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Pathwork in Japan
No.99 「改竄された両親の印象」その原因と良薬
Pathwork Guide Lecture No.99
UNEDITED版
1962年3月2日
「改竄された両親の印象」その原因と良薬
FALSIFIED IMPRESSIONS OF PARENTS -- THEIR CAUSE AND CURE
心からの親愛なる者たちよ、こんばんは。皆さんお一人お一人が神の祝福を受け取ってくださいますように。皆さんが発する言葉、思考、努力、皆さんの人生、そして間違えさえも祝福されています。ご存知のように間違えも自由や現実、そして愛への偉大なる鍵となり得るからです。
ここでふたたび愛について語り合いましょう。ここでふたたび、愛なしには人は萎れてしまうということを思い出しましょう。もっとも重要なのは受け取る愛ではありません。皆さんが必要としているのはハートの内にある愛、霊的な生命力、霊的な血液です。この愛が善良で健康的な意味での原動力となります。そしてこの愛が人生に意味をもたらすのです。愛する能力なしには皆さんの人生は空っぽで意味のない浅はかなものとなってしまいます。
皆さんご存知だと思いますし、ここにお集まりの方のいくらかは気付いているとは思いますが、皆さんの魂の奥深い部分は愛されることを切望しています。この切望が意識に上がるとき、愛されることへの切望と愛する能力が取り違えられてしまうことがよくあります。とはいえ、このふたつは完全に別物です。愛されることへの自分のニーズに気付いていながらも、他者を愛するためのハートを欠いていることもあります。ニーズが強いほど他者に対して自己中心的である可能性は高く、自己陶酔や消極性、恐れ、不安、束縛、無知である場合が多いのです。より強い不安の中にいる、または何かに捉われ依存しているときは人を愛し辛くなります。つまり生命や愛の力が流れ、魂に潤いを与える内なるチャンネルを開き辛くなるということです。潤いをもたらすこの力なしには、内的な干ばつを避けることができません。どれだけ価値のある活動を行っていたとしても、内なる乾きは人生を無意味なものに感じさせてしまいます。詰まることなく通った愛のチャンネルがあってはじめて人は自由になれるのであり、個人的なニーズを満たすことができるようになるのです。
このチャンネルの詰まりを除去するためにこれまでに多くの方法を皆さんに提示してきました。こうした方法を聞いてこれらのプロセスが霊的な成長とは関係のない何か別のものと捉えた方も中にはいらっしゃるのではないかと思います。皆さんが言うところの心理的な探求として捉えたということです。再三申し上げていますが、霊的なものと心理的なものは別物だと信じるのは誤りです。ここではひとまず用語を横に置くとして、いわゆる心理的な問題解決と呼ばれていることをしないことには、じゅうぶんに愛することはできません。
愛する能力というものを今夜はまた別の角度から扱いたいと思います。これまでは大雑把にしか扱ったことがありませんでしたから。今夜お話しする角度での探求は、何人かの方には個人セッションで指示やアドバイスを与えてきましたね。皆さんの問題や成長、そして皆さんが歩むパスワークの道をこの新たなる角度から取り組む準備がグループ全体で整ったと思います。
子供にとっての初めの印象というものが、両親や両親に替わる人々、またはその他誰でも子供の人生に重要な役割を果たす誰かが支配する環境に由来することはよく知られたことですね。子供が下せる評価は限られています。両親からかき集められ経験する感情は非常に歪曲したものだということです。別の言葉で表しますと、もっとも粗野な形では、子供は感情的には両親を善か悪、強いか弱いか、立派か卑劣か、どちらかという形で経験します。そこまで粗野ではないとしても、両親の中にあるいくつかの側面や傾向のみを経験し、その他の人格には気づいていないということです。この限定的な印象が全体像を改竄します。こうしたイメージを皆さんは無意識で抱え、そしてこれらのイメージが理知的な視点や意見とは大きく食い違うこともあると思います。こうしたイメージが皆さんの行動に影響を与え、人生や他者、そして自分に対する反応を決定します。そして人を愛すること、他者をそのままに経験すること、自分の世界の中心に在ることを可能にする愛のチャンネルを詰まらせてしまいます。
断片化したこうした印象は非現実や歪みを生み、他者や自分自身とのその後の関係に影響を与えます。自分の人生の中で一番問題のある個所には片親もしくは両親、または幼い頃の環境にいたその他の誰かに対する皆さんの知覚とその問題との間に何かしらの関連がきっとあることでしょう。印象が魂に刻印され、刷り込まれており、今でも改竄された痕跡のままに反応しているのです。
ここでの良薬は大切な人や家族のメンバー全員に対して実際には自分がどう感じているのかに気付くことです。こうした印象を探求し、自分の中の理知的な視点と印象を比較してみてください。そしてこうした人々をさまざまな動きを持った生きた人として経験しているかどうか、または自分が抱いている印象によってその人の全体ではなく断片的で限定的な側面のみを経験しているかを考察し始めてください。
