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No.4 世界への疲労感

Pathwork Guide Lecture No.4
1996年版
1957年4月22日


世界への疲労感
WORLD WEARINESS


 ようこそ。神の名の許に、皆さんに祝福を送ります。

 親愛なる友人たちよ、私が今回このテーマを選んだのは、皆さんのうち幾人かが、世界への疲労感について考え始めているからです。世界への疲労感とは、時としてあなたの中に忍び込む表現できないロンギング(憧憬)、また憂鬱な気分や悲しみを意味します。

 この感覚は様々なところに端を発しており、「世界への疲労感」の原因には実に多くのことが考えられます。意識していてもいなくても、全ての人間の内には、魂の本当の故郷に帰りたいというノスタルジックな思いがあるのと同様に、神や完璧性への思慕もここで一役買っています。何故なら、あなたはこの地球上で一人の旅人に過ぎず、ここはあなたの本当の故郷ではないのです。しかし、これらの思いは、あなたの抱える憧憬の大きな理由ではありません。その背景はより複雑で、それこそが今から私が皆さんにお話したいと思っていることなのです。

 人間の魂が神聖なる法則から逸脱する時、(それが無意識であればある程、逸脱の程度は大きくなりますが、)漠然とした悲しみと憧憬の感情に捕らわれることがあります。あたかも、ハイヤーセルフが「何かが違う」と人に感じさせ、気づかせる為に与えた感情のようです。例えば、人が本当の意味で愛することに心を開く方法を知らないかもしれません。つまり、人間としての生活に潤いを与える感情を働かせることができないのです。それ結果、正しく満たされる形で愛が返って来ることもありません。従って、疲労の感情が、その人の魂の答えとなります。

 人間は大抵、自らに愛する能力があると考えます。それは真実かもしれませんが、魂の中の歪みがそれを妨げるが為に、その能力が正しいチャネルに入らないのです。エゴが目立ち過ぎることを恐れる等、魂には様々な種類の歪みが存在します。
相手が最初に愛してくれるという「安全」で「お得」な条件の下であれば、人間は確かに愛を切望し、与えることさえ厭いません。しかし、このような状態だと扉が閉まってしまうだけでなく、本人の孤独が続くが故に、「世界への疲労感」の感情を引き出す魂の歪みが生じるのです。
あなたの中の恐れはこう言います。「私が何の確信もなく最初に与えたら、私のプライドは傷つくかもしれない。私は傷つけられ、他者は私に痛みをもたらすかもしれない。」

 「失望」に対する恐れは、過敏な神経の象徴です。そして、過敏な神経は、間違った形の自尊心の現れです。この内面のプロセスはエゴを中心として回っています。これによって真の愛の流れがブロックされ、まったく逆の方向へと流されてしまうのです。そして、この流れのブロックは神聖な法則に逆らっており、それ故に魂が損害を被ることとなってしまいます。
心の中のスイッチをリセットした瞬間、あなたは自分の身の上に起こったこと、また起こるであろうことを過剰なまでに深刻に受け止めなくても良くなり、自分の愛を自由に与え、流すことができるようになるのです。そうすることで、あなたの愛は本来の純粋な姿に戻ることができます。何故なら、かつて失い、そして長い間求め続けてきた全てと共にある「主」が、虚栄心やプライドと共にある「我」よりも重要になるからです。そして満たされない思いや、漠然とした切なさは消え失せるでしょう。何故なら少なくともこの点において、あなたは人間の本質である潤いと活気に満ちた働きを実現しているからです。言い換えれば、神や自らのハイヤーセルフと調和しているからです。

 この特定の誤認がある人のことを利己的であると言っている訳ではありません。誤解されないように注意してください。そのような人が、既にこの問題を解く鍵を見つけた人よりも利己的ではないことさえあるでしょう。「利己的」と「自己中心的」とは区別しなければなりません。どちらも間違ってはいますが、その影響は必ずしも同じではありません。そのような人々が心が狭く、与えることを嫌がっていると言いたい訳でもありません。ただ、無知であると、純粋な感情は病んだローアセルフを通って、誤った方向へと導かれるということです。

