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No.86 自衛本能と生殖本能の対立

Pathwork Guide Lecture No. 86
1996年版
1961年5月26日


自衛本能と生殖本能の対立
DISTORTIONS OF THE INSTINCTS OF SELF-PRESERVATION AND PROCREATION


親愛なる皆さん、こんにちは。皆さん一人ひとりに神の祝福を。この時間は祝福されています。

前回のレクチャーでは、自衛本能と生殖本能が、調和と歪みの中でどのように現れるかについてお話ししました。今日もこのテーマを続けます。このふたつの本能がどのように対抗し、魂が乱れる時にそれぞれの本能が引き起こす特定の歪みについて、具体的にお話ししましょう。

歪みは特定の態度をとり、それに固執することで生じます。これは人格が無意識の内に、そのような態度が人生の困難に対する解決策だとみなす時に起こります。これまでお話ししてきた理想化された自己像の様々な側面は、人生にうまく対処しようとする無意識の試みです。これらは誤った解決策である為、必然的に硬直しています。そのような解決策が実際にはうまく作用しないと感じれば感じる程、それを作用させようとする衝動は強くなります。この防御反応が、硬直の原因です 

成長、発展、成熟、歪んだ魂の力のヒーリングは、偽りの解決策を排除し、常に柔軟でルールに縛られない真実に置き換えられることにあります。偽りの解決策を諦めるよう求められると、プロセスを経験する人格は深刻な不安や懸念を抱きますが、真実だけが真の安心感を与えてくれるのです。

自衛本能の作用は、生命の維持と保護です。これは、危険を回避し、安全を確保することに関わります。現実の危険、物理的危険だけではなく個人の健全な成長を脅かすあらゆる危険は、健全に成熟した状態では回避されます。しかし歪みの中では、危険は想像上のものであり、非現実的なものとなります。人間が愛されず、賞賛されず、承認されず、賛同されず、そのことに脅威を感じている時、その危険は非現実的です。

最近のレクチャー*で、三つの主要な偽りの解決策についてお話ししました。(1)愛の探求(2)力の探求(3)穏やかさの探求です。それぞれの背後にある誤解は、これらの「解決策」の指示に従って生きれば、人生を制する助けになるというものです。

一般的に自衛本能の歪みは、魂を力の探求へと導きます。生殖本能の歪みは、魂を愛の探求へと導きます。しかし、人生には喜びと安全が必要である為、どちらの本能も両方の目的を果たす可能性があります。本能が歪められていれば、それらは互いに補い合わずに対立します。従って、偽りの解決策であっても妥協案を見つけなければなりません。ここで、もう少し具体的にお話ししましょう。

自衛本能が歪められると、次のようなプロセスが起こります。幼い子供は愛情不足、自らの個性に対する理解不足、周囲の雰囲気や両親の性格による全般的な不確実性から、不安定を経験します。これが不安を生み出すのです。子供は危険な雰囲気を察知し、その瞬間、自衛本能が働き始めます。危険を回避する為に、人格は歪んだ自衛本能が通常引き起こす性格の歪みを遥かに超えるような特定の行動パターンを身につけます。これについては、前回のレクチャーでお話ししました。これらの傾向には、攻撃性、敵意、権力衝動、競争心、過剰な要求等が含まれます。理想化された自己像は、これらの傾向に応じて形成されます。

再度強調しておきますが、これは必ずしも、相反する愛の探求の傾向が存在しないという意味ではありません。ここでお話しするのは、あくまでも一般的な概要に過ぎないことは繰り返しておきます。偽りの解決策は、この道を歩む一人ひとりの内に、それぞれの形で見出されなければなりません。何故なら、様々なバリエーションがあり得るからです。例えば、明らかな攻撃性や敵意を伴わずに、力への欲求が支配的になることがあります。可能性は多岐にわたります。統合と自己発見は、これらの傾向が個別に検証され、経験された時にのみ起こり、おそらくここで述べたものとは全く異なる形で現れるでしょう。

