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No.232 実在的な価値観vs.外観的な価値観「自己認識」

Pathwork Guide Lecture No. 232
1996年版
1975年6月4日


実在的な価値観vs.外観的な価値観「自己認識」
BEING VALUES VERSUS APPEARANCE VALUES -SELF-IDENTIFICATION


 ようこそ、最愛の友である皆さんに神の祝福を。私達がワークしてきたこのシーズン最後のレクチャーは、あなた方のこれまでの内なる歩みを総括するものです。皆さんの成長は心温まるものであり、見ていて何より喜ばしい光景です。愛する友よ、あなたは自らも気づいていない程に大きな成長を遂げました。

 幸せや豊かさへの鍵は、新しいレベルの働きへの移行です。奪い、欲し、要求し、更には与えないという古い態度が、愛し、与え、献身する、誠実な態度へと変わることです。それ以外の鍵はありません。しかし、与えない態度に気づく前にそのことを語るのは、表面的で無意味です。この鍵を役立てるには、まずそのような態度に気づく必要があります。このレクチャーでは、異なる在り方があると理解することが、価値観や自己認識の問題といかに関わるのかを、より深いレベルで示したいと思います。

 根本的に、人間を支配しているのはふたつの価値基準です。ひとつは実在的な価値観であり、もうひとつは外観的な価値観です。これらについては以前、表面的にお話ししたことがあります。これから、このふたつの価値観がもたらす影響について説明しましょう。

 殆どの人間は、外観的な価値観のレベルで機能します。既に広範囲にわたる自己浄化と変容の道のりを経た最も進化した者だけが、他者の目に映る外観を気にするのではなく、真の価値観、ありのままの現実の為に機能します。

 他の多くの場合と同様に、ここでも又、どちらかの二者択一ではありません。程度があるのです。人は人生のいくつかの領域では真の価値観に基づいて機能することができ、それ以外の領域では未だ外観的な重要性に縛られていることがあります。このパスワークにおいて次第に、かつては優勢だった外観的な価値観の領域でも、真の価値観が優勢になっていくでしょう。

 これ程広範囲にわたる道を歩み始める前、又、始めてから暫くの間は、人間は殆どの領域において、外観的な価値観に基づいて機能します。では、その違いを見てみましょう。

 外観的な価値観は常に、印象づけることを目指します。このような誤った価値観は、承認を渇望し、他者に感銘を与える為に自らの真実を売り渡すというような、粗野な形として現れるかもしれません。この傾向は、非常に明白で分かりやすい場合もありますが、同時に非常に微妙で隠れた形で現れることもあり、容易には見抜けません。多くの活動や方向性において、あなたは内面では「自分がどう思われるか」という半意識的な期待や不安に焦点を微妙に合わせています。他者からの否定的反応への恐れは、途方もない不安を引き起こします。従って、外観的な価値基準は陰険で有害です。友よ、それは見た目以上に有害なのです。何故なら、それは内なる現実から、ハイヤーセルフから、状況の真実から、あなたの関与や投資の誠実さから、あなた自身を本当に切り離してしまうのです。

 この観点から自分自身を観察し始めると、最初は視野の隅にほんの僅かに見えるだけの多くの領域を発見することになるでしょう。しかし、更により意識的になり、それらに波長を合わせるようにすると、実はそれ程微妙なものではないと気づきます。実際、外観的な価値基準は、実在的な価値基準とは対照的に、この世界では非常に大きな影響を生み出します。外観的な価値観は、その努力や目標がどれ程強く、一見愛情深く創造的であったとしても、それは常に不誠実さを暗示します。何故なら、活動を通して直接的に行うにせよ、自らの価値を証明する為に権力とお金を獲得するにせよ、あなたが行うことは結果の為なのです。

