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No.90 道徳化:不釣り合いな反応:ニーズ

Pathwork Guide Lecture No. 90
1996年版
1961年10月13日


道徳化:不釣り合いな反応:ニーズ
MORALIZING -- DISPROPORTIONATE REACTIONS -- NEEDS


親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さんに神の祝福を。この時間は祝福されています。

前回のレクチャーでは、自らの感情に気づくことの重要性についてお話ししました。感情の成長全般がおろそかにされることについてもお話ししました。今夜は、感情を表層意識まで到達させた時に、どのような発見が期待できるのかに注目したいと思います。

感情を抑圧することを止めると、敵意、恨み、攻撃性、嫉妬のように明確な個々の否定的感情のみならず、特定の心理状態にも気づくようになります。それらの存在と意義を認識することは重要です。それらは現実のものですか?成熟したものですか?これらの質問をすることで、あなたが意識的であろうと無意識であろうと罪悪感を抱いている否定的感情が、どのように繁殖するのか理解できるでしょう。

そのような状態について三つ程お話ししましょう。ひとつ目は、自分自身に対して、ひいては他者に対しても道徳的にふるまう傾向です。このような道徳的優越性は外見的には全く現れない場合が多いのです。実際、外見的には全く逆のように見えるかもしれません。しかし、内なる道徳観は、ある程度、全ての人間に存在します。理想化された自己像、自分自身ひいては他者に対しての過剰な要求や期待との繋がりから、私達は既にこのことについて話し合ってきました。しかし、私達は道徳的な観点から、そのような完璧主義的な期待について論じていた訳ではありません。何故なら、もし自らに不可能な基準を求める場合、道徳化が必然的な結果となるからです。

このような道徳化が、どれ程あなたが目指す善性や真実の生き生きとした精神を抑えつけるのか、あなたをいかに傲慢で不寛容にするのか、いかに自己受容の謙虚さを阻害し、自らを好きになれなくするのかを示したいと思います。この理解なしに、自尊心は不可能です。

これら全ては、あなたの感情の中に見つけられます。理論を理解することは大事ですが、自らの内にあるこれらの傾向を経験することは全く別のことです。自らの感情の深みを探求し、その重要性を明確に理解することでのみ、有害な傾向を変えることが可能になります。この道徳化の傾向は、外見上あらゆる道徳的な法や規則にかなり反抗的に見える人々にも、微妙な形で様々に存在している可能性があります。この現象をどのような言葉で説明しようとも、その存在を発見することは間違いなく進歩を示しています。これからこのテーマについて更に詳しく取り上げ、あなたがこれまで理解できなかったであろう繋がりを明らかにしましょう。これは、私がこれからお話しする他のふたつの現象、不釣り合いな反応とニーズにも当てはまります。

道徳化の意味は何でしょう?あなたは無造作にこう尋ねるかもしれません。「それの何がいけないのですか?宗教のみならず、あらゆる哲学においても、善性、良識、正義の大切さを私達は教えられていませんか?これらの規則は守るべきでしょう?必要ではないのですか?規則なしには、私達はそれ程良い人にはなれないかもしれません。」これまで何度も述べてきたように、人類は外的な法なしに生きるには未発達過ぎるというのは事実です。行動においては、そのような法は保護として働き、必要不可欠です。しかし、否定的な衝動や感情から完全に自由であることを自らに期待しながら、それが在るという理由で自らを拒絶するのであれば全く別な話です。その時点でのありのままの自分を受け入れられないと、自らが認めないものを隠そうとするようになり、危機によって否定的な面が表面化する度に、自分自身に対して厳格で、硬直した、道徳的な態度をとるようになります。

自分自身が完璧には程遠いと知っていることと、感ぜずにはいられないことを感じることをいかなる時にも自らに禁じ、あなたが頻繁にしているように、その為に自分自身の全てを嫌うこととは全く別の話です。例え、無意識であったとしても。

「良いか悪いか」に基づく厳しい自己道徳化によって「正しい」行いが動機づけられている限り、あなたの善良さや正義は本物ではありません。それは自然な洞察や内なる成長からではなく、自らの不完全さへの恐れから来ています。従って、そのような「善良さ」には効果がなく、自分自身にも他者にも納得がいくものにはなりません。それは選択ではなく強迫観念です。強迫観念に囚われている時には、あなたは現実にはいられません。何故なら、現実は善か悪かの極端な用語では評価できないからです。これらの用語が極めて露骨な問題以外には適応しなくなると、境界線は微妙で曖昧になります。最早、善悪の早急な判断では問題は解決できません。そうなると、自らの魂を深く掘り下げることが不安過ぎるが故に、他所から借りてくる硬直した法や規則にではなく、あなた自身の奥底にしか真実は見つけられないでしょう。しかし、あなたはそこで真実を敢えて見いだそうとしない為、既成の規則に固執し、その瞬間に道徳化するのです。

