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No.77  「自信」その真の源とそれを阻むもの

Pathwork Guide Lecture No.77
UNEDITED版
1961年1月6日


「自信」その真の源とそれを阻むもの
SELF-CONFIDENCE -- ITS TRUE ORIGIN AND WHAT PROHIBITS IT 


 親愛なる友人達よ、こんばんは。皆さんお一人お一人に祝福をお届けいたします。共にするこの時間に祝福を。
 今夜のテーマは自信です。自信とは一体何でしょうか。皆さんの真の在り方、真の自己、そして直感的な本質が顕現するとき皆さんの中に不確実さはなく、自分の反応や行動に何の疑念もなく、揺らぐことがないのではないでしょうか。自発的かつ瞬時に起こる反応は、自分の奥深くで「これは正しい、これはそう、正しい」とどこまでも完全に分かっている、そういった性質を持っています。少なくとも時には、こんな感覚が皆さんにも起こったことがあるのではないでしょうか。大抵皆さんの真の自己を覆っている心をかき乱すような層がありますが、この層によって制約を受けず、真の在り方が表現され顕現することが特定の状況下では起こるのではないでしょうか。状況がどのようなことを皆さんに要求していたにせよ、皆さんはそれに応じることができたのではないでしょうか。可能だった唯一の方法で、その出来事に対処したのではないでしょうか。そして一点の曇りもなく、どこまでも完全に自分は正しいと分かっていたのではないでしょうか。
 
 本当に健康で成熟した人間はほとんどいつもこのような形で反応をします。こうした反応が起こると、本物の自信が自動的に確立します。なぜなら直感という本質が皆さんを導き、行く先を示すときにのみ、皆さんは自分を信じることができるからです。皆さんの中のこうした部分には、誤りや幻想、衝動といった幾重にも重なる層から生じるような恐れはありません。恐れはさらなる幻想や誤りに繋がるだけだからです。つまりさらなる動揺に繋がるだけということです。

 私達が取り組んでいる自己探求の究極的な目的は、上から被せられたこうした層から皆さんを解放し、真の自己が人生を統制し動かすことができるようにすることです。そうすることで自分の中の葛藤やイメージ、誤解や内なる問題がいかに真の自己の顕現を阻止しているのかが把握しやすくなるのです。これについてはもう少し具体的にお話ししようと思いますが、現段階ではすべての内なる問題や逸脱、葛藤や幻想の根本的な原因が何であるのかを明確に理解する必要があります。

 何よりも先に次のことをお伝えしたいと思います。今皆さんが取り組んでいるワークを行う中で次のような疑問を感じることが多くあるのではないでしょうか「私の真の自己は一体どこにあるのだろう。それは一体何なのだろう」と。真の自己をあたかも距離的に離れたところにある、遠くにあるものかのように考え、どこか遠い場所に(もちろん自分の内の、ということではありますが)探しに行ってはじめてそれが目の前に現れると思ってはいないでしょうか。真の自己は皆さんにとって謎の何かで、それに対して多少の畏怖を抱き、この真の自己が姿を現した暁にはそれは完全に奇妙で新しいものとして映るだろうと想像しているのではないでしょうか。つまり真の自己をほんの少し恐れているということです。これほど真実からかけ離れたことはありません。皆さんは自分の真の自己を知っています。真の自己は自分から遠いわけではありません。何も怖いことはありません。それ以上に、真の自己はぴったりと皆さんの横にあり、言うなればすぐ鼻の先にあるのです。ただ大抵の場合皆さんがこれに気付いていないだけのことです。真の自己を本当の意味で活用していませんし、真の自己ではないその他の慣れ親しんだ自己を表に出すことを好みます。真の自己ではないこうした他の自己は、幸せになるために、そして単に生き延びるために表現しなくてはならないと皆さんが無意識のうちに思い込んでいる衝動的な原動力や欲求で構成されています。このレベルから生じるものが何であれ、それらは皆さんの真の感情を表してはいません。皆さんの真の感情は皆さんのすぐ横にある真の自己から生じるものであり、真の自己は皆さんに必要なものです。つまり真の自己の力を活用することを止め、真の感情の代わりに他を活用するということは、皆さんの直感的な本質が出現することを阻止します。

 建設的なワークをある程度行い、有効な洞察が獲得できるようになると必然的に、今お話ししているような衝動的な流れが自分の中にあることに気づくことになります。あたかも自分から切り離された異質な物質が自分の中にあるかのように、明瞭に感じ取ることができるようになります。するとこれまでのすべての間違った結論やイメージはこの基盤ともいえる力、これまでに私は同じものを無理強いする力とも呼んできましたが、こうした力の産物なのだと理解します。無理強いする力はそして、人生に対する基本的な誤解に基づいています。

 今お話ししている文脈でこの内容を包括的に把握するためには、これまでにお伝えしてきた内容をまた別の角度から繰り返す必要があります。同時に、ここにお集まりの方々の中の何人かはすでに今夜お話しすることを自分の内に見出しているということも指摘しておきたいと思います。私が今からお話しすることはこうした方々にとって新しいことにはならないとは思いますが、見出したものを強化し、形をより明確にし、より強く焦点や意識を向ける手助けとなることでしょう。無理強いをするこうした力をまだ見出していない方々にとっては、もしくはその力のほんの一部のみ見出したような方々、つまりこうした力がいかにすべての基礎であるかに気付いていない方々にとっては、自由を手に入れ、抑制や不確かさを緩め、結果的に真の自己が出現するのを許すという欠かすことのできない地点に到達するために今私がお話しすることがためになるかもしれません。しかしここで再度強調したいのは、単なる理知的な知識は決してじゅうぶんではなく、求めているような自由をもたらしてはくれないということです。この道を歩むことに誠の努力を費やしている方々は今お話しする内容に具体的に取り組む準備が整う段階に近づいていることでしょう。これはお話ししているような方向ですでにある一定のものを自らの内に見出している方々に限ったことではありません。

