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Pathwork in Japan
No.220 内なる声に焦点を合わせることで意図的な麻酔から目覚める
Pathwork Guide Lecture No. 220
Unedited版
1974月4月3日
内なる声に焦点を合わせることで意図的な麻酔から目覚める
REAWAKENING FROM DELIBERATE ANESTHESIA THROUGH FOCUSING ON THE INNER VOICES
皆様にご挨拶申し上げます。ここに集うあなた方一人一人に愛に満ちた祝福が注がれています。最愛なる友人のみなさんを歓迎いたします。この一連のレクチャーを続けましょう。そして友人のみなさん、これらのレクチャーは続きものになっていて、あなた方の気づきが増すにつれて螺旋状に進んでゆくあなた方の進化のプロセスに沿って一つのものから次のものへとつながっていることを心に留めておいてください。
このレクチャーでは、意識の現象、特に進化のプロセスと個々の人生の意味に係わる意識の現象について再度お話ししようと思います。追い追いお分かりになると思いますが、これについては非常に詳細なやり方で焦点をあてたいと思います。
すべての知識はあなた方の中にあります。私は度々この話をしていますが、これが真に理解されることはごくまれです。あなたが今生へと生まれようとするとき、麻酔のプロセスが始まります。このプロセスにはきわめて明確な理由があります。幼児期を抜け出すにつれてあなたは限られた意識をもって目覚めます。すなわち、この目覚めは部分的で段階的なものです。今生で肉体的、精神的、感情的に成長するにつれて、あなたは知識を模索し、再発見してゆきます。あなたは最初は物質的な生活のみを対象としてごく限られたやり方でのみこれを行います。あなたは歩くこと、物を扱うこと、話すことを学びます。あなたは読み書き、数を学び、そして外界の生活について、あなたを取り囲むあなたが扱い方を学ぶ必要がある物質について、ある程度の基本的な法則を学びます。
いったんそうした基本的な物質界に関する知識が習得されるか目覚めれば、より深い知識が再び獲得されますが、これは成長のプロセスが計画された通りに起こる場合のことです。ひとが集中的な成長のプロセスのなかにあるとき、知識の再獲得は深さと範囲をたえず増しながら行われます。けれども、もしその人が自らの歩みを、その人生の一連の流れを止めてしまった場合には、そのひとが潜在的に所有する知識の再獲得をも妨げてしまうことになります。
ここであなたは必然的に最初の問いを問いかけることになるでしょう。すなわち、「なぜ麻酔がかけられるのだろう?なぜそんな風にされるのだろう?」と。この麻酔は実際には誕生のプロセスのかなり前に始まります。あなたが、あなたという存在全体が真に属している霊的現実において、この次元で再び生を受けると決意したとき、あなたは意図的な麻酔状態に入ることになります。全ての計画を徹底的に検討し、理解した後で、あなたは意識を失うことになります。物質界で手術を受ける人はこれと同様のプロセスをたどります。実際、麻酔のプロセスは「コピーされ」、思い出され、再発見されたものです。ただし地上における麻酔の目的は、必要な手術の最中に痛みを防ぐことです。転生のプロセスの場合には、麻酔状態になる理由はこれとは異なります。これについて簡単にお話ししましょう。
霊的な自己が誕生のプロセスで人間の身体をもつ前に、あなたという存在はすでに睡眠状態、麻酔をかけられて意識のない状態に入っています。誕生のプロセスが起こるとき、ごくわずかな目覚め、すなわち誕生のプロセスの実際の状態に応じたごくわずかな目覚めが起こります。赤ん坊の身体に入った、あなたという存在の限られた一部は、自分がある程度目覚めていること、一定の身体機能が機能している程度だけ、身体的感覚と、知覚と気づきのごく限られた一部の機能が機能している程度だけ目覚めていることに気づきますが、これらを適切に評価、解釈、理解することはできません。これができるようになるのはもっと後になってからのことです。そのため、誕生後の気づきの状態は誕生以前の状態よりは増しているとはいえ、それでもごく限られたものです。そして以前にお話ししたように、気づきと目覚めが拡大していくプロセスは、人生における成長と拡大が進むにつれてごく緩やかに進んでいきます。
