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No.229 ニューエイジにおける女性と男性

Pathwork Guide Lecture No.229
1996年版
1975年3月1日


ニューエイジにおける女性と男性
WOMAN AND MAN IN THE NEW AGE


 私の愛する親愛なる友人の皆さん、こんにちは。ここにいる全ての皆さんに祝福がありますように。私は、今晩、ニューエイジにおける女性について講義するとお約束しました。大いなる喜びと共に講義したいと思います。今晩お話しするのは、女性と、男女の関係性に関連した意識の進化についてです。この論題は、進化しつつある男女間の関係性を示すことなしに議論する事は出来ません。

 惑星が成熟するのと同じように、男性も女性も成熟していきます。この事の真の意味はなんでしょう?女性と男性はどのように進化を遂げ、そしてどこへ行くのでしょう?究極の女性性の実現とは?男性性の究極とは?女性は、歴史のこの段階において、自分達自身の時代に差し掛かっています。女性は自らに課した制限から出ようとしているのです。

 歴史の夜明けにおいて、人類は発達の大変原始的な状態にありました。自分以外の全てに対する不信がはびこっていました。人々は、自然や、動物、気候、神、運命、他の部族など、自分達と違って見える全てのものに対して不信感を持っていました。それぞれが、他方の不信に満ちた態度を理由に、自分達の不信感を正当化しているようでした。男性は、肉体的に強かったので、そして、肉体は原始的人類においての唯一の表現方法だったので、男性自身も自分達は肉体的に弱いもの達より優れていると思っていました。

 人類の原始的な時代においては、相互の不信感と、男性の肉体的優位さが圧倒的な役割を果たしたのです。それ以来、少しづつ程度は減ってきたものの、男女の意識の中に、同じ特徴と態度が埋め込まれてきたのです。今では、それらの態度は、より現実的で成熟した意識に隠されて、同じような振る舞いはしなくなっているかもしれません。しかし、精神の暗い片隅には、今も光の下に引き出され、変える必要のある意識が残されているのです。

 歴史を紐解いてみれば、多くの個人がしている同じ事を、全ての種がしてきた事に気付くでしょう。それは、役に立たなくなった後もずっと実行し続けられてきました。男性は、肉体的に勇敢な行為が最も価値を持っていた時代が終わっても、なおかつ優位な立場を保ち続けてきました。発達の段階が進むにつれ、両方の性に平等に取り入れられる他の価値観も現れてきました。しかし男性は、そしてしばしば女性自身も、男性が優れていて、女性が劣っているのだと思い続けてきました。この推測を正当化するために、女性は知的にも道徳的にも弱いのだと想定されてきたのです。皆さんもこの事はご存知でしょう。

 男性は、自分自身が劣っているとか、弱いのだという感情をどう扱っていいか分からないため、そんな感情を持っていない振りをしようとし、そのために自分たちより肉体的に弱いものたちに対して優れているとか、傲慢な位置にいる振りをするのです。男性は、自分自身の価値を信じるために奴隷を必要としたのです。このやり方は、動物や、戦闘で征服した人々、そして女性にも適応されました。後になって、女性は自らを精神的、感情的に従属的立場であるとみなし、そのため、女性がどんなにこの事で男性を非難しようとも、自ら積極的に奴隷化する事を選んだのです。

 同じ理由から、男性は自分より肉体的に強い人を恐れてきました。そして、強いものを恐れれば恐れるほど、弱いものたちを征服したいという思いが強くなっていったのです。このまだ悟りを開いていない人に見られる特徴は、皆さんもご自身の内的プロセスでおなじみのように、代償行為と呼ばれるものです。これは今も人間の意識の中に存在しています。これは何も男性にだけ見られるものではありません。自分自身の意識を深く探っていけば、皆さんも自分の中に同じ態度を
見つけられるはずです。

 何故女性は、個人の価値が肉体的勇敢さであった時代が終わってもなお長い間、生まれながらの権利である自己表現や、男性との知的、感情的、精神的平等を否定し、征服されるがままにしてきたのでしょう?女性は、ただ単に、男性の自己中心的な「誰かより優秀である」とか「強い」とかを感じさせたり、物として所有される犠牲者となる事は出来なかったはずです。ここでは女性も何らかの役割を演じているのです。

