top of page

No.88 宗教 真実と偽り

Pathwork Guide Lecture No. 88
1996年版
1961年9月15日


宗教「真実と偽り」
RELIGION: TRUE AND FALSE


 親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さん全員に祝福を。遠い昔から、人類に真の宗教を伝えることに神聖な努力は注がれてきました。しかし、その努力には避けられない反応が伴われました。それは、皆さんが考えるような反宗教的なものではなく、偽りの宗教です。この歪みは、偽りのものに見せかけの真実を加えることで助長されました。宗教の歴史を辿れば、偽りの宗教から真の宗教へと向かう幾度となく立ち戻りながらも徐々に進んでいる、明白な方向性を見出せるでしょう。特に近年では、あらゆる激動や混乱にも関わらず、あるいはそれ故に、真の宗教へと向かう傾向はかつてない程に強まっています。

 真の宗教と偽りの宗教の主な違いは何でしょう?主な決定的要因のひとつは、偽りの宗教においては、権威への服従が大きな拠り所のひとつだということです。宗教によって多少の差はありますが、全ての宗教において、この服従の概念は重要な役割を果たします。真の宗教は服従しません。それは自由です。真の宗教は、理解から生まれる自由で自己決定的な行為であり、それは自発的なプロセスなのです。人々が、自分よりもパワフルな存在である権威を喜ばせる為ではなく、恐れからでもなく、自らの信念に基づいて行動させるのが真の宗教です。

 自由にさせるには、人類はあまりに自らの熱情に支配され過ぎていたという、半ば真実で部分的にしか正当性のない議論の下、宗教の擁護者は権威への服従を奨励してきました。つまり、社会を守る為に、服従を強調する必要があったのです。


 表面上、これは正しいように思えるかもしれません。しかし、現実では違います。人類全体が破壊的衝動から自由になる程には発達していないことは事実ですが、そのような破壊を防ぐ法と宗教とを結びつける必要はありません。言い換えれば、宗教で、犯罪を防ぐ為に厳格な神の権威という概念を伝える必要はないのです。市民法を通してそれを実現する手段もあります。人類の最も弱く、最も病んで、最も未熟な傾向を助長することで、宗教を歪め、真実を覆い隠す必要はありません。偽りの宗教を維持する為に利用されるのは、まさにこのような傾向なのです。


 この道でのワークから、あなた方は既にご存知でしょう。あなたの大きな葛藤のひとつは、保護された依存的な子供のままでいて、見たところの大人の苦労、自己責任、自立を拒絶したいという無意識の欲望を乗り越えることです。内なる子供にとっては無力なままでいること、本来は自らが担うべき人生の責任をパワフルな大人の世界、神、あるいはこれらの代用品に強要することの方がずっと良いように思えます。この隠れた態度が人格に及ぼす甚大な悪影響は、それが意識化された時にのみ明らかになります。しかし無意識の内にあなたはこの意識と戦い、子供のままでいれば大人でいることの不利益を回避できると希望的に考え、同時に、長引く子供時代の悲劇的な不利益に向き合うことも拒否します。この魂を蝕むような態度は、最終的に本当にあなたを無力にすることに成功します。その間、責任を引き受けてくれることを願っている神の権威は、全くそこにはいないのです。それが今度は、苦々しさ、反抗心、深い不公平感を生み出します。あなたは騙されたと感じます。結局、あなたは文字通り服従してきたのです。しかし、この種の服従は常に誤った動機に基づいています。「服従すれば、あなたは私を守ってくれる。私の代わりに決めてもらえる。私が責任を問われることはなく、従順な小さな子供であることで、幸せという報いを得るだろう。」神はそのような不健全な態度に「報いる」ことはないので、あなたは騙されたように感じざるを得ません。あなたはこの世の不公平を感じざるを得ないのです。

 偽りの宗教は、まさにこの病的な傾向を助長し、利用してきました。それは人間が容易に従属的で依存的な態度に陥るよう、規則や教義を定め、法をあまりにも硬直した概念へと歪めました。偽りの宗教は恐れ、依存、無力感、そして大抵は極めて捉えにくく屈辱的でもある迎合の傾向を助長しました。これが自己軽蔑や恥という更なる悪影響を生み、他者だけでなく自らに対しても破滅的な結果をもたらします。反抗は、こうした感情の一連に続いて起こる筈なのです。

