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Pathwork in Japan
No.94 罪と神経症「内的分裂を統一する」
Pathwork Guide Lecture No. 94
1996年版
1961年12月8日
罪と神経症「内的分裂を統一する」
SIN AND NEUROSIS -- UNIFYING THE INNER SPLIT
親愛なる友人の皆さん、こんにちは。あなた方と、皆さんの大切な方々に神の祝福を。この時間は祝福されています。
この道でワークし、このワークの本質を理解すればする程、一見すると人格のように見える重ねられた層の間に隠された真の自己、あなたの真の実在を見つけることがワークの目的だとより深く理解するでしょう。道を進めば進む程、これらの層が真の自己ではなく、あなたが長い間育ててきた人為的な特性であり、それがあまりにも長かった為にあなたの第二の特質となり、自分自身のように見えていると気づくでしょう。
真の自己について考える時、それが神の火花を表すことを私たちは知っています。あなたの無意識における真の自己の概念はとても高尚で神聖であり、あなたが慣れ親しんだ自己とは全く異質です。この不整合は、あなたを恐がらせ失望させます。事実、あなたの恐れは、真の自己を見つける上で最大の障害のひとつとなります。真の自己は実際、あなたが思っているよりもずっと近くにいます。あなたの人生では、真の自己から行動している領域もありますが、それがあまりに自然なプロセスである為、あなたはそれに気づかないのです。あなたは未だ、自然な行動と表面的な層から生じる行動とを区別することができません。
あなたは神聖な真の自己が、硬直的な完璧さという形の画一化されたパターンで現れると想定しています。この信念は、あなたの不完全さ以上に、あなたの進みを邪魔します。神聖な完全性についての誤解は、一方では硬直性と無理強いへ、他方ではそれに対する反抗へとあなたを導きます。あなたは不完全さが完全性へと繋がること、そして現在においても既に完全性として見なされ得るという重要な真実を無視しています。何故なら、本当に神聖な意味での完全性は、完璧な行為そのものよりも、自分自身や自らの行為に対する態度による相対的なものだからです。言い換えれば、重要なのは何をするかではなく、どのようにするかです。
ある行為が全世界からも、あらゆる霊的法則からも正しいと見なされていたとしても、それが不誠実な場合もあります。あなたはそのことについて分裂を感じながらも、愛と承認を得る為に、恐れ、強迫観念、貪欲から、その行動をしたかもしれません。外的行動がいかに完璧に見えたとしても、それは真の自己の行動ではありません。一方、あなたの行動が世界から非難されることもあるかもしれません。それは、完全性のいかなる概念にも反するかもしれません。しかし、現在のあなたの状態において、それは避けられないどころか、むしろ必要でさえあります。あなたは自らの本質と内的発達に従い、ありのままの自分自身を表すのです。もしあなたが自らとひとつになり、完全に責任を引き受け、その結果を償う準備ができているのなら、この不完全な行為は外的な完璧さよりも完全であり、あなたの真実に沿うものとなります。この概念を理解するには、ある程度の洞察力と進歩が必要です。決して軽々しく、無責任にアプローチすべきものではありません。何もせずに常に何かを手に入れようとする子供っぽい身勝手さを、このような完全な不完全さと混同すべきではありません。
それでは、あなたの真の自己と、表面的な自己との違いを見ていきましょう。あなたが真の自己から行動する時は常に、あなたは自分自身と完全に統一しています。そこには疑いも、混乱も、不安も、緊張もありません。あなたは他者の目に映るあなたの行為、原理や規則を気にしません。あなたは、自らの行動が他者や自分自身に与える影響とその結果を気にします。そして例え、自らの選択の不完全性に気づいていても、他の選択肢よりも優れていると思えるからこそ、その特定の選択肢を選ぶのです。この態度は、あなたの最奥なる本質と一致しています。勿論、これは粗野な本質を持つ破壊的な行動には当てはまりません。
