


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No.213 「手放し、神に委ねる」ことの霊的・実践的な意味
Pathwork Guide Lecture No. 213
UNEDITED版
1973年9月19日
「手放し、神に委ねる」ことの霊的・実践的な意味
THE SPIRITUAL AND PRACTICAL MEANING OF "LET GO, LET GOD"
ここにおられるすべての人を心より歓迎し、神聖なる祝福を贈ります。みなさんが必要とするすべてのサポートやガイダンスを得ることができるように、私は喜びと愛をもって新しいワークを再開します。自分が本当に望み、欲している分だけ、あなたは成長を続けます。もちろんすでに十分に成長しているでしょうし、これからも成長し続けることでしょう。
今夜私は、みなさんが今最も必要としていることを話す機会を得て、大変光栄に思います。今夜お話しする言葉の中に、みなさんは何かを見出すことでしょう。内なる耳で聞き、内なる目で見て、自分の最も深いところにいる真の存在とともに感じてください。今この瞬間だけでも猜疑心を手放せば、あなたは、自己のより深い成長のために今一番必要としている何かを、確かに見つけ出すことができるでしょう。
私は、「手放し、神に委ねる」という言葉をよく使います。あなたも、瞑想中などに、この言葉を使うことがあるのではないかと思います。この講義では、「手放し、神に委ねる」という言葉の真の意味を説明します。この言葉によって何を理解しているでしょうか?この言葉には、表面的な意味よりさらに深遠な意味が含まれているのです。
手放すということの意味は、制限されたエゴやその身勝手さ、狭い理解や思考、先入観を手放すということです。そして、恐れや不信、誤認、疑いを手放すということです。また、「あれがああなれば、これがこうなれば、あるいはもし人生が私の決意したとおりになるのであれば、そうなって初めて私は幸せになれる」というような執着や態度を手放すという意味でもあります。この態度は、実際は大事な何か、それ自体持っている方が合理的な何か、そして実際に持っておくべき何かを手放したくないときと同じように見えます。では、身勝手さを手放すこと、その手放すことの意味は、不幸せや満たされないでいることをよしとして妥協することなのでしょうか? 「手放す」という言葉の下に生まれる満足感や成就への努力は、間違っているのでしょうか?これらの疑問はとても重要です。この講義ではそのことを扱います。
あなたという存在の中心から、あなたの心から、もっとも深い部分の自己、つまりもしあなたが聞きたいと願えば神が語りかけてくれる場所から「神に委ねる」ということは、究極の目的にほかなりません。この、最も高次の、喜びに満ち溢れた安全な状態が存在するためには、障害物や二元的混乱をすべて取り除かなくてはなりません。
一般論的な哲学の概念やスピリチュアルな土台を理解することは、日々それを実践することよりも簡単です。あなたのありきたりの反応は、ほとんどの場合あまりに取るに足らないために、人生のより重要な課題とつなげて考えることができません。けれども、この「取るに足らないちっぽけな」領域の中でこそ、混乱と葛藤への鍵を見つけることができるのです。その混乱と葛藤は、実際にあなたが毎日の生活の中で偉大なる霊的な真実を応用することを不可能にしています。
今私が述べた混乱についてご説明しましょう。ほかのすべての事柄と同じように、偉大なる真実も、間違った方法で歪められ、表現されてしまうことがあり得るのです。多くの人が、宇宙とは慈悲深く、自らを与えているという事実に気付いています。そして、人は聖なる法則によって苦しむ必要などないという真実に気づいています。しかし、人は満たされることをあまりに激しく求めており、それを手に入れようとするのは人間の身勝手さなのです。そのような人に、手放すべきだと言うと、彼らにはそれが空虚、苦しみ、痛みや決して満たされることのない切望に甘んじて従え、と暗に仄めかされているように思えるのです。ゆえに彼らはきつく絞り上げるようなやり方にしがみつきます。そのやり方自体、光であり、真実であり、愛そして豊かさであり、想像しうる限りの充足であるより大きな世界、より深い現実が流れ込んでくるのを妨げているのです。この神聖なる光の流入は、それ自身の調和したリズムに乗っているときにしか自由に流れることができません。そこにはエネルギー的に固い結び目は存在しません。身勝手さ、不安、執拗さ、強要する流れ、不信は、エネルギー的に神聖なる流れを禁じるような雰囲気を作り出します。このきつく張って信頼できず、執拗に主張する態度が生み出す意識状態は、神聖なる意識の態度とは正反対のものであり、信頼の不均衡がここで作用しています。神聖なる自己が否定されている間、ちっぽけで制限されたエゴに信頼が置かれているのです。エゴは否定されるべきだ、と言っているのではありません。しかし、神聖なる流入の発生を許すことにより、エゴは、それ自身の持つ創造性や叡智を拡張させなければなりません。
ご存知の通り、これらの態度というものがエネルギー・システムを作ります。しがみついて手放さないできつく張った状態になると、閉じたエネルギー・システムが作り出されます。これは、外見上に現れているレベルから容易に観察することができます。暴政と抑制支配が存在するところでは、ほんの一握りの権力を持つ人々が自分たちの意思を他者に押しつけます。そのためにより強い恐怖が生み出され、個人個人のクリエイティブな閃きが押しつぶされてしまうのです。閉じたエネルギー・システムは常に抵抗を作り出し、たとえ一時的であっても、それぞれが持つ恐れや弱さから、外面上は力に服従してしまいます。しかし、最後に残った一人が恐れの中で立ち上がり、束縛を断ち切るときが必ずやってきます。歴史は常に、これを裏付けています。しかし、混乱した人間の精神においては、この健全な流れが一般的な反抗心と結びついてしまうことがよくあります。その反抗心は、真の権威や真実、ガイダンス、そして自己制御と自己責任が必要であることに対して反駁する子どもじみた意志によって助長されます。もう一度言いますが、ここに不均衡が生じています。人は服従すべきでないところ、妥協すべきでないところ、自分を曲げるべきでないところで屈服します。もう一方で、反抗すべきでないところで反抗するのです。
