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No.258 イエス・キリストとの個人的なコンタクト --- ポジティブな攻撃性 --- 救済の真の意味

Pathwork Guide Lecture No. 258
UNEDITED版
1979年2月7日


イエス・キリストとの個人的なコンタクト --- ポジティブな攻撃性 --- 救済の真の意味
PERSONAL CONTACT WITH JESUS CHRIST; POSITIVE AGGRESSION; THE REAL MEANING OF SALVATION


 大いなる喜びとともに、聖なる祝福をお届けします。ここにおられるすべての人が、生き生きとこの祝福を感じられます。意識を、いま目の前のこの現実まで高めてください。みなさんは、自分の人生において、主がここにおられることを感じさせなくしている障壁を取り除かなければなりません。

 では、このテーマについてお話ししたいと思います。みなさんはこれまで、主への信仰心を高め、この世界のいたるところに神が存在しているという認識を強固なものとしてきました。それなのに、神と個人的にコンタクトしたことのある者はごく少数にすぎません。神は、深い愛をもって一人ひとりすべての人間のそばに在るために、人間となりました。神を信じる多くの人は、神とは個人的ではなく、もっと大きな、全体的な経験であると考えています。あなたもきっと、自分が心に描き、信じている通りにしか神を体験できないことを知っているでしょう。

 もしあなたがイエス・キリストからあなた個人に向けられた愛を望み、祈り、それが現実のものになるように探し求めるならば、その答えはおのずと現れます。おそらく最初に与えられる答えは「答え」だとは思わないでしょう。その答えは、この経験やこの現実からあなたを遠ざけようとする特定の障壁に関係しているかもしれません。もしかしたらそれは、この学びの道の途中で、浄化のために取り組むべき新しい事柄、あるいは以前取り組んだが再び取り組むべき事柄かもしれません。けれどもそれが答えなのです。ひとたび障壁が崩れはじめたら、あなたは、自分に向けられたイエス・キリストの愛を感じるとはどういうことなのかを経験するでしょう。

 ここであなたは悪循環に巻き込まれてもいるのです。自分には価値も愛らしさもなく、誰にも受け入れてもらえないと感じていると、あなたが現在どの程度成長していようが、キリストが個人的に自分を愛してくれると信じることは不可能です。ですからあなたはたゆみなく前進し、自己受容と自己尊重とを、もう一度確立しなければなりません。それは、目の前の正当化された罪の意識を認識し、取り払うことによってのみ成し遂げることができますが、その過程で自分自身を破壊してはいけません。これについては今までに何度もお伝えしてきました。ローワーセルフにだけに向けられた洞察によって引き起こされる激しい自己非難は、健全な意味における自己愛のための余地を作り出す、浄化と解放のプロセスを阻害します。

 もうひとつの真実は、あなたという存在は尊く、人の姿となって現れた神、つまりイエス・キリストに愛されているのだという意識を、たとえわずかでも持ち合わせていなければ、自らの罪の意識を受け入れ、自分の本当の価値を見出すことは困難をきわめるということです。ですから、あなたに必要なのは、二重のアプローチを続けていくことです。ひとつ目のアプローチは、自己探求、自分のローワーセルフのすべてに向き合い、慈悲と現実を見る目を持って自分という存在のすべてを理解するという決意です。そしてもうひとつのアプローチは、イエスがいつでもあなたのすぐそばに在ること、イエスがあなたを気づかっていること、そしてあなたの人生のいかなる小さなことにまで深くて尽きることのない関心を寄せていることを感じたい、と深く願い祈りを捧げることです。

 このようにして学びの道を進むあなたがその道程で手にする栄光と恵みは、言葉では言い表すことができないほどのものです。そして、その時いかなる環境にいようとも、主はあなたというひとりの人間を愛し、思いやっているということ、そして主があなたを忘れることは決してなく、常にあなたを守っているのを知っていること、これに匹敵することなどありません。

 しかし、この完全なる充足があなたのもとを訪れるのは、大小問わず、あなたの人生の、またあなたという存在のありとあらゆる側面において、何のためらいもなく完全に神の意志に委ねることができたときだけです。これは過去の講義でも繰り返しお話ししてきたことですが、ほとんどの人にとってはそれほどに難しいことです。みなさんはまだ自分を抑え込んでいるのです。そして、あなたの中にはまだ、抵抗を示し、何が自分を幸せにするのかは神よりも自分の方がよく知っていると信じている小さな場所があるのです。イエス・キリストは今ここに、あなたに永遠の命と安全、そして完全なる充足を与えるためにここにおられます。もしあなたがイエスを信頼し、自分のすべてを彼に捧げさえすれば。そうすればあなたは、絶えることなく続く再生への流れの中で、生命と喜びの本質をエネルギー源として生きていくことができるでしょう。

