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Pathwork in Japan
No.207 性の霊的な象徴と意義
Pathwork Guide Lecture No. 207
UNEDITED版
1973年1月12日
性の霊的な象徴と意義
THE SPIRITUAL SYMBOLISM AND SIGNIFICANCE OF SEXUALITY
ここにおられる一人ひとりにご挨拶と祝福を贈ります。
人間が顕現するすべてのことは、深い霊的な意義を持っています。その顕現が自然なものであろうと、本能的であろうと、あるいは人工的なものであろうと関係ありません。人間の経験のすべては常に、より広く、深く、十全な意味を持つものを象徴しているのです。
今晩のレクチャーは性の持つ霊的な意味を扱います。以前お話ししたレクチャーのひとつで、この偉大なる宇宙の、創造の力である3つの側面を述べました。つまり、人間の経験の中に顕現するエロス、性、そして愛の力です。これら3つの力はもちろん分離した力ではなく、同じ力の一部分なのです。エゴの制限がある狭い領域の中でだけ、それらは別のもののように現れます。そしてそこでは完全に分離しています。これから私は、「性(セクシュアリティ)」という言葉を使って、まず人間の領域におけるその顕現について述べます。その目的と霊的な意味についてです。性の顕現というものが、人間の成長によってどれほど変化するのか。完全に自己実現している人の性、平均的な人の性、おそらくまだ霊的成長の度合いが低く、それゆえに厳しいブロックと分離がある人の性、それらの性の原理を述べたいと思います。
性の力は、融合を求める意識の表現です。融合は創造の目的だということを、みなさんはご存知でしょう。それを統合、合一、ワンネスと呼ぶことができます。けれども、それを何と呼ぼうとも、分離している存在の最終目的は、偉大なる意識から個別化し、分離している側面をワンネスという全体と再統合することです。この分離している部分は、合一に向かって人を動機付ける偉大なる力と完全に結びついています。引き込まれるかのようなその力は抵抗できないほど強く、あらゆる生物の中に存在しています。人間の知性や知覚では見ることのできない生を持たない生き物の中にでさえ存在します。
人間の領域で最も理想的な形における性のパワーは、霊的な存在を「代表する」最も偉大なものです。霊的な祝福とは何か、ワンネスとは何か、そして時間のない状態 -- 時間の制約を超えたところの時間のない今 -- とは何かを性ほど十全に伝えるものは、人間の経験において他にはありません。性のすべてを完全に経験すると、人は時間の制約、そして制限されたマインドがその人を縛りつけてきた分離を打ち破ります。そのような経験を経て、人は自分が永遠の中に真に存在していることを思い出すのです。
性の結びつきの中にある合一、融合、祝福に満ちた経験、時間のない感覚、これらすべては当事者である個人の統合の状態によります。したがって、すべてのレベルにおけるその人の態度によります。もし性の経験が肉体、感情、心理的、霊的なレベルの表現であれば、そしてもしこれらのレベルが何の葛藤もなく他者と合一されていれば、そのとき霊的法則に沿ってこれらすべてのレベルにおいて自己の存在を表現する人たちは、性を、人間のいかなる経験と同じように、完全で、満たされていて、豊かで喜びがあふれ、滋養になり元気をくれるような、霊的な現実をさらに思い出させるものとして経験するでしょう。そのような祝福に満ちた経験の中で、その充足は個人的な満足や豊かさを超越します。これの意味することは、この充足により、そしてこれを経験することで、それぞれの人が宇宙におけるタスクをやり遂げていることを意味するのです。このことはおかしなことに思えるかもしれません。というのも、人間の脳は、タスクを遂行するということを何か大変困難なこと、多かれ少なかれ難しいあるいは不快なことと結び付けて考えるからです。本当は、楽しみ、喜び、祝福、恍惚感を成就すればするほど、より多くの創造のパワーが宇宙の貯蔵庫に加えられます。この経験の一つひとつは、まるでどこかで創造されて輝く新しい星のようです。そしてまた、いずれ埋められることになる虚空の闇の中で光る松明(たいまつ)のようです。
では、これからこのテーマに関して、さまざまなレベルから論じることにしましょう。肉体レベルにおいて、性の経験の意味は何でしょうか?肉体的結合への衝動は何を示しているのでしょうか?たとえば種の保存あるいは歓びの必要性などのふつうの答えは、単に部分的な答えでしかなく、どちらかと言うと表面的です。2人の人間が互いに惹かれあうとします。これにより現れるものを完結な言葉で解釈すればこうなります。この2人は、互いのことを知りたい、互いに自分を開示したい、相手を知り、知ってもらいたい、相手の真実、真の存在を見つけたいと切に願うのです。自己を他者に開示し明らかにすることにより、あなた自身という真の存在が、自分と同じように、相手もまた自分を知ろうとしているという完全な次元に入ることができるのです。この相互の願望は不随意の力により作動し、感動でしびれるような祝福に満ちた感覚、切なる願いを作り出します。
言うまでもありませんが、もし単に肉体のレベルだけで惹かれあうとすれば、少なくともある程度までそこに他のレベルが入り込む余地がなければ、次に経験することは失望に終わるでしょう。たくさんのことが経験したいと願う状態で残されることになります。魂が真に切望することを最も微小で表面的にしか表すことができず、理解し、追求するにはあまりに無知なのです。他の魂との完全なる結合を追い求めるには、浄化と統合へのプロセスが要求されます。それは、あなたの歩むこの道と同じです。
