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No.85 自衛本能と生殖本能の歪み

Pathwork Guide Lecture No. 85
1996年版
1961年5月12日


自衛本能と生殖本能の歪み
DISTORTIONS OF THE INSTINCTS OF SELF-PRESERVATION AND PROCREATION


 親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さん一人ひとりに神の祝福を。この時が祝福されますように。

 今夜は、歪んだ形で現れる人間のふたつの基本的な本能、自衛本能と生殖本能についてお話しします。これらの本能は、純粋な形では非常に重要な役割を果たします。しかし、心理的混乱や未熟さがある場合、あるいは歪みや非真実がある場合、これらの本能は歪められ、建設的に機能しなくなります。

 生存本能、あるいは自衛本能は、生命を獲得し、維持し、向上させることを目的とします。その本質上、それは生命を破壊したり、危険にさらしたりするもの全てに対抗します。肉体が生きる為に健康を必要とするように、魂が建設的に生きる為にも健康が必要です。生きる為には、破壊や損害から安全である必要があります。

 皆さんは、健全な魂が安全と考えるものと、不健全で未熟な魂が安全と考えるものとが異なることは、既にご存知でしょう。あらゆる拒絶、つまりは愛、賞賛、承認が与えられないことについて、不健全な魂はそれを安全ではない状態として経験するだけでなく、実際に死として経験します。この道を歩む皆さんは、同じような感情的反応を経験してきたことでしょう。どのように自衛本能が誤ったチャネル(流れ)に入り、誤って現れるのか、これは典型的な例です。あなたの魂は、その生命と安全を守る為には、どのような形であれ拒絶という幻想と戦わなければならないと信じています。戦いは様々な形を取ります。そのひとつが、理想化された自己像の創造です。

 誰もが子供の頃には感情的な不安を多かれ少なかれ経験します。自衛本能が歪むと、自衛本能はこの感情に対して破壊的に戦います。このワークを進めるにつれ、あなたはこの極度の脅威の感覚に益々気づくようになります。理性では、それは誇張され、非合理的で、多くの場合、全くの虚偽であると分かっていても、あなたは脅威を感じ、危険にさらされていると感じずにはいられないのです。現実の、あるいは想像上の軽視を受ける度に、心の奥深くではまるで生命が危険に瀕しているかのごとくパニックに陥ります。このような不調和は、魂の安全、より一般的に言えば、感情の安全を求めて戦う歪んだ自衛本能の働きによります。

 あなたは間違った方法で安全や安定を求めて戦います。誤りを正すことで自然に得られる健全な自尊心を築く代わりに、あなたは他者から安全を与えてもらおうと、他者があなたに対して持つべきだと思う感情を引き出そうと、あなたは巧みに強要しようとします。あなたは感情的な危険と戦う為に、自らの流出する魂の力を抑制して害します。何故なら、無意識の内に、それで守られるように思えるからです。健全な状態であれば、自衛本能は自らを危険にさらすような行動は控えさせるでしょう。しかし、歪んだ自衛本能が働くと、それ自体は建設的である可能性がある内的活動や外的活動が危険と見なされ、試みられることがなくなります。

 自衛本能の歪んだ自己保存は、更なる歪みをもたらします。貪欲、頑固、偏見といった特定の欠点が生じます。要するに、それは執着し、手放せないという内なる衝動です。その衝動は、人格のあらゆるレベルで現れる可能性があります。例えば、外見的には物質的なことに寛大であったとしても、内面の特定の領域では、感情的にケチになっているかもしれません。偏見という感情を注意深く調べると、先入観は、貪欲、ケチ、窮屈さと、安全に思える何かへの執着と同じ起源があることが分かります。

 緊張ははっきりと見えるものではありません。このワークを暫く取り組んだ後でも、最初は漠然としか感じられないでしょう。しかし自己分析が進むにつれ、その感情は明確になります。あなたはそれに鋭く気づき、その意義を理解するようになるでしょう。このワークの他の側面と同様に、否定的な感情に気づけば気づく程、その原因と結果を理解し、それらの感情は自動的に弱くなるでしょう。

