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No.247 ユダヤ教とキリスト教に対する集団のイメージ 

Pathwork Guide Lecture No.247
UNEDITED版
1978年1月11日


ユダヤ教とキリスト教に対する集団のイメージ 
THE MASS IMAGES OF JUDAISM AND CHRISTIANITY


 質問:イエス・キリスト問題の全般に対する自分の中の途方もなく強い反応に大変困惑しています。すべての拡大の段階に当てはまるであろう拡大への恐怖について以前お話しくださった内容については理解しています。しかし自分の中のこの反応はあまりに強く、他にも何か関係しているのではないかと思っています。このことについてコメントをいただくことはできますか。

 回答:次にお届けしようと考えているレクチャーは、今くださった質問に詳細にお答えするものです。しかし今質問をいただきましたので、この質問へはここでお答えすることにし、同じ回答を次回のレクチャーでも使用したいと思います。あなたへの回答を包括的なものとするために、質問をいただかなかった場合に行っていただろうものとはまた違った形で今夜のレクチャーを始めていきたいと思います。どちらの方向から始めるにしても問題はなく、同じメッセージが皆さんに届くことでしょう。今夜は少し違った観点からレクチャーを構築していくことにしましょう。

 親愛なる者たちよ、心底愛しい友人達よ!皆さんはご自身の人生やご自身の課題に、力や神聖な祝福を感じていることでしょう。人生を完全に神や神の意志と神の計画に捧げてはじめて、ご自身の人生が深淵な意味や目的を持ち得るのだということを、独特の喜びや安心、平和、興奮のうちに深く感じていることでしょう。皆さんがそうであるほど靄は姿を消し、人生はより充実したものへと育っていきます。奉仕の精神は、親愛なる友人である皆さんをどんどんと取り巻き、皆さんのハートにより深い根を降ろします。これは偉大なる光を生み、皆さんの意識のレベルを跳ね上げ、我々の意識のレベルから皆さんへと届くよりパワフルで純粋な光に溶け込むことになります。

 イエス・キリストという現実への強い反応は、ふたつの非常に具体的で明確なレベルとして捉えることができるのではないかと思います。ひとつは個人的なレベル、そしてもうひとつは集合のレベルです。もしも今あなたからこの質問をいただいていなければ私は集合のレベルからお話しを進めていたと思います。つまり集団が抱えるイメージのことですね。それに続けて皆さんが個人的に抱くイメージや歪み、恐れなどに話しを繋げていたと思います。しかし質問をいただきましたので順番を逆にしたいと思います。

 イエス・キリストに対して強く反応を示すキリスト教徒たちから話を始めましょう。自分が幼少期に受けたしつけや両親が支持した価値観に反抗している人々です。こうした人々にとってキリストはいくじのない人物として、受け身で、性的なものを持ち合わさない人物として示されてきました。彼らは感情やセクシュアリティ、自律、肯定的な攻撃性と自己主張を生む強いエネルギーを否定する厳格な戒めとしてのイエス・キリストに反応します。

 このようにしてイエス・キリストに対する認識や理解、意識が大変混乱したものとなるのです。また一方でキリストは創造主や創造主の計画への愛や真実、叡智、救済、善良さ、奉仕としても描かれます。また平行して人間に生まれながらにして備わっている価値やエネルギー、そして人間としての表現を自滅的な形で否定するものとして捉えられます。これがキリスト教に対する集団のイメージです。

 すべての集団のイメージがそうであるように、キリスト教に対する個人のイメージも幼少期の生育環境が育んでいます。今生で起こったこともあれば過去生であることもあります。具体的なイメージが未解消なほど、次の転生ではイメージの再創造の助けとなる状況が生み出されることになります。こうした状況をイメージの解消のために使うかどうかは個人次第です。数年前にイメージ全般に関して皆さんにお話しをしましたが、その内容の繰り返しですね。このことについて少しお話しをしてから、今夜はイメージの観点から集団のイメージについてお伝えしたいと思います。しかしまずは、先に触れたような混乱の中で育ち、その子なりに対処している個人的な反応に一度立ち返りましょう。

 イエス・キリストについての真実と偽りが入り混じった場所から抜け出すことは子供にはできませんから、このような場合に子供に与えられる選択肢はふたつのみです。ひとつは、伝えられる内容すべてに服従するというものです。この場合子供はキリスト教徒のあるべき伝統的な概念に沿って育っていくことでしょう。この子は自分の感情を恐れ、自分のセクシュアリティを否定し、悪だとされる攻撃性の手綱を引こうとするでしょう。抑制の下には強い衝動が存在しているのですが、この衝動は当人にとって脅威です。持ってはならない感情を表明するときにはいつも自分を罪人のように感じます。もちろんこれに対して反抗もするのですが、開かれた形で反抗心を表現することはこの人にとってはあまりに強すぎることです。つまりこの反抗心も抑圧され否定される必要が生じ、これがより多くの罪悪感を生み、自分は隠れた罪人であるという気持ちが高まります。このような人は自分の中のこうした否定をどのような教義を用いてでも強化しようとします。聖書を文字通り、そして純理論的に捉える流れに群れることになります。厳格で人生を否定する構造の中で安全のままであろうとします。