歪んだ自衛本能は、あらゆる要求、攻撃性、権力欲を伴う力の探求という偽りの解決策に繋がります。精神はこのように考えます。「私が自分自身と私の力、全能性、傷つかないことを主張すれば、私に襲いかかってくるものはないだろう。その結果、私を理解しない敵対的な世界の危険に脅かされることはなくなる。」

対照的に、歪んだ生殖本能には喜びへの衝動、存在のあらゆるレベルにおける至高の喜びへの渇望が内包されています。一方では生活環境、他方では個人的な制約や人格的障害が原因でこの喜びが得られないと、生殖本能の歪みは従属、従順、迎合といった偽りの解決策を助長します。愛の探求は、あらゆる問題を解決する筈なのです。自己主張をせず、諦めることは、虐待にさらされる危険性がある為に有害であり、同様に失敗に終わる運命にあります。人々は愛され、それによって喜びが得られるという無意識の信念から、この解決策を選択します。

三つ目の偽りの解決策、すなわち引きこもり、つまり穏やかさの探求は、二次的なものです。これは、先に述べたふたつの解決策が互いにせめぎ合い、人格を半分に引き裂いた結果です。内なる葛藤のプレッシャーが耐え難い程大きくなると、この二次的で付加的な解決策が用いられるのです。最初のふたつの解決策は、人生に対処する為に用いられます。そして最後の解決策、穏やかさの探求は、最初のふたつの誤った解決策から生じた葛藤に対処するために用いられます。人格の意識的でより表面的なレベルでは、人生を解決しようとするこの三つ目の試みは、感情的な関わり合いから身を引く形をとります。放っておいて欲しいという気持ちと、それが平穏をもたらすという合理化です。しかし実際には、この解決策はどちらの本能も満たすことはありません。歪みが大きくなればなる程、満たされる可能性は更に低くなります。

このワークを進める中で、友人の皆さん一人ひとりは、あらゆる人の内にあるこのふたつの主要な偽りの解決策を痛切に感じ、経験しなければなりません。そうすることで、この葛藤を理論としてではなく、自らの内で観察できる戦いとして知り、経験するでしょう。その結果、あなたは自分自身と自らの問題について、全く新しい理解を得られます。

内なる安全が主要な関心であるならば、あなたは自衛本能を過度に強調して歪めてしまうことになります。従って少なくともある程度は、生殖本能は抑え込まれ、抑制されることになります。人格全体が安全を求める方向に力を注ぐので、他の正当な要求は衰退するのです。魂はこれに反発します。魂は喜びを切望し続けるのです。この切望が、想像上のより大きなニーズの為に無視されればされる程、無意識の切望はより大きくなります。

無意識の内に、あなたは安全か喜びのどちらかという二者択一に直面します。何故なら、幸福、充実、至福、喜びを得る為には、ある種の勇気、いわば冒険心が前提条件となるからです。喜びは、リスクを冒す意志を前提とします。しかし、そのようなリスクこそが、まさにあなたが何としても避けなければならないと感じている危険なのです。未熟な魂はリスクを冒すことなく、自らの殻を破ることなく、必要なステップを進むこともなく、安全と喜びの両方を手に入れようと葛藤します。これらの目標が達成できないと、その原因を意識的に認識することなく、反抗と自己憐憫が始まります。このプロセス全体が、最初から最後まで無意識なのです。このふたつの基本的な本能への意識はなく、これらのニーズが満たされていないことも、満たされない理由を理解することもありません。これら全てをこのワークで意識化する必要があります。

満足を得ようという中途半端な試みが失敗に終わると、恐れに満ちた魂は、些細な拒絶、批判、不承認さえも猛烈な危険とみなし、すぐに偽りの穏やかさ、あるいは横暴で攻撃的で人を寄せ付けないような態度に引きこもります。これでは愛を得ることは不可能です。その試みは価値あるものには見えません。ですから、喜びある充実への切望は抑圧され、魂の本質的な部分は渇き、不毛なままとなります。幸福や美しさだけでなく、人生経験における不可欠な部分をも逃しています。言うまでもなく、そのような魂は、真の自己が反発するようなダメージで苦しみます。この反発が存在の表面上のレベルに達する時、それは多様な形をとるかもしれません。