 最高次の存在への完全なる委ね、それを常に実践し、自分の内側で新しく行動し続けない限り、他者に対する恐れや不信をなくすことはできません。ひとりで生きていくことはできないからです。どんな生き物にもできません。すべての創造された存在は、物理的にも、感情的にも、霊的にも、相互依存という鎖でつながっています。その信頼の重みが、あるべき場所、つまり神に、あなたの近くにある神の個人的な側面にかかるとき、魂に深く根付いた健全な重心があなたのなかに置かれることになるのです。というのは、そこが神を見つけることのできる場所だからです。神の存在があなたのハイアーセルフと融合し、あなたは真にひとつになるのです。こうすることで、あなたと他者との相互依存関係が、神経症的依存状態から解放されることになります。それは、あなたにクリアなビジョンと、信頼を置くべきところがどこなのかを現実的に判断する力を与える健全な相互依存となり、ゆえにあなたはあなたを導いてくれる人たちとあなたの後に続く人たちのどちらとも健全な関係を結ぶことができるようになるのです。正しい重心、つまり神に重心を置かなければ、あなたは常に混乱し、恐れの中を生き、自身の判断を信じることができず、間違った場所で不信感を抱き、間違った場所に信頼を置いてしまうのです。

 ですので、親愛なる友人のみなさん、キリストと個人的なコンタクトを取りたいという願いを今、深めてください。神に対するコミットメントを強め、神が受けるに値する完全なる信頼の中で、あなたの人生のすべてを神に明け渡して下さい。さもなければ、あなた方人間の恐れがやわらぐ事は決してないのです。以前私はある講義の中で、その存在に気づいているか否かにかかわらず、人類が共通して持つある基本的な実存的恐怖についてお話ししました。意識の消滅に対する恐怖です。つまり、スピリットとしての自己からその肉体が切り離された後に起こることを恐れているのです。もはや存在しないことは、誰もが潜在的に持っている大きな恐れであり、かつ必ず遭遇し、対処しなければならないものです。神に対して完全に委ねることを通してのみ、これを成し遂げることができます。自分の中の不純さを取り除くことを通してのみ、これは可能になります。あらゆる痛みを否定するのではなく経験することを通してのみ、それに対処できるのです。

 創造主は、この地球という星をサインやシンボルで満たしました。それらはあなたに、この惑星には失われるものなど何もないことを、消滅するもの、あるいは崩れ落ち無になるものなど存在しないことを声高にかつはっきりと伝えています。覚醒するにしたがって、あなたはこれらのシンボルを理解できるようになるでしょう。覚醒は、あなたがどれだけ創造主に委ねるか、そしてその創造主が人間として、つまりイエス・キリストとしてあなたの近くにいるかにかかっています。

 そのシンボルのひとつが海です。潮の満ち引きを観察してごらんなさい。潮は、巨大なひとかたまりとなって前方へと流れ、すぐに引いて消えます。いったい引いた水はどこに行ったのでしょうか?消えうせ、砕け散り、もはや存在していないかのように見えます。あなたの立っている海岸沿いの見晴らしのいい場所からは、さっきそこにあった水がもう今はないのがよくわかります。けれどもあなたは、海水は砕け散って無となったわけではないことを知っています。海の水は海の水であり続け、大いなる海の一部で在り続け、その唯一無二の性質を失うことは決してありません。(海水はすべて、似てはいますがそれぞれに異なります。塩の含有量、そしてそのほかにも人類がまだ知らない質の面でも異なっています)ですので、海水の満ち引きの「個性」は常に保たれているのです。