この道において、あなたは本当に破壊的なものと、そうではないものを区別することも学びます。あなたは既存の規則を受け入れるよう条件づけられている為、この観点を完全に見落とします。目の前に立ちはだかる規則は、真の問題を見る目を妨げます。規則を忘れて問題を検証する勇気を持たない限り、あなたは自分自身に到達することも、真の自信を育むこともできません。それは、他のいかなる方法でも得られないものです。このプロセスには、自ら結果を引き受けること、そして規則や規定、ひいては世界の承認への依存という束縛を断ち切る勇気が求められます。必要であれば間違いをも犯す。これには勇気が必要です。叡智も必要です。何故なら、間違いそのものはそれ程重要ではなく、それに対するあなたの態度こそが重要であることを知るからです。
友人の多くは、この真実のいくつかの側面を既に見つけています。彼らはそれに従って行動し、反応し始めています。この重要な洞察、つまり「完璧な」規則に沿っていることよりも、その瞬間の間違いの方がより価値があるという洞察に未だ出会っていない皆さん、これは瞑想すべきことです。
表面的な自己は、あらゆる既知の基準から見て正しい行為をするかもしれません。しかし、あなたは混乱して不安を感じます。反対の方向性は明らかに破壊的であり、それに従うことを願うかもしれませんが、他者を傷つけたくないので、あなたは自分を止めるのです。あなたは分裂しており、それはどちらの選択肢も表面的な自己から来ていることを示します。このことは、特に建設的でも破壊的でもないように思えるふたつの選択肢が、どちらも同様に不満を残すという場合にも当てはまるかもしれません。どちらの場合も、あなたは混乱しています。何故なら、あなたの真の自己は覆い隠されており、可能な選択肢が全て表面的な層から来ているからです。
どちらを向いても選択肢は常に、子供じみた身勝手さか、硬直した規則や原理の二者択一です。ちなみに、その原理は自らで作り上げたもので、必ずしも世論と一致しているとは限りません。どちらの選択肢も、あなたを全く不満足なままにします。あなたはぐるぐると回り続け、出口を見つけることができません。何故なら、あなたは結果と物理的な行為に集中しており、片方が正しく、他方は誤っていると信じ込んでいるからです。その間、マインドの平和という点では、どちらも誤りだと感じます。どちらの選択肢も、それぞれの意味において不誠実です。ひとつは、あなたの中にいる貪欲な子供が掴み取ろうとするからであり、もうひとつは、その子供が信念に基づいて行動するのではなく、ただ服従しているからです。
危機や混乱状態に陥る度に、正にこのような窮地に陥ることにあなたは気づきます。このような問題を明確に気づいていないと、混乱は更に深まります。最初のステップは、できるだけ簡潔に問題を明確にすることです。葛藤を解決できる前であっても、少なくともその混乱が何なのかが明確に分かるので、あなたは安心するでしょう。
私が「行動」と言うとき、それは外的な行為だけを意味しているのではありません。全ての思考、感情、態度、内的決断、行動パターンは、行動と言えます。外的な自己から生じる行動は、あなたを常に罠にかけます。それらは真の解決策を与えません。ひとつの選択肢は外見的には正しいように見えますが、誤っているように感じられるかもしれません。あるいは、どちらの選択肢も、誰にとっても満足いくものではないかもしれません。あなたは無力感を感じ、問題に対処できないが為に、人生が解決策を与えてくれることを望みます。この無力さと弱さは、人格の未熟で歪んだ部分を示します。あなたが成熟し、全人的でいる時には、外的状況には依存しません。あなたは状況に対処することができ、例え困難な道があったとしても、自分自身と完全に平和な状態にあります。