片方の親、もしくは両親に傷つきや怒りを感じている場合、その怒りの感情と共に皆さんは相手を確信なく暗中模索しているとか、傷つきやすいだとか、無知で問題を抱えた人間として知覚しているでしょうか。もしくは反対に感情の上では、素晴らしく、変わっており、確固たる人間味のない人として捉えているでしょうか。つまり生き生きとしておらず、ロボットのようで、多面的な人としての人格を欠いたものとして捉えているでしょうか。人間という言葉を考えてみてください。この言葉が本当に意味するところは何でしょうか。人間とは多様性に富み、多くの場合でさまざまに矛盾した側面を持ち合わせているものではないでしょうか。適切な言葉であるかは分かりませんが、人とは片や善良で他方では悪い、そんなものではないでしょうか。一方では信頼が置け、また他方ではそうではないもの、自己中心的であり利他的なものなのではないでしょうか。しかし皆さんの中の子供はこうは知覚しません。この子供にとってはどちらか片方で、決して両方にはなりえないのです。つまり親という一人の人間の現実を知覚していないのです。頭ではもちろん人は善と悪の両方である、その他の矛盾もそうだと分かっているのだと思います。しかし感情では真実を経験することができません。特に両親の場合でそれができません。皆さんの感情面での経験は常に「どちらか片方」であり、最も近くにいた一番大切な人間の生きた動き、ダイナミクスという現実と共にあれないのです。自分自身のために最も大切なのは、この相手の印象や相手という経験をなるべく現実に近いものにすることです。
改竄されたイメージの中にいるかぎり、自由や独立、愛することや真の強さを自己の内に見出すことから自分を遠ざけている鎖を断ち切ることはできません。どうにかうまくやり過ごすことも多いかもしれませんが、現実を知覚し鎖が解消していなければ、これにより転換できるはずの問題を抱えることになります。
第一歩を踏み出すにあたり次のように自問する必要があります「自分は両親をどのように経験しているだろう。彼らを矛盾や無知、多面的で、葛藤や混合を頻繁に起こす要素を持った人間として経験しているだろうか」と。もしかすると子供のころに皆さんが恐れ、最も憎んだその人は今でも皆さんの内に存在し、自分の中のもろさを傷つけたというだけの理由で、傷つくことのない不死身な人として今でも存在してはいないでしょうか。この幽霊は皆さんの人生に大惨事を起こします。これは多くの場合で本当なのですよ、皆さん。
第二段階を構成する改訂の作業の後に初めて、皆さんは自由な人となることができます。しかしまずは自分の中の改竄に気付かなければなりません。とはいえ改訂とは一体どのように起こるのでしょうか。まず次のように自分に問いかけてみてください「両親は実際にはどんな人達だったのだろう」と。そして出来るかぎり人間としての全体を理解しようと努めるようにしてください。両親について知りうるかぎりを使って彼らの人生を、内的および外的な葛藤を、彼ら自身の幼少期を理解し、何をもってして彼らは彼らであったのか、痛みや恐れ、そしてフラストレーションは何であったのか。成熟した大人が他者を理解する形で、できる限りの距離と客観性を持って、なるべく多くの側面を考慮し両親を理解してください。不幸にも皆さんに影響を与えることとなった際立った一つの側面だけを考慮するのではなく、できるかぎり多くの側面を含めるようにしてください。ほんのいくつかだけを見てその他を取りこぼすことはいつでも、相手を非人間的に捕らえることに繋がります。人がどれだけ親を讃えていたとしても、過度な賞賛の中で非現実的で人間性を欠いた人物となります。断片化されることで固定され静止した視野は怪物的になります。なぜならこうした視野は生きておらず、現実ではないからです。もしかすると皆さんが相手の全体として捉え経験した限定的な側面は本当だったのかもしれません。しかしそこには真実が欠けているのです。人間の全体像を形成する事実がそっくり欠けているのです。全体を経験してはじめて、皆さんを傷つけ歪ませることになった事実を理解することができます。この理解があって初めて、皆さんの中にいまだに潜んでいる痛みや怒りを解き放ち、他者を愛するためのチャンネルの詰まりを取り去ることができるのです。
両親にまつわるイメージを改訂することから尻込みをしてしまうことがよくあるようですね。愛しく思い、心酔してきた親を美化するのを止めることに罪悪感を抱き、不誠実だと感じるのでしょう。もちろん無意識にということですが、親の子供としてこれまでと同じを続けるのが自分の任務だと感じるのでしょう。多くの場合、美化を止めることを軽視や軽蔑、憤りや憎しみと同等に捉えられているのかもしれません。そしてこの美化の下には恐れが存在している可能性が多いにあり、恐れの下には憎しみがあることも多いのです。過度に相手を美化することで自分の中にある憎しみと対峙することから自分を守っているのかもしれません。過度の美化を保持しようとするのは、周りが自分にそう求めるからというだけではなく、皆さんが親を象徴的に、そして変位した形で今でも、必要としているからかもしれません。