この傾向がもたらすあらゆる種類の善良さは常に、真の善良さの貧弱で浅薄な模倣に過ぎません。不安が大き過ぎて自らを信頼できないというだけで、自分を律する規則や規制が必要だと考えるのです。更に、規則や規制が不十分な場合が多く、しがみつけるものが何もない為、その不安から抜け出すことはできません。これは更なる悪循環を生みます。

言い換えれば、自分自身を信頼しないならば、抑え切れない本能から自らを守る為に、硬直した道徳規範を借りてくる必要があるのです。あなたは抑え切れない破壊的衝動を行動に移すか、硬直した外的規則に従って生きるか、そのどちらかしか選択肢がないと考えるのです。全くのところ、現実ではこれらは実現可能な選択肢ではありません。健全で建設的な解決策は、内面の成長であり、最終的には破壊的衝動は無くなる筈なのです。しかし、あなたがそこまで成長しておらず、未だその状態でないのならば、破壊的衝動を行動に移さなくても、ただそれに気づくだけで良いのです。そうすれば、自分を完全に悪いと思い込む誤りに陥らず、その衝動を見ることができます。過剰な自己非難は、これからお話しするふたつ目の状態、不釣り合いな反応と関連します。ひとつの不完全さには、自分自身に対する感情体験の全体を色づけする力があります。これは知的で意識的な判断ではなく、感情的反応です。

ある種の否定的な本能や感情から生じるこの極端で否定的な見方は、過度の恐れを引き起こします。自らの不完全さを恐れれば恐れる程、あなたはより厳しく道徳化に努めます。理想化された像の基準が厳しくなればなる程、あなたの表層部はより硬直するでしょう。しかし、それはあなたの真の本質ではありません。自分自身からの疎外は、この苦しい状態の結果であると共にその原因でもあります。硬直性、恐れ、不安、不寛容、あなたの中にこれら全てが存在する原因は自己疎外です。多くの場合、このような自己卑下は他者に投影されます。

理想化された自己像は、あなたが信じているように、他者から愛や承認を勝ち取る為だけではなく、あなたをあなた自身から守る為に用いられるのです。
未熟さや感情的な乱れが存在するところには、何らかの形で規則への固執も存在し、それは常に道徳化の跡を残します。多くの場合、この現象を見抜くのは困難です。これは特定の孤立した領域のみに存在し、極めて間接的にしか現れないことから、見抜くには鋭い目が必要です。この現象を人為的かつ知的なプロセスで見つけようと努力しないようにお勧めします。今のところは、それがあなたの中に確かに存在し、いつかそれを見つけるつもりでいてください。遅かれ早かれ、あなたのワークが導いてくれるでしょう。そうすれば、あなたはそれを完全に認識し、それが内的人生の何処で、どのように当てはまるのかが分かるでしょう。

完璧に生きられないことで、どれ程自らを軽蔑しているか、思いも寄らない否定的な傾向が自らの内にあることで、どれ程自らを受け入れず、好きになれないのかを検証してください。その感情を追い払うのではなく、それに関わらず自分自身を受け入れることを学んでください。破壊的な傾向に関わらず、自らの真の価値を見ることを学びましょう。それが唯一の方法です。自らの内に未だ存在するものを魔法のように消し去ろうとする試みは、抑圧、そしてひいては誤った自己像をもたらします。自己欺瞞に繋がるだけでなく、既成の規則を取り入れることで、真の自己からの疎外も引き起こします。この状態が道徳的な態度と、それに結びつく全ての硬直性を生み出します。

あなたが真の自己の代用としている規則や規制は、必ずしも普遍的なものではないかもしれません。それらは人格、背景、幼少期の教え、状況、気質によって異なります。ある人にとっては誤りであり受け入れられないと思えることも、別の人にとってはそうではないかもしれません。

実際に、この道徳的枠組みは自己の場を取り上げます。つまり、あなたは自分自身よりも規則を信頼するのです。そのような規則は、特定の現実の状況には当てはまらないことが多い為、この信頼は非常に不安定です。何が正しいか分からず、手探りで進まねばならないことも少なくないでしょう。しかし、あなたが間違いも犯すし頻繁に混乱もする人間として、自分自身を受け入れられなければ、この避け難い混乱は、あなたを完全に妨害する力を持つのです。あなたはその妨害を状況のせいにするかもしれませんが、実際には、それは自分自身に対するあなたの態度に起因しています。あなたは常に、最終的な解決策をすぐに見つけたいと願います。この焦りは、答えを知らない、あるいは単に否定的で未熟な反応があると認めると、自らの無価値を証明してしまうという誤った信念によって決定づけられています。

