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Pathwork in Japan
No.217 意識の現象
Pathwork Guide Lecture No. 217
1996年版
1974年1月9日
意識の現象
THE PHENOMENON OF CONSCIOUSNESS
ようこそ、親愛なる皆さん。豊かな流れの中で、皆さんに愛と真実、そして祝福が降り注ぎますように。心のチャンネルを開き、流れを自らの内に取り込みましょう。この講義では、意識の現象についてお話しします。このトピックは人間の心や意識の状態では理解するのが難しいものであり、従って説明するのも困難を極めます。人間の意識の状態は、とても限られた一つの状態でしかありません。ですから、さらに多くの知識を取り込むことにより、その制限の枠組みは取り除かれ、意識をさらに向上させることができるのです。
すべての人間、すべての生物、そしてすべての存在の中に、意識が存在します。二元性という観点から見ると、意識とエネルギーはまるで別の現象であるかのように言われていますが、それは間違った考えです。意識とはエネルギーを生み出すものです。そして、エネルギーはその中に意識のさまざまな側面を含んでいます。これは、普通「エネルギー」といって思い浮かぶ身体的、生物学的、電気的、原子力的なエネルギーのことではありません。ここで意味するのは、思考や感情、意志、態度、信念といったもののエネルギーです。
すべての思考はエネルギーです。みなさんはこのエネルギーを感情として経験することができます。たとえ機械的で、動きのない死んだような思考、不毛で切り離された思考であっても、感情を含まない思考は存在しません。純粋で抽象的な思考は、感情的な要素とは切り離されたもののように見えるかもしれません。けれどもそうではありません。実際のところ、思考が純粋で抽象的なものであればあるほど、感情はそれに比例して生まれてきます。そしてまた、切り離された思考と抽象的な思考とを区別しなければなりません。これらを混同しないように注意してください。切り離された思考とは感情に対する防衛であり、自己の好ましくない側面に対する防衛です。それに対して、抽象的(概念的)な思考とは、高度に統合された霊的な状態の結果として生まれます。しかし、切り離されている思考でさえ感情から分離することは決してありません。つまりそこにはエネルギーを内包しているからです。その下に横たわる感情はおそらく、恐れ、不安、自分の中に存在しているかもしれないことが複雑に絡み合って生まれる懸念、避けるべき願望などです。また、自己嫌悪、皆さんのよく知っている他のさまざまな感情もまた、同時にここに含まれます。
抽象的、観念的な思考の下に横たわる流れによって、私たちは普遍的な法則を理解することができます。それによって大きな平和の感情を内包することとなり、さらなる喜びや祝福が誘発されていくのです。純粋で抽象的、観念的な思考は、このような種類のエネルギー的、感情的な経験を生み出します。思考がより主観的になればなるほど、感情はネガティビティの色を濃くします。主観的な思考とは、個人の欲望や恐れ、つまり利己主義や分離から生み出されるものであり、言うなれば「私」対「他者」の思考なのです。したがって、真実の中にありません。
例として、欲望について説明しましょう。二元性の世界では、欲望が二元性の片方の役割を果たします。霊的な観点から見ると、欲望とは「望ましくないもの」です。したがって、ここに矛盾が生じます。あまりに強すぎる欲望、激しい欲望、主観的な欲望などの欲望は、エゴとその歪みに由来しており、あなたを自分という存在の核から遠ざけてしまいます。ほとんどの場合、このような欲望にはプライドや身勝手さ、恐れ、信頼の欠如が含まれます。そして、それが緊張し収縮したエネルギーシステムを作り出し、生命の力の流れを妨げてしまいます。そのため、霊的な教えでは、神聖なる自己とつながるためには無欲の境地が必要不可欠であると教えていることが多いのです。つまり、それは霊的な自己認識を大事にしている状態です。