 子供にとってのもうひとつの選択肢は、自分という存在そのものを狭窄するこうしたことにあからさまかつ意識的に反抗することです。私達が歩んでいるこの道においてはこういった人々のことをもちろん「反抗的なキリスト教徒」と呼ぶわけですが、先に述べた「服従するキリスト教徒」に分類される方々が反抗的なキリスト教徒の道に入ることは決してありません。これまでに築き上げてきた安全弁に完全に反することになるからです。
「反抗的なキリスト教徒」は、反抗心を強化するようなイメージを必要とします。なぜなら心の底では自分自身の反抗心の正当性に疑問を感じているからです。この人が本当に必要なのは自分の感情や肯定的な攻撃性、セクシュアリティ、自己責任、そして自治の能力を否定する姿勢を拒否することであり、決してイエス・キリストの愛、力、存在を否定することではありません。そしてキリストを個人の人生に取り入れる必要性を否定するべきではないのです。

 「服従するキリスト教徒」も同じような混乱を持ち合わせており真実と間違いが入り混じった状態に苦しみます。こうした人々は「反抗的なキリスト教徒」がすることの真逆をするよう学ばなければなりません。すべての子供は強く、正しい両親を必要とします。こうした両親を持つことは子供に安心を与えます。弱く「間違った」両親では、恐ろしい世界に対抗する砦になりません。「服従するキリスト教徒」は両親の教義に対してもまた疑問を抱くことなく受け入れます。自分の両親が間違っているかもしれないという可能性に耐えられないからです。

 この内容は「反抗的なキリスト教徒」にはどのように適用されるのでしょうか。「反抗的なキリスト教徒」は両親の価値を完全に否定することで安心を見出します。少なくとも今お伝えしている文脈ではそうです。彼らは優越感と共に育ちます。キリストを否定することは自分がより進化していることだと考えるのです。ここにもまた混乱がありますね。実際には誤った否定を否定することの方が「より進化」しているのであり、真実を否定することはより進化した姿勢の表れではありません。こうした人々の意識には結局のところ、両親が正しかったのだと知ることに非常な恐れがあるのです。なぜなら子供じみた意識においてはすべてが常に二者択一だからです。このことは皆さんご存知だと思います。すべてのイメージは誤りから真実を区別することができないことに基礎を置いています。完全に正しいのか完全に間違っているのかという姿勢がそこには関与しています。正しくあるとは善良であること、他者から受け入れられる人であること、安全な人生を創造する力を持ち合わせていること、そして幸せを受け取る資格が自分にあることを指します。反対に間違っているとはどういうことかというと、悪さをし、他者から受け入れられない人であること、安全を創造する力がないこと、そして幸せを受け取る資格が自分にはないということです。これは自己にも当てはまることですが、こうした考えの先には両親がいます。「反抗的なキリスト教徒」は自分の両親が完全に間違っていた可能性には耐えることができます。両親が公然と戦ってきたことを否定する自分は正当化されるからです。イエス・キリストが以前よりダイナミックにこの人の前に差し出されるとき、この「反抗的なキリスト教徒」が経験することは酷く原始的で子供じみたレベルでは次のようなことなのです「イエス・キリストの現実についてもしも結局のところ両親が正しかったのだとすれば、自分の中の性的な感覚や、波のように押し寄せる個人化や自律、そして自己表現を求める気持ちは罪深いという彼らの言い分も実際に正しいということになるに決まっている。私には怒る、または攻撃的な形でエネルギーを表現する権利はまったくない。なぜならすべての攻撃性は悪であろうから。加えて過去にキリストや両親を否定した罪も私は負っている。これは耐えられることではない。こういった考えから離れなければならない」と。

 親が子供に提示した伝統のうち何が正しく何が誤りか。このことへの内的な混乱が強いほど子供の中での「自分が間違っていた。つまり自分は悪いのだ」と気づくことへの恐怖が強くなります。結果的に本人が経験するこの新たな段階は両親の訓戒の模範のように映り、これに対する脅威や反抗心は強まるのです。

 イメージの解消と同様にイメージの形成という意味においてすべてのイメージが持つメカニズムは非常に似通っていることは明確なのではないでしょうか。同時に、個人的なイメージというものが何度も増殖し、同じイメージを類似した多くのケースや状況で見出すことができることもはっきりと理解できると思います。つまりこうして集団のイメージが創られるのです。「反キリスト教」という集団のイメージは「キリスト教徒の服従者」というイメージの下に隠れており、その逆も存在します。「反キリスト教」の人々は、もしも自分が抱いているイメージに触れ、挑み、それを解消する機会があれば自分は「キリスト教の服従者」になってしまうのではないかと恐れています。「キリスト教の服従者」ももちろん、同じくらい自分のイメージに触れることを恐れています。なぜならそんなことをすればイエス・キリストの誤りと一緒に美しい真実までも投げ捨てる「反キリスト教」になってしまうように感じるからです。ここでの道の歩みでは、前者の服従の姿勢の方をより多く扱います。後者の反逆の精神は、隠れた脅威や恐怖としてのみ存在し、このようなイメージを頑なかつしっかりと固定している魂の物質に真実の眩しい光が注ぎ込むときこれらは解消します。すべてのイメージが持つその他の側面に関しては後でお話ししますが、イメージをどのように解消するかについてもお話ししようと思っています。

