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No.215 続編・精神の核である中心点~今というプロセス
Pathwork Guide Lecture No. 215
UNEDITED版
1973年11月14日
続編・精神の核である中心点~今というプロセス
PSYCHIC NUCLEAR POINTS CONTINUED-PROCESS IN THE NOW
今日ここにお集まりいただいている心からの友よ、ご挨拶申し上げます。最奥の自己に向かう努力と献身の報酬として、今ここに注がれている恵みと力、そして愛を受け取ってください。前回のレクチャーで取り上げ始めた内容を、引き続き今日はシリーズとしてお届けしたいと思います。このレクチャーの深遠な意味を少しでも理解するために、今回も最大限の繊細さと直観を呼び覚ましてくださるようお願いいたします。知性のみでは、レクチャーに含まれる深さを充分に理解することができません。前回のレクチャーと同様に、はじめのうちはお話しする創造のプロセスが一見純粋で抽象的な宇宙の知恵として映るかもしれませんが、しっかりと付いてきていただければ、レクチャーの後半では明確かつ実用的な内容に入ることができます。創造のプロセスとは、途切れることなく存在するより大きな宇宙のプロセスの一部であり、双方の密接な繋がりを感じ取ることで、あなた自身の内なるプロセスをより理解できるようになります。
前回のレクチャーで、精神の核である中心点と、精神の核が成す螺旋の形状についてお話ししました。今回のレクチャーをよりよく理解していただくために、簡単にまとめたいと思います。
創造のプロセスに含まれる細かな部分はすべて、最小の粒子にいたるまで、精神の核が成す螺旋の構造という、終わることのない一連で構成されています。この一連は密度の高いエネルギーの動きで、この動きは頂点へと向かっています。そして頂点でひとつの創造が、現実のさまざまな次元で、形として姿を現わします。この螺旋はそれぞれが、意識をその内容とする精神的な出来事から成っています。言い換えれば、この螺旋のエネルギーの動きは、精神とは別の、機械的な構成として存在しているわけではないということです。エネルギーの動きは、状況に応じて日常の小さな意識に表れるか、あるいはより偉大な意識に表れるかに違いがあるとはいえ、常に精神が表現されたものです。ひとつの創造は、螺旋同士が絡み合い、織り交ざり、重なり合い、お互いに形を成し、また形を新たにしながら創り出す一連のパターンが複数集まって成り立っています。螺旋同士がお互いに作用し合い創り出す自己再生能力と永続性、そして展開するパターンは、形を作ったかと思えば、崩れ、そして互いに再形成し合います。パターンはそれぞれに創造を担っており、その狭い範囲で独自の目的を持ち合わせています。同時に、目的ある大きな創造体系の一部なのです。
物理的な次元のシンプルな例を挙げてみましょう。たとえば、あなたが椅子から立ち上がり、部屋を横切り、階段を降りて、道路に出たとします。何かの目的に向かって。この一連の流れが、さきほどお話ししたひとつの構造であり、ひとつの螺旋です。設定した目的に達したとき、頂点の爆発的な力が流れ全体に形を与えます。創造的な力が、物理的な現実という次元に姿を現わすのです。とはいえ、こうなるまでには、さまざまな足取りで歩を進めなければなりません。一歩を踏み出す体の動作もまた、一連の流れで出来ており、特定の筋肉を動かそうとする意志の上に成り立っています。今となっては、筋肉を自動的に動かせますが、意志は依然として存在しているからです。意志、動き、そして意志の遂行は、一連の流れまたは計画に従って働きます。計画は、そこに含まれる無数の最小単位の遂行と相まって、たくさんの小さな螺旋の構造を作り出していきます。螺旋はそれぞれに、完結しています。ここで私が言う「小さい」や「大きい」といった言葉は、今お伝えしている事象が実際に起こる次元では決して正しい表現ではないのですが、あなた方の言葉にはより適した語がないため、こう言わざるを得ないのです。前へと進む動作のひとつひとつは、螺旋と精神の核である中心点が創造するもので、目的、計画、遂行、そして意識によって満たされ、完結しています。今お話しした「小さい」もの、つまり前へ進むための一歩一歩は、集まってより「大きな」形を成し、最終的には椅子から立ち上がり道路へ出るという全体を構成します。今いる場所から道へ出るという一連も、創造の全体から孤立したものではありません。一歩の動作が、今いる場所から道へでるという全体の一部であるように、この歩きの全体もまた、より大きな体系、計画、目的、そして意志の一部です。この仕組みは創造の体系そのものであり、理解しておく必要があります。