 このスピリチュアルな道を行く私の友人である皆さんにとって、自分が自己責任を取りたくないと思っている事や、より強い権威に世話をしてもらいたいと思っている事を認める事は、もはやそれほど難しくないと感じるでしょう。ここでもう一度言います。これは何も女性に限った事ではありません。ところが、男女間における古い関係性においては、女性は自己責任を否定する振る舞いをする事で、自分を犠牲者に仕立て上げたのです。つまり、ほとんど抵抗しないことで、世話をしてもらえるえるようにしたのです。女性は、権威ある誰かに、自分のために決断したり、自分の失敗の責任を取ったり、人生の荒波と戦ったりして欲しいと望んだのです。女性は、被征服者という偽の快楽にふけりたかったのです。これは、女性にとって失望と満たされない生き方であると分かりました。間違った概念というのは、遅かれ早かれ失望に取って代わるのです。しかし、女性は未だに責任の分担を引き受けてはいません。女性は、今もすべて男性のせいにしています。

 新しい女性運動は、真実のかなりの部分を含んでいます。しかし、全ての2元論的アプローチと同じく半分の真実でしかありません。真実は、女性が本当に男性と同じく、知性と機略と、創造性、精神的強さ、生産的自己表現の能力を持ち合わせているということです。もしそんなことは全く意味を成さないと主張するなら、女性は、弱さや劣等感を感じたくなくて、そのために女性に対して優越感を感じる必要のある一部の男性の獲物になってしまいます。

 同じ理由から、女性は、新しい女性運動を真に意味深いものにするために、自らの中に奴隷化を招き寄せている部分がある事を認めなければなりません。あえて言わせてもらうなら、反対の性に対する非難や反逆心が強ければ強いほど、その女性の魂の中には、自分自身の人生を自ら管理したくないという思いや、責任を取りたくない、誰かに寄りかかりたいという思いが強いのです。不公平で実現不可能な要求をする女性ほど、男性の権威者を恨んだり責めたりして、犠牲者のゲームを演じるのです。

 同じように、自分の恐怖心や、罪悪感、弱さに直面しない男性ほど、手を変え品を変えパワーゲームに興じ、そして、自分を食い物にしたとか、重荷を背負わせたと言って女性を恨むのです。どちらの性でも、未熟な魂は、代償を払うこと無しに都合のいい事だけを望むのです。男性は優越した立場を望むくせに、居候を世話するという代償に対して恨みを抱きます。女性は自分の足で立つこともせず、世話をしてもらえるという立場を望んでおきながら、自立できなかったと恨むのです。どちらも同じゲームを演じているのですが、お互いがこのゆがみを作り出したのだという事を見ようとしないのです。

 さらに意識の深いレベルにおいては、表面に現れている振る舞いとは全く正反対を見つける事が出来ます。男性の中には、大人としての責任から縮こまり、女性の保護された地位を羨む気持ちがあります。男性はその代償として、さらにパワーゲームをエスカレートさせるのです。女性は、自分の中に攻撃的で力や強さ、-それは真の力だけでなくゆがんだ意味での力であったりするのですが-、を求める部分がある事を隠しています。女性もまた男性を羨んでいます。人類の歴史の初期には、女性のこの面は完璧に押さえつけられなければなりませんでした。これは、男性の隠された望みと同様、社会的に受け入れられないものだったのです。この部分が現れてきたのはごく最近です。しかし、今も純粋な個人主義と混同されています。

 男性も女性も、この混乱から抜け出す方法を見つけなければなりません。男性は、どうすれば弱くなること無しに、女性と同等になれるでしょう?女性は、どうすれば大人として自立しながら感情的に満たされる事が出来るでしょう?これらは、真の意味での正反対ではなく、二元論的混乱の結果なのです。

 運動や方向付け、そして哲学が全体図を扱うのではなく、その半分しか見ないとすれば、バランスを正すことは不可能です。進化の道筋では、振り子はひとつの極端からもう一方の正反対へ振れるのが常ですが、統合された真実へのより深い洞察は、行き過ぎを避ける助けとなる事が出来ます。

 皆さんは2元論対統合された意識の相反する原則を、すでにご存知でしょう。二元性においては、男性は優越感を感じ、女性は劣っていると信じています。その結果として、男性は女性を食い物にするのですが、同時に女性に利用されたとも感じるのです。そのような関係の中では、満たされた感覚を持つ事は不可能です。女性は、肉体的に強い男性に不当に利用されていると感じ、その事で男性を責め、自分を犠牲者にします。両方の性ともに、どちらも同じであり、お互いをゆ
がんだ方法で慰めているという、もう一方からの視点を欠いています。