 個人の意識はそうではないと言えるでしょうか?個人の意識が、それ自体を進化させ、浄化させるという、この上もない痛みを伴うステップを、成長し拡張するというつらいステップを、何の目的も道理もなく経験することなどありえるのでしょうか?人生で経験してきたこととあなたの生きる態度との間にある自分の内面とのつながりをしっかりと確立していくにつれ、あなたはそれが偶然の一致などではなく、それは自分と直接的な関係があること、それはつまりありのままの自分、自分が表現し、意図的にあるいは無意識に作り出しているものと直接的な因果関係を持っていることをより深く理解するでしょう。あなたという一個の存在の小宇宙の中に、このような因果関係があることに気づくと、必然的に、今までとはまったく違った新しいやり方で宇宙を理解できるようになります。そしてあなたは、すべての事柄には目的があり、無駄なものなど何もなく、すべてを完全なものとするための、すべてに至上の喜びをもたらすための、すべてをワンネスへと導くための、つまり、存在するすべての事柄を言葉では言い尽くせぬほどの平和へと導くための壮大な計画が実行途中であることを知るのです。もはや、起こってくるできごとの背後にあるその偉大なる計画に疑いを抱くようなことは決してなく、ただひたすらに、誠実に、勇気を持って自身の小宇宙を探求することができるようになるでしょう。そして、目の前で起こっては通り過ぎてゆくすべての事柄の内に、深く編み込まれた叡智と目的を見出すとき、そこには創造主の偉大なるスピリットが息づいていることをも同時に感じ取ることでしょう。

 個人化された神から差し伸べられた助けに沿って生きていくと、以前はまるで不明瞭だったつながりが、徐々にしっかりと構築されていくのを感じるでしょう。神はいつでもあなたのためにそこにいます。人生で起こる辛いできごととそれを引き起こした内側の原因とが切り離されていることほど苦しく、また恐ろしいことはありません。それは一見、道理に合わないように思えるかもしれません。その因果関係を確立することは、安堵、解放、自由、言葉では表せないほどの豊かさをもたらします。

 けれども、みなさんがその存在に気づき、感じ、受け入れるべき、あるリズムが存在します。ここでもう一度、海を例にとってみましょう。潮の満ち引きは、ある非常に特殊なリズムにのっとって機能しています。そのリズムとは、より高次の秩序のもとで確立されており、このリズムが狂うことは決してありません。リズムが一時的に乱れるのは、何か特別な地殻変動、例えば地震や津波、人間の手による破壊行動などの干渉を受けたときだけです。それはいわば海が危機に直面しているときだと言えますが、その危機的状況さえその独自のリズム、そして他の創造物との調和を再度確立しようという試みなのです。海には、このパターンに従う叡智が備わっているのです。人間は、その破壊的なマインドゆえに、調和の中にいるべきユニークなリズムを備えたパターンに対して、あまりに無関心でいるのです。

 あるできごとと内なる自己との間のつながりを探し、そのつながりを認識するためにワークし、サポートを求めて祈ってはいるけれど、まだそれへの応えが来ないとき、それはおそらくあなたがこのリズムから外れているからです。満ち潮を待つ、この時間を使って、引き潮の時にしか学べない自らの内側にある特質を学ぶのです。潮の満ち引きの時間的な要素については、満潮と干潮の間隔がまったく同じであることはありません。地球上の時間という観点から言うならば、たいていの場合、どちらかがもう一方より長く続きます。そしてこの時間関係は変化します。人類のリズムにも同じことが言えます。ある領域ではより早く成就のときを迎え、他の領域においては成就を待つ時期が長く続くのです。

 すべてのものの中にあなたのリズムを感じ取ってください。あなただけの普遍的なリズムのパターンと調和しながら、日々の暮らしを感じてください。そのリズムは、あなたの魂の物質の内側にあなたの人生のパターンを宿しているのと同じくらい確実に存在しています。働き、休息し、遊び、生き、動き、そしてあなたという存在をあなた独自のリズムのパターンと同調させるならば、より実りある、創造性と喜びと平和に満ちた人生を生きることができるでしょう。肩に重くのしかかっていたたくさんの苦しみと不安が消えていくでしょう。こうなるには、この次元まで意識を高めなければなりません。まずは、この概念について考える必要があります。そこに存在しているものを熟考してみてください。想像力をかき立て、リズムの中で日々を生きるとはどんな感覚なんだろうか、ということを深く感じてみてください。それを、リズムの存在をまるで意識していないいつもの自分の姿と比べてみてください。一度その違いを心に描くことできると、日々それに注意を向けていられるようになります。そしてそれに集中するためのサポートを受けようと個人的なガイダンスを求めるようになり、ますます自分のリズムのパターンの中に留まれるようになります。

