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No.216 転生のプロセスと人生の課題との間の繋がり

Pathwork Guide Lecture No. 216
UNEDITED版
1973年12月12日


転生のプロセスと人生の課題との間の繋がり
CONNECTION BETWEEN THE INCARNATORY PROCESSES AND THE LIFE TASK


 ようこそ、愛する友人の皆さん。あなた方は皆、神聖なる意識の安全な雲の中に浮かんでおり、そのことを知り、感じ、そのように経験するかどうかに関わらず、神聖な愛によって育まれています。皆さんの全体的な意識はそれを知っています。皆さんの断片的な意識はそれを知りません。これが真実であると知っていられるよう、内なる存在と繋がるようにしてください。

 今夜のレクチャーでは、転生のプロセスについて取り上げます。パス(道)における成長のこの時期に、皆さんが得ている一定の認識と洞察を結びつける為にはこのことの理解が必要です。繰り返しになりますが、まずは、以前に異なる文脈でお話しした創造の特定の側面と様相について要約する必要があります。創造とは、ボイド(虚空)を生命と存在で満たす、神の現実における試みです。このテーマ全体を扱うレクチャーがありましたね。テーマを十分に理解できるよう、レクチャーを再読されることをお勧めします。完全なる意識が「空間(スペース)」の片隅や割れ目を広げ、満たした結果が断片化された意識です。より良い言葉がないので、「空間(スペース)」という言葉を使用しています。

 人間の構造そのものが、この全体図をよく表しています。内的には、あなたの核の深奥は、終わりのないエッセンスです。このエッセンスは、永遠の生命、永遠の現実、永遠の美しさ、制限のない叡智と愛ですが、外的な意識はそれと知らずに繋がっています。外的な意識はこの事実を無視し、それから切り離されているかのようです。あなたは孤立した「意識の一部」のようになり、このことが人生をとても恐ろしいように感じさせるのです。従って、外的意識は盲目で手探りしています。全体的な自己との繋がりに戻る方法を求めなければなりません。この繋がりは実際には壊れていません。外的な意識において、この繋がりへの気づきを得なければなりません。制限された外的な意識の観点からは、壊れたように見えるだけなのです。

 ですから、真の自己と繋がり、真のアイデンティティに気づくことは、意識と切り離されたように見える断片化した側面にとっての課題です。大抵これは、多くの時間と労力を要する手探り、探索、そしてマインドそのものが自らの狭い制限を広げようとする試みによって実現します。マインドは、この広がりの可能性を持っています。何故なら、それは切り離された状態であっても、神の現実におけるあらゆる側面を含んでいるからです。これは、どっちを向くかの問題なのです。意志がどちらに向かうのか。いかなる瞬間にも、意志がどの思考を選ぶのかという問題です。友人の皆さん、これは重要な鍵です。後から、このレクチャーで又戻りましょう。

 これらの断片化された意識の側面、繋がりを失ったように見える神聖な光の側面は、空間を浮遊しています。これらの側面は人格となり、一見切り離されているように見えるが為に問題を進展させます。問題という言葉は、現代の語彙を踏まえて使っています。

 歴史的に、時代によっては異なる言葉が使われました。例えば、罪深さ等です。どのような言葉を選ぶにせよ、意識の断片的な側面は、感情、理解、知識等の多くのレベルで浄化を必要としています。気づきを最大限に広げる必要があります。それはつまり、繋がりは存在し、これまでもこれからも存在することに気づくことです。

 全体的である実体、完全な存在とは、その神聖なる本質を完全に気づいており、神聖な叡智とエネルギーを完全に所有するものです。あなた方は皆、全体的な存在ですが、同一化している顕在意識の側面は、皆さんの全体である実体、完全な存在が再統合しようとしている一側面なのです。それは、断片化された顕在意識の側面が、自らを全体的な意識の本質と適合させた時にのみ可能となります。