ですから、今この道でまず学ぶべきは、自らが誤りは免れないということのみならず、答えが分からないこともしばしばあるということを受け入れる能力です。このことを学び、同時に自らを好きでいられるなら、ゆっくりと、しかし確実に、あなたの感情は成熟し、反応は変化して、自分自身、そして自然で自発的な自らの反応への健全な信頼が生まれるでしょう。自らに対してより寛容になり、最早、敬意の唯一の根拠として完璧さを必要としなくなるでしょう。

固定された規則という表面的な枠組みを手放すのが難しいのは、あなたは人間として誤りを免れ得ないことを受け入れられないからです。健全で成熟した柔軟な人が、どのように混乱や正しいことを行ないたいという願望に対処するのかは、ここでは敢えて示しません。それは、無理やりで不誠実な反応をあなたから引き出すだけになるでしょう。むしろ、まずは自らへの信頼を失うことなく、自らの不完全さを受け入れることを学ぶべきです。あなた方の多くは、問題が曖昧で、自分が知っている規則や規制が当てはまらないと、とても不満を感じます。まず、最もあなたを悩ませるものを見つけ出す必要があります。それ自体は、それ程不快な状況ではありません。むしろ、あなたがその中で演じている役割、つまり常に完璧な反応を示し、全ての答えを即座に知ることができる理想像に達していないことが問題なのです。これが不可能だと証明されると、あなたは苦々しさや自己憐憫の下で、この不完全さの為に自らを許すことができません。そして、自らを道徳的に責めます。意識的にはそのように認めていなくても「悪い」「誤っている」と思うのです。

このテーマには集中的なワークが必要です。あなた方の何人かは、その特定の側面に気づき始めた方々もいます。ある人にとっては、その発見は自然な進歩です。他の人にとっては、未だそこまで至ってはいませんが、ある種の洞察が導いてくれるでしょう。ですから、注意して見守ってください。自分が完璧ではないからといって、自らを道徳的に責めさせるような厳しい態度が、どのような状況でとられているのかを探してください。状況や、自らの役割を徹底的に調べた上で到達する内なる確信ではなく、先入観や固定された規則を、何処でどのように指針としているのかを発見してください。ある方々にとっては、自分自身や他者に対する内なる硬直性や不寛容さにただ気づくことが、最初の一歩となる場合もあるでしょう。そこから、道は更なる洞察へと繋がります。多くの憂鬱や絶望が、自らに対して達成不可能な期待を抱くことから生じていることは、何度繰り返しても十分ではありません。

ここで、ふたつ目のテーマ、不釣り合いな反応と誇張についてお話ししましょう。以前、自分自身を過剰にドラマチックに表現する傾向についてお話ししました。その時私は、特に特定の人格構造に当てはまる、粗野な外的表出についてのみ言及しました。しかし、この過剰にドラマチックな側面は、外的にはそう見えない人々の中にも存在します。言い換えれば、この傾向が表面に見えない場合もあります。それでも、感情的反応のいくつかのレベルでは、このような誇張は常に存在します。

自らの感情を意識の表面に浮かび上がらせ、その重要性を見極められるようになると、道徳化する態度や今まで気づいていなかった否定的感情に気づくだけでなく、自分自身や他者の反応を本来の意義とは不釣り合いな形で経験していると気づくでしょう。繰り返しますが、皆さんの中にはワークを通して、誇張された感情的反応の存在を既に見つけている人もいます。あなたは少なくとも、個々の出来事においてはある程度、現実と比べて特定の反応が強過ぎることを感じ始めています。これは、否定的な出来事だけでなく、肯定的、あるいは好ましい出来事にも当てはまります。

このようなドラマ化は、世界は完全に良くて幸福か、完全に悪くて不幸かのどちらかという、幼稚な世界観に基づいています。この道筋で一定の発見をした人達でさえ、この態度が未だ自らの内にどの程度あるのか認識していません。この二者択一の態度は、感情障害、未熟さ、不健康の根底であり、特に道徳化の態度や、不釣り合いな感情的反応を創り出します。ただし、意識的あるいは表面的には、それが現れない場合もあります。