 実在的な価値観に基づいて行動する場合、あなたは真実の為に、実在の為に、自らがやることをやります。これは単に、他者の意見に関わらず、その活動が本来の目的を果たすよう最善を尽くすことを意味しているのかもしれません。あるいは、それは自らのやること全てを何であれ神に捧げ、愛、美しさ、善意、慰め、建設的な何かを世界や他者に対して提供することを意味しているのかもしれません。又、他者の意見が何であろうと、自らの努力や効果が他者に気づかれるかどうかには関わらないということです。あなたがやることが人道的貢献、芸術作品の創作、科学的な研究、あるいは最も些細で取るに足らない日々の雑用であろうと、何ら違いはありません。日々のあらゆる活動を、見た目ではなく、実在の精神をもって為すことが重要なのです。

 あなたの行為や達成を自己価値の代用品にするのではなく、その行為そのものが表わすものの為に行動する時、それは最終的に愛の行為、霊的な誠実さ、与えて豊かにする人生へと繋がります。あなたが他者に与えるものは、あなた自身にも与えているのです。他者に与えないことは、他者から奪う以上に自分自身から奪っています。それは、あなたに与えられているものを受け取る能力を失わせるのです。

 実在の次元で行動すると、非常に劇的な変化が起こります。これらの変化は、最も深い次元における動機の高潔さの副産物です。もっとも、あなたはこの繋がりには気づかないかもしれません。例を挙げましょう。攻撃され、裁かれ、批判され、拒絶される時、外観的な価値観に基づいて行動している限り、あなたはひどく打ちのめされるでしょう。どうしたらこれを変えられるでしょうか?もしあなたが、他者の目に自分がどう映るかということに、自らの価値と自尊心を結びつけているなら、それがどんなに些細な問題であっても、誰かの目に悪く見られた時、あなたは打ちのめされたように感じるに違いありません。内なる拠り所を失うように感じるのです。最早、自らの中心に整合していないと感じるでしょう。勿論、外観的な価値観に支配されている限り、あなたは本当には自らの中心には整合されていません。しかし、批判されていない時にはそのことに気づかないのです。賛美や称賛を受ける時、あなたはその瞬間に満たされているので、中心に整合しているように見えます。成功の瞬間でさえ、あなたは自らを蝕む不安に気づいていません。自らの価値を他者から得ている限り、自己価値を自らの外から受け取るという中心性のない状態で保たれるのかどうか、常に心配していなければなりません。あなたは自己価値という感覚に対して、何のコントロールもないということです。

 一方、実在の価値観に基づく行動は、深い内面の安心感をもたらします。これは、敵意のある判断や不公平、又あなたを貶めようとする意図によって、傷つけられることはないという意味ではありません。しかし、あなたの土台を決して揺るがすことのない傷つきと、実際にあなたの土台を揺るがす傷つきとの間には、大きな違いがあるのです。

 外観的な価値観に基づいて行動していると、体裁が悪い時には基盤が揺らぎ、崩れ落ちそうにさえ見えるでしょう。実在の深い安心感の中で行動する時には、そのようにはなりません。最も隠されたレベルにおける、自らの真の動機に対する完全なる誠実さと知識、与えることの真実、投資の誠実さ、隠された考えや下心のない目標の追求、これらがあれば、自己価値への確信は現実に根差したものとなり、いかに批判されようと、その批判がいかにあなたを傷つけようとも、あなたは自らの核心である揺るぎない真実を経験します。それによってあなたの自己価値は、他者の意見にも、他者に知られている長所や無視されている短所にも、左右されることはなくなります。こうして、言葉では言い表せない、自らの中心性、安全、永遠の自己価値への気づきが生まれます。

 外観的な価値観に基づいて行動する時、アイデンティティー(固有性)は失われます。あなたはアイデンティティーを他者の意見、つまりは他者の目にどう映るかに左右させます。従って、褒められたり、名誉を与えられたりする時には、つかの間の素晴らしい満足感と自己肯定感を得ます。一時的な爽快感さえ感じるかもしれません。しかしそれは、不安定な土台の上に築かれています。その称賛や承認が与えられなかったり、それが覆されたりした場合、地盤は揺らぎ、あなたは迷子になって、アイデンティティーを感じられなくなるのです。偽りのアイデンティティーの感覚は打ち砕かれ、真の自己認識はまだ確立されていません。