 生命は、より広い意味で神聖なる意識を広げ、見たところ切り離されている側面と再び結びつくプロセスに携わっています。そのプロセスは、神聖なる計画、進化の計画、救済の計画とよく呼ばれています。このプロセスを示す用語は数多くあります。これは進行中のプロセスであり、絶え間ない動きです。それは広がると同時に自らを再統合する、絶え間なく流れるエネルギーです。この広がりの中では時々、繋がりが失われたように見えます。この動きは、広がりと再統合の為に源に「戻る」動きであり、この行きつ戻りつの流れの中で永遠に前進し続けます。源への再統合の動きは、広がりのプロセスを辿ります。その間、統合された物質は拡大されます。視覚化してみてください。広がっては源に戻り、広がっては戻って、その度に統合された物質はより広くなり、永遠に広がります。言い換えれば、これは偉大なる計画なのです。

 皆さんの人間としての意識状態により適したより小さな理解の枠組で、このことはどのように見えるでしょう?繰り返される転生のサイクルを理解しやすくなるように説明しましょう。皆さんはこれまで、転生について、また、受肉に取りかかる前に立てる計画について、多くの説明を耳にしてきましたね。特定の課題を満たす為に、自らと契約を結ぶという話を聞いたことがあるでしょう。この計画はスピリットの世界で行われます。このことにつき、少し違った角度からお話ししたいと思います。

 肉体を持たずに自らの存在全体に気づいている時、あなたは内側に放置され、癒しと浄化を必要とする側面があることも認識しています。このようにも言えます。新しい(実際には非常に古い)知識を手に入れる再教育のプロセスを必要としているということです。これは、感情を本質的な純粋なる愛へと浄化することと同じです。さて、一方では広がりのプロセス、他方では再統合のプロセスを辿る為に、浄化される側面は、いわば、自らの状態に見合う意識領域に(適切な言葉が見つからないのですが)「送り出される」ことになります。それは、皆さんが意識的な存在として知っている、生命の物質的レベルです。この存在領域は、切り離された側面、つまり人格の制限された意識状態の表現であり、このより無知で気づきの低い状態では生命の振動する機能は全て著しく低下します。エネルギーの流れは硬直し、物や人を固定します。流れは目に見えなくなります。実体そのものも同様です。実体は目に見えなくなり、そのエッセンスの著しく凝縮された形態が唯一の現実として現れます。

 この存在の状態でも、私が説明したプロセスは継続できます。人格がその振動する機能と知覚力や気づきの力をより洗練するにつれて、粗大な物質は益々洗練されます。つまり、広大な全体計画における特定の課題を満たす為に、転生が選択されるのです。断片化された側面には、共通する特定の基本状態があります。神なる完全性が歪曲され、その顕現が一時的に劣った表現に変わると、一見孤立しているように見える全ての人格において、歪曲、誤認、苦しみ、暗闇、断絶が共通の運命となるようです。組合せは様々で、発達段階も様々ですが、その無数の組合せとその歪みのバージョン全てには、神の物質に当てはまる基本要素があります。言い換えれば、ある浄化された存在は別の浄化された存在とは全く異なるかも知れず、それぞれが神性の異なる側面を表しています。しかし、愛、叡智、美しさ等、不変の基本的な共通項があります。同じ原理が、浄化されていない人格にも当てはまります。各存在は、異なる性質を持ちます。それが、洗練されねばならない断片化された側面と異なる方法で向き合います。転生は、専門的で高度に発達した存在と共に、全体である実体によって考えられます。計画は慎重に描かれています。

 肉体で起こることには、全ての人に共通なひとつの要素があります。エッセンスとの統一を見つけることです。その課題がどれだけ違ったとしても、必要に準じて、この目標は全ての人に共通します。エッセンスとの統一は、その存在が既に浄化されている部分でも起こり得ます。しかし勿論、それは課題がある部分ではありません。課題は常に、人格が未だエッセンスから分離している所にあります。そうすると、課題を果たす為に、既に浄化された側面で未浄化の部分を助けるかどうかの決定は、意識的なマインド次第となります。この決定は、意識的なエゴによってなされるべきです。ハイヤーセルフはこのことを意識的なマインドに強制はできないし、そうはしません。これは全ての霊的法則に反するでしょう。神聖なる自己との間に既に存在して機能している繋がりに注目し、それを問題ある側面、その盲点に集中させずして、この課題が果たされることはありません。このことについて、私はこれまでいくつかの形で話してきました。今日のレクチャーでは、人間の立場からの誕生と死に関する繋がりのプロセスから話したいと思います。

