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Pathwork in Japan
No.210 統合の状態へと成長するための視覚化のプロセス
Pathwork Guide Lecture No. 210
UNEDITED版
1973年4月6日
統合の状態へと成長するための視覚化のプロセス
VISUALIZATION PROCESS FOR GROWING INTO THE UNITIVE STATE
親愛なる友人のみなさん、ここにおられるすべての方にご挨拶し、祝福を贈ります。このレクチャーは、非常に具体的で、あなた方がさらにもう一歩先へと進む際の助けになります。多くの方にとってより重要で、必要な助けとなるでしょう。
成長と拡大の過程において、個別化された個性(人格)は、新しい意識の状態や新しい経験に向かって常に進化します。進化におけるそれぞれのステージ(段階)は広がり、深まり、好ましい人生経験と世界を作り出すために使うことのできる新しい創造の物質を生み出します。こうして、個人がいっそう多くの宇宙の豊かさを手にすることができるようになります。
しかし、何らかの例がない限り、成長すべき、向かうべき新しい状態を視覚化するのは非常に難しいことです。あなた方はすでにご存じのことですが、瞑想の中で取り組む創造と再創造のワークにとって視覚化は欠かせないものです。どう成長すべきなのか、という状態を視覚化できない限り、それに到達することはほとんど不可能なのです。それゆえに、もしあなたが自分のマインドに正しい概念を焼き付けようとする場合、すでにその望ましい状態に到達した人からの例や手本が不可欠です。何度も述べているように、この「地図」、もしくは「青写真」が最初の一歩です。それがのちに現実化するアイデア(着想)なのです。そのアイデアなしでは、現実化は完全に不可能です。
態度、在り方、行動のパターンは、私たちに影響を与える特別なパワーを有しています。それらはまるで伝染するかのようです。もちろん、これはポジティブでもネガティブでも両方の態度や行動パターンについて当てはまります。感情やその感情が作り出す状態でさえも、伝染することがあり得ます。よく知られることですが、ある人びとの意見が、他者にも同じ意見を持たせるほどに大きな影響力を持つことがあります。「模範的な人物」の影響と伝染というこのプロセス全体は、模倣、模範、同一化へとつながります。このすべては、かなり意識的で意図的なレベル、あるいは非常に微細で意識下にある不随意のレベルで存在するのです。
もちろんこれは、新しい状態へと成長していくために、誰と同一化し、誰の持っているものを模倣し、身につけ、手本として使うか、その対象として誰を選ぶのかによるところが大きいのです。魂がより自由であればあるほど、歪みや誤認、ネガティビティや破壊的な衝動に苦しめられることも少なくなります。そして、その選択をより深く信頼するようになります。これは、誰と同一化したいのかについての意識的な選択、無意識の選択、その両方に当てはまります。また、私たちが模倣するかそれとも不用なものとして捨ててしまうかを決定する特定の性質にも当てはまります。このような選択をする能力は、選択をする人がすでに達している状態がどれほど純粋かということにかなり左右されます。ですので、いつものように、始めが一番難しいのです。この場合、その人自身の歪みが、間違った英雄を選ばせるかもしれません。また同時に、その歪みは、模範的な人物として相応しい人の持つ真に好ましい側面にはまったく目を向けさせないようにするかもしれません。その人がこれらの側面を見ないのは、概念が欠落しているからです。この成長の過程の中で、ほんの少しずつ、適切な概念を確立することができ、それによってその後、模範的な人物の持つ特質の中でその先の道案内図(ロードマップ)としてどんな特質を使うべきなのかを理解することができます。
個々人は、ひとつの生から次の生への旅に際して、この原理に基づいて両親と環境を選びます。適切な模範的人物に出会うと、その人のマインド中で、この人だというひらめきを感じます。そして、これが生き生きとしたエネルギーの場(フィールド)を作り出し、その創造のパワーが真の模範を認識した探し手の魂の物質の鋳型を作ります。真の、創造的な在り方において、これは決して偽のものまねや、その人自身のユニークネスを放棄することを意味するわけではありません。むしろ逆に、模倣すべき特質、態度、在り方は、普遍的な側面を自分の自己表現へと統合するその人のユニークネスとして取り入れられます。その人が真のそして創造的なやり方で模倣するとき、その人は完全に自分に対して誠実でいるのです。偽のものまね、つまりネガティブな同一化だけが自分への裏切り行為へとつながります。自己の中のネガティブな態度のみがネガティブな同一化、そしてネガティブな模範的人物を選んでしまうことにつながります。