窮屈な身勝手さを手放し、しがみつくことをやめてすべてを委ねることを始めようとするとき、人は一見空っぽで何もない真空状態に足を踏み入れることに瞬間的に不安を感じ、内側で抵抗します。手放し、委ねるというプロセスを信じる代わりに、彼ら自身の間違った神を、その神が個人個人でどんな意味を持っていようとも、信頼してしまうのです。
他者との関係性において、わずかで微妙な強要する流れが、たとえば「あなたは私を愛さなければならない」というようなことを言い、望んでいる反応とまったく逆の反応を作り出すことを容易に観察できます。人はそれぞれに、この要求を手放すのは不可能だと感じているかもしれません。なぜなら人は、愛されないことを望まないし、また愛されないことに耐えられないからです。考えてみてください。その人には本当に愛される資格がないのでしょうか?宇宙は、あなたがこのなくてはならない喜びを受け取るのを許さない、と本当に信じているのでしょうか?どうすればこの要求を手放すことができ、この愛を断ち切るときにその人が恐れるわびしい空虚感に従うことができるのでしょうか?まさにこの要求、つまり「自分がせねばならない」という態度そのものが、他者から愛以外のすべてを誘発しているということは明らかです。不信、愛のない状態、パワー、真実の歪み……これらから生じる閉じたエネルギー・システムの中では、愛は実を結ぶことができません。愛を育くむことができないのです。
この道でワークを続けるあなたは、自分自身の中のきつく張り詰めた場所や恐れに満ちた場所、自分が何かにしがみついているところと常に直面しています。おそらくあなたは、これを抵抗もしくはそれに類した名前で呼んでいることでしょう。抵抗とは基本的に、特定の人間、つまりヘルパーやセラピスト、教師などに対して向けられてはいません。同じように、それがどんな種類のものであろうと、現実の支配に対して向けられているわけでもありません。ですので、あなたは現実の支配に耐えている必要はないのです。きつくしがみつくこと、手放さないことは、何を信じるか --- ちっぽけなエゴか内なる神か --- に関連して起こる内面の霊的な葛藤の中に存在します。内なる神を信頼するためには、マインドが作り出す一時的な意識の状態と避けたいという願望を、言うなれば「通り抜ける」ことが必要です。自己が作り出したもの、たとえそれが痛み、混乱、空虚あるいは恐れだとしても、人はそれらを避けようとします。それはあまりに頻繁に起こっています。しかし、一時的な状態が何であれ、あなたはそれを受け入れ、取り入れなくてはなりません。そうすることで、あなたはそれを探求し、理解し、やがて溶かすことができます。
この一時的な状態が究極の最後の現実であると信じることと、これはあくまでも一時的な状態であると知ることとの間には、大きな違いがあります。この状態が最終段階だと信じている限り、それを手放すことに抗って戦うか、無力感や不幸にやむなく従うかのどちらかになります。
これが、「手放す」ことに対する抵抗がなぜこれほど強いのか、についての説明です。あなたは同じ状態にいることを好むのです。手放し、創造し、自分の人生を拡張させる前に、必ず越えなければならない他の意識の状態、つまり創造するための意識の状態へと流れ込むのを避けようとするのです。そしてまた、あなたは、たとえすべてを手放し神に委ねるという状態が素晴らしく、豊かで、光と喜びに満ち、安全だと感じているとしても、同じ状態でいることを好むのです。みなさんの多くは、これをたびたび経験し始めているのではないのでしょうか。このようにして、手放すことへの抵抗はだんだんに減少していきます。これは、どちらか片方だけの、一度だけの決意だけで成し遂げられるものではありません。何度も何度も、繰り返し決意しコミットすることが必要なのです。
多くの場合、あなたが感じている張りつめた感覚は、「私は絶望的なまでにそれが欲しい」というような強要する意識の流れにさかのぼることができます。しかし、絶望とは、欲しいものを手に入れることができない結果であるというよりも、むしろ神をシャットアウトするほどの張りつめた緊張の結果なのです。恐れや不信、貧しさという概念から生じる張りつめたきつい状態というのは、あなたが何かにしがみつくのを正当化しているように思えます。前にも述べましたが、もう一度繰り返します。きつく張り詰めた身勝手さを手放すことは、第一に自己の望みばかり主張することを手放すという意味を含んでいます。その望みは、今この瞬間解き放たれるべきですが、永遠に諦めてしまうこととはまったく意味が異なります。この願いを成就するための、人・場所・もの・時間・方法(誰が・どこで・何を・いつ・どうやってこの願いをかなえるのかということ)を一時的に手放すべきなのです。手放したあとに、まったく同じ場所、つまりこの願いをどうやって叶えるのかという場所に戻ってくるかもしれません。しかし、そのときには以前とは違う感情的・精神的な知的風土のもとでそれは起こります。けれども、今想像できるある特定のやり方で望みを成就させたいという頑固な主張が、実際の成就を制限することはよくあります。この創造のプロセスを自由に流れさせることで、いずれ、自分の望みをはるかに超えてあなたはそれを経験し、幸福と充足感の中で視覚化・現実化することができるでしょう。多くの場合、人間のマインドでは、宇宙の豊かさを思い描くことさえできないので、すべての瞬間に自分を空っぽ/無の状態にすること、そして神聖なプロセスがあなたに明かされるのを許すことを学ばなければならないのです。これが、「神に委ねる」という言葉の意味することです。
あなたが、手放したくない、身勝手でいたいという願望を手放さなければならないときが現実として訪れます。しかし、あくまでも一時的な現実でしかありません。もしあなたが自分の内側で、人生に対するネガティブなイメージ、つまり人生とは苦しみでしかないというイメージを蓄積しているならば、そのイメージについてよく考えてみてください。そしてエネルギー的な力が活性化されないよう、それを追い出さなければなりません。自分の最も奥深くにあるネガティブな思い込みにしがみつき、それと戦っているようでは、これは起こりません。
