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Pathwork in Japan
No.117 恥:幼少期の経験の遺産(例え好ましい経験でも)
Pathwork Guide Lecture No. 117
1996年版
1963年9月20日
恥:幼少期の経験の遺産(例え好ましい経験でも)
SHAME: A LEGACY OF CHILDHOOD EXPERIENCES, EVEN FAVORABLE ONES
最愛の友である皆さん、こんにちは。皆さん全員に祝福を。あなた方の努力、進歩、人生全てが祝福されますように。今夜のレクチャーが、あなたの道を更に一歩前に進める助けとなりますように。もしかしたら、このレクチャーが新しい友人達を勇気づけ、この道へと誘うきっかけになるかもしれません。このレクチャーは、深い自己探求によって明らかにされる内的領域への到達を主な目的としています。
現時点で落胆や絶望を感じていても、粘り強く続ければ、あなたのあらゆる努力は必ず成功へと導かれます。今は失敗のように見えることも、それは絶対的に必要な経験であり、やがて勝利となることが証明されます。困難な時期を乗り越える時は、このワークが困難の原因ではなく、原因は未だに存在するあなたの未解決の問題であることを思い出してください。その瞬間、自らの内に何があるのかに気づくこと、その気づきが鍵であることを自らに思い出させてください。友よ、あなたは未だ、自分自身が何に本当に悩まされているのか十分に自覚できていません。このことに気づけば、正しい方向へどのように進めば良いのか分かるでしょう。あなたは絶望しなくなるでしょう。何故なら、失われた繋がりを見つけ、迷ったり混乱したりすることがなくなるからです。
今夜はふたつの特定のテーマについてお話ししたいと思います。一見、これらは無関係に思えますが、実はそうではありません。私達は、このふたつのテーマの関連性を実証していきます。ひとつ目のテーマは恥です。これは以前、ハイヤーセルフに対する恥、あるいは特定の欠点への恥との関連性でお話ししました。ここでは、非常に具体的な観点からこのテーマに焦点を当てたいと思います。
この道が進むと、自らに認めるのさえも恥ずかしい、特定の領域を自らの内に見つけます。あなたが恥と思うものは欠点かもしれませんが、必ずしもそうとは限りません。欠点や、長所と同じ位、非常に正当なニーズを恥じている場合もあります。はじめは、そのような恥の存在にすら気づきません。向き合うことを深く恥じている自らの側面に気づくまでには、かなりの時間と努力が必要です。あなたはその特定の恥とは正反対の見せかけをすることで、これらの側面を隠します。
ゆっくりと、しかし確実に、あなたのパスワークが正しい方向へと進むにつれて、あなたは自らに恥を認めることを学びますが、未だそれを他者に打ち明けることはできません。この段階に達すると、ある程度の自己欺瞞は解消されます。あなたの個人の特別な恥、その結果の見せかけは様々です。しかしそれが何であれ、そのような側面と向き合う時、これまで許容できなかったものを認めるには、相当の苦闘と勇気が必要です。その苦闘を乗り越えた時、かなりの内なる自由と安らぎが達成されます。このような苦闘が、ひとつの決定的な成功で終わることは滅多にありません。通常、精神は一度に全ての見せかけに向き合う準備はできておらず、このプロセスは繰り返される必要があるかもしれません。自らに見せかけることを止めて、これまで認めるには恥ずかし過ぎると思っていた何かに向き合う分だけ、あなたは感情的な安らぎと心地良さを感じるでしょう。このような自己承認の段階に達した人は、自らの恥、見せかけ、自己欺瞞を正確に特定することができます。まさに自己実現の大きな一歩を踏み出すのです。未だに自らの恥や見せかけに気づかず、何も隠していないと信じている人々に比べれば、遥かに先を進んでいます。
しかし、更に次の段階があります。次の段階では、あなたの解放の程度を評価する素晴らしい機会が与えられます。あなたは自らの恥について、ヘルパーとどれだけ自由に話し合うことができますか?どれだけ楽に感情的に心地良く話し合えるかで、あなたの内的自由度が示されます。この道におけるこの重要な節目は、多くの場合に見過ごされ、あなたは徐々に自らが認めたものの意義を忘れてしまいます。部分的な承認が十分に探求されない限り、その見せかけは外的世界、そして自己に対してさえも向けられ続けます。