そして同時に、もし欲望を持たなければ、拡張もまた存在しないということも真実です。欲望を持たなければ、新しいステージ、新しい認識や意識の状態へと移行することがないのです。もちろん、そこには進化も浄化もありません。暗闇と苦しみの世界から抜け出し、自分自身の道を手探りで見つけるには勇気と忍耐力が必要不可欠ですが、何が私たちを動機づけるのでしょうか?欲望だけが私たちを動機づけることができます。この種の欲望には、より良い状態を成し遂げる可能性や勇気、忍耐、そしてその欲望に身を捧げることへの信頼が含まれています。
欲望についての典型的な二元的混乱の例を挙げてみましょう。欲望を持つことは正しくもあり悪くもあり、自分がどちらの側面を見るかによると考えるとき、二元的混乱が起こります。あれか/これかしかないという状態を越え、正反対の両側面の歪んだ可能性に気づき、真実を見つめることができるとき、二元的な意識の痛みに満ち、混乱し、制限された状態を超越することができるのです。その瞬間、正反対の状態はもはや存在しなくなります。あなたの意識は、より深く、より広がった状態へと変化していき、制限された二元的な状態を越えて、それを理解します。これにより、あなたの人生に多くのことがもたらされるでしょう。良いことばかりとは限りません。それがどんな動機によって、どのように浮かび上がってきたのかによります。欲望は、普遍的な知識へとつながる道に横たわる障害物、つまり自己欺瞞への誘惑を克服するために、人間の心の中に存在します。何度も言いますが、機械的で分離した、うわべだけの抽象的で観念的な概念、無感情や防衛的な考えから生まれる概念には、意味がないのです。
知識や知 – つまりそれが意識ですが、これらはどのようにして無感覚になるのでしょうか?無感覚な意識、おそらくあなたの呼ぶところの「理知的な知識」ですら、感情を含んでいることは間違いありません。その影響で、ある連鎖反応が引き起こされます。たとえこのような「理知的な知識」がばらばらに砕け散るとしても、人生におけるエネルギーや感情という側面から目をそむけるとしても、前に話したように、それでもそこには感情があります。しかし、人間はその感情を認識することができないのです。したがって、あなたがそのことに気づいていないとしても、意識とは常に一つの感情であり、エネルギーの表出した形なのです。最も機械的で切り離されている思考は、あなたの体全体のシステムの中でエネルギーの連鎖反応を引き起こします。自分で考え選択する力は、強いエネルギーの動きと感情的な結果から生まれます。したがって、意識はエネルギーと同一のものなのです。
通常の人間の状態では、最初、ここに真実が含まれているとはとても思えないでしょう。しかし、あなたがより深い状態へと変化したとき、心に抱くすべての知識は明確な感情を含んでいるということがわかってくるはずです。もう一度強調しますが、切り離され乾ききった知識ですら、そこに感情を含んでいるのです。そこに横たわる感情は、恐れでしょう。表面的に表れるエネルギーの状態は「退屈」です。ネガティブなものではありますが、退屈とは一つのエネルギーの状態です。何かが足りないということにも意味がなく、その欠乏している何かは自分に元来備わった本質的な存在でもない、だからどうでもいい、というネガティブな感覚です。それは一時的に放心状態を作り出します。もしあなたが退屈な状態を魂の奥深くに追求するならば、あなたはそこに何らかの「恐れ」を見つけるでしょう。それは、自分自身について、そして自分と宇宙との関係について、今自分が得ることのできるすべての知識への恐れです。
あなたと宇宙との関係は、自分自身を発見し、深め、自己に対してより素直になり、行動化するのをやめるにつれ、はっきりと明白になっていきます。意識の状態はおよそ以下の三つのグループに大別できるようになります。