もうひとつ、例を出しておきましょう。例えばあなたが家を建てたいと思っているとします。あれやこれの断片的で創造的な螺旋の形は、ひとつの全体としてまとめ上げられ、そして最終的にはその全体も、より大きな計画の一部となるのです。つまり、家を建てるためには、まず土地を購入するのに何年も働く必要があるかもしれません。次に、家を設計する建築家を雇わなければなりません。すると今度は建築家が、計画の実行に土建業者を雇い、土建業者はさまざまな分野の下請け業者とお互いに協力をして全体の統制を取らなければなりません。そして作業員とインテリア・デコレーターが家の完成まで精を出します。こういったひとつひとつの過程は、精神の核である中心点との関わりを、無限ともいえるだけ繰り返し、それぞれの一連が各々に完璧な秩序や全体性に基づいて形づくられ、より大きな計画や体系、そしてそれ以上のものとなっていきます。最小単位の過程はすべて、それ自体が創造であり、精神の螺旋というエネルギーの爆発で成り立っています。大きな創造は、次々と展開する無数の小さな創造から成っています。家を建てるというひとつの目的は、互いに絡み合う創造的でより大きな一連のほんの極微な一部にすぎないということです。想像力を掻き立て、あなた自身に照らし合わせてみてください。この家が、大きな体系の中で比較的小さな位置を占めていることが分かるでしょう。そしてここでいう、大きな体系もまた、より大きなものの極微な一部にすぎないのです。螺旋を描いて展開する進化という全体において、ひとりの人の人生が一部にすぎないのと同じように。
今お話ししていることを、直観的に思い浮かべることはとても大切です。今の例はとてもシンプルなものですが、精神の核である中心点が集まり、より大きなひとつのネットワークを織り成すのに、どれだけの数の中心点が必要か想像できるのではないかと思います。ここで出来上がる複数の大きな中心点は、より大きな計画の新しく意義あるパターンの中で、互いに動き刺激し合い、創造し、爆発を起こし、崩壊し、そして共に形を成していきます。想像を絶する意義と壮大な目的が、こうした計画の裏にあることを想像することで、創造という温和で愛情深く、知恵に満ちた力と共に、神聖な神の意識がいつでも働いていることをうっすらとでも、感じ取ることができるのではないでしょうか。小さなことに至るまで、この法則が働いています。これを理解することであなたはさらにもうひとつ、洞察を獲るでしょう。つまり、今いる場所から歩いて道へ出るといった些細なことでさえも、ひとつの創造だということです。このように創造的な行動を、行動を構成している幾多の部分と共に実行するためには、エネルギー・システムや筋肉のコーディネーションとコントロール、その他数えきれないほどの構成要素が必要であり、これ以上ないほどに素晴らしく創造的な性質が発動していなければならないのです。そして、今いる場所から歩いて道へ出ることは、孤立した創造ではありません。そこに歩いていくことには理由があるはずで、そしてその理由もまた、より大きな計画や体系の中の小さな一部分にすぎないからです。このようにお互いに絡み合い、常に加速し拡大し、永続的なプロセスである創造のパターンは、ひとつの断片としてそれぞれに完璧です。そしてひとつの断片はまた、より大きな断片の一部に過ぎないといったことが続きます。これが、作動し続けている創造的なプロセスそのものなのです。
