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Pathwork in Japan
No.71 現実と幻想 集中の訓練
Pathwork Guide Lecture No. 71
1996年版
1960年10月14日
現実と幻想「集中の訓練」
REALITY AND ILLUSION—CONCENTRATION EXERCISES
親愛なる友人の皆さん、こんにちは。あなた方とそれぞれの大切な方々に神の祝福を。
全ての霊的な教えや哲学は、顕在の世界は幻想であるという点で同意しています。唯一の現実は、あなたの地球圏を超えて存在します。これは地理的な問題ではなく、意識の問題です。人間にとって絶対的な現実を完全に知覚することは不可能ですが、この道における自己探求のワークで内なる対立や葛藤を解消し、意識を高めることで、ある程度は感じることができます。ワークの過程で、あなたは自らの感情とその意義に気づきます。そして、これまで抱え込んできた無意識の誤った概念を見つけます。あなたが生きてきた感情的な非現実に気づくことで、現実に近づくのです。これが唯一の道です。勉強したり本を読んだりしても、絶対的な現実を感知することはできません。例え古今東西の偉大な知恵を学んだとしても、あなたの内なる世界に真の根拠はありません。
自らの内の非現実性に気づくこと、つまり、自らの概念がいかに真実ではなく、今もおそらくは真実ではないと知ることで、あなたは現実とその全く異なる質感、そして普遍的な特徴の瞬間的な認識を探り出すのです。
肉体に転生した人間としてアクセスできる相対的現実で生きる能力は、あなたの精神的成熟と感情的成熟にかかっています。そして、成熟はあなたの愛する能力と意欲にかかっています。愛を恐れ、愛することを望まず、愛することができなければできない程、あなたは非現実、あるいは幻想の中で生きることになります。
これらの言葉を額面通りに受け止めても、何の役にも立ちません。現実で生きることがいかに本人の成熟度にかかっているか、又、その成熟度がいかに愛する能力にかかっているかを少なくとも理論的に理解せねばなりません。従って、このことを詳しく説明してみましょう。
これまでのレクチャーでは「愛されたい」という正当な欲望についてお話ししました。又、あなた自身の未熟な部分である内なる子供が制限のない愛を求め、その愛への欲求を承認欲求等の様々な他の欲望で覆い隠してしまうこともお話ししました。人が未熟であればある程、愛することの(見たところの)リスクを負わずに、愛されることを切望します。愛することを恐れれば恐れる程、愛されたいという欲望は大きくなります。この食い違いが大きくなる程に、あなたはこの葛藤の中で、又この基本的な問題から生じる他の葛藤の中で引き裂かれてしまいます。最初の、そしておそらく最も困難なステップは、この非常に深い問題が確かに存在すると気づくことです。これが見つかる時、戦いの最も難しい部分は終わります。そうすれば、与えるつもりがないものを要求することがいかに非現実的で不公平なことか比較的容易に分かるでしょう。愛されたいという欲望は、自らが求めるだけ与えられる準備ができている時にのみ正当なものとなります。これが現実です。与えたいと思う以上のものを求めることは現実的ではありません。又、愛されることを望まないと主張するのも現実ではありません。中には、これまで引きこもっており、表面的な満足感に囚われ、自らの内奥の渇望に気づかない人々もいるでしょう。そのような人々の無自覚は自己欺瞞であり、それ故に幻想です。
これら全てを考慮すると、あなたは周囲の物事を異なる視点で観察し始めるでしょう。本物の温かさを放ち、社交的で、その愛が本当に感じられるような人は、相手に満たされたり、認められたり、同意されたりする必要がないことにも気づくでしょう。一方、恐れで愛から、そして人生からも退く人は、その分だけ愛されたいという大きな欲望を抱えています。これは方程式であり、均衡が保たれている筈なのです。そうでない訳はないのです。これは、あなたが愛する時に愛されたいと願ってはいけないという話ではありません。しかし、あなたの欲望がより緩まり、それ程差し迫ったものでなくなるのに応じて、あなたが緊張や不安に苦しむことも少なくなるのです。
ちなみに、愛することへの恐れの大きな原因となっているもうひとつの誤解や幻想は、おそらく無意識の内に抱く、真の愛は永遠に報われないものであり、真の愛を証明するには自らの個人的な高潔さ、正当なニーズ、尊厳を放棄せねばならないという考えです。このテーマについては別の機会により詳細に扱います。あなたがどうして誤った極端を用いて、それがもう一方の極端を避ける唯一の手段だと信じ込むのかお話ししましょう。
