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No.206 欲望:創造的な欲望あるいは破壊的な欲望

Pathwork Guide Lecture No. 206
1996年編集版
1972年12月15日


欲望:創造的な欲望あるいは破壊的な欲望
DESIRE: CREATIVE OR DESTRUCTIVE


 ここにいるみなさんに祝福がありますように。あなたの中に神聖な部分と分離してしまっているものが層になって存在しています。最終的にあなたの中の神聖なセンターにたどり着くことができるように、これら個々の層すべてを経験し通り抜ける必要があります。その層は、誤解や誤ったイメージ、ネガティビティ、幻想、プライド、防衛などが原因であなたのコアから分離し、いまも無意識の中に眠ったままになっている感情や混乱した思考などです。それらは混沌として分厚い層となってあなたの神聖なセンターを覆っています。この分厚い層を通り抜けることが、あなたの最も深いところにある神聖なコアにいたる旅路の最も困難な部分です。この混乱した層には、あなたが気づかなくてはならないたくさんの感情や思考があり、そして、この層を進んでいく過程であなたは問題の対処の仕方や適切な受け入れ方を学びます。いったん、この層を貫通してセンターに行き着くことができたなら、あなたは少しずつですが内面に貯めこんできたブロックを分解して、それを新しいあなたの一部として再構築することができます。あなたが未知の問題に対応できる適切なアプローチの方法を学んだとき、あなたはあなたという存在の新たな段階-それはまだ神聖なコアと統合していない部分-へと足を踏み入れるでしょう。別の言い方をするなら、この道を進んでいく中で、また別の使命があなたを待っています。そして、その新しい使命を通して、さらに気づきを深め神聖なコアと統合するために必要なことを学ぶのです。

 1つの使命において、さらなる認識に到達し、より深く魂の動きとつながり同調します。その魂の動きとはつまり、あなたの感情や思考のエネルギーの流れです。その流れには、ポジディブなもの、そしてネガティブなもの両方の流れがあります。あらゆる思考、あらゆる表現、あらゆる感情は、あなたというシステムの中でエネルギーの流れを生み出します。つまり、それは魂の動きです。以前のレクチャーでこのお話しをしましたが、さらに具体的に話しを進めていきましょう。今回は、様々な欲望というエネルギーについてです。人間にとってのその意味や重要性、そして、自己を創造する過程においての欲望の重要性についてお話しします。

 自己認識-それが内面の問題や混乱、欠点、ネガティビティに関すること、もしくは、常に神聖な部分からあなたに語りかけているに対することであっても-あなたの中で起こっていることに気づくためには、内面に集中しなくてはなりません。あなたは、そういった魂の動きを見るために内面に集中できるように訓練する必要があります。あなたが今感じていることや考えていること、そして、それらを生み出す魂の動きを見つけ出して観察する訓練です。これは、集中力が必要ですが、訓練次第で誰にでも習得できます。

 あなたは今この瞬間にも、自己の内面に何かを感じ表現し、瞬間ごとにいろいろな魂の動きを創りだしています。それを観察してください。今あなたは窮屈な感じがしますかあなたの感情や魂の動きは、その窮屈さのせいで身動きがとれない状態ですかそれとも何も感じませんか硬くてとげとげしい感じですか調和はとれていますかそれとも何か荒々しい感じでしょうかもしくは、スムーズで活気があって、しなやかな流れのようなものを感じますか?

 あなたが気分よく幸せで、オープンさや生きている実感するとき、魂の動きは何の障害もなくとてもスムーズでしなやかです。このしなやかさの中には、とてつもない強さが存在しています。逆に、魂の動きが阻害されるとき、あなたは死んだような感覚に陥ります。この動きが傷つけられ、痛みを感じて、不安定でとげとげしいとき、あなたは不安になったり、落ち着かなくなったり、物事が気になりだしたりします。すべての魂の動きに応じて、あなたは特定の感情や思考、態度を持ちます。あなたは、自分の感情、思考とその原因になっている魂の動きと両方に気づく必要があるのです。

