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No.69 道を歩みながら成果を待つことの愚かさ:愛されたいという正当な欲望の充足、あるいは抑圧

Pathwork Guide Lecture No. 69
1996年版
1960年9月16日


道を歩みながら成果を待つことの愚かさ:愛されたいという正当な欲望の充足、あるいは抑圧
THE FOLLY OF WATCHING FOR RESULTS WHILE ON THE PATH ; FULFILLMENT OR SUPPRESSION OF THE VALID DESIRE TO BE LOVED


最愛の友である皆さん、こんにちは。皆さん一人ひとりに祝福を。この時間は祝福されています。私達は喜びに溢れて、皆さんと歩む自己認識の道を再開します。これからの一年が、皆さんにとって更なる前進の年となりますように。皆さん一人ひとりが、最も必要とする所に導きが得られますように。

最初に、幾人かの友人達がかなり混乱しているテーマについてお話ししたいと思います。それは、この道でのワークがもたらす筈の成果についてです。友人の皆さんの多くは、数ヶ月または数年かけて自分自身をワークすれば、困難や人生の問題はもう起こらなくなると意識的に信じたり、漠然と感じたりしています。これは全く非現実的です。そんなことはありません。確かに、内的問題が外側に現れることはある程度軽減されるかもしれません。しかし、人生の浮き沈みが現れ続けるかどうかで自らの成長を測るのは間違っています。

このテーマを検証し、混乱を明らかにしましょう。皆さん全員にとって重要なことは、何故その自己進捗の測定方法が間違っており、悪影響を及ぼしかねないのかを理解することです。

生まれた時、あなたは基本的な葛藤を抱えて来ました。自己認識の道でワークしようと決心する頃には通常、現世で数十年が経過しており、その間これらの問題はより深く魂に根づいています。この内なる問題は現世での数十年だけではなく、何世紀も前から抱え続けているのです。これまでの比較的表面的な認識のいくつかが、人生で時折起こる嵐から逃れるのに十分だと考えるのは馬鹿げています。何故なら、この道を歩み始めた短い期間で得た基本的な認識は、未だ認識できていない筈の多くの傾向とも結びつけねばならないからです。あなたは未だ、内なる幼児の基本的なイメージと自らの人生がどのように繋がっているのかを知りません。従って、例え大きな進歩を遂げたとしても、あなたは依然として無意識の支配下にあるのです。いかなる場合も、どれほど成長したかを示すのは、単なる時間の長さではありません。強い外的意志で探索し、ワークする人もいますが、その場合も内側の無意識の制約は真の進歩を阻んでいます。そのような人の数年間の献身的に見えるワークは、内的な抵抗がない人よりも成果は少なくなるでしょう。

心が中途半端にしか自分自身と向き合うことを許さなければ、どうして人生における真の変化を期待できるでしょう。最も意欲的な人でも、多くの場合、真の洞察を阻む故意の努力の中にも、無意識に設定された内なる限界があります。あなたはそこまで行くことを自らに許し、それ以上は進みません。従って、そのような比較的表面的な努力で、どうして内的人生が大きく変わり、外側の問題が消え得ると言えるでしょう。いくらかの洞察が得られたとしても、内なる子供の世界の意義は依然として隠れたままです。感情的反応は、以前と殆ど同じように機能する為、あなたの人生が変わることはあり得ません。

特に柔軟で意欲的な無意識のおかげで、人間として可能な限り自分自身と完全に向き合えるようになった人がいると仮定しましょう。そもそも、自分自身と向き合うというこのプロセスは、段階的にしか進みません。内なる全てと短期間で向き合うことができる人はいません。更に、内なる幻想の世界の包括的な全体像に達した人がいると仮定してみましょう。そのような認識だけでは、その人に不運な出来事が起こらなくなる程の即座な変化をもたらすには不十分です。認識は変化の前提条件ですが、ふたつは同じものではありません。最終的にあなたは、自らの感情がいかに不合理かつ非現実的に反応するかをかなり明確に認識するかもしれません。これは大きな前進です。それでも、長年の習慣によって、あなたの魂の力は一方向に働くよう調整されている為、新しい習慣パターンが形成されるまでにはかなりの時間が必要であると知り、そのような反応に絶えず気づいている必要があります。そうです。子供っぽい感情を絶えず正直に認識していることで、ある程度まで非常にゆっくりとした変化があります。これはとても健全で解放的なプロセスであり、時に外側にも変化が生じる場合があります。しかし、真の変化は内側で起こっており、それが重要なのです。