 女性性と男性性の原則は、どちらも健康な個人を代表するものでなければなりません。男性のやり方は必ずしも女性と同じ表現ではないかもしれません。というのも違いが補足的な全体を作るからです。しかし違いは質的なものではありません。違いは、どちらかがもう一方より良いとか発達しているなどという批判になってはいけません。

 ニューエイジにおける女性像を描かせてください。そして、それがどのように男女の関係性に適応できるか見てみましょう。新しい女性は、完璧に自己責任を負い、それゆえに自由です。その女性は、物理的だけでなく知的にも、精神的、感情的にも自分自身の2本の足で立っています。その意味で、私が特に強調したいのは、新しい女性は、男性が、幸せや自由な感覚をもたらしてくれる事は決してない事を知っているということです。幸せや自由な感覚は、女性自身が、愛する 事や正直さを通して、そして愛する事や自分自身の内なる真実に心を開くことを通して、自分自身で作り出すことでしか得られない事を知っているのです。新しい女性は、男性を愛し、その男性に対する自分の感覚に従う事が、自分自身をより強くする事を知っているのです。新しい女性にとっては、子供を産む事や創造性に溢れる事、社会の一員として貢献する事と、愛するつれあいである事は、全くぶつかり合わないのです。事実、真実の愛は、自己責任を避けるために奴隷を
演じる人には不可能なのです。女性の社会的成功が、女性らしさや感情の豊かさ、つれあいとしての相応しさを損なうという古い御伽噺は、いまだかつて一度として本当であった事はありません。

 この新しい状態は、自ら手に入れる強さや自立が求められます。それは、自立に伴う全ての現実の重みを背負うことによって、手に入れる必要がありますが、憎悪や反抗心、競争や挑発的な気持ちであったり、男権主義のゆがみや最悪の行き過ぎ、否定的な攻撃性や、パワーゲームを真似る事で手に入れるのであってはいけません。それが難しすぎるという間違った思い込みから真実を否定する時はいつも、まずその難しさを、最初に受け入れなければなりません。それらは全然難しい事ではなかったと後で分かるでしょう。自己責任は、難しそうに見えますが、明らかな困難がいったん受け入れられれば、そうでないと分かるのです。なぜなら、受け入れるという姿勢が、人生に対する誠実なアプローチだからです。

 歪みがまだ存在するところには、女性は自分が自分自身に与える事を拒んでいるものを男性からもらいたがります。ニューエイジの女性にとっては、こんな事はありえません。これは、2人の人間が人生を共にしているのに困難は共にしないなどということを意味しているのではありません。私がここで言いたいのはそんな事ではないのです。皆さんは、ご自身の歩んでこられた道筋から、密かに父親の権威から貰いたいと思っていたものを、自分のつれあいに移してきた事を良くご存知でしょう。皆さんはまた、そのような黙諾的欲求がいかなる関係性をも破壊するということをご存知でしょう。そのような行為は、皆さんが利用しようとした権威そのものを恨んだり恐れさせたりするようになるのです。愛は、恐れの存在しない、それゆえディフェンスも非難も存在しない、真に平等な環境の下でのみ花開くのです。女性らしさは、女性が男性の単なる召使であるときに花開くという御伽噺とは反対に、感情は女性が、本当の意味で自由で、自立し、独立したときに、本当に花開く事が出来るのです。ですから、感情の充足は、完全に真なる平等な状態にかかっているのです。人が他より勝っていると感じる瞬間に人の尊厳は低められ、感情は閉じてしまいます。人が他より劣っていると感じる瞬間、恨みや恐れ、嫉妬は避けられなくなり、この時もまた心は閉じてしまうのです。

 新しい女性は、男性の奴隷でも、男性との競争者でもありません。それゆえ女性は愛する事ができ、その愛は創造的な自己表現を低めるどころか高め、その人生に対する創造的貢献が、愛する能力を高める事になるでしょう。これが、新しい女性です。

 ニューエイジにおける男性は、もはや自分の弱さを否定するために、弱いつれあいを必要とする事はないでしょう。男性は、自分の弱さに出会い、それを直視し、そしてそこに本当の強さを手に入れるのです。男性は、自分の弱さが、常に罪悪感から来ている事に気付き、自己否定が、常に高い自己-それがどんな形のものであれ-を統合する事を否定することだと気付くのです。それゆえ、奴隷を必要とする気持ちは、もはや男性の中に存在しません。男性は平等に脅かされなくなります。男性は、受け入れてもらえるかどうかを確信するために(勿論これは幻想なのですが)、弱いつれあいを求めません。いったん自らの弱さを直視すれば、男性は真の強さを手に入れます。それゆえ、女性との関係は真に平等なものとなります。男性は、自分と同じくらい創造的で、相応しく、道徳的な強さをもった、知的な人に脅かされる事はありません。男性は、堂々とした振りをする必要がなくなるでしょう。これによって、男性は心を開く事ができ、以前は全く不可能だった事を成し遂げる事ができるようになるのです。