この点について、具体的なアドバイスをしたいと思います。まず、この方向に注意を払い続けてください。この道における最初の特別な道程の第一段階は、これまで自分自身から隠してきたものに気づくことです。それがある程度できたら、その発見を活用したかどうか、あるいは再び曖昧にしてしまったかどうかを自問しましょう。真の解放は中途半端では得られません。友よ、意識的な認識を再び半意識的にしてしまうのは、あなたがようやく自らに認めた恥を、他者、つまりあなたのヘルパーに伝えるだけの準備は整っておらず、自由ではないからです。それを自らに認めさせることができないので、あなたは再びそれを隠します。認識は再び曖昧なものになります。
「私は未だ自分の人格のこれらの側面を表に出して、それについて話し合う気にはなれない。」と自認する方が、遥かに望ましく建設的です。自分自身に無理強いしないでください。何故なら、あなたの不安は強い逆流を引き起こし、話し合いから得られる利益が失われるかもしれません。そして、自らが見つけた恥ずかしいと思う側面を、少し歪めて、不誠実な取り繕った形で表すことになってしまうからです。それ故に、得られるものは疑わしいものとなります。これはあなたに罪悪感を抱かせ、ひいてはヘルパーとの関係に新たな問題を生み出すことになります。これは、「まだ自分をさらけ出す準備はできていない。」と率直に認めるよりも有害です。この告白なら、あなたは正直です。力を使い過ぎません。そうすれば、罪悪感や恨みを生むこともありません。義務感や追い詰められた自己規律から話したり、未だ準備ができていないことを無理にしたりするより遥かに良いのです。
デイリーレビューの中で「あれこれの要因が恥ずかしさをもたらす。そのことについて話すことは心地悪すぎる。」と確実にしてください。自らの自由の欠如の重要性に向かい合うことを怠らず、そのことを受け入れましょう。自分の立ち位置、何処まで進んで来たのか、恥や見せかけから自由になる為に達成すべき何が残っているのかを見つけましょう。自らに抑制や禁止があることを受け入れ、もしかしたら1週間後、1か月後、1年後には、自由な段階に達することができるかもしれないと自分に言い聞かせましょう。しかし、その間、自らを観察してみてください。もしかしたら、少しずつ、自らに無理をさせずに、あなたが可能だと思っていた以上のことを明らかにできるかもしれません。最初は心地が悪く、不安で、恥ずかしく、抑制を感じるかもしれませんが、回を重ねるごとに楽になります。恥ずかしく思えたことを自由に表現しながら、心の安らぎを得ていくと突然、これまでの恥が全て幻想であったと気づくでしょう。これが解放の目安です。
皆さん、道におけるこの特定の部分について考えることをお勧めします。何を恥じているのか気づいていますか?もし気づいていないのならば、それを見つける必要があります。気づいているのならば、あなたはその問題にどの程度取り組んでいますか?自己対峙し、深く調べて、恥の原因となっている問題を見つけ出してください。すぐに理由や答え、説明や言い訳を探そうとしないように。あなたの恥の原因となるそれらの側面だけを認めてください。それは何か、何故、恥じる必要があると感じるのか、正確かつ的確な言葉で書き出してください。よくある答えは、他者から劣って見られること、与えられる愛や尊敬が減らされること、軽蔑や屈辱を招くことの恐れです。この一般的な考察が、具体的にあなたにどのように当てはまるのかを見つけてください。そして、その問題に向き合い、率直に話し合うことに挑戦してみましょう。例え少しずつでも、成功するごとに内なる自由が増えていくのを観察しましょう。気づきを保ち続けましょう。多少の勇気は必要かもしれませんが、自己開示を自らに強要しないでください。待つと決めたにせよ、問題を忘れず、この角度から日々の反応を観察し続けてください。根深い未解決な問題が、恥、抑制、日常的な不調和な感情と直接的に関係していることをあなたは確信するでしょう。