 さて、すべての葛藤や逸脱を引き起こすものを見ていきましょう。ひとつ前のレクチャーでお話しした内容の要約を、おおまかな見解とすることができます。つまり葛藤や逸脱を引き起こす原因は幸せになりたいという欲求や愛されたいという欲求だということです。幸せになるためには愛されることが必須条件ですから、これが皆さんの中にある衝動的な原動力の大きな部分を占めることになります。そしてその下に分化する形で、認められ賞賛されたいという欲求があります。これは愛されたいという欲求に含まれるかもしれませんし、それとは別のものであることもあるでしょう。しかしここにはまた別の側面があるのです。皆さんの中にいる子供は、皆さんの意志が実行されてはじめて自分は幸せになると思い込んでいます。時にこうした意志は、愛されたいまたは賞賛されたいという欲求を単に意味することもあるでしょうし、人生のまた別の側面を含むこともあります。つまり皆さんの近しく愛しい人々に特に何か自分が支持しない欠点がある、または自分とは異なる意見を持っており、自分が目的を達成することを阻止しているために不幸せさを感じているのかもしれません。こうしたことのすべては、皆さんの意志に反することです。事実の上でもまた主観的にも、人生におけるすべての不利がここに含まれます。つまり皆さんの中にいる子供はこれが自分の幸せを阻止していると考えるのです。

 つまり皆さんは、深くに隠れ、ほとんど意識で感じ取られることのない信念を抱いて子供時代から今へと成長することになります。「幸せになるためには意志を実行しなければならない」と。個人的な気づきでもってこの隠れた信念を見出さないかぎり、本当の意味で皆さんが求める自由に到達することはできません。理知的な概念や信念が現実にうまく調整されていても、深くに隠された感情と相反する度合いが大きいほど、深く根差したこの誤解を掘り出すことは難しくなります。この誤解は硬く緊張した力を生み出します。私が無理強いする力と呼ぶものがそれに当たります。この力は絶え間ない葛藤や緊張、そして不安を生みます。この側面に皆さんが無意識であるほど、皆さんの心理の中では強力になります。無意識ではあっても、自分の意志を達成することは生きるか死ぬかの大事なのです。意志を達成できないということは、私が本当によくお話しするどん底を意味します。意志が通らないことは絶滅なのです。もちろん無意識にこう感じているということです。この感覚はあまりに強いため、意志を達成できていないことを認めもしないことがままあります。自分が本当に欲しかったものを自分はもう欲していないと、考えうるすべての方法で偽ります。これは単なるプライドではなく、自分が欲しいと思っているものを獲得できないことは恐怖であり、暗闇であり、不幸せであり地獄だという誤解に基づいています。

 同時に、これまでに発達を遂げてきた意識の部分では、いつも欲しいものが手に入るはわけではないと気づいています。これは葛藤に追加の要素をもたらします。つまり自分の意志が達成されない、または幸せになれないという皆さんの中では同意義であるこうした脅威を、皆さんの心理はさまざまな形で乗り越えようとします。しかしこれは意識の光の下で追及されているのではなく無意識に行われており、完全なる誤りの前提に基づいているため(自分の意志を達成することと幸せは同じだという誤りです)解決を求める無意識のこうした努力は効率的でないばかりか目覚めの過程におけるさらなる葛藤を生み出します。

 こうした内的な努力は一方では達成を求める方向に向けられていますが、また他方では常に不成功に対して恐れを抱くことになります。「失敗」を自分自身から隠す方法を探すために骨を折ります。つまり力はふたつの方向に流れ設定され、ひとつは皆さんを前へ前へと押し、人生や他者、状況を無理に自分の意志が望む方向へと騙します。つまり自分が望む通りにはすべてはいかないという現実を制覇しようとするわけです。人はさまざまな形でこれを成し遂げようとします。多くの場合で人は複数の方法を一度に行う選択をしますが、これらが相いれないことに気付きません。そして自分が望むものを常に手に入れることがもし可能であったとしても、自分のしていることが目的の達成の敗北へと繋がることに気付きません。これが故に人は人生が実際に人に与えるより遥かに少なくしか保持していません。したがって自分が欲しいものを常に手に入れるために人が採用するさまざまな方法を使うという不合理な状況を生み出し、この葛藤なしに得られるよりも少なくしか手に入れることができないのです。

 自分が欲しいものが手に入らないのではないかというこの力のもうひとつの方向、つまり恐怖は(もしくは、決して手に入ることはないといった信念とも言えるでしょう)さきほど述べたのとはまた別の方法を採用するように人を促します。つまり敗北主義でネガティブな姿勢のことですが、ふたたびこれも、通常手に入るはずの獲得を妨害します。

 潜在する核や、在りもしない現実に打ち勝つために取るさまざまな方法は非現実であり、本物ではありません(求めているものを常に獲得している場合も、望むものを決して獲得できない場合もどちらも当てはまります)。すべての衝動や人を走らせる原動力はそれと同じくらい非現実、空想であり、完全に非効率的で有害です。こうしたものは皆さんの真の自己を上から覆っている層です。そして真の自己は現実でのみ機能します。人が創り出す幻想の世界、つまりは誤った仮定に基づく世界では機能もしなければ顕現することもできません。皆さんの直感的な本質が顕現し、深く平和な確信の感覚を経験するときはこれが故にいつでも、何かを無理強いする力からは解放されているはずです。