 内なる反応は魂の動きです。この特定の歪みによる魂の動きは、流動的であるべき力を強く抑圧するものであり、最終的には停滞や内なる飢餓をもたらす、逆流した拘束的な動きです。これは、人格全体に影響を及ぼす訳ではないかもしれません。それは歪みが何処に、どの程度存在するかによります。制限は、新しい考えや態度を取り入れることを妨げます。そして又、行動や態度に関わる厳しいルールが創り出され、根本的な歪みが変わらない限り、アイディアや本当の感情を凍らせてしまいます。これら全ては感情的な便秘を意味しており、それが肉体的に現れる場合もあれば、現れない場合もあります。

 生殖本能は、人類の物理的な存続だけに留まりません。存在のあらゆるレベルにおける、あらゆる形の創造性が含まれます。健全な形では、それはあなたが手を伸ばし、コミュニケーションすることを促します。あなたは新たな出来事への準備ができており、楽しみ、与え、受け取り、喜びや幸せの経験への準備もできています。言い換えれば、あなたの至高の喜びへの切望は、生殖本能と関連しているのです。

 歪んだ状態で、心理的な困難が意識的に対処されず、偽りの解決策が選ばれると、この本能も誤ったチャネルに導かれ、毒を生み出すことになります。

 歪んだ状態では人格構造に応じて、以下のような傾向が現れます。健全に柔軟に受容的な状態ではなく粗野に掴み取る、貪欲さ、強欲さ、ひどい場合には依存症に繋がる渇望。完全に無意識であったとしても、喜びへの渇望は、精神に様々な反響を引き起こす程強くなり得ます。誤解しないでください。喜びへの渇望そのものが誤っている、と言っている訳ではありません。全く逆です。健全な魂は喜びを目標としますが、その方法は大きく異なります。

 渇望が無意識であればある程、魂の混乱は大きくなります。例えば、喜び、充足感、幸福への切望を全く感じないということは十分にあり得ます。実際に、穏やかで無執着の生活に完全に浸っていたとしても、その根底では渇望や不満が大きなダメージを与えています。至高の喜びへの渇望を表面的に否定することは、都合が良いように一見思えるでしょう。その渇望を吐露すれば、精神が危険にさらされると感じるかもしれません。そのような場合、歪められた自衛本能は更に強まります。しかし例え、それが抑圧されたとしても、同等のダメージが起こらない訳ではないのです。

 ここにふたつの異なる魂の動きがあります。ひとつは、古くなったものをしっかりと握りしめ、手放さず、魂が新しい素材を取り入れることができないようにする動きです。これは抑圧的な動きです。もうひとつの動きは、リラックスした方法ではなく、貪欲かつ強引に手に入れようとする動きです。

 これらの魂の動きは非常に微妙です。あなたの意識にそれをもたらすことができるのは、このワークだけです。どちらの歪みも本質的に自己中心的である為、人格も又、自己中心的になります。自己中心性は、欲求不満、不安、緊張、強迫観念、罪悪感、不安等、数えきれない程の否定的感情を引き起こします。自己中心的であることは安全を保ち、渇望を満たすと誤って精神が信じ込んでいるが故に、この誤りはより悲劇的です。これ程、真実からかけ離れたことはありません。自己中心的であること程、大きな不安をもたらすものはありません。自己中心性は、それがどれだけ微妙で漠然としたものであったとしても、固定され、定められた行動パターンやルールを要求します。他者がこれらのルールや期待に従わなければ、慎重に計画され、望んでいた安全は崩壊します。更に、他者はあなたのルールに従わないだろうという絶え間ない恐れから心の平穏が損なわれます。あなたは砂の上に築き上げた、自らがコントロールできないものに頼らざるを得ないのです。

