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Pathwork in Japan
No.256 内なるスペース -- 焦点の定まった空虚
Pathwork Guide Lecture No. 256
UNEDITED版
1978年12月13日
内なるスペース -- 焦点の定まった空虚
INNER SPACE -- FOCUSED EMPTINESS
私の愛する友人たち、みなさんの身体、魂、そしてスピリットを祝福します。そしてみなさんの歩むこの道、踏みしめる一歩一歩を祝福します。その道が荒々しく険しいとき、みなさんは自分が祝福されているのを疑うこともあるでしょう。けれども、そう感じるのは、その祝福があなたのもとを去るからではなく、あなたが、成功裏に超えて行く必要のある内なる場所に遭遇するからこそ、なのです。困難な内なる領域を超えて行くには、自分という存在の観点からその意味を理解し、自分の道の途上にある固いブロックを取り除く必要があります。
私たちは折に触れて、この内なる領域について話してきました。そして私は、内なるスペースについて述べたことがあります。その内なるスペースは現実世界であると述べました。「内なるスペース」というこの言葉は、宇宙(外的スペース)の反対の意味を持つ言葉としてあなたの住む世界では近年頻繁に使われています。ほとんどの人が内なるスペースのことを単に人のマインドの状態を象徴的に示したものとして捉えていますが、決してそうではありません。内なるスペースは、広大な現実、真の世界なのです。実のところ、それは真の宇宙です。一方で外的なスペースは単にその鏡像、内なるスペースを映し出したもにすぎません。捉えどころがないのはそれが理由なのです。この内なるスペースを外側から眺めていては、人生というものを真に理解し、体験的に自分のものとして理解することは決してできません。だからこそ、多くの人にとって、この内なるスペースがフラストレーションを与え、しばしば恐ろしいものになるのです。
内なるスペースがいかにしてそれ自体で世界 ---まさに真の「世界」(the world) --- になり得るのか、それを理解するのは難しいでしょう。これが難しい理由は、私たちの三次元の現実の中にある制限された時間/空間の連続体の中にあります。あなたの見るもの、触れるもの、体験するもののすべては、非常に制限された特定の角度から認知されています。マインドは、特定の方向に向けて働くように焦点を合わせられ、順応させられ、条件付けられているのです。それゆえに、現段階ではマインドは他の方法で人生を認知することができないのです。けれども、だからといって現実を認知する方法がこれしかない、あるいはこれだけが正しい方法だ、完全な方法だという意味にはなりません。
すべての霊的修練において、そのゴールは、それ以外の別の方法、つまり外的な投影を超えて認知する方法、内なるスペースの中で見つけることのできる新しい次元に焦点を合わせる方法、これらのような別の方法で人生を認知することです。いくつかの修練では、このゴールが直接的に述べられている場合もあれば、そのような形では述べられていない場合もあります。けれどもある段階までの成長と浄化が起こると、時には突然このビジョンが目覚める場合もあり、徐々に明らかになる場合もあります。あまりに突然で幻想のように思えても、それは実際には大きな努力を伴う一歩一歩の積み重ね、内なる闘いの末に現れる結果なのです。
原子核科学においては、ご存知の通り、すべての原子は外的な宇宙の複製だということが認められてきました。これは非常に意義深い事実です。時間というものが、どの次元で体験するかによって変化するということを想像できるなら、空間(スペース)もまた同じです。時間には本当に何の実体もなく、決められた一定の時間がないのと同じように、空間にもまた実体がなく、一定の空間というものはありません。あなたの真の存在は、生き、呼吸し、動きます。そして、原子の内側で遠く離れた場所、外的な尺度で測るとかなり離れた場所に行くこともできます。スピリットが内なる世界に引っ込むと、その長さ広さの関係性が変化します。それは時間との関係性が変化するのと同じです。いわゆる「死んだ人」とのコンタクトを喪失し、わからなくなってしまうと感じるのはこれが理由です。彼らは内なる現実、つまりあなたにとってはまだ非現実で幻のようなものにすぎない内なる現実の中で生きているのです。実際には、この外的なスペースこそが非現実で幻のようなものなのですが。