毎回の個人セッションでは、この特別な扉を少し開く機会が与えられます。毎回、以前は受け入れられなかったことについて話し合うのが容易になるでしょう。セッションの後、自らの反応を記してください。前回と比べてどれだけ自己開示ができたか、例え僅かであっても、未だにどれだけ偽り、違う表情を見せかけたかどうか。おそらく良い出発点としては、あなたにどれ程の制約が未だにあり、それを手放すつもりも、手放すこともできないと感じているのかをヘルパーと話し合ってみることです。この方法ならば、未だ詳細に立ち入れなくても、あなたの恥の領域を全般的に触れることができます。これが道筋を準備し、適切な雰囲気を整えるかもしれません。言うまでもなく、過去の人生の特定の事実よりも、感情的な偽装や人格の誤魔化しの方が遥かに「容認できない」に当てはまるでしょう。
この取り組みが自らの成長や内的健康にとってどれだけ重要か、あなたには計り知れないかもしれません。ヘルパーである友人達には、自らの内だけでなく援助する相手の内に、この要因を認識するよう助言します。ヘルパーがその観点で未だ不自由であればある程、援助される側の人々も自由な自己開示は期待できないことを忘れてはなりません。成功しなくても、厳しく自己非難したりせず、自分が立っている場所を静かに観察することがとても重要なのです。
自由に心地良く語り合えない領域などないと主張する人々は、未だそれを見つけていないのです。彼らは依然としてどれほどの抑制と自己欺瞞の中で自らが生きているのかに気づいていません。思っていた程進んでいないと気づいても、不安になる必要はありません。私が助言する方法で自らの現状を受け入れ、リラックスしてそのことをワークすれば、強制や罪悪感、自分自身に対する焦りは必要ないのです。必要なのは、自らの良き意志を認めることだけです。
私がお話ししたいふたつ目のテーマは、これまで僅かしか触れてこなかったことです。私達は人生にあらゆる問題をもたらすものを理解し、解決する為に、イメージ、誤認、歪んだ不健全な態度をワークしてきました。そこでは長いこと、不幸で辛い幼少期の出来事や状況に焦点を当ててきました。私達はそれらが、自己展開を阻害する精神状態の原因であることを発見しました。幼少期の傷や欲求不満は、人格に深く根差す問題の原因として認識されてきました。ここで、私は全く逆の方向から光を当ててみたいと思います。幼少期における一見好ましく、ポジティブな要因も、同様に内的歪みの原因になることもあるのです。
一見すると、これは全く不可能に思えるかもしれません。何故なら、今信じていることとは全く正反対のように思えるからです。しかし、このテーマをもう少し詳しく見てみましょう。私が、一見好ましい要因と言ったことにお気づきかもしれません。何が良いか悪いか、建設的か破壊的か、正しいか間違っているかについてのあなたの評価は、多くの場合、瞬間的な快不快、あるいは押しつけられた一時的な価値観に、合致するか反するかということに結びついています。あなたにとって楽しいと思われるものを、建設的で良いことだとみなす場合もあるでしょう。一方で、自分がよく従う、恣意的で押しつけられた価値観に合致するという理由で、不快なものを肯定することもあるでしょう。
私は時折、永遠の価値と一時的な価値の違いについて言及します。一時的な価値は、何世紀もの間変わらなかったとしても永遠ではありません。本質が永遠でなければ、それは一時的なのです。それは特定の文明のニーズから生まれ、永遠の価値を理解する人類の能力が限られているが為に存続します。一時的なニーズは、特定の社会の状況によって決まります。社会的、経済的、政治的要因が役割を果たすのと同様に、地理的要因や、主にその社会に転生してきたスピリットの種類も重要な役割を果たします。例えば、家父長制と家母長制では価値観が大きく異なります。君主制と民主主義でも異なります。社会の価値観を決定づける要因は、他にも数多くあります。怠惰な傾向の為に、人々は既存のものに盲目的に従い、一時的な有効性が既に過ぎている価値観を保持し続けます。自己疎外や自立した思考の欠如により、人々は与えられたものに執着するようになります。