最初の年月--一般化することはできませんが、おおまかに言って最初の22年から25年位—は、主に外界の知識の習得を目的とした期間です。この期間の後、そのプロセスが有意義で有機的なものであれば、内的で霊的な知識、物質的な現実を超越する知識の習得へと焦点が移るはずです。これは、最初は心理学的なレベルで起こるかもしれません。内的で霊的な知識と私が言うときには、心理学的な知識も含めて言っています。心理学的な知識は内的な自己に関する法則とプロセスを扱うものだからです。これは当然重複しています。高度に進化を遂げた人、より大きな霊的な実現能力をそなえた人では、内的な現実への目覚めが早い時期に、外界の学びと同時に起こることは、常にではありませんが、よくあります。ですから、たとえば、あなたが自分の道を歩む途上で、人生の早期の段階ですでにいくらかの内的な知識をある程度習得したり理解したりし始める子どもを持つとします。こうしたことが起こり得るのは、こうした知識が魂のすぐ近くに、魂の奥深くへと根を下ろしているからであり;またこれまでの転生でその知識がその人の欠くべからざる一部となったがために、こうした進化をまだ遂げていない人達や、内的な知識が魂のあらゆる粒子に浸透するにはまだある程度の成長、探求、奮闘のプロセスを通り抜けなければならない人達よりも、はるかに簡単に速やかにこうした知識を再び目覚めさせることができるからです。そしてもちろんそれこそが人生の意味だからです。というのは、模索のプロセス、試行錯誤のプロセス、すなわち探求すること、時には混乱したりわからなくなったりすることもよくありますが、わからないことに最も建設的な方法で取り組むこと、よくわからないことそれ自体とコミュニケートするための知識の恩恵を受けるために、一方では忍耐と謙虚さとの間に、そしてまた他方ではこのプロセスへと向けられる真摯なコミットメント、努力、焦点合わせ、強固な意志、健全な攻撃性の間に、往々にして危ういものであってもバランスを見つけること---こうしたことすべてが必要なことだからです。鍵はこのプロセスのなかにあります。魂がこうした努力により学んだ知恵を吸収すると、来世—あなた方の時間の用語で言うならば—では知識を再び獲得することがはるかに易しくなります。
ここで、なぜ一時的に麻酔をかけるというようなことが行われるのか、という問いに戻りましょう。この問いの答えの一部はこれまでお話ししてきたことによって得られたのではないかと思いますが、もう少し深く掘り下げてみましょう。これらの原理を説明するのは容易ではありませんが、できるかぎり最善を尽くして説明してみます。簡単にまとめるとこういうことです。ある魂が先にお話ししたようなプロセスをすでに通り抜けていて、そのために人間という形をとった限られた状態であっても霊的な知識や理解、知覚を生まれつき備えていようと、こうした状態がまだ全く発現していなかろうと、あるいは魂が今まさにこのプロセスの中にあって今後いくつもの転生にわたってこれを続けていくのであろうと、こうしたあらゆる場合において、まず、人格として現れている部分は自分が持っている知識のことを知りません。どの程度の知識をもっているにせよ知識は消されており、言ってみれば“忘れて”しまっています。ですからあなたはどのような進化の状態にあるとしてもまっさらな状態でスタートを切ることになります、高度に進化した存在であろうと、低レベルのプロセスにとどまっている存在であろうと、何も知らずにスタートを切るわけです。そのため最初、あなたがもっている知識は一見あなたの中にはないように見えます。それでは、なぜこうでなければならないのでしょうか。
ここで、私が進化のプロセスについてお話しした最近のレクチャー(ガイドレクチャーNo.218)を要約しなければなりません。私がお話ししたのは、意識の「塊」がどのように広がってヴォイド(空虚さ)を満たすか、ということでした。意識の塊が拡散してヴォイドを満たすと、意識の粒子は自らを失います。するとその本質的な神なる意識は、その美や叡智、良き力が制限され、ゆがめられたかたちで働くことになります。そのバラバラに切り離された粒子たちは、生命の神聖なる状態の動き、すなわちほとばしり押し寄せて広がり否応なしにヴォイドを満たそうとする動きともう一度ひとつになる道をなんとしてでも探そうとします。このプロセスにおいて、このバラバラに切り離された粒子たち---個々の存在たち---は、最も分離した側面のなかにも常に存在している神聖な可能性を再び目覚めさせることによって、自分で戻る道を見つけなければなりません。