 それでは、様々な欲望という魂の動きについて見てみましょう。人間のすべての行いは、宇宙の力や創造の法則と調和することができます。魂の動きは、それが健康的であれば、前向きな創造活動をさらに拡張させていくこともできますし、その動きが歪められて、病んでおり、ネガティブであるなら、破壊の循環を生み出します。欲望自体には、正当であるのか間違っているのか、もしくはいいのか悪いのか、望むべきものか、そうでないのかといったことには全く関係がありません。すべては、その表現次第なのです。本質的な欲望自体よりもむしろ、その表現や行いゆえに、欲望はスピリチュアリティの妨げになると言われてきたのです。

 東洋の哲学では、精神の高みに達するために無欲が求められています。これは、ある部分では真実です。しかし、欲望がなければ、創造行為ができないという点では真実ではありません。創造行為は、あなたが望む新しい状態を視覚化して行います。そうするためには、欲望が必要になります。この欲望をどのように表現するかによって、様々な結果が予想されます。もし欲望がとても強く差し迫っていて、何かの思い違いから発展したものであるとすると、その欲望は「~ねばならない」という状態に陥り、それはもはや純粋な欲望ではなく、なくてはならない要求であり、脅威になってしまいます。そしてその強制的な衝動は、こう言っています。「わたしはこれを手に入れなければならない、さもなければ破滅だ。もしくは、不当で我慢できないほどの苦痛を味わうだろう。そして、他人から不当な扱いを受けるだろう。」これは、恐怖を表しています。そして、これは、望むものが手に入らなければ、人生は不幸で不公平だということを言っています。ですが、実際には、これを証しようとしてあなたは自らこの望まない結果を創りだしています。これはもはや欲望とは言いがたいでしょうが、しばしば見せかけの欲望としてあらわれます。

 建設的で本当の欲望が自己創造のプロセスには必要不可欠です。例えばあなたがもっと愛情深い人間になりたいと思わないとしたら、あなたがそうする動機もなくなり、克服できそうもない抵抗を乗り越えようというやる気も起こらないでしょう。そして、そのような可能性を視覚化することさえしないでしょう。新しい人格を創り出すためには、魂の動きが建設的で前向きでなければなりません。風が新しい種を運んでくるように、前向きな魂の動きは創造のための種子をわたし達の内面にもたらしてくれるのです。

 欲望とは目標を実現させるための青写真です。創造的な欲望と破壊的な欲望の違いを区別することは、わたしが先ほど言ったことを理解するためにとても重要です。あなた自身や他者の中の欲望に「~ねばならない」や強迫観念的な要素が含まれているかどうかを見つけるのは比較的簡単です。他のスピリチュアルな真実と同様、欲望を探求するときにも、一見矛盾して見えるところから着手しなければなりません。正しい欲望とは、その欲望があせらずリラックスして、必ずしも満たされる必要はないといった状態でなければなりません。その欲望の中に「~ねばならない」といった強迫的な側面もなく、「それが満たされなくても十分に生きていけるし、それがないことの痛みに耐えることもできる。その欲望が叶わないことで破滅することも、打ち負かされることも不幸になることもない」といった態度で強くうことができるのなら、その欲望の持つ創造パワーは無限大になるでしょう。そして、恐れやごまかしのないところから生まれ出るエネルギーは途方もないものです。言い換えるなら、あなたが心の底から何かを欲するとき、それと同時にその欲する何かを手放さなくてはならないのです。
では、どのようにしたらこれが可能なのでしょうかどのようにしたら、欲したりそのようになりたいと考えながら同時にためらうことなくそれらを手放すことが可能なのでしょうかどのようにしたら、深く何かを望みながら、同時にそれが満たされないときの痛みを受け入れることができるのでしょうかみなさん、これはとても実現できそうもないことのように聞こえるでしょう。しかし、あなたがた人間の魂の進化は否応なしにこの状態へと向かっています。この難題を実現するために必要なことは、一番外側のレベル-つまり、先ほどお話したすべてのネガティビティが存在する神聖なコアをすっぽりと包んでいる分厚い層にあります。