 人格において、恐れ、臆病、非主張性、迎合、服従が優勢の場合、必ず反抗も存在している筈です。表面上は現れていないかもしれませんが、存在している筈なのです!疑いの余地はありません。このレベルの反抗、苦々しさ、敵意、攻撃性を見出すことはかなりの戦いとなるでしょう。この戦いは「善良な人」という大切な自己イメージを手放すことへの抵抗によって生じます。そのような「善良さ」へのニーズは、自分が子供として世話されることが必要であると、大人の世界、神、人生、人間の権威に認めさせる為に、無力な子供であり続けようとする隠れた努力から生じます。そして、そのような慈悲深い世話を受ける「価値」があるのは、子供が「善良さ」を保ち続ける間だけです。

 同様に、もし独立性を過度に重視し、敵対的で支配的な傾向、強情さ、あらゆる法やルールを否定するような人がいるとしたら、本人の意識からは隠れていたとしても、恐れ、卑屈な迎合、無力感も存在していると言えるでしょう。こうした傾向を取り巻く恥はとても大きいので、外的人格は真の特質のお粗末な模倣である偽りの自由や独立を装います。そのような人々は、人生の苦闘を避けたいと非常に強く願うあまり、主に怯える迎合的なタイプのようにふるまいます。しかし、この弱さと、自分自身の方法を得られないことへの失望を恥じています。無意識の内に、彼らは孤独を感じます。神、人生、人間の権威によって拒絶されたと感じます。この恥は、どんな犠牲を払ってでも隠さねばなりません。

 大抵はより微妙な混合や組み合わせで現れるものですが、どちらの大雑把なタイプも、勿論、親の影響や幼少期の経験に起因した心理的な逸脱を常に表しています。しかしながら、これらの顕現を霊的かつ宗教的な観点から検討することも重要でしょう。これらの態度を十分に認識して理解すれば、意識的な信念から、あなたが内面でどれだけ逸脱しているかが明らかになります。

 ですから、外面的な宗教の信仰、服従、迎合がある場合、しがみつくような無力さのみならず、あなたが必要とするものや欲しいものを与え、手を引いて導き、人生を正し、この地上から残酷さと不正、苦しみや痛みを取り除く神が現れなかったという隠れた恨みも見つけ出してください。このような一般的な不満は「世話されない」という内的な主観の失望によってもたらされます。明白な反抗心や攻撃性、過剰な自立への衝動を見つけたら、あなたにとって完全に良いものである権威の強い手への願いと、それが得られなかった失望を心の奥底で探してみてください。

 あなたの魂の奥深くに偽りの宗教が存在する場所を突き止めるのは自己探求の課題の一部です。その背後に成長を拒否する子供じみた傾向を隠し、いわば宗教的教えを借りて言い訳にしている場所です。

 無意識の信念によって損なわれると、意識的な正しい意見は殆ど価値がなくなります。これらの正しい考えを生き、経験し、感じなければ、それらは無力になります。空っぽです。信念は感情レベルに組み込まれ、人格構造全体に統合されて初めて力を持つのです。自らの信念や、熟知している霊的法則に反する出来事が自分に起こるのは何故なのか、疑問を抱く時は常に、少なくとも何らかの点で内的に逸脱していることが分かるでしょう。あなたの課題は、自分が無意識の内にどのように、どの程度、正しい意識的な意見から逸脱しているのか見つけることです。神は善意の権威でも敵意の権威でもありません。神は私達を自由にしてくれましたが、成長するのは私達次第だということをあなたは十分に理解しています。それでも多くの場合、そのような知識から、感情は完全に逸脱していることに気づくでしょう。

 多くの転生と幼少期を通して抱えてきた問題は、このような無意識の葛藤を表面化させる助けとなっています。しかし、盲目的な服従を促す宗教の傾向も又、同様の影響を与えます。どちらの要因も、無力感、偽善、迎合によって、又は過剰な独立心、反抗心、偽りの強靭さによって、あるいはその両方の組み合わせによって、歪められた人格を生み出します。どちらの場合も、あなたは何かを隠し、他者や自分自身に隠されたものはないことを熱心に証明しようとします。一方の場合では、反抗心や敵意を隠し、他方の場合では、無力感や保護されることへの欲望、迎合して偽りの「良い子」になる傾向を隠します。

 これらの歪みを見つけ出し、追跡し、理解し、解決することによって成長し、更に強く幸せな人間になるだけではなく、あなたは又、偽りの宗教を除去し、世界全体における真の宗教への置き換えに向けて、現時点で気づいている以上の貢献を果たしています。