最初の、最も発達の程度の低い状態は、まるで眠っているような休止状態です。その状態では、自分が存在していることさえ知りません。感じること、動くこと、成長すること、考えることは可能ですが、自己認識の扉から先が、鉱物や植物と同じなのです。自己認識できる状態の下にある有機体は、あらかじめ組み込まれた自己創造のパターンを持っています。そしてそのパターンは、その固有の有機体の状態と常に合致する意義深く目的のある方法です。これらは意識の状態ですが、「自覚」しているという状態とは違います。植物を例にとってみましょう。植物は、それ自身に組み込まれたプログラムに則っています。停滞した意識がこのプログラムに沿ったときにだけ、それに適したサイクルの痕跡を作ることができます。つまり、その有機体が生き、拡張し、死を迎え、生まれ変わり、再度自己に命を与え、自己を表現する - すべてを同じサイクルで続けるのです。これにはとても知的な計画が必要であり、それを創り出すことができるのは意識だけです。そして、「自分だけ」でサイクルを続けることは不可能です。つまり、そのプロセスから切り離されることはないのです。
無生物に見られる明らかな断絶は、一時的に凍りついた意識にすぎません。このことについては、最近お話しした創造のプロセス、サイキックな核の講義の中でも説明しています。ある特定の方向に向かって意識が作られるとき、エネルギーの流れが止まるまで人生は減速し続けます。エネルギーの下の殻に凝縮されたものを、人間の目で知覚することはできません。しかし、意識の状態を拡張させた人間は、表面的には見えないものであっても知覚することができます。このような人々は、はっきりとした意識を持たない無生物の持つ強いエネルギーの側面を明確に観察し、この強いエネルギーの中に含まれる意識、つまり表面上は命を持たない物質に含まれる意識を知覚することもできるのです。
意識が眠った状態でいるとき、その意識は何を「言って」いるのでしょうか?それは「私は知りたくない。自分を知りたくない。自分を取り巻く世界の中にいる自分を、私は知りたくないのだ」と言っているのではないでしょうか。この言葉は、創造的な核です。意識によって成された言葉であり、よく考えた上で発せられた選択であり、気持ちなのです。この言葉は動かし得ない出来事の連鎖を生み出し、ゆっくりと、しかし確実に凝縮され減速した状態へと導いていきます。そして最終的に、固く、明らかに命を持たない「殻」となってしまうのです。このようにして「殻」が形成され、出来事の連鎖によりその状態はより固くなっていき、命を持たないものはネガティビティや真実を否定する言葉によって創り出されるようになるのです。それにもかかわらず、一度このプロセスが実行に移されると、命を持たないもの自体は、命の肯定と肯定的な目的のために意識によって作動するようになります。このようにして、自由な意識は、固く命を持たないものの中に存在する生命の実体や意識とコミュニケーションをとることができるのです。
とても簡単に説明しましたが、おそらくあなたは、無生物の中にも意識があるという事実について、およその概念を理解することができたと思います。現代の科学者たちはすでに、単なる「もの」の中にもエネルギーが存在することを確認していますので、受け入れがたいことではないと思います。「もの」ではなく「意識」についても同じことが言えるということを、あなたは今、確認したのです。
植物や動物、ほかの人間の意識とのコンタクトよりは難しいものの、人間の心のより強く、より活発な意識は、無生物の意識にも触れることができます。物質はとても柔軟で、人間の意識に何かを感じさせることができます。言い換えれば、意識は何かを考え出し、創り出すことができるので、その物質の中に何か別のものを形作ることができるのです。例えば、家具や食器、宝石などを持つ必要性。必要性とは、これらの対象物を創造したいという願望であり、これが無生物の中にエネルギーや意識を吹き込むのです。ある方法を用いることで、無生物や物質が、直接的でより強くよりつながった意識の刻印を受け入れるのです。このようにして、物体は創り出されます。
したがって、あなたが使い、楽しみ、そして必要としている物体は、その任務を果たします。その物体の意識の深い部分にある核はいつでも、それがたとえ動かず命のない状態にあっても、神聖なるもの、奉仕、真実、愛、在ることへの表現を探しているのです。これが、自らの心を創造したものへの「答え」です。このようにして、命のない状態の物質は、進化の過程での大きな目的の一つを成就させるのです。真の意味では、完全に命のないものであっても、死んでいるわけではありません。生まれつき神聖な能力を持ち、例えば人間のように、外面的に形を成して現れるものに縛られない霊的な人々は、命を持たない物体の意識の表現やエネルギーの形を知覚することができます。このような物体も、もちろんエネルギーの場を含んでいます。それがアンテナや受信機の役割を果たし、反応装置となるのです。その意識の中身はまだとても制限されており、人間という存在のように自ら何かを発信したり創造したりするものにはなり得ず、今のところはまだ反応装置でしかないのです。
