方のために、人類にとって大変な苦境が作り出され、そのために真実の中にいることができなくなっているのです。悪いのは自分だけと思い込む人は、その状況について何かがおかしいとは感じるのですが、同時に、不適切な責任が自分の上にのしかかっているとも感じます。非難のすべての重荷を負うのは自分だけだと思い込んでしまうと、自分は他から疎外されて仲間に入ることができない存在だ、と決めつけることになります。こうした思い込みはあなたにとって堪え難いほどの重荷になります。これは明らかに真実から離れた考えで、そこに明晰さはありません。そして 自分は劣っていて愛される価値がないという感覚がますます強くなります。自分の身に降り掛かる不幸は何かの罰なのだと思い込み、たくさんの選択肢の中から自ら敢えて選んだ結果なのだ、とは思えなくなります。また、自分だけがすべての責めを負うことで、あなたは他者が自分に対してネガティブな意図を行動化することへの一種の許可を与えてもいるのです。

これとは反対に、自分の振る舞いの正当性ばかりを説明しようとする人もまた、ひどい苦境の中に自らを置くことになります。この場合も、その人は自分の陥っている状況について、どこかおかしいところがあるとは感じています。全ての責任を他者に押し付けるのは真実にそぐわないことを知っているからです。それでも、罪の意識から逃れるためには一番望ましいように見える、このような偽りの態度を頑に守り続けていると、自己の防衛を見抜かれるのではないという不安や恐怖に常に怯えることとなり、その結果、心の底からリラックスし、自然体のまま他者の側にいるという余裕を持つこともできなくなります。無理に「無実」であろうとすることによって、他者との親密さが損なわれてしまうのです。そしてやはり、その人は自分が本当に正しいとは感じることができません。

自分の歪みとネガティビティが他者の歪みとネガティビティにどれほど影響を与えているのか、そして、自分のネガティビティが他者のネガティビティに拍車をかけ、自分の元にそれをどのようにして引き付けているのか、人類の大半がいまだにこの事実を体験することができないでいます。二元的な物事に囚われ過ぎ、幻想でしかない自己イメージを守ることに必死になる余り、自己と他者との間で常に交流が起きているという内的真実が見えていません。自分か他者のどちらか一方が悪い、というこの態度は、混乱と罪悪感と自己疑念を生み出します。

人間のサイキ(psyche/肉体との対比における魂・精神・心を指す)とサイキの間では、次のような交流が起きています。たとえば、あなたのサイキが、その内側で次のように言っているとします。「私の中の終わりのない要求を満たしてくれないのなら、あなたに罰する。あなたのことなんて絶対に愛さないし、何にもあげない。あなたに罪の意識を持たせることであなたを罰し、あなたが私から何かを欲しがったとしても、何もあげない。自分を被害者に仕立てて、あなたを徹底的に罰してやる。そうすれば、私を責めることも捕まえることもできないから。」このとき、その相手もまた、あなたと同じようなディフェンスを手放せずにもがいていると考えてください。あなたそしてその相手の抵抗がこのように言っています。「あきらめて降伏してはいけない。みながあなたを傷つけよう、被害者にしよう、食い物にしようと待ち構えている。誰かを愛するためにハートを開いても、手にするのは拒絶と不公平感だけ。おまけに、そのお返しに相手から憎まれることになる。得なんて何もないよ。だから、ハートをきつく閉ざしておいた方がいいのだ。」 自分を被害者に仕立て上げようとする態度によって、相手が自らを開き、ディフェンスを解いて人を愛そうとするのをどれほど非合理的な形で邪魔をしているのか想像してみてください。自己の中のこの脅えている部分は「防衛的」なネガティビティに向けられ、自分を引っ込めたままでいることへとつながっているのですが、それがネガティブな意図に触れると、先ほど述べたたような葛藤の中で著しく引き下がります。そして、他者の人格を中傷するようなあまりに厳しい非難という形で相手を罰することもよくあります。そんなことはこれまで考えたこともなかった、という人もいるかもしれません。ですが、自分の内外の状況をよく見てみれば、すべて私の言う通りだということが分かるはずです。また、自分の要求通りに相手が動いてくれないと言って他者を罰するための言い訳に他者の欠点を利用することさえあるでしょう。あるいは相手はすべてを与えるけれども自分はその同じレベルでほとんど何も与えないでいい、という理不尽な取引に応じないからという理由で同じ事をすることもあるでしょう。ですが、他のレベルではまったく違うことが起こっているのです。