例えば、それ自体は取るに足らないちょっとした褒め言葉が、あなたを救うことがあります。通りすがりの承認が、あなたの気分を劇的に変えるかもしれません。同様に、ちょっとした批判や否認で、あなたの気分は完全に台無しになることもあります。落ち込んだり、不機嫌になったりするかもしれません。前者の偏りは過度に自信を高め、後者の偏りは過度に低めます。他にも多くの例がありますが、隠れた感情的反応を表に出すことを学ぶにつれて、これらの内的反応に気づく筈です。どちらの場合も、他者があなたのことをどのように考え、感じているかというたったひとつの側面によって、それが真実か偽りかに関わりなく、あなたは浮き沈みします。前者の場合、あなたは感情的には自分を素晴らしく、善良で、完璧で、愛らしく、非の打ちどころがないと感じます。 後者の場合、ちょっとした批判で、あなたは相手の目からは少なくとも、自分が全く駄目だと感じます。良くお分かりでしょうが、知的に考えれば全く意味がないことである為に、これを見抜くのは非常に困難です。そのような反応が現れる度、あなたはそれを十分に評価しません。あなたは自らの強い反応の原因を、あまり重要ではない別の要因のせいにしたり、そのように反応させた原因を単に無視したりします。感情の真の源泉をすぐに抑え込み、置き換えることで、現実から遠ざかります。あなたは最早、真実の光の中で、周囲の世界との関係において自分自身を見なくなります。

不釣り合いな感情的反応と自己道徳化の関連性は明白です。どちらも二者択一の態度、そして自らに対する厳格な基準や要求に基づいており、それはただの人間であることを受け入れないことで増大します。従って、承認や誉め言葉は、あなたが期待に応えているかのように感じさせます。世界を善で、正しく、美しいものに見せます。このように子供じみた二者択一の態度は、あなたの次の幻滅まで、それが全てで、それが最終的なものだとします。世界は善いもので、美しいから、あなたは自分がこうあるべきだと思うものになれるのだと。一方、否認、批判、失敗も又、最終的なものになります。世界は全て真っ黒で、悪いものだけになります。あなたは自分がこうあるべきだと思うようにはなれません。たったひとつの欠点で視野全体が歪められ、あなたは全て悪く、絶望的で、結果として打ちのめされます。従って、あなたは批判を建設的に受け止めることができません。そうです、あなたは外見的にはそうしているように見えるかもしれませんが、内なる反応は外見とは裏腹です。

成熟の証のひとつは、批判や欲求不満をリラックスさせて、建設的に受け止める力だとよく言われます。成熟した人は現実に存在しているからこそ、そのようにできるのです。彼らは自らに不可能なことを期待せず、完璧でなくても自分をまともで好感の持てる人間として受け入れています。従って、批判されたからといって、自分が全部悪く、全部間違っている訳ではないと知っています。

この道でのワークは、今あなたが本当に感じていることに気づき、真の感情や反応を表出させることを求めています。それがなければ、あなたの真の成長を阻むものを見いだすことはできません。このワークは、外観的な外側のマスクを脱ぎ捨て、そのような幼稚な反応を認める勇気を奮い起こすことを求めています。自らに対する完璧主義的な理想に固執して手放そうとしなければ、感情を表出することが建設的な時でも感情を表すことに抵抗するでしょう。

繰り返しますが、その方法は、これらの感情を変えようとせずに、ただ表に出すことです。何故なら、あなたは未だそれを変えることはできないからです。ただ、自らの内にそのような感情があることを認め、自分自身を受け入れることを学んでください。そうすれば、成長の真の目的ではない、理想化された完璧さを求める強引で不誠実な努力以上に、真の自尊心を高める役に立つでしょう。自らの反応を繰り返し観察するだけで、その力は弱まります。あなたは自らを軽蔑することなく、従って、抑えつけたり道徳化したりすることなく、否定的感情を観察できるようになります。そうあるべきだと思う自分になれないのではないかという、無意識につきまとう疑いは、自らを受け入れ始めるが故に薄れていくでしょう。言うまでもなく、この疑いは根拠あるものですが、あなただけがそのことの不可能を受け入れられず、依然としてそれと戦うのです。こうした疑いと自らへの怒りが静まるにつれ、あなたは自然に現実的で安全な基盤、つまりは実現可能なものの上に築き上げるようになります。つまり、自己受容度に応じて自信も高まるのです。あなたは多くの場合に無意識な自己評価を、達成可能で、可能性があり、実現可能なものに基づいて為すようになります。それ故、あなたは安全なのです。達成不可能なもの、可能性がないもの、実現不可能なものに基づいて自尊心や自己愛を築く時、あなたは不安です。期待が実現可能なものと一致する時にのみ、あなたは安心することができるのです。 

