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No.57 自己重要性のマスイメージ

Pathwork Guide Lecture No. 57
1996年版
1959年10月9日


自己重要性のマスイメージ
THE MASS IMAGE OF SELF-IMPORTANCE


ようこそ、友人の皆さん。神は皆さん全員を祝福し、この時を祝福しています。
これまで劣等感と、その真の起源について何度か取り上げてきました。それは人間の本質の重要な傾向であり、自己探求のワークでは更に理解される必要があります。劣等感の真の原因が隠されていることは、既にはっきりとお分かりかと思います。自らの不完全さや不十分さは、無意識の内に銘記されます。それと向き合い、折り合いをつけようとはしませんが、その認識は根強く残ります。根絶することはできません。その為、この不快な感情からの解放を探し求めます。あなたは、注目、賞賛、承認を受けることでそれを達成できると誤って信じています。どれだけの承認を受け取っても、その安心はせいぜい一時的なものだと、皆さんの多くは既に知っていますね。
このことに関して、自己に対する特定のマスイメージについてお話ししたいと思います。文明、地理、歴史的な時代、環境に関わりなく、このマスイメージは常に存在しています。特定の時代や文明に繋がれたマスイメージは他にもあります。普遍的で全人類を包含するマスイメージは、人間の不完全さと、完璧性に向かう人類の欲望の混合です。
そのような普遍的なマスイメージとは次のようなものです。「注目、承認、賞賛を受ければ、私の価値は世間だけではなく、私自身の目にもゆるぎないものになる。もし、それが得られないのならば、私は劣っている。」言うまでもなく、これは誤った結論であり、意識的な思考ではなく無意識で感情的な態度です。このような感情を自らの内に確認できない人はいないでしょう。
これはイメージであり、幻影です。このワークの目的は、あなたを幻影から解放することです。いかなる幻影も、あなたに調和、平和、自由をもたらすことはできないからです。幻影的なものは全て、あなたに問題をもたらすことになります。このイメージの特殊な幻影には多くの反響があり、自分自身のみならず周囲の人々にも有害な結果となる連鎖反応を引き起こします。
この時点で、あらゆる誤解を避ける為に、もう一度強調しておきましょう。その解決策は、あなたに関する他者の意見に逆らったり反発したりする所にはありません。あなたは無意識の内に、賞賛や承認を求めるのと同じくらい頻繁に反抗しています。どちらも多くの魂の中に同時に存在しています。どちらも等しく有害であり、同じように不健全な基本的誤解から生じます。
特定のマスイメージの話に戻りましょう。私達の世界からは、皆さんの魂が注目を求めて悲鳴を上げているのが聞こえます。私達に向かって、地球はこの騒がしい音を立てます。私たちが地球に近づくと、全ての魂が、皆さんの耳には聞こえない大声で呼びかけ、喧騒を送ってきます。それがどれだけ騒々しいか想像できるでしょう。魂の声は大声です。感情は全て音を生みますが、自己重要性を主張する大声は、あまり調和がとれた音ではありません。
このマスイメージの外的な現れ方は、気質や個人の特徴によって異なります。その強さや現れ方を決定する他の傾向、健全であるか不健全であるか、環境、あるいは教育によっても異なります。これら全てを総合して、承認を求める叫びがどれだけ顕著で、どれほど強く、どれほど明白か、そして、自己重要性のニーズがどの領域に存在するのかが決まります。ある人が、他者から見て承認欲求が明らかだからといって、同じ傾向の欲求が隠れて微かにしか現れない人よりも、霊的に未発達とは限りません。それはむしろ、抑制の度合いの問題です。
この特定の傾向に取り組めば、皆さんはいずれ一位にされることを要求する部分、特別な存在でいることを望む部分を自らの内に見つけるでしょう。それはプライドと呼ぶだけでは不十分です。それよりも更に掘り下げなくてはなりません。何故、プライドのニーズがあるのでしょうか?それは、今説明したイメージの誤った結論の為です。世間の目から見て超特別であれば、劣等感は消えてなくなり、自らの行為、信念、思考に他者が同意すれば、自らの目から見た自己価値が手に入ると信じ込むようになります。勿論、意識的にこの全てを考えている訳ではありません。しかし、あなたの感情が意味するものを分析すれば、その正体はこのようなことです。従って、あなたはプライドを防衛の手段として、目的達成の手段として利用します。だからこそ、自らの内にプライドが存在することに気づいても、プライドを取り除く助けには決してならないのです。