もし快楽至上主義が優勢な場合、人格はリスクを冒しますが、それは更なる混乱という代償を招くことになります。抑制された自衛本能は妥協しようとします。あなたは従属することで危険を冒すでしょう。あなたは喜びと安全のニーズを結びつけようと、自己犠牲とマゾヒズムによって幸せを得ようとするでしょう。あなたは屈服することで、自らが切望しているものを得られると信じ、無力なふりをして自分自身を守ろうとするのです。

もし歪んだ自衛本能と、その偽りの解決策である力の探求が優勢になると、魂の重要な部分は飢えて停滞します。もし歪んだ生殖本能と、その偽りの解決策である愛の探求が優勢になると、実際に魂が危険にさらされるまで脆弱性と無力さが増大します。危険は精神が信じているようなものではなく、全く異なる意味で生じます。それは、継続的な自己否定と、真の自己の疎外です。これにより創造力は抑制、阻害され、不安や欲求不満をはじめとする様々な感情が引き起こされます。

人間の魂には両方の本能が同じ強さで存在し、片方が歪むと他方も歪む為、あらゆる人間の中に両方の偽りの解決策が見つかります。ある人にとっては片方が優勢で、他方は更なる探求を重ねた結果、始めて見つかるでしょう。それは、優勢な傾向の根底にある核心として発見されます。また、別の人にとっては、両方の傾向が並存し、絶え間ない葛藤で引き裂かれます。しかし、例え片方の傾向が強く優勢だったとしても、葛藤がないことを意味する訳ではありません。表面に現れていないからといって、深刻な影響の可能性がないとは言えません。ひとつの傾向が隠れていると、原因を特定するのが難しくなる為、影響はより深刻になることが多いのです。

このように相反する目的と解決策の間で激しい内なる葛藤が繰り広げられる為、精神は妥協案を求めます。こうした妥協案は、様々な形をとります。例えば、喜びへの衝動は、存在の特定のレベルでのみ解放されます。精神的、知性的、心理的な喜びは、危険な探求ではないと感じるかもしれません。それは、感情的にあなたを巻き込むことはなく、拒絶や傷つきのリスクに晒しません。一方で、感情的、あるいは官能的な喜びは、極めて危険に思える為、多かれ少なかれ排除されます。言うまでもなく、一見妥当な説明は常に見つかるでしょう。このプロセスは、人間が自ら引きこもってしまう程、酷いものではないかもしれません。より微妙な場合もあるでしょう。無意識に自分自身を阻害し、その失敗を他者に投影するかもしれません。このような失敗は、実際には外に向かう自らの力を抑え、自己を与えるリスクを避けることから生じます。このような態度は、内なる生命体の重要な部分を強奪します。これは、精神とその人の構造全体に損害を与えるのです。

更に良くある妥協案は、自衛本能と生殖本能のどちらかを両方の目的に役立てようとすることです。勿論、これはうまくいきません。例えば、力の探求は、全能で、強く、傷つかないことが、愛と献身をもたらすという無意識の信念の下、愛と喜びを目指します。この態度は、あなたが自らの安全と傷つかなさを確実にするだけでなく、同時にこの見せかけが多くの称賛を集め、あなたの愛の探求も満たされることを意味します。傷つかなさで愛が得られることはないと、あなたは決して理解しません。あなたが自らの傷つかなさを他者に信じさせようとすればする程、他者はあなたに怯えるようになります。この恐怖から愛が生まれることは決してありません。他者に対する優越感からも愛は生まれません。何故なら、他者は劣等感を抱かされることに憤慨し、それがいかに微妙な貶め方であったとしても、自らを貶めた相手に愛で応えることは確実にないからです。

