


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No.233 言葉の力
Pathwork Guide Lecture No.233
UNEDITED版
1975年9月24日
言葉の力
THE POWER OF THE WORD
ここにお集まりの心から愛しい皆さん、こんばんは。祝福と愛が皆さんを包み、皆さんの核を貫いています。喜びと共に皆さんとのコミュニケーションを進めていきたいと思います。このコミュニケーションが断ち切られたことは実際には一度もないこともまた、付け加えておきましょう。
ここにいらっしゃる多くの方々はご自身が素晴らしいプロセスに深く関わっているのだということをはっきりと感じていらっしゃるのではないかと思います。このプロセスとは、スピリットから遠ざかっていたところにふたたびスピリットが入り貫くというプロセスです。さて以前にもご説明いたしましたが、スピリットから遠ざかった一部は独自のものとなり、特有の勢いを創り出します。この一部は創られる勢いの一部となり、独自のパターンを生み、そして創り続けます。人の用語を用いるならば、人生ではネガティブな創造の方がより強く捉えられるのかもしれないということです。人はこのネガティブなものに捕まりやすく、ネガティブなものはポジティブなものに変換することが出来ないかのように映ります。この道を歩み、ここに至るまでのワークに取り組んできた皆さんにおいては、ネガティブな創造のパターンから抜け出すことは可能であることに気づき始めていると思います。あたかも自分とは無関係の独自の生命であるかのように自分を掴むネガティブな勢いから抜け出すことが、実際には可能であることに気づき始めているのではないでしょうか。人はこの勢いの被害者であるかのように振舞います。自分をさらうこの動きは、とても直接的に自分が創り出したものだということに気づいていません。
パスワークセンターを創るにあたり皆さんは、このセンターを創り出すという動きが、一人の存在としての皆さんの随意的で意識的なものを超えた壮大な計画の一部であると経験し、その目撃者となっていることと思います。自分の中にローワセルフの側面が未だに存在しているにもかかわらず、今皆さんは最もポジティブな勢いに身を置いています。ハイアーセルフが絶えず優勢となっています。このハイアーセルフはローワセルフを否定することを望み上から被せたものなどではなく、現実にしっかりと根差された真の変容の結果です。皆さんはご自身の個人的な人生で、これまでになく成長を続ける結実の様子を目の当たりにすることと思います。同時にコミュニティー全体においても、コミュニティーの成長や拡大、深みや幅にこの果実を見出すことができているのではないかと思います。
今お話ししているこの動きのより高き目的は、皆さんの現在の人生を遥かに超えたものであることに気づいていただきたいと心から願っています。この動きは進化における重大な変化への準備であり、すべての人がそれぞれ独自の形でこの変化の中の楽器なのです。自我や虚構、プライドが絡んでいない、自分の中の内なる場所で皆さんそれぞれが自分自身の課題の重大さに気づく必要があります。そしてこのことが本当に今、可能なのです。プライドや虚構のない最も深淵な意義ある高き理由のために自分の課題を達成し、課題を達成するための楽器となることの幸せを知ることは、皆さんが選択しさえすれば可能なのです。これは今すぐに行えることであり、そうすることで今お話ししている動きを創るエネルギーや意識へよりたくさん貢献することができます。
意識の動きとは、人間が想像するのとは逆のものです。人はよく二元的で生命を遮断した状態が高い領域へ「上がる」と言いますが、そうではありません。これは本来とは逆の視点であり、空間や時間にまだ囚われている意識に当てられた用語です。高い領域は低い領域を貫き「降りて」くると言う方が、低い領域が高い領域に上げられると言うより的確です。後者の概念では、地球の領域は現在のレベルに留まり、その間そこに住む者達は昇っていくことになります。これは完全な真実とは言えません。実際の進化の動きにおいては、以前の粗野なエネルギーを、高い意識のエネルギーがこれまでにも増して地球を貫き、変容し、スピリチュアルなものとしています。これは皆さんが深く関わっている課題であり、まずはご自身の人格に始まり、次に他者の中のより高い次元との接点のために課題を達成していくのです。