 この層が存在する第一の理由は、痛みが幻想であることを証するためです。わたしたちの内面の悪の部分は痛みに抵抗します。そしてそれを分断し続け、寸断した意識をさらに小さな断片へと分断します。そして、小さくなった意識は、さらに制限されます。これらの断片化した小さな意識は、受け入れることや正しいやり方で無抵抗になることを学べば再び統合することができます。これらのワークには、系統だったパスワークの知識が求められますし、あらゆる段階で助けが必要です。自分ひとりのワークだけでは、簡単に真実を歪めたり誤解したりしてしまうからです。

 もしあなたが痛みやそれに伴う欲求不満、失望、拒絶、もしくは、自分がこんな感情を感じるべきではないといった信念を恐れているのなら、あなたは極度にそのような痛みを持ちたくないと願っているか、痛みというものを否定しています。そして、あなたの中で「~ねばならない」といった強迫的なエネルギーの流れが生み出され、それは、こう言っています。「これは、手に入れなければならない。(痛みがないから)」もしくは、「これは手に入れてはならない。(痛みがあるから)」このような要求があなたの中にブロックを創り出します。このブロックが、あなたが一番求めているもの受け取れなくしています。あなたの内面の緊張はこの宇宙のあらゆることに「ノー」と言います。誤解は「ノー」を強制し、味気ない窮屈な魂の動きを創り出します。その魂の動きはとげとげしさに満ちており、尖っていて、他者やあなた自身を傷つけます。求めることも求めないことも、宇宙と調和して柔らかなエネルギーになることもできますし、逆に調和せずに緊張してとげとげしくなることもできます。

 受け入れるためにその感情の意味を追求したり、人があなたに対してすることを拒絶すべきかどうかを考えることは誤りです。これをきちんと理解しましょう。例えば、あなたがどんな痛みも持ちたくないとうとします。その欲望があまりにも強いとあなたの内面が分断され緊張し、他人のネガティビティや彼らがあなたを巻き込もうとしているゲームに気づいたり対処できなくなります。こうしたことを引き起こす痛みそのものが、痛みに対してあなたを盲目的にし、そしてあなたはそれに対してやみくもに反応します。このような状態であなたはもはや本当の痛みを感じることもできませんし、自分の何が本当なのかを主張することもできません。逆に、あなたが痛みを恐れなければ、あなたは自分を主張し自分の権利を守ることができます。そして、他者があなたに対し欺瞞的であったり、破壊的であったり、不誠実であったりすることや彼らの言い訳やゲームでごまかされることを見てみぬふりをして許すこともなくなります。痛みを経験することができれば、もう対を恐れることはありません。もしあなたのプライドが間違いを許し、その痛みを受け入れるなら、あなたは自分自身を主張できます。痛みを受け入れるということが自虐的であったり、犠牲的で弱いことであったり、何かに服従することを意味するものではなく、まったく逆であることを理解してください。ダメージを受けても難なく回復できる強さや恐れのない自己主張は、物事をごまかしたり、偽りの感情で紛らわすことなくありのまま受け入れたり、対処できる能力によってまるのです。

 痛みや失望が存在すべきではないといった信念は、極度に緊張したとげとげしい否定のエネルギーの動きを創り出します。この否定は、あなたの真の尊厳や自己を尊重するものからくる確で調和のとれた強さではありません。これは、あなた自身のやり方-これは、持つべきで、これは持つべきではない-に固執する弱さから生じた偽りのものです。

 もしあなたがこの世で対処できない問題はないといった態度を持ち続けることができるなら、相当量の緊張が崩壊し、その後に、創造エネルギーの動きが生まれるでしょう。そして、さらに、多くの恐れが解消されていきます。この強さを決意することは、新たな自分を受け入れることを意味します。弱さや緊張、不健康さからでる否定は、創造性を受け取ることを阻害します。同じ理由で、強欲で、固執し、自己中心的な「イエス」も否定と同じで、創造性を拒絶しています。これら「イエス」も「ノー」も健康的で前向きになることもできますし、病んで歪んだ状態でい続けることもできます。善にも悪にもなりえるのです。欲望は、潜在的な態度で決まります。つまり、欲望は魂の動きそのものでその本質がまるのです。