 また、そのような人が全く愛することができないという訳でもありません。自らの愛の全てを捧げられる相手が、周囲にいるかもしれません。それでも、彼らはこの正体不明の疲れた感情を避けられないのです。というのも、もし彼らの感情のエネルギーが正しい方向に向けられたなら、それが例え少数の最愛の人達に向かうのみであっても、彼らの愛は少数の人達だけに集中するのではなく、ポジティブな感情を引き出してくれる人誰に対しても向かうからです。そうしたら、彼らは完全にコミットした愛情から手を差し伸べ、リスクを恐れず、自分の感情と同じように相手の感情を大切にするようになります。

 大事な友人たちよ、これら全てを当然だろうと考えてはなりません。あなたが知識や原理としてこれに同意したとしても、特別な場合を除いて、感情は遅れて感じられるからです。勿論、相手によってあなたの愛の形は変わります。ある特定の数人の仲間を、その他の人達より愛することを当然だと考えていませんか?発達の段階がこの輪廻のサイクルにとどまり続ける限り、それとは違うことは信じられないでしょう。経験上あなたは、相手によって愛の種類が違うことを知っています。母親に対する愛と配偶者に対する愛、兄弟に対する愛と子供に対する愛、父親に対する愛と友人に対する愛、そして、ある友人とまた別の友人に対する愛さえも、それぞれ違うことを知っています。愛の波の種類は無数であり、魂の中にはそのすべてが含まれます。色、陰影、音、そして匂いまでも、ひとつひとつの全てが異なります。病んだエゴが邪魔をしない限り、本来、人間は様々な種類の無数のエネルギーの波を創り出すのに十分なだけ大きな「他者を愛する能力」を持っているのです。

 誰かをとても愛している時、あなたがもっと愛したいと思っている他の誰かから愛を奪っており、同じく誰かの自分への愛も奪われるといった漠然とした感覚を抱くかもしれません。つまり、愛がシェアされる時には、誰かひとりが他の人の為に少なく愛されるに違いないように思えます。しかし、健全な愛を分割することはできないのです。愛が減ることは決してありません。あなたが生み出す愛が多い程、それはどんどん倍増されていきます。私は今、性とエロスについては言及していません。これは永遠に続く神聖な法則に沿っており、皆さんは自らの内に在る真実を見出さなくてはならないのです。愛は神と共にあります。数えきれない神の子供達を愛し、常により多くの愛を与え、減ることはないのです。

 真正で健全な愛は、どのように成し遂げられるのでしょうか?愛することを自分に無理強いすることによってではありません。自分を偽ることない内省を通して、間接的に到達するのです。あなた中のエゴや神経質な部分、うぬぼれ、プライドを見つけ出し、これらがどのように作用しているのかを考えてみてください。これを理解することで、あなたは真の愛の達成への第一歩を踏み出したことになります。そしてこれは、切なるロンギングの感情をすくいあげ、解放するための第一歩でもあります。ロンギングの感情は、悲しみ、郷愁の念など、人によってそれぞれです。自分の魂を深く見つめ、自分の内側で全てが正しい訳ではないと感じることができれば、その側面から、あなたの魂が癒される必要があると分かるでしょう。

 魂が不健全な為「間違った」やり方で、人がその愛を誰かひとりの相手に向ける時、この愛は自分と相手の双方を弱らせてしまいます。相手の愛を失うことを恐れるあまり、自分自身に正直になれず、その結果、自分自身を辱め、相手からも辱めを受けることになります。これは、力からではなく、弱さや恐れといった不健全な方法を通して起こります。実際に、自己卑下を真の偉大なる愛のしるしだと信じている人すらいるのです。しかし、このような人たちは自己欺瞞の中に身を置いています。そうでなければ、自尊心を傷つけられることを恐れ、強い感情から自分を切り離しているのです。