 まずは、この一連の流れの中で死のプロセスを取り上げましょう。誕生は、皆さんが選ぶ見方ではなく、死の連続として見る方が分かりやすいでしょう。人間は誕生を始まりと捉え、死を終わりとして捉えます。従って、この切り離された見方からすると、死から始まることは馬鹿げて見えるかもしれません。しかし、誕生を死へのひと続きとして見る、むしろ、死へと定められた物として見た時にのみ、誕生は適切に理解されることが分かるでしょう。表面的な状況について話しているのではありません。死の在り方に反映される、前述した人生の課題の達成のことを言っています。

 死のプロセスには様々な形があり、人格の課題の達成に左右されます。内なる存在が外側の人格に広がると、その課題は達成されます。この場合、人間としての人格は十分に人生を生き、神聖なる存在の流体やエネルギーの流れは徐々に引いていきます。エネルギーは後退し、生命力は現実の、永遠の、無限の世界、創造の無限の空間へと内側に引き込まれていきます。これは肉体に関する限り、ゆっくりと遅い、有機的な劣化を引き起こします。完全な充実が達成された時、その死のプロセスはとても有機的で、とても自然なものであり、恐怖も痛みもありません。その人格は、全生命の連続体の非常に強い感覚を発展させました。従って、苦しみや痛みの原因となる収縮や恐れはありません。計画された契約の課題を果たす魂にとって、生きることは有機的で意味のあるプロセスです。死ぬことと肉体の死は、同様に意味があります。それは解放と展開のもうひとつのステップにすぎません。それはトラウマではありません。死が訪れる時、それは恐れられるものではありません。人生の困難、つまりはオープンになること、そしてマインドを他の方向に向けることに対して抵抗する人格の頑固さの結果である、意味のない困難からの最終的な脱出として望まれるものでもありません。真に満たされた人生では、困難は次第に踏み石として扱われるようになり、更なる新しい解放の扉となり、ついには困難としては経験されなくなります。ですから、恐れや逃げ出したいという希望的願望が人格のエネルギーシステムを占領していなければ、内的存在と外的存在の統一性は、意識のあらゆる側面が重要な役割を果たす、偉大なる計画の更なる完成に向けて有機的に努力します。肉体的および生物的な生命力が肉体から退くにつれて、より充実した生命だけが出現します。しかし、友人の皆さん、これは人格が内なる存在に整合し、その導きに従うことを学び、浄化されるべき魂の側面に集中した結果として、内なる存在との調和のみによって起こることです。その時初めて、肉体という乗物との絆を断ち切る時期や方法も含めて、内なる存在と外的存在が全てにおいて完全に一致します。そのような場合、生命力が肉体から退くにつれて、より多くの充実した生命だけが起こり、実体は三次元の現実の束縛に妨げられることなく、栄光と自由の内に再び広がることができます。この気づきは、顕在化した人格の内にありますが、これはあなたという完全な存在のひとつの側面に過ぎません。繰り返しますが、これは課題の完全な達成の理想的な例に当てはまります。この課題の完全達成の道を歩む皆さんの内なる存在が、自らやろうと志したことをやり遂げて時間終了を決めるより前に、みなさんがその意識と繋がりの状態に到達できるよう、十分にやり遂げられることを願っています。

 このことに関連して、自らの課題達成への完全なコミットメントを妨げる深い誤解と歪みを内側に持っている人々がいることをここでお話ししたいと思います。それは、本当に問題を解決し、闇をなくし、幸福で満たされた状態になるのなら、自分は死ななければならないという考えです。勿論、そのような人の死の見方は私が説明したような、浄化や充実や繋がりの自然な副産物であるべき、調和のとれた生産的で有意義なプロセスには全く当てはまりません。死ぬことは、切り離された不調和なプロセスとして恐れられています。更に、問題が解決した瞬間に人生が終わると考えるのは、勿論全くの誤りです。全く逆なのです。実際、問題が解決して初めて、課題達成の新たな局面が始まります。何故なら、どのような人格も自らが学んだことから、他者が恩恵を受けることなく人生を終わることはできないからです。ニーズ、衝動、そして与えることへのロンギングは、魂の不可欠な部分であり、内なる存在から来るものです。このように、魂の中の雲の大部分が解消された後に展開される完全な人生は課題達成の一部です。ですから友人たちよ、魂の苦しみと不満があなた方を肉体に結びつける唯一の要因だと考えて自らの進歩をためらわないでください。この考えは、それ程は意識的で明確ではないかもしれませんが、それでも漠然と存在しています。