あなたが、自分と関係を持つ他者に対して支配のエネルギーの流れを送り出しているならば、あるいはまた、あなたを傷つける彼らの不完全さや未熟さと戦っているならば、それは単にあなたが充足を生み出してくれる自己の内なる神を信頼していないからです。自分の考え(それがたとえどんなに理論的で正しい意見であっても)を他者に押しつけなくても、自己の内なる神は、あなたのために充足を生み出すことができるのに、それを信頼していないのです。
人類は、葛藤に囚われています。その葛藤とは、もし自分が手放せば、空しさや痛み、そして見捨てられる恐れが自分の運命になってしまうか、あるいはしがみつかないことでこの陰うつで惨めな状態にやむなく身を任せるのか、そのどちらかでしかないというものです。この普遍的な葛藤は、意識という次元にはびこるマインドの二元的状態の一部分です。私がこれについて述べているのをみなさんはしばしば聞いていますが、人間が巻き込まれているこのような混乱や葛藤はたくさん、たくさんあります。そして、その出口を見つけるのは大変な苦労を強いられます。この場合、人は強要する流れを使うか、やむなくネガティブな状態に身を任せ、絶望し、人生に対するネガティブな概念を持つに至るか、いずれかになります。これは、人生で現れるすべての領域に当てはまるわけではありませんが、いくつかの領域には当てはまります。
あなたは、外面的にはこれらの態度のいずれか一方に傾きがちですが、内面にはもう一方の態度もまた存在しており、意識から隠されているだけなのです。仮にあなたが、外面的に強要的で、攻撃的で、力や狡猾な説得、そして不誠実に人を操作することによって他者を圧倒することに気質的に何の罪の意識も持たない人だとします。この場合、あなたは自分の持ついくつかのリソースを使って、あきらめて従っていること、絶望、無力感、そして人生に対する不信感を覆い隠しています。これは、ある特定の領域においてのみ言えることで、すべての領域においてやっていることではありません。あるいは、あなたは外側ではとにかく他者とうまくやりたいタイプかもしれません。そのような人は、他者の反感を買わないように他者に依存します。しかしその下には、他者を支配したいという願望が潜んでいます。そして、服従することによって支配を手に入れます。つまり「あなたの言うとおりのことをしてあげよう。だから、あなたは私に束縛され、そして私の望みを叶えなくてはならない。私があなたへの従順を証明しているのに私に腹を立てるなどというのは、大変罪深いことだ」というように。敢えて言いますが、あなたは、パスワークの道を歩む中で、このような隠された態度を見つけ出さなくてはなりません。
人生における反応のこれらふたつの方法がどのように外面的に現れているとしても、明らかに強く表れている方とは反対の方法もまたあなたの中に必ず存在しています。明らかに表面化している態度には完全に気づくことができますが、その反対の態度が自分の中に存在しないと信じ込んでいるだけかもしれません。外面的に支配的な人は、内面の絶望感に対処することは難しいと感じます。外面的にネガティブで、依存的で、弱く、他者の言いなりになる人は、自分の隠し持つ支配的で人を操作する特質に対処することを難しいと感じます。これらふたつは表裏一体、つまり同じコインの裏と表なのです。
自己探求へと向かう道の始まりにおいては、あなたは自分の人格の明らかになっている側面さえ気づいていないこともあります。これは、新しくこの道を歩み始めた何人かの友人たちに向けて話しています。しかし、少しずつ自己を観察していくにつれ、明らかに表面化している側面に気づき、続いて隠された側面に気づくのです。
人は、自らが選んだ「世間との付き合い方」に熟練しているとき、その人は隠された側面を認識するのが最も難しいと感じます。もし人が生まれつき強引で、強要する流れが部分的に働くような強さの側面を使っていれば、その人は心の底で密かにふりかかると信じている大きな苦難をかわすための「解決策」から長い間「逃げている」ことになります。もしその人が生まれつきソフトで従順ではあるけれどもこれらの側面を他者を操るために使い、心の底では支配的な部分を使いたいと望んでいるのにそれを隠しているのならば、他者を操るのを手放し、自分が支配的な部分を隠していることに向き合うのは極めて難しいでしょう。自分の選んだやり方、そしてあなたの性格的な優位性を通して自分の欲しいものを得ようとしているかに思える場合、自分が何を逃しているのかを見ることはより難しいでしょう。人生は、究極的にあなたに次のようなことをもたらします。今の成功はただの幻に過ぎないということ、そして実際は、自分で選んだ「解決策」の結果として、はじめから存在している空虚という状態と戦っているだけなのだということです。そして、あなたは、これを認識したときにはじめて、この葛藤に対処しようとする気概を十分に発揮することができるのです。
あなたは一瞬、自分の欲しいものを手に入れたように思うかもしれません。もしくは実際に手に入れるかもしれません。しかし、あなたは本当に熱望しているものを手に入れたわけではないのです。偽りの「解決法」を用いているために、本当の満足や充足感を手に入れることを断続的に不可能にしているのです。仮にあなたが他の人との間に愛や親密なつながりを求めていながらも、彼または彼女の自由意志によってそれを手に入れられるかどうかは分からないと感じているとします。さらに、あなたが所有欲や支配、嫉妬、威圧、要求によって支配しているとしましょう。(実際に表面に表れていても、隠されていても、どちらの場合にもこれは起こり得ます。あなたは依存や責任転嫁、そして他者に罪の意識を感じさせて「かわいそうな自分」を演じるようなゲームをすることで相手を支配しているのです。)もし相手が、部分的には真にあなたを愛しながらも部分的には神経症的にあなたを必要として不当に利用したいと思っているとすれば、その人はあなたのルールに服従します。けれども、自分もその状態をよしとしているにもかかわらず、かならずその人はそのことであなたに憤りを感じ、非難し、あなたを憎み反発することになります。したがって、あなたが相手を従わせることに成功しても、それはほとんど意味を成しません。なぜならば、あなたは絶えず、これらの反応と戦っていることになるからです。相手のその反応は、あなたの方もまたそれを引き起こしているという意味で共同の責任を負っています。