目に入るふたつしかない不満足な選択肢の間で無力に閉じ込められ、単に片方の悪さの方が少しましに見えるという理由だけで選んでいる、その窮状を認識できるようになる前に、このワークにおける相当の進歩と、ある種の葛藤と歪みについての理解が必要です。このような状況が緊張、不安、敵意、不満を創り出すことは当然なことです。ある程度、これらの感情の抑圧に成功する時もあるかもしれませんが、その結果、それは最も望まない時に、最も破壊的な形で表面化するでしょう。その時点では最早、あなたは何故そんなに不幸を感じているのか、その本当の理由に気づいていません。選択をする前に、あなたは自分自身との戦いを経験するかもしれません。あなたは知的な検討によって解決策を見出そうとしますが、その策は外的な状況にしか当てはまりません。このやり方では、外からいくら叡智や真実を聞き、取り入れようとしても、何の役にも立ちません。内面では、何かが閉じ込められたままなのです。あなたはこの混乱、この罠から脱け出すことができないままです。
最近、少し異なる文脈で、同じように望ましくない選択肢の間で板挟みになるテーマについてお話ししました。私は又、手放すポイントと呼ぶものの重要性についてもお話ししました。ここで、これらふたつのテーマを真の自己の解放に当てはめてみましょう。
大事な友人達よ、可能な選択肢のどれにも満足できず、状況に無力に閉じ込められている時は常に、あなたを導く真の自己が顕現できないことが、窮地に陥っている理由です。真の自己を十分に解放する唯一の方法は、あなたが抱えている問題の何処かに隠されている、特定の手放すポイントを見つけることです。その手放すポイントを見つけると、徐々にふたつの異なる選択肢が現れます。一方は、一般的であろうと個人的であろうと、硬直した原理に固執することであり、他方は、真の自己に従うことでしょう。この新しい方法は、今の時点では不完全かもしれませんが、あなたが全力を尽くして挑戦することができる冒険です。
繰り返しになりますが、この手放すポイントは、どのような知的なプロセスによっても見つけられるものではなく、自己探求と更なる助けによってのみ間接的にしか見つけられません。この手放すポイントは突然に、明確に強く、あるいは非常に微妙に見えてくるでしょう。外的あるいは物質的な放棄ではなく、むしろ感情的に固執する態度を手放すことが求められるかもしれません。自分自身から生まれる平和、力、自信は、手放しのポイントを見つけることによってのみ得られることを忘れないでください。
混乱と無力さという危機に陥った時には常に、あなたは必ずきつく握り過ぎている何か、手に入れなければならない何かがあることに気づくでしょう。それは、真のニーズであれ偽りのニーズであれ、強力なニーズが関わっていることを示すサインです。手放すポイントに達した時、それなしには生きていけないと思ったものを手放すことで、あなたは何も犠牲にしていないこと、それは単に幻想、強制的な流れ、偽りのニーズを手放しているだけであると気づくでしょう。最終的に、内的圧力でそれを人生から奪い取ることはできないと認識せねばなりません。あなたは手放さないことで、自らを罠にはめ、弱め、依存的で無力にさせていたことが分かるでしょう。それでは、真の自己は現れません。これまで手放すべき何かにしがみついてきた代償は途方もなく大きいものです。平和、強さ、自信を失い、あなたは何もせずに何かが得られるという幻想にしがみつくことで得られる疑わしい利益の為に、真のニーズを求めて満たすことを不可能にしてきました。手放すことへの無意識の反発は、自己軽蔑、罪悪感、弱さ、不満、そして手放さないことの最終的な結果である多くの外的な摩擦や困難の最も強固な原因となるのです。