以前は自らのプライドを自覚していなかったかもしれませんが、この道での努力の結果、自分にもプライドがあるのだということを、おそらく衝撃と共に発見したかもしれません。しかし、「これはプライドだ。うぬぼれてはいけない。」と自らにどれだけ言い聞かせても、何の役にも立ちません。その原因を理解し、自己理解の次の段階に進まなくてはなりません。自らの為に何かを得る為、想像上の災難から自らを救う為に、プライドは有用であると無意識に信じていることを十分に理解する必要があります。この思い込みが誤りであると理解すれば、プライド、虚栄心、自己重要性を取り除くことができます。その必要がないことが分かるのです。
これら全てを把握するには、実際にこの誤った結論を抱いている人格の一部を十分に認識しなくてはなりません。承認を求めて叫んでいる内なる声を実際に耳にするまで進む必要があります。その声が、いつもより大声になる時を観察する必要があります。これまで疑ったことのない感情に疑問を呈する必要があります。それは何を意味するのか?その裏にある欲望は何か?その答えを見つけて初めて、自らの魂の中にある自己重要性についてのマスイメージに気づくことができます。
このマスイメージでは、あなたは片側にいて、残りの世界はその反対側にいます。多くの微妙な感情を分析することにより、自らの内にその通りのことが起こっていると明らかになるでしょう。この認識は極めて重要です。しかし、これも又、更なる理解と関連性の継続的な探究の始まりに過ぎません。このイメージがいかに多くの葛藤や問題をもたらすのかが分かるでしょう。状況がどれだけ有害であるのか認識しない限り、その状況を払拭する為に必要な動機は持てません。そのような状況が存在することを知りもしなければ、どうしてその影響を見ることができるでしょう?まず、自らの内にあるこの基本的で普遍的な状況を認識しなければなりません。次に、この状況の影響と様々な葛藤を関連づけなくてはなりません。そうすれば、多くの問題を全く新しい視点で見ることができるようになります。この特定の誤認がなければ、困難の多くは存在しないことに気づくでしょう。
マスイメージはあなたの無意識の中で様々な形を取ります。そのため、外的な現れ方も多種多様です。人は様々な方法で賞賛を求めます。物質的に豊かになれば、世間からの評価が高まると信じている人がいるかもしれません。他の場合には、その賞賛や承認を得る為に、他の価値観が使われる場合もあります。我々の友人の大多数は、後者のカテゴリ―に入ると言えるでしょう。ある人々にとっては、その手段は具体的な達成や才能かもしれません。また別の人にとっては、性格の良さ、良識、忠誠心、知性かもしれません。多くの人にとって、承認や賞賛を得る手段は、同じ目的を果たす多くの特性の複合体です。共感を得る手段として、不幸を利用する人さえいます。そして勿論、共感も承認を支持します。他の病的な傾向もイメージに影響を及ぼし、一定の方向に歪めます。イメージは、周囲の世界に認められなければ自らを見失うと言います。足元のしっかりとした地盤を失い、他者があなたをどう思うかによって、自らの世界全体が成立したり、崩れたりすると信じています。
繰り返しますが、健全な反応とその逆の顕現を混同しないようにしてください。「人が何と言おうと気にしない」というのは反抗です。反抗がある場合、そこには依然として拘束があります。反抗は拘束から抜け出そうとしますが、その為に誤ったやり方を選びます。あなたは自分を行動パターンに押し込めようとする世界に抵抗していると信じていますが、これもまた誤りです。実際には、世界の意見に依存する自分自身に反発しているのです。従って、自分は何故それ程までに拘束されているのか、どのような誤解が自分を拘束へと導いているのかを発見することが救済策になります。そうして初めて、束縛や強迫観念から解放され、反抗を必要としなくなります。また、あなたの救いではないものを得ようとして、苦しい努力をする必要もありません。また、そのような依存状態では、自らに対して不正直になることが多く、そのことが他の何にも増して劣等感を引き起こします。多くの場合、世間を喜ばせることと、自らの最奥にいる自己や内なる人生計画に真実でいることは両立できません。全ての人を喜ばせることもできません。しかし、承認に依存するあまり、全員から承認されることが不可能な立場を取らねばならない度に魂は混乱します。これらの葛藤や他の多くの葛藤は、自己重要性についてのマスイメージによってもたらされます。