肉体の死が起こると、死ぬことのない生きたスピリットは内なる世界に引っ込むことになります。これはよく間違って推測されているように、天国に行くのではありません。肉体から出て、外的スペースへと浮かび上がっていくのではないのです。時に超感覚的にそのように見えることがあっても、それは内側で起こっていることの鏡像でしかありません。同じように、大半の人間は、本当に長い間天に向かって神を探し続けてきました。イエス・キリストが地上に来たとき、イエスは、神が内なるスペースに住み、そこでしか神を見出すことはできないと教えました。だからこそ、すべての瞑想の実践と練習は内なるスペースに焦点を合わせているのです。
ずいぶん前になりますが、私は考えない瞑想、自分を空っぽにする瞑想の練習を提案しました。時どきその練習を試みている人たちは、それがどれほど難しいかを体験しています。マインドはさまざまなものに占領されて、そのマインドを静めておくことは簡単ではありません。そのためにはいくつかのアプローチがあります。西洋のアプローチでは、通常長い練習と鍛錬によってなされます。人と離れて一人でいることと外的な静寂が相まって、この方法で次第に内なる静けさを生み出すことができるようになります。
この道における私たちのアプローチはそうではなく、異なったものです。これらの教えはあなたをあなたの世界から連れ出したいわけではありません。まったく反対なのです。目的は、考え得る中で最善のあり方であなたの世界の中にいること --- あなたの世界の中で、最も生産的で建設的な方法で理解し、受け入れ、そして創造することなのです。これはあなたが自分自身を完全に知り、理解するときにのみ可能になります。先に述べたように、あなたが困難な領域を超えるとき、そのことによってあなたは三次元の現実の中でより機能するように態勢を整えることになるのです。そしてそのとき、内なるスペースと外のスペースとの間の分離はありません。内なる真実が統治するようになるにつれ、外側の真実に対する知覚が増すのです。自分についての理解が育つにつれ、世界に対する理解も同じように育ちます。自分の中の不完全で欠点のある部分を型に流し込んでもう一度作り直そうと学ぶにつれて、あなたは自分の外的な人生を再創造しようとより学びを深めていることになります。自分の永遠なる美が聖なる顕現であることを学ぶにつれ、あなたの創造のビジョンが拡大し、創造主そしてその創造物の美を知覚するようになります。自分自身の内側に平穏が存在すると、世界に対して平穏でいられるようになります。あなたを取り巻く環境の中にどれほどの不快な体験があろうとも、それに左右されることはありません。言い換えれば、あなたは、内なるスペースに至るために、完全に隔絶された外的状況を必要としないということです。あなたは別のルートを行きます。最も大きな障害物のように思うもの、つまりあなたの内側、そして周りにある不完全さを通り抜けて進みます。あなたはそれらに近づき、恐怖に満ちた側面がなくなるまでそれらに取り組みます。これがあなたの道です。
内なる空虚に焦点を合わせることは、さらに追加で取り組むことのできるエクササイズとしてとても役に立ちます。けれども、それが自己実現のための唯一の取り組みであってはなりません。あなたの世界にある、自分の意に沿わない不都合な外的状態に取り組むことが、あなた自身やあなたの世界を救済するたったひとつの取り組みであってはならないのと同じです。
焦点の定まった空虚、これはあなたが内なる障害物を取り除いたとき、意図的にそして自然発生的に育ちます。初期の段階では、あなたが経験できるのは、空っぽ/無、これだけです。もしマインドを鎮めることができるなら、そこであなたが遭遇するのは、言うなれば虚空(ヴォイド)です。これこそがこの試みを恐ろしいものにしているのです。それはまるで自分の内側には何もないのではないか、自分は死ぬことを運命づけられた外的自己でしかないのではないか、という疑いを立証しているように思えます。これこそが、マインドをあまりに忙しく、やかましくさせている理由なのです。そうすることで、自分は無である、ということを告げる静寂を消し去っているのです。もう一度言いますが、あなたには不確かさというトンネルを通り抜けるための勇気が必要です。この静けさは、最初は意味などなく、生命や意識を意味するものが何もないように思えますが、あなたはそれを受け入れるというリスクを取る必要があるのです。