この領域における無意識のやりとりが、ネガティビティは自分にとって不可欠な防衛であるという確信を強め、正当化しているのです。この非常に狭量な視点で物事を見ると、それがさも正当なものであるかのようにも思えてきます。だからこそ、ネガティブな意図を持ち続ける人は、他者に対しても責任を負っているわけです。霊的現実には矛盾するように見える真実がいくつかありますが、その一つは、人は自分の責任を負い、そしてまた他者の責任も同じように、それぞれに違った形で負っているという点です。同じく、あなたは他者のネガティブな意図によってあなたは傷つけられ邪魔されますが、それをあなたにした責任は他者が負うことになります。ところが、その時にあなたが自分をしっかりと持っていないと、それはうまく行きません。そういう意味で、責任はあなた自身にある、と言えるのです。自分の中に留まり続けるための言い訳として他者の悪質な意図を利用するか、人生に応えるための新しい方法を探すのか、どちらを選択するのかはみなさん次第です。したがって、あなたはもっぱら自分自身の責任を負い、他者はもっぱら彼ら自身の責任を負い、そして誰もが他者の責任を負っているのです。
究極的に見れば、自己と他者との間に区別は存在しないのですから、どちらも真実以外の何ものでもありません。あなたは他者であり、他者はあなたなのです。自分と他人を分離することは、これそれという二元的な考え方と同じく、完全な幻想でしかありません。人は自分にだけ、あるいは他者に対してだけ責任を負っているのではありません。どちらか一方なのではなく、それは一つなのです。

ですから、愛を与えまいとする要求や不公正さを正当化するために他者を非難するという古いパターンを終わりにすれば、このひどい板挟み状態(ダブルバインド)から自分が抜け出せるだけでなく、他者をそこから解放してあげることもできます。もちろん、他者があなたに依存すべきではありません。彼らは彼らで自らの面倒をみて、自らの救済を見つけださなければなりません。「私がネガティビティと問題を克服できたからと言ってそれに他者が依存して、その人自身のネガティビティと問題を解決できるはずだと思うのは間違いだ。つまり私ができるのと、他者ができるのとは関係がない」とあなたは言うかもしれません。これは正しくもあり間違いでもあります。あなたがどうであろうと、他者は自らに対して責任を負っている — その人が真剣に問題の克服を望むという前提が必要ですが — という意味において、これは正しいと言えます。その人自身の努力、投資、コミットメントによって、あなたを含む他者とは無関係に、その結果が決定されるわけです。一方、あなたは自身の真実の行為、つまり愛の行いによって、他者を混乱から解放してあげることができるのですから、この側面を見ていないという点で、先ほどの発言は間違いでもあります。自分の中のネガティブな部分を明確にすれば、混乱と疑念の多くを取り除くことができます。そうすれば、自分と他者の双方が今どの地点にいて、ネガティブティの創出にどの程度力を貸し、どれくらいそこに関与しているのかを示す真の絵図が見えてくるわけです。そうすることには、人々を解放する大きな力が備わっています。

