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No.6 霊界と物質界における人類の役割

Pathwork Guide Lecture No.6
1996年版
1957年5月20日


霊界と物質界における人類の役割
The Human Role in the Spiritual and Material Universes


 親愛なる皆さん、あなた方人間が自己の自由意志を神の意志に委ねることにどれほど困難を抱えているかについてこれまで議論を重ねてきました。では、その真の理由を考えてみましょう。この問いについてよく考えると、明確な考えを打ち立てられなくても、この世を信頼せず、神を信じていないということを認める必要があります。感情的にはそうであるに違いありません。然るべき形で神を信じていれば、誰も自己の意志より神の意志を優先することに困難を感じることはないでしょう。ところが、適したことや有利なことは神よりも自分の方がよく知っていると信じているかのような感情的反応が起こります。実際、そのような訳は全くないのですが。

 誰もが持っている自己愛は、不健全で目先のことしか見えない愛ですが、皆さんへの神の愛は、清く、強く、健全な愛です。従って、より先を見通した慈悲深い愛であり、皆さんに最も適したものを与えようとします。勿論、神が遣わすものは、やや不快なものであることも多々あります。それは、神が望んでおられるのではなく、因果の法則に従って、過去の行動や態度によって自らがもたらしたものです。それをどのように受け入れ、これに関しても、自らを神の法則にどのように委ねるかを理解すると、問題は大いに軽減されます。抑圧するものと戦って克服すると、強く、自由に、幸せになります。一歩一歩前進するにつれて、全ての意味を更に深く理解するでしょう。自ら生み出した障害を克服した場合に限り、既にこの地上で、神が授けたいと思う幸福を享受できます。自ら生み出した困難を克服した場合に限り、まだその原因が分からなくても、自由になり、この幸せを受け入れ保ち続けることができるのです。

(ここでいくつかの段落が省略されています。それに関してはPGL#52「神のイメージ」で詳しく述べていますので、そちらをご参照ください。)

 以前にお話ししたことではありますが、もう一度繰り返したいと思います。霊能者だけではなく全ての人間が、神の世界と個人的に繋がることができ、また繋がるべきなのです。誰にとってもそれは可能です。しかし、条件を満たさなくてはなりません。霊能者を通して話しかける時、神のスピリットは、決して皆さんを依存的な操り人形のようにすることは望みません。勿論、神と整合しておらず、すべきこと、すべきでないことを進んで指図してくるスピリットもいます。そうすることで力を得て、自らの虚栄心を満たしているのです。それが暗闇のスピリットだと言っている訳ではありません。しかし、高次の神のスピリットは、力もおだても必要とせず、それを望みもしません。高次のスピリットは、神が望まれるものを望みます。神は、皆さんが自由で独立した人間であることを望んでおられます。真の解放は、神にのみあり、神を通してのみ行われるでしょう。具体的な例で神の御心が何であるかを理解するには、個人的な体験が必要です。その中で、私たちは皆さんを助け、個人的に神と繋がる方法を教えます。これには明確なルールがあります。まず、皆さんは個人的な個々の障害を乗り越える必要があります。私たちは、そのような繋がりを望む皆さんを助けましょう。そのような繋がりを調節し、容易にする原理について説明したいと思います。しかし、皆さんにそれを望む気持ちがなくてはなりません。私たちも神も、皆さんの自由意志を尊重します。このレクチャーの最後に、その繋がりを望むか否かを尋ねます。常にこのテーマだけをお話ししている訳ではありません。レクチャーのテーマと関連付けています。常に関連性のある題材があります。お望みであれば、コースを提供することもできます。でも、望まないのであれば正直に言ってください。全てが全く新しいことばかりではありませんが、この「コース」は霊界と個人的に繋がる条件を、皆さんの進歩に応じて、段階的にまとめたものです。親愛なる皆さん、これを用いれば大きな宝を手に入れることが可能です。本当に大切で、幸福を与えてくれるものと同様、容易に実現できるものではありません。決断するのは皆さんです。皆さんに代わって決断することはできません。