 しかしその前に、ユダヤ教の集団のイメージについてお話ししましょう。集合のイメージが出来るに足るほどに増殖する個人のイメージから始めなければなりませんね。神の顕現としてのイエス・キリストが存在するというだけで感じる脅威から、お話ししましょう。「服従するキリスト教徒」と類似して、キリストを否定するユダヤ教徒は両親が間違っているのではないかと途方もない脅威を感じているのです。もしも人生や世界、神といった何よりも大切であるこうした議題への両親の回答が間違っているのならば、どうして両親を信頼などできるでしょうか。今は大人であろうこの子供の足元で地面が崩れ落ちるかのようです。表面的には多くの問題に関して両親に反抗し異を唱えている人にも同様のことが当てはまりますし、同じく人生における重要な問題のほとんどに過度に両親に同意している人々にも当てはまります。つまりひとつのレベルではこれは個人的なことであり、心理的な問題なのです。魂の一部が成熟しておらず、両親が間違っていることに耐えられないという問題です。なぜなら両親が何かに間違っているのなら、彼らはすべてにおいて間違っているだろうと考えるからです。

 人の内で反応を示すこの個人的かつ心理的なレベルの後ろには、世界の歴史の総合という伝統の真実と歪みが隠れています。今夜お届けする文脈から外れない形でこの側面について、お伝えできるかぎりをお話しするよう努力をしてみます。創造主としてひとつの神を崇め、神に触れ、神の戒律や法則に従おうと試みたのがユダヤ教徒だけだった時代がかつてありました。この美しい現実は人間の性として不可避であるローアセルフが入り込むことで崩壊し始めました。ローアセルフはユダヤのコミュニティや信仰に属さなかった人々に対するプライドや傲慢さ、優越感を誘発しました。異教徒は劣っていると卑下し、ユダヤ教徒は自分たちのことを人間という家族の中の貴族的であると見なしました。

 イエス・キリストがユダヤ人として生まれた理由は明らかです。キリストは真の神が転生し顕現した存在であり、誠の神聖な現実だったため、多くの場合で未発達なスピリットや、ともすれば悪のスピリット(悪ともかぎりませんが)を崇める人々の間に生まれるのではなく、ひとつの神を崇める一神教の人々の間にのみ顕現することができたのです。この途方もないギフトは同時にテストでもありました。これもまた常に真実ですね。すべてのギフトは痛みを伴う出来事と同様、テストなのです。この場合のテストは、人々がイエスを神として認識するかどうかというものでした。認識するということは個人的なプライドや権力への衝動、私欲や利己的な便宜主義を克服することを意味しました。もしこれが起こっていれば決して分裂は起こらなかったはずです。ユダヤ教対キリスト教というものは起こらなかったはずなのです。キリスト教は単にユダヤ教の発展の延長であれたわけであり、この真の道に新しく名付けることもできたでしょうし、またはユダヤ教とキリスト教のふたつを合わせ、過去から続く真実を永遠の今という真実へと繋げるという意味で、ふたつのうちのどちらかの名前を授けることもできたのではないかと思います。

 このテストは、集合的な状況としての視点からは失敗に終わりました。人が自分の中の不完全さや盲目さを認めることを恐れるのと同様に、この失敗を認めることへの恐れは不合理で歪んでいます。道を歩んでいる皆さんはこうした失敗を認めることが成長や自己の解放、浄化、そして自尊心にとって最も大切な側面であることに気づいていると思います。間違っている可能性を認めることに防衛的になることは、間違いを繰り返し永続させることに繋がり、副次的な罪悪感を生み出します。そしてこの罪悪感は元々の間違いよりもよっぽど深刻であり撲滅が難しいのです。真実への抵抗が長く大きいほど伴う痛みは大きくなります。集合的なプロセスや動きにも同じことが言えます。集合的なイメージが解消し、意識が真実と共にあれるための唯一の方法は、じゅうぶんな数の人々が真実に立ち向かう勇気を持つことなのです。

 権力を握ったユダヤ教徒は不当にもイエス・キリストの存在に脅かされました。彼らの中で神聖さや真実、神聖な導きを否定したいと望んでいる部分にのみこの脅しが入り込む隙があったのです。ユダヤ教のリーダー達は大多数のユダヤ教徒にその力を蔓延らせていたため、ほんの数人の勇気ある者だけがキリストに改宗しました。キリストが約束された救世主であるという可能性を利己的でネガティブなパワーを放棄することを望まなかったが故に取り入れることを拒んだ者達によって分離が強いられました。この分離が現実になったとき、より多くの異教徒たちがキリストによる新たなメッセージに気持ちを向け、乗じました。彼らの心はこのメッセージを渇望していました。時が経つにつれユダヤ教徒より多くの異教徒達がキリストの味方をしました。ユダヤ教徒に対する異教徒の態度の大方は、神の愛や神の言葉を伝達するはずのユダヤ教徒によって劣等の刻印を押された彼らのユダヤ教徒に対する反応の表れでした。こうして互いへの敵意が生まれ、悪循環が生じました。