個人的なプロセスを通して皆さんは、ご自身の中の淀みなく真実味のある一部が寛大さや愛という無限の存在である自分を囲み、ローワセルフの少しばかり不実な心配事に浸透していく様を経験していることと思います。これは人類の集団の意識に似ています。キリストの意識という「より高く」より進化し、真実の内にあり浄化されたものに見える意識が、人々の内的なレベルの現実を押し流すことに人類の集団の意識があまり抵抗をせず、動きを進んで受け入れる様子に似ています。このようなことが起こるとき、取るに足らないエゴや嫉妬といった感情は、自分という存在をさらに豊かな達成へと幅を広げ、自分以外のすべての生命と一体となるという人が持って生まれた権利や、自分自身の価値を深く知ることに道を譲ります。この意識で皆さんの魂、指向、ハート、体、つまりは皆さんという存在全体を満たしてください。皆さんは神聖な美であり、隣人もまた同じであることを、すべての人がそうであると分かることを自分に許しなさい。人類は皆ひとつであり、何が自分の物であるかと戦う必要はないのです。唯一必要なのは、いつでも皆さんが経験できるようにそこにあったものを経験することを主張することだけです。ただし、皆さんの内的な自己がじゅうぶんにこの経験を許すのは、ご自身を浄化し、真に正直になり、すべてのローワセルフの側面やそれがもたらす影響を自らに暴き考慮できるだけの勇気と高い道徳心を持ったときだけです。これをモチベーションに、自己変容の偉大なる課題に取り掛かってください。この課題は乗り越えることが可能なだけでなく、皆さんの中の恐れや無知が止めようとする、魂が持ち合わせている自然な動きだということを皆さんは益々分かってきているのではないでしょうか。
真実と愛の光が皆さんの一日、行動、自分自身に対する姿勢を満たしますように。そしてキリストの意識という不随意で建設的な力がこれらを制覇し、皆さんが創造し、そして創造し続けるように運んでくれますように。皆さんが目を見張り経験する栄光の人生が結果として創り出されますように。もっともっとそちらの方向へと皆さんはご自身を拡大し、自分が目の当たりにしているものを畏敬の念と共に見て、ただそこに立ち尽くすことしかできないでしょう。今目撃している拡大や変容はまだ始まりに過ぎません。もっと多くが後に続きます。喜びと達成という最も高いエネルギーに耐える能力は、ご自身の成長が培うものです。そして忘れてはならないのは、すでに皆さんが人生やコミュニティーで経験していることは、これまでに皆さんが投入してきた建設的なエネルギーが合わさりもたらした結果です。つまり、最も高い性質を持つ誠実な投資とコミットメント、指向、意図、行動が投じられた結果なのです。こうしたものは次に、人間の意識と高い成長の段階にある存在の間にある壁を取り払います。高い成長の段階にある存在の力や、こうした存在の領域が持つ影響力は皆さんの愛や真実、良き意志や宇宙へと自らを与える姿勢と混ざります。そして、今皆さんが自分を運んでくれていると強く感じている勢いや、最も高い規律を相互に高め合い創るのです。
今夜のレクチャーはこのプロセスに特化し、お届けいたします。より意識的にプロセスの口火を切るにはどうしらたいいのか、自己永続的な動きと創造をネガティブなものからポジティブなものにするにはどうしたらいいのかについてお話しいたします。随意的なシステムを通して不随意の動きを創るにはどうしたらいいのでしょうか。言葉の力についてお話しすることを皆さんにお約束しましたね。これが今夜取り上げるトピックです。はじめに言葉が何であるかを理解しましょう。言葉とは創造的な媒介です。言葉は心理の核を成す点、もしくは心理の核の爆発であり、そこから動きや系統だった連鎖反応が起こります。ひとつの言葉は倫理的かつ無常に他の言葉に連なり、これは言葉の創造が収束し、行為や事実となるまで続きます。言葉はさらに、心理の核を成す点が持つエネルギーのパターンを生み、それぞれが生む繋がりや、点そのものがまた別の「言葉」となり「創造の媒介を代理するもの」のようになります。言葉はひとつひとつがブループリント、すなわち雛型であり、その構造は構築することができないものです。言葉は表現であり創造、計画、知恵、意見、そして意識です。言葉は感情であり姿勢、意図です。言葉は独自の膨大なエネルギーを持っており、他のエネルギーとは異なります。すべての創造の裏に広がっているのが言葉です。ある特定の創造が起こるとき、その領域で言葉が話され、知られ、誰かの心の内に抱かれ、信じられ、コミットされることなしにその創造が存在することはありません。言葉とは今挙げた状態すべて、またはそれ以上が合わさった複合体です。口に出された言葉は、言葉の動機となる意志を暴きます。この意志は神聖なものである場合もあれば、分離し無知で破壊的な意識の一部であることもあります。意識しているといないとにかかわらず、言葉とはその言葉が置かれた領域での皆さんの信念の総数です。言葉は惑星を生み出す太陽です。言葉とはエネルギーを生み出す力であり下図です。