 あなたの内なる真の自己との繋がりとその気づきは、人生を輝かしいものにするに従って、死も輝かしいものとして経験されるでしょう。そのような意識状態では、死を恐れることはないので、人生をも恐れないものにできます。このような恐れのなさは、それぞれの人間の魂の究極の発達なのです。これが、あなたが到達しようとしているゴールです。

 しかしここで、死のプロセスに関して他の様々な可能性を見ていきましょう。人生で自らの課題を完全に満たさない人は、生涯を通じて漠然としたロンギング、引っかかり、置き場のない不満を感じるに違いありません。これは何かが間違っているサインとして常に心に留めるべきであり、意識的なマインドは意図的に探し始めるべきです。ちなみに、このようなことは、基本的に課題達成の道にコミットしている人々にも断続的に現れます。魂から出てくる新しい段階があり、意識的なマインドは最初それを理解し、認識するのに苦労します。漠然とした不満と不安は、何かが見逃されているという明確なサインです。完全な意味が理解され、サインに耳が傾けられた時にのみ、人格は深い満足、内なる平和、喜び、安全の状態に再び身を置きます。しかし、真の方向性を求めることを生涯を通じて拒む人は、外側の意識で内なる存在からのサインと囁きを感じるであろうし、感じねばなりません。人格はこの声を押し潰し、それから逃げようとし、内なる声に耳を傾けないよう多くの表面的な騒音や動きを生み出します。漠然とした不満はしばしば神経症であるかのように受け取られ、人生の方向を変えることなく、そのような経験がないことが感情的な健康を示すかのように受け取られます。現実には、神経症が生み出されるのは、内なる自己との繋がりが確立できなかった結果、魂が果たすべき契約を果たしていない結果なのです。

 誤解されやすいもうひとつの重要な点に注目して頂きたいと思います。人生の課題の完全達成は、必ずしも高次の発達状態を条件としている訳ではありません。必ずしもそうとは限らないのです。肉体という乗物に具現化された断片的な人格的側面が、高度に発達していない可能性は大いにあります。とはいえ、その人格はその課題を完全に果たします。勿論、その課題は負担が少なく、そのような人間の可能性に見合ったものです。同時に、「より簡単」であるという言い方は、より高度な発達をした人にとってより負荷の重い課題がそうであるように、どの課題も特定の個人にとって困難であるという点では相対的な真実であるに過ぎません。課題達成を図る目安は、内なる平和と恐れのなさ、そして有機的な生と死の在り方です。一方、より高度に発達しているにも関わらず、自分自身と自らの課題を成長させ達成させる可能性に遅れをとっている人もいるかもしれません。従って、その人は平和ではありません。その人は恐れの中にいて、死は私が説明した有機的なプロセスではないでしょう。ですから、友人の皆さん、その課題の達成、有機的な生と死、繋がり、内なる平和は、必ずしもより高次の発達の結果ではないことを理解してください。より高く発達した人ほど、魂の散逸した側面を結びつけるのにより困難を抱えるものです。従って、その苦闘は時々非常に激しいものになるかもしれません。また、あまり発達していない人は、内なる声との繋がりを意識的には認識しません。そのような人の場合には、それはより本能的な現象となります。

 パスワークやそれに類似する道を歩んでおり、真実とコミットし、自己と向き合い、自己浄化にコミットする人、最も困難で瞬間的に痛みを伴うと思われることに直面する為に、あらゆる防衛手段や偽装手段を放棄することに全力を傾ける人、自らを避ける為に他者の現実的または明白な過ちに集注する誘惑に陥らない選択をする人、人生における他のあらゆる報酬よりも先んじて、それを超えるだけ自らの成長にコミットする人は誰でも、外的にも内的にもあらゆる充実をもたらす繋がりを持つことになるし、そうでなければなりません。