すべての両親は子どもにとっては原型となる人物です。親への強い拒絶、あるいはその親の持つ特定の特質や態度への強い拒絶は、意図的でネガティブな同一化とものまねが起こっていることを暗に示しています。今自分が、真の問題を認識できておらず、暗闇の中で手探りしているがために、無知の状態で打ち勝とうとしていることから起こるものまねです。
親と子どの魂が健全で浄化されていればその程度に応じて、子どもはポジティブな側面と同一化します。子どもは、持って生まれた計画(原計画)のために、親の(ゆくゆくは他の権威者の)持つどの特質を使うべきか、拒絶すべきかを認識します。子どもは、自分自身のパワーを通して、真実を知ることに対して受容的になれる範囲でのみ、これを認識できるのです。
ネガティブな同一化は、イメージを作り出すことになります。これは、私たちがこのワークで使っている用語です。イメージとは常に誤認、一般化であり、非常に制限され、固定化された閉じたシステムを形作ります。イメージを形作る同一化(意識的/無意識の両方あるいはどちらか)は、常にそこにある選択肢を見えないようにする制限されたビジョン(ものの見方)を作り出します。この制限のことを偽のビジョンと呼ぶことができます。この偽のビジョンはあまりにも多くの重要な要因を排除します。見ることのできるほんの少しの要因は、それゆえに状況を無視したものとなり、人生についての人の認識、さらには当然それに対する反応も非現実的なものとなります。
ポジティブな同一化は、決してイメージに結びつくことはありません。その代わりに、視覚化へとつながります。視覚化と言うのは、柔軟性があり、現実的で、広く開かれたシステムで、そこから意識的で創造的な行動が広がっていくたくさんの別の方法を有しています。
このことについてよく考えてみることが大切です。そしてここで私が言っていることを本当に理解してください。霊的な道においては、ポジティブな同一化が必要であること、現実的で、オープンで、自由なお手本が必要なことを知らなければならない時が来るものです。それを認識する必要があります。そしてもしできないならば、まず内なる概念を確立する必要があります。そうすることで内側と外側で視覚化することができます(つまり、外側で視覚化するというのは模範的な人物を認識するということです)。後になると、あなた自身がこのような模範的な人物になるでしょう。そして、この道を進む他者が、真実を見る準備ができ、自分の内側に内在する可能性に沿って自分自身を思い描く準備ができるとき、彼らに影響を与えるのです。真の模範となる人は、自分の奥深くにまだ眠っているよく似た特質や態度の視覚化を呼び覚まします。それらが完全に表現されるように視覚化を呼び覚ますのです。
流れを遮る塊(ブロック)ともやもやと立ち込める霧(フォッグ)は幻想によって作り出され、歪みがあなたを盲目にするために、真の模範となる人物あるいは彼らのいくつかの特質を見えないようにする、と以前述べました。それらは盲目状態を引き起こします。なぜならば、あなたにはまだ、その模範となる人物の中に本当には何が存在しているのか、というあなた自身の概念がないからです。このようなブロックは、あなたが見るものの解釈が完全に間違っている可能性があると誤解させるのです。模範となる人物の真実に満ちた知覚が存在し得るのは、あなたがすでに比較的自由で、オープンで、自分自身への気づきがあるときだけです。そのような場合には、突然何かあなたの中でカチッと音がします。自発的で、ほとんど自動的かつ有機的な願望、模範となる人物と同じ方向に育てるべき願望が、あなたの中に生まれます。自分の性質とはまったく異質な何かをまねるのではありません。根本的な宇宙の特質が存在し、それぞれにユニークな個人によって違ったやり方で表現されるのです。ですから、正確な複製を作るために真似なくてもよいのです。ただ、あなたのユニークな個性にその特質を取り入れるのです。あなたの歩むこの道のどこかで、あなたは、真似る価値のあるものは何かという無意識の理解を得るための、十分な自己に対する気づきを得てきています。それに注意を向け、あなた自身を成就するためにこのビジョンを使うのです。
成長のすべての領域において同じことが言えますが、ここでもまた、霊的法則に沿って、連続して起こることや交互に起こることなどがあります。ブロックが存在し、それゆえに模倣すべき人物の原型が不在であるかまたは認識されていない場所では、精神は、道案内として現実的で、ポジティブな人物をいかにして選ぶかを学ばなければなりません。これは、その必要性に注意を払うことを求め、統合された、調和に満ちた、神聖なる自己とのコンタクトそして統合を表現している人とはいかなる人かという内なるビジョンを思い描くことを求めます。そのような概念が存在するとき、内なる視覚化が始まります。そしてその後、その視覚化によって、完全に最高の自分になるために、あなたを助け、影響を及ぼし、あなたを導く外側の人物に会い、それを認識することができるようになるのです。