 外観的な価値観が水面下で支配的である限り、あなたは絶えず自らの自尊心を蝕んでいます。外観的なレベルにあまりにも重きを置いている時、心の奥底では自らが真実の中にいないことを知っているのです。ハイヤーセルフと繋がることができません。あなたは自らの与える行為が外見的でしかなく、隠された動機があり、傲慢に何かを得る為であることを知っているので、深いレベルでは自分自身を疑っているのです。従って、他者があなたを疑ったり、信用しなかったり、何らかの形で批判する場合、表面上では非常に憤慨し、防御的に言い争うかもしれませんが、内側では自らの中心を見つけることができません。何故なら、例え特定の問題への誠実さは満たしていたとしても、自らの全般的な行動の在り方の誠実さに疑いがあるからです。

 他者の内の真実を感知する能力は、あなたが採用する価値観の深遠かつ重要な側面です。深くコミットした誠実な精神において与える時、何をするにしてもそれはあなたの最高の能力を惜しみなく投資したものとなります。しかし、その精神がなく、外観的な価値観が支配的な場合には、以下のような問いに本当に答えることはできません。私は正しいのか、誤っているのか?他者は正しいのか、誤っているのか?私はどの程度正しく、どの程度誤っているのか?他者はどの程度正しく、どの程度誤っているのか?具体的にはどのような領域で、私は正しく、他者は正しいのか?具体的にはどのような領域で、私は誤っており、他者は誤っているのか?

 このような疑問への気づきを否認したとしても、これらの疑問はあなたを悩ませます。残念なことに、外観的な価値観が自らの誠実さをいかに損なうかという認識を抑圧しているからです。否認はまさに、混乱の真の原因です。これは、自分自身が何者なのかを理解する明晰性が必要な時、このような問題や疑問をぼやけさせる霧を生み出します。そうしてあなたはもがき、暗中模索しますが、それは健全な方法の模索ではありません。あなたは本当に混乱し、その葛藤には痛みがあります。何故ならそれは、コミットメントや与えることの深い誠実さからのみ得られる、内なる安心感の欠如を覆い隠す葛藤だからです。与えることとコミットメントの欠如は、言うなれば、精神的な気概を蝕んでいます。これは、あなたが行うこと全て、考えること全てに対する疑いを抱かせます。

 あなたは、健全で深い自尊心の土台がない、人工的で脆い安心感を取り入れるかもしれません。しかし、安心感への入口となる、健全で必要とされる模索は、全く異なる形をとります。異なって感じられるのです。正直な探求は、覆い隠す必要がありません。それは美しく、成長をもたらす苦闘です。ここでは、自己経験の違いを示すことしかできません。何故なら、誤解されたとしても自らを失わない場合の痛みと、誤解によって自らを破壊されることの痛みとの非常に大きな違い、又、真の成長や探求の苦闘と、隠れた不安を覆い隠すことの誤った苦闘との大きな違いは、言葉では伝えらえない程に計り知れない違いだからです。

 称賛を得ようが得まいが、認められようが認められまいが、毎日毎時間あらゆる活動において、真に最善を尽くすと繰り返し決意してください。神への純粋な誠実さ、真実、美しさ、愛、そして自分自身への愛や人生への愛の為にそうしてください。そうすれば少しずつ、まるで副産物であるかのように、かつてはあやふやで、自らの不確かさを防御せねばならなかった問題や事柄、永遠の二元性の暗闇の中で手探りしていた問題や事柄について、深く直感的な内なる知識が生まれるでしょう。

 例えあなたの知性が既に、一方はもう一方と対立しないという統一性のシステムを受け入れていたとしても、それは理論上受け入れているに過ぎません。これは、何が正しいのかという直感的な確信や、自分自身、他者、人生についての確信が生まれる、最奥の中心と繋がる生(ライブ)の経験とは全く異なります。この確信は、ゆったりと内側で知っているという感覚です。何者も奪うことのできない、深い平和と明晰性です。これは、あらゆる防御態勢からも自由です。これは誠実に与えることや、コミットメント、ここで語っているような実在的な価値観の土台の上に築かれた自尊心の結果としてのみ得られるものです。自らの内なる真実、即ち真に与えること以外の土台の上に自尊心や安全を望むとは、なんという迷妄でしょう!