 説明の為に、死のプロセスについて、いくつかの分類をしましょう。前述した理想的なケースに加えて、内的自己と外的自己の繋がりがまだ機能していない場合に発生する他の可能性があります。

 外的自己と内的自己との間、高次の自己と外側のエゴの人格との間、神聖なる自己の意志と意識的なマインドの意志との間に分離がある場合に死が訪れるとどうなるでしょう?ここでも又、いくつかの可能性が存在します。例えば、人格が内的な神聖なる意識の流入、ガイダンス、サインに耳を傾けることを頑なに拒否し、最も楽な方向に流されるに甘んじてそのことを合理化する場合、外側の人格は、自らが生まれて来た理由であるその課題を果たす可能性から益々遠ざかります。誤った方向への一連の選択によって轍はとても深くなっている為、ある地点に到達した後、その足取りを戻ることは殆ど不可能になります。ネガティブな創造プロセスは、繰り返される精神の核が含まれる螺旋状の設定を動かし、それぞれがエネルギーの力を解き放ちます。その勢いがある地点を超えて進むと、肉体の中にいる間にそのネガティブな創造を解消する為に求められるエネルギーと努力が、乗物(肉体)を変える時、つまり、異なる「舞台設定」が選ばれる時に必要となるエネルギーや努力を遥かに上回ることがあります。友人の皆さん、注意して頂きたいのは、これが常に真実であるという訳ではありません。人間的に高年齢であっても、かなり長い間深く刻まれた轍を変えられる場合も十分にあります。既に戻ることができない地点に到達したのかそうでないのかは、意識的なマインドでは判断できません。より深い神聖なるマインドだけが判断できます。確かなことはひとつです。遠くに行く程、戻るのは難しくなります。考えられる全ての誤解を避ける為に言っておきます。そのような戻れない地点に到達した者は、このような道(パスワーク)に近寄ろうとさえしないでしょう。ですから、単にその時に自分が深い葛藤の中にいるとか、一時的な絶望の中にいるというだけで、自分がその中のひとりかもしれないなどと思わないでください。そのような現象は、いずれにせよそこにあり、解消されるために表面に出て来る必要のあるものを引き出しているに過ぎません。それは課題達成の一部なのです。パスワークやそれに類似するような道の周囲にいる人は誰でも、ネガティブな精神の核の螺旋状の構成を変える可能性を持っています。

 その人が計画から大きく逸れた場合、その全体的な存在が人格の為に意図した新しい方向性、新しい螺旋形を確立することは不可能となります。内的存在は、そこで死の決断をするかもしれません。ハイヤーセルフは、既成の方向で進み続けることは無駄であり、その苦しみに意味がなく、断片化された人格が最初からやり直す方が良いことを知ります。そのような場合、死はその顕現において有機的ではありませんが、特定の状況下においては意味があり、従って、より大きな文脈においては有機的なのです。その顕現において有機的ではないと言ったのは、突然の事故や病気、苦しみを伴う進行の遅い疾患で死が起こる可能性があること、そして何よりも、意識的なマインドが内的な意志から完全に切り離されている場合があることを意味します。意識的なマインドは内なる決定と戦い、理解していない可能性があり、それ自身の内的傾向に対して収縮し、自らを更に分裂させ、分離を広げるかもしれません。恐れと身勝手さが優位になり、内なる声に耳を傾けることを不可能にします。一概に言えるものではありませんが、早過ぎる死、暴力的な死、戦争で死んでいく若者達は、常にではありませんが、しばしばこのカテゴリーに分類されます。しかし、収縮と恐れの中で死が起こると、それがハイヤーセルフの傾向においては有機的であるにも関わらず、無機的な死の顕現となります。このような死に方では、外側の人格は内的自己の決定に全く気づいていない為、死のプロセスが無意味で無作為に思えるので、それは更に困難で痛みを伴うものとなります。その後、外的な意識は死に対して葛藤し、ある特定な状況が優勢になっている状態での最適な解決策として、肉体に留まることではなく、より大きく完全な意識によって死が選ばれたことを知りません。

