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Pathwork in Japan
No.253 あなた自身の葛藤を継続し、同時にそのすべてを終えなさい
Pathwork Guide Lecture No. 253
UNEDITED版
1978年9月20日
あなた自身の葛藤を継続し、同時にそのすべてを終えなさい
CONTINUE YOUR STRUGGLE AND CEASE ALL STRUGGLE
我が愛する友人たちよ、神聖でこころ踊る祝福を皆さんに。皆さんがそれぞれに抱えるタスクはますます喜ばしく充実し、より顕著な意味を持つようになることでしょう。ここにいらっしゃる多くの方にとって、すでにそうなっていることでしょう。あなた方の内なる道は人生に外的な意味をもたらします。コミュニティーの成長と共に、浄化のプロセスは避けようのない副産物となることでしょう。皆さんおひとりおひとりが自分の内を浄化し今後新たに目覚めることとなる自己と相容れない人格の側面を後に残し前へと進むとき、パスワーク全体もまたこれと同じようでなければなりません。
さて、取り組みに向けた新たな一年がここから始まりますね。たくさんの拡大、ときめき、充実感、そして挑戦があなた方を待ち受けています。避けようのない困難さえもが究極的にはより偉大な調和とエクスタシーのためのまたもうひとつのツールとなることでしょう。新たな年を始めるレクチャーとして今日はこのことについてお話ししたいと思います。
救世計画とも呼ばれる壮大な計画において地球圏は、今後次第に統一と調和、そして光の、よりスピリチュアルな住まいへと変化を遂げることになっています。しかしこれはもちろん外から「与えられる」外的なプロセスにはなり得ません。この意識の変化は地球に住む人々の意識の変化を通してのみ起こります。そしてこの意識の変容はまた、骨の折れる内なるワークの結果起こります。内なるワークとは、浄化および自己と向き合う作業のことです。このワークは、これまで意識から切り離されていた新しく深い内なる層に現実を見出すことにも繋がります。このように地球が変容するとき、成長と発達のプロセスに従うことができない、または今後従うことのない個人の意識は、今この地球上に蔓延しさらにはその枝を伸ばし続けている状態と似たもうひとつの住処を創り出します。地球上のこのような状態はしかしまだ比較的小規模ではありますが、地上の住民の間ですでに変化し始めています。時間が経つことでこの数は増えていくことでしょう。あなたが歩むあなた独自の道は、この変化を最短で起こすための強力な手段です。もし皆さんがパスワークが提供する最大限の可能性に従うならば、本来はたくさんの人生をかけて達成しなければならないことを、一度きりの人生で成し遂げることができるかもしれないのです。今生きているまさにこの人生に改めて生まれ変わるような感覚としてこのような変化はすでに皆さんの間で目撃され、経験されているのではないでしょうか。
これまでに何度も言及してきたことではありますが、この意識の変容のひとつの側面についてお話ししたいと思います。以前は概要としてお伝えした内容を今回は、非常に具体的に焦点を絞ってお伝えします。人類を捕らえる最大のものであり、すべての恐れや痛み、そして苦しみを生むものとは、人の思考が絡まる二元性です。意識の歪みの表われであるこの二元性を土台に、人類の集合意識はさまざまな状態や状況を構築します。世界は二元的であるという見せかけの現実の神話を突き抜けるのは、人類の進化の旅路の中で最も困難な一面であることでしょう。
あなた方は完全なる客観の世界に置かれているかのようです。すべては固定され、既製品のごとくです。あらゆる状態や自然の法則は他と入れ替えようのない前提であり、あなたの意識の状態はそれらに何の影響も与えないかのようです。この偽りの現実に屈服することが「現実的」かつ正気であると思えてしまうのでしょう。しかしここで難しいのは、ある程度はこれが本当だということです。皆さんが理解している形で世界を受け入れ、二元的な在り方で対処する必要も時にはあるのです。なぜなら、あなたの意識が変化し超越を始めてからも、大衆の思考が創り出すものは無傷でそのまま残るからです。こうした移行の状態では人は両方の世界に生きることになります。既成の二元的な現実に生きてはいますが、逐次的に霧の中から新たなビジョンが姿を現わします。皆さんも頭ではこのビジョンを知っていらっしゃると思います。ここにお集まりの皆さんの中には、時々この現実を経験し始めている方々もいらっしゃるのではないでしょうか。これは、そこには神のみがあるという絶対的な知であり、そこには永遠の生、平和、悦び、興奮、意味があり、恐れることは何もなく、痛みはもう存在しないと知っている状態です。この究極の現実は、世界や周りの環境は自分が創り出しているのだという知をも含んでいます。この知はあなたに負担を与えるものではなく、計り知れないほどの解放と安全をもたらします。