 これらふたつの価値観のもうひとつの側面は、自らが本当に欲しいものを知ることです。自らのハイヤーセルフを知らず、繋がらず、同一化できず、全てのエネルギーは外観的な価値観に注ぎ込まれており、それ故に自らの中心性を欠いているならば、自らが欲しいものが一体どうして分かるでしょうか?全てが外観的な価値観によって色づけられ、決定づけられます。自分が欲しいものよりも、他者の目にどう映るかが優先されるならば、自分が何を欲しがっているのか知ろうとすることさえ自分自身に許せなくなります。何故なら、欲しいものが自らの名誉や他者からの評価を低下させる可能性がある場合、あなたは何であれ称賛や感心を得られそうな何かを欲する方が望ましいと、自らを説得するのが良いと思うかもしれないからです。

 従って、外観的な価値観に基づいて行動すると、実際には、自らの真の望み、運命、真の潜在性が何なのか、真の充実や憧憬を経験しないことになります。それは、あなたが借りている外観的な価値基準とは一致しないかもしれません。外観的な価値基準は多く存在しますが、あなた自身のハイヤーセルフに関する限り、その無限に多様な自己表現にも関わらず、実在的な価値基準はひとつしかありません。あなたの実在的な価値観が、他者のハイヤーセルフの価値基準に干渉することは決してありません。葛藤が生じる時、恐らくあなたが気づかない内に、少なくとも一組の価値観は外観的レベルに固執しています。深い自己対峙からのみ答えは得られます。

 対照的に、外観的な価値観は互いに干渉し合い、同時に硬直的で強張っており、その順応性と退屈さにおいて変化に乏しいのです。個人主義的に見えますが、外観的な価値観には、実在的な価値観のみが持つ柔軟性と息づく生命力が欠けています。

 自分が本当は何を望み、切望しているのか敢えて知ろうとしないなら、満たされない思いに苦しむことになります。何故なら、外観的な価値観が定める偽りのゴールでは決して満たされないからです。あなたは常に、自らの期待に決して応えはしない何かを追い求めます。恐らく、更に油断のならない苦痛は、自分が本当は何を望んでいるのか分からないという事実そのものでしょう。暫くの間は、空想上の欲望や目標を熱心に掲げて、あたかもそれらを信じているかのように振る舞うことで、この事実を自分自身から隠すことに成功するかもしれません。しかし遅かれ早かれ、自らの欲望、憧憬、目標について混乱していると気づくでしょう。この混乱は、真の自己認識の欠如と、それに対する絶望感を増大させるだけです。

 方向性、自己表現、才能、趣味、意見、哲学、本当の気持ち、生き方、成長の可能性、人生の一般的な傾向、日々の小さな決断において、外観的な価値観は、あなたがそれを受け入れる限り、真の望みや、本質的に自分が何者なのかを知ることから、あなたを常に切り離すのです。ごくありふれた事柄から人生の全体的な方向性に至るまで、何をすべきか、何をすべきでないかという決断は常に、あなたが実在的な価値観に基づいて行動するのか、外観的な価値観に基づいて行動するのかによって決まります。

 ですから、外観的な価値観に支配され汚されていると、自分が本当は何者であり、本当は何を望んでいるのか決して知ることはできません。あなたは、自らが採用した外観的な価値基準に当てはまる想像上の欲望を借りてきます。そして、それを最後まで追求すると、当然のことながら虚しさだけが残ります。例えあなたのエネルギーシステムを莫大に消耗して成功したとしても、失望することは当然なのです。ハイヤーセルフ、あなたの現実、あなたが本当は何者であるのかに、エネルギーシステムが相反する働きをするので、莫大な努力が必要になるのです。そして、人生に対する絶望、無力感、希望のなさが湧き上がってきます。あなたは心の中でこう言います。「あれやこれを成し遂げる為に、私は随分と労力を費やし、一生懸命努力をしてきた。それなのに、私は満たされず、空虚で、自分が一体何者なのか分からない。」殆どの人間は時折、このような考えや感情を抱きますが、皆それが何故だかは知りません。