 ユダヤ教徒の意識では異教徒とキリスト教徒はひとつの同じものとなり、両方ともユダヤ教徒より劣等であり、ユダヤ教徒に敵意を抱く者と見なしました。この敵意は大抵の場合事実でしたが、ユダヤ教徒は自分自身がこの敵意に貢献し、引き起こしたのではないかと自問し責任を負い、この敵意に満ちた状況は互いが創り出したものである(これは皆さんがこの道で学んでいるのと同じことですね)と見なす代わりにすべての責任を放棄し、自分たちは異教徒やキリスト教徒の被害者であるとし、さらには異教徒やキリスト教徒を蔑み、否定し続けました。

 こうした態度を魂の内に隠し持ち、この態度を継続して持ち続けている家族に生まれ落ちた者達にとって、今お話ししている古い歴史は現在でも強い意味を持ち続けています。未だに影響力のあるこうしたことをチャレンジとして使うことができます。つまり集団のイメージの解消に貢献できるということです。もしくはイメージが永らえることを選択すること、つまりはユダヤ教のカルマを永続させる選択をすることも可能です。

 自分自身の個人的な問題を扱ったことのある方ならお分かりになると思いますが、友人やヘルパーに自分の問題を突きつけられ恐れおののいているとき(突きつけられている問題が存在するという可能性さえも否定し、自分が防衛的になっているとき)、皆さんはこれまでと同じ間違った推測に則り反応をします。つまり自分が間違っているという推測で反応をする、もしくはローアセルフが自分の中にあるということや、これまでに起こした間違いは許されることではなくまた受け入れられることではないという誤りの推測で反応をします。皆さんの恐怖とはシンプルにこれなのです!もしもこれやあれといった自分の中のネガティビティが実際に本物だったとするならば、自分はもう愛される存在ではないと皆さんは信じているのです。勇気を獲得する、つまりは同時に謙遜を手に入れてはじめて自分の思考をオープンにするという一見奈落にも見える何かを開き、はじめて自分の推測が誤りであったことが分かるのです。実際に自分の不完全さや、人間として誤りに陥りやすい性質をじゅうぶんに認めてはじめて一人前の人間になるのであり、こうしてはじめて本物かつ現実的な自分の価値を見出すことができるようになります。つまりあなたへの神の愛は常にそこにあったにもかかわらず、自分の誤信のためにそれを感じることができなかったということが分かるのです。いつの時もこれが真の道であり、これから先もそうです。そしてこれが個人の状況に当てはまるように集合の状況にも適用されます。

 観察する者にとって、個人のイメージと集団のイメージには同じダイナミクスがあることがより明らかになってきます。真実が否定されるほど本物の罪悪感が大きくなり、蓄積された罪悪感を避けようと抵抗も大きくなります。ネガティブなカルマとは、真実がそれ独自の法則や結果を持ち合わせているのと同様に独自の法則や結果を持った未解決で嘘の状況が、幾度かの人生をかけて蓄積されたもののことを言います。今お伝えしているような歴史的な結末を文脈から外れた形の単なる出来事であると主張し続けると、つまりユダヤ教徒は犠牲者だと解釈し続けると、必要となる活力を自分自身から奪うことになります。人類という大きな家族の中で自律するための活力を自身から奪うことになるのです。真実が防衛に勝ってはじめて、自分や両親そして先祖を正当化するよりも真実がより重要になってはじめて、このような自律した人物となることができます。これによりネガティブなカルマという絶え間なく続く因果の連鎖、望ましくない出来事の終わりのない繰り返しが断ち切られるのですよ、皆さん。このことを個人の側面では明確に理解することができるにもかかわらず、なぜ集合の現実となると線引きをしてしまうのでしょうか。

 この問いへの回答は先ほど申し上げたことです。両親が間違っているかもしれないという可能性に子供が抱く恐れです。イエス・キリストの真実を否定するときに起こる個人的な罪悪感は耐え難い痛みを伴います。そして必然的に自分が被害者であるが故に他者を責めるというゲームを諦めること、歴史的な過去の苦しみの責任を一部引き受けることが伴います。人に痛みを課したという罪悪感、特に愛と共にやってきたキリストという人物に痛みを課したという罪悪感を経験することが伴うのです。あの時代に皆さんは実際に転生していたかもしれませんし、そうではなかったかもしれません。皆さんがそこにはいなかったとしてもs直接的に責任のある人々の肩を持ったことで、つまり彼らの行動を正当化したことによって「彼が約束された救世主である可能性はないだろうか」という重要な疑問を決して投げかけなかったことによって、皆さんにも同じ責任があるのです。