 偽りの宗教が奨励し、教えるような服従は、自由な人間が神性を成就できるという考えとは全く相容れません。宗教、そして個人の魂から盲目的服従が取り除かれると、宗教における真に良きものであり、賢明で、愛に満ちたものへの抵抗は消えてなくなります。何故なら、宗教がしばしば多くの人々に帯びさせる、偽善的かつ独善的な態度の色合いが失われるからです。真の宗教、本物の霊性が本来目指すのは、正義が分配されるのを待つのではなく、自分自身の正義を見出せるよう、自らを解放し、強くし、責任を引き受けられるようにすることです。例え、弱さや権威への執着が意識的で世俗的な形であったとしても、誤った態度は、自らに課した無力感を解消できないどころか、その無力感を助長し、同様に偽りの宗教をも助長します。従って、そのような未熟さや魂の逸脱は、偽りの権威主義的な宗教と密接な関りがあることを理解せねばなりません。あらゆる偽りのものは常に、同じような偽りの対抗策をもたらします。

 ですから、微かに深く隠れた魂の奥底で、以下のように期待している部分を見つけてください。神があなたの為に生きて、あなたの為に決断し、あなたに望み通りの結果をもたらしてくれることを。あなたが自由になり、成熟すると決心さえすれば自分で獲得できるものを、わざわざ神が与えてくれることを。今気づくことができる以上に有害な、この要素を自分自身の内に見つけてください。あなたはこの隠れた態度によって、自らを不具にしています。真実を偽りの松葉杖のように扱っているのです。

 偽りの宗教は、完全な無神論や唯物主義以上に、真の宗教に害を及ぼします。何故なら、それは真実、人類の自由の尊厳、神の力を茶番にしてしまうからです。それは反宗教主義者達から、強力な議論を引き出す要因になります。ですから、自らの足でしっかりと立つことを恐れ、しがみついている場所を見つけることが非常に重要になります。最初は、この要素を自らの内にどのように見つけたら良いのか戸惑うかもしれません。この目標に焦点が合っていれば、何処から始めても構いません。羨望、苦々しさ、恐れ、無力感、そして全てが暗示される自己憐憫といった否定的感情を扱ってください。これらの感情を一度確認すれば、自らが霊的かつ感情的な幼稚さにしがみついている部分を探すことは、それ程は難しくありません。例え、自分には当てはまらないと思っても、この方向を探してください。本当に真実を見つけたいのなら、必ず見つかります。これまでも見つけて来ましたね。無力な子供のままでいたいという無意識の執着に一度気づいたら、あなたはそれが自らの弱さ、無力さ、人生への絶え間ない恐れの原因であると直ぐに気づくでしょう。しかし、あなたは自分自身を更に無力にし、より恐れさせ、弱くすることで、この発見と戦います。これを本当に見て理解すれば、あなたは変わり始め、強さを増していくでしょう。あなたは最早、自らで得るべきもの、自分の為に得られるだけ強くなれるもの、これらを神に与えてくれと望むことはなくなります。そのことが、あなたに自尊心と安心感を与えるでしょう。努力や責任を避けようと、自分よりも強い権威にしがみついている限り、自己嫌悪や自己軽蔑を感じずにはいられず、益々弱く、更に無力になってしまいます。

 このような権威との関係性は、世界全体に迎合すべきだという漠然とした感覚を生むことがあります。それは特定の人々に対しても感じ得ることであり、それが実際、以前にお話しした神のイメージ*につながるあなたの神の概念でもあり得ます。この偽りの神のイメージは、偽りの宗教と、子供のままでいたいという無意識の執着が結びついて生み出されるのです。

 偽りの宗教を手放し、真の宗教を受け入れる過渡期には、無の段階が訪れます。これは実に困難な段階です。この段階では偽りの神が消え去り、真の神は未だあなたの存在を捉えることができず、あなたは孤独を感じます。あなたの信仰の全てが、この段階で崩れ始めるかもしれません。あなたは神の存在そのものに疑問を募らせているかもしれません。これは、霊的な幼稚さの部分である、偽りの安心感、逃避、拠り所を取り除いた結果です。あなたの子供じみた概念の神は存在しないので、一時的に神そのものが全く存在しないように見えるのです。