インナーワークがこの地点に到達したら、興味深い実験ができます。手放すという視点から過去の人生を観察してみてください。何処で混乱し、依存していたか、どこで自由で自分自身とひとつになっていたかに気づきましょう。人生の中で真の自己が顕現していた時は常に、あなたは何かを手放していたことに気づくかもしれません。まずは肯定的な例を探してみましょう。そうすれば、否定的な例を見つけるのがより容易になるかもしれません。この視点から見れば、手放すことへの抵抗を諦めるのは容易になる筈です。何故なら、自分自身の経験から、あなたは何かを手放すことは実に良く、有益であると教えてもらえるからです。これが現実です。幻想は葛藤を生むだけです。あなたの自然な成長を通し、真の自己が過去の何処に顕現したかを見つけることでも又、真の自己が遠く離れた異質なものではないことも分かります。それは、まさに馴染み深いあなたの最高の感覚なのです。
このレクチャーのアプローチが霊的というより、むしろ心理学的になってきている理由を度々聞かれます。これまでの回答に加えて、以下の点も付け加えます。現代の心理学的な用語で「神経症」と呼ばれる葛藤や未熟さのある人格の領域は本質的には、宗教的、又は霊的な用語では「罪深さ」や「悪」と呼ばれます。私達が「罪」という露骨な用語を何故避けたのかは説明しました。破壊的な罪悪感がありながら、道徳化する傾向や理想化された自己像があることが、自分自身に向き合う上で「罪」や「悪」という用語を大きすぎる障害とします。内面のこのような傾向の為に、あなたの中に自己受容、許し、自らへの寛容さの精神を育み続ける必要がありました。
しかし、あなたのワークにおいて、言わば甘言を弄さずに自らの内にある苦悩する部分に向き合うこと、そして希釈することなしにありのままの現実を直視すること、そこに存在するものから尻込みすることなくその十全な衝撃を見つめることが必要となる時が来ます。あなたの歪み、イメージ、抑圧、未熟さ、つまり神経症が存在する所には、罪と悪が存在します。何故なら、神経症は常に人格の欠陥を意味するからです。あなたは、歪みがどのように自らを傷つけ、自らの幸せを妨害するだけでなく、どのように身近な人々にも影響を与えることに繋がるのかを見つけ、更に明確に理解していくのです。いわゆる神経症には、利己心、貪欲、プライド、臆病、自己中心性、冷酷さが様々な形で含まれているのです。
自らの行動、反応、態度が真の自己からではなく、苦しんでいる部分から現れていると捉え、それが他者に及ぼす影響を考えれば、真に新たな視点を得て、自らに内在する「罪深さ」に気づきつつも、自らを許すことが可能であると分かるでしょう。最早、自己受容や利己心、そして悔い改めや自己嫌悪という、ふたつの選択肢の間で引き裂かれることはなくなるでしょう。あなたの存在のひとつのレベルにおいては、これがジレンマなのです。ちなみに、これは前述の葛藤の典型的な例のひとつです。あなたはふたつの選択肢を見ていますが、どちらも建設的ではありません。全く意識されていないかもしれませんが、この葛藤は多くの抵抗の原因となっています。内心では、あなたはこのふたつの選択肢の間で混乱し、揺れ動いています。自らの不完全さにも関わらず、自らを許し、好きになることを学ぶべきだと繰り返し耳にするのです。しかし同時に、変わりたいという願望を高めるには、「現実的」に自らを見る必要があるとも言われます。変化への欲望は、真摯で本物の悔い改めからのみ生まれるのです。まず初めの一歩として、あなたは強さと勇気をもって、自らの内に未だある盲目さ、無知、不完全さを受け入れなくてはなりません。そして、これら全てが本質的には、性格上の欠陥であることを認識しなければなりません。
混乱の中、あなたはふたつの選択肢のそれぞれの肯定的な面と否定的な面を見ており、双方を調和させることができません。利己的でいたいという渇望を恐れているので、自らを許すことを恐れるのです。又、あなたは自己嫌悪の鞭をも恐れているので、他者に害を及ぼすものに十全に向き合うことを恐れます。