人間の意識というのは制限され、盲目で、単に暗中を手探りすることしかできないので、こうして別の人間に惹かれることが実際のその相手に対して向けられているわけではなく、むしろ自分の真の、あるいは想像上のニーズを満たすために、他者がこうあるべきだというマインドの中で作り上げられたイメージに対して向けられていることがよくあります。その人のリアルな姿はしばしば完全に無視され、故意に否定されます。こうあって欲しいと願う方の人は、その人の幻想を求め、幻想が現実にならないと怒ります。通常、これは相互的なものです。いうなれば、自分も相手も両方が他の誰かを求めている、ということです。そして両方ともに、それを自覚していません。あなたがどの程度満たされているかということが、自分がどの程度その相手の真の姿を求めているのかを知るためのよい尺度になります。祝福が感じられないということは、その求め方が幻想の性質を持っていることを示唆しています。それどころか、それは実在する他者の上に故意に別の人間を重ね合わせていることを示しています。惹かれあうことが真に本物で、真に全体を成す根底の部分から生じているとき、それは特定の個人に向けられ、たとえば親の姿など他の誰かを象徴するイメージには向けられません。そのとき、自分がもっとも親密で真に自分というその在り方において自己を開示して明らかにしたいと願い、自分が可能な限り親密につながりたいと願うのは、まさにその人だということになります。
親密なつながりへの切望は、人間の魂の中で、決してなくなることはありません。けれども、子どもと大人では違った形を取ります。子どもの中では、親密さは完全に受動的な経験です。子どもは単なる受容的な生き物(女性性の原理)として、滋養と愛を取り入れ、受け取り、吸収します。一方で母親は与え、施す側の人間です(その能力において、真に女性的な女性は男性性の原理を表現しています)。大人にとっては、親密さというのは経験が相互的である時にのみ、つまり両方が能動的に手を伸ばし、与え、施し、支え合い、養い、受け取り、取り込み、差し出すときにのみ、成功裏に達成せられるものです。この有機的なリズムは、もちろんマインドによって決められるものではありません。本来備わるこの自己制御を有する自然発生的なリズムは、霊的法則の法にかなったプロセスの不随意な表現で、非常に厳格で、複雑に絡み合い、かつ意義深いために、あなた方人間が理解できる範囲でそれを伝えるのは不可能なのです。あなた方がよくご存じのように、真の充足を禁ずるためのブロックというのは、大人の人格の中にいる子どもが自分の思う通りに満たされる方法をいまだに探しているために存在します。その子どもは、その相手、つまり特定の他者というよりはむしろ、世話をしてくれる親を求めています。そしてまた、その子どもは、ただ受容的で、受け止めてくれる種類の親密さを求めています。ですので、憧れの融合は絶対に起こり得ず、その人は永遠に踏み車を回し続けるかのように、終わりのないフラストレーションの中で生き続けることになります。そのフラストレーションはその人の用心深さ、引きこもる態度、そしてネガティビティを正当化するかのように見えます。そして親密さへと向かう動きは分離し、そのため対抗する動きが始まります。そしてシステム内部のショート(短絡)を起こすことになります。このショート状態は不随意のブロックとして、抑制として、死んだような無感覚として経験されます。
それでは次に、感情的レベルに移りましょう。感情的なレベルにおいて、融合に向かう動きというのは、もし融合が起こるとするならば、感情のやりとりの中で表現されます。大人の中で起こるこの感情のやり取りとは、現実の言葉に置き換えると、何を意味するのでしょうか?私たちは大変自由に「愛」という言葉を使います。けれどもあまりにしばしばその言葉が口から出るときにはそこには何も附随する意味はなく、さらに悪いことには愛という言葉の背後には全く別の「感情」、例えばエゴのニーズやネガティブな目的が存在し、それらを隠すラベルのように使われます。人はこの言葉を、人を利用するための最たる手段として互いに使い合い、そしてこれを「愛」と呼びます。典型的なラベルの背後にある生き生きとした体験は何でしょうか?愛の経験とは、まず他者の多面的で複合的な現実を知覚するための試みです。そのような努力は、一時的に自分のエゴ、自分のニーズや期待、自分を空っぽにしてしまう夢中な感覚を脇に置くことを要求します。そしてその後、そのままのものを受け入れられるのです。他者を受け入れ、真に知覚し、経験し、他の存在のもつ複雑さを感じることができるのです。これよりも興味深く魅惑的な経験があり得るでしょうか?他者がこういう人のはずだ、という幻想のイメージを持ち続け、その人がそうでないと知り憤慨しても何の得もないなら、あなたはありのままを受け入れるために、オープンになり、十分に自分を空っぽにするでしょう。これは愛を表現するひとつの方法です。この確固たる基盤から感情のやり取りを構築することができます。もしあなたが実際に知覚すれば、あなたは自己の身勝手さから、プライドから、恐れから十分に自由なり、ありのままに対処できる十分な準備ができます。必要であれば、痛みやフラストレーションでさえも扱うことができるようになり、そうすると現実、つまり究極の祝福があなたに訪れるのです。フラストレーションや痛みを引き受ける能力は、愛する、与えそして受け取り、祝福を経験するために欠くことのできないものです。もう一方で、もしあなたが痛み、つまり自分の思い通りにできない痛み、少し傷つけられることへの痛み、想像上のあるいは現実の優位性を手放さなければならない痛みなどに対し怯えたり防衛しているならば、あなたは流れているエネルギーから硬い壁を作り出すことになるでしょう。何物もこの壁を通ってあなたの中に入って来ることはできません。そしてまた、この壁を通ってあなたから他者へと流れ出ていくものも何一つありません。あなたは、この自分が作り出した牢獄、つまり痛みと不快さに対する防衛という牢獄の中で孤立化します。あなたは何も感じず麻痺してしまい、満たされることはなく、生きることもできません。融合もできず、したがって喜びを持つこともできません。