他者の中にあるこれらのネガティブな反応は、ただあなたの人生のネガティブなイメージを増強するだけです。そしてそれはずっと繰り返され、続いていきます。しかし、相手を失うかもしれないという恐怖にもかかわらず、誠実さと勇気を持ってその握りしめている支配力を手放すことができるならば、いったい何が起こるでしょうか?もしあなたが「負ける」、つまり失うというなら、それによってあなたはいったい何を失ったのでしょうか?けれどももしあなたが「勝つ」としたら、あなたは他者があなたからの威圧や操作、支配なしであなたを自由に愛したいと思っていることに気付き、それはこの上のない喜びとなるでしょう。それこそがあなたが長い間求めていた真の豊かさです。そして、たとえあなたがその人を失うとしても、それはあなたが永遠に一人ぼっちでいなければならないという意味になるのでしょうか?あるいは、あなたが特定の関係性から得たいと望むものを得ることはできないことを意味するのでしょうか?いいえ、もちろんそんなことはありません。あなたは一時的にわびしさに身を浸さないといけないかもしれませんが、それは障害物として現れているそのパワーを溶かして消滅させるために必要なことなのです。そのようにして、あなたは「神に委ねる」ことができるのです。
聖なる存在は、あなたに想像し得る限りの至福を味わってもらいたいと思っています。この至福の中で自分の疑念に直面することができるなら、最善が本当に自分のものであるというこの状態の中で疑念に向き合うことができるなら、そのときあなたは信頼を確立することができるでしょう。しかし、信頼と真実は、不信や真実の欠如の存在する腐った土台の上には構築できません。自分の周りのものを抑圧し、捻じ曲げるためにあなたが今使っているすべてのエネルギーが、人生の豊かさ、そしてあなたが手に入れられるはずの人生の芳醇さ、これらに対する真の信頼を確立するために使われるなら、あなたは本当にそのような豊かな人生を作り出すことができるのです。真実の欠如や不信、ネガティブな考えを覆い隠すこと、そしてそれらに打ち勝つために自分が用いている手段をも包み隠してしまうことは、本質的で価値ある創造のエネルギーを浪費することになります。
みなさんには、自分の中で、そして自分の人生のどの領域において、この葛藤が明らかに表れているか、そして隠されているか、その両方を見てもらいたいと思います。「神に委ねない」とき、手放すということが満たされない状態に甘んじて従うことを暗に含んでいるとき、そこに信頼の欠如があることを見てください。しがみつくことをやめるときにあなたの中で起こる内なる動きを感じてみてください。そして、宇宙があなたに与えている最善の中で、自分が自信と忍耐、謙虚さの状態にいるのを視覚化してください。
あなたが外面的にしがみつくという経験をしても、あるいは自分は絶対に人生の最善を手に入れることはできないという外面的な絶望を体験しても、どちらであってもその反対側に隠されているものにつながってください。どちらの面も表層にあるので、十分に意識することができるでしょう。そこに触れることができるときにのみ、これから私が与える「鍵」を見つけ出すことができます。しかしながら、鍵について聞くことは、あなたが正しい方向を見つける手助けにはなりますが、決して十分ではありません。この鍵を使うには、かなりの量の内面のワークが必要とされます。
鍵について話す前に、他者とのかかわりという観点から「手放し、神に委ねる」ことについてもう少し話したいと思います。今まで、愛されたい、尊重されたい、認められたいと望み、それらを得ようと懸命に努力することへの葛藤についてお話ししてきました。また、あなたのジレンマについてや、あなたがこの願望を手放さなければならないのは明らかであること、そしてまた自分にはそれを手に入れる資格があるのかどうか、あなたの中にある混乱についてもお話ししました。このことはとても重要なのでここでもう一度繰り返します。あなたがしばりつけられ、何かを強要されているような、絶望的でネガティブな状態にいるとき、創造物に対して自らの所有権の正当性をどんなに主張しても、宇宙からそれを与えられることはありません。そしてまた、「あなたは私を愛さなくてはならない」という態度が純粋な愛からの表現であることもまた、決してないのです。「愛」と「しなければならない」は対極に位置するものです。強要するということは、他者に自由を許さないことです。一方で、開かれたエネルギー・システムは自由の下で機能します。そのように開かれたエネルギー・システムは実際にこのようなものです。「私はあなたに私を愛してほしい。あなたは、私が自分自身をシェアしたいと思い、私のすべてを与えたいと思える人に見える。本当にあなたがそのような人なのであれば、あなたは自由に、あなた自身の意志で私のところに来てくれるに違いないと、私は良くわかっている。たとえ私が強要していることがあなたに何らかの影響を与えたとしても、私はそれを望んではいない。私は、宇宙が私に与えるべきものを与えてくれることを信頼している。もしあなたがあなたの自由にすることを望まないのならば、私はあなたを内側の深いところから手放そう。そして、私が他者に与えるべきものの真価を認め、それを自由に欲する人物が私のもとに現れるのを信頼の中で待つことにする。」これは、開かれたエネルギー・システムを映し出しており、手に入れることのできる豊かさと一致しています。豊かさはいつでもあなたの周りを自由に漂っているのに、動きの止まったエネルギー・システムが、至上の豊かさからあなたをシャットアウトする壁を作っているのです。この原理はすべての種類の関係性にあてはまります。そして、ある具体的な仕事を求めること、友達を求めること、あなたが売りたいものを買ってくれる人を求めること、あなたが与えるべきものを受け取ってくれる人を求めること、もしくは、あなたが探している何かを与えてくれる人を求めることにもあてはまります。