全ての人間の内にはこのマスイメージがあり、それがあなたに魂を売らずにはいられない気持ちにさせることは容易に理解できるでしょう。これは微妙で様々な形で起こり得ることで、このようにしたことが全くない人は殆どいないと言えるでしょう。この件については、ここにいる皆さんの中でも、他の何処でも、例外はないと断言できます。しかし、そのイメージに縛られているその部分を個々で見つけ出さねばなりません。どんなに僅かでも、どんなに立派な動機があり、もっともらしい正当化で覆い隠れていようとも、少なくとも自らの内にいくつかのイメージが存在する領域が見つかるでしょう。顕現の形が微妙であればある程、影響を受けた部分を見つけるのは困難です。しかし、本当に見つけたいと思えば、必ず見つかります。
日常生活で自らの反応を観察し正直に分析すれば、まさに私が述べている点に到達するでしょう。自分が負わされているマスイメージに気づきます。あなたの存在のその部分は、まさにお話ししたように感じているのです。その感情を正確な言葉で表現してみてください。それ自体、魂にとって大きな安らぎとなります。そのようなイメージを持っているのは自分だけではないと無理なく確信できます。あなたは他の全人類とそれを共有しているのです。
どんなに僅かであっても、世論に縛られているところを探してください。更に、その依存やプライドが何故必要なのか、むしろ、何故それらを必要と思っているのかを見つけてください。誤った結論を解き明かしてください。そこまで来れば、あなたは幻想の世界に自らを繋ぎとめていた重い鎖を緩め始めています。そして、自由になるプロセスを始められます。これは、自らの反応を分析し、理解しない限り不可能です。常に、あなたが掘り出したばかりの感情の裏に回り、簡潔な言葉でそれを表現してください。今掘り起こした特定の信念を何故、どのような根拠に基づいて抱いているのかを自問してください。正しかろうと間違っていようと、それを自らが確信する理由を突き止めるのです。確信がなければ、長年にわたって抱き続けることはなかったでしょう。あなたは無意識が理由づけすることは知っていますね。多くの場合、その理由づけは誤っています。そのような理由づけのプロセスに、意識的に気づかなくてはなりません。重要なのは、自らの内にあるこのイメージの存在を経験することです。
あなたがそれを経験する時、不当で不必要に思われる世界からの動きや反応に対する、あなたの多くの葛藤を自ら理解するのに機が熟したということです。友人達よ、断言しましょう。外的であれ内的であれ、あらゆる葛藤の背後にはイメージがあります。その繋がりは、間接的なこともあれば、非常に明白なこともあります。あなたの個人的なイメージは常に、普遍的な自己重要性についてのマスイメージと繋がっています。
ここで、事実上全ての人に少なくとも数回は何らかの形で起こる、非常に頻度の高い出来事について述べたいと思います。この出来事は殆ど理解されることはなく、マスイメージの存在やその影響と関連づけられることは滅多にありません。しかし、それは非常に重要なことです。何故なら、それを理解しない限り、解決策は見つからないからです。この例は、特定の誰かに向けられたものではありません。ある時、ある出来事に関して、誰にでも当てはまることなのです。
裏切られたと感じ、悲しみや失望を味わった経験のない人は殆どいません。その人は最大限の忠誠や礼儀を示してきたにも関わらず、裏切られました。更に、必ず起こることですが、加害者は自らを正当化する為に、裏切られたのは自分だと主張します。裏切られた人は、犠牲者として体験した痛ましいことをした張本人として非難を受けます。その為、二重に傷つきます。不誠実な行為、又は不正な行為を犯したと非難されなければ、相手の裏切りへの苦しみは半分も辛くありません。ふたつの痛みの内、相手からの告発は、より切実な痛みです。内面を探っても、責めを負うべきことは何も見つかりません。しかし深い不安が残ります。「何故なのだ?」と。