このレクチャーでは、明確な指針と初期に持つべき概念を示したいと思います。自分自身のまだ眠っている可能性を認識するために、何を探し、何に意識を合わせ、どんな準備がなされるべきかについてお話しします。その人が、内にある神聖なる自己と真に結びつき、すべての人間の内なる核、まさにその存在の中心である尽きることのない豊と結びつくところに至るために、私は、内側も外側も、それがどんなものか、絵を描いてみましょう。このレクチャーは、まさに基本となるある状況や表現を述べた概略にすぎません。そしてそれは、この状況や表現を安全に一般化することができ、自分の神聖なる自己が継続して表現され、顕在化される状態に到達したあなた方すべてに当てはめることができます。私は概念とビジョンをあなた方に伝えようと思います。そうするとあなたは新鮮な目で見始めることができ、おそらく今まで見えていなかったものが他者の中にあることを認識し始めるでしょう。
神聖なる意志と現実に対して、自発的に意識的に、そして意図的にコミットすることを選ぶという状態までくると、そのとき内と外の人生の中に生き生きとしたある変化に向けて基盤が築かれたことになります。これはすべての生物の中に内在する完全意識へのコミットメントです。完全意識とは、どのように読んでも構いません。つまり、神、宇宙の意識、真の自己、内なる自己など、名前が何であれ問題ではありません。けれどもそれはちっぽけなエゴを超越しています。このコミットメントがすべてにおいて完全になされたとき、人の人生においてあることが起こり始めます。言うまでもなく、人がこの状態に至るには、はっきりとした明確な線を超えればいいわけではありません。そこに至るのは、段階的なプロセスなのです。ここではそのことについて述べようと思います。しかしその前に、言っておきたいことがあります。あなたは、意識的にこのようなコミットメントをしたかもしれません。そしてそれでもまだあなたの内側そして外側の人生にそれほど素晴らしい変化など起こっていないかもしれません。その事実だけを取って、判断を誤らないでください。私はここで、特に、比較的最近このワークを始めた方にお話ししています。いくらかの人は、意識的なレベルで神に強くコミットしているかもしれませんが、おそらくあなたの中にそうしてはいない別のレベルがあることにまったく気が付いていません。意識的なレベルだけで、このコミットメントは自分が望んでいることだと信じるのはいとも簡単です。そこではあなたは善意に溢れ、本当にそう思っていることでしょう。けれども、あなたが、そのコミットメントを望まない、あるいはコミットメントを望むのはあなた自身のエゴの言葉(もちろんこれはまさに忘我の行いを打ち負かします)の上でだけで、完全意識からくる言葉ではない、というような相容れないレベルを経験していない限り、そうなるのです。そしてそのとき、あなたは躊躇するでしょう。あなたの中にあるこの反対の部分、恐れ、身勝手さ、プライドのこのレベルを認識しない限り、あなたの意識的なコミットメントは常にブロックされることになります。善意の背後に隠されたこの正反対のエゴのレベルを認めない限り、あなたは、真実、神、愛にコミットしているのにもかかわらず、ある結果がいまだに欠けているのはなぜなのかを理解することさえできないかもしれません。この側面は本当に重要です。ご存じのように、この道では徹底的にこれを扱います。こうすることで、もっとも油断ならない妨害物が避けられるのです。つまり、その妨害物とは自己欺瞞のことです。私たちは、「私はしない(I will not)」と言うネガティブな自己の部分を探し、明らかにするのです。あなた方は、この部分を白日の下にさらすための勇気、謙虚さ、正直さを学んでいます。その部分は、「私は抵抗したい。私は悪意を持って邪魔したい。自分のやり方でやりたいのだ」とさえ言います。あなたの精神の物質の隠された裂け目が明らかになり、明かされ、これらの領域が露呈するときにのみ、あなたはこの非常にネガティブなレベル、つまり人のより暗い闇の部分を変えることができます。これを変えるのは簡単ではなく、常にたくさんの懸命な努力を必要とします。この部分が隠されたままであれば、あなたは分離し、なぜあなたのポジティブな努力や試みはいつも先に進めないのかを理解できません。
そしてその後、特にこの戦いに勝ったという地点にたどり着きます。この段階では、あなたは全身全霊で神聖なる意識に委ねることを選んで受け入れ、それを信頼できるようになります。けれども、もう一度言いますが、これは一撃でたどり着ける場所ではありません。最初の内は、委ねることのために、毎回戦って勝ち取らなければなりません。自分自身にそれを思い出させるために、自己鍛錬が必要になります。抵抗は去ったとしても、外側の自己はまだ昔の古くなった機能に条件付けされ、マインドの一番上のレベルで自動的に先へと進んで行くことになってしまいます。この段階において、あなたに必要なのは新しい習慣のパターンを身につけることです。これには時間がかかります。おそらく、あなたが本当に困難の中にいるとき、つまり危機の状況の中にいるとき、あなたが思い出すべきことは、手放し、そして神に委ねることです。しかし、毎日の雑事あふれる日常生活の中においては、このようなことはそうそう起こりません。おそらく、これは、あなたが比較的解放してはいるけれど、なかなか頑固に変えられない場所、不信と忘れっぽさが見受けられる場所、つまりまだ問題が残っている場所で起こるのです。ほんの少しずつあなたは新しい習慣パターンを取り入れる状態へと近づきます。「すべて」であるものへの忘我の行い(委ね)が現実化し顕現する状態へと近づきます。そこは、あなたのすべての思考や知覚、あなたの決断や行動、感情や反応で満ちています。私たちはここに戻ってくるのです。