惑星が形づくられる様子を思い描いてみてください。もしくは人間の解剖学的構造が、数学のシステムが、エーテルに含まれる文字通り無限の性質が創造される様を。これらすべてに、どれだけ多くの創造のシステムや、それを構成しているより小さな複数のシステムが含まれていることか。漠然とでも感じるのは難しいのではないでしょうか。空気に含まれる最小の粒子はすべて、精神の核である中心が頂点に達したときに起こる爆発的な力が創り出す完璧な姿です。他の例でも説明したように、すべての粒子はより大きな体系の一部です。私がお伝えしたいのは、あなた方が小さな創造と呼ぶものもであっても、大きな創造であっても、すべては基盤となる法則を通過するということです。これを伝えたいがために同じことを繰り返し言っているのです。あなたが自分自身の内側にある構造や内なる反応、そして精神の創造を内省するとき、プロセスを感じ取ることができるように手助けをしたいと思います。なぜなら、ポジティブな創造にも、ネガティブな創造にも、同じ法則が働いているからです。
宇宙は存在で満ちていて、どんなに小さなところにでも存在はあるものです。先に説明した核である中心点は、さまざまな要素と意味で満たされています。この中心点は意識から切り離されておらず、むしろ全体からは切っても切り離せない一部であり、意識から生じたものなのです。あなたが核である中心点の内なる意味を理解し、螺旋の核にある中心点を感じ取り、その意味と目的、そしてメッセージを充分に理解したとき、限定的ではあるかもしれませんが、世界を自分の都合のいいように見ることから来る苦しみや、狭く閉じ込められた状態を超越することになります。創造の一部である小片が、単に全体の一部であるひとつの断片だとする傾向が弱まっていくほど、そこに存在しているのはむしろ、小さな断片だけであり、断片は他のすべてから独立して存在しているのだと分かり始めるでしょう。人はそれ以上を感じ取ることができないからこそ、瞬間的な意識として、より断片化された意識を持つ必要があるということです。瞬間的と私が言っているのは、狭く閉じ込められた人間の限界ある視点においては瞬間的だという意味です。
逆に言えば、あなたが踏み出す一歩は全体を構成する行程の一部分であり、この行程はまたより大きく広がり続ける計画の一部であるのと同様に、あなたが経験できるのは小さな部分、または次々と展開するより大きな計画の断片のみなのだと理解が深まるほど、全体の意識もしくは神に気づくことができるようになり、また繋がることができるようになっていきます。そして、至福に近づくことができるのです。
時間とは、この断片化された意識が形となったものです。よくお話しすることですが、時間とは現実を歪んだ形で見ている幻想に他ならないからです。今回の文脈において、時間とは、ひとつの見方であり、螺旋の核である中心点を構成している「小さな」創造を表す単位だということです。あなたにはこの小片の全体像が見えていないのです。皆さんがよく、無意味という感覚に苦しめられるのはこのためです。このような狭い意識の状態にあるとき、実際あなたは分断され、切れ切れな状態にあり、より大きなプロセスに気づくことができません。
人間の意識のうえで時間は、ひとつの連続として経験され、全体の一部として経験されることはありません。時間とは、直線的に経験するものではなく、たっぷりと、終わることなく続く幅、深さ、そして空間を、現在の人間の進化の段階では感知できない次元で経験することです。時間におけるすべての瞬間は(私からすると、存在におけるすべての瞬間は、となりますが)それ自体が意味や意識を包括した精神の核を構成するものであり、目的をもった設計図です。すべての断片的な瞬間はそうなのです。もしもあなたが一瞬に次ぐ一瞬を、直線のみならず、深さと幅と共に、繋いでいったとしたら、そこには時間など存在せず、繋いでいる一瞬の点は、終わりのない創造そのものであり、永遠にそこに存在するものであると感じられるかもしれません。そしてそれを我々は「今という時」と呼んでいます。
現在の人類の進化の段階において、この今という時を、時折経験することは不可能ではありません。少し感じる程度ならできるかもしれませんが、そのためには一層高い意識の状態を獲得しなくてはなりません。今の人類を全体的に見たとき、だいたい幼稚園を卒業したくらいに当たるでしょうか。意識がもう少し成長し、成熟すると、人生は直接的であからさまな断片であるのみならず、次々と展開するより大きな断片の一部かもしれないという、うっすらとした感覚を感知できるようになります。こうなってくると、意識は今という時、を経験する準備に取り掛かることになります。人は、時々かする程度にしかこのような感覚を感知できないかもしれません。それでもその経験は、人生には直接的な経験を超えた何かが存在するのだと、精神に印象付けるのには事足りるのではないでしょうか。