美化された親のイメージを保ち続けるもう一つの理由は、これまでに皆さんが知り得た唯一の愛、受け入れ、そして安全を親が代替として表しているからです。皆さんの無意識の思考では、美化された親のイメージを手放すことでこの愛、受け入れ、そして安全をも諦めなければならないと思うのです。親の価値を下げることで自分が所有している唯一の価値を奪われると感じるのではないでしょうか。
これでは両親のイメージを改訂することに抵抗するのも無理はありません!この抵抗と同等に、憎しみを抱いているイメージに執着することに皆さんは興味を抱くようですが、これも同じ原理です。なぜそのようなことをするのでしょうか。自分にとっての良き防御となっているのかもしれませんね。もしも親が自分の中で悪いままに留まれば、ほんの少し自分に傷を負わせた親の行動は事実上無効となるわけです。もちろんこれは誤りではあるのですが、相手を人間として見てしまうことで傷は正当化され、自分自身の価値が減少してしまうと恐れるのです。もちろん憎しみへの執着にはこれ以外にも種類はあるのですが、これらについては各々の個人セッションで見出し、そして経験する必要がありますね。
現実と取り組むにあたってすべてが整理整頓されている方が皆さんの中の子供には楽だということもあります。現実は柔軟で、矛盾し、固定されたルールというものがありませんから、できれば現実に取り組みたくないのです。つまり印象を固定し、相手を隙間にはめ込み、これはこれであれはあれだと決めつけた方がよっぽど楽なように映ります。こうした印象のそれぞれは静止したイメージですから、秩序や安全という意味では非現実的な感覚をもたらします。自分がどこにいるのか分かっているつもりになっているということです。しかし、当てにならない秩序や安全に支払う対価は、今皆さんが見積もっているよりも遥かに大きいのです。
幼い頃の環境にあった人々を見直すとき、成熟した見解で見てみたいと思うとき、彼らという現実を理解したいと望むとき、抵抗やある種の恐れがあることに気付くかもしれません。こうしたことに気に留めるようにしてください。意識するのです。抵抗や恐れが重要な何かであることに気付くようにしてください。抵抗や恐れには、関係があるとは思ってもみなかった問題や人生への深淵で大切な鍵が眠っていることを理解してください。抵抗や恐れの真実を見たいと祈りや瞑想において求めることによって自らの意志と抵抗の間に折り合いをつけることができるようになります。そしてこの力は徐々に弱くなっていきます。このような祈り以上に優れたものはありません。いつも皆さんにお伝えしていることですが、道を歩む上で自分が今抱えている抵抗や躓きを感じるブロックを最も具体的な形で利用しなさい。そしてこの具体的な形というのが祈りなのです。
心理的な取り組みは自分自身や他者の真実を見出す以外の何物でもありません。何度も申し上げていることですが、自分自身の内に真実が見出せないのであれば、他者の中にそれを見ることはできません。しかし道を歩む中である一定の段階に至ったときには、自分自身の真実がある程度意識に上がってくる段階に至るときには時に、また別の角度からの取り組みも必要となります。自分自身の真実をよりよく獲得するために他者(両親や兄弟など)の真実を見たいと望むことも必要になるということです。他者の人生や人格など、全体的な次元で人の真実を見たいと望むことは自分自身の人生を理解し、何が自分を支配しているのか、何が麻痺を起こしているのか、どのような葛藤があるのかといった洞察や理解をもたらします。恐れや抵抗といった非生産的なパターンが止むためにこの理解が前提条件であることは言うまでもありませんね。
これを聞いてきっと皆さんは次のように思うのではないでしょうか「言うのは簡単だけれど、行うのはそうとはかぎらない」と。自分自身の中にあるこの抵抗を置いて他には、イメージを改訂するために必要な情報や知識がないからです。両親はすでに亡くなっているかもしれませんし、もしもまだ連絡を取り合い彼らの人生について聞くことができたとしても、話し合うことができない部分もあるでしょう。では一体どのようにしてイメージを改訂することができるのでしょうか。それでも、真に望むのであれば成功します。これは信じていただいて結構です。これまでとはまったく違った形で両親について知ることができる道を見出すかもしれません。彼らの人生やこれまで見たこともなく知りもしなかった人格の側面についての情報を聞き出すことができる誰かを見つけるかもしれません。こうして皆さんの中のご両親はより人間的になっていきます。古い縛りからある程度自由になるとそのうちに、これまでやり取りするとは夢にも思っていなかった家族の一員と、真実と共にあれる心意気でコミュニケーションを取ることになるかもしれません。彼らの問題を理解しようと試みることで自分自身の痛みも消え去ることになるのです。とはいえまずは、痛みが存在していることに気付くことが必要ですけれども!