 真の自己、そして真の感情は創造、神、人生、運命、宇宙的な生命力、生命の流れ、そして現実とひとつであり同じです。現実では、望むものを常に手に入れていなくても皆さんは不幸せに感じません。すべての人があなたを愛していなくても、賞賛していなくても不幸せではありません。他者がいつもあなたに同意していなくても、皆さんが耐えられる以外の欠点を人が持っていたとしてもあなたは不幸せではないのです。本当に望むものを決して手に入れることはできないという信念もまた、現実ではありません。自分は決して愛されることはない、尊敬されることもないというのは現実ではなく、人生や世界はあなたに敵対しており、周囲に提供しようとする自分の最善が展開されるのを妨げているというのもまた現実ではありません。格闘する必要はなく、人生の危険を避けるように撤退する必要もありません。欲しいものを手にするために懇願することも、泣くことも、服従することも、魂を売ることも必要ありません。今述べていることは内的で非常に隠された形で常に起こっています。絶え間ない敗北から身を守ろうとする姿勢もまた、皆さんの無意識が頻繁に見逃すものなのですが、これも不要です。このすべてが真実でないことを皆さんの真の自己は分かっています。不必要である完全に無駄なこうした葛藤を真の自己は残念に思うのです。非現実で本物ではなく、真実でない、衝動が機能しなければならないという皆さんが身を置く世界では、真の自己は進化することができません。非現実の中で真の感情が機能できないのと同じくらい、真の自己はもはや現実で機能することができなくなってしまいます。
 
 皆さん、これでもまだ自分が自信を欠いていることに驚きを感じますか。皆さんが稼働しているレベルにおいて自分を信頼することはできないと、皆さんの最奥の自己は完璧に知っています。このレベルにおける信頼は正当ではありません。なぜなら不真実に基づいている被された層は満足のいかない偽りの解決にしか繋がらないからです。幸せになるためには常に自分の意志を遂げなくてはならないという考えから自分を解き放たないかぎり「これがほしい」という流れからは自由になれません。そしてこの流れがなくならないかぎり本物のレベルから人が稼働することはありません。本物のレベルでは幸せは自分の手に入ると知っていますが、必ずしも自分が求めている形ではないことを理解しています。現実においては待つことや、時に諦めることは皆さんを不幸せにはしないのです。こうした不幸は空想です。粗悪な幻想です。

 もしも皆さんが人生の流れと調和していれば、調和に身を預けていれば、皆さんのところに何がやってこようとも、障害なく前へと皆さんは運ばれていくことでしょう。しかし非現実において皆さんは、同じくらい誤りであるたったふたつの代替案しか知らない状態にあります。ひとつは「すべてが求めている形で、求めているときに起こるのでなければ自分は幸せにはなれない」というものです。そしてもうひとつは「これまであまりに多くの場合で欲しいものが手に入らなかったということは、これからも決してそれを獲得することはできないということであり、自分は決して幸せにはなれないということだ」というものです。つまり幻想のレベルで稼働しているのです。そして幻想や不真実があるところには絶え間ない不確かさがあるということであり、絶え間ない緊張、不安、葛藤、疑念があるということです。皆さんの中の何かしらが、安心してつかまることができるものが何もないと深く感じているということです。これはある意味では正しいと言えるでしょう。この幻想に留まるかぎり現実は持続できません。現実とは安全で、皆さんの存在全体を必ず安全で満たすものなのです。唯一安全で確かな拠点となりえるのは、常に柔軟な人生の流れが持つ真実であり、この真実は小さな望みを遂げることからは永遠に独立しています。

 自分を信じることができなければ人生を信じることはできませんし、世界や神を信じることはできません。つまり友人である皆さん、皆さんを終わりなく先導する真実ではない前提を取り除くことによって、お話ししているような内なる現実を確立することができ、必然的に自分を信じることができることでしょう。つまり人生の流れを信じられるようになるということです。こうしてはじめてこの流れがどれだけ、人生のそれぞれの段階で必要なものと足並みをそろえているか、どれだけ完全に正しいか、気づくことでしょう。この流れと真の自己はひとつですから、信頼して自分をこの流れに身を預けることでしょう。今お話ししていることはしかし、運命論者的なものではありませんし、自分では何もせずにただ待つという受け身な態度でもありません。健康的な能動性と受動性の良きバランスを自動的に生み出します。言い訳や偽りの解決のような不健康なものではありません。

 「これが欲しい」と内で声高々に主張する緊張した核に遭遇したことがある方は、今私がお伝えしている言葉を「感じる」ことができることでしょう。さらに先へと皆さんを誘うのを助ける深い理解を、言葉から引き出すことができることでしょう。言葉は皆さんに新たな見解をもたらすことでしょう。こうした核をまだ見出していない方々も、もしここで行っているワークを忍耐すれば、遅かれ早かれ見つけることでしょう。今お話ししている方向で探求をするべきです。お話ししている辛辣で緊張して硬く、また同時に揺らぎ、ためらいのある「これが欲しい」という流れを見出すのです。何かを手に入れるため、もしくは獲得できないという恐怖から身を守るために自分がいつも頼りにしている手法を見出しなさい。