このチャネル、又は別のチャネルを通して、多くの霊的真実や教えから恩恵を受けている、この道を歩む皆さんは、自らが何らかの形で関与していない災難は起こり得ないことを知っています。それが正しいことを知的に知っています。個人的な経験を通して、それを確認することもあるでしょう。しかし、出来事が起こった時に、その関わりを簡単に見つけることはできません。今上げた例も、そのような出来事のひとつでしょう。起こった出来事と、自らの内にある原因との接点が見つからないのです。裏切られ、失望させられ、その上更に、やってもいないことをやったと非難されます。実際のところ、非難されるようなことは何もしていません。行動は正しく、意図は最善でした。
友よ、ここで、様々な個人的イメージによって強化された、自己重要性という特殊なマスイメージが、どのようにそのような出来事の原因となり得るかを説明しましょう。それを自らがどのように引き寄せているのか見えない為、非常に辛く感じられます。このマスイメージのせいで、あなたは自らの魂が必要と考えるものは何でも集められるよう一番になり、特別になろうと努力し戦うことになります。その特別な地位を得る為には、まっとうで、忠実で、理想主義的とは程遠くならなくてはなりません。冷酷で、利己的で、あなたが忠実でありたいと願うものや人を裏切らなくてはならないでしょう。この特別な承認された地位を得る為に、実際には控えている行動そのものを行う誘惑に駆られます。
まっとうで正直なあなたは、誘惑に屈することはありませんが、その意味と意義を実際に意識せずに、ただ漠然と感じています。実際、そのような誘惑や感情を感じると、あなたはとても恐れ、すぐに覆い隠してしまいます。それらが自らの内に存在することを認めたくないのです。あなたの良心は、誘惑に従って行動することも、誘惑を完全に自覚することも許しません。自己重要性についてのマスイメージの影響を打ち消す為に、自らの内にあるまっとうな側面、自らが従いたい側面を徹底的に証明することで、過剰に補償します。
この葛藤の結果は何でしょう?内なる戦いは無意識な性質によって、外側の行動ではポジティブな側面が勝っていても、外側の出来事はあなたが無意識なネガティブな側面の影響を受け、ポジティブな面には反応しません。これは不変の法則によるものです。それについては何度も述べてきました。自己浄化の道において、あなたも何らかの形で経験しました。しかし依然として、この真実を未だ適用できない多くの領域が残されています。自らが挑んでいる戦いをその完全な意味において意識的に理解していなければ、外側の出来事は、あたかも利己的な側が勝利したかのような形が続くでしょう。外側の結果は、無意識の衝動に応えなければなりません。
この道を進めば進む程、私がお話しすることを独断的な声明として受け入れるよう求められている訳ではないことが分かるでしょう。それらの声明の完全な真実性を自ら経験するのです。しかし、そうするには、あなたが勇敢に闘っている否定的な側面を探究し、検証し、認める正直さがある場合に限られます。その存在を認めた後、それに屈服せず、変えようともせず、今の自分がいる地点からその現実を見ることによって、向かい合い、認識し、その存在を許すまで、その側面はあなたを悩ませるでしょう。それらを実行すると、何故その否定的な傾向が自らの内に存在するのか自問することで、次の一歩に踏み出すことができます。何故、このような誘惑があるのか?自らの劣等感に謂れがないことを納得する為に、世間の目から見た高い地位を望んでいるのだという答えが必ず返ってきます。肉体的にではなく、感情的に生き残る為には、これら全てが必要なのだと心の奥底から信じているのです。それを手に入れる為には、他者を裏切り、冷酷、不誠実、利己的になることが必要だと思われるのです。しかし、あなたの善意がこの誘惑に気づくことを妨げている限り、外側の出来事は。あなたが誘惑に屈していなくても、否定的な側面の影響を受けます。このことを知らないあなたには、それは不正に思えます。そして、特定の誰かに対する失望よりも、実際にあなたを傷つけるのは、特定の人への絶望よりも、この不正なのです。