今とは違った思考の状態がどこかに存在し、それを手に入れることができるようだという漠然とした知識のために二元論的世界の状態を受け入れないことは、常軌を逸したことです。これは安易に全能を求める子供じみた欲求の表われです。時に一時的な苦しみを伴う発達の段階を、単なる意志による外的な行動によって避けることができると自分自身を騙しているのです。こうなると明らかな矛盾が生じます。究極の現実を垣間見ることなく集団の幻想を完全に受け入れるよりも、こうして究極の現実を間違った形で覗く方がよっぽど非現実へと繋がってしまうのです。反対に人生の限界を完全に受け入れ、人格が正直に成熟した形で、生産的かつ建設的に限界に対処するとき、内なる進化のプロセスは有機的な形で続き、以前は見えなかったビジョンを思考が含有し始めます。限界のある現実とじゅうぶんに向かい合うためには、パスワークが提供しているような自分との厳格な取り組みを含む必要があります。
内なる作業における進歩はたくさんの変化をもたらします。物事に対する姿勢や意図の持ち方、感情や意見、世界を見る目にも変化が起こり、そして最後に特筆すべきこととして、現実に対する認識が変化するのです。シンプルかつ現在進行形の実用的な例としては、皆さんがこのパスワークという道を歩む中で継続的に経験している変化が挙げられます。はじめ皆さんは人生のとある状態を、ひとつの非常に固定された形で見ることでしょう。例えばある状況があなたを被害者にすると信じ込んでいるとしましょう。他者があなたにとても酷いことをしているとあなたは思っています。周りがあなたに対する態度を変えないかぎり今の状況を変えることはできないと確信しているとしましょう。これと似通った状況なしにこの道に入った人はほとんどいません。人ははじめ、このような状況で確固たる信念を持っているものです。観察するすべてがこの信念を証明し、支持することになります。実際、確信が強いほどそれがいかに正確であるかを証明する「証拠」を集めることができるものです。人の信念に沿って目に入るものを創り出すというこの自己永続的な悪循環や法則は思考の罠であり、克服するのが非常に難しいのです。
心を開き、たとえ一時的であっても自分の信念を手放すという 善き意志の結果はじめて、これまでには見えなかった新たな側面に気づき始めるのです。おそらく、自分がいかに積極的にすべての責任を相手に負わせるような状況に加担していたかに気づくでしょう。ネガティブな状況を創り出したいというあからさまな意図が、深いレベルに存在していることに気づくかもしれません。この気づきは自動的に全体像をシフトします。とはいえ、すべての罪悪感という重荷があなたの肩に乗る必要もなく、またこれまで悪役だった人が被害者になる必要もありません。お互いが影響を与え合っていたのだと気づくのではないかと思います。
ここでの理解は新たな展望をもたらします。自分自身や他者との関係に関してこれまでまったく気づくことのなかった側面を認識するようになるでしょう。これには善きも悪きも、好ましいものも好ましくないものも含まれます。しかしこの善対悪という二元性の下には「すべては良いのだ」という、これまでとは違った新しい形の、より生き生きとしてダイナミックな究極的かつ不変の真理のレベルがあることを発見する日が来ることでしょう。
新たな現実へと視野を拡げるプロセスを、皆さんに馴染みのある例を挙げて説明してきました。この例では、以前自分が持っていた限界はその排他性が故に不正解だったのだと理解できるのではないでしょうか。視野は文脈から外れ、他の要素に欠けるものだったと気付くことでしょう。欠けた要素の認識なしには全体は歪んで見えてしまいます。しかし必ずしもあなたが持っていた以前の視野が間違っていたわけではなく(そういうこともあるでしょうが)全体像を掴むための他の必須要素を置き去りにしてしまったが故に間違っていたのです。ひとつの状況や状態にはいくつもの現実が存在することをお伝えしたいのです。これを知ることで安直な評価を下すことに注意を払うようになり、視野を拡げるための探求や模索、努力に責任を負うようになります。