ある物体と、何らかの関係性を結んでいる自分に気づくことがあるかと思います。あなたにとってとても大事であり、それを必要とし、楽しめる物体があることでしょう。それらの物体は、あなたにとって良い役割を演じています。あなたがその物体を愛する理由は、あなたにとって良い役割を演じ、良いサービスを与え、美を、楽しみをもたらしてくれるからでしょうか?これは好循環の良い例で、どちらが最初に循環をスタートさせたか見極めることは難しいです。例を挙げてみましょう。例えば自動車やレコードプレイヤーなど、あなたが使っているもの、もしくはそれに類するものであればなんでも結構です。あなたはその対象物を愛しています。あなたは、実用的に使っているだけでなく、いくつかの方法で自己の霊的な成長のためにそれを使ってもいるのです。単なる実用的な物体であっても、実用的なだけのものではないと言えます。あなたはその物体を気にかけます。その機械は、極めてわずかで小さな内面の意識の核であっても、あなたの評価に反応します。そのエネルギーの場が影響を受けるのです。あなたが特別愛していない物体には、別の方法が適用されます。それがうまく機能することは決してありません。あなたはこれらの物体を嫌い、苛立ち、その物体もそれに反応します。
あなたの経験する意識の分離は、それゆえに論争の価値のあるものの一つです。私たちが世界は意識で溢れているという事実について語るとき、まさしくこれは真実なのです。分離した有機体、物体、そして実在は、表面的なレベルでのみ分離しているのです。しかし、その表面レベルの下や内部では絶えず相互作用が起こっています。
これから、意識の三つのレベルについて話します。私は長い間、第一のレベルについて話してきました。第一のレベルは、自己認識を持たない意識です。動物、植物、鉱物など、そしてまたそれよりも下等なカテゴリーに含まれるものです。内に意識を持たないものは存在しないということを、皆さんに理解していただきたいと思います。他のカテゴリーに属するものより速度がゆっくりであっても、動物や植物、そして鉱物にさえも、それ自身の持つ成長と変化のプロセスを見ることができるのです。
次の状態は、自己認識で、ここから人間のレベルになります。自己認識とはどのような意味なのでしょうか?「私」という認識、「私は存在する」「私は考えることができる」「私は決定を下すことができる」「私の決定には強い効果がある」「私の考えは他に影響を及ぼす」「私の感情は他の存在に伝わる」という認識です。この状態において、自己責任が生まれます。自分の周りの世界に影響を与えるという認識は、考えや態度、行動や責任を選択することへの重要性をもたらします。拡張した認識によって、この意識の状態はたくさんの新たな選択肢を見つけることができます。盲目で制限された状態では、選択肢が欠けています。自己認識の入り口に満たない意識の状態では、選択をすることができません。盲目的にあらかじめ組み込まれたパターンに従うのだけなのです。人間の意識状態では、あらかじめ組み込まれたプランを再構築することができます。そして人間は、それぞれの成長段階にふさわしい、自己表現のより開かれた可能性を手に入れ使うことができるのです。
人間の意識の状態、自己認識の状態には、無数の程度とバリエーションがあるのは明らかです。まだ自分自身を知らず、自己の持つ創造、変化、そして影響の力に気づかない人がいます。彼らの持つ認識や区別の能力はまだ限られており、同じように、自主的に考えたり行動したりする力も限られており、動物と同じように、このような人々はこの言葉を認識することができません。彼らにとっては意味を持たないことなのです。意識がすでに進化している人々もいます。このような人々は、自分が選択する力、創造する力、そして影響を与える力を所有していることをよく知っています。彼らは、「ほかのやり方よりもこちらを選ぶ」という自分の選択への自己責任を持っています。彼らにとって自主的に考え行動する、という言葉は意味を成し、それがこのような人々にとってインスピレーションとなり、良い刺激となるのです。もちろん、これら二つのカテゴリーの間にも多くの意識のレベルが存在します。