 比較的長期にわたり探求とワークをしてきいても、わが身に起こった辛いできごとが自分個人に起因する原因やその意義と完全に切り離されているように思えるときには、これをリズム現象として受け入れるように、とあなたのリズムパターンの中にある何かが求めているのです。確かに、このリズム現象というのもまた、意識によって決定されます。つまり、特定の意識の中に潜んでいる原因により決定されるのです。リズムパターンが尊重され、受け入れられ、実行され、そして最も建設的な方法で活用されるなら、そのリズムはいかなる妨害も受けず、自然なコースをたどって流れることができます。疑念、反発、怒り、そしてこの宇宙が自分を苦しめるだけの何の意味もないものだという思い込み、これらは作動しているリズムパターンへの破壊的反応なのです。ゆえにその自然な流れを遅らせます。同じく、「私はとても悪い人間だからこんなふうに罰を受けて当然だ」という自己拒絶的態度もまた、リズムパターンへの破壊的な反応です。

 みなさんはこの学びの道で、建設的な反応とはどんなものかを学んできました。「ここで私は何を学ぶことができるだろう?本来は私の成長を最も促進させてくれるのに、一見遅らせるかのように見えることに対して、私の反応はどうあるべきだろうか?ローワーセルフの中に、私がまだ気づいていないものやまだ十分につながっていないものがあれば、私はそれをしっかり見たい。もちろん神は私を愛して下さっていて、私は神が表現された唯一無二の表現のひとつなのだという事実を見失うことはない。」このようなポジティブな反応は、調和のとれた道を選択するためのリズムを助長します。すると、しかるべき時が来れば、それはたいてい思いもよらないタイミングなのですが、新たなつながりが開かれます。ときには突然すべての苦悩が消え去るほどに豊かにあふれ出し、そこにあった苦しみが本来の姿である祝福へと変わるでしょう。

 もう一度言います。イエス・キリストとの個人的なコンタクトは、あなたが調和の中に生きるのを、そして必要なすべてのものとつながるのを助けます。しかしここでも、あなた独自のリズムが働いています。精神的には、あなたは主の現実と完全に調和しているかもしれません。自分の意志を使って完全に委ねることを成し遂げたかもしれませんし、心からそう信じているかもしれません。けれどもあなたは、キリストが愛に満ちてそこにいてくださる、という感情面での現実を実際に体験したことはないでしょう。それが起こるのをただ黙って待っているのではないですか?人はしばしば忍耐強くいられなくなり、やがて疑い始めます。そのようにして、せっかく蒔いた種をだめにしてしまいます。その感情的経験がなかなか現実のものとならなくても、神があなたを故意に待たせているわけではありません。それを現実のものとしたいのであれば、あなたの内面にある障壁を壊さなければなりません。そしてそれはあなたのユニークな、個人のリズムパターンの中でのみ起こりうることなのです。それを忘れないでいてください。そして絶望してはいけません。キリストはここに居ます。神はあなたの声を聞き、あなたを愛し、あなたを守り、あなたのことを心から気にかけています。たとえあなたの感覚が、まだそれを感知できるほど研ぎ澄まされていないとしても。しかし、あなたがこの事実にはっきりと気づけば、そのときは突然訪れるのです。そのときあなたは、神の愛と癒しに満ちた腕がすぐそこに在るのを実感するでしょう。あなたは神の愛、その癒しの腕に抱かれているのを感じ、そのうちで休息し、人生の課題に取り組むための滋養を見つけるでしょう。

 すべての疑念は悪です。けれども、悪はその内に永続する物質を含んでいないがゆえに、容易に一掃することができます。あなたのポジティブな攻撃性を悪に向けてみてください。いつもはおそらくその真逆のことをしているでしょう。つまり普段はローワーセルフの目的を果たすために攻撃性を使い、一方で人生から受け取りたいと願う善きものに対しては冷淡で受動的な態度でいるのです。同じように、自己の未浄化な部分から生じ、悪しきエネルギーを引き寄せる力をもつネガティビティでいっぱいになると、受動的で冷淡になるというのもまた本当です。そうなると、いとも簡単に破壊的なやり方で攻撃し、これらのネガティブな影響に屈してしまいます。そのときあなたは自分の攻撃的な側面を使ってそれらを一掃することも、自分の内側そして周りにあるポジティブなエネルギーを行使することもありません。