 学んだことを応用しない人は、例え自分自身の為であっても、霊的真実の現実を否定する権利はないということを付け加えたいと思います。ここであっても別の所であっても、神のスピリットが教えてくれることは全て、疑う余地のない強さで個人的に体験でき、外的で物質的な反証を凌駕します。それは体験可能です。従って、ここで学んだ全てを経験する為に必要な条件を満たさず、それが確認できたと思わない人には、その妥当性を問う権利はありません。

 さあ、親愛なる皆さん、質問をどうぞ。

 質問:死後の世界について、インドと西洋の概念の違いについてお聞きしたいと思います。どちらが正しいのですか?インド人が言うように、死んだ後には何も残らない、転生を繰り返したあと最終的には無に戻る、個々の人格が生き残ることはないというのは本当ですか?それとも、人格および個々の意識は何らかの形で存在し続けるのですか?

 回答:まず、どんな宗教的概念にも真実のエッセンスがあることについて改めて言及したいと思います。そのような質問をする度に、このことを思い出してください。聖書であろうと他の宗教の教えであろうと、この真実のエッセンスを見いだすためのお手伝いをしましょう。あなたの質問に戻る為、まず、実際にどうであるかについて説明します。そうすれば、矛盾の解明に役立つでしょう。

 人は高次に発達する程、エゴによる限界が減っていきます。魂の周りに無知と分離の壁を築くのはエゴです。高次に発達するにつれ、ある魂を別の魂と結びつける愛の絆が見えるようになります。愛によって互いに結びつくという意味で、この絆は自由な繋がりです。この愛の絆に関係する人は皆、自らの痛みも相手の痛みも同じように感じ、相手の喜びが自らの喜びとなります。自分も相手も同じ体験をします。エゴは、自分を別の場所に置き、相手よりも自らの為により良いものを望むことで、相手よりも高い位置に立ちます。人間あるいはスピリットの実体が、上昇への道を一歩ずつ登るにつれ、エゴは消えていきます。最も高い段階に達すると、兄弟愛、愛情、神の全てとの一体感を完全に感じるようになります。その結果、それぞれの魂が他の全ての魂と常に成長し続ける調和の中で共鳴し、全ての兄弟姉妹および天の父と本当に自由な絆を築きます。これを言葉で説明するのは非常に困難です。皆さんには、そのような状態の内的体験がなく、そのような概念がないからです。ですから、私が伝えようとしていることを何らかの形で思い描くことができるよう、真の意味を感じるよう努力してみてください。

 最高のレベルは、「神の家」と呼ばれています。家ではなく、広大なエリアを想像してください。神の家に入るもの、すなわち人間の肉体にこれ以上生まれ変わる必要のないものは、神と完全に融合するのです。その為、先に述べたように、自らにおいても他者においても等しくあらゆるものを感じ、体験します。まさにエゴを克服したからです。ところで、地上に生まれ変わる必要がなくなった人が皆、直ちに神の家に入る訳ではありません。多くの場合、まず別のエリアで成長し続けます。ところが、人間は往々にしてエゴは人格の個性と同一であると考え、基本的な概念を勘違いすることで過ちを犯します。しかし、このふたつには何の関係もありません。それどころか、いくつかのレクチャーで説明してきたように、高次のレベルに達するごとに、「私」という意識は広がり、強くなります。まさにエゴの分裂が克服されたからです。分裂したエゴは無知、理解不足をもたらすだけで、必然的に認識、ひいては人格の個性の低下、減少に繋がるに違いないからです。いつかエゴを克服し融合する必要があります。そうすれば、個性を手放すことなく、高まる自由、光、理解、愛の中で、発揮することができます。