両親がすでに他界している場合はどうでしょうか。このようなケースの多くでは、兄弟や親せき、友人といった方が今でも皆さんの近くにおり、ご両親に対する彼らなりの見地によって、皆さんの中のご両親に対する全体像が完成することがあります。皆さんとはまた別の彼ら自身の歪んだ見方でさえも、加わることで全体像が完成することがあるのです。加えて、必要な一歩を踏み出すための勇気を持つためにはまたもうひとつのアプローチが欠かせません。このアプローチとは知りたいという誠実な意志であり、祈りの中に顕現する想いです。そして答えはこの祈りにやってきます。神の手段は真に素晴らしいものです。皆さんが知っているご両親が何をもって彼らであったのか、それを本当に理解したいと望むのであれば、皆さんが決して理解することができなかったご両親の行動の動機が何であったのか、これに対する理解はもっとも奇跡的な形でやってきます。ご両親の知人を皆さんが一人も知らなかったとしても、これまではその真価を理解していなかったような出来事が起こります。ご両親の人生についてのいくつかの側面を思い出すかもしれません。思い出すことは、皆さんが関係していた事柄なのですが、これまでは除けていた事柄です。ご両親として含めていなかったような側面です。こうした出来事や事実は突然新たな意味を持ち始め、これまでとは違った形で相手を評価することが可能となり、少し距離を置いて客観的に、当人と複雑に関係をしていないひとりの人間がもうひとりの人を見るような形で評価することができるようになるのです。このプロセスが始まると皆さんの見解そのものが徐々に改訂されていきます。この新たな見解により皆さんが経験したことが消去されるということではなく、これまでとは違った意味を持つようになるのです。つまりこの見解が皆さんを自由にするのです。
このすべてが起こり得る前に、自分がご両親をどう感じているのか、ご両親をどう経験しているのか、無関心という上辺の下でどれくらい自分が傷ついてきたのかに気付く必要があります。真実を知りたいという気持ちが育たなければなりません。今お話ししているような真実を、自分が内的に欲しているのか欲していないのかを見極める必要があります。今夜お話ししている内容に関連したものであれ、それ以外のどのようなものであれ、その真実が何であっても、真実を否定しているかぎり、皆さんは混乱と非現実に束縛され続けるでしょう。これを知ることは皆さんの助けとなりますよ。皆さんがこの問題をそっくり全部どこかへ追いやってしまわなければ、無理に問題を解決しようとしなくとも、有機的な形で抵抗は古いものとなり去っていきます。改竄された見方、歪みを保ちたい、真実など望んでいないと認めることができれば、その他のことは自然と起こります。
もしも「見つけることができない」と思っているのなら「見つけたくない」と思っていないかどうか自分自身の内を確かめてみてください。もしもできないと思っていたとしても、真実を理解したいという欲求に心を完全に開くようにしてください。真実なしには愛はありません。そして愛がなければ、真実はあり得ません。
この新たなアプローチを試してみてください。皆さんの人生や問題、人間関係は新たな意味を持ち始めることでしょう。
この題材にまつわる質問は何かありますか。
質問:両親が子供に形だけの拒絶、もしくは本当に拒絶をしたとします。すると子供は、自分は愛に値しないのだと感じ結果的に自己否定のパターンを確立します。自分の両親を現実のまま見ることができている場合、どのようにこの問題に取り組めばよいのでしょうか。
回答:解決は自然な形で、ひとりでに起こります。もしも過去にご両親があなたに残酷であったとしても、ご両親を理解したその瞬間にあなたの中の拒絶の感覚は消え去ります。彼らがなぜ残酷であったのかを理解するとき、この残酷さは彼ら自身の問題であり、自分には価値がないという思い込みとこの残酷さとは無関係だと気づきます。今のところあなたはこのことを理知的には理解しているでしょう。しかし自分には価値がないがために両親が自分を拒絶したと感情面で感じているかぎりは、自分は無価値だと感じることでしょう。そして自分には価値がないと思うが故に、安心を自分の内に感じるための建設的なパターンを構築することができないのです。あなたの中にある破壊的なパターンは常に自分が無価値であることを裏付けることになります。つまり基本的な理解が生じるまでこうしたパターンから抜け出すことはできません。
子供の知覚からすると、両親は何かパワフルで超絶的な存在に見えるものです。両親も自分自身の問題を模索しており、人生のパズルに手こずっている一人の人間なのだとは子供は思いつきません。真実への内なる真の理解が起これば、ご両親からの拒絶の感覚は消え去るでしょう。はじめは拒絶や疎外感として感じることも、その後のさまざまな出来事を通して同じひとつの状況の中に自分が無視してきた要素が含まれていたのだと気付く機会を得ることがよくあります。この重要性に気付いた瞬間、もう拒絶は感じなくなります。こうした拒絶は皆さん自身や皆さんの価値とは何の関係もないことを理解します。事実はそのままなのですが、これまでのように個人的に、自分の価値を下げるような解釈をしなくなるのです。同じことがあなたのご両親にも起こります。あなたがご両親を生きた現実として経験した瞬間(もちろん落ち度もそのままですが、それでもご両親という生きたダイナミクスとして経験するということです)ご両親に対する印象や反応があなたの中で変わることでしょう。もちろんご両親を完全に理解しなければならないという意味ではありません。すべてを知らなければならないということでもありません。人は誰かを完全に知ることはできず、自分にとても近い人であってもそれはできません。そういう意味ではないのです。そうではなく、今皆さんがご両親を感情面で経験しているような限定的で硬直した、ロボットのような側面を壊すことを話しているのです。そうすれば両親は生きた存在となります。ご両親の問題の少なくともいくつかは理解できるようになるでしょう。過去のご両親の在り方を考えるとき、ご両親が過去に起こした行動以外はできなかったのだと理解するということです。皆さんと同じことです。誤りに今は気付くことができたとしても、当時はそれ以外の態度がとれなかった、そのようなことが皆さんにもあるのではないでしょうか。それと同じです。この理解に至った瞬間、自己否定が起こることは自動的になくなります。