 実在的の価値観の機能は、全く異なる状況を創り出します。この場合、他者があなたの選択を認め、称賛するかどうかに関わらず、あなたは自らの欲望、方向性、表現を見つけることを恐れません。あなたは内面でリラックスし、真の自己をその表現や欲望と共に解き放つという贅沢を味わえるのです。こうして、あなたは本当に望むものが何なのかを見つけるでしょう。

 自らが真に欲するものを知る。それは何と素晴らしい豊かさでしょう!あなた方のこの世界において、これは何と稀な現象なのでしょう!真に欲するものを知るという宝を見つける。この祝福された出来事に至る為の自己浄化の葛藤がどれ程大変なことか!そう簡単に見つかるものではありません。自分が本当は望んでいる真にそうで在るものの代わりに、そう在るべきだと思う何かになる為に望むべきだと思う何かを借りてくることによって、自らの真の自己とその表現を蝕む部分を見つけ出し、排除せねばなりません。

 外観的な価値観から行動する時、あなたは自らの知覚や欲望を信頼できません。あなたが生き、自らを惑わしている外観的な価値観という虚偽に染まっているなら、それは信頼できないのです。確かに何かが魅力的に見えても、それが自分にとって正しく、良いことであるのか、あるいはそれを望むことは間違っているのか分かりません。あなたは不確実性の中でもがき苦しみます。

 あなたが全ての行為に最善を尽くすという誠実なコミットメントをするならば、あなたの完全性が他の隠れた動機ではなく、与える為に与えること、つまり神の為に与えることを確信しているならば、遅かれ早かれ、あなたの欲望は神の意志であるという信じられない程の奇跡を経験するでしょう。

 最初は、古い習慣的な基準から、自らの欲望が善であり正しいのか疑うでしょう。例え既に、実在的な価値観に基づいて行動していても、あなたは自らの欲望を疑うことに慣れています。それらはあまりにも長い間、何世紀にもわたって汚染されてきたので、最早疑う必要がなくなっても疑ってしまうのです。あなたは自動的に自らの欲望は間違っているに違いないと思い込み、もし誰かが不賛成ならばその人の方が正しく、自分の欲望は正当ではないと思うのです。しかし、実在的な価値観の影響に気づき始めると、貪欲な幼子の期待だと思っていた、喜ばしい禁じられた欲望は、実は神の意志であるという奇跡を見出します。外観的な価値観に基づいて行動する時、神の意志は実際、あるいは少なくともあなたの欲望とは相反するもののように見えるものです。往々にしてそうなのです。何故なら、真の自己はしたくないことをすることは楽しめないからです。

 押し付けられた偽りの欲望は、本物の喜びを与えることもなければ、神の意志でもありません。それらは、外観的な価値観によって決められています。そのような欲望と、神の意志とは正反対です。時には、その欲望がいけないことで反抗的に見えるからこそ、喜ばしく見えるかもしれません。だからこそ、それは神の意志に反しています。又別の時には、それは神の意志に反してさえいないかもしれませんが、あなたが自らの真実から切り離されている限り、それを知ることは決してないでしょう。

 このテーマの最後の側面について触れておきたいと思います。これは来年、私達が行うワークの多くの伏線となるでしょう。それは、創造と再創造、生命と魂の物質の形成です。これは言葉の力に関するものです。聖書には、「初めに言葉があった」とあります。これには非常に深い意味があります。