 これを変えなければなりません。そして変えられます。あなたはパワーと変えるために必要なものを持っています。まずは自分のやっている「置き換え」に気づき、そのアンバランスな状態を正すことに多くの意識と意図を注いでください。あらゆる意味においてネガティブで敵対的な思考に対し、断固とした態度をとっている自分の姿を思い浮かべてください。その思考が正しいように思えるとしても、穏やかさ、愛、調和を感じることできず、不調和や何らかの居心地の悪さを感じさせるときには、真剣にそれらを疑問視すべきです。真実の光、言い換えれば、現時点であなたが真実と思うものではなく、神の真実を招き入れたいと願うその気持ちだけが、あなたの意識の中のシフトを生み出すのです。その結果はすぐには現れないかもしれません。けれども遅かれ早かれ、あなたはいずれ、過度の攻撃性、不誠実であるがゆえにネガティブで脅迫的な目的をともなう窮屈な関係性を追うこともなくなります。自分の内側に、そして自分の周りに不調和を生み出すあらゆる状況下で、自分がどのような態度をとっているかを調べている姿を視覚化してください。想像の中でそうしている自分を、ただ見つめてください。想像の中で、常に自分が神の真実のビジョンに照らして自分の態度を手放し委ねているのを思い浮かべてください。正しいか正しくないかにきっちりと分けられるような問題ではありませんが、真実というのは、あなたの思うものとはやはり違うものなのです。そしてそれは必要なのです。

 神のビジョンに委ねることを思い描くと、どんな状況においても真実を見出すでしょう。あなたは光を見出し、大きな重荷から解放されます。特に、独善的利己主義に陥りすぎていなければ、とてつもなく大きな安心感と解放感に満たされます。もしあなたが、間違うこと、完璧でいられないこと、また失敗してしまったことを、個人的な屈辱を受けていると感じるなら、今の態度にしがみつくのを手放すのはかなり難しいでしょう。

 そう感じるのは、実は自分への評価が低いからなのです。自分への評価が低ければ低いほど、その人は、高慢で、利己的で、尊大で、独善的な態度にしがみつきます。低い自己評価を他者に投影し、他者からのジャッジメントをつくりだすのです。友人たちよ、どうか私の言葉をきちんと覚えていてください。なぜなら、もう一度言いますが、イエス・キリストと個人的につながることこそが最善の解決法だからです。神はあなたを愛しています。そして神は、この瞬間のあなたがどんな状態であろうとも、そしてローワーセルフがどんなに欠点だらけで、どんなに不完全で、どんなに破壊的であろうとも、今のあなたを完全に受容しています。それを知り、続いてそれを実感するのを自分自身に許すことによってのみ、あなたもまた、イエスがあなたにしているのと同じことを自分にすることができるのです。そのときにのみ、自分の本源的な神聖なる本質を信じられるようになるでしょう。やがてあなたは、自身の歪み、罪を受け入れるという、私に言わせれば贅沢を手にすることができるのです。そして、それでもあなたの足元は決して崩れ去ったりしないのです。この健全な場所で、あなたは真実に到達し、自分自身と、他者と、そして人生と調和していられることでしょう。

 ここまできたら次のステップに歩みを進めることができます。自身の攻撃的なエネルギーを、ポジティブな目的のために使っているのを思い描いてください。ネガティブな影響は黙らせましょう。断固とした態度で、理路整然と、自分自身の誤った考えに語りかけることができます。そうしている自分を見てください。この試みに手を貸してください、とキリストを招き入れましょう。思う存分に力を込めて、ネガティブなものからポジティブなものへと変容を始めているすべての攻撃性を使って、私の欲しいものは神の意志だけだと断言するのです。神の意志のみが自分の望み得る最善のものをもたらすことを信頼していると断言しましょう。そして最高位の存在の意志に対する不信は偽りであり捨て去るべきであることを断言してください。このような宣言や意図の中にポジティブな攻撃性を込めれば込めるほど、あなたの魂の物質の中の種は元気に育っていくのです。