 いつも指摘するある内的な姿勢をここで繰り返しお話ししたいと思います。少なくともその中のいくつかを取り上げ、今お話ししている文脈からお話ししたいと思います。今のところ皆さんは、今お話ししている内容とこうした姿勢が直接的に関係しているということをじゅうぶん明確に理解はしていないのではないでしょうか。むしろそういった姿勢は無理強いする力の結果生じるものだと理解していないかもしれません。つまり「自分が欲しいものを手に入れなければ自分は幸せにはなれない」という根本的な誤解の結果なのです。

 私はよく服従する態度や従順さについて説明をしますね。こうした従順さにおいて皆さんは、他者からの愛への期待にしがみついています。他者からの愛を獲得するために自分自身や意見を断念します。自分を主張しません。常に自分を不利な立場に置き、品位や自尊心を失います。こういったすべては無私や犠牲、または人を愛する能力として正当化され、おざなりにされます。しかし実際は最も露骨に自己中心的な形で無理強いする力を使っていることになるのです。単に安売りをしているのであり「私があなたに服従する代わりに、あなたは私を愛し、私の思い通りにしなければならない」と言っているのです。外的には従順で柔軟なように映るかもしれませんが、内的にはまったく反対です。どれだけ奥に隠れたものであろうと、反転していようともこうした側面を自分の内に見出さなければなりません。そしてさらに必要なのは、こうした服従の態度がいかに今回のレクチャーでお話ししている内容に適用されるかを理解することです。決して服従と愛を混合してはいけません。表面は似ているかもしれませんが、内容はとても違っています。相手の欲求を満たしなだめるとき、皆さんは相手から何かを強く欲しているのです。欲しているその何かを掴んでしまい、それが自由に自分の方へやって来るのを待とうとはしません。服従の態度が強いほど、無理強いの力も強いのです。つまり皆さんは自分のやり方で何かを欲しいと直接的に表現していることになります。

 もうひとつの態度もあります。自分に必要だと感じる何かを他者から得ることは決してできないという絶望的な状態に傾きやすい人が選ぶことが多いでしょう。自己中心的で無慈悲な原動力や自分のパワーを、自分の前に常に立ちはだかる敵を打ち負かすことに使い切ることだけが希望のように映ります。世界全体が自分に反感を持っていると思っているため、自分も世界に敵意を抱き、攻撃的になります。自分が望む幸せを手に入れる唯一の手段が敵対心となるのです。申し上げる必要もありませんが、結果は本人が望む反対になります。他者に対する拮抗は避けられず、結果として人は実際にこの人に対して敵対的となるのです。このことは当人の誤った結論をさらに強化することになります。自分がこの状態を生み出していること、そして絶えず強化していることに気付きません。この態度にかぎらず他の態度もそうですが、こうしたものはあまりに隠されており、はじめは追跡することなど不可能です。むしろこうした敵対心はそれが強いほど、まったく反対の性質の側面で覆われています。もしくは人格のなかで分離した一部分にのみ存在し、特定の形以外では現れません。ここで描写しているような明確で酷いものでは決してないことでしょう。自分の本当の反応やその反応が意味するところ、含蓄するものが何であるのかを自己探求や自己分析で多く行い、その根まで辿ることではじめて、この態度の存在を発見することができるかもしれません。たとえば消滅に対する恐れと戦っている自分を発見したならば、今お話ししているような態度はかならず何かしらの形で心理に存在するでしょう。また別の場合では、こうした恐怖はあまりに無意識にあり、人生の限られた側面にのみ当てはまり、その他の人格の大部分は世界に安心しています。こうした場合もまた、お話ししているような態度の追跡が難しくなります。

 先の服従の態度が率直な形で依存的であるのに対して、攻撃的な態度を持った人は、他者から独立していると自分に思い込ませています。自分はひとりで立ち、ひとりで戦っており、決して他者の意志には屈していないと思っています。しかし真実は、もうひとつのタイプと同じくらい他者に依存していることに決して気づいていないのです。幸せになるためには自分が求めるものを手に入れなければならないという内なる信念を、また違った形で乗り越えることを選択しているに過ぎません。感情や愛着、そしてこの人が言うところの柔らかさを、自分から追い出すのがこの人のやり方です。感情や愛着、そして柔らかさは、必ず自分の邪魔となる危険の象徴なのです。それが本物であれ偽りであれ、ポジティブな感情の代わりに自分の中に固さや攻撃性を生産します。これは服従的な「愛」と同等に、本物とはいえません。

 幸せになるための意志に対処するものにはまだもうひとつあります。これまでにたびたび私が消極的な態度と呼んできたものです。この消極的な態度では人は、幸せを決して獲得することはできないと信じ込んでいます。この信念は当人にとってあまりに悲劇的に映り、この不幸から身を守るために他者や人生、そして世界から自分は何も望んでいないと偽ります。孤立へと退くため、ひどく恐れている敗北を経験することは決してありませんが、同時にどれだけ恐ろしく下手な取引をしなくてはならないと信じ込んでいるのかに気づきません。ある程度の落胆や失敗から身を守れているのかもしれませんが、こういったものは今自分が想像している半分も自分を傷つけはしません。本物の人生経験なしに時を過ごしているために幸せや歓び等、自分は何も逃していないと思い込んでいるだけのことで、他方ではこうした経験することができるのです。消極的な態度が顕著な人は、他の多くの人と比べて朗らかで周りにうまく順応しているように映るかもしれませんが、深いところでは人生から決して幸せを得ることはできないという大きな絶望が存在しています。そうでなければこのような極端なやり方を本人が使うことはないのですから。