 そのような状況で、内なる存在が決定したことに対して外側の人格が戦うと、途方もない葛藤が起こります。外側の人格が内なる決定と戦う為にそのエネルギーとその生命力を使うので、その葛藤は老年期にまで続くかもしれません。時には、内なる存在の決定は、外側の人間の意志を故意に上回るかもしれません。その力は勿論、外的な意識が利用できる力よりも無限に大きいものです。しかし、他の状況下では、葛藤が続く可能性もあります。内的自己は、新しい設定を確立する為に、古い設定を中止する方向に向かうかもしれませんが、その力を過剰に働かせることなく、ある程度、外的自己が戦いを一定期間続けることを許可するかもしれません。その理由は、そのような葛藤の苦悩の中で、魂が少なくとも次の場で活かせるような教えを学ぶ可能性があるからでしょう。そのような場合、文字通り、生死をかけた戦いが内側で行われます。あるレベルで、葛藤は死との戦いです。そして別のレベルでは、葛藤は課題達成の為にあります。外側の人が、これまで無視され否定されてきた特定の領域、そもそもその苦痛な葛藤を創り出した領域に完全に集中できるよう、人格の何処に注意と重点を置き、何処にセルフワークの作業が必要とされているのか、内的方向に探究し見つけ出す為にあるのです。最も見つめるべきものを無視するもうひとつの良くある方法は、セルフワークのこの側面を重視しないスピリチュアルな道を求めることです。これは、自らを欺き惑わすには便利な方法です。霊的な知識が得られたり、美しい瞑想に達したり、本物の宇宙的現実の霊的体験が瞬間的に現れたとしても、「霊的成長」は逃避になり得る可能性があるからです。意識的に経験されているかどうかに関わらず、このような経験は本人に最も痛みや不快感や罪悪感を与える領域に対処することなく起こる場合もあります。

 ここでお話ししたい別の可能性がまだあります。これは先程の例とは逆の例です。内的存在が死を決定し、外側の人格がそれを知らず抵抗しているとします。外側の人格は全体として、課題達成、つまりこの物質的な顕現の領域に入る前にその存在が行なった契約の履行の為のあらゆる可能性が活きている非常に有利な方向にあるかもしれません。しかし、その好都合な状況にも関わらず、その外側の人格には、非常に多くの問題や葛藤や抵抗を引き起こす部分があり、生きることを望まない側面があるかもしれません。外側の人格は、その問題の側面に深く巻き込まれているので全体像がぼやけてしまい、好ましい方向を無視して感じていないかもしれません。例えば、外側の人がその頑固さを手放すことを拒否した場合、ワークすべき孤立した領域は不明瞭で恐ろしいままとなり、実際には原因がないにも関わらず、全体的な気分は絶望的になります。「降参」して自己と人生を見るマインドの新しいアプローチを探さないように苦しみを誇張させることが、不正直な「ゲーム」の一部なのかもしれません。その自己持続的な原理は、精神の核を加速度的に高め、人格はついに絶望を真実と信じるようになります。こうして、外側の人は動くことができ、動きのあらゆる可能性があるにも関わらず、自らが動きたくないことに気づきます。真の内的自己、神聖なる自己は、非常に有利な状況を知っており、人生の継続を全面的に支持しています。しかし、外的自己はその人生を故意に破壊し、その最悪の衝動を演じ、その人生の全ての有利な顕現に対して最も破壊的な側面を演じます。