 しかし、自己中心的でなければ、柔軟に対応できます。それぞれの状況を新たに捉え、体験し、それぞれの状況に応じた適応ができます。自己中心性があなたの関心から外れるので、どんな状況、人、予期しない要求にも、安全して適応することができます。無意識の確信とは裏腹に、安全とは自己中心ではない状態にあります。

 自己中心的なあなたは、愛、賞賛、承認を与えられる必要があります。それを手に入れなければならないのです。このニーズは、あらかじめ決めたルールに則って計画を立てることを求めます。人生はその様にはいかないので、多くの場合、あなたの命令は従われません。ルールが効果を発揮しないことが分かると、ふたつの理由から不安が高まります。1)受け取るべきだと信じているものが受け取れない。 2)自分のルールは機能しない。従って、あらゆる計画や青写真は、現実に対してあなたを盲目にするのです。自発性や直感が抑制され、あり得る状況に適応していくことも妨げます。そのあり得る状況は、あなたが計画していたものと同じ位、あるいはそれ以上に良いことが多いのです。残念ながら、あなたは計画が邪魔される度に、自らの生命が危険にさらされていると感じ、そのことに気づきません。そして、幸福を得る筈のプロセスそのものによって、幸福を破壊します。

 これらの魂の領域に進み、その完全な意義を理解するまで、あなたの不安は増大します。厳格なルールや命令を強めるようになり、それらが次第に機能しなくなると益々絶望するのです。

 安全を求めるという想像上の欲求に基づく準備の為の内的プロセスは、内面の重要性の不均衡から生じます。あなたはもっぱら自分自身にのみ集注しています。そうは思わないかもしれませんが、感情的には往々にしてそうなのです。このような一方に偏る態度は安全ではありません。それでもあなたは、自己中心性を弱めるのではなくより強め、それを守るためのルールを創り出すことで危険を排除しようとします。このようにして、又しても不幸な悪循環の中に陥った自分自身に気づくのです。真の安全は理論だけではなく、感情的にも関わりある人々を見つめて、理解することで実現します。しかし、殆ど自分自身にしか注意を向けていなければ、これは不可能です。

 繰り返しますが、このプロセスは微妙で、見つけ出すのは困難です。理論的には十分理解して、その理解に基づいて行動していると信じていても、そうでない部分を見つけなくてはなりません。その結果、あなたは真の安心と安全の確立に具体的な貢献をするでしょう。状況に対する自らの感情的反応を正直に調べることによってのみ、これは可能です。何らかの不調和、恥ずかしさ、臆病さを感じる時は常に、自らの奥深くに隠れるこれらの反応に気づく筈です。

 どちらの魂の流れも完全に自己中心的であり、あなたが敗北を体験し、対処することを妨げます。自らの理想化された自己像に関してあなたが発見したことから、その本質が非常に傲慢であることがお判りでしょう。このプライドは敗北を認めることができません。敗北は時として避けられないものですが、いざ敗北が訪れると、それはまさにあなたが立っている土台、理想化された自己像という心もとない偽りの安全を脅かすことになります。健全な人格は敗北を受け入れることができます。皆さんもそれを受け入れねばなりません。誰もそこから逃れることはできません。しかし、敗北をどのように受け止めますか?それが問題です!敗北した時のあなたの外見的な振る舞いは、全く申し分ないものかもしれません。しかし、私達は外見には関心がありません。あなたの思考にさえ関心はありません。私達は、内なる真実、内なる経験、あなたが本当に感じていることに関心があるのです。それに気づくことは、それ程容易なことではありません。あなたが本当は何を感じているのかに気づくには、かなりの意志力、自分自身への正直さ、そして忍耐力が必要です。