今という時、に身を置くということは完全に現在に身を置くということです。今回のレクチャーの後半では、このことについてお話ししたいと思います。今という永遠に在るときにのみ、あなたは至福に在ることができるのであり、本当の安全や安定を感じ、恐れを抱くことなく確信を持つことができます。しかしこの確信は、希望的観測からくるものではなく、完全に現実的で、しっかりと正当化された内なる確信です。とどまることのない継続的な人生の美しい意味を確信しているということです。形となって顕現する力が一時的に弱まったとしても、人生の意味は止んだりしないのです。この永遠という感覚こそ、本物の至福です。そこに恐れがないとき、代わりにあるのは完全なくつろぎです。「くつろぎ」という言葉は紛らわしくもあり、使うのを躊躇するのですが、人間の言語に限界があるかぎり、使用可能な範囲で最大限を努めたいと思います。私が今話そうとしていることに、少し説明を加えた方がいいかと思います。常に存在している宇宙の至福をすんなりと受け入れることができる性格、その基盤となるのは収縮や緊張を起こすことなく、恐れをまったく抱いていない状態です。この状態とはしかし、受け身であることからはかけ離れており、緊張していない状態とは、軟弱で動きのないこととは違います。恐れのない状態には常に動きがあり、動きの脈の張りの度合いは変動し、オープンさと完全なる受容性を交互に繰り返します。一般的に人々の間では、屈曲という言葉は何かを硬くする、もしくは防衛する姿勢と関連付けられているのではないでしょうか。しかし純度の高い状態から見たとき、硬くすることはすなわち蓄えることでもあり、その蓄えをバネに、創造的な動きが押し出されるのです。蓄え、そして手放すという交互に起こる動きこそが創造であり、魂が全体の創造に加わるのを可能にします。蓄えるときも手放すときも、恐れや防衛がないという意味で、くつろいでいます。宇宙のすべてはうまくいっていると、深いところで知っていることの表れです。
この状態は、計り知れないほどの至福です。人類のハートの深くでは、至福の状態を心から望む、消すことのできない気持ちがあります。人が自らの意識を断片化し、三次元の世界の間違った現実を作り出しているときでも、内側では、永遠の存在としてのより大きな現実や永遠の今という時、と繋がり続けています。本人がこのことに気づいていても、気づいていなくても、人の中で生まれる意識は常に、至福の状態を追い求めます。追い求める気持ちこそが、成長し、探し、先へ進み、自らが創り出している困難を、トンネルを通過するようにくぐり抜け、そして経験するよう動機づけるのです。そうすることによって障害から自らを解き放つのです。皆さんご存知のように、これには強い動機が必要です。なぜなら、熱望に向けて前進し、夢を追い求めたいという気持ちと、ハートでは分かっているにもかかわらず抵抗し諦めてしまう気持ちとの間に起こる葛藤の中で、あなたはいつも揺れ動くからです。この葛藤は、すべての魂が経験しなければならない非常に大切なものです。進化が進む過程では、葛藤に打ち勝てる時期もあります。そんなときは、一時的な不快や困難が起こる可能性を知っていても、前進しようと決意することができます。もちろん、このような不快や困難は幻でしかありませんし、あなたが内なる定めに従うと決意したとしても、またそうでなくても、幻はどちらにしても存在し、形となってあなたの前に現れる必要があるのです。困難を本当の意味で理解し、そして解決する唯一の方法は、熱望に向けて進むことです。こんな時であっても、困難を取り除こうと、それを否定する気持ちは一時的にではありますが起こります。真実の自己へと内向すると決めたことで、困難が生じたように映るからです。しかしこれもまた、幻です。
至福を追い求める気持ちは、原動力です。この原動力は、動きと停滞、現実と幻想、満足と絶望という内なる葛藤の重きを、動き、現実、そして満足の方へと動かすものです。これは遅かれ早かれ起こらなければなりません。しかし、人というものは、近道を求める気持ちも持っているものです。時には、対価を支払うことなく、憧れに達したときの満足を手に入れたいと望むものです。ここで言う対価とは、探し、発見する労力であり、学び、成長し、変化し、自己を浄化し、自分自身が創り出してきた痛みや悪のすべてをくぐり抜けることです。