 よって、互いに相反しているようであっても、ユダヤ教およびキリスト教の概念にも、インドの概念にも真実のエッセンスを見出せます。インドの概念はエゴの解消を示し、一方、ユダヤ教およびキリスト教の概念は、真に永遠に高められた形で存在する魂の個性のみを扱います。どちらも真実です。涅槃の概念がインドで広がった理由は次のとおりです。

 インドでは、最終的に皆さんに教えていくものと類似する特定の瞑想の実践を通して、あるいは高次の霊的発達によって、意識を失うことなく肉体から精神を解放することのできる人が、常に多数いました。その結果、彼らは霊的体験をしました。少なくともある程度エゴを超越することが、霊的体験およびそれに伴う至福感の必要条件であり、霊的体験をしたことのない人が、体験者の話を誤って伝えることは無理もありません。どんな感情も言葉で表現するのは困難です。体験がより高次で、より美しく幸せに満ちたものであれば、同じ体験をまだしたことがない人に向けてそれを言葉にするのは困難です。これは、特に霊的体験の場合に当てはまります。結果として、人づてに伝えられる霊的体験は、実際の出来事を話すよりも、さらに誤解されやすくなります。こういうことなのです。よって、個性が解消し、消滅するというのは全く違います。そうだとすれば、個人の体験を心に刻み、意識に持ち込むことさえできなかったでしょうし、どんなに不十分であっても、それを伝える試みは絶対にできなかったでしょう。これら全てから、個性が存在しなくなるという概念がどのようにして生じたかを容易に理解できます。これは重大な誤りです。皆さん、実際、そんなことはあり得ません。神が美しさと純粋さで創造されたもの、特にスピリットは、決して消えません。エゴを持たない、純粋な形の個性は、純粋なスピリットです。

 美しい花や愛らしい小動物を見る時、その体や外皮が朽ち、その生命が絶滅に瀕するが為に、皆さんはそれが一時的にしか存在しないものと考えます。それは間違いです。親愛なる皆さん、違います。美しく、高貴なもの、精神的なものは、決して消えてなくなることはありません。おそらく少し異なる形であっても、その本質、つまり個性を完全に守りながら、永遠にあり続けます。霊的なものは生きているからです。死体を見て「生命体が消えた」または「生命体が去った」と言うことがよくあります。そう言うとき、もちろん生きているスピリットを指しているのです。それ故、人間あるいはどんな生き物の性質においても、素晴らしく、高貴なものは、決して消えてなくなることはありません。永遠に個性の中に存在し続けます。わかりますか?

 質問:はい。言うまでもなく、愛する人との絆が存続することを確かめること、少なくとも何らかの示唆を得ることはとても重要なことです。

 回答:私が言っているのはまさにそういうことです。その通りです。独自の人格が無かったなら、恋愛であろうとなかろうと、他者との付き合いもあり得ないでしょう。愛の絆は身近な人との間に残るだけではありません。いつか、おそらく皆さんの観念からすると非常に長い時間の中で、この絆は広がり、今は興味のない人や嫌いな人までも加えるでしょう。この愛情の繋がりは、拡大し続け、ますます多くの兄弟姉妹を取り込んでいきます。霊的成長によって手に入れたもの、愛や理解などが決して失われないようにする為に。

 ところで、涅槃と言われる霊的体験をしたインドの神秘主義者は、人格が完全に消滅するという誤った概念を、決して明確に述べたり広めたりはしませんでした。インド人であろうとなかろうと、神秘主義者と話をすれば、それが誤解であり、真実はまさにここで説明しようとした考え方であることが裏付けられると言えます。それどころか、個性、個人の経験能力は増すだけで、決して減ることはないこと、消えるのはエゴだけであることが裏付けられます。これが本質的な違いです!この違いについて熟考し、瞑想することは、素晴らしいことです。自己の全人格は、エゴにかかっていると考えられているからです。