 創造性を受け取るためには、柔軟的でリラックスして、淀みない流れのようなエネルギーの動きが必要です。そのためにあなたが何かしら望まないことでも、その痛みを受け入れることができるなら、この痛みという暗黒の部分を乗り越え、その先に可能性が開かれます。同様に、何か望むものが手に入らないことの痛みを受け入れるとき、あなたはその虚しさを乗り越え、その背後に隠れている豊かさを見つけるでしょう。これが人生の法則です。あなたが受け入れたときに、創造性のスイッチが入ります。しかしながら、あなたが受け入れるか受け入れないかを決めるとき、それを真実に照らし合わせて慎重に行ってください。苦痛や絶望の中で、受け入れるのかどうかを判断することはもう一度言いますが、正しい方法とは言えません。あなたがそうすることで、表面的には穏やかに受け入れる態度をとっていても、その背後には強い強迫的な健全な魂の動きを阻害するものが存在し続けています。

 すべてのことがあなたが痛み-不快なことを経験する痛みや何かが足りないことに対しての痛み-にどのように反応するかでまるように見えます。しかし、あなたはその痛みを他の現実と同様に信頼できますか?あなたは痛みを信用せず、この宇宙を信用していません。あなたはそれを自分で創造したものと理解できないからです。

 表面的には受け入れているように見える自己中心的な「イエス」という態度も、「ノー」という否定の態度も、オープンでよいものに変えることができます。たとえそれが頑固に固まっている状態でも、その中にいいものを感じることは可能です。それは、あなたが信頼を表現するのか、恐れを表現するのか、または、愛を表現するのか、わがままを表現するのかで決まります。あらゆる可能性の中であなたが何を表現するかで、あなたの内面のエネルギーの動きの状態や、あなたの欲望や、あなたがどのように痛みに向き合うのかが決まります。あなたの痛みに対する姿勢は、創造性を受け取ったり、ポジティブな欲望を持つことができるのか、もしくは人生を拒絶した恐れからくる強迫的で歪んだ欲望を選択するのかに直接的に影響します。

 あなたが次第に深い瞑想状態を得られるにつれて、内面の魂の動きを追跡できるようになります。あなたの内面で起こっていることにどのような意味があるのか、どのような感情や傾向、考え方のパターンがあり、どのようなタイプの欲望があるのかを見ることができるようになります。あなたがこういった魂の動きに敏感になってくると、そうすることが自然になり、あえて努力をしなくてもそれが日常の行動となります。

 こうした行為が日常になったからといって、決してネガティビティを乗り越えたということではありませんが、あなたは十分に内面のネガティビティに気づいています。あなたの中に今なおネガティビティは存在していますが、それは新しい光の中でまた違ったダイナミックな表れ方をするでしょう。例えば、あなたが自身の欲望の中に含まれる抵抗や問題を調べているとします。その欲望は、どれくらい強く頑固ですかその欲望はスムーズに流れていますか、それとも緊張して強制的な流れですかその欲望がもし強迫的傾向にあるなら、それにはどんな意味があるのでしょうあなたが求めてやまないこの欲望はいったい何を隠しているのでしょう?それとも、この欲望はとても弱くて何かが欠けているのでしょうか?あなたはこの欲望の動きを自分の中で感じることができますか?それはどのような感じですか?もしその欲望が正しいものなら、今はそうでなくてもいずれその欲望が現実になるという確信を感じるでしょう。もしあなたの人生の中で、今までずっと思い続けてきたのにいまだに満たされない強い欲望があるなら、その欲望がどれほど緊迫しているかを調べてください。その欲望の中の緊張が何か重要な鍵を隠しているかもしれないのです。それは、その欲望が満たされる前にあなたが学ぶべきものであり、乗り越えるべきものなのです。もしかすると、その緊張は、あなたがこの宇宙やあなたの一部であるはずの創造の力を信用していないということを反映しているのかもしれません。ですから、このワークを通してあなたは欲望の背後に何があるのかを見る必要があるのです。