このジレンマが幻想であり、あなたの混乱からのみ存在することを真に理解できる時、このふたつの一見したところの葛藤は、いかなる否定性もなくひとつの全体となるでしょう。ふたつの否定性は消え去ります。これらの否定性は、自己を許し、自らの「罪」と十全に向き合うという、肯定的な考えが分裂したことによって生じたものです。どちらも勇気、謙虚さ、自己責任を引き受ける意志から生まれます。この分裂の結果、これらの肯定的な考えは、利己心と自己嫌悪という対極を持つようになります。これはどちらも、臆病、傲慢、自己責任の欠如、そして自らを変えるのではなく、世界を変えようとする意志から生まれます。自らの内で肯定と否定の両方の傾向が分裂した為に、全体的実在の原初の分裂から混乱と闇とが生み出された「天使の堕落」と同じパターンの混乱が始まります。
このような混乱の中にいる限り、真の自己は、あなたに明確な道を示すことはできません。あなたは両極を引っ張ろうとして、エネルギーを散らばったままにします。あなたはそれを「正しいことをしなければ」という強迫観念で埋め合わせ、それを世界に投影します。あなたはこの要求に憤り、それに抵抗します。世界に逆らいながら、依然として自らの道を探そうとします。もしあなたの道が、偶然にも世界からの要求に似ているように見えるなら、あなたの動きは世界に対する自らの反抗によって更に妨げられます。あなたは決して屈服しないことを証明しなければならないのです。現実には、あなたの方法が世界のそれと似ているかどうかに関わらず、そもそもあなたは屈服しないからです。
反抗心には肯定的な側面もあります。健全な自己主張と呼べるかもしれません。この健全な側面は、自己受容と変化への意志という概念の分裂と同じ苦しみを抱えます。硬直的な原理、完璧主義、適合に対する反抗は、謙虚さをもって避けられないことを受け入れることや、健全な相互依存とも両立します。一方で、迎合、服従、依存は、子供じみた反抗と敵意と同じ、貪欲さから生じます。常に同じことが起こります。真実が分裂すると、両立しない側面が地平に現れ、混乱を創り出すのです。
私が挙げたふたつの例は、ある傾向や特質そのものが良いか悪いかという一般的概念がいかに誤っているかを示すでしょう。これは、非常に露骨な表面的な領域においてのみ、そして限られた範囲においてのみ当てはまります。全体としては、それは真実ではありません。分裂する前のそれぞれの傾向や特質は、元々は良いものであり建設的でした。特質は、傾向におけるある一面が、魂の苦悩する部分によって誤用された瞬間に、破壊的なものに変わります。その歪みは全般的な誤認と組み合わさり、混乱を増大させます。
この分裂は、コミュニケーションを困難にします。何故なら、ある人は傾向の建設的な側面を考え、別の人は同じ傾向の否定的で破壊的な側面を念頭に置くからです。例えば、反抗、悔い改め、自己受容を考えてみましょう。ある人は、健全な反抗や自己主張、真の悔い改めと変わろうとする強さと成熟さ、ありのままの自分を受け入れる謙虚さと現実主義を思い浮かべます。別の人は、偽りの強さ、反逆、冷酷さを伴う破壊的な反抗、偽りの悔い改めにおける不健全な罪悪感や自己非難、自己受容における自己陶酔を思い浮かべます。これらは単に例に過ぎませんが、存在のあらゆる側面や傾向の「良さ」あるいは「悪さ」に、同じものを見つけ出すことができます。この混乱は人々を誤解に導き、何より重要なのは、その人自身の内面における混乱と葛藤に繋がることです。内なる混乱と葛藤は、固定された規則に同調しない勇気を持つこと、又この世界の建設的なことだけでなく、実際に間違っていることにも反抗しないことを、ますます困難にします。見境のない反抗は、世界を変えることは何もできません。世界を変える為には、まずあなた自身を変え、内的分裂を克服せねばなりません。
あらゆる概念や特質には、このような二重性が含まれています。宇宙で最も強い影響力がある愛のように疑いの余地がない神聖な特質でさえ、その歪んだ形である、偽りの自己犠牲、支配的な独占欲、貪欲な渇望、依存性として捉えられる為、多くの場合に誤解され拒絶されます。