閉じられたエネルギー・システム、つまりきつくしがみつく態度は、あなたの住んでいる宇宙対するネガティブなビジョンに向けられている間違った何の効果も生まない武器のようなものです。あるいは少なくともあなたにとっての人生とは何かというビジョンに向けられた武器です。役立たずの武器は、それを証明するかのようにかなり強い強要的な態度で使われます。あなたは、より強要を強め、より所有欲が強くなり、要求が多くなり、嫉妬深く、威張り散らすようになります。したがってエネルギー・システムはさらにきつく閉じられ、人生の豊かさを締め出してしまいます。人生は本質的にネガティブだというあなたの幻想は強まり、そしてあなたは、あきらめの底なし沼に落ちないために、ただ手放す代わりに、この架空のネガティブなビジョンと戦うのです。
あなたは、開かれたエネルギー・システムの中で生きなければなりません。そうすることであなたには、人生に向かって手を伸ばし、気兼ねせず自信を持って人生の豊かさを得ることができます。宇宙の豊かさと適合するために、あなた自身が豊かでいなければなりません。閉じられたエネルギー・システムにおいては、あなたは自分が貧しいと信じており、自分の持つ豊かさを使うことができません。最初の重要なステップとして、自分の豊かさを知ることは、自分が十分に強く、十分に寛大で、十分に謙虚で、どれほどわずかであるとしても他者に対して強要を用いないほどに十分に正直であることを意味します。手放さないことは、強要する流れ(エネルギー)です。強要というものは、それがどれほど隠されているとしても、盗むことと同じなのです。なぜならば、もし何かがあなたに自由に与えられるとしたら、あなたが何かを強要する必要はないことをあなたは知っています。皮肉なことに、あなたが自由に与えられるはずのもの(宇宙があなたに与えたいと願うもの)は、あなたが強要すると手に入れられなくなるということです。したがって、手放さないことは、深いレベルであなたの誠実さを汚し、それによってあなたは自分を疑い、幸せになるための自分の権利に疑念を抱くことになります。手放さないことは、「盗みを働く物乞い」と同じです。手放すことは、自己の豊かさを知り、意識の中にその事実を確立しようとする気持ちを持つことと同じです。そして、手放すことは、自分の持つ幻想、偽り、不誠実さをしっかりと正直に見ることを意味します。
ご存知の通り、思考やエネルギーは絶え間なく創造しつづけます。操作すること(他者、事実、出来事、あなたの周りの創造のエネルギーを操ること)によって閉じられたエネルギー・システムを作り出すのと、信頼によって開かれたエネルギー・システムを作り出すのとでは大きな違いがあります。
あなたが学ぶべき鍵は、信頼に向けて手放すことです。信頼するためには、まずあなたは中間でつなぎの役割をするものを確立しなければなりません。これを飛ばすことはできせん。これらのつなぎは、人生に対して真にポジティブであることを期待する状態、つまりプレッシャーや不安、疑念のない状態へと至るための橋を形成します。そこには、宇宙が慈しみ深く、そしてあなたは存在のすべてのレベルにおいてまさに最善を得ることができるという深い信仰が存在します。私たちが今話していること、これが鍵なのです。
あなたが充足や豊かさをポジティブに作り出すことができる開かれたエネルギー・システムを得るためには、自分の内なる豊かさを発見することが求められます。あなたが豊かになることが必要なのです。貧しさから始めようとすると、決して開かれたエネルギー・システムを作り出すことはできません。直接的でも間接的でも支配したり、強要したり、抑圧や要求、操作したり --- つまり欺いている状態にいては、あなたが作り出せるのはせいぜい閉じられたエネルギー・システムなのです。
開かれたエネルギー・システムは、内側からも外側からも豊かさがあなたの中に流れ込む状態を作り出します。そしてそれは、一時的に失う余裕さえ持ち、満たされないニーズを満たすことへの真の障害物を見つけるときに起こる一時的な痛みを引き受け、内なる態度を変容させることでそれを最終的には取り除くだけの力がある場所、あなた自身の豊かさの中からもたらされなければなりません。これが、貧しさから豊かさを作り出すための方法なのです。
このプロセスでたどるべき一連のステップがあります。ステップ1は、今私たちが話していたような葛藤を認識することです。あなたは、絶望的な状態と、無理強いたりしがみついたりして圧力をかけていることとの間で懸命にもがいているのです。ステップ2は、自分が想像上の貧しさという前提に立っていること、もし自分が無理強いたりしがみついたりして圧力をかけてもがくのをやめたら、自分に必要なものを絶対に得ることができないと確信していること、これらの前提の上であなたは動いているので、この葛藤が存在していることをしっかりと見なければならない段階です。あなたは、自分が求めるもの、豊かになるためにあなた個人が必要とするものを経験できるはずがない、できない運命なのだと信じ込んでいるのです。ステップ3は、あなたが歩むこの道でいつもやっているように、あなたが満たされないのはなぜか、その本当の理由を見つけ、ワークすることに完全にコミットすることです。これは、正直さ、忍耐強さ、不屈と謙虚さの精神において成されなければなりません。謙虚さとは、自分の人生におけるある特定の領域で、自分が貧しいことを宇宙のせいにしない、ということです。そうするかわりに、この貧しさを作り出している自分の中の歪みを探ることです。
ほとんどの人間は、自分で豊かだと感じられる部分、不毛でそれゆえに貧困だと感じる部分を持っています。その部分は皆それぞれ違います。だから、あなたが自分で豊かだと感じる部分と貧しいと感じる部分を見つけ出してください。創造力にあふれる才能を持つある部分では、あなたは自分を豊かだと感じるかもしれません。そこは、あなたが完全に自信を感じる場所、ゆとりのある場所、自分の内側に無限の豊かさがあると感じる場所です。そこには、決して流れが絶えることのない泉があります。けれども同時に、真の相互関係を見つけるという点においては欠乏感を感じているかもしれません。ほかの人はその領域においては大きな安心を感じるかもしれませんが、その人は金銭的なレベルでの豊かさや安心感については強い疑念を抱いているかもしれません。みなさんは、今ではもう、このような状況を作り出した内的な理由を探求する方法を知っています。ですので、その方法についてこれ以上は深く入りません。そこに、誤認、ネガティブな意図、破壊的な態度が存在していることは知っていますね。では、私がお伝えしたいのは次のことです。自分が豊かだと感じる場所、欠乏していると感じる場所についてはっきり知っておくこと。豊かだと感じる場所では、あなたは常に豊かでいることができます。なぜなら、その場所ではあなたは与えるからです。誠実な態度でいるからです。けれども貧しさを感じる場所では、あなたは貧しい状態でい続けることになります。それはあなたが与えることと正直さを通して自己の内側に豊かさを確立することができるまで続きます。