 どのような個人的な問題であっても、長きに渡る抵抗の後ようやく真実を見たいと自分自身を捧げるとき、罪悪という痛みを通過することはあります。しかしこうした作業を死ではなく生命と共にあろうという心意気で行うとき、否定ではなく信念と共にあろうという心意気で行うとき、自己を受け入れ自己を許すところに到達します。つまり神はずっとあなたを許していたのだと経験することになるのです。こうして皆さんは全体的で完全なる光と新たな強さを経験することになります。真の罪悪感が持つ痛みを感じることは皆さんを衰弱させはしません。これは生命のプロセスであり、浄化であり、自分自身や他者、そして神と一体となることに繋がります。人生で起こるすべての普遍的な問題に対しても同じ姿勢を持とうと望む心を自分の内に見出すことができるでしょうか。もしも真実、つまり神が皆さんの主な関心ごとなのであれば何を恐れることがあるでしょう。心を開く。このオープンさを否定することは、皆さんにとって何より大切なのは真実ではなく正しくあることであると単刀直入に表現しているようなものです。イエス・キリストへの対抗心をどれだけ正当化しようとしても、心を開いた真摯な形でこの問いに留まり、答えが自身の思考やハートから姿を現し形成される時間をしばらく取ることを許すことを否定しているときには、皆さんは真実と共にはないのです。自分の中の何かが固く閉ざされているのに、自分は自由で解放されているなどと、どうして信じることができるでしょうか。核であるこの問いに対して先祖が絶対としてきた正しさを正当化することの方が真実そのものよりも大切なのでしょうか。

 こうした言葉を聞くときに自分の中に起こる脅かしの感情をただ観察するようにしてください。少しの間この感情から距離を置き、それが歪みである可能性を考えてみることはできるでしょうか。非合理的で自分の間違った仮定である可能性はないでしょうか。この作業自体が自分自身に施すことのできる癒しです。

 さてでは、これまで皆さんにお教えしてきたように、そしてこの道を歩む中で皆さんが数々のご自身の問題を扱ってきたように、イメージがいかに人生を破壊するか、イメージが持つダイナミクスについて考えてみましょう。順を追ってここで簡単に要約いたします。イメージというのは誤りの概念であり、幼少期に正しい評価を下すための思考的な知識が足りなかったために形成された誤りの結論です。真実ではない他のすべてと同様に、この誤りの結論はネガティブな状況や感情、そして出来事を生み出します。真実ではないことは常に痛みを伴います。誤りの結論への防衛は他者に不利な影響を与えることとなるネガティブな行動や反応のパターンを生み出します。疑問視されることも挑まれることもないこうした誤解は魂の物質に固定され凍てつきます。人格は適切で真実に基づく形ではなく、条件付けされた反射的な形で特定の出来事に対し盲目的に反応します。他者の中で生み出されたネガティブな影響はいやおうなしに本人に帰り、元々自分が持っていた誤解を再度その個人に確認させることになります。これにより防衛が必要であるように映り、これが他者の中にネガティブな反応を引き起こすのです。そしてこれが終わることなく続きます。どのようなイメージでもイメージが存在するときには魂は自由ではありません。

 「反抗的なキリスト教徒」というイメージは次のように言っているのです「もしも自分がキリストを受け入れたなら、私は自分の活力を諦めなければならない。自分の生命力、セクシュアリティ、体、快楽を諦めなければならない。なぜならこれらすべては罪深いものだからだ」と。こうして自分のセクシュアリティを維持するためにキリストを締め出すという防衛を創り出します。しかしキリストを締め出すことは神の世界の真実、愛、美、そして生命という本質的なものを締め出すことになります。こうして分離が生じ、個人は痛みや隠された疑惑、そして罪悪感の内に生きることになるのです。自分の力を解放するのとは反対に反抗的になることでしょう。皆さんご存知のように反抗とは、自分の中にあるその他の多くの声を排除しようとする思慮のない試み以外の何物でもありません。こうして強くなる代わりに弱くなってしまいます。人は表面的な強さのマスクでこの弱さをごまかそうとするかもしれませんが、これに騙される人は大抵誰もいません。ましてや自分自身を騙すことなどできません。自分を敗者であり偽物であると感じ、なぜ自分がそう感じているのかが分かりません。むしろ幼少期にイエス・キリストを受け入れるようにという流れに影響を受け、彼を拒絶しきれなかったことに自分の弱さが由来しているのだと信じています。どのような真実であれ、真実を拒絶するほど人は何かしらの形で弱くなり、分離はより酷くなります。より多くの葛藤が生じます。ですからもしもキリストが皆さんの活力の精髄を否定させようとしていると誤解しているのならば、最後には、皆さんの元々の誤解を一見裏付けるような姿勢や反応を自分の内に発達させることになるのです。

 ユダヤ教徒が持つ集団のイメージには次のようなものがあります「もしも私の両親や先祖が間違っており、善良なだけでなく、地上で神を体現している人間であるイエスを殺してしまったのなら、彼らは完全に悪の人々である。彼らが許されることは決してない。この可能性に対峙することは自分にはできない。共に責任を負わされることのないよう、この可能性は否定しなければならない」と。しかしキリストはこう言いはしなかったでしょうか、何度も繰り返しこう伝えてはいなかったでしょうか、神は許しであると。キリストは常に神の慈悲と理解、愛と共にあるのではなかったでしょうか。キリストがもたらした偉大なるメッセージのひとつがこれだったのではないでしょうか。神が無慈悲に容赦なく人を罰することはないと言ってはいなかったでしょうか。決して「目には目を、歯には歯を」ではないと。ここに我々は悪循環を見出すことができます。「目には目を、歯には歯を」というユダヤ教の古い伝統を完全に信じることで罪を認めることを不可能にしてしまうのです。罰はあまりに酷いものであるが故にイエス・キリストが真実であるという可能性さえも否定しなければならないと。
さてこのイメージはどのように機能するのでしょうか。ここでの誤解とはイエスは偽りの預言者であり、イエスは偽造で、異教徒やキリスト教徒は嘘を言っており、欺かれており、異教徒やキリスト教徒は劣等で人を犠牲にする人々であり、ユダヤ人を絶滅させようとしているというものです。この信念が人々の間で強固になるほどより多くの憎しみや差別、そしてより深刻な分離や敵意がそれぞれのユダヤ教徒の意識に育ち、結果的に集団のイメージを創り出します。この集団のイメージが実際となるのではないかというユダヤ人の恐怖に対するキリスト教徒の防衛は、避けようもなく強い反抗心を生み、実際のユダヤ人の迫害へと繋がったのです。つまり誤解が防衛を生み、結果的に誤解の外見的な真実を支持することを助けてしまうのです。