しかし、意識の進化の程度が最も低い人々でさえも、自分たちが存在しているという認識は持っています。このような人々は、自分たちにはニーズがあること、そしてある程度まではこれらのニーズをどのように満たすのかを見つけ出すことができます。自分は行動することができることを知っているのです。彼らの視野は、より進化した人の視野よりも狭く制限されています。そして、最も高いレベルに進化している意識の状態を持つ生物とそうではない人たちの間には、計り知れないほどの違いがあります。後者は、考えることについてはまさにそれを目覚めさせるパワーを持っていますが、私がこれまで述べてきた自己意識という感覚は欠落しています。
人間の自己認識という状態は、自ら創り出した時間の次元の中にあります。したがって、過去、現在、未来の感覚は人間のマインドの中には芽生えましたが、低い意識状態の中ではその感覚は存在しません。人間の進化の多くの領域において、最も低いレベルと最も高いレベルの間には相似性があります。命ある物質、鉱物、植物、そして動物は、時間の観念を持っていません。これらは時間の流れのない状態に存在していますが、彼らには意識がなく、また自分で何かを決定したり自分から何かを始めたりすることがありません。人間の意識の状態は時間の概念の中にあります。ゆえに人間の意識状態は「ある/存在するという状態」の中にあらず、「これからそうなるという状態」の中にあるのです。とはいえ、この状態ですらすでに自己認識を完全に持っているのですが。進化のレベル曲線の最も高いポイントで、私たちの在り方は時間という概念を持たない状態へと戻りますが、最も高次の意識が必要です。
三つ目の状態は、三つの中で最も高次の状態です。私たちはそれを普遍的な意識、宇宙意識と呼びます。人間の状態を超越した状態です。この状態においては、すべては一つであり、そこに分離は存在しません。そしてこの意識の状態では、すべてが明らかになっています。最も深い真の自己、そして神聖なる自己が明らかになっています。存在の真実がそのままそこにあるのです。この意識状態の中では、私たちは「ある/いる」という状態の中で生きることになります。しかし、この進化のレベルでは「ある/いる」という状態は自己認識を超越しています。普遍的な認識に到達しているのです。できる限りに正確に、これを別の言い方で言ってみます。つまり、自己は、存在するすべてのものの中に「ある/いる」ものとして認識されるということです。
もし、あなたがこれら三つの状態の深遠なる意味を求めて瞑想し熟考するならば、偉大なる計画はあなたの知るところとなり、そしてあなたがその一片を担っている、より素晴らしい命について理解することでしょう。「無垢」に存在するという状態は、純粋さの中にのみ存在し得ます。この純粋さは、まだまったく何も気づいておらず、意識しておらず、無力な人の中に存在します。もしくは厳しい状態へと沈みこみ、同時に自己浄化の道を進むことを通してこの無垢な状態を再度手に入れた人の中に存在します。そのとき、パワーは永遠の今という時間のない状態と融合します。
魂が浄化されない限り、生来意識が持つ力への気づきの欠如には、自己防衛的な正当性があります。自分の道に明確に気づくことで、自己と他者に対して真実でいられるかどうかというあなたの能力と調和し、この力は向上します。自分の中の悪意を持って自分の「創り出す力」に気づいたとき、自分が害を与え、大惨事と破壊をもたらすことができるのです。それは、本来であれば自己活性化のために存在するはずのもの、つまりネガティブな結果から学びそれが薬となりうるその原理を超えてもっと強烈な害を与えます。