喜びを得る為に愛の探求に走る偽りの解決策が優勢な人々は、この喜びへの衝動と安全へのニーズを結びつけることで妥協します。そのような人々は大抵、意識的には葛藤は存在しないと確信しています。彼らが従い、期待される全てを実行すれば、愛と喜びだけでなく、危険からの保護も得られるからです。このような戦略が内的反応を引き起こし、彼らの目的そのものを破壊することになるとは気づかないのです。従属すればする程、他者の内にある力の衝動に益々利用されます。利用されればされる程、彼らは反発して恨むことになります。このような憤りは表層意識には上がらないかもしれませんが、その根深い強さは他者を拒絶し、次には他者が憤りで応戦することになるでしょう。

これらは、相互に排他的な偽りの解決策を組み合わせようとする妥協案のごく一般的な例に過ぎません。更に多くのバリエーションが可能であり、個人が自ら明らかにせねばなりません。それぞれの偽りの解決策には、歪んだ本能がたったひとつしか含まれていないと評価する硬直性に注意してください。そのように単純ではありません。ひとつの基本的なニーズをも満たせない試みで、両方のニーズを満たそうとする、あなた自身の方法を見つけるのです。

友よ、これらは全て非常に一般的ですが、魂の無意識の中に潜み、大抵は失敗に終わる解決への努力の内に、多くの可能性を垣間見ることができます。このワークでは、これらの偽りの解決策がどうして望む結果をもたらさないのか、何故もたらせないのか、それが自分自身や他者にどのような影響を与えるのか、その本来の目的は何だったのか、段階を追って明らかにせねばなりません。これを見つけ出す為には、あなたが子供の頃に感じ、今も別の形で感じている感情を自覚する必要があります。そうすると、あなたは自らの感情の矛盾点や恣意性、無意識の概念や観念が、いかにその起源や目的を支配しているかが分かるでしょう。そのような偽りの解決策は、根底にある矛盾した感情と共に、更に別な偽りの解決策を重ね合わせていくのです。

例を挙げましょう。従属的な人は常に迎合する用意ができており、過度に控えめで、自らの手柄や利益を得ようとはせず、他者に対して憤りを抱くことになります。このような行動パターンを自らが選んだ為、そのような憤りは不当なのですが、彼らはそのことに気づきません。彼らには自らが捧げるもの、つまり自己犠牲を額面通りに受け取った他者を責める権利はないのです。彼らはこのように感じます。「例え、私が犠牲を払いながら慎ましい態度を取っていたとしても、人々はそれを当然のように扱うのではなく、むしろ特別な敬意を払い、私を愛してくれるべきだ。」言い換えれば、愛されることの見返りに自己犠牲を捧げているのです。自己犠牲が他者への愛に取って代わっている為、この物々交換は成立しません。これが憤りの理由です。自分自身と他者との間に働く、正しい内的プロセスを認識しない限り、彼らは変わることはありません。

また、従属的な人は、こうした憤りは理想化された自己像が示すものと一致しないので罪悪感を抱きます。自らの内にそのような従属的な態度を見つけたら、その根底に隠れているものを調べてみましょう。憤りや罪悪感だけでなく、攻撃的で力の衝動が強い人に負けない程の過剰な要求が深く隠されているのに気づくでしょう。愛、保護、養育といった要求があるからこそ、他者があなたの要求を満たす筈だという信念の下に、従属的な解決策が選ばれていることに気づきます。しかし、そのような要求を意識的に認めることは、このような人々の一般的な性格とは全く矛盾します。従って、その要求は覆い隠されねばならず、それが更なる罪悪感を生み出します。要求が強くなればなる程、批判され愛されなくなると感じて、もっと隠さねばならないと感じるのです。そして、あなたは二重の罪悪感を抱くことになります。ひとつは、要求があることへの罪悪感、もうひとつは、自らの控えめさと要求の少なさが偽善であることへの罪悪感です。