内側の変化は、問題や困難に対する反応の変化に最もよく現れます。これは、自分自身と向き合うことへの内なる障壁が全て消え去った時に起こり始めます。もう何かに向き合うことへの恐れは残っていません。従って、あなたはある程度、感情的反応を変えることに成功しました。まだ変わっていない部分については明確に認識し、観察する度に、何故自らが未熟な反応をするのかより深く理解できます。誤った思い込みは何か、理論上、正しい反応はどうあるべきか、あるいはいつか現れる正しい反応は何か、より明確に理解できるでしょう。それでも人生は続き、時としてあなたを煙に巻きます。しかし、その煙は最早、あなたを混乱させたり、過度に動揺させたり、恐れさせたり、心配させたりする力はありません。

あなたは少しずつ、影の中にいる時間を恐れなくなります。まずは勇気を持ち、学べることに対して前向きな態度でその時にアプローチするでしょう。そして、自らに関する重要な教訓を学ぶ度に、より強く、より自由で、より幸せで、より穏やかな人間として、影から光の中へと出現します。困難だと思っていたものが、最早困難ではなくなる時が来ます。それが、自分自身と人生を極められる唯一の方法です。例え問題が無くなったとしても、それに対する恐れが無くなることはありません。いつか問題が戻って来るかもしれないという不安や疑念が残るからです。しかし、人生の問題を極めた時、そこに脅威は無くなります。

友よ、これが現実です。やるべきワークのほんの一部をやったから、認識すべきことのほんの一部を認識したから、問題、病気、心配、軋轢、その他の困難が簡単に消えると考えるのは、控えめに言っても非現実的で子供じみています。あなたの進歩を測る唯一の方法は、人生でもたらされる避け難い問題に対するあなたの反応です。その度に何を得たか、それぞれの不運の後にどれだけ成長したか、それがどれ程に大きく重要な問題に触れていたか、あるいはそれが取るに足らない問題であっても、かつてはあなたを不相応に動揺させる力があったことで測るのです。進歩の唯一の基準はあなた自身の反応であり、人生に未だ激動期が続いているかどうかではありません。

従って、例えどれ程あなたのことを良く知っていたとしても、他者があなたの進歩を判断することは極めて困難です。人生の辛い局面に対して、以前よりも穏やかで前向きな反応を示しているのに気づくことがあるかもしれません。しかし、それさえ欺瞞であり得ます。何故なら、人は自らをも欺くことに非常に巧妙だからです。表面上は、偽りの穏やかさを保ちながら、真の反応を抑制します。あなたが真に感じるものだけが基準になります。外側で確認できるものが決定要因になることはあり得ません。

もし、あなたの思い通りに、つまり困難が起こらないように、宇宙の法則が作られていたとしたら、どうして問題を乗り越え、克服したと知ることができるでしょうか?困難はそこから学び、原因を理解し、長い時間をかけてようやく解消するものです。最初は繋がりがないように思えても、自らがどのようにその困難を招いたのか理解するにつれて、その力は徐々に弱まります。理解が深まるにつれ、それぞれの不運の暗闇や恐れは無くなり、その結果、あなたは災難、自分自身、人生を掌握します

依然として、大きな危機が訪れることはあるでしょうが、このようなワーク、成長、進歩に比較的長い時間を費やすことでしか、外側の困難を少しずつ減らすことはできません。言うまでもなく、このような危機も、徐々に弱まっていく小さな激動も、正しい道を歩んでいるか否かで降りかかる訳ではありません。おそらくそれは、過去における誤った反応の結果で後から現れたものに過ぎません。すでにご存じの通り、原因と結果は必ずしも瞬時に作用する訳ではありません。多くの場合、後から結果が起こります。一般的に言えば、この道に取り組んでいると、原因と結果はより早く作用します。時に人が自己探求のワークを始めたばかりで、又はその直後に、過去からの遅延反応に遭遇することもあるかもしれません。原因と結果の時間的要素がどのような法則によって作用するかは、非常に複雑な別のテーマであり、ここでは触れません。この法則は固定された全般的な規則ではなく、個々の魂の法則によって作用するということだけ述べておきます。