人間の成長の中のある特定の段階として、人はネガティブな防衛システムの中から抜け出すことはほとんど不可能だと思い、その防衛が必要だと思い込んでいる段階がいくつかあります。そして、自分を巻き込んでいる人々の中の誰かが自らのネガティブな意図や破壊的な姿勢、不正直で意地悪な部分を認め、その拘束を解いてくれない限り、無理だと思っています。次のことを想像するとみなさんはどう感じるでしょう。あなたの身近な誰かがあなたの真の罪悪感、偽の罪悪感の両方をついてきてあなたに痛みを与えながら、自分の罪の意識を否定して認めずあなたを混乱させます。そしてあなたに向かって突然こう言うのです。「今、私は愛なんてあげるもんかって思っていることに気付いた。あなたが私の要求に応じてくれないなら、あなたを責め立て、攻撃し、罰してやる。けれども、あなたが傷ついたと思うことを許さない。あなたのことを傷つけたいとは思っているけれど、あなたが傷ついたと感じることで私が罪の意識を背負いたくはないから。」これが自分をどれほど自由にしてくれるか、ちょっと想像してみてください!他人がこのように認めてくれることで、混乱の多くが瞬く間に収まり、気持ちが晴れるような感じがしませんか? このような愛の行為に対して、自分だけが正しく、全くの純粋無垢のようにふるまってそんなことは前から分かっていたと言い、今や完全なる被害者になれた、というような反応をすることは本当に稀なことでしょう。

もし自分が感情を他者に差し出すことを怖がり、ネガティブな意図を隠し、他者に不当な要求ばかりをしていたと認めると、それはあなた方のプライドを傷つけることになるかもしれません。ですが、それ以外には傷付くものなど何もないのです!相手がそう認めるのを聞いた他者は、その瞬間、愛というギフトをその人から受け取っています。そのとき、もしかしたらその人はまだ自分のハートと感情を込めて、内なる本当の自分と共にその相手を愛したいとは思っていないかもしれません。ですが、それでもその人は真実の中にいることで他者に愛を与え始めているのです。

自分の罪の意識を隠すためだけに、他者に罪の意識を負わせてしまったとしても、その間違った罪の意識から他者を解放してやれば、その人が不必要に自らを破壊し、痛みにまみれた葛藤に陥ることなく -- そこではその人とあなたの双方の罪の意識と非難とがぐちゃぐちゃに絡み合っています  -- 彼らが自分自身の真の罪の意識だけを見つめることを許すことになります。そして、このような解放と明確化がなされると、最も深い問題の解決策へとつながることも少なくありません。それはちょうど、その人の人間性が、この「外的」恩寵、つまり救いの手を必要としているようなものです。誰かに不誠実に罪の意識を負わせてしまうと、その人の真の自己が表に出ることがほとんど不可能になってしまいます。つまり、相手が自分の罪の意識を認めると、すべて相手が悪い、自分の不幸は相手のせいだと責めている自分が正しいことになることを示しています。このようにして、人々は互いに足を引っ張り合い、否定、罪の意識の投影、「これかそれ」の葛藤、混乱、ネガティブな相互的反応から抜け出せないでいます。だからこそ、誰かがこの拘束を緩め、からまった糸をほどき始めねばならないのです。

ネガティブな意図は防衛です。それは、この世界はまったく信用できないから、自分を守るにはこの世界と同じくらい、いやそれ以上に意地悪になるしかない、という内的信念から生まれます。ですから、あなたが自分の中に悪意があることを認めると、他者が世界と人々の良識を信用し始めるための手助けをすることもできるわけです。そのときあなたはこのように考え始めることができるのです。「ひょっとしたら、これはそれほど危険なことではないのかもしれない。恥や罪の意識を隠し持っていても、私は一人ではない。それだったら、手放せるかもしれない。ひとりっきりですべての責任を負わなくていいなら、私もこれらの感情を認めることができるかもしれない。」このことが、その人の人生に対する態度、人間としての霊的な位置にどれほどの違いをもたらすことでしょう!