私は、あなた方がこのテーマを理解できるようにするため、このレクチャーを行った時以来、再三再四この例えを出してきました。今回の場合でいうと、未発達な部分が自分自身の道を見つけるためには、あなたの魂のなかのいまもバラバラに切り離された部分は、それがより目覚めた状態のときに知っていたことを何であれ忘れなければならないのです。
では、これをはっきりわかるように説明してみましょう。仮にあなたが今自分が深い部分で知っていること全てを意識的に知っているものと仮定します。その場合、あなたの中の未発達の部分は、自分の本質、自分の生まれながらの本質を独力で見つけ出そうとはしないでしょう。こうした未発達の側面は、あなたの中のそうしたものをすでに知っている部分、すでに進化を遂げた部分にいわば流されるままになるでしょう。するとそれらは常に頼りない状態になります。それらは、目にも明らかなほどというわけではないにせよ、本質的にその美や、活力、創造力、叡智に曇りを生じさせることになります。それらは神の意識が放っている完全なる栄光の怒涛のような流れに流されるままになり、それらに神の意識の栄光が欠けることなく吹き込まれることはありません。けれども、浄化や進化とは、存在するものすべてのあらゆる最小の部分にすらそれ自身のエッセンスが吹き込まれることを意味しているのです。
このやや形而上学的で哲学的な概要説明をあなたの現状や日常生活、そしてあなたの道における取り組みに当てはめてみましょう。それにより、私の話がさらによく理解できるようになるだけでなく、そこから恩恵も得られ、この説明に大きな助けを見出すことになるでしょう。あなたは自分の道を歩む途上で、ネガティビティ、不合理性、子供っぽさ、身勝手さ、破壊性といった側面をたえず発見します。あなたはまた、あなたの進化の状態が初期の頃には、外側からなにも挑発されなくてもこうした側面にひとりでに火がついてしまうことも知っています。そうした側面があまりにも強力なため、外側の状況がどうであるかに関係なく、あなたはそれらを発動させてしまうのです。けれどもあなたが成長していくにつれて、そういうことはなくなります。ネガティブな側面がひとりでに現れることがなくなるのです。それらが現れるためには外側からの挑発が必要になります。あなたは、自分の周りの人びとのネガティビティが発動されたときだけ、自分のそうした側面で反応するようになります。とはいえ、あなたが暮らしている物質界では、最善の状況のときでさえ生きていくのは容易なことではありません。物質は障害や妨げを生み出すため、この現実(これはもちろんあなたが生み出したものです)の次元では生きていくこと自体が常にチャレンジです。けれども想像してみてください、あなたがとても高尚で好意的な状況のもとで生きていて、それがあまりにも好ましく至福に満ちているために、あなたの中にある最悪の部分ですら発現のしようも、発現の機会もない、といった状況を。その場合、そうした最悪の部分は休眠状態で外に表れてこないままとなるため、それを浄化するための必要なプロセスを通り抜けることはできないことが容易にわかるのではないでしょうか。
あなたは、もし人がこれやあれをしなければ自分は大丈夫で、調和と喜びに満ちた状態のままでいられるのに、としばしば思うでしょうし、それは部分的にはその通りです。けれどもあなたの中の曇った部分は、もしそれが現実として現れなければあなたはそうした部分が存在していることを知ることもないため、あなたの中でずっとくすぶり続けます。ですから、それはまさに引金を引かれ、表面に露出し、挑発される必要があるのです。同様に、もしあなたが自分の持っている知識全てを意識的に知っているなら、外側からの挑発などないかのように、未発達の部分に火が付くこともないでしょうし、そうした未発達の部分のなかに根付いている認識を知ることもないでしょう。それらは、自分の中のすでに進化を遂げている部分が知っていることに影響されるだけでしょう。