ですから友よ、「この道で一生懸命ワークしてきたのに、こんなことが未だに起こる。」と自分に言い聞かせたり、他者をジャッジしたりするならば、それは全くの誤認であり、抜本的に見直す必要があります。私の言葉を出来るだけ客観的に考えれば、お伝えしたことが真実であると分かるでしょう。それは常に道理にかなっており、それ以外の方法はあり得ません。

皆さん、これらの言葉に落胆することはありません。人生の問題に疲れ果て、そこから自分を解放したいという願いから、自己認識の道を歩み始めることが良くあることは理解できます。しかし、ちょっとした努力だけで、外側から幸せをもたらしてくれる大きな変化を期待するのは、自らに対して正直と言えるでしょうか?内側から大きく変わらない限り、外側が大きく変わることはないという前提から始める方が、より現実的で、ひいてはより信頼できると思いませんか?それを達成するには、あなたの努力が望んでいる変化に直接結びついていなければなりません。努力と望ましい変化の関係を見極めるには、自らに対する最大限の正直さが必要です。別の方向に努力の重点を移すことで自らを欺くのは簡単です。例えば、他者の為の取り組みに多大な努力を注ぐ人もいます。これは良いことだし、称賛に値し、必ず成果があるに違いありません。しかし、自らに向き合うこととは何の関係もありません。同様に、内側の抵抗を誤魔化す為に、外側で多大な努力を惜しまない人もいるでしょう。結果を左右するのは自らと向き合い、自分自身を変えようとする内なる意志のみです。内なる意志が求めるもの、又は求めないものを知るには、深い瞑想が必要です。

この道でワークし始めたから困難が無くなるという考えは、この道を歩んでいるから更なる困難が増えるという考えと同じ様に間違っています。どちらの間違いも、地球上の様々な思想流派(学校)によって表されています。人生そのものが学校です。この学校のカリキュラムは、外側に顕現したあなたの内的人生の条件で成り立っています。肯定的状況も否定的状況も含まれます。内的人生での肯定的結果を理解し、前向きに受け入れることは、時により難しい場合もあります。あなたの中に否定的で誤った側面が内在すると、人生の最高の状況でも最悪の状況でも、十分に人生を受け入れることが阻まれるかもしれません。霊的心理的な道を歩んでいるか否かに関わらず、外的現象が肯定的なものから否定的なもの、そして又肯定的なものへと周期的に変化するリズムは、あらゆる人間に当てはまります。前にも述べたように、この二種類の人たちの唯一の違いは、正しい方向で探究する人が、肯定的現象と否定的現象の両方に対して異なるアプローチを学ぶということです。こうして初めて、探求者は徐々に自らと人生を極め、制御できるようになります。より深く、より意味深い人生経験を得ることで、この制御は現れます。 「良い」と「悪い」の絶え間ない変化は、この点において無知に生きている人が見落とす意味を明らかにします。従って、探求者あるいは求道者は、自らの進歩度合いにより、人生の本質をより完全な次元で体験するでしょう。

内に在るものと向き合う人は、それによって人生を違うように理解し始めます。しかし、そのように向き合わない人も、人生が与える経験から学びます。後になるまでその経験の重要性には気づかないかもしれませんが、言ってみればそれらは積み重ねられていくのです。どちらのタイプにも、浮き沈みは等しく不可欠です。これは原因と結果の法則の一部であり、あらゆる存在に等しく当てはまります。従って、霊的心理的ワークへの努力を少し行うだけで人生の落ち込みから逃れる、あるいは更なる困難がもたらされると主張する理論は完全に間違っています。

このテーマについて明確な理解が得られると、未熟で利己的な人々が楽な人生を送っていそうなことを不当だと感じなくなるでしょう。今回はたまたま長続きしていたとしても、単に好ましい外的現象の期間が体験されているだけだと分かるでしょう。同時に、あなた自身や、道を歩む他の人々が困難を克服しなければならないこと、あるいは「一生懸命努力した」のに「道がうまく作用しない」ことも不当に感じることは無くなります。