 しかし、偽りの宗教とその神のイメージが消えるにつれて、一時的に孤独を感じながらも、あなたが気づくずっと前から内なる力は成長し始めています。勿論、この一時的な状況に打ちのめされることなく、ワークを続けているならばですが。全体となり、強く、自立する為に、自ら進んで引き受ける覚悟が必要です。この一時的な状態に押しつぶされ、人生や苦闘を捨てることがないよう決意せねばなりません。そのような状態に陥ると、自由で強い人間にはなれません。あなたは再び、誤解を招く、偽りの宗教の浅薄な心地良さに陥ってしまうかもしれません。孤独だからこそ自らの強さを培うことができれば、あなたは勝利し、自らの態度と努力をもって、真の宗教への道を切り拓くでしょう。これが、幻影の神を手放し、真の神、すなわち内なる自由を育む唯一の方法です。神への道は、孤独を受け入れることにあります。このような受け入れは、あなたがそう成りたいと願う、神なる被造物(生きもの)に不可欠な独立と自己責任を強めてくれます。

 これらの言葉を知的、表層的に理解するだけでなく、自らの内にある同じような感情、傾向、反応に向き合って暫くワークした後、以前よりもふたつのことを遥かに深く理解できます。ひとつ目は、二元性**についてのレクチャーです。死や未知を受け入れることだけが、人生や幸福を受け入れる為の唯一の前提条件です。それは、自らの恐れや疑いを避ける為に希望観測的な霊性で死を受け入れるのではなく、恐れや孤独に直面した時の松葉杖として宗教を利用するのでもなく、それらを認識し、勇敢に向かい合うのです。そうして初めて真の宗教と知識は、逃避の為の偽りの宗教や恐れを隠すだけの漠然とした信念に取って代わることができます。

 ここに相互関係があります。死と未知を受け入れることは、独立や自己責任を受け入れることと繋がっています。どちらも霊的かつ感情的に大人であること、自由、成長、創造性、強さ、自己信頼、真の安全を示します。偽りの宗教の感情的状態は、以下の言葉で表せます。「私は弱くて無力な罪人だ。幸せを私に許してくれる権威なしには、神なしには、私は何もできない。この神は、私に対して良くも悪くもなる権利を持っている。しかし、私が服従して迎合すれば、神は私に好意を示してくれるだろう。少なくとも私はそう願っている。」

 屈辱の感覚から、あなたは謙虚さを育て始めます。大抵は理解していない、しがみつくような迎合や盲目的な服従から、あなたは自己責任を引き受ける強い存在に成長し、人生で必要なものを手に入れる自らの能力を信頼するようになるでしょう。今、あなたには偽りの宗教、偽りの慰めという幻想を手放す勇気が必要なのです。この一時的な状態をやり遂げれば、あなたの強さは真実から来ます。

 ふたつ目の点は、私が長期にわたって霊的な観点よりも、心理的な観点を強調してきた理由です。皆さんの誰ひとりとして、霊性の歪みから解放されている人はいません。つまり、霊性を逃げ道、弱さの代償、恐れの慰め、自らの努力で容易に得られるものを神に与えてもらおうと迎合する試みとして利用するからです。宗教が代用品となる時、暫くは役に立つでしょう。それは不当な恐れを和らげるかもしれません。しかし、長い目で見れば、それはあなたとあなたの成長を害することになります。私は時々、霊的な真実を直接延べることを控えなければならない時があります。あなた方の潜在意識が誤解して、それを誤用するからです。しかし、あなたが問題を解決すればする程、あなたの偽りの宗教に屈する傾向を強める危険を冒さずに、真実を述べることが安全になります。そうすれば、真の宗教は教義からではなく、あなた自身の強さから生まれるでしょう。それは、今あなたが無意識に期待しているように外からもたらされるのではなく、内から生まれます。

 外側の存在から与えられるのではなく、自らの資質や強さを育むことは、決して神聖さに劣るものではありません。むしろ逆です。この理解があれば、イメージ、歪曲、誤った結論、偽りの解決策等の心理的逸脱が、あなたが目指す霊性に直接矛盾する点を確認する為に、私が定期的に霊的なアプローチに立ち戻ることが、あなたの気に障ることもなくなります。
そうして初めて、このふたつのテーマが無関係ではないことを完全に理解できるでしょう。一方は他方にとって不可欠な部分なのです。

 さて友よ、このテーマに関してご質問はありますか?