あたなの中の豊かさと貧しさとを識別するには、与えることと正直であることに対するあなたの感情と態度を比較してみればわかりやすいと思います。
さて、現実的には豊かさはすべての人の中に常に存在します。しかし、自分が豊かさを所有していることを知らず、またそれを理解しようとしなければ、貧しさだけを経験し、本当にそれを信じ込んでしまうのです。自分自身が貧しいと信じれば信じるほど、あなたはまるで、与えるものなど何も持っていないかのように反応するようになります。この道を歩む中で、あなたも他の人たちも、どれほど感情を抑え込んできたかということに気づきましたね?感情を抑え込んできたのは、与えるということが、他者によってしか満たされない耐え難いほどの空虚感を作り出すことになるかのように見えるからなのです。
自分自身が貧しいと信じるときに何が起こるのか、考えてみましょう。すべての種類の押しつけや支配、強要、操作は、欺きに通じるということを前にお話ししました。そのような態度をもし簡潔な言葉で言い換えるならば、次のようになります。「あなたが私に与えたくないと思っているものを、私に与えるように強要する。もしこのままの力では強要するには足りないならば、私は何か策略を講じるだろう。あなたが私に私の欲しいものをくれないことで、あなたに罪の意識を感じさせよう。私を犠牲にしているとあなたを責め、非難してやる。私が密かにあなたにしたことをもあなたに転化して非難しよう。例えば、私に服従させようとする私のゴールにあなたが応じないから、あなたが私を支配していると主張しよう。」この態度が、愛とはまったく関係のない態度であることは容易にわかります。このような態度は、不平等で、ごまかし、すべてを禁じていて、他者の自由を侵すものです。少なくとも、あなたがそうしようとしていることを意味します。
開かれたエネルギー・システムの、自由で愛に満ちた態度はこう言います。「あなたの愛を得ることができれば私は幸せだろう。しかし、あなたを愛しているからこそ、私のもとに来るかどうかの選択の自由をあなたに与えよう。もしあなたが私を愛することを望まないとしても、そのことで傷つき困惑したふりをすることによってあなたに罪の意識を感じさせる権利は、私にはない。」これは、豊かさを作り出す真の正直さ、良識、そして完全さです。あなたは愛されたいと願う資格、お金持ちになりたいという資格、成功し満たされたいと願う資格を持っています。しかし、あなたが別の方法でそれをしようとするならば、あなたの取る手段は差し止められ、最も深い意味においては不誠実になります。なぜならあなたは自分を貧しいと感じており、盗まなければならないと考えているからです。そして盗み続けるから、貧しいままでいることになります。なぜなら、正直な人だけが豊かさを受け取るに値すると感じることができるからです。エネルギー的に見ると、強要し、しがみつく態度の形は、窮屈な牢獄で動きを制限されているような感じです。
盗みは罪を作り出し、そして罪は、自由に受け取る権利への疑念を生み出します。まさにこここそ、あなたが自分を貧窮という状態の中に自分を置いている場所です。そしてその貧窮の中で自分の持つ豊かさを作り出す力を本当に疑っているのです。このときあなたは、霊的法則をも冒涜しています。どのようにして霊的に法則に背いているのか、この点を理解することはとても重要です。
これに取り組む中で、あなたは、宇宙があなたに与えたいと願っているものを作り出すということへの信仰が自分に欠けていることに気づくでしょう。自分で確立してしまった閉じられたエネルギー・システムのために、あなたは自分で、宇宙が自分にそれを与えるのを不可能にしているのです。関係性においてもまったく同じだと言えます。最高の関係性、最も真実の愛でさえ、それが強制され、強要され、自動的に抑制されてしまうでしょう。たとえ相手が神経症的な目的を持って要求に応じる人であっても、あなたの愛の要求は相手を不快にします。あなたの抑制するエネルギーの形により、あなたはわくわくするような、成長する愛を受け取ることを許さないのです。あなたがしがみつき、手放さず神に委ねないと、そこには不公平で不誠実な態度が存在します。圧力はそれに対抗する圧力を生み出します。手放すことは、真の聖なる法則を体験させてくれます。つまりそれは、ありのまま、そのままを体験するということです。一時的にそこにあるもの -- 暗闇とネガティビティ -- がその「ありのまま」に思えるとしても、究極なるもの -- 光と美 -- はその姿を現します。あなたが手放すときにのみ、他者は真に自由にあなたを愛することができるのです。
あなたは今まさに、愛が自由に流れない人間関係のもつれの中にいるかもしれません。しかし、あなたがこの領域で持つ歪みと貧窮の概念があなたに愛を与えることができない誰かを引き寄せるためにそうなっているのです。まず、あなたがある特定の誰かから欲しいと思っているものを、手放さなければなりません。そして、一時的な、明らかに貧窮し空虚な状態を認め、受け入れなければなりません。自己の内面で増加する健全さや自由、そして好きなだけあなたに与えられている豊かさをあなたが見つけ出すには、あなたはここを通り抜けなければなりません。抑圧や支配を経験して得るものと、手放し解放するときに得るものとの間にある違いを知ってしまうと、あなたは決して前者を欲しいと思わないでしょう。前者はまったく意味がなく、あなたを豊かにすることはないのです。なぜなら、あなたは自分自身の持つ貧窮の感覚 -- 間違った感覚ではあるもののそれでも貧窮の感覚と言えます -- からそれを引き出しただけなのですから。