最初に、内側の人生と外側の人生との間の関係性について話をしたいと思います。このテーマについては、人類の間では、たくさんの混乱が存在します。内側の人生だけが重要なのだと主張する人がいます。その人たちは、内から外へと向かう避けがたい動きを禁じます。なぜならば彼らは、この考えの制限や実際の偽りの部分を見ていないからです。もし統合へと向かう聖なるプロセスが真に動いているとしたら、内側にあるものそれ自体が外側の形となって立ち現れるはずなのです。つまり、外側の人生は、考え得るあらゆる側面において、内側の人生を映し出したものであるはずなのです。しかし、もしあなたの意識がこの真実を無視し、さらにはこの反対の信念(すなわち、外側なんて関係ないという信念)を強く抱いているのなら、あなたはプロセス全体のこの流れと動きを禁じていることになります。これが起こると、より粗野できめの粗い物質のレベルにおいて光り輝くエネルギーの物質がその表現を許されず、それゆえにさらにそのエネルギーの物質を精錬させることができないのです。あなたはもしかすると、私が最近お話ししたレクチャーのひとつ、創造が虚空を埋めるためにどんなことを試みるかについてのレクチャーを思い出すかもしれません。すべての人間はこのタスクの役に立っており、内なる霊的現実を外側で表現することによって粗野できめの粗い物質を精錬しているのです。
外側はどうでもいい、という間違った概念は、内なる霊的真実と美しさを壁の背後へと閉じ込め、物質的な現実から霊的現実とを切り離してしまいます。そしてこの間違った概念を持つ人は、本来ひとつである「ふたつ」の間にある対立を見始めます。たくさんの時代の流れ(動き)や霊的な思想を教える学校は、禁欲主義と外側の人生の否定を説いています。それが内なる霊的な人生を深めるのだといううわべの教えです。この歪みは、同じように歪められたもう一方の極に対する反応なのです。
これとは対極にあるもうひとつの極は、内側に何があるかよりも外側にどのような形で現れるのかの方がより重要であるという立場を取っています。そして内なる現実や内側にあるものを否定し、外側に表れる形だけが大切なのだと断言します。真に内側で成長すると、それはいずれ外側に表れます(とはいえ、常に外側に意識の向いている人が指定した速さで進むとは限りません。そのような人はこうして判断ミスをするのです)。けれども、内側に持っているものの直接的な表現でなくても、外側の形として表すことはもちろん可能です。それゆえに、あなたは自分の評価においては注意深くあるべきなのです。
これらのふたつの歪みは、両方互いに対抗するという間違った反応を起こし、ひとつの歪みはもう片方の歪みをその誤解によって消し去ろうと試みます。これは、人間の意識が二元性の中に捉えられている限り、すべての問題、課題、考えに対し起こる現象です。私はこの原理を他のあらゆるテーマとの関連性の中で話しています。そして私が話しているこのことを他のことに当てはめてみてください。異なる時代、文明、文化などの条件下では、このふたつの異なる、相反する歪みのうちのひとつが取り入れられています。そしてそれは、振り子がもう片方へと振り切るまで続くのです。真につながり、自己実現し、統合した人だけが、内側にあるものの必然の成り行きとして外側の形を表現します。
内側に持つものが無い状態で外側の形が存在する場合、それは一時的に覆うもの(カバー)を付けているにすぎません。そしてそれは、神聖なる現実とその表現の輝くばかりの完全性に似てはいるけれど、必ず壊れてしまいます。もう一度言いますが、これは成長曲線に沿って存在するたくさんの領域において、何度も繰り返すプロセスなのです。すべての偽りのカバーは必ず裂けて粉々に砕かれるという、常に働いている法則なのです。外側の形が内側にある有機的なものとつながらない状態で存在する場合、それは必ず壊れます。もしそれが不完全で欠点のある前提、例えば容姿に基づく前提や、外側と内側の人生との混同の上に存在するのであれば、そのとき、外側の形はまず砕け散らなければなりません。そのあと、内なる動き、内にあるものの有機的な表現となって再構築されるのです。外側の形が壊れ、内なるカオスが露呈され、深いところからそれを取り除いたときにのみ、内なる美が外側の美を築きあげ、内なる調和が外側の調和を、内なる豊かさが外側の豊かさをもたらします。この原理の明確なビジョンもまた、自分自身の動きや、内なるプロセスの結果としてもたらされる外側の人生の顕現を視覚化するためには必要です。