もうひとつ、特性としてチャリティー(慈善)を取り上げてみましょう。チャリティーには多くの側面があります。寛容と理解に現れる慈善、物質的な物を与える慈善、他者への共感と思いやり、つまり慈愛という慈善があります。慈愛について考えてみましょう。実は英語では、慈愛の否定的側面を示す別の言葉があります。それは哀れみです。全ての言葉にこの区別がある訳ではありません。しかし、他の多くの傾向や特質には、ひとつの表現しかない為に、混乱しやすい場合もあります。例えふたつの言葉が使えるとしても、両者を混同するのは簡単です。人が思いやりだと思っている感情が、実は哀れみだったということは良くあるのではないでしょうか?人はポジティブな態度を持っていると自負し、ネガティブな態度を隠そうとする誘惑に常に駆られます。
何故哀れみが破壊的なのでしょうか?十分理解されている、話す必要のない明白な答えはさておき、哀れみはあなたを麻痺させるというのが理由です。思いやりの中では、あなたは強く、他者を助ける力があり、他者の為に何かをすることができます。哀れみの中では、他者の為にすすり泣くことしかできません。しかし実際には、生と死を受け入れず、人生の困難に対処する力を与えてくれる責任を負う意欲がない為に、自分自身の為に泣いているのです。哀れみとは、他者に自らの弱さを投影し、相手の中に自らの臆病さや隠れた反抗心を見ているだけなのです。従って、これは完全に利己的な感情です。
思いやりか哀れみかを見極める方法は、その感情があなたに他者の為になる力を与えているか、それともあなた自身を弱めているのかに気づくことです。もし後者ならば、あなたはそれを超えて見通す手順を知っています。何処に誤認を抱いていますか?何処で混乱に陥っていますか?何を抑圧していますか?慈愛は、あなたに感じさせ、理解させるものです。あなたの助けが一時的な苦い薬だったとしても、それが相手の為ならば、あなたはその力を麻痺させないように強くなります。
やがて、あなたは分裂が原因で混乱している他の概念に出くわすでしょう。十分に認識すれば、あなたの混乱や葛藤は表面に現れるでしょう。混乱が解消される前に、あなたは既に解放感を感じるでしょう。何故なら、あなたはその問題に完全に気づいており、それを自らのものとする覚悟ができているからです。そのような時には、今夜お話しした方法で、混乱して分裂した概念を解き明かすことを喜んでお引き受けしましょう。
質問:私は母に対して、本当の哀れみがなかったことに常に罪悪感を抱いていました。母に慈愛を持っていたからこそ、私は母を助けられたと思います。もし母を哀れんでいたら、助けることは不可能だったでしょう。しかし、それにも関わらず、それを知っているにも関わらず、私には罪悪感があります。
回答:あなたの罪悪感は、哀れみや慈愛とは関係ありませんよ。それは、あなた自身、あるいは母親に対する健全なアプローチの欠如と関連しています。あなた自身の持つ他の側面が間接的に作用してもたらされた結果なのです。
質問:私は、最も親しい友人を亡くしそうです。私は慈愛を持ち、どのような種類の哀れみも手放せる状態になりたいと思っています。
回答:答えはこのレクチャーの中に暗示されています。そのご友人の何処に同一化しているのか見つけてください。ご友人が経験する何かを、あなたは自分自身の身として恐れているのです。その恐れは抑圧されているので、それに対処して受け入れることができません。その結果、それは哀れみとして現れます。
質問:同一化よりも喪失をより感じています。
回答:それは同一化でもあります。大切な人を失うことは、耐えなくてはならない痛みです。その痛みを通り抜ければ、それは魂を弱めることのない健全な痛みです。しかし、あなたの痛みには、恐れの要素が加わっています。そして、恐れのある所には、同一化が起こります。感情を深く調べてみると、このふたつの痛みの性質は異なります。喪失の痛みには、同一化や哀れみの痛みの中にある、恐れ、苦々しさ、自己憐憫、葛藤、辛さ等は含まれません。
質問:前回のレクチャーの防御機構について、基本的な防御とは、自分で感じられる全般的な内的気候だと述べておられました。「内面気候」とはどういう意味かご説明頂けますか?