多くの場合、優勢な傾向の下には、その対極のものが隠れています。もし優勢な傾向が、敵意、冷酷さ、プライド、優越感、傷つかない振りを伴う、安全でいる為のパワーの探求であるならば、その根底の核心は無力な子供なのかもしれません。愛と保護を求めて、喜びと幸せを切望し、傷つきやすく、従属的で不安で依存的な子供です。もし優勢な傾向が、自己犠牲、迎合、自己否定、マゾヒスティックな犠牲を伴う、喜びを得る為の愛の探求であるならば、その根底の核心は冷酷な利己主義、自己中心的なプライドと優越感、過剰な要求、そして多くの場合、他者に対する冷酷な衝動かもしれません。

根底にある核心は、常に隠さねばならない恥を生み出し、そしてその対極のもので覆い隠されます。このふたつの傾向は、相互に排他的である為に葛藤を生じます。そして、隠さねばならない根底の傾向への恥そのものから、更なる葛藤が生じます。例え、何か前向きで建設的なことを恥じていたとしても、恥じて隠すという事実そのものが緊張、不安、偽り、暴露への恐れを生み出します。

このワークが一時的に苦痛となるのは、恥ずべき事実が明らかになるからです。勇気を奮い起こして、恥を表に出して初めて、その誇張された性質は消え去ります。そして、今まで気づくことのなかった非常に重い荷物を下ろしたという、言葉では言い表せない解放感が得られるでしょう。

このワークを進める程に、すべての感情を感じて経験し、その意義を評価し、その意味を理解することが益々重要になります。この作業なしには、葛藤や問題から自らを解放することは不可能でしょう。思考、知的評価、推論することから、ポジティブでもネガティブでも全ての感情を感じて経験するということに重点を移さねばなりません。このことは、いくら強調しても十分ではありません。理解を深めることで抵抗を減らし、徐々にこのことを学ぶにつれ、あなたは様々な感情的反応を伴う、これらの偽りの解決策の層を次々と明らかにしていくでしょう。あなたは禁じられた感情を抑圧することを忘れ、検閲なしに感情に気づくようになります。そうして初めて、あなたはそれら感情の起源と意味を理解できるのです。

自らの感情に気づくことは段階的なプロセスであり、あなたが心から望み、それを育む時にのみ起こります。そのような意識が培われるまで、平均的な人は人生を全く異なる形で、全く異なる理解で経験します。時折経験する激しい不安や恐れは、全て外的な刺激によるものとされ、それ以外の点では自分は大丈夫だと信じて満足を保ちます。勿論、私がここで示しているのは、著しく歪んだ人々のことではありません。殆どの人は、自らを動揺させる外的な出来事と、自らの内的葛藤や偽りの解決策との間にある原因と結果を結びつけることはできません。どんなに自立への熱意があっても、偽りの解決策は何であれ、他者への不健全な依存を生み出すことに気づきません。又、外的な生活で全てが穏やかな時には、人生を楽しみ創造的でいる為の能力の僅かしか使わず生きていることにも気づきません。そのような人々は、自らの抑制や、正確な自己表現ができていないことに気がつかないのです。抑制された感情から生じる緊張、疲労、漠然とした不安も認識しません。殆どの場合、彼らは隠している否定的感情、外に表出させる理由がある時にのみ表面化する感情に気づいていないのです。

従って、感情に気づく為の最初の主要な一歩は、自らが本当は何を感じているのか見つけることへの内なる許可です。これは、祈り、瞑想、日常的な意図の決定によって培われます。こうして、憤り、罪悪感、不安、敵意等の否定的感情が意識に上がってくるでしょう。これらの否定的感情は、自発性を抑制し、人生に対して感じているある種の単調さ、ある種の生気のなさの原因となっています。このワークで明らかな進歩を遂げるまでは、この全般的な状態は通常許容されています。あなたはそれを当たり前だと思っており、人生が全く違うものになるとは思いもよらないのです。制御できない状況によって容易に乱される、この外的な偽りの穏やかさを突き抜けると、あなたは自らの性格とは全く異なると思い込んでいるが故に二重に心を乱されるような、くすぶった感情が膨大に積み重ねられているのを発見します。この突破によって、初めは不快であったとしても、あなたは自らの存在のあらゆるレベルにおける潜在能力が十分に使われず、半分しか生きられない状態に留める原因を排除し始めます。