ひとつの言葉には多くが含まれています。はじめに言葉があった、もしくは実際に今も、はじめに言葉があるという仮定から聖典が始まることは意義深いことです。そこにはいつでも言葉があります。神は言葉を話し、そしてそこから皆さんの人格を含むすべての創造が存在するに至ったのです。言葉は皆さんが見ることのできるすべて、経験し感じることのできるすべての背後に広がる雛型です。惑星系や集団の意識、個人の意識においても創造のさまざまな側面を生み出す言葉が多く存在します。
さて、実際の人生にこの真実をどのように適用したらよいのでしょうか。パスワークというこの道で皆さんがこれまでに行ってきた作業からも拾うことができるのではないかと思いますが、すべての経験は皆さんが口にした言葉の産物です。そして過去に留まらず、今でもさまざまな形でとめどなく意識のどこかのレベルで語り続けられているその言葉の産物です。この道での我々の目的は、明けても暮れても一日のうちのすべての時間で発される言葉すべてを意識に上げ、自分の創造を理解することです。
大抵皆さんは(人類皆がという意味です)極度に「忙しい」状態にあり、自分が話している言葉を意識から排除しています。自分の内なるシステムに騒音を生み出し、自分自身の言葉が聞こえないようにしているのです。道における新たな段階、つまり自分が話す言葉に意識的になり、その言葉がいかに、そして何を創造しているのかに意識的になることについてここで熟考し、入っていくことができます。これがすでに始まっている人もありますし、また少し後で始まる方もあるでしょう。
ひとつの言葉は分けることができます。相反する二つの言葉を皆さんが話すとき、意識のさまざまなレベルで相互に打ち消し合う意味を持つ言葉を話すとき、皆さんは混乱し、創造はこの混乱に準じて成されます。自分が話している言葉に気づかないために霧を生み出し、他の言葉で言葉を曇らせるときには、人生の状況を創り出している主たる言葉を丹念に結晶化し、曖昧さをなくす必要があります。ポジティブな創造もネガティブなものも、その両方でこの作業を行うべきです。
これまでにも皆さんはこうした作業を行ってはきたとも言えるのですが、今回のような明確な形ではなかったはずです。今は皆さん、話し言葉という鋭利なツールを扱う準備ができています。今お伝えしていることは知識として新しいものではありませんね。この知識は長きに渡り仮定されてきましたし、この地上に降り立ったたくさんの人々によって公言されてきたことです。しかし大抵は霧の上に被せるように適用され、ネガティブな言葉に含まれる障害や言葉に相反する力をすくい上げることなく使われています。これについては随分昔にお話ししたことがありますが、当時はそれ以前にしなければならないワークが山積みだったため触れるだけでしたね。ここであらためて同じ内容に意義のある形で戻ることができます。タイミングというものが極めて重要なのです。真実や創造的な美に関する言葉を皆さんが話すときに言葉が持つ意識のレベルと、言葉の下にあるものが矛盾している場合、良くしても短絡的な状態を創り出し、最悪の場合は意識に分離や分裂を創り出してしまいます。一時的に人が自分のネガティブな意図やローワセルフの動機などを素直に認め口に出した方が良いのはこのためです。これにより真実性や謙遜、勇気、信頼やその他多くのハイアーセルフの性質を持つ姿勢を含むことができるからです。ローワセルフが隠され、否定された状態のまま神聖な性質の原理を露わにする言葉を話すとき、そこには希望的観測やプライド、信頼の欠如、自分の中にある不完全なものを露わにすることへの恐れがほのめかされています。現実的な形で成長し、発展し、変容し、成っていくプロセスを回避していることになります。つまり、神聖で無限の豊かさが言葉となって真実と共に話されるとき、微細な意識や気づきの状態がそこにあるかないかが大切であるということを皆さん、お分かりいただけたのではないでしょうか。
皆さんの存在の深いレベルに届く、具体的ないくつかの言葉に焦点を当ててみましょう。つまり、皆さんが話す言葉にはご自身への評価が現れるということです。今お話ししているこういった方向へと皆さんの道が今後開かれていくだろうと、最近お届けしたレクチャーで示したことがありましたね。言葉が持つ力と自己価値には直接的な繋がりがあるのです。この二つは共に進みます。自分には価値がないと密かに思いながら、すなわち至福を経験する権利は自分にはないと信じていながら、展開や達成を信頼しているなどと言えるでしょうか。無価値であることが自分の存在にとって究極の真実であると恐れていたのでは、自分には価値がないのではないかという多少なりとも皆が胸の内に抱いているであろう推測に、どうして挑んでいくことができるでしょう。そんなことではこの「知識」をこれからも塞ぎ続け、防衛的になるだけです。