友よ、違うのです。今この道を歩んでいるからといって、困難が増えたり減ったりする訳ではありません。あなたが今直面している困難は、その広範囲にわたる重要性を自ら十分に認識しているかにか関わらず、未だあなたの中に在る内なる傾向によって少し前に撒かれた種の果実なのです。しかし、その重要性を意識すればする程、困難への取り組みは容易になり、より建設的な対処が為され、困難は自らを弱体化するものではなく強化するものとなるでしょう。

友人の皆さん、繰り返しますが、この件に関しては、意識的であれ無意識的であれ、自らの考えを見直すことが非常に重要です。希望的観測ではなく、真実に基づいて見直してください。あなたは無意識の内に、最小限の努力だけで自らと向き合い、古い有害な傾向や内なる反応を意志的に変化させ手放そうとし、その見返りとして最大限の好ましい変化を期待しています。神に求めるこの不当な要求に気づき、それを変える時、自らを発見する為に神が与える助けは、常にあなたの努力を遥かに超えるものであったと気づくでしょう。それは、本当に無条件にそれを決断した時です。しかし、あなたの努力は心からの超越的なものでなければなりません。

この道でワークを始めた直後に人生の困難が頂点に達したとしても、それは始めたばかりだから起こった訳ではありません。いずれにせよ、問題は生じていた筈です。あなたの意識的マインドよりも遥かに多くを知り、先を見通すことができる心は、この頂点が間もなく訪れることを知っていました。ついに開かれ、顕現した逸脱の頂点に対処するよう備える為に、あなたの心の知識がその時にこのような道にいられるよう導いたのです。あなたが探求することを選んだのは、内なるニーズがあなたをその方向に引き寄せ、このように伝えようとしたからです。「今探求しなさい。これら全てが意味することを見つける為に道を歩みなさい。そうすれば時が来た時に、深い絶望に引きずり込まれることなく、あなたの知識を最も建設的に活用できるでしょう。」

自己探求の道では、人は困難さへの対処のみならず、幸せへの対処法も学びます。人間存在の事実と人生の意義について、未だに暗闇と無知の中にいる人は、悪い出来事と同じように良い出来事にもうまく対処できません。どちらも、知恵、成熟、霊的知識が必要です。それは、 探求を建設的に進めることができるよう、自己認識への真の動機を与えてくれます。

このテーマに関して何かご質問はありますか?

質問:このワークとその検証がうまく進むと、潰瘍やその他の肉体疾患が消失することがよくあります。他の感情的な問題も解消されるかもしれません。不幸な結婚生活が良く変わる場合もあるでしょう。つまり、本当に取り組めば、そのようなことは起こります。

回答:ええ、その通りです。それが起こらないとは言っていません。実際、何らかの変化が起こる筈です。内側の変化が成功すれば、外側の変化も必ず起こるということは明確に言いました。私が伝えたいのは、多くの形而上学的な傾向を持つサークルには、誤った考えがあるということです。彼らの霊的進歩の尺度は、人生で不運が起こるかどうかです。確かに道の途上で問題は解決されるでしょう。しかし、それ以上の問題が起らないという訳ではありません。理解してもらいたいのは、トラブルや病気、その他の困難が依然として起こるという事実によって、ワークの価値や努力の価値は決められないということです。それは基準ではありません。基準は、あなたが問題にどう反応するのかなのです。

質問:付け加えても良いですか?私は、古い問題が残っている可能性もあると思います。もしそうなら、それは確かに大きな変化が起こっていない兆候です。一方で、古い問題を解決しても、新たな問題が生じることもあるでしょう。これは、進歩が何もなかったことにはなりません。

回答:確かにその通りです。ある程度受け入れられ、変化した古い問題と、新しい問題が間接的に繋がっている場合もあります。その影響は無限に多様であり、それが見つけられていないのかもしれません。

質問:身勝手さを手放す度合いと、病気の間には繋がりはありますか?