言い換えれば、批判を受けたり、自分自身や他者の失敗によって意志が挫かれたりしても、あなたはそれを穏やかに受け入れることができます。あなたは自らの存在全体が危機に瀕している訳ではなく、実際にはあなた自身、あるいは人生の一側面だけが問題になっていることを理解します。あなたは批判を柔軟に受け止め、そこから学ぶ力が自らにあると知りながら、自らを信頼するようになります。従って、批判に押しつぶされるのではなく、むしろ自分自身や他者への新たな洞察を得られるでしょう。従って、常に防衛が必要な疫病のように、批判、欲求不満、失敗を恐れることは無くなります。

皆さんも良くご存知の通り、防御はそれ自体が破壊的です。防御がなければ、魂は開かれ寛いでおり、常に現実を知覚して内的経験を可能にします。そのような基盤があれば、必然的に得られるものは、偽りではない、本物の安心できる自信や自尊心です。完璧主義的で硬直した基準は、間違いを犯したり、批判を受けたり、失敗の経験を禁じます。それはあなたが受け入れたくない、あなたの誤り易さを指摘します。あなたの奥深くでは、自らが完璧でないこと、時には誤りを犯し、批判を受け、望みが叶えられないことを十分に理解している存在がいます。この内なる知識を否定すれば、真実は否定され、偽りの基盤の上に人生を築こうとし始めます。この知識を受け入れれば、真実を受け入れるだけでなく、真の安心を与えてくれるものの上に人生を築くことになります。あらゆる失敗を含めた自らの人間性に適切に反応する時、あなたは巌の上に築き上げるのです。一方、それを否定すれば、砂の上に築くことになるのです。あなたの安心や自信は、これらの選択肢に基づいています。これらの感情的反応を観察することは、自らの未熟さを観察することを意味します。そうすることでのみ、あなたは成熟するのです。

さてここで、あなたが自らの感情を注意深く観察すると見つかる、三つ目の状態についてお話しします。それは、ニーズという、まさに重要なテーマです。自己理解のより深いレベルに到達するにつれ、かつては無関係な傾向としてしか議論できなかった、様々な傾向の相互の繋がりを更にご説明できるのです。

まず、ニーズとは何かを簡単にまとめてみましょう。ニーズは、真実で現実的なものである場合も、全く想像上の非現実的なものである場合もあります。物理的な領域における、真のニーズの例を挙げましょう。暫く何も食べていなければ、食べ物は確かに必要です。食べ物がなければ生きることはできません。従ってこれは真のニーズです。同様に、食べ物に対して本物ではないニーズを持つこともあります。健康を維持するのに必要な食べ物を身体が受け取っているにも関わらず、不必要な食べ物への渇望が続く場合、それは本物ではないニーズです。この本物ではないニーズは身体的レベルに現れますが、感情的にあるいは霊的に(又は両側面で)障害されたり、誤った扱い方をされたりすることから生じます。

感情的あるいは霊的レベルどちらにも、真のニーズと本物ではないニーズは存在します。人間の人格全体の内的な混乱や誤った扱いから真のニーズが無視されると、本物ではないニーズが何処かで生じます。非現実的なニーズは、常に衝動と渇望の形をとります。その誤った扱い方は人々を無力にし、自らのニーズを満たす為に他者に依存するよう仕向けます。

子供と大人の違いは、子供は実際にあらゆるニーズを他者に依存するという点です。子供は自らのニーズを満たすことができません。本当に成熟した人はそれができます。成熟した人において満たされない感情的なニーズは、必ずしも偽りである訳ではありません。真のニーズである可能性は十分あります。しかし、何らかの内的ブロックが、このニーズを満たすことを不可能にしているに違いありません。誰もがあらゆるレベルで、あらゆるニーズを満たす為に必要な能力を備えています。人格が健全に機能していない場合、この能力が部分的に麻痺したり、誤った方向に導かれていたりすることがあります。

人間は感情面において未発達である傾向があるので、不満足は主に感情的なものであると考えるのは当然です。しかし、このような感情面の未発達は、他のレベルでも現れることがあり、物理的あるいは霊的なニーズも感情的な障害に起因している可能性があります。

真のニーズを満たすことを怠ると、幻想的あるいは想像上のニーズが現れる筈なのです。このようなニーズは、満たされていない真のニーズの症状として捉えるべきです。

過剰に承認を求める欲求は、それ自体が本物ではないニーズだと言う人もいるかもしれませんが、必ずしもそうとは限りません。人間は誰しもある程度は、励まし等の形で時々承認を必要とします。承認欲求が過度であるが故に偽りとなったニーズがある場合、承認、励まし、成功等の真のニーズが知らず知らずの内に失われていることが原因です。しかし、感情的な成長に努める人は、望んでいた承認が得られなかったことで世界を恨むのではなく、正当な欲求を満たす満足を自らがどのように損なったのかに気づこうとするのです。