どれほど不条理であろうが、悪の顕現があなたのもとに現れます。それはこのような形でしか表出できないのです。なぜなら、時間の鎖に縛られた状態で関係を所有することはできないからです。このようにしてあなたは気づき、ネガティブな兆しを見ます。それがどんなに不条理でばかげたものであっても、それらは自分で創り上げた究極の浄化と究極の祝福を目的とした薬なのです。悪は何も破壊することはできません。私が言った枠組みの中で、一時的にはできるかもしれませんが、結局は破壊できません。自己浄化力を同時に拡張することなしに意識を拡張したとき、悪は神性を破壊します。そうなると、元来備わっている防御的なメカニズムを用いて、ネガティビティは知覚器官を閉じてしまいます。見えない、聞こえない、話せない、という凍りつきが始まるのです。すべてにつながる核から切り離された、無知で、制限され、力のない状態から抜け出す唯一の方法は、宇宙や自分を取り巻く外部について知ることではなく、今自分はどのような状態にあるか、という自己を知ることへの首尾一貫した試みです。これについてはやがて自然に知ることになるでしょう。それに集中しても、妄想に悩まされるだけです。
自己を知るということは、時間のかかる段階的なプロセスです。しかし、あなたにとって不可能な能力は必要としません。あなたが成し遂げることのできるものであり、もしあなたが見ることを望むのであれば、あなたの目の前にある何か正しいものを手にするということです。自分自身の素晴らしい意志と意図を使って、自己について知るべきことをプロセスに沿って一つひとつ見つけ出すことができます。あなたの人生に不可能なことはないのです、皆さん。不調和な状態にあるときには「私はできる」ということに気づいていないだけなのだということを知ってください。より深い気づきのためには、はっきりした線引きと粘り強い探索が必要です。そしてそれは、事実、あなたの人生における任務の一つなのです。現在の不調和の答えを求めて、間違った方向を向いてしまうことがあると思います。抵抗することもあるでしょう。なぜなら、実際に存在するものよりも悪い何かを恐れているからなのです。あなたが「常に道を進む」勇気と決意を持ったときに始めて、このことを理解できるでしょう。
不調和な状態、不安な状態、不幸な状態、憂鬱な状態、心穏やかでない状態、そして恐れをもち、ネガティブで収縮した痛みは、常にあなたが今知るべき何かの投影です。しかし、あなたはそれを知ることを選択していないのです。知ることを選択しないという選択は、とても強いネガティブなエネルギーの場を作り出します。そこに含まれる意識を変えることで、これらのネガティブなエネルギーの場の力を弱めることができます。最初の重要なステップによって、「私は知りたくない」が「私は知りたい」に変容し、そして次に続いていきます。この新たな発見の冒険のチャンスを、あなたの選択によって自分に与えることができるのです。
この発達の側面での準備段階では、自己について気づいていない部分をなくさなくてはなりません。そうすることで、自己は自己についての答えを探し出すことができるのです。自分が何を選択しているのか、何を考えているのか、何を感じているのか、ニーズは何なのか、願望は何なのかを知らない限り高次の状態へと目覚めることはできません。それを知ることで、自分の持つ破壊的で望ましくないものを変える力を強めることができるのです。
癒しの道を進むにつれ、自分を公正によく知るプロセスが訪れますが、この時点では他者についての気づきはまだ完全ではありません。したがって、他者に顕現していることを模索することになります。他者のネガティビティもしくはその性質を知らないことによって、あなたは自分自身を混乱と騒動の中で見失ってしまうことになってしまいます。このワークをさらに進めることで、あなたは他者への明確な気づきへと導かれることでしょう。これによってあなたに平和がもたらされ、状況の扱い方があなたに示されるでしょう。癒しの道の道程で、あなたは新たな側面、多くの場合自分自身についてポジティブな部分を発見します。そしてこれは、他者との重大局面によって明らかになることが多いのです。