回答:勿論、身勝手さが生み出す内なる緊張を手放すことと、健康改善には繋がりがあります。身勝手さであれ、その他の誤った結論や傾向であれ、どのような逸脱からでも内なる緊張は生み出されます。しかし時々、逸脱や緊張があまりに根深く、少なくとも今生においては、その全容を意識上に完全に上げることができない場合もあります。あまりにも深く根付いている可能性があり、今生を終えた後にも、継続的なワークが必要となるかもしれません。達成できることは全て、あなたの資産として残ります。「今生では全てはできない。」と絶望して諦めるよりは、少しずつ進んでいく方が良いでしょう。同じく「後で時間はあるから、今は気にしなくても良いだろう。」と言うのも正しくありません。有害な傾向が深まれば深まる程、困難になります。又、内側の緊張を最大限に緩和しても、外側の症状が既に進行し過ぎており、疾患全体を緩和できないケースも考えられます。そのような場合、疾患は残るかもしれませんが、その人の内的な進歩に比例して、肉体的にも精神的にも苦痛は軽減されます。このテーマに関してお伝えしようとしたのはそのことです。

自分自身に十分に向き合い変化できるよう、内的意志が最も建設的に機能し、期待通りに進歩することは間違いなく可能です。それでも、他の人々と同じ様に、いつかあなたにも病気やその他の問題が降りかかるかもしれません。これは、まだ検証する機会がなかった程の根深い問題によって生じたものかもしれません。その顕現が現れた時に、検証する機会も現れるのです。

さて、友人の皆さん、ここで少し違う話に入りましょう。

今夜お話ししたいふたつ目のテーマは、抑圧されがちな創造的で正当な欲望と、それがもたらす問題に関連しています。前回の夏休み前のレクチャーでは、その概要を説明しました。今回は、普遍的で、少なくともある程度は誰にでも当てはまる具体性を示したいと思います。

愛されたいという欲望は、全ての人間の魂に存在します。この欲望そのものは、正当で健全なだけでなく、独自の形で創造的であり、創造性へと導くものです。愛の欠如は、魂の創造力を麻痺させかねません。愛されたいという魂のロンギング(憧憬)を成就する為に、人間はしばしば誤った方法を選択します。これはひとつには、このロンギングが無意識であることに起因しています。理性や現実と照らし合わせて対処できない限り、それは機能不全に陥り、結果として欲求不満が生じます。では何故、この欲望は多くの場合に無意識なのでしょうか?まず、その理由を検討してみましょう。

子供の愛への欲望には制限はありません。子供は、そのように排他的で無限の愛への欲望は誤っていると感じさせられます。その結果、子供は欲望への罪悪感を抱きます。排他的で無限の愛は非現実的であり、その欲望が未熟であるのは事実です。このことの誤った結論は、愛への欲望そのものが誤っていると考えることです。正しい結論は、「私がこれまで望んでいたタイプの愛は誤っている。そのような愛はあり得ない。しかし、私には愛されることを切望する権利がある。私が正しく成熟した方法で愛することを学べば、それは起こり得る。」 と感じることです。

この点における最初の誤解は、愛されたいというロンギングを恥ずべきものだと考えることです。従って、そのロンギングは葬り去られます。埋められることで、多くの不幸な結果や影響が生じるのです。

「私の場合、そのロンギングは全く埋もれていない。完全に自覚している。」と思うかもしれません。確かに、ある程度はそのロンギングに気づいているかもしれません。それでも尚、あなたは内なる悲しみ、満たされない切望、欠けている愛の代用品を求めて悲しみを覆い隠しながら戦う、内なる葛藤に部分的にしか気づきません。その戦いはあなたを疲弊させ、達成したいと願う結末そのものを阻むような反応を引き起こします。皆さん一人ひとりが、それぞれの方法で、これがどう自分に当てはまるのか、この普遍的な葛藤と自らの葛藤が、どのように、何処で、繋がっているのか理解する必要があります。

愛への切望と、それを抑圧することの恥にも関わらず、この騒々しい声を完全に黙らせることはできません。その声はあっても操作的な形でしか出現できず、あなたが切望する愛を手に得られない原因となります。しかし未だ、あなたはそのことに気づいていません。「愛されたいと望むのは間違っている。私には愛される権利などないし、愛される価値もない。だから愛を得られないのだ。」と心の奥底で信じているのです。しかし、決して止むことのない声は、他の人があなたを愛しにくくするような態度、独自の誤った方法で戦い続けます。もし、その誤った求め方を止めれば、真のあなたは愛され得るし、愛されるのだと気づくでしょう。そして、悪循環は断ち切られます。