愛すること、つまり与え受取る能力は、実際に知覚する力、はっきりとしたビジョンで知覚することのできる力にかかっています。それはまた、私が今言ったように、防御のない状態で、操作するかのように思い通りに痛みを解釈せずに、痛みを消滅させるという目的で解釈せずに、どれほど痛みを感じて苦しむことができるかという能力にかかっています。そのように解釈されていない痛みは、痛みをもたらした出来事、つながりに対し真実に満ちた解釈をするための余地を作り出します。
感情のやりとり、あるいは性の感情的レベルは、真の意味における愛によって決定づけられます。つまり愛の持つすべての側面、そして顕現によって決定づけられるのです。真の意味における愛の別の側面は、他者がそのままでいるのを受け入れるというものです。この意味は、その人がどこにいて、何者なのかということをただ受け入れるだけでなく、それ以上のことを意味しています。それは、その他者がまだ気づいていないその人の持つ可能性をも含めたその人全体のビジョンを意味しています。まだ顕現していないそのようなビジョンは偉大なる愛の行いです。そしてそれは、身勝手なニーズのために別の種類の人を作り出すという幻想とは何の関係もありません。「ありのままの自分でいる」自由をあなたが愛する人に与えるならば、あなたは信頼を交し合うことができます。このようにして、あなたはあなた自身がこうありたいということを主張する自由を得るのです。そしてあなたはこれを何の反抗もなく、自分自身のネガティブなゲームを行動化することなしにできるようになります。この真の主張は、真に与えるという態度に続いてもたらされる罪の意識のない(罪の意識から解放された)状態によって生じます。あなたが全身全霊で与えることに「イエス」を言えるなら、あなたはまた「ノー」とも言うことができるのです。あなたが真に与えれば、受け取るというあなたの内なる権利を主張することもできるのです。繰り返しますが、これを子どもじみた神経症的な性質の要求と混同しないでください。
感情を出さないことは、相互の交わりを不可能にします。実際に与えることと受け取ることはひとつであるために、自分自身に与えずして他者に与えることはできないのです。反対に、他者から引き下がることによって、必然的にあなたは自分から引き下がっていることになります。そして、あなたは他者が結果として奪い取っていると他者を責めます。なぜなら、あなたは与えることと受け取ることは2つの分離した行為だという幻想に未だにしがみついているからです。あなたが切望する融合は、あなたが受け取りたいと願うすべての感情、愛することのすべての側面があなたから豊かに流れ出せばその場合にのみもたらされます。愛のこれらの側面は、優しさ、温かさ、尊敬を含みます。そしてまた、成長と変化に対する力を持つ他者のエッセンスへの理解、そして善を含みます。これらの忍耐を強く持ち、そして他者に疑うことの有益さを与えてください。別の解釈のための余地を作るのです。信頼し、他者にも開いていくこと、そしてそのままでいることの余地を与えるのです。あなたはまた、完全なる愛の持つこれらの側面を与えられることを切望しているのです。融合は感情のレベルにおいて、完全なる愛のこれらの構成要素を与えるために、自分自身の力を拡大するための学びに十全にコミットするときにのみ起こります。
けれども感情的な融合、つまり完全なる融合のためには、たとえそれが歓迎されなくても、望まれていなくても、他者に対して自分自身を真に表現することも同じくらい必要です。いわゆる愛に満ちた善良さを装ってそれをしないでおいたり、無言のままでいたりするのは感傷的で、通常は不誠実です。というのは、実際にあなたは単に不快な結果になるのを恐れているだけで、リスクを負って痛みを経験したり、自分を露わにしたり、直面したり、それぞれの深いレベルでより高次の関係性の再統合を模索する大変な作業をしたがりません。罪の意識を持たずに、健全にこれを行うには、あなたは自分の残酷さに取り組み、それを取り除く必要があります。あなたの中に残酷さが存在する限り、あなたは決して他者を傷つけることなく真実を口にすることはできません。なぜなら、他者を傷つけてやろうというあなたの隠された動機は、あなたのエネルギーにしみ込んで、あなたの行動や言葉に非常に大きな影響を与えます。そうするとあなたは率直に話し、自分に改善を求めてくるような状況を直視するための勇気を麻痺させることになります。ではどうしたら制約や縛りなく愛を与えることを再構築し、それを増やしていけるのでしょうか?あなたが残酷さから解放され、完全に建設的な方法で話すことができ、それでもまだ他者が傷つく、ということは起こり得ます。それはおそらく、その人が絶対に批判されたくない、フラストレーションを感じさせられたくないと強く求めるからです。けれども、もしあなたが他者の反応からあなたの中に浮上する傷に対処できれば、あえて危険を冒しこの出来事にあたり、それを乗り越えることができ、そうするとオープンな感情のやりとりが可能になるのです。パートナーを傷つけるかもしれないというリスクを冒してまでも、あなたがもっと深く愛し、感じることを真摯に意図し、そこから行動を起こすと、結果として表れるものはより実り豊かになるでしょう。逆に、あなたが他者を傷つけるために「真実を話し」、それなのにそれを認めたくないとき、結果として表れるものは望ましいものではありえません。この隠された動機からくる罪悪感は、あなたと真実の間の、あなたと他者との間に立ちはだかるシールド(遮断するもの)となるでしょう。