 この大切なワークにおいて、内面の動きを観察するために集中力を養う必要があります。これはみなさんが考えているほど難しいことではありません。必要なのは前向きな意志と毎日のほんの数分のエクササイズです。

 それでは、今回のテーマに関連のあることを少しお話ししましょう。それは、創造の受容性とポジティブな欲望をどのように始めるのかといったことに関連するものです。まず、ネガティビティに対するアプローチに関してお勧めの方法をお話します。これまで、あなた方は、ネガティビティに表現をさせ、あなた方自身がそのネガティビティに対してどう責任をとるかを学んできました。

 あなた方の中でも我々のセンターで長い間ワークをしてきた方もいらっしゃると思いますが、まだかなりのネガティビティを行動化しています。これは積極的にワークをして乗り越えなければなりません。しなければならないことは何もありませんが、それを行動化しないために、ネガティビティを抑圧したり、否定していた以前の状態に戻らないでください。時々、まるで、ネガティビティを表現していることを認めさえすればそれが無効になるかのように、あなたは自分の行為を認めながらも行動しています。ネガティビティを行動化することは、その行為を完全に否定するのと同じくらい、自己責任を否定していることにはなりませんか?あなた方はもう、自分の行動の責任を引き受けて、自分の破壊性を認め、正しい選択をする準備が整っていると思います。

 人類は、あまりにも長い間、否定しながらそのネガティビティを行動に移したり、他者にイメージを投影しながら、その人を責めたりすることが当然のことのように教えられてきたため、ただ内面にあるものの存在を認めて、それを具体的な行動として表に現さないという単純なことがとても難しいのです。内面に衝動を感じることと、それを行動に移すことは別のことということを理解するためには、祈り、そして真実を意図することが必要です。それは、神にあなたのすること、あなたの知ること、つまりあなたの内面を満たすことを許すという善良な意志です。そう意図して祈ることで、感情的に、以前のように感じたことをそのまま行動に移そうとしていても、次第にそれがなくなっていきます。あなたがネガティビティを行動に移すとき、あなたはまだ何かしらの犠牲が必要だと頑なに信じています。あなたは今なお自分自身の内面のすべてを見ることをとても恐れているのです。あなたが自分の中に見るかもしれないことがとても怖いのです。つまり、恐怖とは、根拠のないものであり、最初は手放すのがとても困難に思えるかもしれませんが、それはあなたが大事に抱え込んでいる自分自身に関する幻想にすぎないのです。あなたの中から現れているあなたの性質は、それがどんなに不快なことでも、それはあなたの本当の姿ではないのです。あなたは一時的に小さなエゴの醜さを見ており、客観性を持ってあなたの全体を見る勇気を失っています。

 もしあなたが内面のいいところや悪いところ、そして美しさや醜さ、神聖さや悪に正面から向き合ってそれを受け入れることを真に意図するなら、最後にあなたは内面の美しさや永遠のものを受け取ります。もしあなたが自分の中によきも悪きもあることを認め、それを見つけようと努力するなら、最後にあなたはあなたの中の善が究極のもので永遠であり、悪はただ一時的に真実から逸脱しただけのもので、究極のあなたではないということ理解するでしょう。あなたはここで内面のいいものも悪いものも-例えそれが何を意味していても-自分のものだと引き受ける意図を確にする必要があります。そうするためにも、ガイドに建設的で現実的な態度で助けを求めてください。そして、人生を否定せず多くの可能性のためにあなたの中にスペースを作ってください。今はどんなに困難に思えても、あなたがこれを強くうなら、あなたは内面から少しずつ変わり始めるでしょう。

 あなたの中の醜さ、そして美しさを見ることから始めてください。あなたが醜さも美しさも持っているという事実と正面から向き合って、そしてその醜さが美しさから生じていることを認めてください。あなたの中で神聖なものが浸透している部分だけが、真実でいることを望み、そうすることができる勇気を持っています。あなたの中のその部分だけが、内面世界の驚くべき旅路に旅立って、そこから多くの困難な学びを得ようとしています。あなたの中のすべてを明らかにしようという行為そのものが、あなたからあなた自身に贈る尊厳に値します。それは、他者に対する受け入れ難い投影や自分の醜さを隠すために他者の醜さを利用することをやめたときに受け取る代価です。