最初の感情レベルにおける気づきは通常、罪悪感や不安と結びついた、これまで意識したことのなかった憤りです。しかし、全ての憤りが不当である訳ではないことにも気づくでしょう。中には、あなたがその状況を引き起こした為にそうなったものもありますが、そうではないものもあります。それにも関わらず、あなたは何に対しても恨んではいけない、全ては自動的に自分のせいである筈だという漠然とした印象の下にいます。

あなたは区別することを学びます。ある種の憤りは、放置して廃れた状態に陥るのではなく、何らかの行動を起こす前提であれば、理解可能で健全なものだと気づくでしょう。以前は利用されてきた所で、自己主張ができるようになります。初めは慎重に、そのプロセスを止めるでしょう。あなたは、他の憤りが全く根拠のないものだと認識します。どんなルールも作れません。抑圧を解き放つ勇気を持てば、あなた自身も疑いなく真実を知ります。これにより、あなたは自己主張する力を身につけ、必要であれば、歪んだ攻撃性とは全く異なる健全な攻撃性を用いられるようになります。こうして、適切な内的均衡が生まれ始めるのです。あなたは内的外的を問わず、不当に攻撃的になることを止め、健全で建設的な形で攻撃性を持つようになるでしょう。ひとつの不均衡は常に別の不均衡を引き起こします。従って、均衡の確立は、真実に向き合い、可能な限り変化することから為されます。この新しい均衡は自然に現れるものであり、意図的に始動された外的行動によって達成できるものではありません。

この憤りの層を経験し、個人的な解決策に固執する為にすべきだと思っていることを感じるのではなく、本当に感じていることを発見し、あなたが感じていることが正しいか誤っているかを認める勇気があれば、又次の層での優勢な偽りの解決策に気づく為の道が整います。他の防衛の仕組みも又発見するでしょう。あなたは理想化された自己像の主要な構成要素は、これら三つの傾向全てから成り立っていると分かるでしょう。これが探求されてから初めて、恥から覆い隠され、無視されたあなたの問題の核心が、感情的な認識へと発達します。それから、あなたはこれらの感情を経験するのです。

友よ、これは辛いプロセスです。このワークに取り組む皆さんにお伝えしたいのは、この痛みから逃げてはいけないということです。何故なら、この痛みは健全であり、あなたの痛みを完全に消し去る為に不可欠なものだからです。この道を通らなければ、あなたがそれに気づいていようといまいと、痛みは魂に残って傷をつけ続けるでしょう。自由と幸福、安心と安全、人生経験の素晴らしさは、あなたがこのプロセスを通り抜ける勇気を持つ場合にのみ、完全にあなたのものとなります。そうして初めて、このプロセスがどれほど価値あるものであったかに気づきます。逃げることは、心の内奥深くにあった痛みを消し去ることはできない現実逃避だったと分かるでしょう。痛みを引き出せば、痛みは失われます。痛みに蓋をしたまま鍵をかけていると、あなたは苦しみ続けるのです。核心の部分に関わらず、様々なレベルで遭遇する、この痛みを通り抜ける勇気は経験されねばなりません。あなたがそう決意するならば、人生と道は、あなたを助けてくれます。原因である内的要因に意識を向けさせてくれる外的出来事を通して、助けはもたらされるでしょう。

痛みを通り抜けようとする内的意志は、常に新たに育まれなければなりません。例えそれが不快で手厳しいものであったとしても、自らの内なる真実に向き合うこの内的意志は常に、新たに決意されねばなりません。これによって、成功への力が得られます。諦めようとする衝動が最も強くなる重要な岐路に立たされた時にも、これはあなたが進み続けるのを助けてくれるでしょう。追い求め、粘り強く、そして忍耐強く!友人の皆さん、これが私のアドバイスです。

また、このワークに対するご自身の態度について自問することをお勧めします。辛い局面に直面した時、このワークに対して、自分自身に対して、あなたを助けてくれる人々に対して、又その概念全体に対して、あなたはどのような反応をしますか?様々な反応が考えられます。

それでは皆さん、何かご質問はありますか?