現実に近づくチャンスを得るには、自らの隠された感情や非現実の全てを鋭く認識するべきです。もしかしたら、全くそれに気づいていないかもしれません。従って、これらの言葉を聞いたり読んだりしても、自らの内に響くものを感じないかもしれません。実際、これらの言葉を考えている時、少しでも不快な反応を感じるとすぐに扉を固く閉めてしまうかもしれません。あなたは自分にこう言い聞かせます。「ああ、これは私には当てはまらない。」そして、あなたはこの言葉が明らかに当てはまる他の多くの人々を思い浮かべます。友よ、気をつけてくさい。これは、自らの内にある非現実を見ようとしない確かな兆候です。それでは、どうしたら現実をほんの僅かでも垣間見たいと望めるでしょうか?高次に霊的で絶対的な現実を見つける近道はありません。あなたの非現実的な内的世界を現実のものに変えることによってのみ到達できるのです。自らの混乱や誤認に向き合うつもりがなければ、それは不可能です。自分自身と向き合うことを避ける為に、扉を閉ざしてしまう傾向に注意してください。
従って、皆さんにお伝えしたいのは、隠された具体的な感情を見つけ出すことです。その言語を理解できるよう学んでください。その意味を分析しましょう。この方法でのみ、私がここでお伝えしていることが真実であると分かります。
現実は真実であり、目に見えるものを遥かに超えています。現実の中にいればいる程、あなたの理解は深まります。内的人生のある領域では比較的現実にいる一方で、別の領域では深い非現実の中にいるかもしれません。後者の領域では表面的な事実だけを見て、より深い繋がりを無視するでしょう。このように、あなたの状況のより広大な真実は暗闇の中にあるのです。
一般的で簡単な例を挙げてみましょう。仮にあなたが誰かに傷つけられれば、相手の言葉や行為は実際に苦痛です。しかし、起こったことばかりに集中し、その出来事の背後にある理由を無視している限り、あなたは傷ついたままです。それを完全に理解した瞬間、それ以上傷つくことは不可能となります。皆さん全員、そのような経験をしたことがあるでしょう。それなのに、同じ落とし穴にはまり続けています。自分自身を理解することで、他者を理解できるようになることは、もうご存知でしょう。理解は痛みを消し去ります。何故なら、それがあなたを真実、あるいは現実へと導くからです。真実があなたを自由にする、と言うのはこの為です。だからこそ、自分自身と真っすぐに向き合おうとする時の内なる子供の抵抗は全く理不尽で有害なのです。
非現実、つまり幻想は、あなたに不幸、混乱、緊張、恐れをもたらすに違いありません。現実、つまり真実は、あなたに幸福と自由をもたらすに違いありません。真実を自分に不利なものと見なして、自らの非現実と向き合い変化することに抵抗するのは、それ自体、非現実的なのことです。これを信じていれば、あなたは抵抗しない筈です。更に、幻想を継続するには、あなた自身の大変な努力が必要です。幻想は単独では成立しないので、常に緊張とストレスをもたらします。幻想を維持しようとする努力は、多くの悪循環と連鎖反応を引き起こします。
自分の感情を理解できるようになるにつれ、外の出来事を違うように評価するようになります。外の出来事は確かに現実ですが、これまであなたがそれらの出来事に付加していた感情的な重要性は非現実的なものでした。
愛することへの恐れが、愛されたい、認められたいといった切迫した欲望を生み出せば生み出す程、その欲望が満たされることを期待して、より硬直し、より緊張した幻想の形を構築します。このプロセスは繊細で、様々な形で起こります。
例えば、特定の誰かに愛されたい、感銘を与えたいと切実に願うなら、あなたはそれが叶う状況を想像します。幻想的な解釈の中で好ましい兆候の全てを見るのです。例え、あなたが望む愛や称賛を実際に得られたとしても、現実の中のそれに、その相手特有の雰囲気や特徴には気づきません。長期的には、現実があなたの理想と合致しない為、あなたは現実に不満を抱きます。無意識の内に、あなたはできる限り幻滅に抗い、幻想を維持しようと苦闘します。あなたは常に、ありのままの現実が自らの考えと一致しないことを疑い、危険を感じているのです。現実のあらゆる兆候があなたの幻想とぶつかり合い、あなたを失望させ、その結果、あなたの中に無意識の敵意を生み出しています。
敵意は必ず相手に影響を与え、相手はあなたの幻想を維持できなくなるような反応を示すでしょう。幻想の喪失は、あなたの中の真っ黒な視界をもたらします。特定の誰かに愛されたいという切実な思いが、幻想的な解釈の原因です。しかし多くの場合、そのような解釈は必要ありません。実際には、そのような解釈は決して必要ないのです。何故なら、例え相手の事情が原因であったとしても、相手があなたの望みに応えられないことを受け入れ、相手を手放すことの方があなたにとっては良いからです。しかし大抵は、自由に、焦ることなく、つまり、関係性がどうあるべきか、あるいは他者がどう反応すべきか等の非現実的な先入観を持たない時にのみ、あなたは自分の望みを叶えることができます。そのような自由の中では、他者のやり方に柔軟に適応でき、相手や状況を自分の考えに合わせて形づくる必要がないと気づくでしょう。