 あなたの持つ攻撃性そのものは、変容させる必要があります。攻撃性を変容させることで、本来のありのままの自分になることができます。つまり、現実の別のレベルにおいてすでにあなたが実際にあるがままでいる、その自分になることができます。ときおり自分自身のもうひとつの姿を思い浮かべることができるようになる人もいるでしょう。肩にのしかかっているすべての重荷から解放されている、あなたの本当の姿を想像してみてください。その重荷が体内にあるのか、心の中にあるのか、あるいは他者とあなたの、世界とあなたとの関係性にあるのかは問題ではありません。それらはすべて、痛みの現れ、あなたの心の内側にある不誠実さによって生み出される痛みなのです。その不誠実さが何なのかを探し出すのは容易なことではありません。ときにそれはまさに表面的に浮かび上がり、あなたがそれを見たいと少し努力するだけで明らかになることもあります。そしてまた別のときには、あなたの防衛のためのブロックが視界を曇らせることもあります。けれども、あなたが求めれば、あなたの役に立ちたいと思う人がいて、彼らにとってはそれが何なのかは十分に明らかなのです。パスワークが、他者とともにワークすることを非常に重要視しているのはこのためです。それはサポートする人(ヘルパー)とワークする人(ワーカー)という関係であっても、グループの中であっても、日々の交流の中であっても同じです。けれども、その不誠実さを認識できるくらい表面に上げるには、相当の長い時間と試練を必要とするほどに深いところに埋められている不誠実もあります。これは、必ずしもあなたが今回の転生で取り組むべき領域と決めてきたものであるとは限りませんが、あなたのスピリットが、計画してきた課題を終えた後に取り組んでみようと選んだのかもしれません。つい最近、別の講義でこのお話をいたしました。

 いったんその不誠実さが表層に浮かび上がり、それに喜んで目を向け、向き合いたいと願うことができれば、それは、あなたの攻撃性を変容させる瞬間がついに訪れた証拠です。これはまた、さらなる視覚化が起こる瞬間でもあります。あなたという真の存在、つまり完全なる真実の中に在るあなた自身が、ときおり息苦しくなるほど小さな世界に無理やり押し込まれ、苦しんでいるあなたの一部を観察していると想像してみてください。本当のあなたには不誠実さや誤りや歪み(罪)といったいかなる陰の部分もなく、ゆえに完全に満たされ、幸福です。もちろんそこには痛みもありません。この真の存在は、目の前の困難なできごとに対し、寛容な心でその歪んだ部分を正すという役目を持って地球上に生まれてきたあなたを、じっと見つめています。真の存在は一時的な苦しみのときを慈愛とともに見つめ、悲劇的に捉えることはありません。なぜならば、真の存在はすべてうまくいっていて、一時的な苦しみは救済へと導かれることを知っているからです。

 救済 --- この言葉! 世の中には、多くの人に毛嫌いされている言葉が数多くあります。それは、聖書で使われている言葉、あるいは宗教団体の中で使われる言葉で長い間実によく誤用され、悪用されてきました。けれども、これらの言葉には真正な起源があることを忘れてはなりません。神なる実在が人間の姿で具現化された存在、つまりイエス・キリストという言葉も、ご存じのとおり、そのような言葉のひとつです。もしも、神とは自分を助けてくれるもの、友人、自分を導くガイド、すべてを許すもの、清らかな光と完全性を備えた存在であると聞いたとしたら、あなたはそれを受け入れるでしょう。ですから、イエス・キリストという言葉を自分のいいように解釈しないでください。彼はキリストであり、人間の肉体を得たときにイエスだったのです。

 罪、地獄、悪、悪魔といった言葉に対しても同じような気持ちをお持ちでしょう。事実、これらの言葉もまた、ひどく誤用され続けてきました。これらの言葉が示しているのは、現在私たちがローワーセルフの側面、ネガティビティ、破壊性、痛みに満ちた心の状態などの名前を付けて呼ぶ概念とまったく同じものなのです。

 では、救済という言葉についてはどうでしょうか?この言葉の解釈には、昔から不十分な点が多くあります。その解釈は容易に誤解を招きますが、宗教に深く傾倒した人の中で、より覚醒した人は真理を知覚します。救済とは、何よりも、キリストの終わりなき赦しと受容を意味しています。つまり、たとえ今までどんなことをしてきたとしても、ローワーセルフが何を望んでいるとしても、あなたはいつでも神へと通じる道を見出すことができる、という意味です。ドアは常に開かれていて、入るのを拒まれることなど、決して、決してないのです。あなたがすべきは、ノックすることだけです。神の慈悲、愛、赦し、あなた個人に対し伸ばされた救いというパンを求めてください。あなたが石を受け取ることは決してありません。神が人間の罪を贖うため自らを犠牲にした愛を通じ、自分自身を知りたい、愛すべき自分の部分を知りたい、自身のスピリットの気高さを知りたい、あなたという真の存在の美しさを知りたい、と願うのです。願えば、あなたはそれを必ず受け取るでしょう。それこそが救済です。救済とは今お話ししたすべてであり、そしてそれ以上のものです。具現化された神がもたらしたのはこれなのです。人間として生を受けたキリストは、肉体を持ってこの世に生まれてきたすべての存在が、自らを欺いている痛みに満ちた状態、つまり罪から、そしてそれにより引き起こされる自己と他者に対する破壊性から救われることを、可能にしたのです。