またあなたはこの道を歩む途上で、そうした曇った部分との取り組みをきちんとやり遂げれば、人が何をしようとしなかろうと、どのような反応をしようと、自分が絶対安全な状態になる、ということも体験してきています。そうなったとき、あなたは本質的に何ひとつ損なわれず完全なまま、本質的に何ひとつ影響を受けないままとなります。何ひとつ影響を受けないというのは、隔絶されていて何も感じないという意味ではありません。あなたの中にあったあなたが処理した特定のネガティビティはもはや存在しないため、人があなたに何をしようともそれが燃え上がることはもうあり得ない、ということです。あなたが傷つくことや怒ることはあるかもしれませんが、その傷つき方や怒り方は、あなたの中にあるあなた自身の未解決の誤りや傷が外側の状況によって引金を引かれた場合とはまったく違うものになります。ですから、あなたは、自分自身の不完全さに向き合うのを避けるために完璧さに頼ることはもはやなくなります。あなたの中の曇った部分が浄化され、澄みわたり、清められ、取り除かれてしまえば、他者の破壊性の影響によって、あなたが自分の方向を見失ったり自分の中心から外れることはなくなります。
これと同じ原理が、あなた自身の内的な不完全性とすでに浄化された部分との関係においても、働いています。あなたがもし自分が知っていることをすべて知っている状態で生まれたとしたら、浄化されていない部分は浄化されている部分に頼りきりになり、自分の中から完全になるというようなことは起こらないでしょう。一方、あなた自身の中の賢く、すべてを知っていて悟っている部分が眠っている場合には、あなたの中の曇った部分が、あなたの中に生まれながらに備わっている知識の助けを借りて自分の力でなんとかしようと奮闘することになりますが、そのためには、浄化された部分が眠っていることが必要なのです。こうして、知識がない状態から、知識が発現してゆきます。暗闇の中から光が発現するのは、最も暗く最も無知な部分のなかにさえ知識と光のエッセンスが存在するからです。そのエッセンスは、すでに智慧と光をもっている、それ自身の外側の部分からではなく、それ自身の中から現れなければなりません。ですから、知識と光があなた自身の制限や曇った状態の中から生み出されるとき、完全で、信頼できる、本物の浄化がなされます。そして、周囲からの真の独立がなされ、真の自由が生まれます。こうして、意識のあらゆる粒子、あらゆる側面はそれ自身の「極小版の神性」--もしこんな言い方をすることができるならばですが--とでもいうものを生み出すことになったのです。そして今述べたことが、あなたが人間として生まれてくるときに麻酔がかけられる意味なのです。あなたがあなたのエッセンスである光を求めて奮闘することで、少しずつ、確かに麻酔が解けてゆき、あなたを本当の自分へと目覚めさせるのです。
あなたは自分の道を歩む途上で、自分の真実に向き合うために勇気を奮い起こせば起こすほど、自分の内なる人格全体に謙虚さと正直さを注ぎこめば注ぎこむほど、機敏さや覚醒の度合いが増す、という経験もします。これは、必ず現れてくる必然的な副産物です。あなたは突然あるいは少しずつ、いままでは絶対にできなかったようなやり方で他者を見、理解し、見抜くようになります。あなたは、個人的に影響されることも動揺することもなしに、他者のネガティビティを認識し始めるようになります。あなたはもはや、実際にはっきりとは見えず、霧をとおして見ているかのように曖昧にしか見えない見え方で、やみくもに、怒りに満ちて人のネガティビティと闘うことはありません。あなたは実際にはっきりと見えるようになり、また、様々なつながりが直感的に理解できるため、間違いを犯すことが個人的な破滅となることはもはやありません。こうしてあなたは、あなたに嫉妬を引き起こさず、むしろあなたを畏敬や感嘆、感謝で満たすようなやり方で人の美点を見たり、感じたりするようになっていきます。あなたは、人間の相互作用のなかに様々なプロセスを見、また理解するため、あなたと他者との間の相互作用によるつながりが感じとれるようになっていき、これにより、人生の難問や他者と共に生きることにまつわる難問が取り除かれ、安全感が増します。そしてこうしたやり方で自分自身の浄化されていない部分と取り組み、これを取り除き続けるにつれて、突然あるいは少しずつ、あなたの内部には新たな焦点が定められ、気づきが目覚めます。知識がどこからともなくあなたの内部へと流れ込むように思われます。それは脳から来るものではありません。それはあなたが最初の20年あるいはそれ以降に習得した外界の知識から来るものではありません。それはまったく別の源から来るものです。