従って、このプロセス全体を通して、あなたの反応には明白な非現実性があります。自分の解釈に当てはまる「好ましい」兆候は過大評価されます。現実が正当化する以上の喜びを生み出します。それは相手があなたを嫌っているということではなく、単に相手の反応があなたの認識とは異なっているということです。あなたは非現実の中にいます。起こった出来事があなたの解釈に合っている場合にのみ喜べるからです。反対に、それが当てはまらない場合のあなたの壊滅的な失望も同様に非現実的です。この状態がもたらす多くの反動や影響は、現時点で話すにはあまりにも多すぎるでしょう。
自分がどのように非現実を創り出しているのか気づくには、まず、あなたが意識しないようにしている小さな失望の数々に気づくことから始めねばなりません。これはひとつには、あなたが自らを欺く傾向があり、不快なことに直面したくないからです。又、そこまで失望する程のことではないと理性で分かっているので、そのような子供じみた反応への罪悪感があるのです。しかし、あなたの反応が正しいか間違っているかに関わらず、意識をこの方向で訓練することが不可欠です。あなたはもう、目を背けたところで幼稚さが消えるものではないことはご存知でしょう。多くの小さな失望に気づくことで、自分がこれまで子供としてどのような反応をしてきたか、自らを観察するようになっても内心では反応していること、その結果、相手の最も否定的な部分を利用して、自らの怒りを正当化していたことに気づきます。先日お話しした個人的に色付けされた主観性に気づき、あなたが生きる特殊な非現実が見えてくるでしょう。
前回お話しした客観性vs.主観性は、現実vs.非現実の一側面です。あなたは自らの幻想を養いたいという強く切実なニーズの為に、主観性つまり非現実を創り出していることを理解しなければなりません。幻想へのこの切実なニーズは、全てを自らの思い通りにしなければ済まない、あなたの内なる子供の強制的な流れから生じます。友よ、これらは全て微かなものです。ですから、表面的な正しい反応に惑わされないでください。人生におけるあなたの問題が何処にあるのかを考え、それに関わる自らの感情を発見し、自らの内にあるこの強制的な流れを探し出してください。あなたは必ず見つけられるでしょう。
あなたが自らの強制的な流れを手放し、大きな内なる緊張から解放される分だけ、あなたは自由に何かを受け取れるようになります。それは、内なる子供が望む程に早く達成されるとは限りませんが、あなたが想像するだけの、あるいはそれ以上の価値があるかもしれません。実際、何かを受け取る時、受け取るものの価値の大きさは、それについて自分自身が何処に立脚しているのかの気づきの度合いに大きく左右されます。
この方向で道を進むにつれ、欲しいものが手に入らないこと、常に手に入る筈がないことが、以前程の苦悩や絶望をあなたの内に引き起こさないことに気づくでしょう。しかし、先程お話ししたように、まず、外的なことであれ、あなたに対する他者の反応であれ、思い通りにならないことであなたが失望を感じてきたことに気づかねばなりません。そして、この無意識の失望があなたに何をさせたのか理解せねばなりません。そうして初めて、自らの強制的な流れと、自ら創り出した幻想を手放し、真に価値あるものを自由に受け取ることができます。あるいは、それを受け取らなくても、その損失はあなたの内なる子供が考える程、悲劇的ではないことが分かるようになるでしょう。
ここで難しいのは、あなたが知性的に私の言うことに直ぐに同意してしまい、同意できるが故に、必ずしも表面上には現れるとは限らない、内面の矛盾した感情の切迫性を見過ごしてしまう可能性があるということです。それが内面に存在するだけで十分なのです。
このような難しい状況では、あなたは他者に対して非現実的な印象を抱いています。あなたを喜ばせてくれれば他者の価値を高め、そうでなければ価値を下げたいという誘惑があるからです。あなたが相手に対して抱いている印象が非現実的なのは、あなたの気分で強調しているものが必ずしも間違っているからではありません。部分的に主観的理由から良い面を見ると、その人の本当に良い面が見える可能性がありますし、悪い面を見ると、本当に悪い面が見えるかもしれません。あなたの印象が非現実的なのは、相手の良い面や悪い面を強く見ようとするあなたの潜在的な動機が原因です。そして、いずれの場合も、その人全体に対するあなたの認識は歪んで一方的なものになる為に、非現実的なのです。
あなたは又、出来事や他者の反応の重要性について、非現実的な考えを持っています。繰り返しますが、いくら知的には理解していても、感情的にはこの瞬間も、あなたにとってその出来事は不釣り合いな程の重要性を持っています。従って、あなたは現実における人々や出来事の質を理解できていないのです。