開かれたエネルギー・システムの中で人、愛、豊かさ、そして宇宙は自由にあなたにもたらされます。そこで何かを所有し、存在し、生きるために必要な豊かさは、もしあなたが受け取りたいと思う分だけ自分も与えるならば、自分だけが作り出すことができるものです。この言葉は、多くの宗教や哲学においてしばしば語られてきたもので、特に目新しいものではありません。けれども、与えることは、ほとんどの場合偽りのマスクです。つまり、欺き、駆け引きや不誠実さ、裏切り、そして心の中に巣食うネガティビティを隠すための策略である場合が多いのです。しかし、真の関わりの内面世界を欺くことはできないので、あなたはこの深いレベルに実際に存在するものを受け取ることになります。自分の中に存在していて欲しいとあなたが願うものを受け取るのではありません。ですからたいていの場合、手放すということが、まず内なるネガティブな世界に飛び込むことだという意味になるのです。そのネガティブな世界は、あなたが作り出し、世界から隠れるために、そして自分自身の気づきを見ないようにするために作り出したものです。しかし、これは究極のあなた、つまり運命づけられたあなたでも、あるいは隠さなければならないあなたでもないということを思い出さなければなりません。ネガティブな部分の存在を認めて受け入れることによって、あなたはそれを変えることができるのです。
正直に自己と向き合うことの中には、勇気と謙虚さが含まれています。仮にあなたがまず自分の意識の中に作り出した貧窮の世界を見るとしても、決して絶望を引き起こすことにはなりません。その痛みを経験するとき、それはあなたの魂の旅の中で、自分が作り出したものと向き合う覚悟でくくりぬけるべきトンネルだと捉えてみてください。このプロセスを拒絶し、その代わりに自己の無知と不誠実さ、そしてネガティビティから作り出された痛みのせいで、人生に苦しめられ、犠牲者だと感じることを選択したとき、あなたは貧しいままでいることしかできません。
自分自身を本気で見ようとする勇気から、さらに進んで手放すという態度が必ず育ちます。その態度の本質は次のことを意味しています。「もしも他者が、私が提供しなければならないものを欲するならば、私は喜んでそれを与えよう。彼らがそれを望まないのならば、私は彼らを手放そう。もしこの行為が痛みに満ちているならば、私はこの痛みを受け入れて、私の中にあるその痛みの根源を探求しよう。私は、人生そのものの持つ究極の慈悲深さを信頼する。たとえまだ今はそれを体験できるだけの力が私にないとしても、自分が必要とするものを与えてくれると信じる。」
友人のみなさん、この瞑想は、私が概説した一連のステップの最終段階となります。あなたは、すべての人間が囚われる、信じられないほどの痛みに満ちた絶望的な二元的分離から、自分を救い出すことができるでしょう。この分離の影響をより多く受ける人がいる一方で、より影響が少ない人もいます。それでもいくらかの人は、影響が小さいながらもその二元的分離に捉われています。とはいえ、すべての人間は、このパターンから抜け出そうとしているのです。自分の要求や、きつくしがみついていることが、どれほどまでに自分の充足を阻み、宇宙を侮辱していることになるのか、それを見ることによってあなたは豊かさと開かれたエネルギー・システムを作り出すことができます。その要求はこう言っているでしょう。「自分の求めるものが自分のところにもたらされるためには、無理にでも圧力をかけ、欺き、操り、そして強要しない限り、私は自分がそれを手に入れられるなんて信じない。」
これらのステップに取り組むとき、初めににぎりしめているものを解き放ち、それからあなたが強制的な態度で、身勝手さと圧力を使って手に入れたものを手放してください。これは、そうしたからと言ってあなたが欲しいと望んでいるものがすぐにでも外部から手に入るという意味ではありません。まず、持っていないことを潔く受け入れて、それでもなお内面の豊かさを感じることができるという心の姿勢を作り上げなければなりません。欲しいものが手に入らなくてもいいと思える力は、あなたの自尊心を高め、統合を助けることでしょう。そしてこのことが、自己の内面に存在する力の源から、あなたを豊かにし始めるでしょう。そして、外側から得られる充足は、二次的なものになります。おそらく、二次的というこの言葉は正しい言葉ではないかもしれません。ここで言いたいことは、外部に求める充足にはそもそも本当のニーズがあることが多く、そのような充足は自分の内なる状態からの自然な副産物でなければならないということです。そしてまた、それは、「なくてもいいようなもの」であってはなりません。もしそうであれば、あなたは自分という存在の中にいるのではなく、他者の中に中心を置いていることになります。外側の充足はもちろん重要ですが、それは、単にあなたの内側の状態の有機的な成長に過ぎないのです。まずは自分の中に内なる状態、つまりたとえ空っぽで痛みに満ち、貧しさを感じるとしても自分が得たいと思うものを手放すことができる状態を確立しなければなりません。しかし常にそれを超えたところには必ず別の意識、つまり今の状態に抵抗せずとも流れ込むことができる意識の状態があるという視点で、その見方を忘れないようにしてください。これが、宇宙の法則と一致する内なる豊かさの状態を確立するための方法です。そして、あなたが幸せになるために本当に必要なものは、あなたに与えるためにすでに準備されているのです。
さて、この話のつながりの中で特に重要なテーマである、罪悪感について少し話したいと思います。また、罪悪感と恥、悔恨(深い後悔の念)の間の違いを明確にします。私は何度も、正当化された罪の意識とされていない罪の意識について言及してきました。そしてまた、罪悪感の持つ破壊的な性質、つまり自己を圧倒し、自分が究極には聖なる存在だというビジョンを禁ずる性質についても話しました。今から、罪悪感と恥、そして悔恨について、それぞれがどのように違うのかを注意深く見ていきたいと思います。
あなたが罪の意識を感じるとき、あなたは実際にこう言います。「私はとうてい救われがたい人間だ。破壊的打撃を受けて当然だ。」あなたは、創造物の、宇宙の、そして神のなくてはならない一つの部分であるからこそ、人生の豊かさや素晴らしさ、安心感、正義、そして美を信じることができないとき、あなたはこのように自分自身を侮辱するのです。あなたの一部分がどれほどネガティブで破壊的で、卑劣で、悪意に満ち、意地悪く、不誠実で狡猾であっても、それはあなたのほんの一部分です。本当のあなたが物質として表れる前の一時的な側面なのです。だからあなたはそれを認識し、変えていくことができるのです。一部分を見て、これが自分の全てだとは思わないでください。この危険な歪みに気をつけなくてはなりません。