回答:この道でますます学ぶように、自らの感情を観察すると内的な硬さというような感情に気づくでしょう。それは常に表面に現れるとは限りません。例えば、このワークを他者としている時にあなたの中にある特定の領域に触れられたり、あるいは批判や否認に遭遇する時、防御が誘発されたり、引き起こされたりすることもあり得ます。近づいて来るものが何であれ、拒絶したいという欲求、固まる感覚、恐れ、不安に気づくでしょう。あなたは攻撃され、脅されていると感じます。今挙げたような反応で、あなたの内に現れる感情が防御機構です。これを感じることは大きな前進です。自らの内にあるこの機構がどのように反応し、それがいかにあなたの利益に反するのかを理解するでしょう。あなたは、この内的気候、つまり固くなり硬化する様子を観察せねばなりません。これをしなければ、このワークの重要な点で、それ以上の進歩は望めません。
質問:私の記憶では、あなたは哀れみと慈愛の定義をはっきりとは区別しなかったと思います。私はこのふたつの違いについてもう少し知りたいです。あなたが示されるワークでは、私達が自らを認めて理解すればする程、規則に従って行動し、つまりは共に生きやすくなるように思います。それとは別に、このワークをすればする程、私達は人間らしさを減らし、機械のようになってしまいます。人間性の核心は哀れみであり、自己憐憫だと私は思います。何故なら、自己憐憫を持たない人は利己的ではないからです。利己的でない人は、人間ではなく、神です。これは思考的や理論的な考察ではなく、私が感じていることです。
回答:まず始めに、慈愛と哀れみの違いを改めて説明する必要はないと思います。それについてはレクチャーの中で十分にお話ししたので、お読みになれば、理解に困難はないでしょう。しかし、まだ疑問が残るようでしたら、喜んでお答えしましょう。
あなたのご質問の残りの部分については、多くの混乱と誤解が含まれます。例えば、全ての人間の核心には哀れみがあり、まさに自己憐憫であるという点です。いいえ、これは真実ではありません。哀れみや自己憐憫は結果であり、核心にあるものではありません。症状の結果、あるいは別の症状です。人間が持つ多くの態度や側面は、連鎖反応の一部です。核心は真の自己であり、これは確かに、一般的で外的な、又は硬直した自作のものであれ、いかなる規則にも従って行動するものではありません。核心の本質は柔軟性と個性です。
利己的であることも人間的で、利他的であることも又人間的です。自己憐憫を抱くのも人間的であり、自己憐憫を抱かないことも又人間的です。片方が人間的で、他方が神的であるということではありません。両方が人間的です。利己主義も、他のあらゆる性質も同じです。健全なものもあれば、不健全で破壊的なものもあります。ここでのあなたの混乱は、あらゆる利己心を手放すことを期待されていると信じ込んでいる無知から生じます。その為に、あなたは反抗し、自分自身や他者にとって破壊的な利己心さえも手放すことを受け入れられないのです。
加えて、このワークの成果が、まず規則に従うこと、それから機械のようになることだと信じているのなら、あなたはこのワークの最も基本的な初歩的要素さえ理解していないとお伝えします。今こそ、あなたの優れた知性を使い、少なくとも頭ではこのことを理解する時です。何故なら真実は、あなたが述べたこととは全く逆なのですから。これは重要なことです。知性に関わらず、人間全てに当てはまることですが、何かを理解することに抵抗がある人は、聞きたくない点を聞かないだけでなく、実際には逆のことを聞くことがよくあります。これらの教えとワーク方法の本質は、既存の規則から解放し、あなたが真の個人になるよう助けることです。今夜のレクチャーでは、改めてこの点が新たな角度から強調されました。
あなたは、善良さは退屈で面白味がなく、変化、個性、ユーモア、喜び、機知もないものだと誤解しているのです。そして、その全てを悪のせいにしています。なんという間違いでしょう!善は悪と同様に多様性があるのです。ただ善には、ユーモア、個性、喜びがより多くあります。何故なら、善良さと同義の健全と成熟においては、より良い自己表現ができ、より鋭敏な経験ができ、より深く広い人生観を持てるからです。あなたは善良さと「善人ぶること」を混同していますが、調べれば、それは逆のものなのです。要するに、善良ぶることは、あなたにとってとても好ましく見える悪の別な面なのです。
このレクチャーで私が特に言及したのは、自らの内で自己一致していない規則や原理に従うよりも、それが真の自己から出て来たものであれば、時には間違いを犯す方が良い場合があるということです。全く逆のことを聞いたということは、とても意義深いことではないでしょうか?自分自身に対するあなたの態度について、極めて重要な何かを示していないでしょうか?友よ、お分かり頂けましたか?