皆さんにお馴染みの世界や、そこに存在している自然の法則についても同じ作用が働いています。人の世界観は非常に不完全な視野に基づいています。視野は知覚の中の限られた領域のフィルターを通り、意識に入るようになっています。形として出現している中でも最も表面的な層の、分かりやすいものだけを見ているのです。しかし人格が成長し個人的な状況における現実を感知する力が広がるにつれ、そこに存在する創造性を感じ取る力も変化し、広がり、深まります。これまでには見えなかった関係性を垣間見るようになり、これまでの限定的な現実と同じくらい当たり前となることでしょう。
二元的な世界観は議論の余地のない事実のように映るのではないでしょうか。世界を対立や二元性として捉えないなど、妄想の最たるものであるかのようでしょう。実際外見という層において二元性は事実です。生命は死に至るようですし、どれだけ善が存在しようとも悪は必ずどこかに潜んでいます。光の反対に闇があり、夜の反対に昼があります。健康があれば病があるのです。しかしこういった両極の下にはまた別の現実が認識されるのを待っています。二元性に生きることで無理や緊張が生じますから、より深いレベルの真実を発見することは魂にとって最大の憧憬なのです。よくお話しすることですが、この憧憬は本人が気づいていようと無意識であろうと人の内に存在しています。進化の旅路のどこかで、この新たなレベルへと覚醒することはそれぞれの計画に組み込まれています。だからこそこの憧憬は人の心を満たすのです。
今お話ししていることは以前にもお伝えしているのですが、なぜここでもう一度触れているのでしょうか。この新たなレベルの知覚と、そこでの存在の方法をより的確に説明したいと思っているからです。外的な意志のみで目標を達成することはできないと、はっきりと理解しなければなりません。哲学的な思索や理論的な知識では手に入りませんし、特定の練習方法やメソッド、または規律の結果として成せることでもありません。意識の変化は集中的で個人的な浄化のプロセスの結果としてのみ起こります。そしてこの浄化のプロセスとはまず、もっともありふれた日常的な事柄や身の周りの状況に対する自分の姿勢を扱うことから始まります。日々の事柄は常に、人の内なる姿勢やエネルギーの在り方、そして究極的には霊的な姿勢の延長にあるのです。これらを飛ばし無関係とすることはさらなる分離や二元性(霊性対日常)に繋がるだけであり、最終的に今という時に根ざさない幻想の霊性へと向かってしまうのです。パスワークという道が非常に実践的であり、物質界での人生や日常的な活動、さらにはあなたの目標と完全に互換性があるのはこのためです。 そしてまたパスワークは、自分の中の最も微細で捉え難いスピリチュアルな姿勢または反スピリチュアルな姿勢の発見、そして表現でもあるのです。
二元性に基づいた形で創造を知覚するのではない新たな意識を獲得するにはどうしたらいいのか、もう少し具体的にお話ししてみましょう。はじめに、二元性が実際にどれだけ痛く、恐ろしいものであるかを指摘することから始めるのがよいかもしれません。というのも二元性はあまりに当然のこととされているため、痛みや恐れを知覚することすらできない場合が多いからです。二元性以外を知らないためにそうなるのです。存在しているのが二元性のみであるならば、それに対して苛立ちを感じることもできません。子供が苦痛の多い状況をほとんど感じないのは、それ以外の状況があることを知らないからですが、これと似ています。現存の状況を変えるためにはその状況がいかに好ましくないかを感じ、努力の価値を見出す必要があります。同時に状況は変えることができるのだと知り、他の可能性が存在していると知る必要もあるのです。