 あなたが健全で真正なやり方で愛することができれば、もう二度と、自らの尊厳を貶め、傷つけることはありません。何があっても自分の尊厳は守られるべきだという拘りを諦めてこそ、諦める準備ができていた尊厳を勝ち取ることができます。これが不変の霊的法則です。プライドや尊大なエゴを放棄することと、自分自身に対して真実の姿勢を貫くことを放棄することを明確に区別しましょう。自分に対して真実でいることをやめる必要はないのです。理解するのは難しいかもしれませんが、これについて瞑想することで、違いを認識できるでしょう。もし、愛する人の愛を失うことへの恐れを手放し、自分自身に対しての誠実さを守れれば、自分のちっぽけなプライドが傷つくことや不利な立場に立つことを恐れず、正しいやり方で愛することができます。そして、このような人が酷い扱いを受けることは決してありません。失望し、裏切られることもあるでしょう。しかし、自尊心を傷つけられることはないのです。真の愛があなたの尊厳を無視し屈辱を与えることは決してありません。真の愛の下では、自分自身の為に自らの尊厳を守ることができます。健全な尊厳はあなたに、屈辱や搾取ではなく、敬意をもたらします。健全な愛は、あなたを盲目にするのではなく、しっかりと目を開かせてくれます。健全な愛はあなたを強くし、自らに対して真実であることをサポートします。何故ならちっぽけなエゴを手放すことを通して、あなたが自分の望みを叶えることだけに固執することはなくなるからです。真の愛は健全で、サド・マゾ的な愛の傾向からも解き放たれています。真の愛は利己的なものではなく、あなたの人格を侵害しません。常に相反するふたつの流れが存在することを知ってください。愛する皆さん、このことをよく考えてみてください。

 恐れは、多かれ少なかれ人間の魂のどこかに潜んでいます。そしてそれは、真の愛を達成するときの障害物の一つであり、いくつかの点で自己愛が過剰な時に存在します。それはどんなときでしょうか?なんでも深刻に受け取ってしまう時、自分が良い人間であることばかりを心配している時、そして、健全な方法で流れのままに身を任せサレンダーする代わりに、自らにしがみついている時です。このような時、人は恐れの中に身を置いています。自らに過剰に重きを置かない人は、「もし自分が自分を愛してしまったら自分に何か悪いことが起こるのではないか。」と恐れる必要はないのです。恐れは、厚いベールであなたの目を覆います。ですから、あなたの目は見えていないのです。自分自身と同じように他者を見ることも、本当の意味で出来ません。真の愛は盲目ではなく、恐れのない魂から生まれ出るものなのです。間違った種類の愛が弱まりつつある時には、いくぶん正しい方法で反応することができますが、やはり間違ったやり方での反応が強くなります。前に申し上げたように、真の愛は、間違った尊厳とは大きくかけ離れた、本来の尊厳を創り出します。間違った尊厳とは、プライドと自惚れから生まれます。このような魂の間違った流れは、「世界への疲労感」という感情の形成に大きな影響を与えます。

 「世界への疲労感」の別の原因は、「閉じこもる」態度の中に見ることができます。つまり、人間がひとりで、自分だけの世界に引きこもってしまう態度です。もう一度申し上げますが、このような態度は自分のちっぽけなエゴを手放すことやリスクを負うことへの恐れ、もしくは甚だしく自己中心的なエゴから生まれています。自分が作り上げた世界への「引きこもり」は、他者への責任を負わなくてもいいという、束の間の利益をもたらします。また、自分だけの為に好きなように人生を費やす余裕を与えてくれます。しかし一方で、彼らは自分が考えているより大きな代償を支払っているのです。このような行動は霊的法則に反している為、彼らの内のハイヤーセルフは、彼らに「世界への疲労感」を感じさせることでそれに気づかせようとします。そのため彼らは常に大きな不満を抱え、それゆえに孤独を感じ、自分が孤立し周囲から見捨てられていると感じるのです。

 全ての人間は、その魂のコアの部分で、与えること、成就すること、そして自己を捧げることすらも成し遂げようと努力しています。しかし魂の中の真実に対して盲目で病んでいる部分、そして未成熟な部分がこの努力に抵抗すると、二つの相反する波がその人に合わせて起こってくるのです。