 この場合、人格は自らを断片化し、非常に破壊的な顕現が起こります。極端な場合、これは自殺に繋がる可能性があります。それほど極端ではない場合、それは他のあらゆる種類の否定的および破壊的な顕現に繋がります。これらいずれかの方法で生命が絶たれると、全体としての存在は、次の人生、次の状況を決定します。その状況は、あなたが想像することさえできない厳密な方法で算出されます。細部に至るまで、厳密で複雑な方程式の一部であり、そこでは全ての可能な側面と可能性が考慮され、計算され、全体像と完全に論理的に結びついています。該当する浄化に関わる課題の達成。特定の存在に最適な方法で、他者の助けとなる影響を広げる課題。人生に具現化される存在全体としての特定の資質。最大の危険と落とし穴。どれだけのリスクを冒すか。人生にどの程度の好ましい外的影響と好ましくない外的影響が存在すべきか。(好ましい好ましくないは、必ずしも「快」や「不快」と一致する訳ではありません。)適切な環境、両親、兄弟姉妹、友人、その後の人生での人脈、ひとりの人間からもうひとりの人間への影響やガイダンス、その他、皆さんが想像もできないような多くの変数を考慮して見つける為に、厳密な研究が求められるのです。また、その人格とコンタクトする他の全ての人々も同様に把握され、全ての可能性を考慮に入れねばなりません。それぞれのコンタクトには多くの可能性が残されています。関わる個人は、各々のハイヤーセルフから交流するのだろうか?問題がある領域やローアセルフは互いに影響し合うのだろうか?ハイヤーセルフは、そのガイダンス、インスピレーション、エネルギー、力をどの程度注ぎこむべきか?これが多過ぎれば、人格の側面が乗物に顕現されない可能性があり、意味がなくなってしまいます。現代科学の最も複雑で洗練されたコンピューターも決して、これら全ての詳細を理解することはできないでしょう。偶然に任されるものは何もなく、行き当たりばったりのものなど何もありません。完全な計画と全体図、そして人間の理解を上回る専門知識があります。他の場所でお話しした初期のレクチャーにおいて、私は全体領域または世界は、まさにこのタスクを扱っていると述べました。高度に発達したスピリットの存在はこの分野の専門家であり、存在の管理層はこれらの人生計画を把握することを課題として持っています。

 エネルギー体の流体システムは、自らの内にこの計画を保持しています。それは常に目に見え、利用でき、認識可能です。それに秘密はありません。それは又、大きなエネルギーと磁力を持っています。個人はそれと共に生まれ、人生を通して身に帯びる最も強力な磁場です。未来の具現化、あるいは転生は、恣意的に選ばれるものではないし、そのようには選べません。そのステージは、前回の転生の人生計画の結果として設定されます。どの程度が達成され、やるべき何が残っているか?何が失敗の要因となり、何が適切な達成の要因となったか?更なる挑戦が必要なのは何処か?次のステージは、人生計画によって正確に決定される生と死のプロセスを通して設定されます。未来の具現化の計画は、このレクチャーで概説した生と死のプロセスによって決定されます。時間、場所、状況、ステージの正確な設定は、全体計画に合わせて丹念に計画されねばなりません。そして、その計画はかつての生と死のプロセスの結果であると同時に、誕生のプロセスのステージを設定します。

 全体的な存在から見て、魂の契約の成就の方向から生と死のプロセスが好ましいものであった程度に、皆さんの言葉で言えば「未来の」人生は、あなたという全体的な存在とのより大きな繋がりを生み出します。生命力、神なる流体、あなた自身である全体的な存在の様々なエネルギーの流れはそれに応じて、つまり、計画の達成と実行が行われた程度に具現化される人格に注ぎ込まれることになります。逆に、課題の達成に背を向ける程度に応じて、そして最初は最も困難と思われる所、つまりは最も必要とされている所で内的な繋がりに背を向ける程度に応じて、エネルギーや意識や永遠の生命の流れが注ぎ込まれる橋渡しの部分は弱くなります。そうなると、未来の転生は遥かに困難です。外側の人格は総ての努力をせねばなりません。それは、切り離された状態で自らの力を集め、切り離された場所から橋を架けねばなりません。それは避けられない法なのです。分離された意識は自らの方向性を変える為、制限あるマインドを超越する為に、自らの潜在性を見つけねばならないのです。