 このように説明できるでしょう。エゴはローアセルフの一部であり、個々の人格は、その瞬間のローアセルフもハイヤーセルフも含んだ発達状態全体で形成されます。消えてなくなるのは、ローアセルフです。それは、皆さんを憂鬱にし、エゴと共に地上に縛り付け、個人的な霊的体験や隣人への愛や思いやり、その他何であれ、あらゆる点において、神を体験する個人の能力を制限します。ここで、争い合う2つの「自己」があると想像してください。これは常に言っていることです。違いを感じ、魂の内で一方を他方と区別できるまで十分に成長したら、この説明がよく分かるようになるだけではなく、霊的体験そのものに更に一層近づきます。エゴにしっかりとしがみついている場合、それはローアセルフの克服が非常に難しいからだけではなく、エゴと共に個々の人格も諦めなくてはならないといった誤解もあるからなのです。

 質問:ルドルフ・シュタイナーの教えを信じている私たちの友人は、「王国」は、天と地、あるいは善と悪といったふたつだけではなく、三つあると言っています。この概念によると、地球はルシファーあるいは悪魔ではなく、唯物的な支配者であり、ルシファーよりも危険であるとみなされているアーリマンによって支配されています。これは事実ですか?

 回答:ここにもまた、真実のエッセンスがあります。ルシファーだけが「堕ちた」のではなく、他の多くのスピリットも同様に堕天したのは知っての通りです。彼らが皆、等しく重い責任を負わされた訳ではありません。ともあれ、神には七人の息子がいました。神によって最初に創造されたものであり、神に最も近い存在でした。このうちふたりが、他の多くのものと共に「堕ちた」のです。その中には神に近しいものもいましたが、ここではそれについては触れません。とりあえず、これで十分です。現在、ルシファーを選んだ息子の一人が、物質を支配し、ある意味で、地球を支配していると言えます。このスピリットもまた重い責任を負わされたのです。しかしながら、「堕落」を導いたルシファーが、最も重い責任を負わされたのです。三つの王国があるという教えは、あまり正確ではありません。この観点からすると、王国は三つ以上あるからです。ルシファーは、神から切り離された領域を支配し、他の堕ちたスピリット達に多かれ少なかれ独立して支配できる一定の区域を与えました。特定の場合以外には、彼らはルシファーに頼る必要はありません。これは、神の世界に存在するもの、それを人間が地上で模倣したもの、多くの実体が共存する場所にあるべきものの模倣です。つまり、一定の秩序とヒエラルキーです。神の神聖なる王国では、発達に応じて、スピリットの存在も独立した力を持っています。その活動範囲は増え、広がり続けます。そして、ある程度、霊的法則を正確に知ることで、自ら結論を下し、実行することができます。自己の知識レベルを越えた特定の問題しか、上の階級のスピリットに頼る必要はありません。

 現在、前述したルシファーの兄弟が地上の支配権を与えられ、物質を支配しているのは事実です。しかし、ルシファーの世界が皆さんに近づけないということではありません。どんなに大きな力であっても、突き詰めていくと、このスピリットもルシファーの影響下にあり、よってルシファーの領域の一部なのです。これについて具体的な説明がなかったのであれば、それほど重要ではなかったからです。しかし、皆さんは、ルシファーには様々なレベルの力を与えられた配下がいることを知っています。物質を支配するこの特定のスピリットもその配下のひとりです。しかし、指摘したように、そのスピリットだけではありません。他の領域で、まったく同じあるいはほぼ同じような力を兼ね備えた別のルシファーのようなスピリットがいます。全てを説明するのは不可能ですが、その必要はないでしょう。