あなたがしてくださった質問は重要ですね。成長の段階のどこかでは、自己否定を手放すことが唯一の道であることをこの回答は示し、その証拠となることでしょう。自己否定を手放したとき疑いの余地なく、拒絶されていたのは自分ではなかったと知ることでしょう。あなたに降りかかった痛みは、ご両親の盲目さ、無責任さ、無意識のフラストレーション、そして彼ら自身の痛みだったのであり、それは自分とは完全に何の関係もなかったのだと知ることでしょう。ご両親自身の模索の結果であり、生きるという哀れな人間の葛藤です。そしてこれは同時に酷く英雄的なものであるということが、人間の成長という全体を見渡したときに理解できるのではないでしょうか。お分かりになりますか。
質問:分かります。しかし一方で、こうした子供は自己否定のパターンにはまっており、このパターンと共にそれまで人生を生きてきたわけです。この子供は捻じれて歪んでおり、愛することを愛する代わりに拒絶を愛します。単に両親を認識するだけではこのような類の葛藤は解決されないのではないでしょうか。
回答:申し上げたことだけが答えだとは言いません。すべてを癒す万能薬は存在しません。この道を歩む中であなたは、今聞いていることと同じくらい大切な事柄をこれまでに多く学んできましたね。こうした物とはすべて、経験される必要があります。もしも自己否定が今申し上げたものとはまた別の洞察によって癒されるのであれば、破壊的なパターンを建設的なものに変化させることで癒されるのであればそれは好都合です。しかしそれでも真実の歪みはあなたに影響を与えますから、それを治療しなくてはならないことは変わりません。あなたが指摘してくださった問題に対しては、今夜お話しした議題がもっとも本質的なものだったのではないでしょうか。
幼い頃の環境にいた、あなたにとって重要な人々の実際を経験したその瞬間、もう自己否定を愛する必要はなくなります。自己否定が好まれ愛されるただひとつの理由は、あなたの中の子供がそれ以外を信じられないということです。自分に価値がなかったという理由で自分が拒絶されたわけではないと気づいた瞬間に、もう自己否定を愛おしく感じる必要はなくなります。理解できますか。
質問:理解するよう努めます。
そうですね。理解できるよう努めることが必要です。今お話ししているような形で実際を見ることへの強い抵抗が内にあることはよくあります。「これは私の問題の助けとはならない」という内なる言葉も抵抗のひとつであり、「両親の理解を得る手立ては何もない」というものと同じことに帰着します。ですからこうお伝えさせていただきましょう。今はこれやあれといった具体的な問題の助けにはならないと思ったとしても、真実と共にある心意気で取り組んでください。それがあなたの助けになろうとなかろうとどちらにしてもこの姿勢が大切です。祈りの中で次のように述べてください「なぜこれが自分の助けになるのかが分からなくても、自分の能力のかぎり、ただただ真実が見たいのです」と。もしもあなたがこの理解に向けて取り組み、壁を取り除くことへの自分の内なる抵抗に気付くことができれば、それが自分に何をもたらすか分かることでしょう。今このことを理知的に理解する必要はありません。あなたの中の自己否定にどのような影響を与えるのかを理解する必要もありません。ただ、両親の真実と共にあろうとする心意気で、両親として存在することになった二人の人間の真実と共にあろうという気持ちで取り組んでください。
質問:第四の戒めについて、その心理的な背景を詳しく説明していただくことは可能でしょうか。
回答:はい、可能です。いつものことですが、さまざまなレベルの解釈が存在します。今夜の議題に関連する形でこの質問をしてくださっているのではないかと思いますが、そうでしょうか。
質問:はい、そうです。また、七つの大罪の心理的な背景についてもお聞きしたいと思っているのですが、このことに立ち入ることは難しいでしょうか。
回答:これについてはまた別の機会を待つことにしましょう。お答えするにはひとつのレクチャーを丸ごとかける必要がありますし、実際取り上げるには良い議題なのではないかと思います。質疑応答のセッションが設けられているときにあるときに行うこともできますね。ひとつの質疑応答でひとつの大罪を取り上げ、それぞれの大罪を個々に詳細に扱っていくことにしましょう。
第四の戒めについてですが、これは大抵ひどく誤解されています。誤解や表面的な解釈によって多くの害が生じています。こうしたケースでは力と罪悪感が愛と名誉を何か強制的なものとしてしまい、後に続く愛と名誉の真の理解を壊してしまいます。目に入るもののほとんどすべてが愛や尊敬に値しないという無知の状態においては何かを愛する、または尊敬することはできません。とはいえ、幼いころのご両親に対する印象や人為的で強制的な愛や名誉を壊してしまえば真の愛や尊敬はさらに遠ざかってしまいます。今夜お伝えした内容は第四の戒めの真の意味そのものです。真実を、実際を見なさい。なぜなら、真実を見出すことができれば、相手にどれだけ逸脱し無知な部分があったとしても、あなたはすべての人の内にある人間としての基礎を尊重することができるようになるからです。
質問:しかし、人類が第四の戒めの真の意味に至るまでに一体どれだけの時間がかかるのでしょうか。こうした間違いや歪みを正すのに私達は大抵人生のすべての時間をかけて学ぶことを必要とします。
回答:今取り上げている戒律だけでなく、ほかのどの神聖な真実であっても、真実の歪みのすべてを人類が正すのにはどれだけの時間がかかるのでしょうね。すべての真実は歪み得ます。ご存知の通りです。人類がじゅうぶんに進歩すれば、もうこれは起こりません。この発達の段階に至るためには、誤りを経験し、解決しなくてはなりません。自己認識が高まる必要があります。こ、歪みは消えていきます。よく皆さんは大きくなる前に歪みを消さなければならないと信じているようですが、まったくの逆です。現実や実際を認知するレベルが比較的低いために歪みが存在するのです。ということは、歪みそのものが治療薬だということです。歪みなしには真実を知覚することができないからです。私はこのことを頻繁に口にしますが、今ここでふたたびお伝えしていますね!