 魂のある部分は、愛を与えたい、また愛を受け取りたいと望んでいます。あなたが与えるものは何でも、永遠に脈動するサイクルの中のひとつの波として、あなたのもとに戻ってきます。勿論、誰かが与えてくれるのを待つのではなく、あなたが最初に与えることで、自らこのサイクルを始めなければなりません。魂のこの部分は、自らを満たし、エゴを手放し、捧げ、全ての力と全ての感情の流れを使って、霊的法則に従う努力を重ねます。利己的な感情を手放し、自惚れやプライド、個人的な利益だけを一心に追い求めることはしません。このような感情の流れはあなたのハイヤーセルフの部分から生み出されます。ハイヤーセルフは、本当の成就や幸福、調和、そして完全性がどこにあるのか分かっています。この流れは、霊的発達が低い人の中にでも存在しますが、それは地下に潜っており、一生の内ごく稀に表面に姿を現すだけです。

 人格の別の部分では、心地良さや利便性を求め、何も手放そうとはしないでしょう。その部分は、ずっと幸福の光ばかりを追い求め、それを見つめます。しかし、魂の盲目な部分にとってリスクが少ない暗く孤独な世界を好み、そこに存在します。

 両方の流れを同時に正当とみなすことはできません。何故なら、二つの波はお互いにまったく違う方向を目指しているからです。交差したふたつの流れは、あなたが考える以上に広範囲に多くの衝突や争いを巻き起こします。この争いはあなた自身の内にある深い亀裂の象徴であり、そしてこの重荷に耐えられなくなった時、これらふたつの相反する魂の流れの存在に気づけるように、精神分析医の下を訪れるのです。その流れの存在を知って初めて、どちらか一方の流れに明確に従うという内なる選択ができるようになります。一度に両方の流れに従うことはできないからです。片方を選ぶことで、何を手放さねばならないのか、また何を手に入れなければならないのか、よく考えねばなりません。この場合、少なくとも次のような言葉を理解できる程度の知識は持っていなければなりません。「もし私がこの方向に進むなら、同時に反対方向に進むことはできない。だから、私は選ばなければならない。」

 これは、以前にもお話しした、心の内面の選択の一例です。内なる決断は、あなたが隠された感情の流れに気づき、それらが互いに打ち消し合うように間違ったチャネルに流れ込む場所を突き止めた時にのみ下すことができます。交差した流れ、つまり感情的な障壁は、心理的な障害物としてだけでなく、疲れや弱さ、もしくは明確な病気という形での肉体的な歪みとしても現れてきます。相反する流れ同士が魂の中で衝突することが頻繁に起きれば起きる程、人間は、健全なチャネルで生産的に機能する強さを失っていきます。魂は、常にこれを繰り返しているのです。

 人間はいつも、感情より知性で理解します。しかし、不健全な感情が無意識下に隠されている間は、それを健全で意識された考えに適合することはできません。その為、不健全な感情を表層意識に上らせる必要があります。霊的な真実と神聖な法則とは別に、健全で調和の取れた人生を送ることを望む全ての人々を豊かに満たすことはひとつのテーマであり、道理をわきまえた人は、同時にふたつの方向に進めないことを分かっています。従って、大きな抵抗が出てくることは必至ですが、心の内面の矛盾の存在を意識することは必要不可欠なのです。

 皆さんは、感情的に病んだ人のことを未成熟であると言いますね。少なくともその部分では、その人の魂を不健全だと思うこともあるでしょう。実際に、未熟さは大人気のなさです。何故なら、子供のように不可能を求めるからです。未熟な人は、それぞれの行為や不作為がそれに対応する結果をもたらすことを認識するだけの理性がありません。成熟した人であれば、それを区別し、受け入れることができます。成熟した人は、このようにして「不可能なこと」を知り、それを手放すことができるのです。ところが、感情的に病んだ人や未成熟な魂は、相反するもの両方の利益を得ることを主張します。彼らが「不可能」という事実と向かい合わなければならなくなった時、心の内面の暴動は激しさを増します。変えることのできないものへの抵抗は、病んだ感情の流れの中に存在します。内面の争いはこのようにして激しさを増し、そしてこれらが人間の外面の生活に反映され、表面化してくるのです。