 質問:誤った態度と比較して、真の宗教とは何かを説明していただけますか?神が救いであると感じないのなら、神への信仰は何処に向かうのでしょうか?私には良く理解できないのですが。

 回答:松葉杖を捨てて真の宗教に達すれば、神が救いであると感じるでしょう。しかし、全く異なる意味において感じるのです。今、あなたは自らを無力にしているので、神の救いを必要としています。それからあなたは、宇宙とその法則の完全性を認識し、自らがその不可欠な一部として貢献していることを認識する為、神の救いを感じるようになるでしょう。自分が人生の原動力であることを感じるでしょう。本当にそう望むのであり、何かを犠牲にする覚悟があるならば、あなたは自らを救うことができます。

 例えば、あなたがある方向での幸せを望んでいるとしましょう。漠然とした感情ではなく、明確に定められた目標としての幸せです。あなたは探求し、これまでどのようにしてこの幸せを妨げてきたのか、そして今、自らの努力でそれを得る為に何ができるのかを見つけ出します。その幸せがあなたに何を求めているのか理解します。これらの要求に応えることに価値があると判断して要求を満たすか、あるいは回避するかはあなた次第です。そのようなあなたの魂の中には、自分が無視され、不当に扱われている子供だという辛い気持ちはないでしょう。真の宗教とは、霊的かつ感情的な成熟です。自ら手に入れようとしない物をあなたに与えることが神の役割ではありません。しかし、あなたが充実への自らの障害物を取り除くことによって動き始めさえすれば、神の意識は、神の世界の素晴らしさ、そして又、あなたには未だ認識していない程の力があることを明らかにするでしょう。

 人生の困難を乗り越えられるよう神に救いを求め、それからただ座って待つような時、偽りの宗教的な態度が生じます。何故その困難を抱えているのか十分に吟味しようとしません。権威のある誰かにそうするよう言われたからという理由で、強引にそうするかもしれません。しかし、詳しく調べながらも、自らはその困難とは何の関係もないことを証明しようとしがちです。それは否応なくあなたに振りかかってきたもので、神が特別の計らいで介入しない限り、そこから抜け出す方法はないという姿勢です。内なる意志や気力を奮い起こして、独自の創造性で本当に欲しいものを手に入れる方法を見つけることをしないのです。

 神はあなたの中にいます。神の力は、外から来るのを待つものではなく、あなたが結集すれば自らの内にあります。そして、これらの力の結集は、あなたが何らかの有害で破壊的な姿勢を手放すことによってのみ可能です。繰り返しますが、その破壊的な姿勢を見つけるのは、あなた自身です。このような態度がもたらす強さと安心感は、神との全く異なる関係性だけでなく、全く異なる神の概念を与えてくれます。感情的には同じ言葉であることが多いかもしれませんが、概念や内面の状況は変わるでしょう。

 多くの場合、真の宗教でも偽りの宗教でも言葉は同じですが、内的体験は全く異なります。真の宗教も偽りの宗教も、神の恩寵は存在すると言います。例えあなたがひとりでいたとしても、神の恩寵は存在します。しかしこの理解は、あなたが自ら責任を負うまでは得られません。神の恩寵があなたの人間的な怠惰や貪欲を補ってくれると期待している限り、それを認めるかどうかは別として、あなたは失望するに違いありません。そして、傷つき、怒り、反抗的になります。そしてあなたは、宇宙における神の存在そのものを否定して完全に神に背を向けるか、自らを神の恩寵と救いに値しない部分と不当に扱われた部分とが混在する、孤立して見捨てられた存在だと考えます。そして、罪悪感と自己憐憫に浸るのです。これにより、あなたは更に依存的で無力になります。そして、神に対する反抗心を贖う為に、表面的で最も病的な動機による恐れから、更なる服従をするという悪循環が続きます。

 質問:分かりました。でも、どうすれば良いのですか?何十年もの間、偽りの姿勢を教わってきたので、その神のイメージは非常に深く根付いています。その概念を捨てたら、祈りも変わるのではないですか?全てが変わるのではないですか?