 今申し上げていることは皆さんにとって何も新しいことではありません。以前にも何度もお話ししてきました。ここで詳細を取り上げる必要はないと思いますが、今お話ししているような側面すべてや、その他が合わさった状態はほとんどの人の内に存在しており、これらはもちろん、魂に追加の葛藤を生み出します。もしもひとりの人が起こりうるすべての事態からしっかりと自衛できるようにと複数のやり方を使用した場合、つまりリスクを負うことなく完全に守られた状態を望む場合、この人はさまざまな方向に振り回されてしまいます。言うなれば望んでいたものとは反対に引っ張られてしまうのです。自分の中にこうした側面を正確に見出すことをお勧めしてきましたね。今夜繰り返しお伝えしなければならない理由は、そうすることでこうした態度が持つ「目的」(と呼べるならば)をより深く理解することができるようになるからです。幸せになるためには自分が求めているものを手に入れなければならないという隠された信念に対抗する武器として皆さんはこうした態度を内に生産しています。無理強いの力はさまざまな形を取りますが、こうした態度もまたそのひとつです。これらの態度は皆さんの武器であり薬なのです。

 他にもまだ、本物の感情を損なわせるというやり方もあります。ある意味でこれは先に説明した三つの態度と共に生じますが、ここで取り上げたいのはそれを上回るものです。感情を損なわせるこの態度では(今夜指摘したその他の態度が必ずしもここから除外されるわけではありませんが)人は決して自分の感情を自由にそして自然に機能させることがありません。感情を人工的に整え、自然なものよりも劇的な状態に作り上げ大げさにし、自分にとって都合が良いと思われる目的のために感情を誇張します。自分にとっての好都合とはもちろん、他者に自分を愛し従わせるための強制です。相手にある種の義務を負わせることに一役買うことになります。
もしくは、負かされることを恐れている場合にもまた、自然な直感や本物の感情が安全に人生の流れに導かれるままに身を委ねることはありません。代わりにこの自然な感情を人工的に縮め、禁じ、鎮圧します。もしかすると皆さんの真の自己もまた、特定の場合においては本物の感情を沈静させるかもしれませんが、この場合の過程は前者とはまったく違ったものです。人工的な操作が人格にもたらす影響は、たとえ到達するところが同じだとしても、大きく違ったものになります。結果が違ってくる場合もあります。皆さんが限定的な視点で行うことは不必要なだけでなく、有害です。このことを皆さんの真の自己は分かっています。それを信じてください。上から被された衝動的な行動のパターンは完全に盲目です。もしかしたら偶然にこの衝動的な行動のパターンが真の自己と同じものを追求することもあるかもしれませんが、それでもどのレベルから稼働しているかが肝心なのです。片方は行き当たりばったりで、それが正しくても間違っていても、何か確かではない感覚が残ります。不自然で無理のかかった行動となります。もう片方は機能的で、皆さんの本質や人生と調和していますから、何が起こるにせよ有機的で正しいものとなるのです。他者に気持ちを向けることが正しいときでも、人工的に感情を増強させる必要はありません。人格が自由に育つことを自分に許せば、感じるべき強さで感情を感じるようになります。今皆さんが後にしようとしている逸脱や根本的であり誤った前提からはこうしたことは起こりえないのです。

 こうした人工的な操作は、最奥の自己と調和する形で魂が成長することを妨げます。最奥の自己が進化し、存在全体を満たすことを妨げます。感情が成長し成熟することを妨げ、それが顕現することを遮ります。こうしたことに皆さんはまだ気づいていないかもしれませんが、ワークを続けていくにつれすべての人が、今聞いているうちのいくつかは真実であることに気付くでしょう。すでに分かっている方も中にはいらっしゃいますね。実際よりも感情を大きくしたり小さくしたりする人工的な操作の意味するところを理解することは重要です。自分にとって必要な何かに従って感情を方向づけしているのです。このことがもたらすネガティブな結果は、何か生きたもの、生きた生命が育つことを禁じてしまうということです。なぜなら感情は生きたものであり、生きた生命体そのものだからです。それがあるがままに放っておかれる代わりに成長が常に操作され、引っ張られ、伸ばされ、もしくは押しつぶされている場合には壊滅的な影響を受けることになります。皆さんが自分の本物の感情に対して行っていることがこれです。他者をドラマチックに大げさに良く思うときには皆さんはこうしたことを行っているのです。そしてまた他者からの拒絶という、皆さんが悲劇だと思っている事柄から自衛するために他者を恨み軽蔑するときにも同じことを皆さんは行っているのです。最終的に自分の本物の感情が何であるのか、自分が何を欲しているのか、そして自分が本当は誰であるのかが最早分からなくなったとしても不思議ではありません。皆さんの感情は皆さんの存在の表現です。絶えず本当の感情が機能することを禁じ、人工的なものと置き換えていたのでは本当の感情を知ることができません。つまり真の自己を知ることができないのです。
このワークを通して皆さんが熱烈に探し求めている真の自己を見出すための道はひとつしかありません。まず、ここでお話ししている無理強いする力を自分の内に見出すこと。つまり一方では「これが欲しい」と言い、また片方では「欲しいものが手に入らないことが怖い」というものです。漠然とではなく明確にこの力を自分の内に意識できれば、どのように、そして具体的にどのような方法でそれが顕現しているかを意識できれば、手放せるようになります。こうしたときにはじめて、それを諦めることができるのです。これを繰り返し行うと、間もなく必然的に真の自己の感情に気づくようになります。長年恐れによって禁じてきたこの感情が表面に上がってきます。それまで皆さんはこの感情を信じられず、つまり自分を信じることができなかったのです。意識的になってはじめてこの過程をひっくり返すことができ、意識的になることで利益のために使ってきたこうした要素を取り去ることができるようになるのです。