結局、最も重要なのは、子供じみた感情が気づかれずに関わっている時には、時間の質に関する概念が誤っているので、あなたは非現実の中にいるということです。あなたの中の子供は、今この瞬間に起こることの重要性を誇張しています。子供は、その瞬間の移り変わりや全体的な質を見ていません。目の前の痛みや喜びしか知らず、比較的近い将来、これらの強い感情がその影響を失うことを忘れているのです。どれだけ知的な知識があっても、この点においてあなたの感情は、未だに子供じみた反応をします。あなたに今何か不快なことが起こったとして、暫くすれば、その失望のことなど思い出すこともないだろうと分かっているのに、あなたは落ち込みます。これは、あなたの内なる子供が、まるで動物のようにその瞬間に反応するのです。過去も未来も知らない為に、出来事の真の意義、言い換えれば何が起きているのかという現実の価値を判断する力が欠けています。
私はよく「今を生きる 」という表現を使います。他の何事でもそうですが、これには、正しい方法と誤った方法があります。
人生が完全に絶望的に思えた最近の気分を思い出して、それから数か月後の今の人生を振り返って見れば、その気分がいかに非現実的であったか判断できます。もしかしたら又、絶望的に落ち込んでいるかもしれませんが、その理由は以前のものとは異なる可能性も十分にあります。いずれにせよ、少し前にあなたを完全に打ちのめしたものに、今もそのような力はあるとは限りません。これは、何らかの出来事の意義を、時間の一側面である永続性と関連づけて評価することがいかに非現実的であるかを示す良い例です。
今を生きることの誤った生き方は、あなたの内なる子供がその瞬間の意義を誇張することに起因します。あらゆる人間に降りかかる本物の悲劇でさえ、後から振り返ると、その出来事の発生時とは全く違った感じ方になるものです。「時は全ての傷を癒す」という言葉は、少し距離を置くことで、その出来事の質や意義をより現実的に、あるいはより真実に近い味方ができるという意味で有効です。
こうして、内なる現実に近づき、人生に出会う準備があり、愛することを恐れず、強い身勝手さの流れを手放すことを恐れない成熟した魂は、感情を成熟させることによってのみ得られる真の無執着をもって、悲劇にさえも向き合えるでしょう。真の無執着とは、個人的にどう見られるかが重要性を失うにつれ、人生や愛が最早危険にさらされなくなることを意味します。それは、無意識の中ではびこる子供じみた幻想的な恐れに、正しい概念を無理やり重ね合わせることでは決して得られません。成熟した魂は勿論、悲劇の瞬間的な衝撃を、その悲しみと関連する重要性とともに感じますが、同時にそのはかなさも認識し、その全体的な意義を純粋に評価します。従って、困難はそれ程大きくはならないでしょう。
あなたの内なる子供の誇張や、人生の出来事に対する白か黒かの歪んだ二元的認識は、更なる葛藤をもたらします。それは、あらゆる人間がある程度は持っている自らをドラマ化する傾向です。それが顕著な人は勿論います。しかし、それが全く明らかになっていない人もいるのです。後者の場合は、その傾向が隠され、巧妙にカモフラージュされ、合理化されているので、それを見つけるのは非常に困難です。この傾向を見つける唯一の方法は、やはり、自分自身の気分や感情が何を語り、何故それを語るのか分析することです。
例えば、ちょっとした励ましや褒め言葉が、その現実での価値とは見合わない、理不尽な喜びや満足感で心が舞い上がったり、現実の批判でも、想像上の批判でも、暗黙の批判でも、ちょっとした批判であなたの一日が台無しになったりすることに気づくかもしれません。このような白黒二元的な態が、あなた自身をドラマ化する原因です。あなたは、自分に関連する周りの世界を過剰にドラマ化するだけでなく、無意識の内にもっともな理由から、それを意図的に助長しています。あなたの内なる子供は、常に注目を求めて騒いでいるので、あからさまに、あるいはさりげなく、自らのドラマを駆使して他者を従わせようとします。繰り返しますが、これは必ずしも外的な行動によって行われる訳ではありません。むしろ、あなたの内的反応はそのように働きますが、それを実行する勇気がない為、あなたは益々フラストレーションを感じます。従って、あなたは周囲の世界を空想の中だけに押し込めるのです。そして、非現実を構築します。
ポジティブな現象であれば、それは問題ではないと思うでしょう。「小さなことで大喜びする分には、それで良いのでは?」私はそうは思いません。その喜びが非現実的なものであれば、失望感は更に壊滅的になるでしょう。従って、他のあらゆる点と同様にこの点においても、現実と非現実とを区別することを学ばねばなりません。喜びを無理やり押しのけろという意味ではありません。落ち込んだ気分や、その他のネガティブな側面を見るのと同じ様に、ユーモアを持って、少し距離を置いて見るのです。あなたの中の子供が働くのをただ観察しましょう。その存在を完全に認識した後でも、それを強制的に追い払うことはできないのです。