 人生における重要な問題で大きな敗北を体験するのは、時として容易です。しかし、日々の小さな拒絶や失敗は、あなたの内側の安全や信念を脅かします。自らの敗北が露見しないよう、他人に隠さなくてはならない恥や屈辱感が生じます。友達に状況をどう繕うか、辛くて屈辱的に思えるものをどのように巧妙に誤魔化して隠すのか、面目を保つ為に敗北の原因と思われる他者をどのように見下すのかを見定めてください。これら全て、そしてこれ以上の反応は、敗北に対するあなたの態度の真実が何であるのかを示します。特定の反応や出来事が明らかになることをどれ程に恐れ、どのように避けるのか見定めてください。真に第二の天性となったこれらの根深い反応を調べることは、深く隠された重要な新しい洞察を見つけるよりも困難です。ここでは、ごく表面的なものに対処しなければなりません。しかし、あなたはより深い反応を調べることに慣れており、表面的な反応や行動パターンを調べようと思うことは殆どありません。

 健全で成熟した方法で敗北を経験するには、上辺だけの偽りの謙虚さではなく、真の謙虚さが前提となります。尊厳を失うことなく敗北を認められる、ある種の寛大な感情、ある種の偉大さが前提となります。この態度こそが、実際に尊厳をもたらすのです。内なる子供は、敗北に苦しむことが少ない程、自らが偉大であると信じています。これ程に真実とかけ離れたものはありません。真実とは、粉飾、投影、屈辱、見せかけがない状態で、正直に、謙虚に、尊厳と落ち着きを持って敗北に対処する程度に応じて、あなたは偉大だということです。

 偽装は、あなたの人格構造や選んだ偽りの解決策に応じて、正反対のふたつの方向のいずれかに向かいます。あなたの偽りの解決策が力の追求である場合、敗北への反応は、どんな犠牲を払ってでも隠さなければならない極度の屈辱となるでしょう。この隠すというプロセスそのものが、あなたの生命力に大きな負担をかけます。非常に深い罪悪感や発覚への恐れを引き起こし、その影響は今の時点でお話しするには多過ぎます。自分自身から真実を隠すことに成功するかもしれませんし、しないかもしれません。通常、あなたは欺瞞や見せかけを半分しか見ておらず、自分自身や他者を欺くもう片方には気づいていません。

 隠せない敗北への対処法のひとつは、他者に責任があるように見せかけて貶め、自らの敗北を他者のものにすることです。これによって、更なる罪悪感が生じます。敵意は、他者と自分自身との二方向に流れます。

 もしあなたの偽りの解決策が穏やかさの追求であれば、あなたは敗北の存在そのものをできるだけ長い間否定するでしょう。この過程には、危険な自己欺瞞があります。あなたが本当に感じていること、その結果として、あなたがとる特定の行動の動機への気づきが欠如します。

 例え、これら偽りの解決策のひとつのみを主に使っているだけでも、もうひとつの他の傾向も、両方の傾向も存在します。ある敗北に対しては片方の方法で対処し、別の敗北にはもう一方の方法で対処している可能性があります。これら全てを個別に見つけ出し、当てはめる必要があります。

「私は敗北を本当はどう受け止めているのだろうか?」と自問することをお勧めします。見た目ではなく、心の奥底でどう感じているかです。最近の出来事や過去を思い返してください。あなたにとって敗北となった出来事が起こったのはいつですか?何が敗北かそうでないかは、人それぞれです。ある人にとっての個人的な大挫折や面目を失う出来事も、別の人にはそうは感じられないこともあります。あなたの職業上の態度が比較的成熟していれば、仕事上の挫折は敗北にはならないかもしれません。挫折によって生じた物理的な不利益を後悔したり、嫌な思いをしたりするかもしれませんが、人間としての価値や尊厳が危機にさらされているとは感じないでしょう。しかし、ある日、誰かが不親切だったり、不快な態度をとったりした、といった些細な出来事に対して、過剰に強い反応を示すこともあるかもしれません。挨拶されないことが、敗北のように感じられるかもしれません。このような言葉で考えることはなくても、あなたの感情的反応はまさにそれかもしれません。