ほとんどの人は、どのようにして自分の内なる神、そしてハイアーセルフの声がマインドを通してインスピレーションを送ってくるのかを経験していると思います。それは瞑想あるいは祈りの直後にもたらされるとは限らず、むしろしばらくして、何もそれについて考えていないときにもたらされることがよくあります。そのとき、あなたのマインドは十分にくつろぎ、身勝手さから解き放たれて内なる世界が現れるのを許しているのです。内なる宇宙 --- つまり真の世界の体験についても同じことが言えます。
焦点の定まった空虚は、あなたが自分という存在のすべてのレベルに触れることができるようにします。歪み、間違い、ローワーセルフの要素など、隠されたものが上がってくるのを許します。そして最後には、その空虚の存在する場所、真のハイアーセルフと永遠の生という広大な世界が浮かびあがります。そこに至るためには、たくさんの段階、局面を通り抜けることになります。一定の浄化と統合が起こったときにのみ、後半の段階へと進むことができるのです。焦点の定まらない空虚というのは、意識がそこにない状態の空虚です。焦点の定まった空虚というのは意識が高まった状態の空虚です。前者は何も聞こえない、思慮がなくからっぽでマインドがぼんやりとさまよっているような、そのような状態です。最後には睡眠状態やその他の無意識状態へと至ります。焦点の定まった空虚というのは、非常に集中し、覚醒し、完全にそこにいる、という状態です。
もしあなたが自分の外的な世界を排除するために内なる世界に焦点を合わせるなら、分離を作り出すだけでなく、あなたは自分の転生の目的をも失う状況を作り出すことになります。あなたはどのようにして自分のタスクをやり遂げるのでしょうか?それが何であれ、自分の世界をその目的のために使わずして、どのようにしてそのタスクを果たすのでしょうか?必要がなかったなら、あなたはこの次元に来ることはなかったのです。ですから、あなたはそれを活用し、自分の外側と内側の状態を意義深い相互関係へと至らしめる必要があるのです。あなたはそれを成すべくこの道で学んでいるのです。あなたの外的経験のすべては、自分の人格、そして自己のさまざまなレベルに関係しています。そしてあなたの内なる存在はあなたの外的な状況を映し出し、同時に作り出しています。あなたは間もなくそれを理解するようになります。もし外側と内側との関連付けが人生で繰り返しなされないのであれば、その不均衡が好ましくない状況を作り出すことになります。あなたの世界では時どき、表面上たくさんの良いこと、良い仕事をする人がいかにして簡単に道を見失うか、そしてそれは他者のことを何も考えない人が道を見失うのと同じぐらい簡単だということを理解するでしょう。外に向ける良い意図、良い仕事というのは、不調和をきたす状況や危険な分離を避けるために、必ず内に焦点を合わせていなければなりません。
焦点の定まった空虚は、徐々にあなたを永遠なる光へと導いていきます。単純化しすぎるという懸念はあるものの、もしかしたら、これらの基本的な段階を分類することができるかもしれません。現実では、各段階はしばしば重なり合い、かならず連続してもたらされるわけではありません。ここでは、明確化するという目的で概要を述べましょう。
(1)マインドのさわがしさ、忙しさを体験する。
(2)この騒がしさを静めることに成功すると、空っぽ/無に遭遇する。
(3)自己について、そして自己の持つ側面と外的な体験との間のつながりを認識し、新しい理解がもたらされ、今まで認識していなかったローワーセルフの要素が明らかになる。この段階は真に聖なるガイダンスの放つ輝きであり、単なるローワーセルフの体験ではない。ローワーセルフへの理解は、常にハイアーセルフのガイダンスが顕現したものである。
(4)ハイアーセルフのメッセージが直接現れる、すなはち、チャネルが開く、とあなたが呼ぶ状態がもたらされる。あなたは助言、励まし、あなたに勇気を与えるための言葉、誠実さを受け取る。この段階では、聖なるガイダンスは主にあなたのマインドを通して働いている。そしてそれは必ずしも完全な感情的体験でも霊的体験でもない。ガイダンスがもたらされることはあなたを興奮させ喜ばすかもしれないが、この反応は知識の結果である。その知識とは、あなたのマインドが取り入れ、確信した知識である。
(5)この段階では、直接の、完全なる霊的そして感情的体験が起こる。自分の存在全体が聖なるスピリットで満たされる。あなたは知っている。マインドを通して間接的に知っているのではなく、自分の存在のすべてを通して直接知っている。マインドを通して知ることは常に間接的な知識である。それは中継された知識である。人間のマインドは、この意識レベルで機能するために必要な道具である。直接の知識とは別のものである。