この点において、最初の段階は、純粋な自己探索です。第二の段階、これはしばしば第一の段階と重複していますが、他者への知識へと拡張します。第三の段階は、人間という状態を超えて宇宙的な知識へと至ります。これは、この道における有機的な発達です。私が「知識」と言うときには、皆さん、この言葉には別の意味もあるということを覚えておいてください。あなたはおそらく、「知識」を機械的なレベルに置いていることでしょう。そのような知識は、洞察でも、叡智でも、真の知覚でもありません。それは驚きの感覚や畏怖の感覚をあなたに与えませんし、あなたを平和と喜びで満たすこともありません。それは潤いのない、分離した知識なのです。私は今、それとは違った種類の知識について話しています。それは、理解が生まれる種類のものであり、理解の断片を一つにつなぎ合わせるものです。それはとても深く、知識を感じることは、実際あなたに平和と喜び、畏怖と興奮をもたらします。新たに明らかにされた事実はあなたを満たし、すべての意見の衝突を取り除いてくれます。あなたは新しい方法で経験し、関係を結ぶのです。しかし、この現象はこの道を歩き続けてからずっと後にならなければ現れてこないのです、皆さん。最初は時折、この知識をほんの少しだけ経験することもあるでしょう。それは、たとえばあなたがヘルパーの立場にあるときに現れてきます。
あなたが拡張すればするほど、この種類の知識がますますあなたを満たしていきます。そしてそれが続くにつれ、少しずつ宇宙の知識が見出されます。それは、あなたの中の深い部分にある何かからやってくるのです。それは、個人を超越しています。そこには時間は存在せず、それはあなたに、進行中の現在のあなたの人生について深い気づきを与えます。これによりあなたは、筆舌に尽くしがたいほどの喜び、平和、安全、そして存在するものすべてへの感謝で満たされます。皆さん、あなた方はこの気づきを自分で得なければなりません。なぜならば、宇宙の意識をすぐに目指すことはできないからです。宇宙の意識のように、このような癒しの道で育むことができる拡張された自己認識の状態というのは、最終段階において得られるものです。
この講義で皆さんに話したことは、あなたの思考がもたらすもの、つまりあなたが考えると決定したすべての思考やあなたが採用したすべての態度からもたらされるものに気づくことを目的としています。思考が経験や反応を創り出し、そしてまた、その思考があなたの内に存在するものを創り出すのです。新しいエネルギーの場を創り出すのか、古い方により強く縛りつけようとするのかは、考えや意図が新しいものなのか、もしくはそれが古いものの繰り返しであるのかによります。明らかに、どちらの選択肢も、真実でも間違いでも、建設的でも破壊的でもいずれのエネルギーの場にも適用されます。真にこれを意識するとき、あなたはより責任を持ち、より創造することができるようになります。そうすることで、すべてのものの中に神の意識が存在することを知る状態へと近づくのです。どちらの道を進むのか決定することができるのは、あなたのエゴ(自我)だけです。まさに今、あなたの中の思考するマインドは、自分の選ぶ方法で神の意識を表現できる可能性を持っているのです。付け加えるなら、ネガティブな経験をするとき、何がその状態を作り出したのか、そしてどのようにして作られたのか、それを見つけ出すことを心に留めておいてください。
あなたは今、日々の事柄において、自分の反応において、そしてあなたを悩ませ、混乱させ、妨害する経験において、自己の真実の中に在ることに何度も繰り返しコミットすることで、あなたの意識の力の真実をすべて発見することができるのです。抵抗を感じるとき、それをごまかしたい衝動に駆られるかもしれませんが、ごまかすことなく認めてください。抵抗であっても、とにかく認めてください。あなたの真実を信頼してください。あなたはますます自由で喜びに満ち溢れた存在となり、あなたを縛りつけている、生来の状態では決してない「束縛」の鎖を断ち切ることができるでしょう。すべての可能な瞬間に、想像できるすべての出来事について、真実にコミットすることを選択してください。
このメッセージと提案とともに、深い愛 -- 宇宙の愛で私の愛するみなさんに祝福を送ります。平和のうちにいてください。
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