すると、その人のエネルギーシステムも確実に変わり始めます。何に接するときにもみなが常にこのような正直な姿勢を保っていれば、やがて愛は意志やマインドによって命令するものではなくなります。愛は抽象的な概念でも、感情を表に出すことでも、感傷的な仕種でもなくなります。愛とは活力に溢れ、積極的で、自由なものなのです。正直さは最も必要とされるものの一つですが、この正直さこそが人間に最も欠けている愛の形なのです。誠実さがなければ、自分は他人と分離している、さらには、自分の利益は他者のそれとは相反するものだから、自分の利益を守るためには他者を打負かさねばならないし、それは他者も同じだ、というような幻想を持ち続けることになります。

自分の中にあるネガティビティを知り、正直にその存在を認めると同時に自らの責任をしっかりと受け止め、そうするために真実を歪めたりせず、他人に対してもネガティビティを投影しない、ということができれば、他者の行動の中に新たな洞察を獲得することも可能となります。すると、たとえ他者がそれを認めなくとも、何が起きているのかが分かるはずです。そしてそれはあなたを自由にします。「こんなにみじめなのは、私がどこで間違えたからなのだろう?私が何をしたから、他者が何をしたからこうなったのだろう?」と言って他者への非難と自分への非難との間で揺れ動く混乱と罪の意識からあなたを連れ出してくれます。自分と他者のどちらを責めたとしても、何の解決策にもなりません。ですが、他者へのネガティブで破壊的な態度に対する自分の責任を認めた瞬間、たとえ他者が自分と同じようにしたいとは思わなかったとしても、あなたは状況をはっきりと見ることができます。己を知り、自らの過ちを認めるだけでなく、ネガティブな意図とそれに基づく行動、さらには他者に対する間違った投影の全てを十分に理解して初めて、人は自らを解き放つことができます。
だからこそ、自分の中の最悪の部分を認めた者はみな、その瞬間に高揚、解放、活力、希望、光を感じずにはいられないわけです。

霊的な成長は、他者の内面を知るというギフトをあなたに与えます。他者の内面とは、彼らの思考、意図、感情のことです。これは魔法でも手品でもなんでもなく、真実の中ではあなたも他者も一つなのですから、これはごく自然に起こることなのです。自分の頭の中を正確に読むと、他者の頭の中も読まずにはいられません。なぜならば、真実の中ではそれらは一つだからです。ですから、自分のマインドを隠している限り、他者のマインドもわかりません。それはちょうど閉じられた本の中味が見えないのと同じです。もし他者のマインドを読む力が個々のサイキックパワーによって出されてしまうと、それは非常に危険な魔法と同じ作用を持ち、誤用されることもあります。ですが、自分の内面を知ることから生じた副産物の一つとしてこの能力が有機的に育まれている限り、その力は自然なものですから、ネガティビティや誘惑にして悪用されることもないのです。

深い誠実性を獲得すれば、今はそれぞれが独立した存在に見えるものも、区別できない一つの真実の中にあるものとして見えてくるはずです。その状態に至れば、全ては一つで、そこにあるのは一つの意識だけだ、ということが分かることでしょう。他者の内側を見つめ、そこにあるものを知るという経験、混乱に陥ることも引き裂かれることもないという経験は、どれほどの大きな解放となることでしょう。隠し、投影し、否定し、歪めてくる中で頑に守り続けている利益を手放すことによつて、他者の内面を知るという能力は育まれます。自分と同じ様な状態にいる間囲の人々を混乱させるばかりか、自分自身をも混乱させてしまう態度を手放すことによって初めて、この能力を育むことができるのです。

前回のレクチャーでは罪悪感の痛みについてお話しました。他者とのやりとりの中のどこまでが自分の責任で、どこからが他人の責任かがよく分からないときに、人は最もひどい痛みを感じます。この種の苦しみはすべて、何かを隠すために起きます。それはあなたを引き裂き、苦しみを与え、闇雲に何かを探し、それはまるで罠にはまって必死にもがく動物のようです。そして、あなたはあなた自らの犠牲者なのです。正直になることを選ばないことで、自分自身をの中に閉じ込めてしまっているのです。