いつものように、最初のステップでは自らのニーズに気づくことです。あなたの道は、この時点で感情を表に出すことで、その気づきを助けてくれます。その表出が起こり、満たされないニーズによって引き起こされる空虚感を感じて特定できれば、何故、自分が本当に欲していたものを拒んできたのかを理解し始めるのです。真のニーズも本物ではないニーズも、認識したからといって直ぐに満たされる訳ではないことを受け入れねばなりません。まず、満たされないニーズによる欲求不満と共に生きることを学ばねばなりません。それは可能であり、それでも十分に幸せでいられ、自尊心も保てることが分かるでしょう。満たされない気持ちは奈落ではないという、成熟した態度で欲求不満を受け止める力です。この態度を持つことで初めて、何故、満たされない気持ちを引き起こしたのか、どのように引き起こしたのかを見つけられます。これはゆっくりとしたプロセスです。人生は即座に改善されなければならないという、言葉にはならない態度で取り組むと、自分自身について知るべきことは見つけられないでしょう。

この方向に進んでいくと、あなたは自らのニーズを認識できるようになります。そうすると、真のニーズは待つことができるものである一方、本物ではないニーズは過剰で強迫的な力を持つことから、真のニーズと本物ではないニーズの区別を学ぶことができるでしょう。本物ではないニーズはとても強く、それが否定されるとまるで死にそうな気分にさせられるのです。その為、多くの場合、あなたはそれらを抑圧します。

さて、先ほど述べたふたつの感情的側面と満たされないニーズとの関連を見つけましょう。まずは、この三つ全てに共通する要素として、子供じみた二者択一の態度が見てとれます。満たされないニーズによる欲求不満を永遠に続くと捉えると、それに耐えることは不可能です。そのような場合、良いもの、好ましいものは何も経験できないと感じます。子供は、どんな一時的状況も永続的なものだと感じます。あなたの子供じみた感情は、知的理解にも関わらず、依然としてそのように感じているのです。あなたは現状の重要性を誇張します。一時的な欠乏感に浸り、感情的にはそれ以外のことは何も知りません。

第二に、満たされない気持ちは、あなたの不完全さ、人間としての傷つきやすさを露呈します。あなたの完璧主義はこれを許しません。この感情的な逸脱に囚われれば囚われる程、あなたは自らの真のニーズ、満たされていないことの気づき、そこから生まれる建設的な探求を抑圧するようになります。従って、不満は高まり、自らを再生し続け、より差し迫ったものへと変わっていきます。

次の例を考えてみましょう。成熟した愛や感情を他者に与えられない程度に応じて、あなたは他者から愛や感情を受け取りたいという強迫的なニーズを抱くでしょう。あるいは、承認欲求が極めて強い場合、その強さは自らに対する不承認の度合いに比例します。自らの厳しい基準を守れない為、自分自身を道徳化し続けるのです。

自らのニーズに気づくことは非常に重要です。知性だけではできません。自らを感じるがままでいることによってのみ可能です。それができるよう学ぶにつれ、自分がどんなニーズを持っているかに気づいて驚くでしょう。そして、自らのニーズを満たすのを妨げていたものを見極めます。このことについて真の洞察が得られれば得られる程、本物ではないニーズの切迫感はなくなり、真のニーズを満たせるようになります。言うまでもなく、これは他者に対する依存を減らし、その結果、自信を高めることに繋がります。

困難に対処する中で、あなたは自らの力や機知を信頼できるようになります。その為にはまず、ありのままの自分自身を受け入れる必要があります。このような善循環に入ると、自己憐憫、無力感、敵意、罪悪感、恨みといった否定的感情は減少し、最終的に消えて無くなる運命にあります

友よ、道徳化、不釣り合いな反応、ニーズという三つの問題は、未だ見出され続け、感情的に経験され続ける必要があります。これらの感情の深さ、広がり、そして広範囲に及ぶ意義を経験せねばなりません。そうして初めて、あなたは悪循環を断ち切り、善循環を始めることができます。

質問:道徳化と正しさの違いは何ですか?

回答:それはその言葉がどのように使われるかによります。解釈の問題です。「正しさ」は、例えば聖書では正しいことを行うこと、善良であることとして良く使われます。しかし近年では、この言葉は多くの人にとって異なる意味を持つようになっています。人々がこの言葉を使う時、独善性、まさに私がここでお話しした道徳化の性格を思い浮かべます。実際、この使い方は適切です。何故なら、正しさは、先程詳しく論じた誤った態度から生じる為、実際に多くの場合に独善的にもなります。別の言い方をすれば、偽りの善良さ、強引で不誠実な善良さは、多くの人が反発するような道徳化に繋がるということです。真の成長から生じる本物の善良さは、他者にこのような影響を与えることは決してありません。

質問:道徳的な規範を認めず、感情のままに生活を送る人についてはどうですか?