それではこれから、神聖なる人生をエゴ意識の中で現実化するプロセスにすでに深くつながっている人に起こる物質化現象について述べたいと思います。このような人の内側、そして外側の態度はどのようなものでしょうか?またこのような人は何を顕現させ、表現しているのでしょうか?小さい大きいにかかわらず、すべての決定は自己を委ねること(忘我)に基づいてなされます。つまり、ちっぽけな自己が神なる自己へと委ねるのです。ちっぽけな自己は脇に道を譲り、内なる叡智がそこを満たすのを許します。すべてのことがこのプロセスに含まれます。なぜならば人は今、重要でないものは何もないということを知っているからです。すべての思考、すべての意見、すべての解釈、すべての反応の仕方、それぞれが偉大なる意識で満たされるというチャンスを与えられているのです。この段階では、起こってくるすべてに注意を向けることへの抵抗は克服されています。新しい習慣がすでに形づくられ、ゆえに今、神聖なるプロセスが自己永続しているのです。人がつながりを構築するのを忘れ、もしかしたら昔の未熟なままの領域が急に燃え上がるように現れ、間違った方向へと押しやってしまうような、そんなまれなことが起こるときでさえ、それはちゃんと機能します。それほどまでに、その人全体の一部になるのです。内なる自己は、顕現するために十分に自由な状態にあるので、警告や異論、忠告を送り出すことができます。そしてまた、外側の人格に対してその忠告に従うべきか否かの判断を委ねるのです。これはすでに神の恩寵を受けている状態です。神聖なる現実は真実、叡智、善良さ、そして喜びをもたらすということを繰り返し証明してきた結果として、自信と信頼が築かれたのです。最初は、神聖なる意志は信頼されません。これは、信じることが不可能な親の権威と混同されます。親の権威というのは、しばしば、何か「良い」とされることを子どもに示して求めるもので、実際のところその子どもがそうでないことを証明しているのです。けれども今話しているこの段階においては、この混同はもはや存在しません。神聖なる意志は、ハートが真に求め得るものすべてと一致している、ということに自己が完全に気づいています。この信頼はあなたが抵抗を乗り越えるたびに徐々に育っていき、小さな自己(身勝手さ)を手放す場所、委ねという計り知れない深みへと入っていくのです。
自己永続する神聖なるプロセスは、完全なる人へと向かう生き生きとした革命的な変化をもたらします。私がこのレクチャーで触れることができるのは、ほんのいくつか、それが顕現したものにすぎません。あなたがまだ習慣的に制限された思考に従っているにもかかわらず、真実の思考があなたの存在の中に送り込まれます。あなたは内なる声を聞きます。叡智をもってあなたに語りかける声、外側の自己には作り出すことができない統合されたスピリットから語りかける声を聞きます。この叡智によって、憎むという必要が存在しなくなります。自己の拒絶、他者の拒絶の必要もありません。私たちに答えとして、天啓としてもたらされるものは、ワンネスとすべてのものの統合、つまり恐れ、不安、衝突や絶望がまったく取り除かれた状態を見せてくれます。制限されたエゴの知識を手放し、より深い自己の知識へと向かう姿勢、すべてのエネルギー、労力、勇気、正直さ、自己鍛錬を注ぎ込みこのようなより深い知識を自己永続的な現象にすることは、何にもまして充足となります。欠くことのできない基盤としてこれがなければ、どんな楽しみ、喜び、そして満足も長い間存在し得ないのです。仮にそれらが存在しているときがあっても、その充足は耐え難いものとなり、最終的に受け入れられることはありません。ネガティブな反応の中に打ち込まれたくいを手放すのです。ちっぽけなマインドの中にある頑固な意見、あなたの分離した自己の古い習慣に屈することを強いる怠惰の中に打ち込まれたくいを手放すのです。そうしてあなたは真の人生を手に入れるのです。忍耐をもって待ってください。けれども、自分が望めば活性化することができる神聖なる叡智を受取る準備を整えておくのです。
この状態でいることができるようになるとき、あるいはこの状態を継続的に深め強化するというプロセスの中にいるとき、内的にも外的にも、他のあることが現実化として現れ始めます。ここでは少しこれに触れて、将来的にもっと説明します。その現実化のいくつかは、あなたが自分自身で発見するのです。
あなたは非常に大きな安心を見つけます。この安心は、あなたの内側にある霊的な世界の現実を発見するとき、そしてそれがあなたの周りで働いていることを発見するときにのみ得られます。そのときあなたは、あなたの人生の意味、すべての生の意味する深い平穏を知るのです。あなたはすべての言葉を超えたつながりを知り、充足と安全の感覚が自分を満たすのを知ります。このすべてはそのとき、もはやしがみ付いたり否定したりする理論や信念などではなくなります。それは何度も繰り返し見ることができる、経験に基づいた事実となるのです。あらゆる暗闇を抜ける出口はいつもあります。それゆえに、絶望する理由など決してないのです。正当な理由がなければ何も起こらないことを知ってください。そして幸せに満ちた人生をより高めるために、あなたには自分が経験するいかなることも使う能力があるのだということを知ってください。暗い場所はさらなる光に向かうための機会となり、それが痛み、罪の意識、恐れ、あるいは何であろうとも、もはやそれらを避ける必要はないのです。あなたは何度も繰り返し、創造という広く開かれたシステムを経験するのです。