あなたの魂が必死に切望する充足と祝福は、他の意識との融合を通してのみ満たされます。それは、自分が最も守ろうとしている秘密を暴くと言うリスクをおかし、それに直面し、認め、そして結果として他者が何か邪魔になるような障害物を置くときにそれを率直に話すという能力にかかっています。あなたのパートナーの一部となっている表現されていないネガティビティや隠されたゲームが、あなたの最良の感情を表現するのを不可能にするとき、あなたはそれを表現する自分自身の限界があることを理解しなければなりません。ここで私が話すポジティブな主張というのは、避難めいた要求をするのとは全く異なります。そのような要求というのは、他者に責任をなすりつけることだからです。私がここで引き合いに出している種類の主張は、他者を責めることはありません。そしてまた、他者が何をしているのかをも理解しているのです。あなたがもはや責めるということの関係を断ち切るならば、あなたは真に声を上げることができるのです。あなたはもはや盲目ではなく、自分がネガティブなやり取りに感情的に関与しているのを完全に見ることができるのです。あなたがこのネガティブなやり取りを間接的に知覚するならば、あなたの葛藤はとても痛みのあるものとなるに違いありません。そして、そのやりとりの中のパートナーの役割を理解することで平穏を経験することはありません。けれども、あなたのパートナーがどれほどネガティブな影響を及ぼしているのかについて、自分自身が真に自己と直面し、真に正直でいることの結果としてより明瞭なビジョンがあなたにもたらされます。そのとき、あなたはあえてリスクを取るのです。そして一時的な痛みがあなたを弱くさせることはありません。
感情的に融合するためには、時に危機が起こるリスクを承知で正直なやり取りが必要です。この正直なやり取りは完全に個人の、不誠実で人を傷つけるような、破壊的なパターンを手放そうと言う自分への正直さと善意に依存しています。もしあなたが妨げられ、抑制され、そして恐れを感じているならば、あなたはまた、互いの視野や充足の深まり、融合から湧き上がる祝福をも抑制していることになります。その場合には、この恐れがどこから来るのか、自分自身に問うてみなければなりません。あなた方両方の中で、この恐れの端を発することとなった場所はどこなのでしょうか?そして、あなたは自分自身のことだけに責任を負う必要があるわけですから、まずは自分の中で、恐れがどこから来ているのかを問うてください。自分の見たことを伝えるのが怖いと思わせる、あなたの中の残酷さはどこでしょうか?自分自身に対する無知、盲目さは必然的に他者に対しても自分を盲目にします。そうすることで自分が見ていることについて無自覚で防御的でいることができ、結果的に攻撃的で敵意のある状態へとつながるのです。もう一度言いますが、感情的な融合は私がここで説明した必要条件が満たされる程度によって、その分だけ存在することができます。
精神的(メンタル)な融合は、当然ながら思考するマインドのレベルに存在します。もっとも深いアイデアや思考のやりとり、それらとコミュニケーションをとる能力、それらをシェアする能力、反対や不賛成のリスクをとる能力などは基本的なものです。精神的な融合は、そこに共存と補足の関係がある程度混ざり合っているときにのみ存在することができます。2人の気の合うパートナー同士は人生について基本的な考え方を共有しなければなりません。そして彼らは霊的にもおおよそ同じ成長段階にいなければいけません。これは、どんな些細な考えまでもすべて共有しなければならないという意味ではありません。これはまったく不可能です。事実、何らかの相違は必要なことです。それは人間の多様性の結果としてだけでなく、同時により大きな成長に向けての必要な課題として相違が必要であるということです。真に互いを理解するために成長が必要であるということ、探求しようという謙虚さ、必要であれば捨て去ること、他者にも自分にも正しくあること、間違うことを許すという謙虚さ、最も小さな問題をさえ深く考え、真実へと至るより深い方法を探すというまさにこの行い、これらはすべて成長に向かうための火付け役、つまり燃料となり、精神レベルにおけるより深い融合を助けます。互いの相違点に関して自分がどのような態度を持っているか、どのような方法でアプローチするかが重要です。水をかき回すかのようにただ単に不快だという理由で、考えの衝突をさけるでしょうか?どうせその問題は「重要ではない」ので、平穏を保つために表面上は同意しますか?直接的にあなたに関係しないことについて深く考えることさえ面倒でしょうか?あるいは単にそれ自体「正しくない」と言い張るでしょうか?その不一致な態度は、ある意味、あなたの中にため込まれ、建設的に対処することを選びたくないというネガティブな感情や思考の結果だという可能性はありますか?