チャンネルが開くと、新たな焦点合わせを始めることができます。あなたはごく意図的に内なる宇宙に耳を傾け始めることができ、あらゆる叡智はこの内なる宇宙からあなたという外側の存在の中へと流れ込んできます。これは徐々に起こるプロセスですが、突然出現することもよくあります。そのプロセスは、途中で中断されたり、初めてそれが出現したかと思うとすぐに消え失せてしまうようなプロセスであるため、その体験は夢だったかのように思われることがあります。その状態を求めるときには、ポジティブでリラックスしている必要があります。それは何度も何度も手からこぼれ落ちてしまうような体験であるため、繰り返し習得しなければなりません。
この焦点合わせは、一定の進化と浄化の段階を経た後できわめて意図的に行わなければなりません。この焦点合わせにより、つながりへと、耳を傾けることへと、そして“聞くこと”へと委ねることになります。ところで人類全体としての意識状態ではこのような焦点合わせをすることは到底不可能です。これは集合的な条件付けの結果です。そのため、このような焦点合わせができるほどに本質的に進化を遂げているだろう人でさえ、これをやってみようとすらしません。彼らのいまだ未解決の問題は、自分を取り囲む世界から嘲笑されることや非難されることへの怖れであり、個々の人生の中心として内なる自己を確立する勇気に欠けていることです。人類全体は、焦点を合わせたもののみが現実と感じられるようになるまでは、現実の他の側面を除外して、外界および内面の一定の現象にのみ焦点を合わせるよう条件付けされています。そのため、あなたのまわりには、あなたの目に見えず、あなたが体験していない世界が存在しており、その世界について論じてもそれはまるで他人の空想のように感じられるのです。この知覚の制限は焦点合わせにおける条件反射の結果であり、この条件反射はというと前に述べた麻酔の結果です。
このような道を歩き始めたばかりのときには、自分自身に耳を傾けたとしてもおそらく何も聞こえないでしょう。あなたは、ここには何もない、空虚さがあるだけだと思い込むことでしょう。あるいはもしかしたら、子供っぽい、要求ばかりするネガティブな自己の声が時折聞こえるかもしれません。するとあなたは当然、これが結局自分の現実なのだと思い込むようになっていきます。これはあなたを脅やかすため、あなたはおそらく、外側の助けによって、いまはまだ聞こえないより深いレベルの内なる現実のためのスペースを作ることを学ぶまでは、このネガティブな自己と向き合うことをさらにいっそう避けることになります。
あなたがこのネガティブな自己の声に疑問を投げかけ、挑むようになり、自己との向き合いというレベルでそれと取り組むようになり、それと同一化することなくその正体を特定するようになり、その身勝手で卑劣なこの声の存在を認識してもそれがあなたを支配することを許さず、それを行動化しないことを学ぶにつれて、この姿勢が確かに行動において首尾一貫したものになり、ローワーセルフと、善意をもつ意識的で理性的なエゴセルフとの向き合いが絶えず行われるようになるにつれて、そしてこうしたこと全てを何度も何度も繰り返すにつれて初めて、あなたはようやく自分の焦点が別の意識レベルに合わされていることに気づき、その意識レベルはいつも存在していたことに突然気づくでしょう。
神の声はいつでもあなたに話しかけてきており、それは常に新しいやり方で、あなたの人生のいかなる瞬間にも常にあなたが最も必要としているものにぴったり合った方法で、常にあなたに話しかけ続けます。その声は止むことがありませんが、あなたがそれを見過ごし、それから焦点をそらしてきたために、沈黙という幻想が残されるのです。(私がここで「あなた」と言っているのはもちろん、集合的な条件付けがなされた人類全体のことです。)ところで、ローワーセルフもまた常にあなたに話しかけているわけですが、このローワーセルフと向き合うことを避けたり飛ばしたりすると、この素晴らしい声に焦点を合わせ“直す”ことができません。