否定的な側面をドラマ化することについてですが、あなたは自らの状況を非常に悪く見せることで他者の同情や注目を集め、彼らにあなたの思い通りにさせ、あるいはあなたの思い通りにならない人々に敵対させることで味方にしようとします。これは非常に微妙に行われます。繰り返しますが、これらの感情を認識するには、自分自身に完全に正直でなければなりません。例え、表に出さないように努めたとしても、心の奥底の声はこのように言っています。「可哀そうな私を見て。私がどんなに苦しみ、どんなに不当な扱いを受けて、全てがどんなに完全に悲惨なのか。」あるいは逆に、このように言っています。「私がどんなに悪いかを見て。私の邪悪さを認めさせ、私がどんなに正直にそれを示すのか見せて、私が望む称賛を与えさせよう。」ドラマ化には様々な形がありますが、それは常にあからさまであろうと隠されていようと、自己重要性を高める為の誇張の形であることに変わりありません。
何処で、どのように自らをドラマ化しているのか、その背景に何があるのか、この幻想の世界の特定の側面を見つけることは、あなたにとって大きな価値があるでしょう。そして、自らの感情に更に問いかけてみましょう。「目的は何?私は本当にそこまで悪いと信じているのだろうか?」
問題は十中八九、あなたは自分が落ち込んでいることすら気づいておらず、ましてやその理由も然りです。従って、まずは毎日、自分が本当は何を感じているのかを自問自答することから始めましょう。殆どの場合、落ち込みを隠すことができないならば、あなたは手に入れやすい理由を探し求めます。あるいは、「私が何故落ち込んでいるのか分からない。」とさえ言うかもしれません。しかし、真剣に探せば、個人的な軽視や、自らの意志に沿わない何か、内なる子供が失望と感じる何かが、必ず見つかることでしょう。
では、この強制的な流れがなくなると、あなたはどのように現実に戻り、より安全な幸福と平穏な状態へと導かれるのでしょう?もし強制的な流れがなく、自らに確信があれば、例え批判が実際に存在したとしても、それは幻想の痛みに過ぎないということを必ず経験するでしょう。そして、我儘で、自己中心的で、極端で、不当な要求をする内なる子供があなたの中にいる限り、あなたは自らに確信を持つことはできません。こうして、あなたは悪循環に陥ります。批判はあなたの心に深く響きます。何故なら、それがどんなに根拠のない批判であっても、心の奥底では、内なる子供が成熟することを助ける勇気が自分に欠けていると自分自身を批判しているからです。この成熟のプロセスを通して子供の否定的な側面を手放す分だけ、あなたは自信と確信を増し、自らの内奥の拠り所となる明確で現実的な概念を獲得します。自尊心を高めることで、他者からの承認への依存度は次第に低下します。それでも時折、非難されることがある場合、例え相手が真実の核心まで突かなかったとしても、あなたはそこに少しでも真実が含まれているかどうか探してみるでしょう。それを見つけた瞬間、正当な非難も不当な非難も最早、苦痛ではなくなります。このような姿勢でいれば、批判や非難を恐れることはなくなり、強制的な流れも解消されるでしょう。
もし、あなたが必要とするものが承認ではなく無条件な愛で、その愛が手に入らないとしても、少し悲しくなるかもしれませんが、あなたの人生はそれに左右される訳ではありません。望むように愛されないのは、あなた自身の問題、愛せないこと、そして愛への恐れの結果であることに気づくでしょう。又、あなたの中でゆっくりと成長している子供が長い間、例え微かであっても軽視されたと感じる時に敵意と攻撃性を生み出し続けてきたことにも気づくでしょう。更に、これらの感情の流出が、相手の否定的反応に大きな貢献をしていることも分かるでしょう。これらの洞察は、あなたを解放し、あなたの成熟のプロセスを更に進めます。
強制的な流れが取り除かれると、これら全てを見るでしょう。かつては痛みだったものが、最早そうでは無くなります。時折失望に見舞われても、以前程の絶望は抱かなくなります。真の洞察力を得て、現実へのアプローチによってのみもたらされる自由を得るでしょう。
人間関係で相反する感情がある状態になると、人は自らの願望を満たす空想を創りだす傾向があります。これは、昔から続いている関係でも起こります。自らの為により楽しい世界を創ることで、あまりにも暗い現実から逃避するのです。これは事実ですが、それだけではありません。この逃避は悪循環の一部なのです。現実がこれ程までに暗いのは、まさにあなたの強制的な流れ、皆に認められたいという誇張された欲求の為です。それが現実を耐え難いものとし、あなたは空想的な状況をでっち上げて幻想の世界に逃避します。このような空想をでっち上げれば上げる程、終わりのないこの悪循環に陥ります。現実があなたの空想にどう当てはまるというのでしょう?それはあり得ません。従って、例え非常に好ましい状況であったとしても、実際の出来事はあなたを失望させる筈なのです。何故なら、子供時代の幻想的な世界の一部は、即座の満足を求める欲望、忍耐の完全な欠如だからです。忍耐力が欠けていると、あなたが定型化した状況とは違う小さな何かが起こる度に失望、ひいては敵意が生まれます。私がお伝えしたように、例えお互いが気づいていたとしても、敵意は相手に影響を与えずにはいられません。こうして、あなたは自らに起こるかもしれない好意的な状況の全てを妨害し、台無しにしてしまうのです。