 それでは次に、人類に多くの混乱と矛盾を生みだしている救済のいくつかの側面についてお話しします。救済に必要な3つの要素をまずお伝えしましょう。どれひとつかけても、救済は機能しません。救済のこの特定の側面とは、人間の個々人の救済のことです。前に言いましたが、救済には、個人的な救済を超えた別の側面もあります。繰り返しになりますが、それら別の側面は、この世に創造されたすべての存在が、地獄と呼ばれる意識の状態、あるいはそれに近い段階から抜け出せるのかどうか、ということです。その意識の状態においては、誤りとそこから起こる苦しみを映し出します。そして、意識が寸断されるがゆえに、死と再生の輪廻を恐れるのです。キリストが身をもって表した至高の愛、赦し、慈悲、彼のビジョンが人間の究極の本質にまで深く浸透したからこそ可能になった受容、これらが、以前には人間に閉ざされていたすべての扉を開いたのです。閉ざされていたというのは、神が人間を罰したからではなく、人間が自ら、自分たちが赦されることなどなく、従って永遠に苦しむことが運命づけられているのだと深く思いこんでしまったために閉ざされたのです。そしてのちにそれが、自己浄化に取り組もうという人間の意欲を奪うことになりました。希望のない場所には、意志や意欲もありません。イエスの生と死を通じて、人間の心のなかに、新しいやり方が作り出されたのです。そしてそれによって人間は、この偉大なる師が身をもって示した道を選ぶことができるようになりました。彼は、我こそが道である、我こそが真実である、我こそが生命であると言われました。もはや努力が無駄になることはなくなったのです。すべての罪、そして過ちは許されました。なぜならば、神は、より深い見地から、あなたがなぜ、何のために今の状態にあるのか、またあなたが罪とは何かを知るためになぜ自ら罪を経験しなければならないのか、その理由を知っています。だからこそ、新しい何かが、偉大なる旅へとあなたをいざなうのです。今あなたが在る学びの道は、この偉大なる旅の途上でもあるのです。

 救済の個人的側面は、これか/あれかという二元性の中にどっぷりつかっている人にとっては一見矛盾して見えます。ではこれらの3つの側面を挙げてみましょう。(1)自分の救済に影響を及ぼすことができるのは自分だけで、自分の責任である。(2)それを一人で成し遂げることは不可能で、あなたとこの旅をともにし、あなたが見ていないものを見ている誰か他の人のサポートが必要である。(3)神の存在なしでは、個人化された神からの個人へと向けられる助けなしには、やろうとしていることが大きすぎて達成が不可能である。

 みなさんは、二元性と統合のための原理についての私の講義を聴き、それを理解するために多くの時間を割いたので、この3つの項目は、もはや矛盾したものでも、頭を混乱させるものでもないでしょう。みなさんには、これらが互いに相容れないものではないことがはっきりとお分かりかと思います。けれども、まだ混乱し、こう思っている人もいるでしょう。「自分一人で責任を持ってやらなければならないと言っておきながら、他者だけでなく神の手助けも必要だなんて一体どういうことだ?」と。救済の概念について特に混乱していない人にとっても、これについてもっとはっきりと明確に理解しておくのは助けになるでしょう。

 そうです、自分の救済とは、自分の選択であり、意図であり、責任であり、意志であり、努力であり、ときには自らを犠牲にしているかのように思えることなのはまぎれもない真実です。最初のうちは、セルフ・ワークのために自分の時間とエネルギーを投げ打つ犠牲のように思えるのです。そして、ローワーセルフから生じ、ローワーセルフの欲望を満たすための習慣をハイアーセルフの喜びが自分に根付く前に捨てるのは、何か犠牲を払っているように思えるのです。あなた以外の誰も、創造主でさえも、あなたが望まないこと、選択していないことをあなたにさせることはできません。そうすることは、霊的法則に完全に反しているのです。そしてその法則を作ったのは結局のところ神自身なのですから。