あなたは、凝り固まった世界の中でどうすることもできない物事を感じるよりも、自分自身の創造のパワーを知り、そして使うのです。正しい人生の持つ平穏と知識は、あなたの世界、経験、人生があなたの創造物だということに気づくことからもたらされます。このことは、たくさんの新しい扉を開きます。あなたはもはや二次元の「これかそれかの(either/or)」の世界の中に住んではいません。あなたは、自分の思い通りに、多くの側面を持つ現実を利用するのです。
そのときあなたは自信の中で、恐れのない状態に生きており、必然的に計り知れないほどたくさんのエネルギーと喜びが解き放たれます。あなたは痛みを経験することができるために、痛みに対する恐れが減り、あなたの痛みは存在することを止めます。今やエネルギーは、他のより良い表現に向けて解放されるのです。あなたは今、喜びや楽しみを得ることができるようになり、もはやそれらを拒絶する必要はなくなります。孤独を作り出す代わりに、あなたは関係性を作り出すことができます。ひとりの友との最も親密な関係性からもたらされるこの上ない幸せ、そして深い満足、オープンな友情を作り出すことができます。喜びはもうあなたを脅かすことはありません。なぜならば、あなたは今、あなたの存在のすべての毛穴や細胞に至るまで、自分がそれに値するということを知っているからです。すべての毛穴とすべての細胞は、意識が表現されたものであり、今神の意識との調和の中にいます。
あなた方の多くは、今一時的に、今までその存在を知らなかった新しい喜びや楽しみを経験するという状態にいると思っています。今まで開かれたことのないような人生があなたに開かれています。けれどもまた、あまりにそれが開かれすぎて自分にはまだ耐えられない、という場所に自分がいるのを見つけます。これはつまり、あなたが完全には神の意識に委ねきっていないからです。あるいは、まだ自分の中にあるネガティブな側面に十分に向き合いきっておらず、それらに依然としてしがみついているからです。そうすると、あなたは、自分が願いそして作り出している「グレーな状態」、つまり喜びでも痛みでもどちらでもない状態よりも、喜びをさらに恐ろしいものとみなすようになり、喜びを恐れるのです。しばしばあなたは、自分がそうしているとは知らないままに、苦心してまでこのグレーの状態を守りたいと思うのです。このグレーな状態は自分に心地良さを与えてくれるのですが、長い目で見るとそれはむなしさを残すのです。
深いところにある自己を現実化するために継続的にプロセスに取り組み、その結果必然的に内なる人生の中に現れるものは、あなた自身の内面から開花する信じられないほど素晴らしい創造性です。そのときあなたは、考え、選択、才能、感情の豊かさ、他者と生きる能力や関わる能力などにおいて、創造的になります。あなたは、自分の創造のパワー、豊富な感情、自分という存在の十全さという宝物を見つけるでしょう!あなたがこのむなしさ(空虚)を通り抜けるときにのみ、あなたはこの十全さを見つけることができるのです。それには勇気が必要です。勇気は、あなたがそれを求めて祈り、瞑想するときにあなたに与えられます。あなたはそれを欲しいと思わなければなりません。そしてそれにコミットしなければなりません。
この感情の十全さ、創造的なアイデアの豊富さ、今この瞬間に生きる力、そしてその興奮と平穏(これらは互いに排除し合う反対のものではなく、十全さという同じものの別の側面なのです)は、より深まり、より広がっていきます。あなたがそれを失ってしまうことなど、ほぼありませんし、それほど厳しい状態にもなりません。
今やあなたには創造するためのパワーがあり、自分自身について、他者と人生についてのより深い直感的な理解を生み出すことができます。自分のあらゆる部分についての完全にリラックスした態度が、自分の中にあるものを覆い隠したり、それから逃げたりする必要を消し去ります。だからこそ、あなたは他者を、彼らの最も深いレベルで知ることができるのです。あなたは彼らの思考を読み、彼らの内側やその間に存在するより深いつながりを理解します。そうすると、あなたは彼らを助け、共感し、愛することができるのです。決して一切、破壊的なエゴのディフェンスで彼らを恐れ、対抗する必要はないのです。