皆さんがご存知のとおりですが、こうした防衛の策略こそが、自分は基準に満たない満足のいかない存在であるという信念を強めます。なぜなら防衛はすべてネガティブで破壊的で、罪悪感を生み出すものだからです。皆さんは好戦的に何かを成就し達成し、思考の平和や喜び、豊かさを手に入れる価値が自分にはあるのだと表面的には自分に説得しようと試みるかもしれませんが、その下ではこのすべてを決して獲得することがないのではないか、獲得する価値が自分にはないのではないかと恐れるのです。今挙げたような強みを獲得できるとすれば、それは「盗む」ことでしか成し遂げられず、自分は罰せられるのではないかと恐れます。自分が何を望んでいるかを言葉にするとき、すべての人が望み、そして経験するべきその望みを言葉にするとき、人は同時に相反する言葉をまた別のレベルで発します。これは人生のすべてに当てはまることです。こうした分離の状態、自己否定の状態に人があるとき世界を悲観的にそして恐ろしいものを見るかのように見るでしょう。世界を断片的に、文脈から外れた形で、恐怖の視点を再度自分自身に確認する形で見ることでしょう。
ですからこの道を歩むプロセスに欠かせないのは、矛盾のない言葉を確立することです。自己を暴き浄化するという正直さと勇気があってはじめて、一歩目の、じゅうぶんな自己価値を獲ることができ、これにより自分は無価値なのではないかという破壊的な信念が自分の内にあることを暴くことができるようになります。偽りの自己価値という表面的で代替的な策略を貫通してはじめて、自分が無価値であるという痛みを伴う信念と向かい合う空間ができるのであり、自分の中にあるこうした憶測の存在に気づき始め、自己疑念に疑いを投げかけることができるようになるのです。こうして真実を表す言葉を常に極め、口にすることができるようになります。問いかけさえも真実の言葉になっていくかもしれません「自分の価値に対する憶測は防衛だろうか。それとも真実に基づいた表現だろうか」「優越感と傲慢さの下には、自分に本来備わった価値に対する躓きや疑いがあるのではないだろうか」と。こうした問いに対する答えが実際そうだったとしましょう。そうであるならば真実の言葉が表現されることとなり、また別の問いが後に続くかもしれません「自分の中にあるさまざまなローワセルフの側面が自分を報いに値しない、かわいくない、悪い、価値のない人にするというのは本当だろうか。もしくは自分の真価を認め愛することができるよう自分を正当なものとし、自尊心や達成に値させるローワセルフとは別の何かが自分の中にはあるのではないだろうか」と。問いかけとは、真実の言葉であることが多いのです。
煙の幕の後ろで自分について、そして自分に対して語っている言葉に気づき始めるようにしてください。結晶化し、曖昧なものを明確にする必要があるのはこうした言葉です。これらは漠然とかすみ、不明瞭にそこにあるかもしれません。しかし不明瞭であるからといって言葉の力が弱いわけでは決してないのです。言葉にはいつでも膨大な力があります。言葉はエネルギーで満ち満ちているからです。人類は成長の現段階でエネルギーとその重大性について益々気づいてきています。しかし思考や言葉そのものがエネルギーであるということにはまだじゅうぶんには気づいていません。この二つは別の種類のエネルギーです。
人格におけるすべての層やレベルは、それぞれが別の種類のエネルギーの表現です。思考のレベル、意志のレベル、身体のレベル、そして最後にハイアーセルフである霊のレベルです。これらすべてはそれぞれに固有のエネルギーのタイプであり種類です。言葉の力やエネルギーを感じ気づくことは非常に大切ですが、酷く過小評価されています。自分が何を考え話すかはあまり重要でないと皆さんは思っているようです。
言葉は大きな声に出すこともできますし、内側で発することもできます。声となることのない言葉、声帯を通して明確になり、耳という外的なもので聞き取られることのない言葉が声に出される言葉よりも力がないかといえばそうともかぎりません。声帯を通して話されていても強い信念に根付いていないがために、明らかにエネルギーが少ないものも多いのです。こうした言葉は言葉の内側の空を満たすために感情や確信なしに軽率に発されます。この場合の言葉は建設的もしくは破壊的な力を持つ内的に話される言葉から意識を切り離す霧を創り出すという意味で間接的な力を持っていると言えます。軽率に発され、衝撃や勢いを欠いた、深淵さや根のない言葉は(それが話された言葉であれ、せわしない思考であれ)そんなであるにも関わらず、故意にしろそうでないにしろ、ひとりひとりの人間がその言葉で設定することになる創造的な流れに深刻な影響を与えます。こうした言葉の下に潜む雑音に耳を傾けてください。そしてその意味を理解しなさい。じゅうぶんな距離を取りながら行うことでこうした音を聴き、評価することが可能になります。この雑音を観察し、見分けることで自分が人生をいかに創造しているのか、自分の創造的なプロセスがどのようなものであるかをよりよく理解できるようになります。カーテンの向こうで、分離という霧の向こうで、自分が話している力を持った言葉に気づきなさい。