人間がより拡張した状態へと自らを開いていくには、今とは違う道具(ツール)を必要とします。ビジネスを営んでいる人を例にして、これを簡単に説明してみましょう。ビジネスがそれほど大きくない頃は、組織も会社の規模と目的に見合っています。組織は適切で、それゆえに調和しています。ですが、ビジネスが拡大し始めると、元々小さな商売用に作られた組織では対処できなくなります。ビジネスの規模と組織のシステムが釣り合わなくなり、全てがスムースには行かなくなります。このとき、会社の持ち主が頑固で変化を拒み、今までの古いやり方にしがみついていると、会社を拡大することに失敗するか、あるいは少なくとも運営が極めて難しいことに気づくはずです。

みなさんの内なる拡張についても、これと全く同じ法則が当てはまります。成長し、自分について知り、それと共に他者や世間についても多くを知るにつれて、以前よりも深く、バラエティに富む形で人生を経験するようになります。そして、それこそがあなた方が転生する理由なのです。理解を深め、それまでは避けていた感情を経験することを学びながら、みなさんは「運営を拡大する/より大きな自分を扱うようになる」という段階を準備しているのです。別の言い方をすれば、かつては有用だった態度が、今やあなた方を制限し破壊するものになっている、ということなのです。

進化の途上、人がさまざまな方法で成長し、人生に対する新たな、そして必要な態度を整える、ということがしばしば起こります。ところが人間は何らかの態度を手放すことを拒み、そのために成長の迷度を自ら遅くしてしまうこともできます。そこでみなさんは、世界に対する新たな態度を取り入れて自分のものとし、他者の自分に対する態度にも、自分の内と外で起きることにも、これまでとは違う形で応じるようにしなければなりません。そのためにはまず、これまでの自分の反応は以前の小さな世界で機能するように作られたものだということを知り、次に、そうした反応とそれを支える思い込みに対して疑問を抱くのです。そして最後に一これが今晩のレクチャーの基本的なテーマなのですが一自分自身の在り方として、つまりこの世界にどう存在するかということですが、分離ではなく愛を選ぶのです。

もちろん、今述べたことを単に言葉や概念だけで終わらせてはなりません。また、これは無理に自らに強いるものでもありませんし、ましてや、感傷的な感情を々に表して、認めたくないと思っているたくさんの事実を見ないようにする試みでもありません。あなたが内面的にどの場所にいるかで、それに見合った行動を起こさなければなりません。自らのネガティビティを認めるのは、どんなときにも常に愛の行為です。問題の当事者に対して直にそれを認めても、あるいは、救いの手を逆し伸べてくれる第三者に対してこれを行っても、その行為は愛に基づいているのです。また。これは宇宙に対して愛を差し出すことでもあります。自分の中にネガティビティがあると気づいたときにはいつでも、たとえそのネガティビティをまだ捨てたくないと考えていたとしても、いつか宇宙に対する、そして自分自身に対する愛の中でそれを手放すときのことを深く考えてみてください。

愛がすべての鍵を握っています。ハートを開かないでいると、人は次第に衰え、萎んで行かさるを得ません。あなたにトラブルをもたらす背景、歴史、状況の力学を分析してそれがどれほど真実であったとしても、あるいはまたその中にあなたがどれほどの洞察を得たとしても、あなたが自らのハートを開くことにコミットしない限り、真の変化は絶対に起こり得ないということを、あなたは見てきました。そして、自分の感情をハートで感じることを自分に許さない限り、決して満たされることはありません。自分は愛したいと思っている、いや実際に愛している、という振りをしても、本当の感情を感じることを恐れている限り、それは何の役にも立ちません。自分の感情を恐れている分だけ、愛することから引き下がっているのです。