 ですから、敗北への態度に疑問を投げかける時は、そのように一般的に敗北と認識されていることだけを考えてはいけません。敗北、屈辱、失敗として経験するものを自ら見出す必要があります。友よ、この方向を探してください。一度このことを認識すれば、健全な自己認識や洞察から常に湧き上がるように、内なる力の大いなる波が押し寄せるでしょう。自らの反応を観察するだけで、敗北の悪影響を弱めることができます。まだ準備ができていない理想的な反応で、実際の感情を覆い隠すことがないよう注意してください。

 ただ観察しなさい。そうすれば、少しずつ真の尊厳へと成長していきます。あなたは恥の意識を失うでしょう。それは結局のところ、敗北の痕跡さえも許さない理想化された自己像の過剰なプライドの裏返しに過ぎません。理想化された自己像が弱まるにつれて、常に勝たなくてはならないと自らに命じることもなくなり、敗北に苦しむときも露見や屈辱を感じることはなくなります。こうして、あなたを解放する真の尊厳を獲得します。勝算なく戦う必要はなくなります。見せかけを保つ必要もなくなります。常に手に入れる訳ではない勝利を掴む為に、無意味に疲弊する必要もなくなります。何かを証明する為に、疲弊する必要はないのです。この「証明の傾向」については、これまで何度も話し合ってきました。皆さんの内の何人かは、その存在に気づいているでしょう。それがどれ程のエネルギーを奪うかを実感している人もいるでしょう。

 部分的には表面にあるにも関わらず、初めの内はこれら全てを見つけるのは困難です。あまりにも微妙で、簡単に誤魔化せるので、あなたは目をそらしてしまいます。それに気づかない分だけ、あなたの自由、強さ、幸福、内なる健康、平和への障害は大きくなります。

 さて、何か質問はありますか?

 質問:感情の中で、ひとつの傾向だけを見つけるのは非常に困難です。例えば、屈辱を感じた時、ある感情は、相手の行動は恐らく不安から生じていると認識します。すると、別の感情が噴出し、怒りを引き起こします。片方は寛容に理解し、他方は怒るというふたつの感情は常に相反しています。どちらが正しい感情かはどうすれば分かりますか?

 回答:どちらの感情も本物なので、どちらが正しい感情であるのかを知ることはそれ程難しくないと思います。勿論、最初の明らかに正しい反応が覆い隠されていることもあります。人はその理論的な価値を認識しているからこそ、それを持ち続けます。しかし、それは未だ感じられてはいないのです。従って、それは依然として支配的な感情、つまり子供じみたプライドによって絶えず妨げられます。その人がそれを覆い隠そうとし、完全に表層意識に達して気づかれることを許さないが故に、なおさら執拗に残るのです。

 従って、否定的な感情はその完全なインパクトで表に出さねばなりません。それに従って行動するということではありません。怒りの激しさ、子供じみた要求や主張に気づくべきなのです。それが、自らの怒りや、敗北が許されないことの原因なのだと気づくべきです。これらの感情的反応がその幼稚さと不合理さの全てを伴い、合理化や言い逃れなしに表層まで現れることが許されれば、それは最終的には弱まり、やがてもう一方の感情が本物で優勢なものになります。善意が覆い隠されると、それ自体が障害になることがよくあります。その為、浄化の為の善意は正しい方向に導かなくてはなりません。誤った方向で使われると、それは障害となり、強要された不誠実な反応や自己欺瞞に繋がる可能性があります。

 抑圧せずに、あらゆる感情を表すことを自らに許しましょう。そうして初めて、あなたが他者にも自分自身にもどれ程突飛で幼稚な要求をしているか、自分自身を含めて自らが生きている世界をどれ程(少なくとも感情的に)拒絶しているのかが完全に明らかになるでしょう。あなたは未だ手に入らない完璧さを自らに求めています。他者に要求していると思っているものは、私が指摘したように、自らへの要求を外在化しているに過ぎません。他者があるべき姿であるなら、自分も自らが望む姿、あるいは自らの理想的自己像である、あるべき姿になれるだろうと考えます。他者への怒りは、実際には、自らがあるべき姿になることを他者によって妨げられているという非難に他なりません。