空想でつくり上げられた、先入観に基づいた想像上の状況は、強制的な流れと自己中心性の産物です。これから解放された時にのみ、あなたはどの瞬間でも、自分や周囲に関わる真実のヴィジョンと理解を得られます。
この強制的な流れがなければ、固定化された状況を思い描く必要はなくなります。硬直した期待を持ったり、期待に反した結果に失望したりすることもありません。あなたは柔軟に現実に向き合えるようになります。隠れた敵意や恨みを抱えることもなくなります。相手はあなたのオープンさを感じ、自然発生的で自由な状況がゆっくりと育まれます。
親愛なる友人の皆さん、この全てを見つけ、変えることは、あらゆる人間関係において最も重要です。これは、あなたの内的人生全体に当てはまり、従って最終的には、あなたの外的人生にも当てはまるのです。
これらの言葉のより深い意味を本当に理解すれば、おそらく現実という言葉が実際に何を意味するのか理解し、ある程度の体験ができるでしょう。それは、恐怖からの解放、そしてより大きな幸福と安心を意味します。これは、感情的な成熟があってこそ実現します。感情的な成熟とは、愛する意志と能力がある状態です。従って、現実と愛する能力は、直結しているのです。又、強制的な流れは愛する能力を低下させることも私達は知っています。この事実は、理論的にも、個人的にも、具体的にも、あなたにとって明確なものにせねばなりません。愛することへの恐れが、どのようにあなたを引きこもらせるか。引きこもることへの罪悪感を、あなたが心の奥底でどれ程感じているのか探りましょう。又、この罪悪感を償う為に、他者にあなたを愛することを強いる必要をどれ程感じているのかも探りましょう。それはまるで、愛されていることが、隠された罪悪感の声が誤りである確証であると言うかのようです。愛する意志がないことから生じる内側の空虚さを見つけてください。あなたは他者に愛されることで、その均衡を取ろうとしています。これらの理由全てから、強制的な流れは、非常に巧妙で隠された方法ではありますが、強く作用します。あなたのワークの過程で、これらの感情や反応全てを認識した時、私がここで何を語っているのか、より深く理解できるようになります。
強制的な流れがなければ、好きなようにあなたのことを感じる自由を相手に与えるでしょう。そのようなマインドの状態で成熟した愛に近づくと、あなたは他者により多くを与えるようになります。与える方法は、必ずしも同じ形にはなりません。場合によっては、自らの意志が通されなかったにも関わらず、愛情が示されることかもしれません。あなたの中で歪んだ状態が蔓延していた間は、他者に与えることができなかった自由を相手に与えることになります。自らの意志が満たされるかどうかに関わらず、相手に自由を与えることで、あなたは人間としての基本的な敬意を示すことになります。こうして、善循環が続きます。あなたが持っているが故に与えられる、このような内なる自由の中で、あなたは現実を知覚できます。その時、あなたが想像し、強制的に望んだ状況とは対照的に、遥かに大きな規模で現実の状況を経験するのです。
成熟した愛の意味については、混乱が蔓延しています。今夜のレクチャーでも、これまでのレクチャーでも、その点については触れてきました。あなたの理不尽な恐れを解消する為に、後ほど詳しく見ていきましょう。今のところ、これだけはお伝えします。あなたはしばしば、真実の愛とは自らの自尊心や尊厳を捨てることだという誤認の下に苦しみます。あなたは、他者の最も利己的な部分に屈しなければならないと考えるのです。当然、あなたは反発します。しかし、あなたの更なる誤認は、愛から完全に身を引くことが解決策だと考えることです。その為、あなたはふたつの極端な状態の間を揺れ動くのです。関係者全員にとって不健全で、正反対の極端な態度である愛とは無縁な従属的な態度でいるか、あるいは孤独で満たされない状態になる殻の中に引きこもるかのどちらかです。しつこく絶え間なく続くあなたの高次の良心の声は、引きこもってはいけないと強く訴えます。しかし、この声に耳を傾けることができません。何故なら、思考は混乱しており、ましてや感情も言うまでもありません。
このテーマに関しては、いずれより詳しくお話しすることになるでしょう。今は達成できない理想という観点からではなく、より実践的な観点からです。誤認に基づく理不尽な恐れから、皆さんが何処で、どのように逸脱しているのか見ていきます。そして、正しい概念とあなたの逸脱を比較してみましょう。
私の言葉から本当に恩恵を受け取るには、自らの感情を体験し、その言語を理解する必要があります。このことは、いくら強調しても足りません。そうすることで、あなたはより穏やかになり、変動を受けにくくなり、結果として、感情は現実とより調和するものとなるでしょう。このようにして初めて、あなたは絶対的な現実の真の意味とは何か、何故この地上の世界が幻想なのか、言葉では言い表せない形でゆっくりと感じられるようになります。この言葉を単なる言葉として聞いている限り、そして自らが非現実の何処にいるのか気づかない限り、この言葉は何の意味も持ちません。自らの非現実を見て、それを解消することによってのみ、宇宙的、霊的、絶対的な現実の感覚を時折探り出せるかもしれない扉にゆっくりと近づけるのです。