ほとんどの人は二元性が痛いということを知らず、自分がどれだけ実際に痛みを感じているのか分かっていません。この痛みを完全に取り去ることができるまた違った知覚の視野が存在すること、今とは違った生き方があることも知らないのです。限定的な二元性の世界に囚われ生きることは、常に好ましくないものを恐れ、好ましいものに向かって無理をするということです。この無理な努力は極めて痛く、また不安を生み出します。しかし自分が無理をしていることに気づくのは、道を歩み、今皆さんが行っているような偽りなく露骨な浄化の作業が大方完了した後のことです。 日常に浄化のワークをじゅうぶんに取り入れる前に自分の内にあるこの無理な努力を除去してしまうと重要な順序を飛ばしてしまうことになり、プロセスが有機的で地に足のついたものでなくなってしまいます。今これからお話しすることは、ここにいらっしゃる一定の方々にとっては今聞くことは適切ではないかもしれません。ご自分の道では、この新たな段階に焦点を合わせる準備はまだできていないかもしれません。それでも今からお話しすることをどれだけでも理解することはすべての人にとって助けになると信じています。私がお伝えする言葉と部分的にでも繋がりを築くことができれば、皆さんの成長の後押しになるかもしれません。皆さんがこれまでずっと続けてきたシンプルな浄化という枠組みの中の自分という存在について、理解を深めることもできるかもしれないと思っています。
私たちは今明らかに普段取り上げているものとは別の思考の状態を扱っています。望ましくない選択肢から精一杯逃れようとすることで痛みや恐れといった二元性の深みにより一層取り込まれるのならば、このような努力は手放さなければならないと思い至るのが普通ですね。しかし違うのです。苦しみに対立する形の幸せを望んではなりません。死に対立する生を、病気に対立する健康を望んではならないと、どうしたら皆さんにお伝えすることができるでしょうか。しかも同時に、幸せや生、健康を心底望むことがなければ人間とは言い難いのも事実です。
しかしそこには、精一杯の努力という緊張が緩み、望ましいものを扱うときとほとんど同じに望ましくないものに取り組むことができる思考の状態というものが存在するのです。これはまだ皆さんにとってとても奇妙なことのように思えることでしょう。しかし親愛なる皆さん、これは本当なのだと心からお伝えいたします。今お話ししている段階に取り掛かるための第一歩として、望ましい状態もしくは望ましくない状態を経験する際に副産物として自分の感情や思考、そして姿勢に何が生じているかに注意を払うことから始めるのが良いかもしれません。何か望ましいことが起こるとき、多分皆さんは神への信仰を感じることでしょう。神の現実を経験し、自分の内にあるキリストと繋がることでしょう。この世のすべては善であるという知識を喜ばしいと感じることでしょう(今ここでは、 地上の現実を越えたスピリチュアルな現実を信じ、時にそれを経験できる個人に言及しています。このレベルでの在り方をまだ経験していない方々に向けた話ではありません)。しかし望ましくない事が起こったときに同じ信仰や知を保持することの方が遥かに難しいのです。方位磁石の針のごとく瞬時に感情は変動します。自分の気分を観察し始めてください。どのようなときに疑問が生じますか。疑問の引き金となったものは何でしょうか。これらは何らかの形で欲しかった目標が獲得できたか否かに関連していませんか。
キリストの意識そのものとなった人はこのような変動を経験しません。外的な経験はこの人が繋がっているレベルの現実に影響を与えることは決してないのです。実際にこのような人は悦びに反応するのと同じように痛みにも反応するというのも事実です。この意味では悦びも痛みもひとつであり、同じものなのです。別の言い方をすれば、このような人は二元性を超越しているのです。
今お話ししている解脱は、東洋の宗教で強く助長されたものであり、西洋の神秘主義でも同様です。このような教練がなぜ世俗的な達成を否定し、スピリチュアルな自己実現という目標に対するアンチテーゼであるとするのかは、解脱そのものによって説明が成されているのではないでしょうか。なぜ禁欲的な訓練があり、故意に苦痛を背負わせるのか。その答えともなっているのではないでしょうか。こうした取り組みはある程度価値あるものではありますが同時に、望ましいものを故意に否定することは先程の例の反対からの働きかけであるだけのことであり、同じような二元性に繋がるとも考えられませんか。望ましいものを否定し喜ぶことを自分に許さない人は、望ましくないものを否定する人とそう違わないのです!