 罪悪感が大きいほど、つまり罪悪感の痛みへの恐れと、罪が許されないのではないかという推測が大きくハートや思考が閉じたままであるほど、そしてその事実が否定され正当化され抵抗されるほど、お話ししている真実に対する防衛も強くなります。

 愛しい者達よ、長年に渡り皆さんはご自身の心理や魂の物質に対する作業をしてきました。個人的な心理の上にある多くのイメージを取り扱ってきましたね。すべてのイメージが有害であることが分かってきているのではないかと思います。なぜならイメージとは真実が歪んだものであり、誤解であり誤った認識だからです。つまりイメージが魂の物質を硬直させることは不可避であり、自分自身の内にある最高や創造的な可能性、神、他を愛することや愛を受け取ることのできる状態から自身を隔てます。イメージは虚偽ですから、悪であり罪を生み出します。イメージは魂の内に戦争を生み、人格や自分の周囲、そして他者との間に争いを生みます。多くの場合人は苦心しながらイメージに挑み、解消することの大切さを学びます。その方法はひとつです。深く掘り下げた質問を自分に投じ始めることです。このことが全体像に新たな光をもたらします。以前は閉じていた扉を開くことになるのです。硬直した魂の物質を和らげます。状況を捉える思考はオープンになり、問題と関係のある事柄すべてを考慮するようになることでしょう。

 ひとつ前のレクチャーでは、伝統が暗示するポジティブとネガティブの両方の側面についてお話ししました。またこの道を歩むにあたり皆さんが経験するさまざまな周期や段階に特有の動きについてもお話ししましたね。パスワークというこの道が示す方向を観察する者達にとっては去年あたりから、はじめは個人的な浄化や解放から始まったものが次に誤ったイメージの解消へと繋がり、そして今や自分達は新たな形の社会を創ることを強く意識し始めているということが、以前より明確になってきているのではないでしょうか。自己実現をする人々が増えるということには、弊害となるすべての集団のイメージの解消が含まれています。皆さんが草分けとなる新たな社会には魂の物質で凍てつくイメージと共存する余裕はないのです。

 パスワークは新たなる時代、つまりニューエイジの人々を象徴するものだと頻繁にお伝えしていますね。さまざまな宗教を背景に持つ人々がここに混在しているのも偶然ではありません。たとえば今皆さんがここで学んでいる原理に沿って政治も運営されていることが分かるでしょう。ビジネスの運営も管理も、その実際の適用においても、同じだということが分かるでしょう。芸術的な探求でもこれまでとはまったく違った、新しい形での取り組みやブロックを解放する方法を学んでゆくことでしょう。ではなぜ信仰している宗教やその信念ともなると捉え方が変わってしまうのでしょうか。宗教に関するこの集団のイメージを解消するためには、集団のイメージに直接関係するイメージに触れず、単に今のままで放っておくのではなく、探求し、疑問を抱き、挑み、新たな考慮を必要とする特定のイメージが自分の中に存在することを理解しなければなりません。

 ニューエイジの社会は、これまでに知られてきた形のユダヤ教やキリスト教を理解することはありませんが、同時にその両方を理解します。新たに展開し拡大している意識のフィルターを通して、双方から真実を取り入れ、拡大していきます。ニューエイジの人々はあまりに自由なため「ユダヤ教徒」や「キリスト教徒」、「イエス・キリスト」や「宗教」を含むどのような言葉も感情的な反応を誘発することはありません。多くの人にとって「転生」という言葉も先に挙げた言葉と似通った意味を含むことでしょう。なぜなら転生という言葉はユダヤ教とキリスト教のどちらの教えにも背くものであり、少なくとも今日伝えられている形ではそうと言えるでしょう。それでも転生は、特定の個人が受け入れている宗教に当てはまるものであろうとなかろうと、変わらず永遠なる真実です。転生という言葉やその後ろにある概念は、イエス・キリストという名前を聞く際の強い反応を引き出しはしないことを奇妙に意義深いことだと驚きはしませんか。そもそも転生を信じる人も、そうでない人もいらっしゃるかと思いますが、それでもこの概念を否定することにそれほど関心を寄せる者も、強く感情が動かされる者もいないのではないでしょうか。なぜなら転生という概念に皆さんの心の扉はよっぽど広く開かれており、遅かれ早かれ内的に、自分の内で、転生の真実を経験することになるからです。