質問:ひとりの人間に三つの歪みが同時に存在することについて伺いたいと思います。それらは時間的に交互に現れるのでしょうか?人格において、それはどのように作用するのでしょうか?

回答:既にご説明した内容ですが、正確には何が明確ではないのですか?

質問:例えば、内面で従属的な人でも、根底に力の衝動を持っている可能性があることは理解しています。逆もまた然りです。これが耐え難いものになると、そのような人々は人生から引きこもることで偽りの穏やかさを確立します。しかし、私が知りたいのは、これらの傾向の内ふたつ、あるいは三つ全てが交互に出現する場合、どのように作用するのかということです。ある人が従属的である場合、相手に対して傲慢でありながら、別の時には引きこもりもする。もしかしたら、瞬間的に変化するのでしょうか?何故そのようなことが起こるのでしょうか?

回答:それは、これらが偽りの解決策である為、うまく作用しないからです。人生や他者がそれに応じれば、場合によってはある程度うまく作用するかもしれません。しかし、もし人生に何らかの障害があり、試みられた偽りの解決策の内のひとつが作用しない場合、他の手段が次々に試され、探求されることになるでしょう。

例を挙げます。力の衝動が強い男性がいるとしましょう。彼は、自分に好意的に反応してくれる従属的な人々と付き合っています。その場合、この解決策は彼にとってうまく作用しているように見えます。だからこそ、力の衝動が優勢なのです。しかし例えば、彼が頼りにする重要な人物がおり、その人物にも力の衝動があり比較的健全な人ならば、その男性に対して従属的な反応はしないでしょう。三つ目の可能性は、どれ程従属的な人でも限界に達すれば、表面的に反抗する段階に至るということです。従属的な人も攻撃の側面を持っているので、限界を超えて従属することは無理です。そうなると、優勢な力という「解決策」は最早作用しなくなります。自らが欲しいもの、必要だと思うものを手に入れる為に、彼は今度は従属性に頼るようになります。普段は他人に対して横暴な人が、そうなると極めて従属的になります。このようにして人々は、安全、愛、無条件の承認という欲求を満たそうとします。皆さんも、このようなことを目にしたことはあるのではないでしょうか。目上の人、実際に、あるいは力があると想像する相手の前では萎縮するのに、弱い人に対しては容赦なく横暴な態度をとる人を皆さんもご存知でしょう。これは、必要性と状況に応じて、これらの解決策が交互に現れる典型的な例えです。明確になりましたか?

コメント:はい、そう思います。そうすると、藁をも掴むというような状況になっていまいますね。

コメント:その通りです。このような偽りの解決策は、常に藁をも掴むような思いでいるものです。何故なら、一見敵対的で恐ろしく見える世界に対する解決策を探す子供には、真の解決策を見つけ出す準備が整っていないからです。この転生に持ち込んだ問題に悩まされ、問題の箇所が見えず、偽りの解決策に頼らざるを得なくなります。このことは、これまで固執してきた当初の偽りの解決策に対する破壊的な罪悪感からあなたを解放するでしょう。当時は、どうすることもできなかったのです。しかし今、いかなる破壊的な罪悪感もなく、あなたは偽りの解決策に結びついた見せかけを維持してきたことについて、自らの責任を全面的に取ります。そして、それはあなたが自分自身を解放するのを助けてくれます。

質問:比較的統合が進んでいる子供の場合、真の自己に対して、理想化された自己像はどのように現れますか?強いマスクの人格を形成することなく、継続的な融合はありますか?