 男性を制限してきたいかなる悪循環も、良い循環に変わるでしょう。心を閉じさせ、恨みや憎悪を作り出し、その結果として欲求不満や反対の性に対する非難を作り出してきた劣等感の変わりに、良い循環が心を開くでしょう。充分に自立し、自己責任を持ち、自己実現をした男性と女性は、もう一方の性に対して怖がったり、羨んだり、恨んだりする事はありません。それゆえ、そのような男女はあらゆる感情の回路を開き、つれあいに対する感謝の気持ちも含めて、充足感を経験する事が出来るのです。このようにして、二人は平等に個人として、男性として、女性としての成長を互いに助け合うのです。これが、ニューエイジにおける男性、ニューエイジにおける女性、そしてニューエイジにおける関係です。

 これがまだ存在していないところで、皆さんが自分の中に、誤謬や、誤った概念、歪んだ期待、幻想に満ちた目標や否定的な感情を指摘できたり、内なる戦争を維持するための杭を確認できたりする事実は、皆さん自身や他の人に対して、全く違ったあり方を示す事ができるでしょう。ですから、ニューエイジの男性や女性は、必ずしも完璧で全体的に発達した個人である必要はありません。むしろ、ニューエイジの男性や女性は、自分の中にもあるのと同じように、他人の中にも充足していない部分があること、そしてその理由を探すことのできる人なのです。この様にして、一緒に取り組む必要のある、否定的な相互性を認識する事ができるのです。ニューエイジの男性や女性は、自己と他人や、自己と真実の間にあるギャップを広げるような非難をする自己正義を振り回す事はありません。自立は、成長しつつあるプロセスであり、不信を溶かすのです。両性の間に今も存在する不信は、知らないものや違ったものを怖がったり、拒絶したり、力でねじ伏せてきた古代の残余です。ニューエイジにおいては、違いはもはや恐怖を引き起こす事はないでしょう。宇宙を信頼したとき、違いはいつも特別な魅力を持っています。違いを怖がらず、違いに引き寄せられる時、皆さんは完全に自分を実現し、真実でないもののブロックを溶かし去ります。この様にして、皆さんは自分自身の最も高い潜在能力を再確認するのです。しかし、違いを怖がったり信じなかったり、どんな違いも否定する時、皆さんはこれを、不真実と辛苦に留まる意図を測る物差しとして使う事ができます。

 人類の意識の現状では、あらゆる発達の段階が見受けられます。最高の形も、すでにある程度は皆さんの意識の中に存在するかもしれません。皆さんは、その考えのいくつかを意識的に掴み取ろうとするかもしれません。しかし、皆さんが意識的に持とうとした考えに、感情的に全く同意できない反応をするより深いレベルもあるのです。どこで、どのようにその感情から目をそらしているのか見る事無しに、これらの意識に無理強いする事は賢明とは言えません。というのは、それが自己の内にある不均衡や不調和から自分を守り、そして外にそれを作り出す唯一の方法だからです。

 勿論、全ての事にはひとつの鍵があります。その鍵とは、愛です。愛無しには、何者も治したり、統一したり、真実を手に入れたりする事はできません。そして、また、愛は真実無しでは勝ち取れないという事も、同じくらい事実です。皆さんの心の片隅深くには、反対の性に対する憎悪やおそれ、恨みや不信が今も広がっています。さらに重要なことには、この状態を維持しようとする意志、そしてこれらの感情を永続させ、隠そうとする意図が、両性の心や精神を花開かせる事を妨げているのです。この古い状態にしがみつく人ほど、自分自身を手に入れられず、もう一方の性に関連付ける事ができなかったり、自分自身を満たす事ができないのです。古い態度を変えずに残したまま、関連付けを行ったり、夢をかなえようとしたりする事は、全くの時間の無駄です。それは全くくだらない事です。

 ですから、親愛なる友人の皆さん、私は、皆さんの心の片隅にある、反対の性を憎む、隠された小さな裂け目を見つけてくださいと言っているのです。皆さんは、非難したり、責め立てたり、恨んだり、明らさまな正当化で心や感情を閉ざしたりする事で、自分の中にある裂け目に気付かない様にもしているのです。女性は、犠牲者のゲームを使うでしょう。男性は、非難と優越感のゲームを使うでしょう。男性は、女性を、自分を食い物にした、利用したと言って責めるでしょう。そして女性を弱くしている部分に対して優越感を感じることでしょう。