 自分がこれまで感情だと思っていたその下にある衝動的な操作、自分を駆り立てる気持ち、勢いを、真の感情と明確に区別することができるようになります。真の感情は落ち着いています。気長に待つことを気に留めてはいません。真の感情が表に出るとき、そこには疑いやためらいはありません。真の感情は人生の流れとひとつであるため、正しい方向に向かって皆さんを運ぶことができます。もしもこの感情を信頼することを望み、じゅうぶんな忍耐があれば疑念はなくなります。

 真の自己や自分の本当の感情という、唯一皆さんに自信をもたらしてくれるものが機能し表現されることを許さず、代わりに皆さんの精神を錯乱させるような満足を与えてはくれず、安全でない代替案を使うならば、どうして自信を持つことができるのでしょうか。外から見て落ち着いていて、バランスが取れた人だからといって今お話ししている側面が自由であるとはかぎりません。むしろ、分かりやすい人よりもこうした側面がより隠されており、より有害であるだけの場合もあります。強いて言わせていただけば、この精神的錯乱の状態は自己探求のワークを通して見出され、解決されていない限り、すべての人の内にある程度は存在しています。この状態に鋭敏に気づき、自分の中にある異質な何かとして感じられるほどでないかぎり手放すことはできません。ここに到達すると、言葉で伝えることは不可能な感覚を経験します。この感覚は経験するほかありません。唯一お伝えできるのは、これまで不必要に背負ってきた重荷が軽減される安堵はあまりに大きく、そのときに感じる歓びと解放感は強く現実として感じられるということです。今のところ皆さんは直感的な本質を、切り離された形で時折経験しているかと思いますが、これがどんどん途切れのない反応となっていきます。自分の反応や知識、もしくは決断が正しいということを、罪悪感やプライド、優越感や疑念抜きに深いところで分かるようになります。脳の辺りでではなく、太陽神経叢の辺りで分かるのです。自然と落ち着いていて抑圧されておらず、抑制因子のない最高の自分であれるようになります。正しいときに正しいことを発言し、話すべきでないときが分かります。リラックスと集中が同時にでき、その瞬間や求められているものを完全に意識でき、そこに生きることができます。あなたのものになるべきものであなたの手元にやってこないものなど決してないことが分かっています。何かを手に入れようと精神的錯乱を起こす必要はなく、やり過ぎや行動が足りていないことを心配する必要もなくなります。ただ必要なことを行うのみであり、不必要なことを恐れや心配抜きで除去することができるようになります。
   
 この心の静けさは地上では獲得が不可能な理想のように聞こえるかもしれません。一晩で静けさの完璧な状態に到達すると言っているわけではありません。しかし徐々に、そして確実に、この感覚は皆さんの中で強まり、はじめは避けようのなかった敗北も滅多に起こらなくなります。そして最終的にはこれが皆さんにとっての真の本質となります。「これが欲しい、これがなければ」と恐怖と共に張り詰めた形で泣き叫ぶ内なる声が解決されさえすれば、実際にこれが皆さんの本質なのです。この張り詰めた緊張が緩み、恐れなく、疑念なくそこに漂うことができるとき、これまでの苦労や恐れがどれだけ幻想であったかがはっきりと分かるのです。もう苦労や恐れの必要がなくなります。最早使いようのない古く汚く、重いコートを脱ぐようにこうしたものを脱ぎ去ります。これまでのところ可能性に留まっていたものが生きた現実となります。自分の内面や人生に落ち着きをもっていられるようになります。もう何も大げさにはしません。すべてを手に入れなければならないとも思わなければ、何も持っていないとも思いません。幸せは見出しますが、自分が思う通りにすべてがなる必要もないと知ります。他者が「いい」「悪い」とは思わなくなり、自分の渇望や「幸せになる」必要性のために他者に過度に頼ることも依存することもなくなります。自分以外の全員を疑い、自分には一見非友好的に見える世界でひとりぼっちで立つこともなくなります。現実に則り判断をし、何に価値があり、何が信頼に値するかを見抜きますが、手に入れなければならないと思うわけではありません。また他者の中に弱点も見てとることができますが、それを個人的な脅威として恐れることはなく、この人間的な側面を相手のすべてとすることもありません。形は違ったとしても今お伝えしているようなことを今の段階では皆さんは、どれだけ外的に誤魔化せていたとしても、絶え間なく行っているのです。

 正しく、自発的で、制約のない表現が生まれるかどうかは「私はこれが欲しい」という無理強いする力を自分の中に見出し、鋭敏にそれを意識できるようになり、そしてそれを手放すことができているのか、どの程度できているか、これにのみかかっています。今夜お話ししている内容は皆さんが歩んでいる道の中の道なのです。無理強いする力を感じ、明らかに意識することができたときには、この無理強いの力を異質な物質としてビジュアライズできるほどに感じることができるようになったときには、成長の側面のひとつとして今夜取り上げている内容全体の折り返し地点に立ったといえるでしょう。そして次のステップは最早、それほど難しいものではありません。無理強いする力を逆さまにし、世界から身を引き、誤りの調和を内に創り出すという、先ほど述べたことを行っている方々にとってこの鋭敏な意識を獲得する部分はより困難ではないかと思います。