さてここで、近道にはどのようなものがあるのか、簡単に見ていきましょう。複数の可能性があると思いますので、いくつか挙げてみましょう。性的な行為は、このような近道になり得ます。性的な経験では、現在という至福の状態が最も感じられやすいのですが、この状態が持続することは大変稀です。セクシュアリティが問題や困難、現実の好ましくない側面を回避する手段である場合、ハートが知っている宇宙の至福と一見似通ったまがい物に手を伸ばす、安上りな方法になってしまいます。すべてのごまかしに言えることですが、この方法はうまくはいきません。せいぜい短時間で非現実的な至福となるだけです。誠実な成長を経て永遠の今、宇宙の至福の状態に到達したとき、性的な結合とは、ふたつの存在が最も深く、正直な状態で関係し合い、お互いの霊性と感情、そして精神と肉体の融合を成した結果の表現に他なりません。このような至福は、今という時、の前兆となりえます。もしくは、今という時、の一時的な経験になるかもしれません。
今という時、を模索するとき、中でもあからさまに間違っているのはドラッグの使用です。ドラッグがもたらす経験は、身体的かつ三次元的な境界線を取り去り、分厚いカーテンの裏に隠された現実を暴きます。しかし、この暴露された経験と互換性のある意識の状態がしっかりと獲得できていない場合、代償は高くつくことでしょう。言うまでもありませんね。もちろん、同じことがアルコールにも言えます。こういったことにはいつでも、人格のふたつの側面が関わっているのです。ひとつには、人格のどこかで今でも「記憶」し覚えている、至福の状態を求めてやまない衝動があります。また逆に、至福を獲得するために行わなければならない取り組みに対する抵抗があります。ふたつの間に妥協点を見つけようと、今という時、を間違った形で手に入れようとしているのです。こうなると、至福の状態から醒めたときの痛みは大きくなり、日常的で物理的な意識の状態は必要以上に暗いものになってしまいます。聖書では、一回限りの出来事の象徴として堕天使が登場します。しかし、実際にはこれは時間軸から外れた現実を表しているのであり、霊的な法則を犯し、意識が分断化してしまうときにはいつでも起こり得ることなのです。つまり、間違った形で今という時、を追い求めることは、対価の支払いなく結果を手に入れようとしているという意味で、霊的な法則を犯しているということです。準備ができていないのに天国に在りたいと無理強いすることは、人格を地獄へと突き落とすことになります。
至福の状態を求める際に人がよく行うものに、瞑想があります。瞑想には長時間の集中の練習と、時にはかなり禁欲的な習慣も必要とされ、至福の経験に備えて人格を作り上げるのに一見、誠実な方法だと思われるかもしれません。しかしこれもまた、幻だということがよくあります。長期に渡る断食、集中の練習、チャンティングや、瞑想的なフレーズを繰り返すことによる自己催眠は、実際に多少なりとも結果をもたらします。カーテンに隠されたより大きな世界を暴く経験を、一時的には与えてくれるかもしれません。しかし、このような習慣を自己の探求や自己浄化、捻じれを深くから変化させることなどの代替とするならば、瞑想も本質的には先に触れたいくつかの例と似た形で、酷く破壊的な逃げの方法となることでしょう。機械的に行われる瞑想の練習は、幻影的なものです。今という時は、ゆっくりと時間をかけて獲得しなければならず、そうでなければ新たに獲た知覚がしっかりと定着することはありません。苦なく持続させることもできない何かに、無理矢理たくさんのエネルギーを注ぐことになってしまいます。そしてこういった新しい知覚は、そのうちにあなたの中の未発達な部分から乖離し、結局は意識の外へと押しやられてしまい、それは結果として非常に大きな矛盾となるのです。至福の今という時の感覚は、純粋な統一の結果です。もしも近道を探し、不誠実な形でこの統一を獲得したならば、統一どころかより深刻な分離が起きてしまいます。実際、人工的に引き起こされた至福の今という時の感覚を一時的に味わう前の方が、人格の分離の程度は軽いと言えます。機械的な練習や習慣も、こういったことに含まれます。