これは未だ不正に思えるかもしれません。「誘惑に屈していないのに、実際に誤った行為をしたかのような結果が招かれるのは何故だろうか?最も重要なのは、私の行為が正しいことではないのか?」と考えるかもしれません。友人達よ、それは違います。感情も行為です。外的な行為と同じような形、同じように迅速な結果としては現れないかもしれませんが、意識的であれ無意識であれ、あらゆる思考や態度は明確な行為なのです。しかし、それが無意識であればある程、その結果は大きくなり、それ故に不可解なものになります。
否定的な側面と向き合うことで、存在する最も勇敢な感情、すなわち自らに対する正直さを証明することになります。従って、自らの内で続いている戦いを恥じる必要はありません。それはあなたの功績です。しかし、それが意識的なマインドに入ることを許せば、より一層効果的に戦えるでしょう。そうすればあなたは、魂の法則、人間関係の法則、宇宙の法則の全てを、より十分に理解できるようになります。そして最早、不当な扱いを受けたと感じることはなくなり、傷もかなりの程度和らぐでしょう。また、これ以上の裏切りや非難が起こる可能性が低くなります。何故なら、戦いの否定的な側面が意識化されれば、その力は失われるからです。
そしてもし、そのような外的な出来事が再発した場合、あなたは全く違う感情を抱くようになります。そのような出来事から多くのことを学び、弱まるどころか強まります。非常に建設的なものを感じ、出来事の流れをポジティブな方向に変えることができるかもしれません。
知的にのみならず感情的にも自らの内にあるマスイメージの存在を経験する時、これまで支配されてきた根底にある誤った概念を認識した時、あなたは内なる自由の方向へと大きく前進したことになります。
ここで挙げた例は、数多くの可能性の例のひとつに過ぎません。友よ、私を信じてください。何らかの痛みある経験、理解もできない経験をした時、そして自分には何の落ち度もないのに不当な扱いを受けていると感じる時はいつでも、この方向で調べてください。自己重要性についてのマスイメージを明らかにしてください。特別でいるという自らのニーズを感じていること。それを悪意から感じている訳ではなく、あなたが大きくなることに成功すれば、自動的に小さくなる他者を軽んじたい訳でもないことも理解すること。そして、それがプライドの為のプライドではなく、特別であることが自分にとってのサバイバルを意味するという誤った考えから、そう感じられることも理解することです。この傾向を認識すると、破壊的な自己非難からも解放されます。自分が誤った概念を抱いていること、感情的なサバイバルが他者の意見に依るのではなく、ひとえに自分自身に対する自らの意見にかかっていることをただ知るのです。他者の意見に迎合すればする程、魂の奥底で自らのことを考えなくなります。その結果、常に誤った前提の上に成り立つ悪循環が、あなたの中で活性化します。
繰り返しますが、純粋に知的なレベルではこれら全てを理解することはできません。様々な感情的反応の意味を自問する習慣を身に付けた者だけに有益なのです。それでも、これらの言葉は、他の人々にも貴重な印象を残し、後日、自発的にこの道を歩む時に実を結ぶかもしれません。
皆さんの質問に移る前に、まだここへの道を見つけておらず、このグループと直接コンタクトしたことはないが、このレクチャーを興味深く読んでいる友人の方々に少しお話ししたいと思います。そういった方々の幾人かは、ひとりで、あるいは数人の友達と共に、魂の奥深くに自力で達しようとしていることに私達は注目しています。その善意は受け取られています。しかし、自力で、あるいはこの特殊なメソッドを個人的に経験したことのない誰かと共に行って、成功することは実際には不可能であると伝えたいと思います。ワークのメソッドそのものは、レクチャーでは伝えられません。レクチャーは一般的な資料としては役立ちますが、方法そのものを伝えることはできません。ひとりで取り組んでも害にはなりませんが、あまり先へは進めないでしょう。従って、それらの友人達に、このグループのメンバーで援助の資格がある人達に連絡を取ることを躊躇しないよう提案したい。他者の為であれ、自らの為であれ、このメソッドを用いることに本当に興味があるのであれば、それは必要なことでしょう。
さて、友人の皆さん、質問に移りましょう。このレクチャーに関して質問はありますか?