隠れた思考と共に皆さんが発する言葉は多く、こうした言葉は言葉という素材を使う機会を与えてくれる気づきの状態や、物事を観察する意識にとって不明確なものです。表面的な言葉という霧を観察し、つまりはそれを解消するとき、それまで意味のない単なる音であった言葉が、意識や感情、そして信念にとって何の形も取らなかった言葉が、この煙のような幕を通過し、言葉が持つ力に対する自分の視点を明確なものにすることで、自分自身が発している言葉を聞き、その意味を熟考し、そこからもたらされる結果に気付くことができるようになります。言葉が沈黙の内に発されるものであっても、大きな声で話されるものだとしても、それぞれの言葉が持つエネルギーの流れを感じることができるようになるかもしれません。こうした感情や確信、概念の真実が何であるのか、そしてこれらが自分の人生や態度、そして感受性にどのような影響を与えているのかを明確に表明し、評価しなくてはなりません。そうすることで妨げのない形で自分や他者の現実を知覚する力を発達させることができるからです。
神聖な真実や美という替えのないものに対して言葉が何かしらの形で反するとき、皆さんの言葉が創造するエネルギーは人生を危険で孤立し、敵意に満ちた、自分を防衛しなくてはならないもののように映し、自己永続的で不随意的なパターンに皆さんを連れてしまいます。こうしたパターンにおいて人は自分を無力な人質のように感じます。しかし言葉の力を知り、別の言葉を選ぶとき、創造の真実に則った言葉を選び直すとき、皆さんは善良な愛や永遠に拡大し続ける喜びと豊かさというまた別の不随意のプロセスへと皆さんを運ぶパターンを創り出すことになります。
外的にも内的にも、自分の人生には喜びや豊かさがないと感じている場合には、こうした可能性を否定する言葉を皆さんが話しているということです。自分にはこうした可能性は当てはまらないと思う場合には大抵(密かに、そして大抵の場合は意識的な気づきを欠いたまま自分は報いに値しないと感じています)人は創造というものの内にも喜びや豊かさがあることを否定しています。何かを達成するには自分はあまりに悪く、その報いに値しないと思っていると認めるよりは、こうした防衛的で一時的な緩和策の方が痛みは少ないということなのかもしれません。しかし意識的な気づきとははじめ、悲観的な感覚やニヒリズム、そして漠然とした恐れを全体的に感じるところから始まることもあれば、内的な自己創造のプロセスから自分が完全に切り離されているような感覚から始まることもあるのです。この段階での無力感は人を圧倒します。言葉と実際の経験の間にある繋がりである鎖を明確に追及してはじめて、皆さんは創造的な生命のプロセスの一部となり、経験は深く安定したものになるのです。
虚無主義やニヒリズムの哲学に固執する人々は常に今お伝えしているようなプロセスが自分の内にあることを隠します。ニヒリズムの世界観は、愛や喜び、達成という報いを受ける価値が自分にはないという苦痛を伴う信条からの衝撃を和らげます。親愛なる者達よ、ここにいらっしゃる皆さんも全員、こうした言葉をご自身の内に抱いています。こうした言葉を多く持つ人もあれば少ない人もあるでしょう。言葉の抱き方もそれぞれだとは思いますが、こうした言葉を自分の内に見出すようにしてください。自分の中で常に繰り返される次のような言葉を見出しなさい「私は愛さない。愛は危険だ。愛は私を傷つける」。皆さんの魂が切望する達成の経験を不可能にする、一見真実のようなパターンを創り出す、真実ではない言葉がこれに当ります。こうなると同じ言葉が反響し、繰り返し創られる不随意のプロセスに取り込まれてしまいます。実際には皆さん自身が不随意に創り出している人生、つまり人生の顕現のプロセスに対して自分には発言権がないと皆さんは信じているようですが、人生や人生の顕現のプロセスとは話す言葉がもたらす直接的もしくは間接的な結果です。自分がどのような言葉を口にしているのか無意識に、またなぜそんなことを言っているのか分からないまま時には大きな声で話しているかもしれませんし、また反対にあれやこれやと頭の中で話していることに気づかないまま、静かに言葉を発しているかもしれません。とはいえ、こんな時でさえ皆さんは無意識であるとはかぎらないのです。自分の中で繰り返される会話を観察し始めると人は大抵、言葉がかなり意識的なレベルにあることに気づき、以前は気づいていなかっただけだったことが分かります。また時に言葉は、まったくの無意識のレベルで発されていることもあり、このような場合には言葉をさらい上げる必要があります。何にせよ、言葉との繋がりを創り出したいと望みさえすれば、言葉の存在を明白なものとしてくれるヒントや手がかりが常にあるものです。