この段階では、その中にさらに細分化されたたくさんの段階があります。たくさんの、いや、言うなれば無限の可能性があり、そこでは真の世界を経験することができるのです。それは単純に完全なる知を通して起こり、自分の中のすべての繊維細胞、そして自分の意識レベルのすべてに影響します。真の世界の経験は他の次元のビジョンを通して起こりますが、そのようなビジョンは決して単に見るだけのものではありません。他の次元のビジョンとは常に、その人すべてに影響を与えるほどの完全なる体験なのです。
みなさんの住むばらばらに分離した世界とは反対に、真の世界ではすべての感覚認識はすべてを含んでいます。見ることは単に見ているだけではなく、同時に聞き、味わい、感じ、匂いを嗅いでいます。ほかにもみなさんの存在レベルではまったく知りえない知覚もあります。第5段階においては、見る、聞く、知覚する、感じる、知る、これらすべてを常に含んでいます。それらは神が作ったすべての力を含んでいるのです。そしてあなたには、それらの力の豊かさ、多様さ、制限のない可能性を想像することはほとんど不可能です。
焦点の定まった空虚は、聖なるスピリットに満たされた理想的な状態です。聖なるスピリットとは、光彩を放つ神の世界そのもの、言葉にすることなど不可能な壮麗な世界の全てです。その豊かさは人間の言語で伝えることは不可能です。恐れ、疑念、不信を乗り越え、それゆえに苦しみ、死、そしてすべての悪を克服するとき、そこに何が存在するのかを説明する方法などありません。したがって焦点の定まった空虚は、スピリットの世界にのみ存在する完全性・豊かさへの入り口にすぎません。
焦点の定まった空虚の練習は、すぐに手に入れたいという期待に満ちた態度で行ってはいけません。実際、期待を持たないことが必要です。期待は緊張を生み、緊張はその練習に必要な内外のリラックスした状態を妨げます。また、期待は非現実的です。なぜなら、人間がこれらの体験に少しでも近づくことができるまでに、成長のためのたくさんの転生が必要になるからです。ですので、どんな期待であっても期待というのは失望を引き起こします。そしてその失望が今度は疑念や恐れ、落胆などのさらにネガティブな感情の連鎖反応を誘発します。
私がこのテーマについて話す理由は、瞑想の中で重要な練習をするための準備をみなさんに整えてもらうためです。これについては今までにも、瞑想のさまざまな方法、特に取り入れる(impressing/刻印する)ことと表に出す(expressing/表現する)という瞑想法に関連して述べてきました。みなさんのやっている瞑想のほとんどは、前者、つまり取り入れることに取り組んでいるもので、それはどうぞ続けてください。これはマインドの浄化と、マインドを建設的なツールとして使うという側面に取り組んでいることになります。このツールは創造のための力になります。
時どきはチャネルを開くことができる人にとっては、表に出すという側面がある程度顕現し始めてきています。けれども、さらにたくさんの段階、局面、可能性があることを知っておく必要があります。そして忍耐強く、畏敬の念を持ち、謙虚に、それらに取り組まなければなりません。これらの経験によって内なる広大なスペースが開かれることになるのを知るべきです。そしてそのスペースの中にはたくさんの世界、たくさんの宇宙、たくさんの領域が存在し、言葉では表せないほどの美を備えた平原や山、海が果てしなく広がっています。これらの内なるスペースが幻のような非現実的な抽象概念、あるいは象徴的な表現ではなく、あなたが唯一の現実だと信じている外的で、客観的に捉えることができる世界よりもずっとリアルで手を伸ばせばそこにあるものだということを知るべきです。内なるスペースの中では、時間 /空間 /動きとその測量法との間には異なった相関性があり、異なった尺度があります。漠然としてあいまいであっても、この概念を考えてみるだけであなたが見るものが変わり、この道におけるさらなるワークへの新しいアプローチを生み出すことになるでしょう。