 この全てを、私が精神の核について話したレクチャーに適用できます。創造が自らの勢いを得るまで、始まりは始動されねばなりません。外側の人格が故意に向かうべき方向とは逆に進むことで繋がりを弱め続けていた具現化のシリーズのひとつが終わった時、その繋がりは非常に弱くなり、人格は本来の繋がりを全く感じられず、自らを完全に分離した存在だと信じるようになります。これは皆さんにも見慣れた光景でしょう。あなたが知っている多くの人々、そして、この道にいる自分自身でさえ、未だこの形で自らを経験することが良くあります。そうなると、繋がりを再確立し、正しい方向に向かい、黒い点の中で最も困難と思われる場所を探し求める為に必要な努力はより大きなものとなります。しかし、このより大きな努力と善意があればこそ、方向を変えることができるのです。この方向転換でポジティブな力が蓄積され、新しい螺旋の動きと精神の核が爆発し、よりポジティブな顕現、エネルギー、勢いを生み出し始める為、それは徐々に容易になります。従って、神聖なる真理、叡智、パワー、愛の流入は永遠に大きくなります。

 この内なる存在による外側の人格へのエネルギーの注入は、最も困難と思われることをやり遂げようとする意欲に直結します。これは、あなたにとって実にシンプルな尺度です。その尺度に、全ての答えが見つかります。そうすれば、永遠の意識との間に既に顕現している繋がりを使って、まだ閉ざされているマインドをより多くの可能性に対して開くことが可能となります。これをより具体的に見ていきましょう。皆さんは過去の経験から、自らの内側にある困難で身じろぎできない場所にいる時、出口はないと思い込むのがいかに簡単か知っていますね。意識的でも無意識的でも、思考プロセスを通して直接的にでも、あるいは状況での行動や反応の仕方によって間接的にでも、自らに絶望と痛みを引き起こす否定的な解決策しかないと盲目的に思い込んだ瞬間、常に存在する選択肢や可能性に対して内的にも外的にもマインドを閉ざしたことになります。まず、切り離された意識的なマインドは意図的に努力し、他の可能性に備えねばなりません。あなたが利用できる意識的なマインドは、その範囲を広げてより多くのことを見たり、様々な方法で考えたり、現在の制限された範囲を広げられる可能性があります。これが意識的マインドの課題です。これがなければ、目標は達成できません。それが、より大きな意識との繋がりを形成し、あなたの全存在の意識とエネルギーシステムが注ぎ込まれる唯一の方法なのです。友人たちよ、このことの理解はとても重要です。

 流れを変える為に同じく重要なもうひとつの側面は、過去にもお話してきた「同一化」の問題です。憂鬱や悲観に同一化すると、あなたはネガティブな創造を永続させ、意味を持つ全ての良きものからの想像上の分離を強化してしまいます。ネガティブな創造、否定的で精神の核は、あなたがこの絶望を考えたり感じたりしている唯一の存在ではないと知ることを益々困難にします。従って、絶望的になった時、自らの絶望と同一化していると知ることが重要です。自己拒否、罪悪感、自らが悪いと完全に感じている時、自分が今、自らの内で浄化されていない、自らを憎んでいる側面と完全に同一化していると知ることが重要です。それを知った瞬間から、既に大きな違いが生まれます。それから、次のように自問することで次の段階に進むことができます。「別の可能性はないのか?これが本当に私の全てなのだろうか?他の何かでもあるのではないか?」私が言いたいのは、未だ遠くに見える何かではありません。自らの神聖なる自己の現実をまだ経験できずとも、意識的なマインドの中でさえ、あなたは別の何かでもあったりしませんか?未だ試したことがなくても、確かにあなたが試すことができる別の思考回路にマインドを開くだけで、まさにこの状況を別の方法で見られる可能性があります。それはマインドの扉を開くことを意味します。マインドの扉を開くことは、流れを変える上でとても重要なプロセスです。何故なら、断片化された意識の側面は、その本質的な繋がりに気付いていないので、自らの手段で戻る道を見つけなければならないからです。そして、自らの手段、切り離されたマインドの手段を通してのみ、橋を確立できます。そして、橋が益々置かれれば、あなたは自らの永遠なる存在の強力でパワフルなエネルギーが断片化された意識に注ぎ込むことを許せるようになるでしょう。

 大いなる祝福があなた方全員に与えられています。お互いに愛を広げ、愛を与え合い、例え拒絶されたように見えたとしても、お互いを育て合ってください。いつも目に見えやすい訳ではありませんが、感情において常に愛は必要とされています。偉大で素晴らしい祝福が皆さんの中に深く深く入り込み、それぞれの人生を神聖にします。平和の内にありなさい。




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