質問:他者の意見に依存して承認を得る方向に偏るのと、その正反対の行動を取る方向に過度に傾倒する、あるいはその対極に行くのと、どちらを選ぶべきか分かりません。どのように妥協したら良いのか分かりません。
回答:それは妥協ではありません。おそらく、正しい中道を見つけるのが難しいのではないでしょうか?「はい(質問者)」自然な形で中道が実現する方法を説明しましょう。
正しい中道が何であるかは、あなたが決めるべきことではありません。それは不可能です。そうしなければならないとしたら、既にそれについて強迫的な何かが存在しています。「この方向であそこまで行き、それから別の方向であそこまで行く。」というような選択肢はありません。これは強いられた、不自然なものです。あなたが判断をする必要性は、正しい中道を計量したり測定したりすることではありません。それはむしろ、自らと正直に向き合い、当分の間「私はどうすべきなのか?」という疑問を完全に忘れることです。
「私はどうすべきなのか?」が認識の妨げになっていると言えるでしょう。自らの真実を見出すことを妨げ、あなたをブロックします。まず、そのようなことは一切考えないことです。認識を得た後でも、初めの内は、外的な行為は変わらないかもしれません。しかし、内的な動機は変わるでしょう。場合によっては、外的な行為が自然に変化することもありますが、これは内的な成長の自然な結果である場合にのみ実りあるものとなります。最初に留意すべきことは、自らの感情、動機、欲望、恐れ、自分自身を理解することです。これら全ては、あなたを悩ませるあらゆる出来事において明らかにできます。
自己認識のある段階に達すると、自らが無意識の内に抱いている誤った概念に気づきます。それが観察され、益々意識されるようになると、束縛や強制を受けることは減っていくでしょう。誤った結論を理解することで、正しい結論をより意識するようになります。そうすれば、自らの感情的反応を次第に観察できるようになり、理解をより深めることができます。そして、誤った概念は役に立たず、有害であると気づく時が来ます。そうなった時、外に向けてではなく真に自らの内で、その誤った概念を捨てるのです。そして、あなたは自由になります。誤った概念は常に、それが有用で保護であるという誤解の中で保たれています。そうではないことに気づけば、それ以上、誤った概念に固執することはありません。自らにこう言えるようになります。「私は、その時々に自分を冒瀆したり、自分に不誠実になったり、あるいは抵抗して依存関係に逆らったりする程、必死になって承認される必要はない。私は今、自分の足で立つことができる。私の内面的な人生や価値は、他者に依存していない。それは、自らを十分に自覚することによってのみ促進し、応えることができる私の自尊心にかかっている。」一度この自由を手に入れたら、苦労して理想の中道を見つける必要はなくなります。考えるまでもなく、自然に展開していきます。あなたが最早、誰にも、何をも証明する必要はないからこそ、正しい道はただそこに在るでしょう。
他者の意見に依存し過ぎる傾向があるとすれば、それは相手に何かを証明する必要があるからです。この束縛に抵抗し、「私は気にしない」という反抗的な態度で対極の行為に転じるなら、それは自分自身に何かを証明しています。両極端の行為は、何かを証明しようとする試みから生まれます。何も証明する必要性がなくなれば、正しい中道は呼吸と同じように自然なものになります。肺に適切な酸素を送る為に、呼吸の回数を減らしたり増やしたりすることを考えますか?いいえ、あなたは自動的に呼吸しています。完全に自然なプロセスなのです。あなたは熟考して選ぶことなく、正しい中道を見つけたのです。多過ぎず、少な過ぎず、健康を保つのに必要なものを得るのにちょうど良いだけ。魂のプロセスにも同じことが当てはまります。お分かりですか?
質問:そうですね、ある程度は。それは感情的なものだけではなく、知的なものについても当てはまりますか?