焦点の定まった空虚を手に入れるためには、何時間にもおよぶ練習が必要です。それが目的ではありませんが、あなたが祈るとき、瞑想するとき、マインドを使ってあなたの魂の物質にそれを取り入れ、聖なる意図をもってそれと意識を合わせてから、ある程度まで練習を試みるといいでしょう。みなさんの一番の目的は、本当の意味において自律(自治)に至ることです。この点において、みなさんは、グループとして進歩しましたが、それでもまだやり遂げるべきことがたくさんあります。すべては、自律に至るための基礎となる必要条件にかかっています。その必要条件とは、自己を尊重し自分の価値を発見する能力、愛する力、あなたが切望する充足を見つける力、この地球に来た理由となる霊的なタスクを成就すること、自分の内にそして周りに生ける神を経験すること、真のリーダーであると同時にフォロワーでもあり得る能力、そして最も大切なのはマインドを手放し、あなたの真の家であり、あなたに永遠の生をもたらし、永遠にあなたからすべての恐れを取り除く内なるスペースを見つける能力です。自分自身を持たない限り、神の意志に委ねる(サレンダー)ことはできません。そして、あなたの神への委ねが無条件でない限り、あなたが本当に自分自身を見つけ、自分自身でいることもできません。
このことは、本当に根本的に必要とされることなので、今までにも再三述べてきましたが、今一度時間を取ってこのテーマを議論する必要があります。けれども、私は今なお、あちらこちらで強い抵抗を感じます。それは、自律した自己という最も大切な状態へと到達することへの抵抗です。あなたはいまだに、人生が危険な状態になるとき、自分がやむを得ず犯した間違いの代償を無理やり支払わされるとき、自分の避けがたい不完全さが自分の経験すべき状態、すべてのレベルにおいて探求し理解すべき状態を作り出すとき、自分に代わってそれを引き受けてくれる権威者を切望しています。あなたはいまだにそんなものすべて必要のない「完璧な人生」を切望しているのです。あなたはいまだに、間違いを避けることは可能だ、その代償を支払わないことだって可能だと自分をだましているのです。この幻想は危険です。それは本当に微妙で捉えがたく、簡単にごまかし、否定することができるがために、なおさら危険なのです。こうして自分をだます行為から表出することを人は合理化します。ゆえに否定もします。
あなたが自分自身について、自分の環境について、あなたの周りで起こる出来事について不確かであったり、混乱しているときはいつも、それはあなたが自分をだましていることにいまだに苦しんでおり、ゆえに十全な状態の自己へと育つことを意図的に避けていることを示すサインです。あなたが権威者に対して反抗するときはいつも、それはあなたがいまだに「正しい」権威を求め続け、人生の浮き沈みを引き受けて自分の現実を経験することからあなたを守ってくれるスーパーマンを求めていることを示す確かなサインなのです。
自律が存在するとき、権威に対する抵抗は必要ありません。混乱もありません。そこには、真実とは何か、間違いとは何か、という明確な認識が存在し、ゆえに反抗や恐れに満ちた服従のない状態で意見の一致や不一致があり得るのです。このような明晰さと識別力へと至る道は、模索し、問いを発し、精査し、オープンになって探求しようとする意欲を持つことです。そのような道を行くためには、あなたの人生で起こる特定の問題に関して、素早く返される既存の答えというよりもむしろ、忍耐強さが求められます。けれども子どもっぽく依存的な人は、精査して理解していくこの忍耐を求めるやり方を毛嫌いして避けようとします。なぜならばそれは苦労することを意味するからです。子どもっぽく依存的な人は、すぐに安易な答えを欲しがり、そのために結論を急ぐ傾向にあります。間違いを恐れると、性急にたどり着いたこれらの答えを疑問視することさえなく、強弁な主張が邪魔をして、明晰さや真実を閉じ込めてしまうことになり、それに相応して引き起こされる混乱を経験することになります。これらのネガティブで混乱した経験がいかにして作り出されてきたかというその道程とのつながりが欠けていると、人生はあまりに難しく、不公平に見えます。だからそこ、完璧な権威者を求めるのです。
あなたの独立に対する抗議が激しくなればなるほど、この激しさは疑わしくなります。自分は自由で、誰かの影響下にいることはなく、あるいは影響を受けやすくもないということを証明する必要性が増せば増すほど、あなたはより真の自律を忌み嫌うことになるでしょう。そして自分の人生、自分の体験、自分の決断に対して完全なる責任を負いたいと思わなくなるでしょう。あなたの自己を否定するがために、あなたからの非難を受ける権威者への反抗が大きくなればなるほど、彼らが自分の要求に応えてくれないことに対して秘密裏にますます腹を立てるようになります。