 けれどもまだ、あなたは現実を誤って捉えていて、他者とのかかわりの中で自分の役割が見えておらず、その歪んだ認識を正すことができません。他者は、自分を映し出す鏡として必要なのです。他者に心を開くことを学ぶ必要があるのです。自分を偽ることを手放し、そうして初めて他者との関係性の中にある自らの防衛を手放すことができるということを学ぶ必要があるのです。自分の脆さ、そして自分の内側の本当の姿、それも含んだありのままのあなたを他者に見せることが必要です。このこと自体がすでに、自己実現へと向かう旅に不可欠な部分なのです。あなたは、受け取ることを学ばねばなりません。最初のうちは受け取ることが、自分を弱くし、弱さみを見せることのように感じるかもしれませんが、それができて初めて、自分を与えることができるのです。あなたはたくさんのものを人に与えることができます。けれども、今私が話した意味において受け取ることができない限り自分を与えることはできないのです。

 他者とともにワークし、他者に心を開き、他者とともに在ることは、同胞の法則を完全に満たしています。このことは、ずいぶん前にお話ししました。霊的な成熟を求める人のなかには、自分を隔離し、人から離れることでそこに到達したと勘違いしている人がいます。彼らには彼らなりの論理があるのでしょう。けれども真実はこうです。彼らは決して他人の前で自分をさらけだしたくないのです。ゆえに、どんな「成功」をおさめようとも、それはせいぜい半分しかなしえておらず、霊的にも現実的にも根を下ろしていないので長続きもしません。

 あなたの防衛の下で増殖する自己嫌悪という障害物を、キリストの個人への愛や赦し、受容、そして自分をすべてわかってくれていると感じられない状態で、どうして乗り越えられるのでしょうか? キリストのあなたへの愛を少なくとも知り、最終的には経験することなしに、自分自身を愛することなど、どうやって学べるでしょうか?あなたの外的意志のとおりには反応しない不随意の側面を変える力を、どうすればより活性化できるのでしょうか? 外的意志とそれに呼応する外面のことは、この道を歩むことへのあなたの献身的態度、困難や混乱の中にあっても真実に向き合うために下す決断、同胞の法則を成し遂げありのままの自分を見せることへの主たる抵抗を乗り越えるための選択、これらのことによって積極的に活性化される必要があります。けれどもいつかあなたは、あなたの外的意志がどれほど変えたいと望んでも、そのレベルには反応しない、自分ではなんともならない不随意の感情や反応、思い込みに取り組むときがきます。そんなときにこそ、自分のマインドだけではもたらすことのできない高次の力からの助けが必要なのです。それほどに深いレベルにまで入ると、自分のマインドだけでは変化を起こすこともできないために、自分を助けてくれる高次の力が必要になるのです。

 私がここで話したことの中には学ぶべき叡智があります。それは、自分自身がマスター(師)であるべき領域と、絶対に偉大なるマスター(偉大なる師)なしでは成し遂げられない領域とを見分けるための叡智です。

 親愛なる友人たちよ、私の言葉を吸収し、自分のものにしてください。私の言葉はあなたに光を与え、あなたが心の底から求めてやまない心の状態へとあなたを導いていくことでしょう。私の言葉は新しい扉を開き、あなたが実際にイエス・キリストの存在を経験することを可能にするでしょう。イエス・キリストを経験する許可を自らに与えると、キリストの現実にまつわる疑念はすべて消え去ります。一度でも彼の腕に抱かれたなら、あなたに向けられたその気高き優しさに慰められ、勇気づけられたなら、キリストだけが与えることのできる穏やかな快さに心打たれたなら、それから後、あなたが疑いを抱くことは決してありません。その感覚はやがて消えるかもしれませんが、それを何度も繰り返し思い出し、再現すれば、あなたの意識のすべてがキリストで満たされるでしょう。

 神の祝福が、神聖なる天使の祝福が、今ここに、みなさんとともに在ります。この祝福の真実に耳を傾け、その存在を五感で感じ取ってください。あなたが自らの美しき道を進むその一歩一歩に、私たちの愛はいつも共に在ります。偉大なる目的のために精進してください。すると、一見利己的にも思えるあなた個人の目的も、自然と達成されていきます。本来の、ありのままの自分でいてください!


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