質問:はい、あなたの言葉は分かります。しかし、私、私達、あるいは人類が、自分自身になることを目指さねばならないことが規則になります。そうすると、これは規則です。
回答:いいえ、あなたがそう望むなら、子供のままでいることを選べます。成長する必要はありません。しかし、成長し、建設的で充実した人生を送り、自らの潜在力を最大限に発揮させたいのであれば、自分自身にならねばなりません。しかし、その選択はあなたによって為される必要があります。
質問:分かりました。そうすると、更に質問があります。何故、そのように進歩した人々、いわばこの道を長く歩んできた人々が、このワークで自分自身に気づくことによって、束縛を捨てることによって、人間なら耐えられないようなこと、例えば他者の病んだ振る舞いに耐えられるのでしょうか?私には、これは正直な目的ではないように思えます。私には機械になるように見えるのです。
回答:友よ、ここにも別の混乱があります。答えはとても単純です。成長、成熟、解放は、それが必要であれば、変えられないものにも耐えられるようにしてくれます。成熟は、耐える必要のないものを諦め、手放すことを可能にします。これは未熟な人にはできないことです。耐え難いことは、未熟な人にとっての問題となるのです。あなたは、自らの外にある為に変えられないものに対して反抗します。反抗することで困難が軽減されると信じているならば、それは非常に大きな間違いです。真実は全く逆なのです。
成熟した人は打ちのめされることなく、受け入れるべきものを受け入れることができます。むしろ、そこから利益を得ることさえあります。まさに、誰も機械にはなりません。果てしなく反抗し続ける人を機械と呼ぶ方が適切でしょう。しかも、目的もなく大気中に蒸気を吐き出す無駄な機械です。これはその人の力を消耗させます。自らのコントロール範囲内にある変えられることであっても、それを変化させる力を失わせてしまうのです。その人は、それを変えられることに気づいていないばかりか、変えるつもりもありません。何故なら、永久の反逆者という偽りの個性を大事にしているからです。理由もなく絶えず叫んで戦っている自分が、何故、機械よりも人間であると信じられるのでしょうか?問題に正面から向き合い、変えられない場所を見つけては流れに身を委ね、変化させられる問題の為に自らの力を温存し、人生をより有意義なものにする人を機械だと、あなたに信じさせるものは何でしょうか?
一年のこの時期に、特別な祝福をもって皆さんとお別れします。かつて存在した最も偉大な存在、この地球が誕生して以来、幾度となく様々な方法で伝えられてきた全ての真実によって教え、生き、死んでいったイエス・キリストに敬意を表して。彼の中で祝福されていてください。平和の内にいてください。皆さんの更なる道が、彼の教えであれ、真実についての他のいかなる教えであれ、あなたを善人ぶらせて操り人形に変えることで、従わせ、迎合させ、屈服させ、自らの意志に反する何かを受け入れさせようとするものではないと気づかせてくれますように。全く逆なのです!あなたが彼の教えと、彼の人生のある側面を真に理解して従うのならば、このことに気づくでしょう。真実を教えるだけではなく、それを生きて来たイエス・キリストをはじめとする他の真実の提唱者達の誰もが、反抗的な人が最も恐れるもの、つまり善良ぶった順応者とは正反対なのです。自分自身と他者をよく見て観察してください。より深くワークしてください。あなたが知っている、この目標の一部を既に達成した人々を見れば、これが真実であると分かるでしょう。霊的にも感情的にも成長すればする程、人はより生きており、独自の個性を備えた存在となります。温かさ、勇気、ユーモアから切り離された機械ではなくなるのです。全ての個人の真の自己は、あなたが恐れ、反抗するものとは全く正反対のものなのです。
それでは、友人の皆さん、主の祝福を。
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