 勿論、これらはどれも意識的なものではありません。理想化された自己が偽りではなく現実だと思うならば、ありのままの自分で在ることは他者に邪魔されるものではないと理解していません。しかし、理想化された自己像は見せかけです。多くの場合、理想的な規範を押し付けようとする善意には、真の善意と理想化された自己の要求が混じり合っています。従って、見せかけは妨げです。それは真実を表面に出すことを妨げます。

 このような幼稚な感情を認識したからといって、それに基づいて行動することになる訳ではないことは、どれ程強調しても十分ではありません。これは常に誤解されています。多くの場合、人々は感情の認識と、それに応じて行動することは同じだと誤って結論づけています。実際、この誤った結論も又、体裁を保つ為に用いられる見せかけに過ぎません。その見せかけの下には、理想化された自己像の虚偽を認識することへの抵抗と、認識に伴ってそれを手放すことへの躊躇と戦うニーズがあるのです。

 多くの場合、真の自己が実際に現れ、あなたが最初に現れる感情と言ったものが、無理やり押し付けられることさえないかもしれません。それは確かに本物かもしれませんが、人はその声には耳を傾けません。理想化された自己像の脅迫的なプライドは、自らの基準を行使し、それに従って行動するよう人格に指示します。 「~すべき」という規範は、時に表面的にも正しくなく、自らが従いたいと思う霊的な基準に合致するとは到底考えられない場合もあります。例えば、怒るべきであって、許すべきではない。見下して、理解すべきではない、親切で、愛情深くあるべきではない等です。このような基準は、実際に憎むべきだという所まで発展し得ます。これは、あらゆる否定的な感情がいかに非現実的であるかを示す典型的な例です。

 結局のところ、あらゆる否定的な感情は強迫観念です。この道を歩んでいると、それがはっきりと分かる時が来ます。この時点では、まだ強迫観念を手放す準備ができていないかもしれませんが、根底にある本質的な現実、確実性、真の感情の安定性がゆっくりと前面に出てくるのに気づきます。それでも、人格の一部は依然として、安全だと思われる否定的反応に固執します。

 これは特に、感情や直感を信じず、自らの知的で随意的な性質を全面的に信じている人に当てはまります。時として、知性は憎しみや否定的な感情を禁じます。しかし、それが合理化され正当化される時は常に、理性は押し付けられた脅迫的な側面に固執し、真の感情に導かれることを許しません。否定的な本能を見つけたいくつかの事例から、あなたはかつて全ての本能や感情は否定的であると決めつける過ちを犯しました。従って、あなたは未だ成長が必要な直感的本質の部分に成長の機会を与えていません。既に建設的で成熟した部分は直感よりも遥かに劣る、押し付けられたレベルによって妨げられます。

 このように理性的な力の過度な重視は、真の自己が表に現れることを常に妨げます。従って、それはあなたの内なる本質が機能し、自らを導くことを体系的に阻害し、安全と思われるもの、つまり小さなプライドに固執します。

 質問:欠席者からの質問ですが、既に一部回答されているように思います。読み上げます。「私達は自らに対してのみならず、世界に対しても理想化された自己像を示します。これは人間関係に耐え難い負担をかけ、多くの否定的な反応を引き起こします。このことについてお話し頂けますか?また、他者の内にある真の自己を認識し、受け入れる方法について教えて頂けますか?」

 回答:そうですね、かなり答えられています。もうひとつだけ付け加えさせてください。 「どうすれば他者の内にある真の自己を認識できるのか?」と考え始めるとしたら大きな間違いです。自分自身でこれを探すだけでも十分に大変なのに、他者に同じことをするのは全く不可能です。しかし、自らの理想的自己像を発見し、理解する為の継続的な努力を通してのみ得られる、自らの真の自己への気づきを進めて進歩するにつれ、あなたは自然に他者の真の自己をも感じ、経験し、到達します。そして同様に、あなたの歪みは逆にそれに対応する他者の歪みに到達し、影響するのです。