回答:この質問が出るだろうと思っていました。まずは、道徳と道徳化を区別しましょう。これらは同じではありません。次に、私は人々が破壊的な衝動を行動に移すべきだとは、決して言っていません。無頓着に容赦なく破壊的であることと、聖人や超人になりたいと願いながら自らの未発達な側面を受け入れないこととは別の話です。受け入れるというのは、承認したり、行動に移したりすることとは違います。受け入れるとは単に、未だ自らの内に否定的な側面があり、それは乗り越えられた訳ではないと知っているが、それによって自己嫌悪を抱いている訳ではないということです。そのような自己軽蔑は、過度の期待と、ひいては道徳化と関連しています。

ここで、付け加えておきたいのは、まさに自らの不道徳を世間に曝け出す人々こそ、罪悪感に最も深く苛まれている場合が多いということです。その不道徳は恐らく、真の道徳性と独善的な道徳化の区別がつかないことが原因です。その罪悪感は外からは見えないかもしれません。より不道徳な行為に置き換えられている可能性もあります。今この点について、詳細にお話しすると話が逸脱してしまいます。この時点で答えを最も要約するとしたら、あなたが向き合おうとはしていない、依然として存在している現実の不道徳が、自分自身あるいは他者に対
してあなたを道徳化させるのだと言えるでしょう。

あなたにとって、他者の心の状態や感情を判断することは非常に難しいものです。他者の心を読むことはできませんが、障害から解放されて直感が高まれば高まる程、他者の心はより一層感じられるようになるでしょう。このようなことから十分な情報を得ることは不可能なので、この直感が知識から生まれることはあり得ません。しかし、あなたは直感的に、自分自身や他者の失敗に対して寛容さや、不安の欠如を感じるようになるでしょう。

自分自身の中でこの道徳観が発達すると、あなたは直感的に他者の立場を理解できるようになります。最終的に、自らの内で真の道徳が柔軟に生きている地点に達し、偽りの硬直した道徳化の実践は行われなくなります。私がお話ししたことに、道徳規範を捨て去るようにというメッセージが含まれると思った方は、まだその意味を理解していません。しかし、健全で成熟していれば、これらの既存の規範は自分自身のものになります。道徳規範に盲目的に従うことで、そこからスピリットが失われ、生気のない、真実ではないものへと変わります。私の言っていることが分かりますか?

質問:いいえ、分かりません。質疑応答の前のレクチャーでは「道徳化」という言葉が使われていたように思います。今は「道徳」という言葉が使われています。あなたが「道徳化」と呼ぶものには、「諭す」または「独善性」というような、又違う雰囲気があるようにも思えます。例えば、山上の垂訓や黄金律等との比較がなければ、何が正しく何が間違っているのか、どうやって知ることができるのでしょうか?それはあまりにも硬直し過ぎた規則なのでしょうか?

回答:まず第一に、私はこの質問に答える為に、生きている道徳と生気のない道徳化を区別しました。更に、歴史上の偉大な人々が人類にもたらした全ての真理は、真実であり続けると明言しました。それらが真実であり続けるか、偽りになるかは、人類の存在の内なる状態、つまりあなたの感情やマインドによって決まります。これらの偉大な真理にただ従って生きているだけでは、偽りの道徳化も、真の自己に基づく内的成長を基盤とした真の道徳も示しません。それを示すのは、根底で働いている動機や感情的な力です。イエスや他の偉大な師たちの言葉の中に、このレクチャーを裏づける言葉が見つかるでしょう。彼ら教師達は、それぞれの時代に合わせて独自の言葉を用いていましたが、基本的な意味は同じです。

あなたの疑問の大部分は、既に上記の内容で答えられています。静かに検討してみたら、きっと分かるでしょう。今はあまり繰り返すつもりはありません。これだけ繰り返しておきます。規則を必要とすればする程、自らを信頼していないというメッセージは強くなります。これまで宣言され、外的に教えられた真実は全て、あなたの中に生きています。あなたが真の実在に十分に深く入り込もうとしないなら、あなたは決して、自らそれを発見して生きた現実にしていく部分には到達できないでしょう。従って、あなたは外的な規則の順守に依存し続けることになります。例え、これらの規則がどれ程真実で美しくても、それはあなたの中では生きず、真実にもなりません。人類の不安、人間の不完全さへの恐れや否定の中で、人々はかつて生きていたもの、そして再び生きる可能性があるものを借りているのです。必要なのは、自分自身になる勇気、そして自らの内で生かせる、あるいは生かすべきだと思っている硬直した構造を手放す勇気だけです。私が言っている意味が分かりますか?