 交差した波には、私がお話したものの他にも多くの種類があります。他の症状であっても短絡的であることは、曖昧とした憧れや悲しみを引き起こすことがあり、同じような感情に頻繁に悩まされる人は、この観点から探究してみると良いでしょう。勿論、深く無意識であることも多い感情の流れを明らかにすることは容易ではありません。そのことへの抵抗を克服するには、強い意志の力が必要となるでしょう。神への憧れ、そして真の霊的な故郷への憧憬は、この世の倦怠感を完全に説明するものではありません。満たされない憧憬は確かに神への憧憬ですが、皆さんが一般的に考えているのとは違う意味での憧憬です。人が神の法則と完全に調和して生きている時にのみ、神への憧憬は静まります。この方法で神の下に近づき、神との調和の取れた人生を阻む障害物の全て取り除いた時のみ、この地球での人生にいる内に、神への憧憬を満足させることができるのです。
神の計画に従って、自分の能力を最大限に発揮し、地上での生活、つまり自分の発達状態に対応した個々の仕事を完全に全うする者には、内面的な不調和は一切ありません。そこには、苦しみも、苦々しさも、緊張も、悲しみも、世界への疲労感もありません。

 内なる選択に話を戻しましょう。否定的な決断をしたとしても、その全ての結果や手放さねばならないものを手放すことについて、理性的なだけでなく感情的にも全てを完全に理解し受容するならば、ふたつの不可能を同時に主張し、両方の選択肢の利点だけを望み不利益は一切受け入れないよりも、あなたはより良い生活を送ることができるでしょう。

例えば、過剰な心配や過敏さゆえに他者に愛を与えることを拒み、自分の世界に引きこもり、一人ぼっちの人生を送ることを選択する時には、一生一人ぼっちで過ごすことと、一生愛のない暮らしを送るであろうことを考慮に入れなければなりません。明らかな喜びと満足を、完全に手放さなければならないのです。それが本当に実行されるならば、否定的な選択でさえ、何も選択しないより、もしくは両方を望むより、健全な状態へと一歩近づいたことになるのです。これにより、少なくともあなたは内面的に自らを統合し、そして内面の矛盾によって分裂することはなくなります。例え、間違った選択であっても否定的な決断を下す際には、正直に自らに向き合い、無意識を意識化し、少なくともひとつは代償を払うことにコミットする必要があります。このような正直な態度は、たとえその選択が最善の選択でなかったとしても、魂の健康に良い影響を与えます。

 このように、人が大抵は内的感覚の内に外面的または内面的に、他者から自分を切り離す選択をするならば、その人は直ぐに、この選択に含まれる意味を理解することになるでしょう。その人の利己主義、不安、神経過敏が、勝ち抜いたということです。愛や成就、光、友愛、そして関わっている他者との融合への憧憬に直面すると、自らにこう言い聞かせるでしょう。「私がこれを選んだのだ。その代償は分かっているし、否定性を手放すより、代償を払う方が好ましい。」否定的な決断さえも、正直に下す為に必要なのは、まさにインナーワークを通してなのです。このようにして、結局真実を選択したほうがよかったこと、当初は手放すことがとても難しいと思っていたものを手放すほうが良かったことを、彼らは後になって知るのです。殆どのダメージは、自分自身を本当に知る努力をせずに、何の選択もしないこと、無意識にある感情の流れ全てをひとつにすることを自分に許さないことが原因です。「選択しない」という姿勢は魂を弱らせ、逃れることのできない争いへと魂を誘い込みます。霊的にも、また物質的にも、人生を充実し満たされたものにするエネルギーが枯渇してしまいます。