さて、この誤った方法とは何でしょうか?あなたは、愛されることへの欲望の代用品として、認められ、輝き、他者よりも優れ、人々に印象を残し、重要でありたいと願います。どういう訳か、愛されたいという欲望よりも、こちらの方が恥は少ないように思えます。従って、あなたは絶えず自らを証明しながら人生を過ごします。代用品は、他の様々な形をとります。人々を同意させ、あなたの足跡に従わせる、あるいは、あなたの方が人々に同意し、世論や特定の人々の意見、又は彼らの意見だと思う何かに常に同調している証を立てる必要性を感じるかもしれません。それは必ずしも同じ形ではありません。これら全て、そして他の多くのことは、愛されたいというあなたのロンギングの単なる代用品に過ぎません。

しばしば見られる、同調して「従順な子供」であろうとする傾向もこの葛藤の一部です。以前検証した、自分自身の意見を形成するというテーマ全体が、この葛藤の一部です。多くの人は、特定の環境で現れる各傾向を少しずつ持ち、タイプの異なる人といることで別の傾向が前面に出てきます。愛されることへのロンギングに代わる傾向は他にも沢山ありますが、全てを列挙することはできません。

あなたの内面では状況は次のように見えます。あなたは本来の欲望に気づいていません。最初は、自己証明の戦いという代用品の欲望にさえも気づいていません。遅かれ早かれ、このワークを進める内に、承認を得る為に戦おうとする傾向が自らの内に常に存在することに気づく筈です。それでもまだ、それが何を隠しているのか分かりません。この特定の気づきに達した人、あるいは間もなく達しようとしている友人達は、それら全ての背後にあるものへの気づきが非常に役立つことを感じるでしょう。何かを証明したいという衝動は誰の中にも存在しますが、その程度は人それぞれです。自らの内にその存在を確認した後であっても、この衝動の本質を理解しない限り、解決策は見つからず、この衝動的な戦いを手放すことはできないでしょう。しかし、これらの言葉の助けを借りれば、正しい方向で探ることができ、満たされない悲しみの存在を知性的に理解するだけではなく、それを感じるようになります。これは良いことです。そうすれば、自らが認められる為、何かを証明しようと戦うことが、あなたを自己中心的で、高慢で、傲慢で、尊大にする、あるいは不健全に従順にさせ、恨みがましくしていることに気づくでしょう。もしあなたが代用品の積み重ね全体から自由であったならば、愛される可能性もあったのに対し、上記の葛藤全ては、人々があなたを愛さないという悪影響を強く招きます。もしあなたが、本来のロンギングを感じ、この欲望が暗示する「屈辱」や「弱さ」を恐れず、魂に不健全な影響を与えることなど決してない単純な悲しみを感じることを恐れなければ、あなたは人生の充実に大きく貢献するでしょう。愛されるのに不十分なのは自分ではなく、あなたが人為的に作り上げた代用品の積み重ねなのだと気づくでしょう。そうすれば、有害な自己憐憫に浸ることなく十分に成長し、受け取るべきものを受け取ることを妨げる傾向を取り除くことができます。

あなたは更に、自らの戦いが全く無駄であることに気づきます。本物ではないものは成功をもたらしません。本来の願いを覆い隠す蓄積された層は本物ではありません。例え、あなたが戦っている、賞賛、承認、他の何であれ、一時的に手に入れることに成功したとしても、それは不満足や後味の悪さを残すでしょう。あなたは失望するに違いありません。何故なら、それは永続的なものではなく、あなたが望んでいる程多くの人々から与えられるものではないからです。しかし何よりも、それはあなたが真に望むものではないからこそ、充足を得ることができないのです。あなたのフラストレーションや不幸の根底には常に、この葛藤があります。

あなたはまるで生命の危機に瀕しているかのように戦っています。内側でそうしているのです。愛されたいという本来の欲望や、可能な限り愛されていないという悲しみに気づけるようになる前に、この葛藤を認識する必要があります。誰かに同意されない時、あなたの感情がどれ程頻繁に、どれ程不釣り合いに反応するか考えてみてください。しかし、もし誰かが心からの優しさをもってあなたを愛し、温かさや柔らかさでそれを表現してくれていることを深く確信していれば、意見の相違は問題ではありません。皆さん一人ひとり、そのような出来事を思い出せるでしょう。それが、私の言葉が皆さんに当てはまることの証拠となる筈です。