あなたの自我はそれらを見分けることを学ばなければなりません。ローワーセルフの声はこう言います、「私は自分のためにこれが欲しい。他者のことなどどうでもいい」と。あなたの中のその部分は、他者を犠牲にして自らの利益を得るために、あなたと他者の間で利害を分担させ、またあなたと他者に相互に排除させ合うことを正当だと信じているのです。あなたの中のその部分は、人は他者から奪うことなしに全てをもつことができるという現実とはまったく繋がっていません。あなたはその声に向き合わなければなりませんし、その声に疑問を持たなければなりません。この卑劣さや悪意の声に疑問を持たなければなりませんし、他者を悪とみなすことやこの点については疑いの余地すらないと思いたがっていることにあなたが与していることにも疑問を持たなければなりません。また、あなた--あるいはあなたの中のその部分--は宇宙の美しさや宇宙が信頼に値することを疑っています。信頼が欠如したこの怖れの声に疑問を持ち、これと向き合い、これと取り組まなければなりません。このような声すべてと取り組まなければなりません。最も誠実で欠けるところのない徹底的なやり方でそれらと向き合うときにのみ、止むことのない神の声が聞こえるようになるのです。そうしてあなたは、その声が、あなたがその声から意図的に焦点を逸らしているときに自らの声をあなたに押し付けるようなことはできなかったとはいえ、はっきりと美しくいつでも話しかけてきていたことに気づくでしょう。
焦点合わせはポジティブな意味でもネガティブな意味でも意図的です。ポジティブな意味では、私がこのレクチャーで説明したように、あなたは自己のあらゆる側面を完全に浄化するため、知っていることを忘れた状態で、この麻酔にかかり、麻酔状態のまま生まれてくる必要がありました。もしあなたに神の声が常に聞こえているなら、その浄化は起こり得なかったでしょう。もし聞こえていたら、あなたは自分のネガティブな部分に焦点を合わせることすらできず、これと取り組むこともできなかったでしょう。ネガティブな部分は沈黙させられ、流されるだけだったでしょう。ですからその意味では、あなたが神の声から焦点を逸らしていることこそが、あなたの全体的な自己が転生のプロセスのために意図的に決定した麻酔状態なのです。
ネガティブな意味では、神の声から意図的に焦点を逸らしているのは、他者の規則や法則を厭い、自分だけの規則や法則を望むネガティブな自己にあなたが与えている強さとパワーによるものです。ネガティブな自己は自分自身を知りたがりませんが、神の声はネガティブな自己が自分自身を知るよう導きます。それはネガティブな自己が自らを浄化するための最初のステップです。
ですからこの道を歩むあなた方の多くは、両者の声をはっきりと聞くことに向けて、いま意図的なステップを踏み出すことができるでしょう。ネガティブな存在、ローワーセルフとは何でしょうか?それは巧みな変装で現れることがあります。それでは神の声とは何でしょうか?あなたは意図的に自分の焦点をシフトすることを学ぶこともできますし、この違いを学ぶために瞑想に時間を費やすことも今ならできます。
友人のみなさん、あなた方が瞑想においてこれまでずっと焦点を合わせてきた主な側面は、私が“(創造の物質の)刻み込み”と呼んできたものです。瞑想に関する基本的なレクチャーのひとつ(レクチャーNo.194)で、私は、両方の側面、すなわち(創造の物質に)刻み込むことと、(創造の物質への)刻み込みを受け取ること—すなわち、一方では指令し、求め、条件付けし、再創造することであり、他方では耳を傾け、聞き、受け取ることです--についてお話ししました。今やあなたは、刻み込みを受け取ることに、より意図的に確実に焦点を合わせることができるところまで来ています。あなたは素晴らしい宇宙全体に耳を傾けることを学ぶことができ、この宇宙はとどまることなく進行しつづける生きた現象です。あなたはこの宇宙の中に存在し、この宇宙はあなたの中に存在しています。あなたはそれに焦点を合わせれば、それが分かります。友人のみなさん、みなさんは夢を見ている状態から、麻酔状態から目覚めることができるのです。あなたは真に生きた状態となり、自分の内に存在するこの生き生きとした状態を知ることができるのです。
なにか質問はありますか?