違う考えを持つという自由は、両方が霊的真実にしっかり根をおろし、目的がその方向を向いているときにのみ与えられます。霊的現実が永遠に究極の目的であれば、あなたはまた、たった一つの真実しかないことを知っています。そしてこれはより大きく重大な問題から、毎日の小さな取るに足りないことにまで、すべてに当てはまります。けれども、あなたはまたこの唯一の真実がたくさんの面を持っており、その真実はしばしば2つの見るからに対極にあるものをひとつの全体にすることを知っています。究極のゴールであるこの霊的な目的により、あなたは意見、考え、思考などとともに軽やかに座っていられるでしょう。意見や考え、思考をシェアしたり、やりとりし、最後に融合へと至らせるのを可能にするのはこれなのです。あなたが常に内なる真実、霊的真実を求めれば、小さな反対や違った意見などはゆっくりと消えて行きます。まずはほとんど問題ではなくなり、その後統合し、最後にはすべてはひとつというスピリットの真実へと融合します。
精神的なシェアリングは決して無視されてはなりません。人はしばしば関係性を、性的なシェアリングとある程度の感情的なシェアリングと捉えますが、不思議なことに知性やアイデア、そしてマインドにこれほど重きを置く世の中で精神的なシェアリングをないがしろにします。人は来る日も来る日も、自分にそして互いに精神的な融合の喜びを与えないで奪い合いながら、隣同士で一緒に生きています。彼らは自分自身の最も深いところにある存在、アイデア、信念、夢、願望、感情、恐れ、ゴール、切なる思い、不安、そして希望を精神的に明かすことはありません。マインドとアイデアの世界は、完全なるシェアリングの欠くことのできない一部です。他のレベルで分離したままで、融合に向けての自然な動きと調和していられないうちは、真に満足するレベルで他者と融合するのは不可能です。例えば、フラストレーションが性の不一致のせいにされることがしばしばありますが、性の不一致は肉体的な魅力の不在の結果ではまったくないかもしれません。それはおそらく、あるレベルまたは他のすべてのレベルで十分に融合していないために起こっているのかもしれません。
霊的な融合は常に、肉体的、感情的、精神的なレベルにおける融合の自然な結果です。これら3つのレベルに存在する融合は、その融合に関わる人が高度に成長した霊的な存在であることを意味します。そして彼らは能動的にワークに取り組み、霊的な道に従事しています。彼らは霊的真実を求め意識的にそして意図的に十分に目覚めていなければなりません。もし完全なる融合が存在するならば、霊的自己に到達することこそが人生の最も重要な目的でなければなりません。ゆえに、人生における充足、(創造主に)創造された存在が切望する祝福は、霊的成長が進んだ程度に応じて、そしてそれ以降も進んで行く程度に応じて可能だというのは真実なのです。そしてまた、パートナー同士が動きの中にあればその分だけ、破壊性が建設的で社交的でポジティブな態度や行いのための余地を作れればその分だけ、それは可能になります。人は本当にひんぱんに、自分が停滞している場所で行き詰り、そこから出ようという意図を持とうとしません。彼らは、自分のワンネスに対する願望がまだ成就されずに残っていると驚き、そしてそれは他者、環境、そして人生のせいだと責めるのです。
すべての問題は最終的には霊的自己、そして霊的現実と関連付けられなければなりません。すべての言い争いは、すべての創造物はひとつであるという霊的自己の中でおいてのみ、真に解決され、取り除くことができます。2人の人間が、それぞれの内側にワンネスを発見できる霊的世界があるという感覚を持ちながら融合するとき、そのときには霊的結合が起こるのです。
すべてのレベルが結合することで生み出される性的な力の非常大きなパワーは、すべての創造的なパワーがそうであるように、それ自体で自己永続する生を持ちます。そしてその力はポジティブにもネガティブにもなります。この人生に関与しながら、結合しようとするパートナー同士は、それぞれの人間が従うことを学ぶべき、それ自体が勢いを持つ流れのような何かを働かせているのです。
人間の精神の内側にあるものはどんなものでも、性的な経験の中に表れます。そこから離しておくことは不可能です。ゆえに性の経験の仕方は、その人の精神の場所を測る絶対に間違いのない計器となります。それは、その人の解放されている場所や聖なる法則と調和している場所、悪や破壊性のある場所、破壊性が隠され、きちんと取り組まれていないがために行き詰り、停滞している場所を明らかにします。隠された側面は、性の流れによって引き寄せられてエネルギーを持つようになります。その結果それが方向性を決めるようになります。この方向がネガティブなとき、ゆえに恥ながら否定されるとき、両方の人の成長と生命の力の活力は妨げられます。性的な経験の中にある生来のパワフルな創造のエネルギーは、すべての性格態度、その人の最も隠された本質のすべての側面が現実化するという状況を作り出します。不幸にも、人間はあまりにこのことに対して無知です。最も進歩した心理学でさえ、性が顕現するその方法は、かならずしも行動化されていなくてもその性癖において、その人のすべての態度、性格、エゴの傾向、問題や不純さ、同様にその人がすでに浄化した美、としてその人の性格全体を明らかにする、という事実を明白なことだとしています。これらすべての情報は明らかにされており、その情報はどのようにして、そしてどこを探せばいいのかを知っている人であればいつでも手に入れられるのです。あまりにしばしば、性的な態度は健全かあるいは神経症的か、道徳的に正しいか間違っているかというように単純に判断されることで軽薄に扱われます。また、その中に含まれている鍵を理解するのに反抗的な拒絶もあります。そのような場合には、これらの顕現は、まるでそのような性癖が、例えば純粋に「味覚の問題」、あるいは生まれつきの目の色のように先天的な特徴であるかのように、その人の残りの部分から分離されることになります。レッテル(ラベル)というのはしばしばその問題に対策を講じるべきだと告げています。性癖がその存在を容認されていても、あるいは否定されていても、抑制されていたとしても、それを通して内なる現実の霊的なメッセージがどれほど明らかに、そして大声で語りかけてきているかを私たちはあまりにしばしば見過ごしてしまいます。もし性格的な欠点が、性的衝動を残酷で破壊的な性的空想に形を変えてひずみを生むとすれば、もうそれ以上他の破壊的な感情のようにそれを行動化する必要はありません。それはあなたがこの道の途上において告白する、人を殺しかねないほどの感情と同じなのです。あなたがそれに向き合い、理解し、受け入れ、それらに取り組み、そしてそれが内側に持っている意味が何なのかを理解するために、それを行動化する必要はないのです。単に性的なエネルギーが非常にパワフルなので、あらゆる小さなこと、人間の中に存在する明らかに意味のないような態度が性的な体験の中に象徴的な形で再び現れるのです。個々人において性がそれ自体を表現する方法は、その人が是が非でも気づく必要のある側面を鏡として映し出します。さて、友人のみなさん、この鍵を使おうと学ぶ気があるかどうかの問題です。自分のセクシュアリティについて、新しい見方でこれを見てください。性とは関係のない資質について、それはどんなことを明らかにしているでしょうか?あなたの性格、態度についてなど、何を明かしているでしょうか?あなたのセクシュアリティがあなたの問題として表れているのはどこですか?そしてどこで、どのようにあなたの浄化された性質を明らかにしていますか?