現実を認識すること以外に、知性とは何なのでしょうか?優れた知性を持つ人々もいるでしょう。それが機能している時は、彼らはある種の現実の中にいます。機能していない時には、彼らは混乱の中に沈み込み、現実から遠ざかります。知的な人々の困難の大部分は、自らが非現実の中にいることを認識していない所にあります。しかし、知性が少ない人も又、自らの現実性の欠如に気づきません。精神的、感情的な健康こそが現実です。あなたが不健全であればある程、あなたは非現実の中にいます。あなたは真実を見ていないのです。
先程「今を生きる」には、子供じみた不健全な方法と、成熟した建設的な方法があると言いました。後者は、あなたに平和、調和、平穏、そして想像を超える人生経験の充実をもたらします。正しい方法で「今を生きる」ことは、その瞬間、その意義、その真実を完全に認識することを意味します。「そうかもしれない」あるいは「そうあるべき」を望むのではなく、ありのままと整合することで、この気づきを手に入れることができるのです。言い換えれば、硬直的に築かれた想像上の状況は現実を妨げ、又人生がその瞬間に与える必要があるものをあなたが十分に経験することをも阻みます。今を生きれば、空想は存在しません。既成の状況などありません。例え時折困難があったり、退屈だったりしても、あなたは柔軟に感動し、その瞬間と共に生きます。あなたは完全にその瞬間にいるのです。ここに! 今!
現実にそぐわない概念を変える為に自らの感情を分析することに加えて、少し前にお話しした集中力の訓練も非常に助けになります。この訓練は、インナーワークの代わりではありませんが別な大きな助けになります。私が言ったことを思い出せば、これが「今を生きる」為のもうひとつのアプローチであることが明確に分かるでしょう。私は無思考の状態に集中する様々な方法を教えました。それは、漠然とした背景思考の霞の中に思考を漂わせたり逃がしたりするのではなく、まさにその場に居続ける方法です。自分から離れるのではなく、自分の中に在りながら考えない状態を習得するのは難しいことです。これがとても難しいという事実は、あなたがいかに今を生きていないか、どれだけこの瞬間の現実からかけ離れているのかを示しています。
現実に生きている程、あなたは無思考の状態で自らを観察しながら、自分自身と一緒にとどまることができるでしょう。勿論、内なる障害を見出すことを怠り、単なる規律を以ってこれらの訓練の効率を比較的高めることもできるかもしれません。このような熟練は確かに、あなたが既に自由である部分の機能は高めますが、規律だけでは障害となる領域を取り除くことはできません。そのような領域では混乱や非現実が持続し、あなたが人生を十分に体験することや、あなたの能力や創造性を十分に発揮することが妨げられます。だからこそ、両方のアプローチが好ましいのです。内なる探求と変化は不可欠であり、このような訓練の助けがなくてもあなたをゴールに導くことはできますが、訓練はより効果的な追加要素となるでしょう。これは明確に理解する必要があります。
これらの訓練を行う際に遭遇する難しさで、落胆したり諦めたりする必要はありません。辛抱強く続ければ、例えほんの少しの時間であっても、最終的には成功します。それは良い始まりとなるでしょう。この訓練があなたにもたらす効果は、私達が行っている他の種類のワークと併せて行うことで、今あなたが気づいているよりも遥かに価値があるものとなるでしょう。
集中力を高める訓練について、更にいくつかアドバイスをしたいと思います。残念ながら、友人の皆さんは集中力を高める訓練を本来の効果が出る程は実践していないようです。皆さんは、この点で少し怠慢なところがあり、これは残念なことです。
そこで、成功しやすくなる方法をいくつかご提案します。多くの人は、自らに最善な方法を見つけるまで、様々なアプローチを試さねばなりません。数分座ってこのような訓練に取り組む際は、まずあなたの気分を観察してください。性急だったり、焦ったりしていないか観察してください。そして「私はどこへ急いでいるのか?」「この訓練に数分費やすことで、私は何を逃すと思うだろうか?」と自問してみてください。 この焦りの非現実性に気づきましょう。あなたの中には、これは時間の無駄だという何かしらの気持ちがあるのです。それから、実際どれ程の時間を殆ど自覚していない空想や、取るに足らないとりとめのない考えに浪費しているのか考えてみてください。しかし、5分やそこいら座ることにすると「これは時間の無駄だ。」とあなたは感じます。それより大事なことが沢山あるのです。その感情がとんでもない幻想であることに気づいてください。このような態度や気分を観察し、少し距離を置くことで、ある程度の平和とくつろぎを体験できるでしょう。