回答:このマスイメージを知的に考える人は殆どいませんよ。全てのイメージは本質的に無意識なので、表面まで現れることは滅多にありません。他者が自分をどう思うかに自分の人生や幸せが左右されると、理性的に考えているか、誰でも良いので手当たり次第に尋ねてみたら良いでしょう。誰もが、他者からよく思われることを好みます。それは自然なことです。しかし、その依存の程度、その結果、その人がイメージの要求に何処まで応えようとするかの程度は、その方向でかなりの自己探求が行われるまでは、通常全く意識されません。
質問:私は、他の人の意見はとても重要だと、意識的かつ非常に明確に感じています。
回答:このことが自らにとってどの程度重要なのか、この依存があなたに何をさせ、何を断念させるのか、あなたが意識的に認識しているのかは疑問に思います。しかし、客観的に考えることができるという意味では、意識的であればある程、あなたにとっては良いことでしょう。
質問:誤った結論が行き過ぎて、感情だけでなく知性にまで及んでしまうと、より困難になると思うのですが。
回答:その逆です。知性は推論により近づきやすいものです。いったん理解して知性が働けば、誤った概念を修正することができます。しかし、正しいことを意識的に確信している場合、しばしば理性と感情を隔てる壁を打破するのが困難になります。自らの意識的、かつ合理的な考えと一致しない意見があるという事実と向き合うことへの抵抗が、障害となるのです。しかし、自らの概念が誤っていることを認めれば、それで葛藤する必要はなくなります。
質問:このマスイメージは、個人の神のイメージにどのように影響を与えるのでしょうか?
回答:神のイメージにはさまざまな形があります。それがどんなものであれ、自己重要性についてのマスイメージと神のイメージとの繋がりは、更なる葛藤を精神にもたらします。自己重要性についてのマスイメージが強ければ強い程、又、神のイメージが強ければ強い程、双方の相反するニーズと衝動が相互作用してショートを起こすので、人格は妨げられます。当然のことですが、一方のイメージが他方よりずっと強いというようなケースであっても勿論、葛藤は生じます。対立は多くの障害を招きますが、それぞれはひとつの特定の誤った概念によるものです。神のイメージと自己重要性についてのマスイメージが互いに反目する場合、このような葛藤を抱く人は最早、人生に対処することができなくなります。
このふたつのイメージの共存は、悪循環の原因となります。ひとつの流れはこう言います。「私は一番にならなくてはならない。特別な配慮が必要だ。」神についての宗教的なマスイメージのせいで、人は益々罪悪感と劣等感を抱くようになります。罪悪感ではこの状況を改善できません。原因を理解して初めて改善できるのです。罪悪感が強ければ強い程、その原因を探る勇気がなくなり、それから目を逸らすことで、誤った態度がなくなれば良いと強く願うようになります。
その結果、次のような悪循環が生じます。罪悪感を感じれば感じる程、罪悪感や劣等感を和らげてくれると信じて承認を必要とします。承認を求めれば求める程、罪悪感が増します。この葛藤はふたつの異なる方向からもたらされます。一方は神のイメージです。もう一方は、全てを銘記し、観察し、あなたが間違っていること、それが間違った道であることを伝えようとするあなたの内なる真の自己です。しかし、その声は誤解され、神のイメージの声として認識されます。従って、自己重要性のマスイメージからあなたを引き離そうとする逆の引力は、ふたつの極からやってきます。真の自己の極と、偽りの神のイメージに支配される幻想の極は一致することはなく、互いに平和ではありません。分かりますか?「はい(質問者)」
私たちの祝福を受け取ってください。あなたの中にある多くの問題を引き起こしている部分を探す力を受け取ってください。それは、誤った結論から、想像上のニーズの為に、仲間である人達から自らを引き離す、自らの内にある部分です。それを見つけてください。そうすれば、あなたの全体的な視野は一変します。あなたは客観的になり、現実に身を置くようになります。マスイメージにとらわれているこの部分に気づくだけで、あなたの人生は変わります。
皆さんそれぞれ、私たちの愛と祝福を受けてください。この道を続け、道において成長し、喜んでいてください。平和の内に、神の内に!

【訳註】マスイメージ:集合イメージ、大衆イメージetc.


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