霊的な視点や我々の観点からすると、一人の人がこのパスワークで意味しているような形の真実を内に獲得することは、数百万人が誤りに在るよりも、比較にならないほど全宇宙の成長に影響を与えるのです!信じがたい発言だと思うかもしれませんが、完全に真実なのですよ、皆さん。
質問:どれだけ時間がかかるかという今友人がした質問に関連したコメントです。近所に住んでいた子供の両親が怠慢だったことがあり、その両親は堕落した飲んだくれだったのですが、それにも関わらず子供達は彼らを尊敬し、受け入れと理解のみで両親を経験していました。同時に良く整えられた家庭で甘やかされた子供達が尊敬の意味すら知らないところも見たことがあります。
回答:もちろんこういったことはありますね。一方では堕落した人間かもしれませんが、子供に対しては何か特別な質を持っており、子供が必要な何かを与えている場合もあります。そして今お話ししているような問題からこの子供達が解放されており、有機的かつ自然に真実を知覚することができたのかもしれません。この点においてはこの子供達には歪みがないということですね。ただしこうした尊敬の念が不健康なものであり誤ったものである可能性もあります。恐れや罪悪感、自分を守るための妥協策から尊敬の念が生じている場合には、今ここでお話ししているような真の理解とは無縁です。
今自分にとって不可能と思えるようなことを愛する、または尊敬しようと試みるところから始めないことです。シンプルに、理解したいと思うところから始めるようにしてください。その他のことは自然と後に続きます。真の理解のようなものは大抵、人生のもっと後になってやって来るものです。恐れや憤り、自己否定、自己否定などの心の痛みは、理解を獲得した後に消え去ります。相手がどれほど道を踏み外した者であっても、こうした理解は一人の人間が他者に抱くことができる真の尊敬や愛なのです。
質問:今夜欠席している友人から預かっている質問をしたいと思います。イメージの創造には偽りの防護へのニーズが生じると思います。こうしたニーズはイメージが解決した後にも根強く残るものでしょうか。そしてこのことで新たなイメージの創造に寄与することになりますか。
回答:これはもちろん起こり得ます。不幸にも不完全または不十分な心理療法でよく起こることがこれです。ある程度の段階まで至り、ある程度のパターンは解消されるのですが、それ以上深くまで行くことがないのです。ある程度良くなって治療を後にするのですが、根は埋まったままで、また別の破壊的なパターンやイメージを創造する可能性があります。常にそうですが、正しいやり方かどうかということなのです。ゆっくりと、かつ確実に根に向かうこと、つまり次の段階に進むことです。そうすれば必然的にパターンは止み、そっくり阻止されます。こうして建設的で現実的なパターンが構築されます。愛の通路が開かれるのです。もはや防御の必要はなくなり、人は生命力や生きること、そして愛することに心を開きます。
質問:主の祈りについてコメントをお願いしてもよろしいでしょうか。特に「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」の節についてお願いしたいと思います。天と地が何を意味するのか教えていただけませんか。
回答:ずいぶん前ですが、一度主の祈りの解釈を述べたことがあります。とはいえ、英語で行ったわけではありませんし、そのころと比べて皆さんは大分進歩しましたし、理解が深まっていますので、どこかで再度丸ごと一晩を使って解釈を行うのも良いかと思います。
天と地は共に地理的なものを指しているのではなく、今ここでの人生や、皆さんの体の死後の生を指しているわけでもありません。天と地とは人格の段階を意味しています。人格は自動的に人生のどのような状態も含み、身体的なものも非身体的なものも含みます。地という言葉が象徴するものは様々に解釈をすることができますが、いくつか例を挙げると、地は皆さんの外的、物質的、身体的な人生や物理的な行動、功績、外的な事実や因子を表します。つまり端的に言えば目に見えるものを指します。地は皆さんにとって可視であり、天は不可視です。つまり天が象徴するのは、外的には知覚することができないすべてのものです。皆さんの内なる行動や反応、思考や感情、動機、皆さんの魂やスピリットです。皆さんの存在における心理的、感情的、そして霊的なレベルのことです。このすべては見ることができません。外的には正しく行動していても、内的な動機が自己中心的であり、うぬぼれが強く、愛のない、臆病なものである可能性はあります。教会や社会、世論に従い、欠点のない行いをするかもしれませんが、この人の魂は神聖な法則の真逆に向かっている可能性もあるのです。神聖な法則こそが天であり、キリストが伝えるところの内なる王国です。もしも皆さんが内的に純粋であり、オープンで、神の意志を満たしているのであれば、時に社会的な承認という外的なものを犠牲にすることもあるかもしれませんが、それでも自分自身に正直で高潔あり、勇気と謙虚さを持って本当に信じるものに向かって決起するのであれば、あなたは神の意志を行動していることになります。もしもあなたがこうした純粋さを祈りの中で願うのなら、神があなたに求めているものがこうした純粋さなのだと完全に分かった上で祈るのならば、あなたは天において神の意志を成すことになり、自動的に地でも成すことになるのです。