質問:はい。私は人生の大部分、自分のネガティビティに耳を傾けてきました。このネガティビティがずっと私を導いてきたのです。このネガティビティはひどく支配的で侮蔑的です。この低次の声はずっと私の人格におけるとても大きな要素だったのですが、この声から離れて他の部分、たとえば自分の優しい部分、押しつぶされた子どもの声に耳を傾けようとすると、私は、それでは自分はネガティビティと取り組もうとしないんじゃないか、行き過ぎて、間違って、ネガティブな部分と向き合わないままになってしまうんじゃないかと心配です。
答え:模索をする際には、そうした危険は常にあり、そうした困難は常にあります。ポジティブな声だけがいまや自分のなかの唯一の現実だといった希望的観測のような要素こそ、まさに考慮に入れなければならない要素であり、そうすることで自己欺瞞が危険を及ぼすことがなくなります。多くの領域で神の声を聞くことが可能ですが、それでもネガティブな自己は依然存在しているのですから。
ネガティブな自己の認識に対して自我のブロックがあると、そうした領域には神の声が入ってくることができなくなります。けれどももし自我が、浄化されていない部分をより深く認識してこれと取り組むために最善の方法を見つけられるよう知恵をお貸しください、と自己の神聖なる部分に求めれば、神の声が聞こえるようになり、これをそれが本当に最も必要とされている場所に用いることができるようになります。
あなたは、この道を歩む途上で、叡智や自分の神聖な現実の輝きを目覚めさせ始めるときにも自分自身の望ましくない側面を見過ごさないようにするのに役立つ多くの優れたツールを手にします。あなたは、ある側面が他の側面を排除することはないことを再三再四学び、明らかな矛盾と取り組むことを学び、デイリー・レビューで自分の中の不調和について書き留めることを学び、いかなる局面においてもあなたの内なる道があなたに気づいてほしいと思っているあらゆる側面に気づくことを自分が心底望んでいることを瞑想において繰り返し創造の物質に刻み込むことの威力を学びます。あなたは、これら全てのツールを用いることによって、望ましくないことを見、観察するとともに、自分のうちに宿る神の栄光を引き出し、これに耳を傾け、これを理解できるようになる、という自分の決意を強化することができます。
もうひとつの良いツールは、自分の反応に留意することです。自分の反応を、自分がどう感じているかに従って評価してください。あなたが真に喜びと快活さのなかにいるとき、あなたが何の心配もなく幸せな状態にあるとき、あなたはその瞬間、自分の内にある神聖さに真実触れています。あなたの内なる道はその時々にそれ以外のいかなるものとの取り組みもあなたに求めてはいません。けれども次の日あたりには何かがその像を曇らせてしまいます。疑い、重苦しさ、心配---なにか不幸なことがやってきます。それは、あなたが見過ごしている何かがあるというしるしです。あなたの人生に現れるものは、あなたが取り組むべきことを見過ごして自己欺瞞の中に生きていないかどうか、またあなたが自分の計画にしたがって自分の道を本当に歩んでいるかどうかを示す、信頼できる確実な指標です。あなたの関係性、パートナーシップ、仕事、楽しみにおけるあなたの満足度を、喜びとやすらぎに関するあなたの内面の状態を、そして自己実現と豊かさに関するあなたの外側の状態を調べてみてください。これらは指標です。満たされていないロンギングがある度合いだけ、あなたが焦点を合わせていないものがあることが分かるはずです。
またそれが分かっていれば、神の声によって道に迷ったり、あなたが焦点を合わせるべきものから焦点を逸らされることはないでしょう。これが起こる、あるいは起こるように思われるのは、自我がこれを強く意図している場合のみです。それがあなたの中のすでに浄化された部分や一般論について素晴らしい話をあなたに語ることはありません。それはむしろ愛のこもった断固とした態度であなたがまさに向かうべき場所を指し示すでしょう。けれども、あなたのエゴセルフがこれを望み、これを求めなければなりません。「私は自分自身のなかに何を見る必要があるのだろうか?」「私の中のどの部分がいまだに盲目なのだろうか?あなたは私に何を告げることができるのですか?」あなたがこう自分自身の中の最善のものに謙虚に問えば、あなたが本当に真実を求め、自分自身を開くならば、それは驚くような方法であなたを導くでしょう。こうした神とのつながり以上に、神が存在するという真実に対するあなたの信頼を強めてくれるものはありません。