 何か質問はありますか。

 質問:自分の中に無理強いする力を感じます。自分がある特定の状況を求めていることが分かっており、この状況を手に入れることができないことも理知的には分かっています。無理強いする力をどうしたら諦めることができるでしょうか。どのようにワークをしていったらよいでしょうか。

 回答:はじめに必要なのは、それが存在することを感じることです。存在をただ検証するのです。そして具体的に自分に聞いてみてください。自分は何を求めているのだろうか。なぜそれが欲しいのだろうか。最も大切なのは質問に対する答えがどれだけ明確で正確であるかです。どんな瞬間にどのようなものを具体的に求めているのか。そしてそれはなぜなのか。さらに、この何かを獲得することがなぜそんなに重要なのでしょうか。今重要だと思っているほどに、それが本当に重要であるかどうかを考えてみてください。そして自分に聞いてみます。手に入らなかったとしたらどうなるのか、と。もしかしたらこの切迫感は単にそう思い込んでいるだけなのではないかという新たな視点でこの代替案を検討してみてください。ときには、直接的な取り組みから一時離れ、今抱えている課題とは無関係に思える何かに一時的に集中することが必要なときもあります。最後には繋がりが見えてくることでしょう。ここにいる皆さんが気づいていることですが、ここでのワーク自体が適切な方向へとあなたを導いてくれます。

 達成したい望みだと自分が思っている幻想や、それにまつわる感情が以前と同じように緊迫し自由さに欠けているときは、まだ探しきれていない隠された何かがそこに存在しているということです。欲しいという激しい気持ちは、それがどれだけ重要かを理知的に判断している視点とは比較にならないことが分かることでしょう。自分の人生が欲しいものに依存しているかのように感情的には感じているとは思いますが、同時にそうではないことをあなたは完全に知っています。つまり実際に重要である課題と感情が持つ激しさに食い違いがあるということが分かるのではないでしょうか。この食い違いに気付くとき、ひどく驚くかもしれません。

 正確に自分の望みを分かり、そして実際のニーズとの間にある食い違いに気付いてもなお激しさが残るようであれば、この望みが想像上の危険に対する想像上の防御の表れではないかを確かめなければなりません。大抵はこれが当てはまります。言うまでもありませんが、想像上の危険が自分にとって具体的に何であるのかを見出さなければなりません。これに気付かないかぎり無理強いする力が持つ「武器」を手放すことはできません。

 ここでのワークにおいては、普遍的な知識を吸収するだけでは本物の結果は得られないことを強調してもしきれません。別の言い方をすると、自分の中に無理強いする力が存在していることを知っている、もしくはそれをほんの少し感じられるくらいではじゅうぶんではありません。自分の中にあるこの無理強いする力が具体的にどのような形で機能しているのか、何が問題なのか、子供じみた幸せという概念に対する障害をどのような形で克服しようとしているのかを、正確に分かる必要があります。人それぞれであるばかりか、ひとりの人でも日々違っています。ある日では無理強いする力はとある形で表れ、次の日はまた別の形で表れます。二つ三つの形がそれぞれに矛盾しあう形で同時に起こっていることに気付くこともあるかもしれません。各々で違い、非常に個人的で、みなさんそれぞれの内でどのように表現されているかを見出す必要があります。知識を漠然となぞるだけでは決してじゅうぶんではありません。本物の洞察を得るときにはむしろ「これが無理強いする力だ」とか、ここでお話ししているその他のことに関してもそうですが、その瞬間には何も頭をかすめず忘れてしまう可能性もあります。後になってはじめて、あれがそうだったのだと気付くのです。本物の気づきと誤りの気づきを区別する方法とも言えるかもしれません。本物の気づきの場合、自分が何かを探し求め、それを見つけたのが自分であることにほとんど気づきません。誤りの気づきでは、自分がこれまでに聞いたことのある知恵を組み合わせ、人工的に自分に適用しようと骨を折ります。

 ワークを行う上で 感情的な頑固さを自分の中に発見し、同時にその不合理さに完全に気づいているにも関わらずどうすることもできない場合には、先ほども申し上げましたが、それが何かから身を守るための姿勢であるが故に手放すことができないでいるということです。あなたが恐れている何かからあなたを救うはずのものだからです。鎧なのです。つまり「私はこれが欲しい」と頑なにしがみついているものがどういった危険からあなたの身を守っているのか、具体的に見出すことが必須となるのです。

 もちろん、あなたの中の深い部分では何かしらの形で無理強いするこの力にしがみつくことで不幸せという奈落を避けることができると信じている子供がいるというのが質問に対する答えです。しかしふたたび、こうした漠然とした答えはじゅうぶんではありません。各々がさまざまな形で無意識にこれを経験しているからです。もしかすると自分の中に真実を見出すための唯一の道は、これまでとは完全に違う言葉をそこに当てはめることかもしれません。この無理強いする力を新たに、新鮮な形で見出す必要があるということです。そうすればもしかしたら、今私がお話ししているものとそれが同等のものであると気づくことができるかもしれません。あなたは無意識に私が使っている言葉とは違う用語を同じものに当てはめ、私がお伝えしていることは自分には何の関係もないと感情の上で思おうとしているのかもしれません。お伝えしている方向で進めていけば、答えにたどり着くことでしょう。