忙しいという理由で自分自身の言葉を聞き、理解しようとしないことは、自分の言葉に責任を持っていないということです。ここで私は故意に「思考」ではなく「言葉」と申し上げています。なぜなら思考とは言葉を創り出す下地がもたらす結果だからです。言葉はエネルギーの爆発です。言葉は瞬時に創造します。思考は内容物です。言葉は思考の発端であり、表現であり、具現化の第一段階に当ります。言葉を欠いた思考などありません。そういった思考には意味がありませんし、存在しません。ですから思考はエネルギーのプロセスの下地となる意識なのです。話される言葉は、その後ろにある思考の最終的な産物です。繰り返します。思考の最終的な産物、つまり言葉は、意識的で明瞭、そして発声されたものにかぎりません。
皆さん、言葉に気を付けるようにしてください。言葉を明確にできる場所を自分の内に空けるようにしてください。心の中で話す言葉に責任を持つようにしてください。言葉は皆さんの人生を創り出すものです。自分が話す言葉が真実に基づく思考から生じるものであっても、また真実ではない思考から生じるものであっても、どちらにしても疑問を投げかけるようにしてください。思考は修正が可能なものであり、否定をすることもできますし、またその言葉について討論をし、熟考することができるものです。言葉とは思考が最終的な形となったものであり、創造の始めに当たります。言葉とは思考が型に収まったようなものです。ですから言葉と思考を区別するようにしてください。たとえば、人生が与えてくれる最高に自分は値しないと思っているのなら、その思考を疑問視してください。その言葉を心の中で話してしまえば、それは自分にとって当然となり、すなわち挑むこともなく、熟考することもない創造となってしまいます。修正されることもなくなるのです。この言葉には常に自分が気づくことのない見えない力が注がれるということです。皆さんの人生における船、今回の転生における乗り物の下を常に揺れ、流れているのがこの言葉です。皆さんは言葉による流れに運ばれているようなもので、実際そうなのです。それにもかかわらず皆さんはこの流れと最早繋がっていません。自分が話す言葉を生み出している思考を、挑みもせず疑問視もしないまま心の中で発されている思考を創り出しているのは自分だということ、そして思考を通してこの流れを創り出したのは自分だということを分かっていません。
皆さんがしなければいけないこと、それは人生のどの部分が望ましくない創造なのかに気付き、限定的な状態を創り出している言葉を探し、そしてそれに挑むことです。違った言葉を話し始めなければなりません。
心からの親愛なる者たちよ、もうひとつ理解していただきたいことがあります。表面的に話される言葉の下で相反する言葉が存続するときにはもちろん、短絡的なことしか生じないということです。表面的な思考のレベルで皆さんが「そうよ、私にはすべての価値がある」と言ったとしても、そうはならないということです。そしてこのようなことを皆さんは頻繁に行っています。多くの口先だけの真実を頭の中や思考で発し、実際に発言もしますが、自分の中にある逆の言葉に挑みません。始めのうち、相反する言葉を自分がそもそも話しているのだということに気づく唯一の方法は、人生において言葉がもたらす結果や顕現を目の当たりにすることでしょう。そして結果や顕現こそが人が心の内で何を話しているかを表す完全なる証拠なのです。これには何の間違いもありません。
自分が幸せ以下だと感じる人生の状況を見るようにしてください。幸せ以下、もしくは皆さんを不幸せにしている状況や顕現を何度も繰り返し生み出しているパターンに自分を連れている不随意のプロセスを感じるようにしてください。そしてこれを創り出している言葉を自分の内に見出してください。さまざまな状況の中で具体的にどのような言葉が発されているのでしょうか。今こうしたことを掘り出すことは皆さん、そんなに難しいことではないと思います。皆さんがまだ道を歩き始めたばかりのころ、今皆さんがいらっしゃる気づきの段階に至る以前では、表面的でポジティブな言葉以外を自分は話していないと確信していたでしょうし、言葉と反対の経験が生じるのは人生が不公平で当てにならないものである証拠だと、自分の内的なプロセスが生んだものなどではないと思っていたことでしょう。人生の犠牲者であると自分に言い聞かせるだけだったことでしょう。しかし今では皆さんはご自身のローワセルフやネガティブな意図を知るほどに自分自身に深く入っていけるようになっただけでなく、達成に値し、達成するためのより多くの選択肢へと意識を拡大し引き延ばす権利が自分にはあるというハイアーセルフへの信頼が欠如し、不幸にも自分自身を憎むという姿勢が自分にはあると知った今では、これらすべてを知った今では、人生のそこここで未だに皆さんが発している言葉を真に見出すことができると思います。