 わたしは、あなた方がお互いに助け合うことも提案します。またあなたが他者を責めたい衝動に駆られたときは、自分自身にこう問いかけてださい。「わたしの中の醜さは何かそして、相手の中の醜さは何なのか。」そして次にこうも問いかけて下さい。「わたしの中にある美しさは何か相手の中の美しさはどんなものなのか。」これらの質問を真剣に考えてください。そして、この質問の答えを性急に求めずに、彼らの中の醜い部分や美しい部分が十分らかになるまで待ってください。他人や自分自身を責めながら、そしてその行為の中にネガティブな喜びを見つけながら、口先だけでただこの質問をすることは止めてください。もしあなたがまだそういった段階にいるのなら、これがあなたが今受け入れなければならないあなたの姿です。あなたが見たくないと思っている善良さも他人や自分自身の中にあることを認めてください。正しくいることは、何も代用品を必要としません。ただ、あなた自身を善と見ればよいのです。

 あなたが神聖なコアを包んでいるネガティビティの層の迷路を通り抜けているとき、あなた自身の善良さも醜さも両方を真に知りたいと望めば、あなたの中で二元性を越えた真理が姿を表すのを見るでしょう。あなたは、自分の中で理論として理解していても、いまだ実践できていないことがどんなものかがわかっていきます。それは、毎日のあなたの行動の中や、特に、他者のネガティビティに巻き込まれたときにより白になります。たとえあなたが他者を非難することで自らの潔白を証することを止め、自分のネガティビティを認めたとしても、あなたはまだ時々自分の無実を晴らすために他人を責め続けています。なぜなら、これが今のあるべき姿であるにもかかわらず、あなたはまだ感情的にそれを経験していないからです。感情的には、まだ他者を非難し自分は無実であると主張しています。しかしこれは、内面であなたが自分を非難しているということであり、自分がそれをしている行為を見たくないという望を意味しています。あなたが自分自身を非難すればするほど、その泥沼に入り込み他のものが見えなくなります。そして、それにより多くのエネルギーを使ってしまいます。この争いの中ではいつも、「他者」か「あなた」かのどちらかが正しいといったことが繰り返されています。

 あなたの中や他人の中にいいものや悪いものがあると気づきたいと願い、ハートをオープンにして答えを待ってください。そうすれば、あなたは二元性を超えた真の経験をします。あなたと他者の間でネガティビティがどのように作用しあっているのかを理解することができるようになります。そして、あなたと他人の中に善きものや美しさ、そしてネガティビティや破壊的な傾向を明らかにできるでしょう。これに気づくことで、あなたが自分を憎んだり他者を嫌ったりすることがなくなります。

 あなたが人生の様々な場面で多大な努力を払っているにもかかわらず、あなたの内面や周りの環境、そしてあなたの人格そのものが変わりつつある中でも、まだネガティビティを行動に移したり、非難したいという気持ちが強くあることに気づくでしょう。

 この「責める」ということを、このレクチャーのテーマである正しい欲望と間違った欲望ということと引き合わせて説明します。あなたが何かを責めるとき、それは、あなたが自分自身を見たくないからです。このような歪んだ不健康な望は、本物の欲望とは正反対のもので、本物ではない非現実的な絶えることのない恐怖を生み出し、やがてそれが現実になります。そして防衛状態にはいった緊張が欲望の中に入り込み、あなたの魂の動きに影響を及ぼします。この不健康な欲望の動きに近づいて感じてみてください。非難することを必要としている緊張した強い衝動を感じることができれば、あなたは観察者として、本当の意味でこの破壊的な欲望が引き起こすドラマを経験しながら見守ることができます。あなたは非難したいという気持ちが創りだしている魂の動きにさらに気づくようになっていきます。