心身ともに完全にリラックスしたら、次にできることは目を閉じて、そこに座っている自分を見つめることです。まるで自分の外にいるかのように、あるいは誰かがそこに座っているあなたを見ているかのように集中しましょう。着ている服装、どのような姿勢か、顔の表情はどうかを見ます。友よ、これは自己中心性ではありませんし、自己中心性に繋がるものでもありません。これは単に、客観的な自己観察です。これをすることで、間違いなくあなたはより穏やかになる自分に気づくでしょう。このように自己観察をすると、普段は気づかない表情を発見するかもしれません。例えば、口元が下がっていたり、肩が落ちていたり、あるいは無理に力を入れて不自然に肩を張っていたりするのを感じるかもしれません。
他者を注意深く観察するように、全てを観察してください。長く続ける必要はありません。その後、前に私が提案した訓練のいずれかを行ってください。あるいは、もう少し高度な訓練を試してみてください。こちらの方をより簡単に感じる人もいるかもしれません。何も考えていない自分自身を観察します。どんな考えが浮かぶのか気をつけてください。これは、今この瞬間からあなたを遠ざける背景思考を防ぐ為の最良の方法のひとつです。まるで、ある種の境界の上で身構えて警戒しているように感じられるかもしれません。例え30秒でも成功すれば、素晴らしい効果が得られるでしょう。
数秒後に集中の糸が切れたとしても気にしないでください。焦ってはいけません。もう一度始めて、何も考えていない状態を観察しましょう。そこにある空虚を観察するのです。成功すればする程、自分がいかに現在に存在し、その瞬間に気づいているのか分かります。漠然と漂い、大抵は無関係な思考の霞の中に存在している訳でも、夢の世界に存在している訳でもありません。制御されていない思考プロセスという非現実の中へと漂い去る時、あなたは自己とその瞬間に十分に気づいていません。つまり、非現実の中にいるのです。漂い去る時にある背景的思考は、常にあなたから遠ざかっているのです。あなたもそれを観察するでしょう。
この練習に成功した後、例え短時間でも、祈りや瞑想、あるいは潜在意識に指示を与える素晴らしい機会が得られます。その時、あなたは完全に開かれ、受容的で生き生きとしているからです。あなたは、自らの成長段階において最も必要なことを考えながら、より良く考えをまとめることができるでしょう。最近見つけたことや、あなたを悩ませている何かについて混乱や不確かさを感じる時は常に、これらの集中訓練の後が、あなたの問いや混乱を述べるのに最適な時間です。これは常に、必要な解明を得る為の第一歩です。そのような時、あなたは又、自らと向き合って必要に応じて変化することに対する抵抗を全て脇に置くという意図を表明するのも良いでしょう。その方向に向けてそのような指示を発する時、神に助けを求める時、潜在意識の反応を最も良く観察できるのはこの時です。あなたの潜在意識はどの程度の協力をするでしょう?自らの内にあるあらゆるものと無条件に向き合いたいという欲望があれば、潜在意識は協力します。あなたが不安や心配を感じ、そのような洞察を制限したいと思っている場合、あなたの内なる子供が抵抗していると分かります。そしてこれは、自分自身と自らの最善の利益に有害なことは、今や既にお分かりのことでしょう。
もうこれ以上「警戒」を続けられないと感じる度に、そのような指示や意図を明確な前景思考で発声するのも良いでしょう。思考がぼんやりとした霞の方へ流れて行きそうになる時、その瞬間こそ自分自身を捕らえるのです。そうすれば、意識的で価値のある前景思考で建設的に考え易くなります。
この道で、私が今導いている方向にあなたが進みつつ、両方のアプローチを用いることで、あなたは緊張や恐れ、多くの不要な重荷から解放されるだけでなく、一瞬一瞬をより生き生きと感じられるようになります。あなたの反応は、より自然発生的で健全になり、直感はより信頼できるものになります。
このテーマに関連しては、きっと多くの質問があるでしょう。共に詳細を話し合えるよう、このことについて考えてみてください。これは容易なテーマではないことは承知しています。自らのワークの中で今日お話しした感情に未だ出くわしてない人にとっては、それは捉えどころのないものでしょう。その場合、これらの言葉は探求の方向性を示してくれる筈です。ブロックがなければ道は上手く進み、多くの側面が引き出され、それらを異なる角度から理解できます。言い換えると、あなたのワークの自然な流れは、私がここで述べた要素を明らかにし、その解明に私の言葉はきっと役に立つでしょう。しかし、特定のワークのプロセスを無理矢理進めることはできません。探求が有機的に進めば、各段階で取り組むべき全ては明らかになります。今日、そして最近のレクチャーでお話ししたことは全て、何ヶ月にもわたるワークの材料になり得ます。そのように努めれば、あなたは自由を手に入れるのです。
親愛なる皆さん一人ひとりに神の祝福を。皆さんに与えられた力と祝福が、現実に近づく助けとなりますように。平和の内に、神の内に!
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