外側に表れるのはその後です。あなたの健康が育っていきます。かつて持ったことのない活力とエネルギーが湧いてきます。生き生きとして、健康的になります。あなたが使うエネルギーは常に補充されます。補充というよりも、より多くのエネルギーで満たされます。すべてあなたの機能は完璧に働きます。あなたの肉体のシステムもすべて、調整されます。これがあなたの外面的な容姿に影響を与えます。このように生き生き健康的で調和の中にいるときには、美しくあらざるを得ないのです。それは優雅さ、そして身のこなしの中に表れます。あなたが表現するそのバランスと調整、あなたの声のトーン、目の輝き、肌の美しさ、あなたの姿のしなやかさの中に表れます。良くなっていく度合いはさまざまですが、それはいつも可能です。これを、あなたの持つ可能性だと思ってください。あなたはそれを具現化するこができます。なぜなら、あなたはすでに本質的にはそのような人だからです。けれども、もしあなたが、自分はそんな人にはなり得ないと信じこんでしまっているか、傲慢な理由から、あるいは競争心に駆られて活力、健康、輝き、美しさ、これらすべてを欲しているか、いずれかに該当する場合にはあなたはこれを現実のものにはできません。そうすると、内側の罪の意識が働き、あなたがそれを手にすることを許しません。もちろん、外観としてのみ、そのような望ましい特質を持つ人もいます。その場合には、内側に持っているものとのつながりの結果として再構築される前に、いったんそれは必ず壊されるときが来ます。
そこには、神の裁きという本質的なシステムがあり、それはすべての人の意識の中に組み込まれています。自分の求める人生の表現が、自分の内側の現実と調和した形で外観として現れるものではない場合には必ず、それは成功を見ることがないか、それが作り出されたあとに壊れてしまうかのどちらかに終わるでしょう。真の内なる罪悪感は、ここで働くのです。心理学者たちはみんなこれを「神経症的な」罪悪感とみなしています。しかしながら、このような罪悪感は、これが歪んだ完璧主義の中で表されるとき、本当に神経症的です。その歪んだ完璧主義は真の罪悪感を手放したくないという気持ちを隠してしまいます。ですから、幸せに対する抵抗が自分の中にあるのを見つけるとき、その意味を見つめ、正当化された罪悪感がある領域を見るのです。
永遠なる自己との内なる統合は、あなたが本当に理解したいと願う、宇宙のいかなる領域をも探求し得る創造の力を使えるようにします。あなたは今、思考の力、意識の力を知っており、今まで学んできた自己鍛錬の結果としてそれに焦点を当てることができます。従って、肉体の「死」を超えた永遠の状態を経験するという点において、あなたは創造的な受容性を生み出すことができるのです。この認識は、死への恐れからそれを探している限りは信頼に足るものではありえません。死を恐れなくなるときにのみ、信頼できるものになります。なぜならば、あなたは今、苦しみの中にいることができるのと同じく、死ぬことができるからです。対極にあるものを恐れるがゆえに何かを恐れるとき、その結果は信頼できるものではありえません。あなたが創造することができるのは、十全さからのみであって、ニーズや貧しさからではありません。ですので、難しいのは、そもそもの十全な状態を作ることです。あなたが恐れるものの反対のものを求めるのは逃避であり、統合よりもむしろ分離へと向かうことになります。それとはまさに反対の道が選択されなければなりません。あなたは、人生が永遠なのだと知るために、人生の中で毎日、今この瞬間に何度も死ななければならないのです。そのときにのみ、あなたは恐れることなく生きるようになるでしょう。
あなたはいかにして、これらの多くの小さな死を遂げることができるのでしょうか?私が述べたまさにそのプロセス、つまりちっぽけなエゴ、取るに足りない意見、あなたがそれほどにまで注力するネガティブな反応を手放すことによって死を遂げるのです。そのために死ななければならないのです。力を注いでいるちっぽけなエゴは死ななければなりません。そのようにして、あなたは死を超越することができ、常に進む人生の現実を直感的に経験することができるのです。
たくさんの死を経験することにより、あなたが死を恐れることなく生きるとき、肉体の死の原理もまた同じであることを知るでしょう。肉体の死は一時的にちっぽけな自己を手放すことによってなされると分かるでしょう。より大きな自己に目覚めるためにちっぽけな自己を手放し、そして次にエゴを統合するのです。ですから、エゴのちっぽけな自己だけが死ぬわけではないのです。それは拡大され、より大きな自己と統合されます。決して放棄されるわけではありません。けれども、まるでそうされるかのように見えるのです。そして、それぐらいの準備をしておかなければなりません。
実際にこれが起こるとき、永遠の長さを測る物差しは、今すぐにでもあなたの人生の中に現れるでしょう。死への恐れがなくなることによってだけではなく、より現実的に、即時的に顕現するでしょう。それはあなたの活力と若々しさを保ち、現実の人生に時間や年齢がなければこんな感じだということを教えてくれます。