だからこそ、この道においては、受け入れるもの、拒否するもの全てに疑問を持ち、あなた自身の理由を見つけることが非常に重要なのです。これが、永遠の価値を見出すことができる唯一の方法です。一つひとつの事例、出来事、問題について、自らの信念の奥底から吟味し、探求し、問いかけ、真摯に答えなければなりません。これらは、深く吟味されなくてはなりません。そうして初めて、神聖なる特質が見出され、受け入れられるのです。皆がそう言うからでも、社会的規範だからでもなく、人がそれを真の自己として見つけるからです。神聖なる特質や永遠の価値はそれ自体で不変ですが、その適用は常に変化し続けます。一時的な価値観とは正反対です。多くの場合、一時的な価値は永遠の価値を無視します。例え双方が同じように見えたとしても、その性質は非常に異なります。
長期的に見て、ひいては関係者全員にとって良いことであり建設的でもある、愛、真実、英知、勇気こそが、永遠の価値の唯一の基準です。これらの価値は、盲目的に受け入れるだけでは得られません。永遠の価値は、一時的な価値に反しながらも快く見えるかもしれませんし、一時的な価値に合致しながらも不快に見えるかもしれません。しかし、一時的な価値観に合致しているからという理由だけで、真の価値に従って行動しながら、その永遠の価値に気づかないままであれば、あなたは自分自身との間に平和を感じないでしょう。あらゆる個人的な選択や決断、行動、感情的な方向性や態度は、その決断がどちらの価値観に基づいたのかに左右されます。定型はないのです。検証されていない価値に固執して、自己に到達することはできません。自らの知覚に基づいて、検証し、感じ、活きることで自己に到達するのです。そうしてあなたは「これが現実だ。」と言えるのです。
近年、あなた方の社会における子供への接し方が劇的に変化しました。少し前までは、制限と厳しさが正しい方法だと一般的に受け入れられていました。親の未解決の問題は、そのような方法に捌け口を見出し、既存の価値観に従うことで、自らの押さえつけられた敵意を行動に移しました。最近では、寛容、規律の欠如、溺愛が当たり前になっています。だからと言って、親の押さえつけられた敵意が子供に伝わらないという意味ではありません。潜在的な敵意の埋め合わせに、溺愛や寛容を利用することで新しい価値観に従うのです。新たな規則に従うことは、表面的には愛のように見えるかもしれません。真の愛が確かに存在しているのかもしれません。しかし、自覚されていない敵意に対する罪悪感や、本当に現在の価値観に合致している訳ではないという罪悪感によって、真の愛が薄められる程度に応じて、溺愛や寛容さは、傷や欲求不満と同じだけ子供の精神に多くの問題をもたらします。
親の動機に十分な愛がなく、必要であれば子供を制限するだけの十分な洞察がない場合、罪悪感、混乱、子供が表す問題に対処不能であることは、親の中に内的な乱れを引き起こすでしょう。焦りや苛立ちといった人間にありがちな欠点を償う為に、親は子供を過度に甘やかし過ぎるかもしれません。子供は、その瞬間はそれを好ましい、楽しいものとして経験するかもしれませんが、それにはネガティブな影響があるかもしれません。害を及ぼすのは、行為そのものや結果のみならず、親の罪悪感、混乱、葛藤なのです。同じ行為が、過度の甘やかしからではなく、明晰で混乱のない精神から生じる場合もあります。それがどちらから生じたのかによって、子供への影響は異なります。更に、親の未解決の問題の影響を受けるかどうかは、子供が生まれつきその部分で健全であるか否かによっても異なります。これは、傷つけられた場合だけでなく、心地良く感じる過度な甘やかしにも等しく当てはまります。子供の精神に、関連する問題がなければ、悪影響はありません。
ここで、自由放任、過保護、甘やかされるような育成環境といった、一見快い環境が具体的にどのような影響を及ぼすのかを検証してみましょう。精神はその状態に慣れてしまい、後の人生で同じような満足が得られなくなると、人格はかつて享受した快い状況を再現しようと駆り立てられます。その人は、子供の頃に愛として経験したものを繰り返し求めますが、罪悪感に縛られていない他の人々は償いの必要がない為、求められるものを与えることはありません。その人は、かつて得られたものを再現できないことで、傷つき、怒り、敵意を抱きます。幼少期に享受した保護、そして真の愛と偽りの愛への執着は、子供が経験した傷や欲求不満と結びつきます。言い換えれば、親が苛立ちの感情や、子供が抱える問題に取り組む意欲のなさを埋め合わせようと子供を過剰に甘やかすのと同じく、子供も、無意識あるいは意識的にも経験する親の否定的感情の流れを埋め合わせようと、過剰に甘やかされることへのニーズを使うことがあります。