 交差した感情の流れや感情の遮断は、人によって強さや現れ方が異なります。沢山の段階があり、二者択一の問題ではないのです。相反する感情が同じ強さの流れとして押し寄せ、荒々しくぶつかり合う場合があります。このような時には、その感情の波に人間が完全に埋没してしまい、その人は自らの人生の舵を取れなくなってしまうのです。ある観点から見ると、これは良いことです。何故ならその人は、すぐに癒しのための道を自由に見つけられるようになります。激動がなければ、霊的に非常に発達した一部の人を除いて、殆どの人は健全さへの道を見つけられないでしょう。内なる葛藤がそれほど明確でなく、一方の流れのみ他方より表出している場合でも、少なくとも時折は、逆流を感じることになります。その逆流は、その人の力を奪い、魂のエネルギーを完全に統合することを妨げます。

 「世界への疲労感」の原因は、まだほかにもあります。その原因の全ては魂の歪みから生じていますが、そのお話はまた別の機会にします。もう十分な情報を与えたと思います。私の言葉を聴かれた方も読まれた方も、自己探求の十分な素材を得たでしょう。
このような憧憬を持つ人は誰でも、自らの無意識下の感情の流れが完全に健全ではなく、また完全に自由ではないことを知るべきです。

 魂と全人格の内に隠されている全てのものを覆うベールを剥すことに重きを置いてください。もしあなたが自らの痛み、虚栄心、恐れに重きを置くことを頑固に主張するならば、ベールを全て剥すことはできません。このようなエゴに対する重要性を最小限にとどめることができた時にだけ、あなたは隠されたものを覆うベールを剥し、虚構を手放し、内なる現実を変えていく勇気を手に入れるでしょう。

 それでは、別の内容についてお話ししたいと思います。何故なら、それが今日のテーマと関わっているからです。それは、自己憐憫の感情です。この感情は、「世界への疲労感」感を助長します。皆さんにとって、苦悩に打ちひしがれるのはとても気持ちが良いもので、経験している痛みは自分の運命なのだから耐えねばならないと自分を納得させています。しかし、実際はそうでないことが非常に多いのです。私が説明したように、このような苦悩は、歪んだ魂の流れから生じたもので、皆さんにはそれを修正する力があるのです。

 マゾキズムと呼ばれる、苦しみを楽しむという病んだ否定的な喜びは、ある特定の傾向に由来します。それは以下のようなものです。あなたは直面したくない問題から逃げ出す一方で、この「喜びに満ちた苦痛」の中に、自らの人生経験で欠落しているものの代替品を見つけます。これらはカルマ的な理由によるもので、あなたが内なる扉を開けば、勇気や意志の力によってそこから抜け出すことができます。過去生の重荷に関わらず、外的なレベルで今経験すべきことに関わりなく、私が何度も繰り返しお伝えている内なる条件を満たすことによって、あなたは魂を癒し、思考や行動だけでなく、あなたの感情を霊的法則と調和させることができるのです。その結果、発達のどのレベルにいるとしても、あなたの人生は感情的に豊かで調和の取れた幸せなものとなり、あなたは完全に満たされ、人生を謳歌できることでしょう。

 最後に特に、このことをよく考えてみてください。変えようのない何かに抵抗することで、あなたは自らの人生を不調和の中に陥れるのです。反対に、変えようのない運命の一撃を受け入れることは、魂に決して害を与えない。人は当然このような重荷を喜んで引き受けることはしないし、そうする必要も、そうすべきでもありません。それは不可能です。しかし、抵抗や苦々しい思いなしに、それに身を任せることもできます。このような困難に耐えることの悲しみは、どうしてか魂の解放を助けます。皆さんも折に触れて、このことを感じられたことがあるのではないかと思います。

 苦悩に打ちひしがれる時は常に、あなたは過去の同じような状況での反応を無意識に思い出しています。自己憐憫の情に浸ることで、あなたはこの感情を再生しようとしています。しかし、状況は以前とは違うのです。その困難が逃れられないものだった時、それに身を任せることが、その時の最善の選択だったのでしょう。しかし、今は違います。今、あなたは自分の痛みに対する態度を変えることができるのです。何故なら、ある感情がある状況下で正しく健全なものだったとしても、別の状況下では病んだものになり得るからです。おそらく、このことは理解して頂けるでしょう。

 今夜お話ししたことは簡単に理解できるものではありません。このことを注意深く考えてみてください。親愛なる皆さんに祝福を。


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