至福の今という時の感覚を手にする方法はひとつしかありません。無限の次元の現実の啓示を獲るための、本当に安全で保障された方法はひとつしかありません。それは、今あなたが直面している課題にしっかりと取り組むことです。この方法のみが、至福の今という時の感覚を獲る助けとなります。あなた自身の痛みを感じることを学ばなければなりません。幻の痛み、罪悪感の痛み、未発達な部分の痛み。究極的には、そこにのみ、価値があるのです。
今という時の感覚を見失ったとき、あなたの状態の本質はどのようなものでしょうか。それは、今という時に気づいていない状態であり、霊的な現実から切り離されている状態です。一見逆説的な物言いをさせていただくならば、あなた自身が創り上げた、一時的で幻影的な現実を、現実そのものだと捉えている状態です。
今回のレクチャーで最も重要な部分に入っていきたいと思います。先ほど述べましたが、今という時、に身を置くということは、この今という時が何を意味しているかに気づくことであり、ただ気づくのではなく、強くその意味を意識するということです。今という時から目を逸らそうとするときはいつでも、その意味や、意味に気づいている状態を手放してしまっています。こうなると、その上に重ねる形で、偽りの現実を創り出してしまいます。これは、いくつかの方法で行われます。まずひとつには、永遠という今(時間的にという意味ですが)からいなくなることが挙げられます。過去もしくは未来に身を置き、現在にはいないということです。無限小である現在、にいないということです。人は、今という時に完全には気づかないまま、なんとなく現在に在ることもできるからです。あなたの意識が未来に置かれているとき、常に一分先を行っているわけです。一分先、一時間先、次の日、もしくはそれよりもさらに遠い夢の世界にいるかもしれません。いつの日か、魔法が起こって、現実になるであろう、もしくは現実になるべき、現実になり得る夢の世界です。しかしこれではあなたが大切にしている未来に向かって、実際に励む際のヒントを与えてくれるかもしれない今という時を無視し、通り過ぎることになります。もしくは、あなたを支配している過去の何かに、無意識にしがみつこうとするかもしれません。
どちらにしても、パスワークでのあなたの取り組みはこの両方に触れていきます。多くの場合取り組みを進めていくにつれ、暗中模索の骨折りをもってしても、いまだに自分が過去に影響されていることに気づいていくことでしょう。例えば、現在起こっているあることに、まだ過去にあるかのごとく反応します。過去に起こった出来事と現在起こっていることは同じだと、歪んだ視点から実際にそう信じているのです。そしてこの信念は、はっきりしたものでもありません。もしそうだったならば、もう少し今という時に近づいているはずだからです。今あなたが起こしている反応が、適切だといまだに信じていること自体、どれだけ今という時から自分が離れているかを示しています。過去から現在に至るまでのこういった上書きの深刻さは、考えている以上に大きなものなのですよ。これまでに、自分のなかでいくつかには気づいていると思います。このような「時間を超えた投影」は、あなたが成長していくに従って、より多く気づくようになることでしょう。現行の状況に基づく自由な行動、とあなたが捉えがちなものは、自由に選択された行動などではまったくなく、それが当初適切であったかそうでなかったかに関わらず、過去にあなたがとった行動や反応に基づいているのです。何にせよ、今は、あなたの行動や反応は適切ではなく、現実を歪んだものにしてしまいます。そして結果的に、真実の今との繋がりを見えいものにする偽りの現実へと方向付けてしまいます。
同様に、自分の人生を客観的に眺めてみましょう。経験というものがどれだけ、あなたの抱く望みや未来へと臨む姿勢に基づいているのかが分かることでしょう。どれだけ現在を、本当の意味で深く経験できていないかということです。あたかも過去と未来の両方から、あなたは引き裂かれ、今という時を見失っているかのようです。ひどい話ですが、実際に今起こっていることを完全に理解することができていない、このことこそが時間を超えた幻想を創り出すのです。言葉を変えると、偽りの現実、自己認識の低さが断片化や分離を引き起こすのです。