そうしてあなたのなかには統合が生まれます。あなたが自分自身のなかから受け取る教えはあなたをとてつもなく強め統合する体験となるため、この美しい声に耳を傾けることで、あなたがあなたのなかの浄化されていない部分から引き離されることはなく、それはむしろ両方の部分を一つに統合することになり、ネガティブな側面は変容して神なる自己の一部となるでしょう。あなたもご存知のとおり、あなたが意図した通りの結果が現れてくることになります。もしあなたがこの美しい声を醜いことと取り組まないために使いたいと望む場合には、あなたに聞こえるのは美しいことだけとなるでしょう。あなたに聞こえるのは、あなたの自我の意識が受け取る準備ができたものです。神の声はこれ以外の方法で現れることはできません。
質問:私には自分が受け取ったメッセージを解釈したり信じたりするのが難しいです。私はメッセージを受け取るのですが、後になってからでないと、自分がメッセージを受け取っていたことに気づきません。私はその場ではそれに気づかないのです。
答え:それこそが、私がお話しした学習のプロセスです。経験によって、選択することによって、評価することによって、そして試行錯誤によってのみ、あなたはここにある法則を理解することを学ぶことができます。大まかに言えば、一定の規則があります。このプロセスをすべて通り抜けた人たちは、たとえば私がその人たちを通して現れる、といった手段として役に立ってくれることができます。とはいえ、それにも限度はありますが。人はひとりひとり違い、異なる傾向をもち、希望的観測の仕方における弱点もそれぞれだからです。そしてあなたは、あなたが実際に模索し、学び、そして自らに問いかけなければならない範囲において、試されることになるでしょう。人間が持ち得る最も価値ある宝である神の声とのつながりは、すっかり出来上がったものが銀の大皿に載せて差し出されるのをただ受け取ればいい、というようなものではないからです。それは手探りのプロセスを通して獲得しなければならないのです。あなたは、希望的観測が受け取り方にどの程度影響を及ぼしている可能性があるかを、自分自身に問いかけることを学ばなければなりません。もう一方で、その逆の場合のこれと同等の危険についても用心しなければなりません。希望的観測への怖れは受け取り方にどの程度影響を及ぼし、きわめて歓迎すべきものであるはずの真実をどの程度妨害しているでしょうか。もしその声があまりにも望ましいことを言っているためにあなたがそれをどうしても信じることができないときでも、それでもそれは真実であるかもしれません。そうであってもあなたは、それを検証し、自分の内なる自己を探って、そこにだまし取りたいという欲求や、あなたに必要なものを避けたいといった欲求等が存在するかどうかを調べてみなければなりません。内側で深く体験することによってのみ、あなたは学ぶことができ、安全がもたらされます。あなたは何度も繰り返し試みなければなりません。あなたはそれに耳を傾け、注意を傾け、真剣に受け止めなければなりませんが、騙されやすい人間であってはならず、試練はあなたが学ぶ必要があることを学ぶためにやってくるのだということを理解しなければなりません。
事が起こった後で初めて声に気づくのであれば、それでもいいのです。この声と取り組むかどうか、それを聞いたときどんな風だったかと思い返すかどうかはあなた次第です。光明を求めて瞑想することもできますし、そうしていくうちにあなたはゆっくりとこのプロセスを学んでいきます。もし規則でがんじがらめになっていたら、そうした安全がもたらされることはないでしょう。それは、模索し、学び、誤りを犯すというプロセスを通して初めて得ることができるのです。最終的には内なる知識がもたらされるでしょう。あなたは、自分の中心の奥深い部分で正しく良い感じとしてそれを感じられるようになり、これこそがそれなのだと分かり、それを信頼することを学ぶでしょう。
それでは最愛なる友人のみなさん、あなた方ひとりひとりに祝福を。神の愛と叡智はあふれんばかりにここにあります。この道においてワークをしているあなた方は自分自身のために多くの祝福、多くの光を生み出します。あなた方はますます眠りから目覚めてゆき、もう二度と眠りに落ちる必要がなくなるでしょう。休息は、あなた方がその中に存在し、あなた方の中に存在する、喜びとやすらぎ、胸躍る至福に満ちた宇宙についての気づきを損なうことはなくなります。あなた方は祝福されています。
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