人類の思考やスピリチュアルを求める人々の間に混乱をもたらす矛盾が、今お話ししていることとはまた別に存在するようです。皆さんの幸福や人間的な充足感、健康やウェルビーング、病の際の癒しや人生での生産性や成功は神の望みであるとスピリチュアルな教師や預言者は主張しているのではないでしょうか。それではなぜ、創造主が与えてくださった今ここにある人生を否定するのでしょうか。人生や充足感を経験することが可能なより永続的でより深遠な思考の状態が存在すると知っているからと言って、物質的な在り方のすべてを放棄し、望ましい側面さえも否定することが正しいと言えるのでしょうか。人生や充足感は二元的な思考の一部でもあり、その関係を断ち切る必要はないというのに。
こうした疑問はすべて、葛藤や矛盾をはらんでいるように見受けられます。少なくとも、この疑問が浮上している現実のレベルからすればそうです。深いところでは、そこに矛盾などまったくないのです。精一杯の努力でひとつの状態に向かい、その反対の状態から逃げ去ろうとすることなく、内なる状態の表われである世俗の成就を喜ぶことは問題なく可能です。このような在り方は、究極的にはそこには神の現実が存在し、永遠の生命があり、達成とウェルビーングがあらゆる形で可能なのだと深い部分で分かっているときにはじめて可能です。なぜなら、この状態をあなたは無理強いすることなく獲得するのであり、今お話ししているもうひとつの現実を垣間見て、最終的には経験するに至ったからです。また反対に、この状態を垣間見ることで無理強いする姿勢を手放すことができることも事実です。双方から働きかける必要があります。
両極を同じように感じようとする試みから始めることは事実上不可能です。痛みと悦びに同じように反応することはできないでしょう。悦びに向かって努力をすること、そして痛みから遠ざかろうとすることは人間という顕現にとって自然なことです。悦びに対する恐れや否定という頻繁に見受けるものでさえ、本質的には痛みに対する恐れや否定の変形です。しかしでは一体どうしたら今お話ししている方向に向かうことができるのかと思われることでしょう。二元性の両極の間で無理な努力を続けているかぎり、恐れや内なる緊張に生きることになります。死や痛みのない究極の統一の状態を実現することはできません。
まずは一歩退き、痛みや悦び、そして生命や死に対する自分の反応を観察することです。こうした反応には、はっきりと認識する必要があるにも関わらず普段皆さんが無視している要素が多く含まれています。こうした反応はあまりに第二の天性となっているため、木を見て森を見ない状態になっています。恐れと欲望は、その他の感情や態度の元となる共通項にほかなりません。恐怖や痛みから遠ざかろうとする動きには大抵多くの怒りや苦々しさ、そして憤りが含まれています。こういった感情は特定の人や神格に向けられたものではありません。より普遍的で、捉えどころのないものなのですが、それでいて紛れもない思考の状態です。多くの場合こうした苦々しい感情や怒りは人のシステムに組み込まれ、それ自体が痛みと化し酷く否定されることになります。別の言い方をすれば、痛みという小さな顕現から始まり、滞りなく比較的素早く解消されたはずのものが、強固に固定され悪化するのです。ここでもまた同じことですが、怒りの感情自体よりもそれを抑圧し抑えることが問題なのです。そしてこれに気づかず、感情が水面下で存在することが有害なのです。
したがってこういった反応を明確にし、意識的にならなければなりません。ある意味でこの作業は、具体的な個人や出来事に向けられる具体的な怒りの感情を扱うよりも困難です。怒りが具体的な場合、あなたの中の理想化された自己像や道徳的規準、そしてあなたの全体的な性格とは矛盾するかもしれませんが、そうでない場合の怒りは非常に不合理で無分別に見え、当たり前とされている生き方に怒りを抱いている自分は精神に異常をきたしているのではないかと一般的な人は恐れるのです。死に対して「合理的に」憤りを感じるなんてとんでもない、と。