今お話ししていることに関連して、受け取るということ、そして与えるということについて少しお話ししたいと思います。与えることと受け取ることがひとつであることはこれまでにも頻繁にお話ししてきましたし、皆さんもこのことに多く気づき始めていると思います。しかしここでふたたび申し上げますが、知識は多くの場合単に思考で捉えられ、表面的なものとなってしまいます。経験的なものではないということです。感情や経験の上ではこのふたつは未だに大きく分離しています。とはいえ皆さんはこの分離の中でさえも、ふたつがひとつであるということに益々気づくようになっています。より明白な形でお話ししてみましょう。自分の内的な存在に対して自己価値を下げるような言葉を発するとき、皆さんは恐れを抱くようになり、次へと進むことを拒否し、ハートがそちらへ流れていくのを妨げようとするようになります。こうした惨めな状態においては、ここから救い出してもらうために唯一必要なのは愛されることだと信じてしまいます。しかし愛が与えられるとき、それを皆さんがどれほど欲していようとも、受け取ることができません。愛を受け取ることを避けようと様々な方法を取ろうとします。こうした分離された意識の上であっても変えることのできない統一がここにはあるのです。つまり与えることがなければ受け取ることはできないのです。
愛を受け取ることは、自分には受けとる権利があるという気づきの状態に直接依存します。そして皆さんご自身の愛を他に与えることもまた、等しく同じものに依存します。なぜなら自分の価値に気づくことがなければ、愛を受け取ることはさらに酷い罰を脅かし、自分の中の真の感情が持つ痛み、つまり無価値の感覚を暴くことになるからです。愛を与えることができるのは、愛することの喜びを感じる価値が自分にあると思えるときだけです。そして愛を受け取ることができるのは、自分にはそれを受け取る価値があると感じるときだけであり、愛することを望まないときにはそう感じることはできません。
皆さんが必要としている価値や愛を与えることは誰にもできません。まずは自分自身をこうした状態へと拡大していかなければなりません。人から愛され、続いて人を愛することができるという誤信はもう、皆さんの意識の中に存続する場所はないはずです。この考えは単に機能しません。これはあるレベルでは皆さんが発している誤りの言葉です。客観的に試し、観察をしてみればこの誤信が真実ではないことが分かると思います。大抵の場合皆さんは与えられています。しかし他者や神、人生そのものからの真摯な愛を皆さんは拒絶しています。皆さんが発する言葉は、愛することも愛を受け取ることもできないという誤りの統一を生み出します。深いレベルを突き抜け、誤りの言葉をひとつの明快で強く創造的な動きを持った言葉へと変容させることができたとき、深い部分ですべての感情、完全なる確信を持ってこれまでとは違う言葉を発することができたときにはじめて、愛することと愛されることがひとつとなり、統一が克服不可能な分離ではなくなります。
似たようなことですが、浄化と強いエネルギーの環境であるこのパスワークセンターに新参者が足を踏み入れるとき、この人はエネルギーを受け取ることができないでしょう。しかしまずこの人は、パスワークの道やパスワークセンターが与えてくれるものを受け取らなければなりません。この人がこの何かを受け取るように自分を持っていくとき、同時にこの人は与えることになるのです。行っていることが受け取ることのみであっても、与えることになるのです。与えられているものを受け取ろうとしないことは、与えないことであり、その愚鈍な形です。だまし取っている、または掴み取るといった小さなローワセルフの獲得でなければ、受け取ることはすでに与えることなのです。考えてもみてください皆さん。もしも皆さんが何か与えるものを持っていて、それが人から求められていない、または誰もそれを受け取ってくれなければ心が痛むでしょう。そこでもしも誰かがそれを受け取ってくれたのなら、その人は受け取ることであなたに与えてくれるのです。