 従って、他者の内にある真の自己を認識することは、単に育てたり、学んだりできることではありません。それは成長と気づきの自然な副産物です。あなたはより見識を持ち、より注意深く、より直感的になっていきます。これは意志に基づいたプロセスではありません。敢えて言えば、この質問をされた方は、前の質問をされた方と同じカテゴリーに分類されます。感情や直感よりも、思考や理性を重視し過ぎているのです。この質問をされたということ自体が、それを示しています。

 質問:このふたつの真の自己の間のやりとりは、沈黙の中で行われることが多いのではないでしょうか?

 回答:それはどのようにも、あらゆる形のコミュニケーションでも起こり得ます。少し前に私が行ったコミュニケーションについてのレクチャーを読み返せば、これに当てはまることが分かるでしょう。あなたの真の自己が現れると、リラックスした受容性が生まれ、ひいては他者の内なる自己、あるいは真の自己に到達します。逆に、このレクチャーでお話しした、掴もうとする、渇望するような動き、つまり生殖本能の歪みは、動きが強奪的過ぎるが故に他者を引きこもらせます。その一方で、自衛本能の歪みは制限的で抑制的な内にこもる動きを生み出し、コミュニケーションを阻害するでしょう。要するに、最近のレクチャーでお話ししていることは全てコミュニケーションと結びついています。それぞれのレクチャーは、他のレクチャーと密接に関連しているのです。

 さて、真の自己同士のコミュニケーションがどのように起こるのかは全く重要ではなく、その時の状況に応じて起こります。沈黙の中かもしれませんし、言葉の中かもしれません。コミュニケーションで用いられる人間のあらゆる能力のどれかを通して行われるかもしれません。

 質問:多くの場合、人は自らについて何かを変えることには消極的です。それは肉体的なことかもしれませんし、心理的なことかもしれません。私達は「もしそのように変われば、もう私自身ではなくなる」と自らに言い訳をします。これは自衛本能の歪みなのでしょうか?

 回答:まさにその通りです。自衛本能の逸脱は、いかなる変化や成長にも抵抗します。それが自衛本能の逸脱の本質です。それは静的で、停滞しがちです。このワークをする皆さんの誰もが、それを経験したことがあり、あらゆる系統の伝統的な精神分析もそのことを知っています。変化への抵抗は、乗り越えるべき最大のハードルのひとつです。それは様々な方法で合理化できますが、そのような抵抗の意識的な理由が何であれ、心の奥では誰もが理想化された自己像の栄光を手放すことと戦っているのです。他の何よりも、特にそのことを恐れています。解決策として理想的自己像が選ばれたのだから、命がけでそれにしがみつかなければならないと考えたり感じたりします。この選択のプロセスが無意識に行われたが故に、あなたはその同じ無意識の動機から、理想化された自己像は自衛本能の歪みを通して安全と安心をもたらし、生殖本能の歪みを通して幸せと喜びをもたらすという誤った信念にしがみつきます。これが常にあなたの抵抗の根底にある力であり、外側の理屈が何であれそれは変わりません

 抵抗の存在に気づくことは重要です。次に、根底にある深い動機を認識する必要があります。そうして初めて、あなたの解決策は機能しないことが分かり、少しずつそれを手放せるようになるでしょう。変化への抵抗の真の動機が無意識である限り、無意識に活性化されたものは現実に抵抗します。変化、修正、再考は受け入れられません。意識的には新しい考えも浮かび、人生に対する特定の態度やアプローチは変化しつつも、この隠れた内なる部分は静止したまま、変化を望むもう一方の部分と戦ってきました。無意識の内に、あなたは救いと安全の為に選んだもの、つまり偽りの解決策に固執しているのです。それは変化、成長、解放を極めて困難にします。