 回答:はい、勿論です。いいですか、我が子よ。「今、私の神のイメージを捨てよう。」とは言えません。簡単にマインドの中で決められるものではないのです。そうはいきません。単に外的な決断だけで変えようとすれば、その感情的な影響は残り続けます。内的な決断をするには、このワークでいつも行っている同じ手順が必要です。これらの姿勢を見つけ出し、より深く理解してください。これをただ表面的に行うのではなく、深く行えば、あなた方が幼児期をいかに強引に永続させてきたのかを知って驚くでしょう。特定の感情的行動パターンを分析して理解すると、その姿勢がいかに不合理なのか、いかに自らの意識的な信念と相容れないか、いかに自らの最善の利益に反するか、いかに論理的に不可能であるかに気づくでしょう。これら全てを見て理解したら、変化は自然に起こります。十分な洞察を得て変化が起こるには、一定期間の自己観察が必要です。

 これらの微妙で目立たない感情的反応を見つけねばなりません。それは明白でも強くもありません。又、完全に無意識でもありません。それは確かにそこにありますが、微かで、あなたはそれに慣れ過ぎていて何の異常も見えません。最初の段階は、それを見つけて分析することです。次にそれを、このレクチャーに照らし合わせて見つめ直します。そこから、あなたの姿勢が自然に変わる為、神のイメージの解消に役立ちます。例えば、あなたが本当は何を期待しているのか、心の中にどのような不満があるのかに気づくでしょう。それらの期待を実現する為に自分に何ができるかに気づき、これまで何故そうしなかったのかを理解します。これが手順です。

 この神のイメージに気づいているという事実は、非常に幸運なことです。全く気づいていない人が多くいます。そのような人は、この点で自らの内にこの歪みがあるとは思っていません。特定の感情的反応をこの神のイメージや、偽りの宗教的態度とは結びつけません。意識的な正しい信念で満ち溢れていても、無意識の概念は依然として気づきから遠くかけ離れ過ぎています。

 質問:真実から最もかけ離れているのはどの宗教ですか?

 回答:そのようなことは言えません。ある宗教宗派には、より真実に近い教えがあるかもしれませんが、別の宗教宗派の教えはそれ程真実に近くなくても、全体的な姿勢において、より真実に近い場合もあります。そのような比較をするのは危険であることに加え、その質問自体も重要ではありません。

質問:キリストの最後の言葉の内のひとつは「父よ、御心が行われますように。」でした。それを例にとると、これは服従を意味していたかもしれないし、自由を意味していたかもしれません。

 回答:その通りです。前にも言ったように、言葉は大抵同じです。真実の本質は理解しようとする意欲と能力なので、真実はいとも簡単に誤解されます。例えば、今夜私がお話ししたことから、神の恩寵などあり得ないと結論づけることも容易にできます。あなたが自由で自立している筈なら、恩寵は何処に来るのでしょう?あなたに恩寵の必要はなくなるのでしょうか。それは真実ではありません。恩寵は確かに存在します。しかし、この真の内なる宗教体験に達しない限り、いかなる言葉も恩寵の概念を伝えることはできません。最早、自らの弱さの代わりとして恩寵を必要としなくなり、弱さを武器にしなくなれば、あなたは強くなるでしょう。暫くの間、恩寵を理解することなく生きるかもしれませんが、やがて真の概念が明らかになります。言い換えると、最初にこの一時的な孤独の状態を経験せねばならないのです。偉大な神秘主義者たちはこれを「魂の暗夜」と呼びます。

 先程言われた「御心が行われますように。」という言葉を正しく理解するなら、このような意味でしょう。「私は小さな身勝手さや限られた見方を手放し、神聖なるものが私の元に来られるよう自分自身を開きます。」それは外からではなく内から、深い知識と確信としてやって来ます。しかしそれは、あなたがその気づきから自らを切り離さない場合に限ります。神聖なるものとの統一の経験は、あなたが手放すことを学び、硬直することをやめた時にのみ起こります。

 「御心が行われますように。」の誤った意味は、人間を弱く愚かに見せ、自分に代わって行動して決断を下す別の存在を必要とするように仕向けます。多くの場合、この別の存在は、神の代理人を主張する人間の権威や教会の権威です。「御心が行われますように。」とは、服従を意味するものではありません。より偉大な叡智があなたの一部となるように、自分自身をできる限り開放することを意味します。

 質問:あなたのお話から、宗教とは探求や自己実現を通して、個々の魂が最適な境地へと成長することだと明確になりました。教会は長年にわたり支配的な役割を果たしてきましたが、その役割はいずれ失われるように思われます。

 回答:はい、確かにそうなるでしょう。より多くの人々が自己認識の道を歩み、自らの資質を成長させ、発達させていく時、最早、権威は必要とされなくなるでしょう。未だ十分に発達していない人々については、その制御不能で破壊的な衝動から社会を守る為には人間の法律があれば十分でしょう。真に神聖なものは自由な魂の中でのみ機能できます。それは実現するでしょう。歴史の流れ全体が、その方向を示しています。

 質問:仲間との付き合いについてのお話がありました。時にはひとりになる時も必要です。ひとりでいるのが適切な時かどうか、どのように判断できますか?