それでも、今という時に在ること、その意味を理解すること、過去や未来に生きないとすることは、一度の意志ある行動でもって頭で決められることではありません。意志はもちろん関わってくるのですが、あなたが目を背け、取り沙汰したくないと思っている世俗的なもろもろに自己認識をもたらす、そのためにこそ向けられるべきです。こうしてはじめて、あなたは真実に生きることができるのであり、現実の感覚を培うことができるのです。そしてその結果、まったく予期せぬときに、逐次的かつ無理なく、時間を超えた感覚が生まれます。あなた自身の真実の探求の副産物としてもたらされるものです。自己を探求し、間接的な結果として、過去は現在ではなくなっていくのです。こうなったとき、あなたは未来を完全に信頼することができるようになるでしょう。なぜなら、未来とは現在の延長でしかないと分かるからです。完全な真実という今に在るとき、完全に信頼に値する未来(あなた方の言葉にすると)を築くことになります。希望をもてあそぶようにして未来を扱う必要はないのです。現在から逃れる必要はないわけですから。こうなると、永遠の今、というものがまた新たな現実味を帯び始めます。
すべての今という時は、あなたの存在の在りかであり、あなたが呼吸をし、考え、意志を持ち、感じ、経験する座です。今という時を、見失ってしまうもうひとつの理由を挙げてみましょう。パスワークの取り組みに時間と労力を割いてきたみなさんにとっては親近感があるものではないかと思います。物質界においてでさえも、内なる自己の発見を試みる心理学の学校では、わりとよく知られているのですが、宇宙や創造的なプロセスとは無関係なもののようです。人々の間では一般的な概念として受け入れられているようですが、今我々が話している内容からは程遠いものであると言わざるを得ないでしょう。それでも、今回取り上げているプロセスと強い関係があるとも言えます。さて、どのようなものなのでしょう。①転移 ②投影 ③否認です。みなさんのさらなる自己探求の糧になるよう、それぞれ簡単に例を挙げていきたいと思います。
たとえば、あなたが痛みを抱え、苦しんでいるとしましょう。これがどれだけの苦しみだかご存知ですね。そしてここで今という時、が見失われるわけですが、たとえば転移によって見失うとしましょう。あなたが心から愛しているあるひとが、あなたを傷つけ、怒らせたとします。あなたは相手の機嫌を損ねたくはないと思っています。自分の感情を表してしまうと、あなたがとても必要としていて、依存しているその人を失う結果を招きかねませんし、避けたいと願っている痛みを引き起こしてしまいます。とはいえ、その人はあなたを傷つけ、あなたを怒らせているのです。それでも、いまだに諦めず、残しておきたい幻の泡を壊してしまってはいけないので、痛みを自認することもできません。ここでいう幻とは、愛しいその人は完璧なはずであり、あなたを傷つけるようなことは絶対にしないといったことかもしれません。実際のところ、幻の存在目的は第一に不快を避ける、というもので、今回の例では対立を避けるということです。第二の目的は、愛する人を失うリスクを避けることです。幻を築くことで、すべてのリスクや不安、痛みを避けたいのです。幻の現実を維持したいがために、相当なエネルギーを注ぎ込んでいるのですが、それでもやはり、痛みと怒りの経験はまさに本物であり、捨て去る必要のあるものです。実際、幻のもうひとつの側面とは、痛みや怒りを認めずにおけば「きっと、ただ、どこかへ消えてしまうだろう」というものなのではないでしょうか。この問題の「解決」の原理は(大抵あまりに自動的に起こるので、気づきもしないのですが)愛する大切な人に抱いている感情を、また何か別の問題が起きたときに、他の人に被せるというものです。あなたにとって問題を被せることにした人は、愛する大切な人ほどには価値はなく、この人の怒りや拒絶、仕返しはそれほど大きな危険を伴わないのです。もしくは、この人は自分を愛してくれ、我慢してくれ、理解してくれると安心しきっているために、身の危険を案ずることなく相手に負荷をかけられるのです。蓄積し、動かすことが困難だったエネルギーは、あなたにとってかけがえのない人物との関係を危険にさらすことなく、捌け口を見つけ、問題は「解決」されたことになります。これを私は転移と呼んでいます。このような抜け目のない不誠実さは罪悪感を生み出しますが、それとはまた別に転移は偽りの現実をも創り出してしまいます。現実とは何の関係もない、自らが創り上げた世界に生きることになり、毎瞬間に存在する今という時に、まったく気づけなくなってしまいます。自分自身を再度立て直すまでは、今という時が持つ意味やメッセージを理解できません。