 地上には、直接その物質というスピリットの支配下にいるスピリットもいれば、ルシファーの直接の支配下にいる、地獄から来たスピリットもいます。ところが、突き詰めていくと、すべてがルシファーによって支配されています。それでもなお、人間にとっては、この物質のスピリットの方がルシファーのスピリットよりも更に危険であるというのは正当な言い分です。ルシファーの配下には、悪、憎しみ、殺人、妬み、人を見下す傲慢さ、その他の悪行のスピリットがいるからです。これらのスピリットは、基本的な性向の全てが具象化されたものです。しかし、そのようなスピリットは、人間がそれに応じた感情を持たない限り、その人に近づくことはできません。ご存知のように、人格の全ての側面が同時に成長する訳ではありません。ですから、ある特定の視点に限って人が特定のレベルを超えて発達すると、最も邪悪なスピリットであっても、その人に近づくことはできません。たとえ、依然として魂の中にこれらの否定的な感情が僅かに残っていたとしても、それと戦う方法を知り、誘惑に負けず、行動で示すことはありません。しかし最早、卑劣で邪悪な行動は取れず、直接ルシファーのスピリットに従うことはできないが、それでもなお、ルシファーの兄弟に仕えるもの達の誘惑の影響を非常に受けやすい人も多くいます。必ずしも他者を傷つけるつもりはなくても、神や霊的なものから目を背けることで、スピリットを理解すること、受け入れることができなくなります。その結果、このルシファーの兄弟は直接的に、ルシファーは間接的に勝利を手に入れます。闇の力の目的は、あらゆる存在を神から引き離すことです。

 神および霊的な生活から背を向けると、再び地獄のスピリットの影響を受け入れるようになります。物質的なものへ強い執着を持つことで、一定の低次の感情が呼び起こされるからです。このようにして、物質のスピリットは間接的にルシファーに仕えます。ルシファーが失敗した場合でも、多くの人間を捕らえることができます。結果として、物質を通して、間接的にルシファーに貢献するのです。必ずしも邪悪な人である必要はありません。邪悪であれば、ルシファーは兄弟を必要としません。そのような人々は洞察力に問題があり、物質に捕らわれるにつれて洞察力が衰えます。洞察力を広げる為に、神の世界との繋がりを確立し、自己探求と自制心、愛と謙虚さの道を歩むことをしません。単調で、奥行きのない、灰色の世界に生きています。本当に生き生きとしているものは何もありません。何故なら、物質に捕らわれ、活発なスピリットを抑えつけているからです。

 ここで言いたいのは、芸術を愛している、あるいは知的興味を追及しているという理由で、自分は霊的であると信じている人が多いということです。しかし、このようなことでは、本当に霊的になったり、生き生きしたりしません。その結果、ルシファーの兄弟に支配され、次第に弱くなり鈍くなる人達は、洞察力がはっきりとせず、物質的なもの以外何も信じないので、無意識の内にルシファーに引き渡されてしまう可能性があるのです。従って、危険を認識し、それと戦うことができません。認識できない敵は、その存在や性質を良く認識している敵よりも常に危険です。分かりますか?[はい]

 質問:動物の感受性についてお聞きしたいです。人間は地球上で最も発達した生き物とされていますが、特定の領域においては動物の方が優れています。例えば、狩猟犬には、人間に全く欠けている感覚があります。また、猫は、知らない人が来ても身動きをしないのに、場合によっては、家族の一人が帰ってくる音が聞こえる前から玄関へと走っていきます。これはどういうことですか?

 回答:それはこういうことです。本能と呼ばれるものは、物質的ではないものを知覚する感覚に他なりません。動物では、この感覚がより発達しています。なぜなら、動物の知性はまだ人間ほど発達していないからです。人間にとって、特に上昇成長するには、知性が非常に重要です。何故なら、知性は行為の意志の一部だからです。しかしながら、知性が最終目的となり、目的のための手段、つまり神に達する手段ではない場合、その時、その知性は、正しい方向を向いておらず、あまりにも強調され、その結果、調和が乱れます。その為、健全な本能は弱まります。これがまさに現在の状況です。バランスを取らなくてはなりません。そうしなければ、深刻な結果に陥ります。過去に起こり、依然として特定の人がやっているように知性を疎かにする場合にも、同じことが当てはまります。多くの場合、人間に欠けている感覚が動物に備わっているのは、埋め合わせとして必要だからそのようになっています。適切なバランスを取り、高次の目的を達成するために知性を用いるなら、人間はこれらの能力をもっと多く手に入れることができるでしょう。これもまた、いつか実現するでしょう。いわゆる原始的な人では、本能的な認識をする資質がはるかに発達していることが見てとれます。これが質問への答えです。しかし、この質問はさらに面白い論点を示しているので、それについてお話ししたいと思います。