あなたとあなたのパートナーが、私がここで話した4つのレベルのひとつでも融合していない場合、あなたの人生でそれは明らかにわかります。例えば、あなたの興味、ニーズ、願望が肉体のレベルで強くなります。仮にあなたはそのレベルで自分自身をさらけ出す準備ができており、その場所で融合を探すとします。けれどもまた、仮に感情のレベル・精神のレベルの両方、またはいずれかにおいては探していないとします。ここであなたは分離することを望み、あなたは与えたいと思わず、リスクを取りたいとも、より高度な段階でそれぞれのレベルの融合を統合したいとも思わないのです。その場合、肉体のレベルだけが厳しく制限されるのではなく、あなたの性的衝動の性質もまた、どんな形にせよ、あなたが隠している感情的・精神的な態度を明らかにします。あなたは、これらの態度が性の力によってあぶりだされ、磁石のように引き寄せられる、セクシュアリティの形となって再び現れるとは考えも及ばないでしょう。
サイキック・システムのネガティビティが否定されたとしたら、意識、そして性の体験はブロックされ、平たんでうすっぺらく、満足のない、機械的なものになり、そしてもっと厳しい場合には、完全に麻痺することさえあります。この否定が取り除かれれば、性癖が性格傾向、例えば残酷でいることに喜びを見つけるなどの傾向をさらけ出します。ここには決して一般化することのできないたくさんのバリエーションと細かなことがあります。例えば、もし罪の意識とそのあとに続く自己懲罰が否定され、抑制されると、それらは性癖の中に、傷つけられ、侮辱され、拒絶されるという形で現れます。そこには数えきれないほどの可能性と意味があります。性的な空想はそれぞれ、呼び覚まされ、そのままに受け入れられなければなりません。そうすることで、それは理解されます。こうすることだけが、停滞している性的なエネルギーを元のように流れている状態へと戻す唯一の方法です。たとえそれが最初は空想の世界を実現することを意味したとしても、あるいはあなたのマインドの中で、また親密で出来上がった関係性の中でふざけているかのようであっても。
逸脱した性表現はしばしば非常に意識的で、そしてそれに溺れるかのようで、この妨げられた方法で可能なだけどれだけでも楽しむことができます。しかしながら、そのような性の表現はそれの持つより深い意味につながっていません。その人は単に「これが私だ」と思い込み、この快楽を手放したくないと思い、その人が快楽を得られる唯一の方法だと確信しているのです。これは完全に真実ではありません。ネガティブな特徴が理解されたときに手に入れることのできる歓びは、その激しさと質において比較できないほど高く、それを得るためにあきらめなければならないことはひとつもありません。変わるためには、人はまずすでに理解しているネガティブな特質とその人の性的ではない側面との間のつながりを作ることを自分に許可しなければなりません。そこから、性の流れの方向性において自然な変容が有機的に起こるのです。
私の友人たち、長い間この道でワークを続けているみなさんは自分のネガティビティに向き合ってきました。あなたはこれらのネガティビティがあなたのセクシュアリティの中で現れていることはないと信じていますか?たとえほんの短い間でもあなたの性的な態度の中にそれらが現れることはなく、ゆえに自分の充足、融合そして祝福には何の影響もないと思いますか?それは本当に愚かなことです。ですから、おそらくこれはあなたが自分の道において自らの課題にアプローチするための新しい方法なのです。ある程度まではもちろんすでにあなたはアプローチしてきました。けれどもこの方法であなたが手に入れることのできるものに近づいてはいません。これはあなたにとって本当にわくわくするような試みです。たくさんの鍵をもたらしてくれるでしょう。あなたがより具体的になればなるほど、もっとたくさんのことが明らかになり、あなたの洞察、そして自分についての理解は生き生きとしたものになるでしょう。
原因と結果の間のつながりを作ることは、成長と自己に向き合うことの重要な側面だということをあなた方は知っています。人間の中にある最も大きな痛みと不調和は、4つレベルの間にある分離だけでなく原因と結果の間の分離によって存在します。あなたが見て見ぬふりをしている原因によってもたらされる結果によって苦しむこと、このことほど痛みを伴うものはありません。
ほとんどの人間にとって、スピリチュアリティとセクシュアリティを結びつけてひとつにすることなど思いもよらないことです。この概念はまもなく変化するはずです。今日この世界に流れ込んでいる霊性は、新しい時代の始まりを告げています。以前は、セクシュアリティとスピリチュアリティは正反対のものだと考えられていました。真の霊的結合は人の持つすべてのレベルの結合、つまり肉体的/性的なレベルでの結合も含み、その完全なる結果だということが無視されていました。完全な統合とワンネスはセクシュアリティをスピリチュアリティに調和させなければならないことが見過ごされています。あなたの中の霊的生活の実現は、完全なる合一の結果としてのみ可能で、もちろんある部分が他の部分から切り離されている結果としてもたらされることは決してありません。スピリチュアリティの真の意味は、ワンネスとホールネス(全体性)で、その意味はそこにあるすべてを含むということです。したがって他者との満足いく関係性は常に、その人個人の内なる合一の程度を映し出す鏡です。他者との合一を見つけることができないなら、それはあなたが自分自身と合一した状態にいないからです。