死に怒りを感じるとはどういうことか、皆と同じように時に病に倒れ、痛みに苦しむことに怒りを感じるなどとんでもないと思うことでしょう。それでも、統一や死や痛みのない状態が具現化される前には、すべての人間の魂の内で生命と創造に対する怒りが存在するものなのです。この感覚を言葉にするならば次のようになるでしょう。人の生命の終わりに人の存在の終わりを告げるような、存在そのものの終わりであるような、避けようもなく底知れない、完全に未知で酷く脅迫的な出来事を与えるなんて神とはどれだけ残酷なのだ、と。一度死ねば人はもう存在しないという考えを自分は受け入れていると無神論者が強く主張したところで、この受入れ自体に究極的な怒りが眠っているのです。無神論自体が創造という完全に無分別で恣意的で、まったく頼りにならない何かに対する極端に苦々しい態度の表われです。無神論とは、深くに存在するこれまでとは違った現実への知覚を開く感受性や感度を切り離すものなのです。
人が自らの存在の終わりを真に「受け入れる」ことなどありえません。こうした偽りの受入れは、常に苦々しい怒りに満ちた諦めまたは人生や人生の痛みに対する絶望です。永遠の生命を受け入れることもまた恐れと等しい原理から生じる可能性があります。ですから皆さんはご自身の内なる恐れや、これまで無意識であった怒り、苦々しさを見ていく必要があります。死と痛みを負わせる人生への憤りや、当たり前とされるこうした経験を前に無力に立ち尽くさなければならない立ち位置へ自分をやったことへの憤りを見る必要があるのです。自分の中にあるこういった感情に気づき、一見不合理で幼稚な感情を受け入れるとき、新たな繋がりの構築の可能性が生まれます。今まで気づくことのなかったこうした感情はこれまで流れを止めることなく存在し続け、いかに独自の表現方法を見出してきたのかを理解することができるようになるでしょう。こうした表現方法、つまり偏差が明確さや真実、調和や統一に向かうことは決してありません。魂の憧憬を満たす、深くでは統一の状態を知っている知の状態からこの偏差はどんどんあなたを遠く離してしまいます。つまり人生にあまりに普遍的に存在しているこのようなことに対する自分の感情に無意識であるほど、感情は不合理さを増していくのです。この感情と向き合うことを自分に許すことができないほど(そうあなたが信じているということですが)感情はより偏差し、痛みの伴う無理な努力や不安といった二元性により深く絡まってしまいます。否定された恐れはより多くの恐れを生み出します。否定された憧憬や欲求は平和ではなく不安を生み出します。これらの感情に踏み込む勇気のみが、アルケミストが金を手にするように、感情を浄化するのです。最もポジティブな意味で、恐れも欲求も自分の憧憬を見つけるための原動力となります。そしてこの憧憬の中には憧憬とは満たすことができるものだと心底知っている知の種が存在しているのだと気づくことへの原動力となるのです。
はじめは多くの中断を伴うと思いますが、ここからゆっくりとあなたは生きることを求めるようになります。死を恐れるからではなく、死など存在しないのだと分かっているからこそ生きることを求めるようになるのです。体を去ることでより良い人生がもたらされると分かっているからです。このことはこれまでにも多く語られてきましたが、内なる真実として実際に経験されることは稀でした。これを経験するためには私がここで概要という形でお伝えしている具体的な取り組みを遂行しなければなりません。あなたという人間そのものや、これまで築き上げてきたすべてが消滅するという恐れから人生に執着することと、この地上でのタスクがもたらす意味を大切に思うが故に人生を肯定するのとではあまりに大きな違いがあります。悦びと共に、あなたよりも偉大で、より本物の生から二元的な次元にその一部を持ち込み、一時的な住処となる物質に霊性の息吹をもたらすこともできるのです。