 皆さんの時代の病気と呼べるような魂の歪みを通して、地球上では技術的かつ科学的な進歩が達成されましたが、それは霊的な進歩とは歩調が合わせていません。決断を下すことができるよう、神は知性をお与えになりました。「私はこの道、又はその道を行く。こちら、あるいはそちらを決める。」霊的生命および霊的態度の為に選ぶことができるのです。しかし、その選択は自らの自由意志に基づくものでなくてはならず、自由な決定は知性に基づきます。そのような決断が正しくなされると、本能的および、霊媒能力を含む超感覚的な知覚能力は、麻痺することなく知性と共に発達します。これは、英知と正当性が必要とするように、適切な機能と本質に応じて、知的能力をどの方向に向けるかに左右されます。目的は、霊的かつ精神的な生命体全体の調和の取れた発達です。知性がこの方向から逸れて使われると、結果として調和が乱れ、不幸を感じます。知性は、最高次の霊的レベルを達成するために非常に重要な道具であるということを心に留めておいてください。それを抑えてはいけません。同様に、その方向性だけでなく、その使い方にも意識を向けてください。それ自体が目的ですか?それとも目的のための手段ですか?

 本能のテーマに関して、次のように自らに問いかけてください。第一に、自らの内で本能と知性の調和の取れたバランスが保たれていますか?本能、または何と呼ぼうとも、それが内側で働けるよう十分な機会を与えていますか?そのような内なる力は、知性と同じように開発や育成が可能です。結局のところ、知性そのものが制限された力なのに、それで本能的な感情を制限、抑制するのですか? 第二に、与えられた目的のために知性を使っていますか?この全体的な枠組みの中で知的能力を使う人は、真の方向に人生を導きます。人生の課題を完全に果たし、深い安らぎを味わいます。

 質問:科学的な関心から質問をしたいと思います。科学者の友人から聞いたのですが、既にこれまでに一度、人類は非常に高次の進化を極めたことがあり、現在の私たちよりもさらに高次であったということです。これは物質的な意味であり、霊的な意味ではありません。彼によると、数十万年前、世界が大惨事で破壊された当時、原子エネルギーは確かに知られていたということです。これは本当ですか?

 回答:ええ、本当です。人類の霊的発達のレベルは技術的進歩に対応していなかった、そして仰った通り、まさにそれが要因となって世界が破滅したと言うのは事実です。物質的発達と霊的発達の間にあまりにも大きな相違があると、より大きな危険を避けるために必ず出来事が起こります。この出来事は、状況が招いた自然な結果であり、神がお許しになられたことです。そうでなければ、霊的な危険は、地上のいかなる大災害よりも遥かに大きくなるでしょう。霊的生命を失うことと比べれば、地上の生活を失うことは取るに足りないことです。原因と結果は法則に従って解決する必要があり、人類の歴史における神の行為は、決して人間の霊的生命を危険に晒すことはありません。時に、物質的な大惨事以外で、霊的な破滅を回避できないこともあります。多くの場合、歴史がそのことを実証しています。霊的発達、つまり神と再び繋がることが、物質的進歩に釣り合っている場合に限り、常に消えてしまう否定的なものではなく、生き生きとしたポジティブな周期の中で、歴史は進んでいくのです。

 親愛なる皆さん、皆さんは全員、神に祝福されています。平和の中で進みなさい。


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