これらの要求とはいったい何でしょうか?すでに述べたように、それは、どんな場合であっても間違いなど起こすことはできない、どんな代償も払わず、間違いの結果や歪み、ネガティビティ、あるいは愚かな決断を経験することを避けなければならない、という要求です。あなたは、「自由」でいながら、決して誤ることのない魔法の力を持った鍵が手渡されることを望んでいるのです。この「自由」は、あなたは自分の望むことすべてを、それがあなたの真の自己や他者にとって好ましかろうがなかろうがお構いなしに、何でもやりたいようにやることです。フラストレーションあるいは必要な規律を経験したくないのです。このようなゴールが達成されないままになると、あなたは権威者に腹を立て、彼らを責めます。そしてしばしば彼らがあなたの期待とは正反対だと言って非難します。具体的に言うと、あなたは制限が設けられると、彼らが自分の自由を侵害していると言って非難するのです。その制限が現実的な制限、つまり人生の法であることを見るのを拒みます。おそらく無意識に、しかしながら故意に、あなたは一定の混乱を作り出します。その混乱は制限を歪めて受け取ることから作られ、まるで境界線が奴隷化を伴っているかのように思うのです。
みなさんには、どうぞ自分の中のこの側面を探求してくださいとお願いします。もしあなたがそれを見つけることができるなら、それが自分の中にどのぐらい存在しているのかを探求してください。また、自分自身に徹底して深い問いを投げかけてください。あなたは本当に完全に自己責任、そしてそれが含むすべてのことを喜んで引き受けようと思いますか?自分はいまだに不完全で、間違うことを避けられやしない、という事実を完全に認めますか?そしてあなたはその間違いの代償を、本当に喜んで支払いますか?あなたがそれらを喜んですればするほど、この代償はより安くつくのです。この代償は、踏み石となり、出発点となり、そして必要なレッスンだということが分かります。
神の意志に委ねることによってのみ、これに取り組むための強さがもたらされ、真にその人生の真ん中に立つことができます。その場所では、あなたの周りで人生が開き広がり、決してそこから抜け出てさまようことなく、それを否定せず、人生から逃避する手段として霊性を利用することもありません。
あなたが神に委ね、それが本物であれば、そして自律した自己になるというあなたの意欲をとことん追求してやり通すならば、すべての二元的な混乱は消滅します。そのときあなたは、もはや個人とコミュニティとの対立の中で混乱することはありません。自分を明け渡すことと自分であること、真の独立との対立の中で混乱することはありません。真の意味で自分であることは、自分のいる環境と争ったり不和になることのなない、社会的存在を生み出します。反対に、このような人は他者と心でつながり、常に他者に貢献します。真に自律している人は、強いリーダーにもなり、自ら進んでフォロワーになることもできます。なぜなら、その人のビジョンは曇りなく明らかで、その人の中心に「自分でいること」が置かれているからです。
このシーズンで今までに私が行ったすべてのレクチャーをたどれば、以前は触れてこなかった別の次元について述べられていることを発見するでしょう。これらの状態を手に入れるための直接的なステップを踏み出すのはまだ無理だとしても、私はみなさんにとって新しい展望を開いたのです。この時点では、別の次元の現実があるという知識がみなさんにとって重要なのです。これに向かう扉を抜けて行くための最大の妨げになるのは、まさにみなさんがまだ完全なる自己責任、自律、義務を避けているという問題です。あなたの自由はそれ次第です。弱さの中ではなく、強さの中で手放す力を持てるかどうかは、それにかかっています。
もちろん自律、あるいは自律の欠如は常に程度の問題です。多くの人は、生活費を稼ぐことに関する限りは、自分の人生の中に完全に立っていることができます。おおよそ楽しみながら健康で生産的なやり方でこれをしているかもしれません。この領域においては、あなたは現実的でいることができ、この側面には常に難しいことや退屈さ、対立があることを受け入れています。あなたはこのような困難なときに自分の最善を差し出します。だからこそ、あなたは成功し、仕事を楽しむことができるのです。しかし、また別の領域があります。より微細で捉えがたく、ほとんど気づくことができないほどの、そしてあなたがいまだに依存したいと望む、自分自身でいない領域です。これらの領域を探求するかどうかはあなた次第です。この領域の存在を暴く明らかなサインは、あなたの人生において自分が権威者についてどう感じているか、信頼できる人と信頼してはいけない人を自分がどのように区別しているか、です。あなたの激しい感情はどこに行くのでしょうか?もしかしたらよくあるケースのように、あなたのポジティブな感情は、もしかしたら信頼してはいけない人に向きがちかもしれません。一方であなたは、あなたの自律を奨励し、あなたの信頼を得るに値する人たちを疑いの目で見るのです。