 新たな時代の男性および女性は、真実を遮断するものとの感情的な関わりから自由です。何かに執着する、もしくは何かを否定することに感心がありません。新しい時代の人々は真実であることを受け入れます。真実を受け入れることへのコミットメントは確固たるものであり、彼らは創造主に向けてこのコミットメントを常に表現します。そうすることで真実は自由に流れるのです。新しい時代の人々は国籍や政党、宗教上の信念に縛られることはありません。これらすべての真実を合わせ、それぞれの誤りをすべて否定します。以前にニューエイジの政治についてお話ししたレクチャーでもお伝えした内容と同じですね。ニューエイジの政治とはつまり、民主主義や共産主義、社会主義や君主制、資本主義といったものが持つ真実を最善の意味において組み合わせ、結果的に分離や互いへの争いを生み出す虚偽を排除する政治のことです。どのような人間の表現であれこれと同じことが当てはまります。宗教でも同様です。真実は結びつき統合され、虚偽は分離します。真実ではない虚偽や分離は悪や不和、敵意、外的および内的な戦争、そして相互排他的な二元性を生みます。「ユダヤ教徒であればキリスト教徒にはなれない。転生を信じることはできない。君主制を信じるのであれば社会主義や共産主義の概念に含まれる良き部分を理解することはできない。もしも自分が進歩的な人間であるなら、伝統的であることはできない」と。今挙げたすべては分離に繋がる誤りの選択です。人が何かに対立するとき、人は相手に復讐心を抱く何かを選択していることになります。つまり選択したものの最善と共にあれません。

 今起こっているイエス・キリストに関する騒動の中で、自分自身が抱える恐れやイエス・キリストにまつわる集団のイメージの重荷に悩まされている人々の多くは、彼ら自身の伝統の最善を心に抱くことができていません。こうした人々の多くは宗教にまったく傾倒していないことにプライドを持っています。キリストが存在するかもしれないという可能性への暴力的なまでの反応をしっかりと分析してみると、そこにはプライドの高い頑固さ、つまり間違った形の個人化が存在しています。

 真の個人化は決してどのようなグループの意識、宗教、国籍、政党とも関係を持ちません。真の個人化が花開くのは、すべての問題において常に神の真実が見出されるときのみであり、つまり個人的に内的な経験が開花するときだけなのです。真の意味におけるこうした個人は、何よりも神の意志に統治される自由な男性および女性により構成される新たなグループ意識を生み出します。こうしたグループでは、グループは決して個人に反することはありませんし、以前触れたようにグループは個人をより先へと運びます。

 この真実を理解しない人間達によって皆さんが住む地球は深く苦しんでいます。さまざまな形の社会的な伝統主義に繋がる不浄な心理や無知、混乱、誤ったイメージ、感情的な固さ、個人性の置き換えといったものを清め、自身を完全に神に任せることによって生まれるこの膨大な強靭さや自律、自由というものを把握するには未熟すぎる人々によって苦しんでいるのです。皆さんの世界の苦しみは大抵望ましい意味での尊厳やプライド、性格、自己価値などと混ざり、混乱した姿勢によってのみ生じています。和平合意に達することができない交戦中の国々を見てください。両国共にそれぞれの国の正しさも間違いも見ていなければ、そうしようともしません。この例では非常に分かりやすいですね。一見不和や苦しみとは瞬時に結びつかない、世界で起きているより微細な問題にも同じ病理が存在しているのです。

 人類は成長を始めました。この経過、つまりプロセスはゆっくりであり、多くの場合成長への個人的な抵抗、つまり疑問を抱くことさえない習慣的な物の考え方や、人々が手放すことを拒否する頑なな考え方、個人的な怠惰性、そして最後にはなりましたが他に劣らず重要なものとして、古きやり方の方が安全であるが故に崇拝しなければならない、執着しなければならないという悲劇的な誤りによって成長が妨害されます。こうした姿勢を通して悪の力が人間の意識にアクセスし、さまざまな形となって現れる破壊性へと人を追い込むのです。成長のプロセス全体が妨害され、遅延され、その道中で不必要な苦悩が生み出されます。こうしたダイナミクス、つまり動きには皆さんそれぞれのセッションで慣れ親しんでいるのではないでしょうか。人類全体がこれとまったく同様のダイナミクスを経験しています。自身のブロックを取り去る個人が増えるほど、魂や心理の物質を清める者が増えるほど、人類全体の準備が整います。自分自身の抵抗や恐れを克服し、持ち得るすべてを自身の進化に投じたいと願う部分を心の中に持っているのと同じように、人類全体でもこうした両方の性質を内に抱いています。自分自身の真の運命の後を付く者は人類のハイアーセルフであり、それに抵抗する者は人類のローアセルフです。皆さん個人の葛藤と同じです。強く出ているのがどちらなのかというだけのことであり、人類全体もこれと同じバランスの行き来を経験しています。

 この地上で常に戦争や苦しみ、不正がなければならないというのは本当のところではありません。人類の大方が成長を拒み、内なる誤りや嘘、そして混乱の状態に留まろうとする場合にかぎりこうしたことが本当となるのです。皆さんのような人々が自身の目的を強く認識し、今自分がいる状況に何が関係しているのかを強く把握し始め、個人的なプライドや私利、小さなチャンスといった信念の欠如によって生じるものを手放すことができたとき、皆さんや皆さんの同類がこのバランスを変えることになります。人類は本来の運命へと成長を始めます。

 しかしではどうしたら信念は育つのでしょうか。神の意志を知ろうとしてはじめて、神の意志がすべての問題に適用されてはじめて、神が皆さんの前に顕現し信念が虚しい言葉としてではなく現実的な経験として現れます。生き生きとした状態や愛や真実、そして美を経験する能力を妨害する個人的なイメージから自身を解放する義務が皆さんにはあるわけですが、同時に自分自身の中にある集団のイメージを除去することで人類をすべての集団のイメージから自由にする義務があるのです。自分や自分の人生も懸かっていますが、それだけではないのです! 