 ところで皆さん、質問は大歓迎です。特に自分自身のワークに個別の助けを得る機会がまだない方々、まだ待たなくてはならない方々の質問は大歓迎です。忍耐強く待っていればヘルパーから助けを得られるときがきます。こういった方々はすでにこの道にしっかりと着手していらっしゃる方々よりも質問を必要としていることでしょう。質問の答えという、より強いサポートを自分の準備に当て、できることは多くあります。この準備のために質問は必要であり、質問から得る回答は助けとなります。質疑応答が設けられている夜には特にそうです。いつ質疑応答があるかを先に知ることはできないため、いつでも質問を用意しておいてください。まだヘルパーについてもらっていない方々が準備の作業をどのように進めたらよいのかをここで質問し回答を得ることは、すでにヘルパーがいる人達を含む全員にとって建設的なものとなるでしょう。また同時に対面で参加ができず、レクチャーを読んで参加することになる友人達にとっても利となります。ですから恥ずかしさや抑制を手放してしまいなさい。質問をし、この場に参加することは皆さんの内的な準備になります。抑制を脱ぎ、対話し参加することは準備そのものなのです。今はまだその大切さが分からないかもしれませんが、これは実質的な利点です。さあ、特に個別のワークからまだ利を得ていない皆さん、皆さんの参加を歓迎いたします。

 質問:特定の人に対する恨みの気持ちを大きくしたいがために相手の中に欠点を探すということはありませんか。こうした場合、どう対応したらよいのでしょうか。

 回答:とても建設的な質問ですね。人を恨みたいとき、もっとも分かりやすくそして第一に生じる質問は、なぜそうしたいのかということですね。恨みを抱きたいという自分に気付けたならばなぜ恨みたいのか、その理由を見出すことはそれほど難しくないはずです。いつもそうですが、こうしたことは冷静に、そしてあたかもこれまでに同じ質問をしたことなど一度もないといった形で、新たな展望で臨む必要があります。相手のこれやあれの欠点のせいだといったすでにある答えは無視します。恨みたい理由はそれではないのですから。自分が攻撃的で敵対的であると一体どのように好都合だと思っているのかを見出す必要があります。

 質問: 守りに入らないための鎧なのだと思います。

 回答:もしも守りに入ることを恐れているのだとすれば、罪悪感を抱いているということでしょう。そうでなければ攻撃的になることで自分を守る必要はないわけですから。

 質問:はい。しかし自分を信頼し、自信を持つことでもあると思います。

 回答:他者を恨み、成すすべもなく恨みに囚われても、それが自信を与えてくれることはありません。感情があまりにも強くなり、扱うことができなくなります。これは自信には繋がりません。とはいえあなたの非現実においてはそれが自信をもたらしてくれるのだと信じているということでしょうが、単に自分が何に罪悪感を抱いているのかに気付くのを避けるためにそう信じているのです。よい解決策のように思っているのだと思いますが、もちろんそうではありません。何かを隠すために攻撃するとき、攻撃している対象と同じくらい自分も無力になります。つまり混乱に巻き込まれ自制心を失います。

 今あなたがおっしゃってくださっているような状況が人の内にあるとき、他者の中に恨んでいるものは実際には、自分自身に対する恨みだということがよくあります。相手がもっともあなたを苛立たせる要素を取り上げてみたとき、歪んだ形か、変形か、ひっくり返った形かは分かりませんが、とても似た側面や態度が必ず自分の中にあることでしょう。自分の中のこうした側面や態度を強く嫌っているほど、他者にこの嫌悪を投影します。これが隠されたものであるほど、外的にはまったく反対に過補償することになります。偽りの解決策は常にネガティブな結果をもたらしますから、これもまたそうなのです。この表われのひとつには、ひとつの特定の事でどの人も恨むことが挙げられます。これに対する薬は自分の中にいまだに隠された何かを見出すことであり、それが「必要」だと思い込んでいる自分を理解することで真にそれを解決することです。解決できたとき、他者に対して今のような強い反応を最早しなくなります。明確になりましたか。

 質問:はい。「どうせ傷つかなければならないのであれば、他者から受ける傷よりも自分が課す傷のほうがましだ」という思いを覆い隠しているようにも思います。

 回答:はい、確かにこれもまた多くの場合で見て取れますね。しかしここでその題材を扱うと少し話が外れすぎるかもしれません。お話しするのにはとてもいい題材なのですが、過去にも自己破壊については触れていますからね。とはいえ、新たな知恵によって照らされた状態で同じ要素についてお話しすることを嬉しく思いますので、また話題に上げていただきたいと思います。

 親愛なる友人達よ、今夜はこれでお別れをしたいと思います。しかしその前にもう一度確認しておきましょう。あなた方がいる宇宙は親切で、皆さんが幻想から抜け出てきたとしてもそこには恐れるものは何もありません。自分に幸せをもたらしてくれるのが何であるのかを小さな自己だけが判断するという誤りや恐れを手放したところで何も恐れることはないのです。あなたの大きな自己、つまりあなたの真の自己は皆さんが思っているよりもよっぽど皆さんの傍にありますが、この真の自己が人生の流れの舵取りをしてくれるままに身を委ねましょう。宇宙は親切です。何も恐れることはありません。心理分析でも心理療法でも形は何であれ、この地球上で無意識の領域を探求する道を発見した人々は皆、その探求が真に成功したものである場合には、非常に古い形而上学や霊的な真実を発見します。地上でのこうした探求の方法がより成功に近づくほど、それはすべての宗教の土台と統合されていきます。なぜなら神聖なる法則は心理の内で永遠に稼働するからです。このことは今後もっともっと発見されていくことでしょう。

 友人である皆さん、平和と共に歩んでください。現実は自分を幸せにするという知を祝ってください。皆に祝福を、神の内にあってください!



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