愛さない限り、あなたは強くて勇敢になることも、自分を愛することもできません。他者を愛して初めて、自分自身に愛を与えることができるわけです。ですから、必要なのはまず、自ら進んで愛するということです。愛し始めないのは、あなたが愛することを選択していないからです。内面の一番深いところに存在する神聖な核の部分に呼びかけ、愛という思をそこから受け取ってください。神の恩寵は、あなた方を通してさまざまな形で、つまりあなた方のハートを聞き、自分の感情に対する恐れ、無防備になることへの恐れをなくすという形で現れるかもしれません。あなた方に必要なのはそれだけなのです。愛さなければ何も手に入りません。愛すると全てが手に入ります。ですが、いくら愛する振りをしても、それは後の愛でしかありません。それは人を騙すことですから、相手を増み、その憎しみを認めることよりも遥かに有害で愛のない行為です。悪を否定する見せかけの愛より、憎悪を認めることの方が深い愛の行為です。この点をよく考えてください。

今日私がお話したことを時間をかけてしっかりと吸収し、自分の的自己と直接コミュニケーションを取るために最も現実的かつ重要な方法をゆっくりと確立していってください。そうするためには、自己欺瞞やりを捨て去る必要があります。嘘やりはいつでも、人間が神の元へ近づく邪魔をします。自分はどの部分において愛を与えていないのか、そしてそれはどのようにして起きているのかが依然として分かっていない人は、まずはそれを見付けることから始めてください。すでに愛している場所があるからと言って自分を誤魔化してはなりません。その愛するという行為の中に、自分はどれほどの充足感を感じているか、自らに問いかけてください。他者と一緒にいて自分はどのくらい温かいと感じているのか、あるいは恐いと感じているのか。人生の中に心地よさをどれぐらい感じているのかどうか。それこそが、どれほど愛し、自分自身に実になっているかという問いへの答えです。そうすれば、愛へ向かう第一歩をそこから始めることもできるかもしれません。つまり、自分の中の憎しみを認め、それに対する罪も認め、意地の悪さをも認めるのです。これができるにつれて、人は徐々に愛することを始めます。隠しておきたいと思っていたい真実の存在と、全て他人のせいにしようとしていた事実を認めた間、あなたは愛という子の一段目に足をかけています。現実を歪めたり、あるいは真実を部分的に言い訳として使って、あなたはそれをやっていたのです。

今日のレクチャーで申し上げたことを理解するには多くの瞑想と真に純粋な意志が必要となりますが、これこそが人生の鍵を握っているのです!人生の鍵が何なのか、みなさんはもっともっと知りたいと思うに違いありません。新たな態度へと、自らを動かす新しいモードの中へと拡張していく準備ができているのにも関わらず、それをあくまでも拒み続けていると、より大きなそしてより痛みを伴う数々の危機が必要なものとして起きることになります。より強い意志をもって抵抗することがなければ、よりスムーズに新しく、より真実に満ちた、愛のある状態へと移行することでしょう。

  さあ、その素晴らしい方向に向かって、もっと遠くへ、さらに深いところへ進むことにコミットしてください。それを胸に、どこまでも進むことにコミットし、自分自身のそして周囲の人々の助けとなるのです。ここで言っていることを起こすのを許可してください。これは最高の祝福となります。そしてあなた方は、みなが必要としている新たな環境を自らの内と外に創造することになるので

  みなさん、今年は祝福をもたらすワークの一年でした。みなさんの多くが、より満たされた人生を目に見える形で実現する中で霊的な成長を遂げました。そして平和と安全を獲得し、その結果として外的充足を具体化しました。今後も、あなた方は霊的な学びと浄化の核をさらに拡張していきます。その拡張に伴い、これからもより多くのことが具現化することでしょう。

  あなた方は大いなる祝福を受けています。真実の歩みを続け、愛に向かう一歩を踏み出すたびに、霊的エネルギーが生み出されます。誠実さを持ち、それを行動に移すことで、みなさんが本来持っている神聖な本質が活性化されるのです。神聖な本質、それをみなさんのものにするのです!



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