 言葉は最初の創造的刺激です。言葉は意図の表現であり、意図に形を与えます。言葉から行動、創造的な行動、そして最後までやり遂げるプロセスが生まれます。言葉は最初の青写真であり、計画です。大きな声で語られようと、内なる声で静かに肯定的に語られようと、言葉には計り知れない力があり、断定的で決定的です。言葉は彫刻刀なのです。あなたはその道具で、自らの内にあり、同時に自らが内にある魂の物質を成形し、形を与えます。魂の物質は、あなたに浸透しているだけでなく、あなたを取り囲んでいるのです。

 あらゆる思考や意図は強力な媒介物です。断固とした言葉の背後にある葛藤のない態度から、その一点集中から、創造力が生まれます。さて今や、外観的な価値基準から行動して、真の自己やその真の価値観や欲望に繋がらなければ、自らの神なる自己を知ることには繋がらないと容易にご理解頂けたでしょう。この場合、多くの相反するレベルも又存在している筈です。そうなると、発声された言葉でも、思考された言葉でも、創造するのに必要な強さ、力、明晰さは持てません。多くの相反する思考、欲望、感情、意図は、互いに干渉して打ち消し合う、自己破壊的で短絡的な行動の絶え間ない揺らぎを引き起こします。従って、その言葉には真の力はありません。

 真の力は、言葉の矛盾のなさ、ワンネス、全体性の中に含まれます。感情、欲望、概念、知覚、知識は全て、ひとつにまとまって互いに調和し融合したエネルギーの流れでなければなりません。そうして、言葉の力は計り知れないものになります。ならば、言葉こそが創造の最初の媒介である以上、あなたが何を創造するにしても、それは構造と形をとらねばなりません。

 自らが創り出すものに問題を見つけたら、思考や感情の様々なレベルにおける混乱と矛盾に目を向けましょう。あなたが機能する外観的なレベルで、これがどのように発せられているのかを見てください。これを理解するに伴い、あなたは日常的に行う全ての行為だけでなく、人生全体の方向性においても実在的な価値観にコミットすることに、一般的かつ哲学的のみならず、具体的に更なる一歩を踏み出すことでしょう。

 もし未だ大まかな方向性が分からない場合には、答えを模索し、問いかけ、受容的に待ちながら、実在的な価値基準を活用することができます。これも又、実在的な価値観に従うことです。それに続く苦闘は、混沌や混乱ではなく、むしろ生命と光を生み出すでしょう。

 今後、言葉の力に関する他の側面を取り上げます。あなたが口にする言葉、心に抱く言葉、そして思考にせよ発声にせよ、あらゆる言葉の影響について話します。外観的な価値観に基づいて行動していることで自分自身に信頼をおけない時、あなたは自らの力を過小評価しています。自らを軽視し過ぎて、あなたは自分から発せられるもの、表現、態度がどれ程強力なのかを考慮できません。それらは傷つけることも、影響を与えることも、害を及ぼすこともでき、又、癒すことも、救うことも、生命を生み出すこともできるのです。

 例え外観的な価値観の誤りと不誠実さの中にいる間でも、自らを無に等しいと考えるならば、あなたは生来の神聖な顕現を侮辱することになります。これは、あなたが万物とひとつであることを示す、更なる証拠です。もし自分自身と自らの力を過小評価して自らを侮辱するならば、それは他者を傷つけ侮辱するに違いありません。自らを卑下する人間が謙虚で善良だと思い込むのは、全くの誤りです。あなた方の世界の二元的誤解のひとつは、自己評価の低さを謙虚さや善良さと同一視し、自己価値の認識をプライドや傲慢さと同一視することです。これ程、真実からかけ離れたことはありません。自らの価値と力を知って自分自身を尊重していれば、他者を思いやり、大事にする筈です。自らを卑下して他者を大事にすることはできず、その逆も又然りです。全てはひとつです。これは言葉ですが、もしこれを深く見ていけば、その力を真に理解するでしょう。

 最愛なる大事な皆さん、祝福を受けてください。全てがあるがままであり、これからもそうである人類の光の中心へ、あなたの最奥の存在へと更に進んでください。喜びに満ちて進みなさい。何故なら、あなたは祝福されているのだから。


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