 あなたが挙げた理由は、他にも考えられる言い訳や合理化の多くの内のひとつに過ぎません。この特定の理屈、つまり自分自身でいられないことへの恐れの価値については、これ以上の説明は必要ないと思います。それは殆ど根拠がありません。何故なら、真実は全く逆だからです。葛藤に縛られれば縛られる程、真の自己は薄れていきます。変化や成長は、真の自己を前面に押し出します。この真の自己が異質に感じられることは、決してありません。何故なら、あらゆる歪みにも関わらず、あなたは自らの真の自己に浸透しているからです。

 質問:この自己改善のプロセスにおいて、他者を理解して許す程に、感情的反応は和らいでいきます。このようにして私達は、怒りや他の強い感情でさえも、何らかの形で平準化してしまう傾向にあるのではないでしょうか?私たちの感情は、もうそれ程強くはなくなるでしょう。

 回答:一般化するのは困難です。ある発達段階に達すると、暴力的な感情は確かに和らぎます。あなたは心から穏やかさを感じます。しかし、もしあなたが実際には無意識の内に、強く抑圧された感情ではらわたが煮えくり返っているのであれば、そのような穏やかさは作り物であるかもしれないことを常に心に留めておくべきです。これらの感情は、適切に理解され、解消される前に、表層意識に到達しなければなりません。

 例えば、自らの感情を非常に恐れていると、強い否定的な感情がないことを霊的、又は感情的成長の兆候だと信じている可能性があります。ですから、怒りや他の否定的な感情がないことが、成長や調和の兆候なのか、それとも抑圧の兆候なのかを判断することはできません。作り物かもしれないし、本物かもしれません。成長と成熟へのプロセスにおける最初のステップは、自分が今まで持っていると考えたこともなかった感情に気づくことです。

 質問:私の疑問は、これが発展して最終的には、私達の反応がそれ程強くなくなる段階に至るのかどうかということでした。

 回答:いいえ、そのようなことはありませんが、否定的な感情は別です。否定的な感情を鎮めることを目標にしましょう。最終的には、真の穏やかさがこれをもたらします。しかし、まずはより近い目標を達成すべき時に、遠い目標に挑戦するのは常に危険だと言わざるを得ません。危険は多岐にわたります。例えば、必要な段階そのものを飛ばしたくなるかもしれません。現時点では不快ではあるものの、それを飛ばすと究極の目標に達成できない段階です。それによって、回避せずに明確にしたいとあなたが望んでいる、まさにその自己欺瞞をより一層増してしまうかもしれません。これは近い目標のひとつであるべきです。真の穏やかさが自然に訪れるまで、徐々に次なる目標を思い描くしかありません。遠い目標を見つめることで、理想化された自己像を膨らませる可能性があります。従って、近い目標は最終結果ではなく、次へのステップであるべきです。

 「自分の中に本当は何があるのか気づきたい。」というのが近い目標です。それがある程度達成されると、次の目標が現れるでしょう。

 これは放浪者や登山家になるような感じです。賢明であれば、最終目標を視野に入れて出発することはありません。最終的に到達したい遠い頂上は、何日も何週間も続く厳しい登山と忍耐を要するかもしれません。この非常に遠い頂上を凝視していると、登り始める前から疲れてしまいます。そして横になって、登っている夢を見るかもしれません。その夢はとても現実的に思えるかもしれませんが、実際には一歩も進んでいません。何故なら、始める前から頂上に到達するには疲れ果てているからです。しかし、時間単位で設定し、目的を確認し、休息をとり、それから再び進むようにすれば、疲れ果てることはないでしょう。登っていると夢見ることで、自らを欺く必要はなくなります。これがお話ししたいことです。

 皆さんが、これらの言葉から更なる導きや恩恵を得られますように。更なる展望、更なる扉、更なる理解を開きますように。今の自分自身と向き合う為に、あなたをもう少しだけ強くしてくれますように。あなたの内なる真実ほど、命を与え、命を守り、真の喜びや幸せをもたらすものはありません。

 親愛なる皆さん、平和の中にいてください。祝福を。神の内にあれ!


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