 あなたが非難したいという気持ちに対して完全に責任を持つことができたら、今度はハートをオープンにしてリラックスし、非難することを望まない新しい欲望のあり方を受け入れてください。そうすることで、あなた自身と他者の中に真実を見ることができます。真実を見れば、あなたはもう非難できなくなります。あなたが非難をするとき、例えあなたが真実の一部を垣間見ていたとしても、あなたは真実の中にはいません。一方で、他人は、実際にあなたを非難し、ネガティブな態度で接してくるかもしれませんが、それでも彼らが完全に悪いというわけではありません。それがわかれば、あなたは他者を非難できなくなります。これは、あなたが逆の立場でも同じことが言えます。しかし、真実を見たことで、あなたや他者が内面のネガティビティから解放されるというわけではありません。あなた自身の中の真実を見ることを意図して向き合うとき、ネガティビティを本当に理解できます。そうすることで、あなたの中のすべての罪や自分自身を拒絶すること、そして自己非難が消えるのです。これを理解すれば、この奇跡を経験できます。これは他者にも同様のことが言えます。あなたが今まで見てこなかった真実とは、あなたが思うほど恐ろしいものではないかもしれません。しかし、あなたは無意識のうちに真実とは恐ろしいものだと思い込み、それを見ることを拒み続けてきたのです。

 真実を見ることで、あなたの中に怒りが湧き上がってくるかもしれませんが、それは非難とは全く違うものです。内面から出てくるものが怒りであるとき、あなたはまた違った何かと同調しています。あなたが真実を本当に望むなら、それが姿を表すまで待ってください。あなたが柔軟な欲望とやわらかい信頼をもった姿勢で答えを待てば、それは最も深いところにあるあなたの存在からギフトとしてもたらされます。それがやってくるとき、あなたにはそれが真実だと理解できます。それは、とても意味深く、調和がとれていて、あらゆる意味であなたを自由にします。その時、何かしらの苦痛を伴うかもしれませんが、それはあなたの中の窮屈さからくる苦痛とはまったく違うものです。

 いったんこのプロセスに入ると、あなたの欲望は新しいものを創り出すために視覚化ができる余地が生まれます。このような欲望と創造の受容性は、どんな「~ねばならない」からも解放され、あなたの周りの期待に答えようとするものではありません。むしろ内面の創造プロセスとは、新しい光のもとで真実がはっきりと見えることだと言えます。この強い光は真実と愛を見せてくれます。そして、わたしたちを解放し、より安全なところへと連れて行ってくれます。

 あなたがたにはまず、すべての「~ねばならない」を手放すことができる内面のための新しい欲望を創りだしてほしいのです。あなたは今すぐにでも、自分の中に何かをしなければならないといった衝動を感じると思います。そしてその歪んだ衝動が健康的な欲望を打ち負かし、自分を満たすことを許していないのです。このプロセスを始めると、しばらくの間特定の状況のもとで、あなたの「~ねばならない」といった欲望があなたに満足感のようなものをもたらすかもしれません。これはあなたにとって誘惑的ですが、長続きはしません。それどころか、大抵の場合、それは破滅の状態に陥り、混乱と共に激しい失望に終わります。これは最悪のケースです。

 欲望という魂の動きに波長を合わせることができるようになるためには-それがいいことでも悪いことでも、健康的でも歪んでいても、リラックスしていて創造的でも、緊張していて破壊的でも-新しい意識状態や経験に拡張していくために、それを確にして集中する必要があります。それを学ぶことができれば、あなたという花が咲き実るでしょう。

 宇宙の全能の愛があなたの細胞のひとつひとつに浸透しています。そして、あなたが進化するプロセスに寄り添ってくれています。それを知って、感じてみてください。それに波長を合わせてください。

 あなたがこのパスワークで成長するにしたがって、次第に集中することや1つのことにエネルギーを使う方法を学びます。それは自然な浄化のプロセスからくるものであって、無理に努力を積み重ねても本当の意味においてはできません。あなたの存在の深いところからくるこの自然なプロセスに身をゆだねてください。それに耳を傾けて、湧き上がってくるものを受け取ってください。あなた方はみな愛されて祝福されているのです。


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