もうひとつ、外側に顕現するのは、豊かさです。真の霊的人生というのは無限の豊かさであるため、あなたが神聖なる自己を現実化すると、あなたはその豊かさをある程度まで顕現し始めます。宇宙の豊かさが映し出されたものとしての外的な豊かさに対して、あなたの意識の中にスペースを作ると、それを創造し、経験することになります。貧困を恐れるがために豊かさを経験したいと思うと、あなたは分離をも作り出すのです。恐れから作り出される豊かさは、現実の上に築かれたものではなく、その構造はもろく、再び打ち砕かれてしまいます。そうなると、あなたは貧しいままでいることになり、貧しさという幻想を払しょくしようとします。その後、真の、統合された豊富さが育つのです。あなたがまず貧しさを経験するときにのみ、自分の持っているものの外的表現として、自分自身に豊かになることを許すことができます。そしてパワーを持つために豊になりたいのではなく、自分が外的に持ちえたものを他者に見せるためでもなく、貪欲さや恐れからでもなく、それが本当に宇宙の本質である豊かさの神聖なる表現であるために、豊かになりたいのです。
さらにもうひとつ、神聖なる人生を実現する絶え間ないプロセスから外側に顕現するのは、すべてのことに対する適切なバランスです。例えば、言い張ることと降参することとのバランス。あるものともうひとつのものが内側から出てくるのは、いつが適切なのかを自然に知るのです。あるいは、「正しい無私無欲」と、「間違った無私無欲に反するものとしての正しい無私無欲」、そして「間違った無私無欲」、これらの適切なバランスについて考えてみます。これらすべてのバランスとこれらすべての二元性は、自然な統合と調和の中の要素となります。いつ、何を、どのように、についての直感的な知識は、あなたが自分のマインドで決めるからもたらされるのではなく、外側のレベルにおける表現へと適切にそして美しく届く内なる真実と美が顕現したものなのです。
あなたの立ち居振る舞いには、均衡のとれた物腰や美しさがあり、決してばかばかしいとか、利用されるかもしれないと恐れる必要のない礼節と騎士道精神があるのです。まったく強迫観念めいたものなどなく、そこには秩序があるのです。それは、あなたの人生のすべての物事の中にある秩序です。秩序と美しさは関連し、相互に依存しています。流れ続けているあるひとつの流れの中には、寛容さ、そして与えることと受け取ることが存在します。そこでは、感謝する力、他者と自分自身、創造的な全宇宙を評価する力、それらの深みのある力がもたらされます。
柔らかくいること、傷つきやすく無防備な状態でいることへの新しい自由があります。そしてそれがあなたを真に強くし、間違った恥を取り除くのです。同時に、あなたは、間違った罪悪感を持つことなく、強くいる、そして自分をはっきりと主張する、さらには怒りさえする、という新しい自由を経験します。あなたは常に叡智、愛、自らの内にある神聖なる現実の真実とコンタクトしているので、あなたは内側にあるものから知へと至り、そこから行動するでしょう。
友人のみなさん、たくさんの人が自分で選んでいる感情的な孤独は、徐々にあなた方の中から消え始めます。成長過程の中で、あなた方は真実でいること、マスクや偽りなしに機能することを学びます。結果として、より近い親密さの中で心地良さを感じ始めます。あなたが痛み/喜び症候群を恐れるのをやめると、真の歓喜(恍惚の状態)とすべてのレベルにおける深い融合がもたらされ、人間が経験し得る最も深い充足を得ることができます。これは、経験の新しい高みと深みへと進み、そこであなたは調和の中にある内なる宇宙を探求します。親密さを求めることと恐れることについて、孤独と葛藤の中にあるひどい苦しみはもはや存在しません。このような関係性はすべてのレベルにおいて溶けて行きます。これは何度も言っていることです。
宇宙の豊かさは、人生のすべての領域において表現されています。あなたはその豊かさを、分け合うこと、尊敬すること、温かさ、別の人との親密で融合した状態を楽しくて居心地良く感じること、あるいは別の人に与えそしてその人から受け取ること、これらの中に感じるでしょう。自分の感情を感じることに対する安心感、それが愛されることについても同じように安全だと感じさせるのです。あなたは与えること、役立つこと、自分のタスクを達成することやそれに献身することへの深い満足を経験します。あなたは今働いている創造のプロセスの中で喜びを見いだします。
友人のみなさん、これらはすべて、あなた方に示される基準なのです。これらの基準は、自分が忍耐強くないこと、我慢ができないことを卑下するために使われるべきではありません。これらは、人生に表れているあらゆるすべての物事についての意図的な内なる視覚化を生み出すために使うことができるのです。そしてそのとき、あなたはおそらくもっと強い動機をもって、いまだに立ちはだかっているものは何なのかを探すでしょう。このレクチャーは、あなたが自分のワークで使うことのできるたくさんのツール(道具)と材料を与えます。
親愛なる友人のみなさん、宇宙の愛があなた方すべての上に広がっています。そしてあなたのハートの深くへと届いています。幸せのうちに、神のうちにいてください。
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