スピリチュアリティとセクシュアリティの統合における難しさは、それがたとえ概念の上においてでさえ難しいのは、まさに上で説明した通りです。すなわち、それは隠された悪が性の表現の中に、そしてそれを通して現れるという事実です。ですから何世紀にも渡り、霊的な教えはセクシュアリティを霊的成長の妨げであると主張してきたのです。歴史のもっと初期においては、そのような主張には理由がありました。その時代においてはそれらがすべて間違いではなかったのです。初期の人類は未発達の状態にあり、人びとは自分の残忍性、野蛮な動物的欲望をセクシュアリティを通して行動化していました。意識と分別(良心)がそのときには人間の中にはほとんどなく、スピリットが流れ込むことも少なかったのです。刑罰で裁かれることもないため、独善の中ですべてが行動化されたのです。より強いものはたくさんの権利を持ち、言い訳の必要もありませんでした。自制や鍛錬の力など実質的には存在していませんでした。他者の感情を思いやる力は極度に弱く、まれなことでした。そのような世界においては、スピリットが流れ込むことを可能にするためには、力によって突き動かされることを自制しなければなりませんでした。このことは、自然な本能を自制するために霊的な練習が用いられるようになるには長い時代があったことを説明しています。一方で、霊的成長は進み、他方でそれが人類の自然な欲求を抑制したこと、これは一時的に必要なことでした。今やっと、人類は開かれていく、という新しい霊的な時代に入っているので、人間は自分の隠された本能を見て、それらを行動化することなしに浄化するのに十分な強さを持っています。とはいえ、今日においてさえも、ほとんど誰も、安全で正直な表現と、ネガティブな材料を自供し破壊的に行動化することの間にある微妙な差を知りません。この道を歩むあなたは、本当に極めて重要なこの違いをはっきりさせる技術を学ぶパイオニアなのです。この方法でのみ、あなたは自分を完全に統合することができ、自分のすべての側面を浄化し、性の衝動が今どんな風に現れているとしても、それを安全に明らかにすることができるのです。停滞、元気のなさ、そして頻繁な性の問題が優勢なこの流れは、ネガティブな生命の力の中にそれらを閉じ込めていることが原因です。なぜならば、それは安全に扱われないからです。今あなたは、浄化と再生という目的のために自分の本能を解放する新しく、素晴らしい手法を学んでいます。
もし生命力のエネルギーが認識されていない、向き合ってもいない悪に集中するとすれば、そのときエネルギーそのものが恐れられ、停滞の状態こそが悪を小さくする好ましいものになります。この麻痺したような無感覚に失望し、ゆえに人を想う思慕の気持ちは耐え難いものになるかもしれません。けれども、内側にいる人格はまだ、別のやり方をするにはあまりに困惑し、恐れに満ちています。悪は否定され、人はそのとき人為的に性的衝動に対して非常に不満足な結果を無理強いしようとします。人は人工的な刺激物(興奮誘発剤)を用いるかもしれません。そのとき、セクシュアリティはその人の残りの部分からまずます分離することになります。いくつものレベルでの分離はますます短絡状態(ショートした状態)を作り出します。
さまざまなレベルの間の不調和は、おそらく次のように現れているかも知れません。感情的レベルでは、「私は愛したくない」(否定された憎しみ)というように表現されます。精神的なレベルでは、「私は愛すべきだ。そしてもし愛さなければ、私は悪い人間で、歓びもない。だから自分自身に愛することを強要しなければならない」と言います。もうひとつ同時に精神的なレベルでは「私はあなたにとって何の価値もない。あなたが悪いのだ」(愛さないことへの言い訳であり、説明として)と言うかもしれません。肉体的・性的なレベルでは、「快楽を得るために、私はあなたを所有したい」と言うかもしれません。このような苦境においては、セクシュアリティは消滅させられているか、あるいは「性的倒錯(変態)」と言われるように機能するかのどちらかです(痛みを与えることの中にある快楽、自己あるいは他者を否定することの中にある快楽)。憎むこと、わがまま、残酷なセックスは常に罪の意識を生み出します。その罪の意識は、厳格で愚かな態度からもたらされるとして退けられたり、合理化されたりするのです。しかしその罪の意識は、これらの「悟り」にも関わらず未だに蔓延しています。ではその罪の意識はどこから来ているのでしょうか?性的な表現が受け入れられていようがいまいが、その中にこっそり現れている秘められた憎しみと残酷さの中にその根源があります。他者を困らせたい、利己的でいたい、他者から奪い取りたい、他者に無頓着でいたいという願望が直接扱われなければ、それらは聖なるセクシュアリティを汚すことになります。それは本当に神聖なものなのです。セクシュアリティがエゴの拡張のために、パワーへの欲望を満たすために使われるとき、「不可解な」罪の意識を生み出さざるを得ません。あるいはその人の歴史、そして初期の影響であるとごまかす罪の意識を生み出さざるを得ません。
破壊的で、性的倒錯を伴う方法でパワフルな霊的エネルギーを使うことほど危険なことはありません。事実として、あるいはマインドや態度の中でだけ使うとしても、どちらでも変わりありません。人を殺害すること、憎むことがセクシュアリティの中に深く入り込むと、セクシュアリティは危険なものになり、スピリチュアリティとは対極で相容れないものになります。これが理由で人は数千年に渡りセクシュアリティの中にある最も獣欲的な衝動を行動化してきたのです。こうして、セクシュアリティはそれ自体で堕落した卑しいものだという思い込みが生じたのです。今になってようやく人は考え得るあらゆる悪を引き受け、向き合い、それに基づいて行動しないでいることが可能です。今日、人びとの中には自分に悪意があるときそれにはっきり気づくための分別があります。人は通常自分が知っていることを避けようとすることからも、この気づきは常に表面的だとは言えず、やはり精神の内側に存在しているのです。ゆえにそこには性的衝動に降伏するのは不本意だという気持ちがあり、それがその人の否定されたネガティビティ、悪、破壊性となって表出するのです。
もしあなたが、パスワークの精神において、自分自身にその真実をみて、受け入れることを許すためにこの鍵となる情報を使うならば、あなたは自分自身の中により深い洞察を得て、新しいつながりを作り、自分自身をより浄化するだけでなく、以前は捉えどころがなかった性のパワーを活性化することもできるのです。こうしてあなたは自分のセクシュアリティを解放することになり、同時にそれを自分の霊的自己と統合するのです。タイミングの悪い、衝動的な強要なしに、自然なプロセスとして統合します。そしてあなたはネガティブな関わりから性のエネルギーを解放します。ネガティブな性的表現に捉えられていた、自分がどこにいるのかについての気づきは、このつながりの完全なる意味の理解と結びつきます。あなたは自分のセクシュアリティのネガティブな表現の説明責任を負うことになります。それはあなたの利己主義、残酷さ、愛のなさ、貪欲さをどのように明らかにするでしょうか?