受け取ることは与えることであり、与える中に受け取ることがあることに常に気づきなさい。このプロセスが反転しているときでもそうです。あるときには与えられるよりも多くを受け取り、または真摯に受け取ることで与えている自分に気付くでしょう。それでいいのです。真実や美と共に受け取りなさい。そうすればまた違った形で、自分の才から能動的に、与えることが上手になるでしょう。自分に対して適切な言葉をかけるようにしてください。与え、そして受け取ることをより大きく生み出す言葉を、真実、叡智、美、神聖な意志に根差した言葉を自分にかけるようにしてください。これは尽きることのない流れとなるでしょう。与え、そして受け取ることは最早区別されたものではなくなるでしょう。実際にこれらは違ったものではないのですから。それにも関わらず皆さんの深い内側でこれらの言葉は反対のものとして映り、葛藤を生み出しています。
さあ皆さん、ご自身の言葉に入っていきなさい。浅はかな言葉を観察しなさい。真実でないこうした言葉を観察しなさい。そして何がこれらを真実でなくしているのか考えてみてください。真実の言葉を口にすることに勇気を持ちなさい。真実の言葉が話されることなしに視覚化はあり得ないということが今後より明確になっていくでしょうから、誤りの言葉はより挑まれ、手放されていくことでしょう。真実の言葉を口にすることには大きな勇気が必要なようですね。たとえば「私は神だ。私は最善に値する。私は最善を与えることができる。私は最善を与えていく。神が私に真摯に、強く、真実や叡智、美に基づく形で与えてくれることを自分に許す」と。どうしてこうした言葉を話すことに勇気が必要だと感じるのでしょうか。勇気が必要な理由にはいくつかあるようです。ひとつには、こうした言葉が実際に創造そのものであるということ、そして創造は言葉に従って成されていくのだということを信じていないところにあると思います。信頼の欠如したこのような状態には、知らないという状態と経験をするという状態の間にある溝に架ける橋が必要です。溝の橋渡しができるのは信念だけです。コミットメントの問題なのです。未知、そしてこれまで未開拓であった選択肢や展望へと自分自身を引き延ばしていくことです。そしてこれもまた勇気次第であり、新たな可能性が持つ真実をこれまでに経験したことがなかったとしてもそれを信じるというコミットメントなのです。こうした言葉をしっかりと宣言することは必要な一歩であり、また必須です。信念とはいつでも勇気と強さのことなのです。
真実を語ることが勇気あることであるもうひとつの理由は、多くの場合長きに渡りあまりに多大な偽りの信念を偽りの安全に費やしていますが、これを手放さなければならないからです。これが起こらないかぎり真の言葉を話すことはできません。つまり創造が前へと進むことができないのです。皆さんが今この美しい旅路で経験している海が優しく波打つような、膨大で善良なエネルギーを持ったプロセス、つまりポジティブで不随意なプロセスを流れに設定することができないのです。これから先皆さんは益々何が起こっているかに驚くことでしょう。これは内側から来る力であり、この力は皆さんの限定的な視野や意識を占め、それを超え広げていきます。この様子に驚くことでしょう。そして皆さんには驚く権利があります。起こっていることは皆さんが発した言葉の結果だということ、真実や力、与えるということ、コミットメント、信念、良き意志、そして行動という、プロセスの動きに始めに設定された言葉、多くの方々によって話されてきたこうした言葉によってもたらされた結果だということを理解してください。意識の内で真実ではない言葉が未だに話されていたとしても、真実による言葉もまた話され、そして真実による言葉の方がより大きな力を生み出したということです。この力は次に、神聖なスピリットや存在そして導きがこれまでにない強い形で、皆さんの内なる神聖さとの接点に触れることを可能にしたのです。
今夜、一年の始めに行われたこのレクチャーで、過去には意義のある形で使うことができていなかったかもしれないツールを、新たな形で受け取ったのだということを皆さんお分かりだと思います。このツールを使ってみてください。試し、実験してみてください。人生の美がどんどん開かれていく様子を経験してください。我々スピリットの世界から我々全員の愛が常に皆さんに流れています。受け取ってください。皆さんは祝福されています。神のうちにあってください!
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Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
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日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。
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