 回答:答えは簡単ですが、必ずしも簡単に分かるとは限りません。自らの感情的反応を調べて、ひとりでいることの恐れから仲間を求めていると感じるなら、少なくとも部分的には、それは不健全な動機から生じています。引きこもりの傾向が強く、人との関わりを恐れてひとりでいたいと思うなら、その場合もまた少なくとも部分的に、不健全な動機から孤独を望んでいます。言い換えれば、どちらの傾向も健全にも不健全にもなり得ます。統合された人間には、仲間との交流と孤独の両方が必要です。そしてどちらも、恐れている何かを避ける為ではなく、建設的な理由から得られます。正しい答えを得るには、厳密な自己省察を行うしかありません。

 真実は厳格な法則として述べるものではないことが、益々分かるでしょう。それは常に、あなたがどう感じているか、そしてその根底にある動機が何かに左右されます。

 質問:自分の内なる葛藤を表現する言葉を探そうとするのですが、言葉が大げさに聞こえます。どうすれば、探求でみつけたものと言葉の整合性を保てますか?

 回答:まず、自らをドラマ化する理由を深く理解する必要があります。それを理解すれば、そのニーズは減るでしょう。言葉と感情の間により釣り合いの取れた関係が生まれます。繰り返しますが、ドラマ化を止める為に自己鍛錬をするのは解決策ではありません。例え成功したとしても、別の、おそらくより有害な症状が現れます。むしろ、そのような顕現を有益な症状として活用しましょう。

 質問:言葉を評価することでそれはできますか?

 回答:勿論です。それはあなたの個人のワークの一部になります。どの言葉を何故使うのか、というように。

 質問:多くの場合、潜在意識同士がコミュニケーションをとるのは簡単です。しかし、突き抜けることができない程、強い障壁がある場合もあります。相手が答えを求めているにも関わらず、相手に耳を傾けず、メッセージを伝えることができません。

 回答:そのような人は限定的な答え、つまり自らのディフェンスと両立する答えだけを求めています。彼らは不快な答えは求めません。その為、あなたの呼びかけが聞こえない程の強い内的抵抗を引き起こします。自分に向けられた言葉を理解できないのです。このようなマインドの人には、無理やり課題を強いるような態度で接しないことです。相手の抵抗を突き抜けたいと思えば思う程、あなたの欲求不満と焦りは大きくなります。これは相手にも影響を与え、抵抗を更に強めてしまいます。又、自らの欲求不満や焦りの原因を分析することも非常に役に立ちます。それは単に助けたいという、ただの善意ではないかもしれません。何らかの形で、あなたの能力への感覚が関わっている可能性があります。あるいは相手が真実を受け入れることに、非現実的な切迫性を感じているかもしれません。そのような流れがある時は常に、相互の悪影響が生じており、双方の内面的な問題が悪化します。しかし、あなたが内面でどのような隠れた役割を演じているかを知っていることは、おそらく双方にとって有益でしょう。もし、あなたに否定的な問題の傾向がなければ、他者の限界を受け入れるのは簡単です。あなたもそれはご存知ですね。さて、これが多くの人にも当てはまる一般的な答えです。

 今夜話し合った内容に不明な点があれば、次回喜んで詳しく説明しましょう。

 これらの言葉が皆さんの感情に響きわたりますように。このレクチャーがあなたに影響を与えるがままにすれば、多くの刺激が得られるでしょう!それは良いことです。皆さんのこれからの一年、そして目前のワークへの私達の祝福を与えます。確かに、救いは与えられています。しかし、それが皆さん自身の努力や奮闘とは関係なく外側からもたらされ、そもそも自分自身から呼び起こすものではないと感じている可能性を認識するようにしてください。

 これをもって、親愛なる皆さんに祝福を!皆さん全員に愛と平和を。神の内に!


* 「パスワーク」4章 本当の神と神のイメージ
** レクチャー#81 二元性の世界における葛藤


###


以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、the Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。








© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page