自らの内にあるこれらの感情を認識した後、あなたは自分が本当は望んでいない何かの為に戦っており、その必死な戦いの激しさに見合うだけの成果は決して手に入らないことを理解します。何らかの方法で自分自身や何かを証明しようとするこの戦いが、どのようにあなたの中の最悪の部分を引き出すのか、具体的に見つけましょう。それは一体何なのでしょうか?あなたが思っている以上に、その認識の痛みは少なく、遥かに解放的です。何故なら、それによってあなたは、自らが望む程に愛されないことの理由が分かるからです。それがあなたのありのままではなく、そうせざるを得なかった訳でもないと理解します。これはむしろ、あなたを励まし、力づけてくれるでしょう。

要約すると、あなたは心の奥底では自分が愛されるような人間ではないと信じています。それに向かい合うのを恐れるあまり、魂のより深みに入ることに強い抵抗を仕掛けているのです。そもそもあなたには、愛を欲しているのに手に入らないことが、究極の恥のように思われます。あなたはそのように信じています。愛を望んでいるのに、望むような形や度合いで愛されないという無意識の確信に気づくより、自らの欠点に向き合う方が遥かに容易です。あなたの心は、健全で成熟した愛と、あなたの魂が切望している真の愛ではない、不健全で未熟で依存的で弱い「愛」を区別する方法をよく知っています。心は後者の影響を軽視しますが、代用品の誤った解決策に頼ることで、待ち望んでいる成熟した愛を受け取れなくなることに気づいていません。

この恥は非常に大きく、多くの場合、あなたが遠ざけようとする真の奈落なのです。それは、多くの葛藤や抵抗、様々な欠点の原因となります。しかし、最初の恐れや恥を乗り越えれば、この奈落に足を踏み入れることが、すぐに解放感、爽快感、高揚感をもたらすことが証明されます。

愛されることへの欲望は、子供っぽい排他性や一方的な感情を取り除けば、それ自体が完全に創造的なのです。非現実的で不健全で有害なのは欲望そのものではなく、その実現方法です。

このことについて、何か質問はありますか?

質問:このことについての正しい取り組み方を説明して頂けますか?

回答:はい。第一段階は、この内なる欲望が自らにあり、それがどの程度あるのか知ることです。この点において、自らがどの程度不満なのかを完全に自覚する必要があります。又、代用品についても完全に気づいている必要があります。承認を求めて絶えず戦っている感情を経験しなければなりません。いかなる瞬間においても、それが何であろうとも、証明したいという衝動に気づくようにならねばなりません。数回程度ではなく、この自己認識に達し、この複雑な感情が常に自らの内でどのように機能するのかを理解できれば、それに対処し始めることができます。しかし、日々の反応、感情が自己表現する多くの微妙な方法をまずは十分に経験せねばなりません。デイリーレビューや自己観察において、この「証明」に集中してください。それは、調べられ、分析され、益々意識化されねばなりません。この葛藤の規模がいかに大きく、予想を遥かに超えることに、あなたは驚かされるでしょう。自らの内に起こるこれらの反応を観察する度に、その背後にあるものが少しずつ理解できるようになります。何故あれこれと自らを証明することが、それ程に重要なのかと自問するでしょう。あなたの知性、成功、何であろうとあなたが証明しようとしているもの全てを人々が賞賛することが、何故それ程に重要なのでしょうか?あなたは又、他者に同調しようと努める、微かな傾向も見つけるでしょう。この傾向を具現化した弱さを見出し、その原因を理解し始めます。これら全てが感情の中で探求され、体験されるべきものです。この見せかけ全体の背後に、あなたは自らの愛されたいという欲望を必ず見つけるでしょう。