この自己破壊の罪の意識とあなたの人生の不信との間には、直接的な相関関係があります。あなたがこの両刃の歪みに取り組み、それを正すことは決めて重要です。この種の罪悪感の中では、あなたは必然的に、自己の神聖な流れから自分自身を切り離してしまいます。そしてあなたは、そことまったくの対極にある自分の現実的な欠点や間違いを隠してくれる領域へとすぐに向かわなければならなくなります。そこは、あなたが真正面から正直に向き合う必要がある領域なのです。自分の欠点に対するディフェンスは常に、自己破壊の罪悪感と密接な関係があります。そして、自己破壊の罪悪感は、創造されたすべての生物が自由に手にすることのできる、すべて与え、すべて愛し、すべて満たす宇宙の真の本質を否定することと密接につながっています。友人のみなさん、この罪悪感に気づいてください。なぜなら、これが自己浄化につながることは決してないからです。これは、現実的で建設的な態度ではないのです。
それでは、恥についてはどうでしょうか? 恥とは、虚栄心や「どう見えるか」という見かけとに関係のある感情、あるいは態度です。おそらくあなたは、何かを他者の前にさらすことを恥ずかしいと感じるでしょう。なぜならあなたは他者の前で、本当の自分以上の者のふりを演じたいからなのです。そして、自我のイメージが、本当の姿よりも優勢になってしまうのです。このようにしてあなたは、真の自己という宝物との接触を失ってしまうのです。ですので、罪の意識と恥の間には違いがあるのです。罪の意識は、あなたの内面の自己と関係しています。それはあなたを壊滅させ、あなたはそれを誇張して自分自身とゲームを行うのです。恥はあなたのイメージ、つまり外部の世界に対してどんなふりをするか、みせかけるかに使われます。
真の悔恨は、罪の意識とも恥ともまったく関係がありません。それは、ただ自分の欠点や限界、過ち、未浄化な部分、そしてネガティビティを認めるだけです。それは、自分の中に霊的法則を冒涜し、それゆえに自己の最も深い部分の清廉さを冒涜する部分が存在することを認めます。これを認めること、つまり現実的な精神で後悔を感じること、これらの未浄化な部分はエネルギーを無駄に浪費し、他者にも自分にも害を与えてしまうという真実を認めること、自己と向き合って真摯に変わりたいと願うことは、自己破壊的な罪の意識や恥とはまったく違うものです。悔恨というのは、こう言うことができます。「はい、それは真実だ。私はあれやこれやの不誠実さ、狭量さ、間違ったプライド、嫌悪、悪意、もしくはそれに類したものを持っている。しかし、これが私のすべてではない。私がそのことを認識していること、悔いていること、そしてそれを変えたいと思っていること、まさにそのことが私と私の聖なる自己とを結びつけてくれるのだ。そして、私は、自分が悔恨の念を感じるどんなネガティブな傾向をも最終的には乗り越えられるだろう。」たとえ何かが違うと気づいているとしても、破壊的、不誠実で偏ってしまっている側面を嫌い、変えたいと思っている「私」は基本的にそのまま保たれています。ですので、罪の意識、恥、そして悔恨との間をはっきり区別してください。そして、罪の意識というは、「全てであるもの」への信仰の欠如の一部分であることを見てください。
私の親愛なる友人のみなさん、あなたのまわりにはたくさんの霊的なヘルパーたちがいます。このような自己成長の道を辿ることを選んだすべての人のまわりに、霊的なヘルパーがいるのです。みなさんの中には、肉体を超えた霊的存在の実在に疑いを持つ人もいるでしょう。しかし、疑いを持とうとも、それは事実なのです。みなさんにとっては触れることができなくても、現実には触れることができるこのような世界が存在するのです。事実、そこは、あなたが現実として知っている世界よりももっと触れることができる実在の世界です。あなたが現実として認識している世界とは、あなたの本当の自己がそのタスクをやり遂げるために差し向けられた世界の反射、鏡像、外面的投影なのです。他者を自由に解き放すことで真の愛という名のギフトを与えてください。たとえそれが一時的な喪失を意味するとしても。人生が、あなたの上にギフトを降り注ぎたいと願っていることへの信頼と信仰の中で手放してください。自分の中に真実の姿勢を確立するほどに、あなたは内面の美、永遠に消滅することのない真実の内面の世界を知ることになるでしょう。
私たちは新しい学びのための1年をスタートしています。そして、より進歩し、広がっていくことを期待しています。この流れが年々進化し、みなさんが時にマスターしなければならない困難があるにもかかわらず、それよりもむしろ、かつてないほどに美しさを増しているのが分かるでしょう。この流れは続き、あなたがこの真実の道であきらめず頑張る限り、ますます大きくなるでしょう。あなたの成長はますます手に触れられるほどに実体を伴うようになります。あなたはかつてないほどに深いところで自分の問題を解決します。そしてあなたの楽しみ、安心感、喜びの体験はますます深まり、長く続くようになり、それに続いて起こる恐れに満ちた収縮を伴わなくなります。あなたは、充足できるようになります。なぜなら、あなたは正直に、真実の中で自分自身と向き合うことができるからです。聖なる祝福があなたと共にありますように。平和のうちにいてください。
###
以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。
著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、The Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。
日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。
また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。
さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com
※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com