親愛なる友人の皆さん、今こそ、幼少期に喜ばしく経験したことをその側面で見直す時です。傷つきや欲求不満を明らかにするには、自分自身への深い洞察が必要でした。子供は、自らが経験したことを当然のこと、そして永続的な状態だと捉えがちです。子供が傷つくと、苦しんで抵抗するかもしれませんが、自らの人生の状況を客観的に評価することはできません。快い側面についても、同じことが言えます。どちらも子供にとっては、疑問にも思わない全体的な雰囲気の一部です。従って、これらの要素を具体的に認識するには、相当な探求と自己省察が必要です。幼少期の傷や痛みに関して、皆さんの何人かは過去に既にワークを行なっています。その経験は今、その対極である喜びにも気づきやすくなるという点で役に立つでしょう。これには、注意、集中力、自己省察が必要です。
この点においていくらか進むと、現在の人格全体を理解することがいかに重要か、そして過去が自らの精神的、感情的な構成にどれだけ大きな役割を果たしているかに気づくでしょう。持っていなかったものに対する感情だけでなく、持っていたものに対する感情をも再現しようと、自分自身がどれ程努めていたかに気づくでしょう。言い換えれば、幼少期に欠けていたものを補正しようとするだけでなく、当時持っていたものを再現しようとするのです。この観点は、人間の精神における障害の探求で大きく見落とされています。
もう一度強調しますが、行為だけでは、それが正しく建設的であるかどうかは分かりません。内的条件、動機、根底にある精神の統一性が全てを決めるのです。寛大であることが正しい場合もあれば、制限や罰することが正しい場合さえあります。どのような状況でどのような選択肢を選ぶのか判断する為に外的な規則を頼る人は、迷って混乱し、その行動は失敗に終わるでしょう。しかし、自分自身を知り、内なる問題を理解している人は、その内的問題が完全に解決されるずっと前であっても、どのような選択をするべきなのかが分かるでしょう。その人は、永遠の価値に従って行動し、調和的な立場に立つことができます。これは、子供への接し方だけでなく、あらゆる人間関係や状況にも当てはまります。混乱は常に、自らについての知識が欠けていることを示します。
ですから友よ、この新しい観点を試してください。そして、次のことに注意してください。愛されていないと感じる度合いに応じて、あなたは愛と罪悪感の矛盾した感情に傷つけられるでしょう。このふたつの感情が作用するのは、この世に生まれる前から既に、あなたの中に精神的な非現実が存在していたからです。あなたは持っていなかったものだけでなく、過去に持っていて、持ち続けたいと願うものに対しても、多くの怒りや恨みが存在していることに気づくでしょう。
すぐに、今夜のふたつのテーマの関連性は何か、何故これらをひとつのレクチャーで話そうとするのか疑問に思うかもしれません。しかし、このふたつのテーマをより深く理解すると、その関連性は明らかです。ここで皆さんに話に参加して頂くのが建設的かもしれません。この関連性が分かる方はいますか?意見のある方はいますか?
参加者:与えられたものが良いと感じなかったり、望まないものを与えられたりした場合でも、良い意味で与えられたものに感謝しないことは、深い恥の感覚を抱かせると思います。
回答:それは確かにそうかもしれません。しかし、私が実際に言及したのは、望まないものを与えられた場合ではなく、あなたが非常に楽しんだものを与えられた場合です。ただし、傷ついたことと同じ位、その害に気がつかないかもしれません。
参加者:父親をとても愛している女の子の場合、後から男性に同じ愛を求めることがあるかもしれません。子供は父親への愛を一種の性的な形で経験し、後から男性に同じ愛を求めますが、それを得られない場合、その点で恥を感じるかもしれません。
ガイド:これは良い例です。
参加者:親に何らかの形で育児放棄があり、その罪悪感から子供が病気になると極端に甘やかす場合、子供は愛を得る為に病気を望むようになります。後の人生で病気になっても、愛が得られないことに失望し、傷つくでしょう。
ガイド:これも良い例です。
参加者:愛していると言われても、子供にその愛が感じられない場合も、恥を感じるかもしれません。
ガイド:そうですね。
質問:恥は常に罪悪感と繋がっていますか?