痛みや痛みを伴う経験にも同じことが当てはまります。もしも痛みが究極の現実だとするならば、痛みの経験には多くの怒りが付随することでしょう。同様に、痛みが自分にではなく伴侶の連れ子達にだけやってくるものと思い込んでいる場合にもまた、苦々しさや憤りを生み出すものです。こういった感情はしばしば痛みを増強し、痛みがその本来の姿である良薬となるまで続きます。つまり痛みは先に述べたその他の感情を探し出し、鋭敏に感じるための道標として使うことができるということなのです。心理の最も深い層においても痛みを防御し退けるなら、癒しを妨げる硬さが生じます。癒しが起こるためには、身体だけではなく人間というシステム全体の深いくつろぎが必要です。私たちの内に常に存在し、すべてを貫通する神聖な癒しの流れと繋がるためにこのくつろぎを要するのです。痛みや苦しみ、死、憤りや苦々しさといった人間にとって当然の経験に対して防衛をする生命システムまたは、抵抗することなど狂気の沙汰だと思うような対象に抱く自分自身の憤りや苦々しさといった感情に反抗する生命システムは緊張の状態にあります。つまり自分自身を癒すことができないのです。
身体と思考の深いくつろぎ、自己を感じ入るこの状態は到底手に入れることなどできないように思えた、今回のレクチャーの始めにお話しした状態をもたらします。こうした平静は世俗的な悦びや体をもって経験する人生を無視するわけではありませんが、同時にそれらが欠けることを恐れることもありません。死や痛みに生き急ぐわけではありませんが、真の現実を垣間見る機会が次々とやってくるため、内なる平和を感じることができるのです。生や死、悦びや痛みに対する恐れや欲望という自分の反応をより綿密に観察することに着手しているからです。このような観察がより正直に、より明確に、よりとらわれのない、状況に巻き込まれることのないものとなるに従って(観察していること自体が全体としての自分と混合されていない状態)、たとえ時間がかかったとしても、新しい思考の状態、統合的な思考の状態へと横道に逸れることなく自動的に導かれてゆくのです。
ですから親愛なる皆さん、ご自身の道を歩みながらいつでも可能だと思うときに今お伝えしているすべてを新しい展望と方向性と共に考え始めてください。皆さんの歩みを後押ししてくれることでしょう。究極的には生きとし生けるものすべてにやってくる、痛みや分離といった二元性の思考の状態を最早持たない偉大なる融合に向けて、皆さんを備えてくれることでしょう。
皆さんの前に提示されているこの方向性を探っていただくと、ここでふたたび「統合の後退」という現象に突き当たると思いますが、これはそれ特有の方法で二元性の混乱に陥ったあなたの思考の性質への理解を介助します。しばしば皆さんは、自分はスペクトラム、つまりは連続体の一方を恐れ、その逆を求め努力していると信じています。しかし自分に対して抱いている幻想ではなく自分の真の感情と向き合うとき、意識の上では恐れているものと同じくらいに一見望んでいると思っている方を恐れているのだと気づくことでしょう(少なくとも意志というひとつの重要な層においてはそうでしょう)。つまりここで恐れが「統合」されていることに気づくのです。死と同じくらいに生を恐れ、痛みと同じくらいに悦びを、失敗と同じくらいに成功を恐れているのです。スペクトラムの両端に対する恐れの本質を理解することができたとき、この「統合の後退」の中から本物の統合が育つことが可能となるのです。両方に対する自分の恐れに触れるとき、あなたは不意に、ある程度の平静を獲得することになります。無理な努力は自動的に緩み、あなたは信念という問題に突き当たります。あなたの道のどこかで必ず、信念のみが問題となるときが来ます。周りの宇宙に心を開き、正当な信念という視点から見ることをあなたは望んでいますか。怒りや苦々しさ、残酷さや無意味さをほのめかす、文脈から外れた人生の断片的な視点から世界を見ているのではないでしょうか。もしくは見たいと望んでいるのではないでしょうか。こうした問答は人間という魂が経験する最も崇高で真剣かつ美しい葛藤が行われる何年もの間、皆さんを占領することでしょう。しかしその先であなたは、内側深くにその答えを経験することになるのです。