 ニューエイジの人々を視覚化し始めてください。これまで経験したことのない新しい社会を。この新しさを、強く喜びに溢れた自由な形で想像してみてください。新しい社会において不和や分離が生じるときには、皆さんが個人的に学んでいるような深いレベルで問題に対処するが故に不和や分離の余地などない、そんな社会を想像してみてください。皆さんと他の誰かが敵対する状況が起きるとき、真実と共にありたいと心から願うとき、表面ではない深いレベルに降りてゆくとき、こうした状況は解決するのだということを、道を歩む中で皆さん学んでいることと思います。以前にもよくお伝えしましたが、今皆さんが構築し、この先構築していくこの新しい社会を、世界全体のモデルとして想像してみてください。

 今皆さんにお話ししている統合は「忍耐」とは無関係です。忍耐するということは、まだそこには自分が他者より優れているか否かがあり、何にしても違いがそこにはあるということです。統合と分離にまつわる人類の進化には三つの段階があります。ひとつ目は、完全なる確執による分離、次に忍耐、最後に結合や統合、ワンネスです。多様性の下に存在するワンネスを見出すことは平和を意味し、愛や真実、そして人類が成熟へと成長することを意味します。

 この内容をイエス・キリストという話題に適用すると、人類はお互いをユダヤ教徒である、あるいはキリスト教徒であるなどといったことを理由に殺し合う段階を脱却します。つまり殺し合いがそれでもまだ起こる際には、現在人々がそうしているように見過ごすのではなく、大多数の人がそれを酷い犯罪だと見なすようになるということです。今日、少なくとも表面的に人類に蔓延している姿勢としては、ユダヤ教徒はキリスト教徒に耐え、そしてその逆もしかりというものです。他者が「違っている」から、つまり自分が持っているスピリチュアリティや宗教の背景に関して皆さんが不安に思っている部分が相手によって挑まれるからといって、相手を滅ぼそうとするところがあると自認している部分を表面的な態度の下に見出してください。このような作業はここにいる幾人かはすでに行っていますし、生まれ持ったワンネスや統合への準備ができている次なる段階へのトンネルを超えられた方もいらっしゃいます。ここではお互いの違いは拭い去られ、イエス・キリストは決して人々を二分する存在ではなかったことに気づくことでしょう。イエス・キリストに対するこうした歪んだ印象がユダヤ教徒とキリスト教徒の間にはあったのです。イエス・キリストは橋渡しとしての存在として現れ、人類皆に適用され、すべての人々をひとつにするより進んだ愛や真実を体現する存在として現れました。ですから、この新たな統合の状態において忍耐が入る余地はありません。地上に降り立った真実の側面を持ち合わせるすべての偉大なる伝統において人々はひとつです。すべての伝統が合わさることで、お話の全体をよりよく表現することができます。このお話とは創造というお話、人類というお話、人類と神の関係性、人の人生における神の存在というお話です。

 表面的な違いを拭い、内なるワンネスという偉大なる絆を見出しなさい。キリストを、物議を醸している人物像としてのキリストを抹殺するのではなく、人間の有限なビジョンや誤解に完全に基づく人工的で誤りの議論を廃絶するのです。ユダヤ教徒はキリストの存在が故に自分たちは無視されたと感じていますが、ユダヤ人としてキリストを転生させたことは、ユダヤ教徒という神の子供達への神の偉大なる愛の行為だったのではないかという視点を持ってみてください。もしもキリスト教徒がキリストを受け入れることで自分自身のエネルギーや喜びの原理を否定しなければならないと感じるのであれば、これは単に間違った解釈であることを理解しようと試みてください。皆さんの中の誤解を拭い去りなさい。自分が持つ思い込みに挑んでください。誤解や思い込みが真実とは完全に別物である可能性を考慮してみてください。完全に別物とはつまり、皆さんが失うものは何もないだけでなく、すべてを手に入れるのだということです。失うのではないかとずっと恐れていたすべてを、固定観念を手放すことで手に入れることになるのです。

 新たなる光が、ここにお集まりの皆さん全員に養分を与え、強くすることでしょう。皆さんの魂がより自由にオープンになり、真実を探求しようという心意気でより多くのことに疑問を投げかけるにつれ、皆さんへの神の愛というギフトにより皆さんがより善で満たされるにつれ力は加速し、皆さんにインパクトを与えることになることでしょう。宇宙は皆さんお一人お一人に、個人として、そして精霊の世界が大きな期待を抱いている皆さんによって形成される新たなるグループとして、思いやりのある愛の手を伸ばしています。皆さんは一人残らず祝福されています!



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