 一時的に、ペンデュラムは、両極端に振れました。女性は、しばしば心や男性に対する愛を忘れ、愛を拒絶して、戦闘的になりました。ペンデュラムのもう一方の動きでは、男性は、肯定的な攻撃性を置き去りにし、それ以前の時代には決して外に出す事のなかった弱さを表現するようになりました。

 これら全てのペンデュラムの動きには、ひとつの目的があります。-本当の真ん中の状態を見つけることです。男性はまもなく真の強さを見つけるでしょう。男性は、偽の強さや優越感を置き去りにしなければなりませんでした。男性は、一時的に弱くならなければなりませんでしたが、弱さを直視できるようになる事で、今新たな強さに向かって行こうとしています。それが、男性の中にある、真の価値と真の力を広げる方法なのです。この様にして、男性はもはやチームの中の優秀なメンバーである必要がなくなります。男性は、感情のレベルにおいて、つれあいに対して心から付き合えるようになります。同じようにして、男性は、平等のレベルにおいて、理知的に女性と付き合う事ができます。それがニューエイジの男性です。

 親愛なる友人の皆さん、付き合うためには、皆さんは、自分の中深くにある、許したくないとか、真実を理解したくないと思っていたり、自分の問題をそのままにして憎み続けたいと思っている場所に入って行く必要があります。皆さんは、反対の性に対する憎しみを開放する必要があります。皆さんは、祈らなくてはいけません-愛する事ができますように、許せますように、理解する事ができますように、そして、自分達が、他の人の中にあるのと全く同じように(おそらく違った現れ方ではあるのでしょうが)、憎み、恐れ、そして不信感に満ちている事を見られますようにと。

 女性は、男性と同じくらい行動的原理を表しています。そして、男性は女性と同じくらい受動的原理を表しているのです。性的合一の中で共に歩む中では、必ずしも同じ方法ではないかもしれませんが、内なる力は、能動と受動の原理療法を組み合わせたものでなければなりません。そうでなければ、不調和が存在するのです。男性といえど、受動的な、もしくは女性的な原理と協力する事無しに、真の男性となる事はできないのです。もし、男性が、男性原理だけを振り回せば、
漫画になってしまいます。そんな男性は、野蛮で、独裁的で、誇張された嘘っぱちです。それと同じように、女性原理だけを振り回す女性は、漫画であり、本当は誰かに寄りかかりたいと思っている、自立する事をやめてしまった子供です。ですから、感情のレベルで充分に受動的になるためには、女性は、男性と同じくらい、行動的原理を表現しなければならないのです。

 この2つの原理は、時々並行する事があっても、双方の中に表されなければならず、互いに補完するものでなければなりません。この完璧に調和した状態は、理性的決断を通しては、起こりえません。愛する事-つまり、憎しみ、不信、非難の縛り付けから反対の性を開放するという内的行動を通してのみ、有機的に見つける事ができるのです。この開放が、日々の瞑想で宣言され、神の恩恵が、女性のみならず男性の意識の中で働き始める時、真実が愛に導くように、愛が真実に導いてくれるでしょう。新しい宇宙においては、どちらの性の個人も、お互いに補い合い、助け合い、愛し合い、尊敬し合い、寄り添いあいながら、至福と新しい世界を作り上げる、生産的な人類として平等に機能するでしょう。これこそが人生のあるべき姿なのです。

 皆さんは、もうこのやり方のパターンにお気づきかもしれません。-パートナーシップの問題を解決するには、まず個々人が、生き方の問題を解決する必要があるのです。この講義の文脈においては、これはとても明白です。関係が、依存や寄生、もう一方を利用したり、支配したり、奴隷化する必要を形作り出したとき、その人たちは、再証言の自立や独立が確立するまで、自分達を守らなければなりません。いったんこの創造的回路が確立されれば、新しい自由が、それまでに
囚われていたエネルギーを開放し、全く新しい方法で、反対の性との関係をもち始める事ができるのです。

 皆さんにこの講義をする事ができて、大変幸せです。というのは、男性、女性ともに、全人的な存在に、さらに皆さんを広げて導く全ては、私たちにとって喜ばしい経験だからです。皆さん全てを通して通り過ぎるキリストの美しさを見てください。安らぎのうちに、皆さんが自らの神となりますように。



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