真実、美、愛、創造の意味の否定はいつでも、苦々しさや恐れ、そして怒りに由来します。こういった感情は、否定をさらに正当化し、生と死、悦びと痛み、光と闇などの対立するすべてのものを肯定する姿勢が身を潜める根拠ある現実的な展望を隠してしまいます。痛みの最中でもこの展望を保ち、最も壮大な未知と対峙している時でさえも(それが実際に真に壮大な未知にどれほど近くまたは遠いものであったとしても)神は正しきを行っているのだと知ることができれば、あなたの思考は鎮まることでしょう。これは二元性の痛みが何であるのか探り当てようとする試みや葛藤に終わりをもたらします。なぜなら「探り当てる」とは言え、それが葛藤であるかぎり葛藤の本質そのものは網目をよりきつくしてしまうものだからです。片方から逃れもう片方へと向かおうとする緊迫した動きは収まり、すべての生命の基礎である統合を経験することになるのです。
今お話ししている特定の層の終末や葛藤の終焉は、無関心や消極性、率先力の欠如などと混同してはいけません。献身的で積極的な努力がどれだけ重要であるか、皆さんの葛藤がどれほど尊いものであるかは何度もお伝えしていますし、皆さんご存知の通りですね。ある意味で特定の層における葛藤は必要であり、思考という迷路を通り抜けるためになくてはならない前提条件です。しかし同時にまた違った意味で、別の層での葛藤は水面にさざ波を生み、至聖所からの平和の流れを妨げるものでもあるのです。
皆さんの世界に存在する二元性の表われのまた別の形が葛藤です。多くの精神的運動は葛藤の必要性を完全に否定し、世俗的な事柄のみならず、すべての努力から解脱することを庇護します。私が今皆さんにお伝えしようとしている状態を理解しているという意味では、このような主張に間違いは決してありません。恐れと欲望が統合を消滅し、世界が抱く幻想の深みに思考を陥れる層を考慮してのことです。しかし人格の中で努力し葛藤する必要のある層に繋がりを築かないのです。健康的で建設的な葛藤が存在することを無視しています。この偏った見方の落とし穴はこの偏り故に、とても微細ではあるのですが、より強い二元性へと方向づけをし、平和の意味の曲解へと繋がります。曲解された平和ははじめはそう頻繁に経験されることはありませんが、そのうちに受動的な静止の状態へと進行します。
また反対に、葛藤やワークを庇護する精神的なアプローチも存在していますね。これもまた、間違っていません。葛藤やワークの必要性を理解しており、信奉者たちがエネルギーやスタミナを集める手助けをしますが多くの場合、また別の層では葛藤が目的そのものを打ち砕き、水面をより荒々しく波立たせるだけだということを見ようとしません。
そして皆さんには、人類の分裂の両極がそれぞれに持っている真実をお伝えしたいと思っています。葛藤を続け、同時にすべての葛藤を終わらせなさい。葛藤が続くべきところと、終わりを迎えるべきところを模索しなさい。するとある時点で、欲しくないものを恐れることもなく、また欲しいものに向かって不安と共に無理に手を伸ばすこともないという比類のない平和を経験することでしょう。望みえるすべてのものはここにあり、今ここで手に入れることができ、すぐそこにいつでも存在していると理解するからです。必死に逃げ恐れているすべては今あなたが只中に身を置いている経験そのものでなければ、幻想以外の何物でもないと理解するからです。こうしてあなたは本当の意味で鎮まり、神を知るのです。すべてに神が存在するのだと、最善と最悪に、あなたが求めるものにも求めないものにもその両方に神が存在するのだと知るのです。意識の上で欲しいと思っているものよりも遥かによく、あなたの深い自己はその両方を強烈に望ましいものだと知っています。あなたが恐れているものなどではまったくないのです。
今日お伝えしたことは皆さんの道の行く先を示す概要に過ぎず、今この段階で集められる精一杯の兆候といったところです。それでも我が心からの友よ、かき集めであるこの曖昧であろうものも、この先の皆さんの輝かしい道への備えとなるでしょう。キリストの意識とキリストの原理に身を置き、その中に生き、そして進んでください!
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