質問:前の質問に関連してお聞きしたいのですが、ヘブライ語の創世記の始めの7つの言葉が主の祈りと同じように天と地という言葉を含んでいることは意義深くはないでしょうか。天という言葉(シャマイム)は火と水という言葉で構成されているという解釈があります。これらのことをまとめていただくことはできますか。
回答:人はすべてを文字通りに捉えるところがあります。原始的な人々はいつでもそうでしたし、今でも人はそうです。火が象徴するものは、生命、生きること、愛すること、共感すること、健康的な活動、霊的な努力、勇気、信念といった人が決起することの中に含まれます。これは人生を意味のある冒険にするための力です。水は流れや存在の状態、健康的な受動性といった感情を象徴します。健康的な活動である火も、健康的な受動性である水も、両方が浄化のプロセスです。火も水も共に洗い流すプロセスと成りえるわけで、統合された健康的な人生にはこの両方が必要です。火も水も共に宇宙の力であり、自分の魂の内で真実を構築し、火や水に自身を整合することでこうしたものと関係を築くことができます。火と水という力のコンビネーションは、天とも捉えられるような調和の状態に人を導きます。
質問:いわゆるマゾヒズムについて話していただくことはできますか。
回答:このことについては、我々のワークや他のレクチャーで多く語られています。もしも過去のレクチャーを完全に理解し、そこに含まれるワークのメソッドを行っていれば、自動的にいわゆるマゾヒズムという自己否定の傾向について理解することができるでしょう。簡単な用語に要約しますと、今夜もしくは以前に何度もお話ししたような自己否定は、いくつかの人格構造においては、マゾヒズムをより強く引き起こすかもしれません。自己否定はそもそもマゾヒズムの傾向を持っているので、度合いの問題です。以前にもお伝えしましたが、健康的な力に比べて自分には価値がないと感じる部分が強ければ、生きることから人が唯一引き出すことができる歓びは痛みからということになります。ここではまだ身体的なマゾヒズムについて話しているわけではありません。同じことが心理のレベルにも当てはまり、そこに言及しているわけですが、こうしたものが身体的にはまったく顕現しない場合もあります。身体的に現れる場合には事が非常に進行していると言えます。拒絶による痛みが人にとって唯一確かな事であるために、人はそれを大切にし、手放したいと思わないのです。健康的な歓びはこの人にとって到底達成できない不可能なものです。別の言い方をすると、マゾヒズムとは諦めです。諦めて劣ったものの方へ行き、そこでどうにか最善を尽くそうとしているのです。自我があまりに弱いために世界が間違っていることを証明できないが故に、いうなれば生きる、愛する、歓びと共にある権利を主張できずにいるわけですが、こうなると結果としてマゾヒズムが生じます。自己本位である権利を世界が否定しているように映り、降参します。世界に同意し、非常に間違った形で、不健康で自己破壊的、そして人生を破壊するような形で痛みから歓びを創り出すことになります。降参すること、流れに身を任せること、戦うことは健康的なプロセスであると同時に、歪んだものとも成りえるのです。
もちろん、今述べたこととは別の因子も関係しています。数えきれないほどのものがありますが、もっとも深いレベルの核には今申し上げたことを見出すことができます。しかし単なる言葉としてこうしたことを耳にするのではなく、大々的な自己探求を通して実際に経験するまでは、多くのレベルを通過する必要があります。より表面的なレベルでは罪悪感による自責を見出すことができるでしょう。問題に対処できないが故の自己破壊性も見出すことができるでしょう。もしくは問題に対処したくないという内なる欲求もあるかもしれません。私達が共に話し合い、そして見出してきたイメージにまつわるプロセスはすべてマゾヒズムの流れの中にあります。なぜならパターンを持ったイメージはネガティブな信条を包含しており、それらは痛みを伴い、自己破壊をもたらすからです。こうした自己破壊を人が心理のどこかで楽しむとき、どれだけ自分がそれを楽しんでいるか、満足しているかに無意識であったとしても、それはマゾヒズムです。
言葉がどれだけ真実であったとしても、言葉に真の答えを見出すことは決してありません。言葉は道を切り開き、自分自身で真実を経験する助けとなり示唆となる可能性はあるかもしれませんが、それ以上ではありません。今回のような質問が投げかけられたとき、答えが期待外れである、または失望することが多いのはこのためです。人は答えから解放感を得ようと期待しますが、内的な解放が回答から得られることは決してありません。内的な解放は言葉を真実として経験することのみで得られるのであり、そしてこの経験は内なる抵抗をひとつひとつ切り抜けることでのみできるのです。あなたが歩んでいる道は、あなたがもっとも抵抗をしているまさにその場所に向かいます。この抵抗と向き合い対処する勇気をもしもあなたが持っているのならば、歩んでいる道を短縮することができるでしょう。しかしもし尻込みをすれば、回り道をすることとなり、もっと後になってふたたびこの箇所に戻ることになります。そのころには多分、遭遇する必要のなかった痛みのために抵抗はどこかへ行ってしまっていることでしょう。