もしあなたが自分自身を信頼できないならば、信頼に値する人は誰なのかを知ることは決してできません。そしてもちろん、自分の中にある信頼を得るに値するところがどこかを知らなければ、あなたは自分自身を信頼することはできません。残念ながら、自分の中の最も子どもじみた、最も破壊的で最も短絡的なところこそが自律した自己だと主張したくなるのはよくあることです。あなたは、一筋ほどのほんのわずかな抵抗と一時的な最上の歓びとを同等に自分の自律だと信じたいのです。もしかしたら時にはそうかもしれませんが、決して常にそうではありません。一時的な歓びにノーと言える内なる真の権威に耳を傾けることを学べれば、あなたはそのとき自分を信頼することができます。なぜならば、一時的な歓びは長い目で見るとあなたをだめにするからです。
真の成熟、つまり健全であり、自分であることは、健全で、十全に生きる満足のいく人生を送るために必要不可欠なものです。それは霊的な自己実現の基礎を形成します。この状態なしでは、いずれ霊性は歪んでしまいます。その人が霊性への道を歩み始めたときにはどれほど良い意図持っていたとしても、それは関係ありません。
一方で、健全と自律のこの状態は、単に心理学的手段では実現できません。みなさんの心理学者たちは、正しい概念を持ち、患者へのアプローチにおいてこのゴールに向かって努力します。しかし、耳を傾けるべき内なる声がいくつもあることを学ばない限り、どの声を信じてどの声を拒否するのかの選択がなされない限り、そしてこれらの声が探求されない限り、このゴールは永遠に手に入らないまま、単なる美しい理論になってしまうのです。実際、ハイアーセルフの声は最初の内は最も小さく、それでもいかなるフラストレーションも我慢したくないとやかましく騒ぎ立てる他の声よりも、あなたはそれに耳を傾ける必要があるのです。
親愛なる友人のみなさん、自律的な人たちによって成り立っているコミュニティのみが、グループの実体として自律し、安全で創造的であるということがはっきりしたはずです。ニュー・エイジにおいては、すべてがこの方向に進みます。もっともっと個人がこのように成長し、感情的、心理的、そして霊的な成熟に到達すれば、その分だけ社会全体が変容を遂げることができるのです。社会全体が、少なくとも全般的な態度として、この状態を発現している価値を示すとき、破壊的な意図と霊的な無知のどちらか、あるいは両方を持ち最も低次の領域からくる人たちでさえこの地球に大惨事をもたらすことはできません。彼らの影響は陽光の中の雪のように解けるでしょう。今はそうではありません。なぜならそれは、あまりに多くの人が、全てを許し、何も禁じることのない、生きる上でのすべての困難を取り除くと約束してくれる権威者を欲しがっているからです。
深くて激しい、キリストとの現実のコンタクトは、この状態が人間の人格に存在するときにのみ、可能になります。そうでなければ、道が塞がれ、経験を得ることはできず、その声が混乱を招きます。神への完全なる委ねという概念は混乱を引き起こすことになるのです。すべてを容認し、一筋ほどのわずかな抵抗への制限も設けず、どんなフラストレーションも決して与えず、この種のユートピアを提供する、そのような間違った権威者に自分を委ねてしまいたいという願望は、同時に自らの内なる存在の中でいくらかでもこのような明け渡しが危険であることを知っている人の中に恐れの感覚を生みだします。より弱い人は、聖書が言っているように、間違った預言者に自らを明け渡します。それよりも少し強い人は、まだ部分的にこの未完の状態にはいるものの同時に部分的に真の自律を求めてもいるので、あらゆる形の委ね(明け渡し)を恐れます。彼らが真に恐れ、信頼できないのは、自分自身の願望です。決して約束すべきではないことを約束する間違った預言者を求める願望です。これらの約束はそれほど多くの言葉で交わされることはありませんが、言わずともそのメッセージの中にそれは含まれており、自分の人生を引き受けたくないと思っているがために最もつけこまれやすい人たちの意識に届きます。