質問:そうですね、分かった所と分からない所があります。例えば、私がリンゴを盗んだとします。その盗みの行為と盗んでいない行為を比較する手段がなければ、どうして自分が盗んだと分かるのでしょうか?

回答:愛しい子よ、例え人生において盗みは悪いことだと一度も聞いていなかったとしても、大人であるあなたは、他者のものを盗んでいること、そしてそれは相手にとって不当だと理解するでしょう。自己啓発や成長の道を歩んでいない人でも、自らの行動が他者にどのような影響を与えるのか自問すれば、そのことに気づきます。他者との関係において自らに注意を払うことは、何が正しくて何が間違っているかを知ることに繋がります。私が言おうとしているのはまさにこのことです。気づき、注意を払い、原因と結果について考えることは、常に正しく真実であるものをもたらします。

質問:しかし、あなたは道徳化については、全ては硬直していると言いました。

回答:ここに深い誤解があります。あなたは今、私があらゆる道徳的行為は道徳化で硬直していると示唆したと思っているようです。私があなたにお勧めしたのは、これらの傾向が何処にあるのかを見つけることだけです。あなたは今、正しい行動を控えるべきだと信じています。そうではありません。あなたがすべきことは、自らにスーパーマン的な期待を抱いている部分、感情的な存在としては満たすことができない規範を持つ部分、そしてこれらの部分を認めないが為に、全体としての自分自身を受け入れられていない事実を見出すことです。このことが、私の言っている道徳化です。更に、このような道徳化は、大きな問題にはあまり当てはまらず、むしろ人間関係の微妙な機微、単純な良し悪しで測れない微妙な問題に当てはまります。少なくとも感情的には全てを善か悪か、正しいか誤っているかで経験している時に、道徳化は現れます。

あなたは未だ心に秘めている社会的、あるいは不道徳な本能を自ら否定する為、それが内在していることを認めようとしないのです。この否定は道徳化へと続きます。あなたの混乱は、自らの不道徳な本能の自覚が、その行動化に繋がると信じていることから生じます。又、不道徳な衝動の否定は、全体としての自分自身を否定することだと考えている為、混乱します。あなた方は今、自らがこのように信じていることに気づいていないかもしれませんが、これは皆さん全員に当てはまります。いかなる不完全さ、いかなる不道徳な本能からも自由でいたいという厳格なニーズは、あなたにその傾向を隠させます。「こんなであってはいけない」と感じ、そのような不完全さが意識に上がってくる度に、あなたは自分自身を許さないのです。自分自身を嫌い、自らを罰します。これらは全て、多くが無意識の内に行われているかもしれませんが、だからといってそれが事実ではない訳ではありません。

この傾向を明確に示す必要がありますが、それはこれまで生きてきた道徳的規範の全てを手放すという意味ではありません。最終的にあなたは、新たな動機、欲望、理由から、これらの道徳的規範に従って生きるようになるでしょう。そしてそのことは、あなた自身や他者にこれまでとは全く異なる影響を与えるでしょう。

このテーマに対するあなたのアプローチは、この問題全体を別の領域、つまり行動へと導きました。私は行動についてお話ししていたのではありません。真の感情、つまり自らに対する感情的な態度に関して言えば、自尊心の前提条件は真実のみに基づきます。現時点での真実は、あなたは自らが望む程には完璧ではないということです。ありのままの自分自身を受け入れることができなければ、認められない本能があったとしても、そこから成長して抜け出すことはできません。

内なるプロセスを次のように要約できるでしょう。「もし破壊的な本能があるとしたら、私は最低だし、自分のことを好きになったり尊重したりはできない。これは耐え難い程辛いことなので、私は自分の破壊的な衝動や希望から目を背けて、それによってこれらの傾向が消え去ることを願わなければならない。」これでより理解できましたか?
質問:はい、分かりました。でも、道徳化がどこに現れるのかが未だ分かりません。

回答:一部だけを見て全体を判断すると、道徳化が起きます。部分的な「黒」の傾向によって全体が「黒」又は「白」になったりする時に道徳化が起きます。問題が善か悪かの観点から経験される時にも道徳化が起きます。黒か白かということとは無関係に、非常に多くの余地があるのです。

他の質問は次回まで取っておいてください。多くの素材をお渡ししました。この素材から十分なディスカッションの題材が得られ、皆さんがご希望であれば、喜んで次回は質疑応答の時間を設けましょう。

肉体、魂、スピリットにおいて、皆さん一人ひとりに祝福を。ご自身の努力で新たに得られる力によって、自らを知り、受け入れ、そして好きになることができますように。

平和の内にありなさい。神と共に!

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