私の友人のみなさん、これに取り組んでください。あなたが取り組めば取り組むほど、自分の中のブロックが少なくなるのが分かるでしょう。より内なる動きがより自然に発生するのを感じるでしょう。そして融合を体験することであなたはより再生し、より多くの不随意の力が働くようになるでしょう。しかし、あなたはまず危険を冒してでも不随意の力が、ともすれば発見することができなかったあなたの悪の最も深い側面を明らかにしてくれるのを許さなければなりません。あなたの最も秘密にしたい性的妄想は、もしそれを真実のクリアな光のもとであるがままに見てみると、あなたを解放してくれるものなのです。我慢を強いるような真実などどこにもありません。現実主義の感覚を持って知覚したらならば、あなたのスピリットを縮ませるような、あなたの真の自己を損なうような真実はあり得ません。こうしてあなたは自分の死んだような状態から生き、目覚めるのです。あなたはあなたの恐れから自分自身を解放するのです。
このレクチャーを終える前に、このテーマに関連していることをもうひとつだけお話ししたいと思います。宇宙における男性性と女性性の原理はそれ自体であらゆる創造的行為の中に表れています。2人のパートナーの間で、そしてその中でその原理はどのように表現されるのでしょうか?男性性の原理は、手を伸ばし、与え、行動し、何かをはじめ、主張する外に向かう動きを表します。女性性の原理は、引き受けたり、育んだり、受容的な動きを表します。歪みとネガティビティの中では、男性性の原理は敵意のある攻撃性、与えたり手を伸ばしたりすることよりもむしろ衝突することとして表れます。女性性の原理は歪みの中では愛するという受容性、育むということから、しがみついたり握りしめたり、盗んだり、きつくつかんだり、捕えたり、取ることばかりで手放さないことに変わります。これらの原理は生活のすべての行動に表れます。調和と歪みにおける両方の原理が男性と女性の両方に存在します。それらは簡単に最低限の自己観察で見つけることができます。それらは肉体的な行動としては現れるかもしれないし、現れないかもしれない魂の動きとして現れます。
これらの動きは本当に創造され得るものすべて、あるいは存在するものすべての中に存在します。それらは創造における完全なる顕現です。いったんあなたがどのように両方の原理が自分の中に表現されているかを確信したなら、自分の精神的、感情的、肉体的なレベルでそれらの表現と比較的簡単につながることができます。自分にこのビジョンを許可してください。男性と女性の間の満足いく融合は、両方の原理がそれぞれの中で調和をもって働く程度に応じてのみ可能です。そして、融合という行為の中で互いに補い合います。自らの男性性と女性性の原理のサイキック・システムの内側で調和のとれた相互作用がなく、そこに歪みと不均衡があるならば、そのときあなたがパートナーを選ぶ際に、そして関係性を持つその方法において、それが表れるのは避けられません。
調和した融合は、完全なる融合の場所まで高まります。完全なる融合は、完全なる充足で、2つの動きがその頂点を見つけます。繰り返しになりますが、これは宇宙的な現象で、あらゆる創造的な行為の中に見つけることができます。それが惑星系の創造であっても、シンプルな物体の創造であっても、あるいは愛し合う2人の結びつきであっても、その行為の中にはそれを見つけることができます。あなたがオーガズム(性的絶頂)と呼ぶ融合の場所は、完全なる充足です。そこではある程度スピリットの中で目的が成し遂げられており、懸命に努力するこの存在たちにとってこの融合は今やあらゆる創造的な行為の中で可能になります。この創造的体験は、ネガティビティや自己中心的な防衛が捨て去られ、不随意の動きが受け入れられ、歓迎され、そしてそれに従っている程度に応じてのみ、起こります。創造的体験は、すべてとの完全なる合一が起こるまで、拡張し続けます。そして人は、果てしなく続く霊的な祝福の中にある融合の場所にいることになります。けれども、宇宙が霊的な光で虚空を満たしそれを達成しなければ、創造におけるオーガズムは一時的なものになります。したがって、その一部は再び分離し、ひとつはすべてですべてはひとつであり、もはや闇は存在せず、霊的な光、真実、美のみが広がるようになるまで、永遠に努力を続けることになります。
あなた方が、自分は安全、愛、そして自分の中の光という無尽蔵の宝を持っていることを真に理解できたなら、と願っています。それからあなたをブロックしている唯一のものは、あなたの考え、知らないという事実、感じたくないと思っていること、知りたくない、この真実を考えたくないと思っていることです。この真実を使ってください。
私の友人のみなさん、おそらくこのテーマについてたくさんの質問があると思います。それらを次回の質疑応答で扱うことを提案します。今、この瞬間、エネルギーはとても美しく、強く、そして非常に生き生きしています。自分自身をそのエネルギーで動かしてみてください。スピリットに委ねて自分をより自由な表現へと向かわせ、今ここにあるエネルギーとともにワークしてください。
私はこのエネルギーの黄金の流れ、そしてあなた方の中に引きだされた感情とともにここを去ります。いつでもそこにあり使うことができる人生の真実の中で、愛の真実の中で、真の愛の中で、霊的現実の平和の中で祝福を受けてください。
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