回答:常にそうとは限りません。罪悪感がなくても恥を抱き、恥がなくても罪悪感を抱くこともあります。
参加者:子供がお小遣いをもらい、そのことに罪悪感があり、実際にそれを受け取る資格がない場合、後に給料を受け取ることへの恥を感じるようになります。
ガイド:そのような場合では、お小遣いを受け取ることへの罪悪感や恥の意識が何故存在するのか、更に理解を深める必要があります。
参加者:養子になった子供を親が常にちやほやし、子供に自由を与え過ぎていた事例を知っています。おそらく真の愛が欠けていたからでしょう。その後、子供が18歳位になると更に子供の要求は増えて、両親はそれに応えることができませんでした。その子供は、実の両親がいないことを恥じていたのだと思います。
ガイド:そうかもしれません。これらは部分的には良い例です。このようなシェアは、私の話をより深く理解するのに役立ちます。それではここで、原則として、子供の頃の快い経験がもたらす害と恥の繋がりについてお話ししましょう。
人間は大人になってからの人生で、快い幼児期の状況を再現したいと願うなら、それは子供のままでいたいという願望の現れです。貪欲や自己責任の欠如の現れです。これは特に、成熟した大人であることを誇りに思う人にとっては認め難いことかもしれません。殆どの人々は、成熟していると見られたいと願いながらも、同時に子供の頃にあった利益も欲しています。子供でありたいという欲望、そしてその挫折感に対する怒りは同様に、恥を生み出すに違いありません。この傾向は、世界や意識的自己に示されている、押し付けられた理想とは完全に矛盾します。
ご存じの通り、理想化された自己像は、あらゆる制限を否定し、人格が欠けていると感じているもの全てを持っているかのように装います。理想化された自己の見せかけこそが、問題の核心です。この見せかけは、子供が人生に欠けていると感じたものだけでなく、実際に持っていたもの、持ち続けたいものをも隠しています。理想化された自己を検証すると、この二重の見せかけが見つかる筈です。その背後には、正反対のものが隠れています。それを明らかにすることは恐ろしい告白のように思われます。自らの見せかけと正反対のものを認識しない限り、恥を見出すことはできません。この正反対のものが深い恥を生み出し、幼少期の快い条件と不快な条件の両方と結びついています。
皆さんは全員、理想化された自己像とは正反対のものの考察を、今こそこのワークに取り入れるべきです。恥を感じる所を探し、幼少期の快い状況とどのように繋がるのかを見つけてください。もしかしたら、あなたは両親が言う程ではないと思っていた、真の資質を褒められたことがあるのかもしれません。あるいは、様々な自己不信や歪みに隠されて、未だにその資質が欠けていると思っているのかもしれません。あなたにとって特に重要なものを見つけてください。このレクチャーを学び、ワークを実践すれば、あなたの解放と進歩は目覚ましいものとなることをお約束します。これこそが、あなたを苦しめ、あなたを人生や自分自身から遠ざけ、困惑させ、混乱させる何かを理解する核心になるでしょう。親愛なる友人の皆さん、このアプローチによって、あなた方一人ひとりが、それぞれ異なる方法で直接的な鍵を手にするのです。一部の方々には、この探求は時期尚早かもしれません。まずは、その他の多くの側面を探究する必要があるのかもしれません。しかし、必ずしも時間の長さが問題になる訳ではありません。時折、ある人がより長い期間ワークして初めて気づくような特定の側面を、まだ短い期間しかこの道を歩んでいない人が発見する場合もあります。全ては、自らの問題に対する態度と同様に、その人の人格タイプや精神的な状態にもよります。あなたが今何処に立っているとしても、このことを考慮に入れてください。
このレクチャーに関して、他に何か質問はありますか?
質問:もし子供が親のお気に入りで特権的な立場にいたとしたら、後になって無意識のうちに同じような特権的な立場を主張するようになるのでしょうか?特別な配慮を求めるようになるでしょうか?
回答:はい、その通りです。それは、理想化された自己とは正反対なのかもしれない為、完全に無意識の可能性もあります。良い子だったからこそ特別な立場にいれたとしたら、理想化された自己にとって良い子であることは不可欠な一部です。良い子であることは、自己犠牲や利他主義も意味します。これは特別扱いを求めることとは矛盾します。この内なる混乱の中で、非常に多くのことが曖昧になり、抑制されます。様々な内なる要求や態度が全て明らかになれば、解明、解放、安堵は計り知れないものとなるでしょう。友よ、あなたはその途上にあり、もうすぐなのです。この質問をして、今ちらりと差し込んだ光によって、あなたはもうすぐそこに至ります。あなたは又、あなたの具体的な神のイメージも理解するでしょう。
あなた方一人ひとりに、愛が流れ込んでいます。生き生きとした現実の力です。自己対峙の勇気ある努力を続ける皆さんが、その努力がいかに意義深く、大きな意味を持つものであるか実感できますように。皆さん、続けましょう!人生はあなたに感謝するでしょう。それは、神が報いたり、罰したりするという意味ではありません。真実の自己省察によってあなたが調和する宇宙の力は、法則に従って反応します。その一方で、自己欺瞞や無自覚は、宇宙の力との調和をあなたにもたらすことはありません。皆さん全員、祝福されていてください。あなたの普段の努力が強められ、より自由で幸せになれますように。平和の内に、神の内にいなさい!
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