今日ここにいらっしゃる多くの方々は、じゅうぶんに各々の道を前進しています。ですから、自分が最も望んでいない何か、不誠実で、真実を侵害するくだらない態度が自分の中にあり、その態度としっかりと対峙したとき、至福の状態に至るのだとよくご存知なのではないかと思います。そのとき、内なる態度が必ずしも変容している必要はなく、単に正直に、問題に向き合うことによって至福の状態に至るのです。なぜならこのようなとき、あなたは自分自身の不誠実さやずる賢さ、ネガティブな側面という今という時、に身を置いているのであり、そうすることで至福が起こるのです。転移は混沌と混乱を巻き起こします。現実が何であるか、まったく分からなくなってしまいます。終わりなく続いている内なる経験から、完全に切り離されてしまいます。つまり、転移は恐れと断片化を引き起こします。さきほど例に挙げたようなことは、誰の人生にも頻出するもので、今あなたが気づいているよりも遥かに深刻なのです。自分の中にある転移を部分的には気づいているとは思いますが、ここにいる全員の中で今も起こっていることだとは、思いもよらないのではないでしょうか。人はあまりにも頻繁に、何かをある人からまた別の人へと置き換えてしまいます。これは状況に対しても当てはまります。なかには、実際の状況に取り組むことが面倒で抵抗するのが癖になっている場合もあり、そんなときは疑似の状況にひとつの問題があたかも突然姿を現わしたかのように映ります。転移に終止符を打ち、自分は実際には何をしているのか、そしてどの程度でそれをしているのかを理解しようと決心しないかぎり、永遠に変化し続け、更新し続け、前進し続ける今という時に至ろうなどは問題外です。自分がどのように転移をしているのか掴んでいないという意識の低さは、転移の問題をより深刻にしてしまいます。自動的に起こる転移という問題を、今自分は抱えているのだと分かった瞬間に、問題は消えていることでしょう。
次に投影を見てみましょう。これについては皆さん、すこし馴染みがあるのではないでしょうか。とはいえ、自分の中にある何かから目を逸らせるために、他者に反応している自分に気づいていないことはよくあります。実際に相手の特性が好ましくない場合もありますが、まったくそうではない場合もあります。どちらにしても、大した違いではありません。重要なのは、本来ならば自分自身と直面し、自らの問題と向かい合うことに注がれるべきエネルギーが、他者に怒りや苛立ちを向けることに使われているということなのです。なぜこうするのでしょう。自分に対して抱いている幻想を、維持したいからです。すなわち、相手の中に見て取っている問題は、自分の中にはないと思い続けたいのです。
否認は、もうその名のとおりだと思います。自分が経験したくないと思っていることを、転移も投影もせず、単にそれが存在すること自体を否定しようという試みです。過去に影響されること、未来に向かって奮闘すること、転移、投影、そして否認。このすべては、今という時、から逃れようとする試みであり、少しでも不快なものはすべて、避けることができるとする幻想です。真実に基づかない現実を、無理に作り上げているのです。これは、本質的には創造への裏切りです。このようなとき、創り出されているのはむしろ、より深刻な断片化であり、精神の核である今という時の壮麗な意味や全体性との繋がりからのさらなる孤立です。
この美しき冒険に携わっている人々の愛が、あなた方ひとりひとりに注がれています。この祝福に身を委ねるとき、あなたのハートと、より深くにあるあなたの精神に触れ、祝福は倍増することでしょう。あなた自身の最奥の神となりなさい。
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