あなたは必ずしも、認めて欲しいと願う対象の人々の愛を望んでいる訳ではないかもしれません。人生に、特定の愛の対象がいないかもしれません。しかし、成熟した状態で正しく愛されたいという欲望は、承認や自己証明を求め、世界に感銘を与えようとする戦いに隠されながらも、あなたの中に生き残っています。あなたは、自分が本当は何の為に戦っているのか理解します。大まかに言えば、これがこの領域での発達や成長の最初の重要な段階です。このことの知的な知識に何の意味もないことは、いかに強調しても足りません。この方向に向かって、自らの感情を一歩一歩経験していかねばならないのです。

このプロセスを通して、自己証明の為の闘争的な流れを手放すことを学べます。あなたの感情は、トラブル以外の何ももたらさない慰みに耽溺するという、無駄で疲れる内なる戦いを放棄することを学ぶでしょう。この戦いを手放せば手放す程、あなたは解放と新たな力を経験します。最早、背負う必要のない厄介な重荷が取り除かれたと感じるようになります。

自己証明の為の戦いが減るにつれ、あなたは成熟した真の愛への道を整えていきます。成熟したマインドは、愛とは無償に与えられる愛だけだと理解できるようになります。あなたはまず、他者がそう望むなら、他者があなたを愛さないことを許すでしょう。それがあなたを悲しませたとしても、それによってあなたが緊張したり、強迫的になったり、張り詰めたりすることは決してありません。この悲しみは自己憐憫から自由であり、真の苦難となることはありません。従って、あなたが不快にさせられることもありません。あなたは内心では常に、他者に自分を愛させようとします。外側を覆っているのは認められたいという気持ちですが、最終的な分析では、自分を愛するように他者を強要したいのです。そして、強要された愛は、愛ではありません。あなたの内なる子供はそれが分かりません。しかし、これらの感情的な流れを認識するにつれ、かなり明確に「あなたは私を愛すべきだ。」と言う内なる流れを見つけるでしょう。不健全なそれぞれの動機がある弱い人々は一時的に屈服し、あなたの命令に従うように見えるかもしれません。しかし、そのような反応は、あなたを空虚に失望させるだけです。何故なら、それはあなたが真に求めているものではないからです。強制的な流れが解消されない限り、真に求めているものは得られません。強く成熟した魂は、強引に服従させられることはありません。それは、自由の中でのみ機能するのです。更に、あなたは命令に従う相手を真に尊敬することは決してないでしょう。あなたは、自らを自由に愛してくれる人しか尊敬しません。しかし、この無償の贈り物を経験できるのは、無理強いしない時だけです。意識に感知されずに強制的な流れが機能している限り、あなたは愛という無償の贈り物を経験することはできません。ですから、まずは誰かがあなたを愛さないことを選ぶなら、それを許して相手を自由にしなければなりません。とはいえ、それを喜ぶ必要はありません。悲しみに向き合えば、それがあなたを傷つけることはありません。そしてもし、誰かが自由に愛を与えてくれたとしたら、その恩恵はとてつもなく大きく感じられます。そうしてあなたは、唯一存在する真実で価値ある愛を受け取る機会を自らが否定していたと気づくでしょう。友人の皆さん、どうか誤解しないでください。愛することを他者に強要すると私が言うのは、あなた側の意識的な行動を指しているのではありません。私は感情について話しているのです。人々に対するあなたの感情的反応を翻訳してみれば、それに相当することが分かるでしょう。

あなたは他者が間違えたり、あなたに同意しなかったり、あなたが認められない弱さを表すだけでなく、あなたを愛さないことの自由も相手に与える寛大な態度を学ぶでしょう。あなたの本来の欲望、フラストレーション、その欲求不満の中であなたが何をするのか、そして自らの内なる強制的な流れを意識していれば、あなたは真の愛という無償の贈り物を奪うのはこのプロセスに起因しており、あなたが十分ではないからではないと明確に分かるでしょう。そうすれば、皆さんは上昇の道にいます。

これらの言葉が、皆さん一人ひとりにとってより深い次元での新たな段階の始まりとなりますように。今夜お話ししたことが、より深く理解できるよう祈ってください。最も神聖なる者の名において祝福されますように。あなたの解放の道を平和に喜んで歩んでください。喜びと忍耐をもって成熟と現実へと向かってください。諦めずに進む皆さん全員が、今年のワークから多くの成果を得るでしょう。祝福を受けてください。平和の内に、神の内にありなさい。


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