ですから、あなたはどれほど神の意志、そしてどんな形であるにしろあなたに与えられる神のガイダンスに委ねたいと望んでいるとしても、あなたが完全に自分であることを己の存在の全ての領域において確立しない限り、委ねることへの抵抗を克服することはできません。進化という観点から見ると、スピリットは、霊的真実、霊的法則、そして霊的健康が確立している分だけ、物質(実体)の中に広がることができるのです。個人の自己責任は、本当にこれへの鍵なのです。自己が強くなると、より多くの生命が物質に入り広がります。そしてより多くのスピリットが肉体に入ってくることができます。あなたが「自分であること」を手に入れて大きく成長すると、もっとたくさんのあなたの真の存在があなたに入ることができ、あなたの肉体の中に顕現することが分かるでしょう。今まではまったく気づきもしなかったより多くの才能が表面化します。突然新し叡智、感じ愛することへの新しい理解や能力が顕現し、今までは感じなかった強さがあなたの中から姿を現します。こうして現れるものすべては、内なるスペース、そして真の世界で生きる真のあなたなのです。これらの側面のための場所を作ると、それらの新しく現れたものが物質の生命に入ってきます。そしてあなたは進化の計画における自分のパートを完了するのです。これらの態度は外側から育つことはありません。それらはあなたに付け足されるものではありません。それらは、自らの内にいるまだ現れてはいない存在のための場所を作ることで外側に現れる結果なのです。これは、成長のプロセス、あなたがこの道で取り組む懸命なワークによってもたらされます。成長過程においてある地点を過ぎると、あなたが空っぽ/無というのは幻想だと発見するまで、この内なる空虚に焦点を合わせることが成長の助けとなるでしょう。それは充足、そして豊かな栄光に満ちた世界です。あなたは必要なものすべてをこの内なるソース(源)から受け取ることができ、それを外的な体験へと変えることができるのです。
キリストは、遠い昔から、悟りを開いた存在としてさまざまな形をとってこの世界にやってきました。けれども、イエスの中で現れたときほどに完全に自由だったことはありません。ここでもあなたにはわかると思います。それは、スピリットがどれほど物質(実体を有するもの)の中に流れることができるか、どれほどその物質が何も妨げられない状態になるか、という程度の問題で、そうするとスピリット、生命、意識が最大限に物質として顕現することができるのです。進化の過程において、あなたが今いる領域がスピリットに道を譲り、そうすることで物質が完全に霊的なものになっている、という地点が訪れます。そうなると物質がもはやスピリットを妨害するものではなくなります。虚空(ヴォイド)が生命で満たされるのです。
恐れないで虚空にアプローチすることによって、あなたは人生の妨害物を取り除くことになります。内なるスペースに焦点を合わせるということは、まず、空っぽ/無に見えるものにアプローチすることを意味しています。この虚空を通して、あなたはスピリットの豊かさ、純粋で妨害するもののない生命の完全さに到達するのです。この生命の持つこれらのものは、生命がどのように表され、物質化するのか、そのすべての可能性を含んでいます。この現実を経験する喜びは、他のどんなものより大きい喜びです。この喜びの中に、創造主とひとつであるというワンネスがあります。そこでは、あなたは本当にひとつです。
友人のみなさん、創造と進化という意味において、あなたの人格の中でそしてその人格の持つ側面の中で無意味なものはないことを理解できると思います。「単なる心理学的な側面」というようなものはありません。すべての態度、すべての考え方、感じ方、あり方、そして反応の仕方が、物事のより大きな計画へのあなたの関わり方に直接的に影響を及ぼします。これを知っていると、あなたはおそらく、自分の人生、そしてこのパスワークの道、自分の努力により大きな価値を与えることがより簡単になるでしょう。あなたは、独断的な二元性、つまり霊的な関心事と世間の関心事との間の対立を統合することを学ぶでしょう。
妨害物のない生命、重荷のないスピリットのための場所を作ってください!そしてそれであなたの存在のあらゆる部分を満たしてください。そうするとあなたはついに自分が真に誰なのかを知るでしょう。私の最愛の友人たち、みなさんは祝福されています。
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