ですから親愛なる皆さん、ここでふたたび申し上げます。目を逸らしたいと思うような抵抗を自分の内に見出す度に自分自身をチェックするようにしてください。そこがまさに焦点であり、自由になるために、愛のチャンネルの詰まりをなくし、自分は役立つ者なのだ、自分は意義ある一部を担っていると感じる生産的な人生を送るためにいつかは通らなければならない敷居なのです。尻込みをしたいと一番望んでいるものに取り組んではじめて、背後に答えを携えた扉を見出すことができるのです。これは強調してもしきれません。
質問:今お聞きしたことによって気づいたのは、自分はいつもセックスに対して尻込みをしているということです。感情面において、セックスは罪だと思っていることを発見しました。考えてみれば実際にはセックスは歓びです。つまりここで自分が見出したのは、歓びは罪だと思っているということです。つまり常に歓びや歓喜を妨害してきたということです。このことを理解はしても、どうすればよいのか分かりません。何かヒントをいただけますか。
回答:大切な人よ。なぜ歓びを拒否してきたのか、次なる段階がきっとこの答えに導いてくれるのではないかと思います。そして自分自身を拒否しているが故に歓びを拒否しているのだと気づくことでしょう。繰り返しますが、言葉がじゅうぶんであることは決してありません。感情として経験する必要があり、ワークを継続することで最終的にこの意識へと至ることができます。さて、なぜあなたは自分を否定するのでしょうか。この質問に対する答えの一部は、あなたがすでに気づきに至っている場所、その気づきと結びつく場所、そしてこれから新たに気づく場所から導き出されることでしょう。幸せや歓び、歓喜や愛を否定することは現実には、自分自身を拒否すること以外の何物でもありません。このことへの理解はもちろん、今夜お話しした内容そのものに見出すことができます。あなたのご両親が、そしてご両親以外の家族がどのような人間であったのか、調査してみてください。
質問:コミュニケーションを求めるということはもちろん、言葉という手段を用いるということで、言葉の意味に至ることができなければ、言葉は失われてしまいます。マゾヒズムという言葉が使われ、他方でサディズムという対極の言葉があります。近代的な心理学の教育機関ではサディズムとマゾヒズムの両方を指してアルゴラグニーという言葉をむしろ使います。ひとつをポジティブ、もう一方をネガティブと呼びます。このことをどうお考えになりますか。
回答:これはまったく本当ですね。片方なしにはもう片方もありません。双方共に痛みを与えるひとつの力であることに変わりはありません。いわゆるサディスティックな人は、もちろんごまかしの防御ですが、自分を防御するために他者に痛みを過失します。時に同じ人がサディスティックに振舞うことが自分にとって都合が悪いと感じるときもあります。つまり自分が必要としている誰か、自分を愛し守ってくれる誰かを失うのではないかと恐れる、または周囲との間に葛藤が生じるなど、サディスティックな態度が自分にとって不利益だと感じます。そこで自分の中のネガティブな力が故に存在しているサディスティックな力を反転させます。単に気の向くままにこの力を施行することはできず、何かがここに起こる必要が出てきます。他者に向かうか、自分に向けるかということです。サディスティックもしくはマゾヒスティックな力を止めるには、これを解消するほかありません。
つまりこの二つの力はひとつであり、同じものだということです。唯一の違いは向けられる方向です。しかしどちらの方向に使われたとしても、ほんの僅かな違いがあるだけです。誰かを傷つければ最終的には自分を傷つけることになり、自分を傷つければ最終的には誰かを傷つけることになるのです。この力自体が無知に由来し、人を無知にします。この力は皆さんを理解から遠ざけます。なぜならこの力は理解を欠いたところに由来するからです。誰が先に影響を受けるか、そのタイミングが唯一の違いです。後に傷つく者、つまり二次反応は単に遅延して起こったものだということです。
心理学では痛みを与えるこうした行為に特定の用語を当てています。霊的にこの用語は完全なる真実です。痛みを与える残酷な力があり、この力がはじめに誰に向けられようとも、最終的には関係するすべての人が害を受けます。サディズムよりもマゾヒズムの性格構造の方が優れていると思い込むのは非常に短絡的です。
友人である皆さん。皆さんが今どこに居ようとも、お一人お一人に祝福をお送りいたします。心の深くで、もっとも深い理解において、今夜私がお伝えしたことを皆さんが知覚してくださいますように。光や安全、自由や生産的な人生を獲得するために、皆さんの中の閉ざされた扉を通過するための勇気と力を、今夜のお話しが皆さんに与えてくれますように。光や安全、自由や生産的な人生は、求めればすぐそこにあるのです。皆さんが思っているよりもずっと、すぐそばにあるのです。皆さんがしなければならない唯一のことは、手を伸ばし、ごまかしの安全を放棄することだけです。平和の内にあってください。神の内にあってください!
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