回答:勿論、人間が健全であればある程、理想化された自己像は弱くなります。その場合、理想化された自己像は、阻害された人格領域にのみ現れ、現れ方も弱いでしょう。それは常に、真の自己の強い顕現によって打ち消されます。内的歪みや魂の混乱から完全に自由な人間などいないので、誰もが理想化された自己像を持っています。阻害の強さが理想化された自己像の強さを決定づけ、その程度に応じて子供、あるいは大人でも、真の自己から遠ざかり、理想化された自己になろうとするのです。内的葛藤が強ければ強い程、真の自己と理想化された自己との差異は広がります。比較的健全な人の場合、その差異はそこまで顕著でも矛盾でもないでしょう。理想化された自己からの要求や基準は、それ程は厳しくなりません。

理想的な人生の白昼夢は、常に理想化された自己像とその偽りの解決策を表します。ファンタジーは、精神の主要な目的とニーズから生じます。殆どの大人は、何らかの形で空想の中に生きているので、これらは探索の為の追加的な材料となるかもしれません。理想化された自己像は、単に空想にだけ現れる訳ではありません。私がお話ししてきた「べき」や「ねばならない」など硬直した命令にも表れる筈です。それは、これらの強迫衝動に沿っていない時の不安や罪悪感の中に現れます。自己や他者に対する、ある種の期待にも現れます。しかし、これら全ては広範なワークに取り組んだ後にのみ、見出され、確かめられるものです。理想化された自己像が想像に現れているならば、例えあなたが未だ気づいていなくても、それは人格にも組み込まれている筈です。もし人格が完全に解放されて自己疎外がなければ、理想化された自己像について空想する必要など全くなくなります。欲望が満たされる非常に活発な空想生活は、理想化された自己像への執拗なニーズを示しています。

質問:どの子供も、生まれたばかりの時には皆同じく順応性があるのではないでしょうか?

回答:いいえ、全く違います。未解決のまま前生から抱えて来た問題や葛藤を持って来ています。恐らくあなた自身によって、それら未解決の問題を解決する為の最善の人生と環境が選ばれています。一般的な霊的発達は、人によって異なるだけでなく、葛藤の内容やその強度にも個人差があります。

質問:前回ふたつの質問がありました。ひとつは時間がなく回答されませんでした。もうひとつの質問は、納得のいく回答が得られませんでした。このふたつの質問は関連しています。まずひとつ目は、恨みや憤りが無気力状態にまで至る可能性についてです。もうひとつは、正当な恨みや憤りの妥当性についての質問です。今夜、あなたはこの両方に答えられました。これについて、更にご説明を頂けますか?

回答:今夜のレクチャーで答えは語られました。例えば具体的には、従属的な人や偽りの穏やかさを求める人は、正当で行動に移すべき憤りにさえ気づかないことがあると言いました。人格がこの側面で内的健康に至れば、不正や挑発への反論は健全なものになるでしょう。そのような境地に達するまでは、実際の挑発による正当な憤りと、非現実的、あるいは自ら招いた挑発による不当な憤りを区別するのは極めて困難です。この道での広範囲のワークでのみ、あなたは最終的に迷いや罪悪感なく、又自らの正しさを確認してくれる味方の必要もなく、いつ自己主張すべきでいつすべきでないのかを疑いの余地なく理解できる境地に到達するでしょう。あなたは自らそう選択するが故に自由に振る舞い、その選択はどちらの方向にも内なる強制なしに行われます。

親愛なる友よ、皆さん一人ひとりに祝福を。あらゆる方向で自分自身をより深く理解することができるよう、内なる最奥の自己を開いて受け取ってください。あらゆる外的な摩擦が、内的な摩擦を認識する為の助けとなりますように。これらの言葉と共に、あなた方を祝福し、私達の愛の全てを込めて皆さんを力づけます。

平和の内に、神の内にあれ!

*レクチャー84番

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