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Pathwork in Japan
No.72 愛することの恐れについて
Pathwork Guide Lecture No. 72
UNEDITED版
1960年10月28日
愛することの恐れについて
ABOUT THE FEAR OF LOVING
親愛なるみなさんにご挨拶いたします。みなさんを祝福します。この時間に祝福がありますように。
この数ヵ月間、私たちがここで話したことが、自分自身についての洞察を深めるための助けとなってきました。繰り返しになりますが、あなたの無意識の概念、態度、考えが、意識的な概念といかに対照的であるか、ということです。この認識について、さらにもう少し全体を理解するようになると、突き詰めると、いつもそれは愛に関すること、愛の問題だということが分かるでしょう。愛への欲求、愛の欠乏、それはあなたの中にいる子どもが原因です。これに気づくと、あなたの葛藤や誤認がどこに存在するにしても、自分がどういう点で十分に愛することができないのかがはっきりします。
少なくとも理論的には、頭ではご存じのとおり、愛は宇宙の中で、もっとも偉大なパワーです。あらゆる霊的教えあるいは哲学、あらゆる宗教、現代の心理学でさえもこの真実を認めています。愛だけが、ただ一つのパワーです。愛があれば、あなたは偉大で、強く、安全です。愛がなければ、あなたは貧しく、切り離され、隠れるように恐れの中にいます。けれども、これを知ったからと言って、あなたが自分の深いところにある、愛することができない場所、愛したくないと思う場所がどこなのか、そして愛することへの抵抗がなぜ存在しているのかを知らないのだということを見つけない限り、そして見つけるまで、本当の役には立ちません。まさにこの特定の知識がないと、この偉大で永遠の真実は、個人的に、今すぐにでもあなたの人生にあてはめることなど到底できない、あまりに高い理想であり続けることになります。
この道で真にワークに取り組み、内なる探求において進歩を遂げている友人のみなさんは、深く掘り下げて探求したあとに、そこに愛することへの恐れがあることに突き当たりました。本当に建設的にワークしている人は、ついに、この恐れが存在していることを完全に気づくようになりました。これは本当に素晴らしい進歩です。この気づきなしには、この先に続く必要なステップを自分のものにすることはできません。もう一度言いますが、これについて理論的に気づくだけでは十分ではありません。この感情を実際に体験しなければなりません。自分自身を知りたくないと思うほとんどの人は、自分の中にこの特定の恐れがあることに気づいてさえいません。
しかし、この葛藤に気づいたあなた方でさえ、なぜそれほどにまでそれを恐れるのかを真に、そして完全にはまだ理解していません。そうです、いくらかの答えは持っているでしょう。けれども、これらの答えのほとんどは、やはり理論上、理屈上の推論か、もしくは漠然と感じるだけの感情にすぎないのです。これでは十分ではありません。ですので、これから私は、このテーマのいくつかの側面について述べたいと思います。けれども、決してそれだけがすべてではありません。将来的に、私たちはまさにこの基本的な問題へと戻り、別の角度からそれに光をあてます。
私たちは今、愛することができない人は未熟であるということを知っています。そして、未熟さは非現実性の原因になります。非現実性、つまり真実でない状態にいることは、必然的に不幸せ、葛藤、闇、そして無知を引き起こします。従って、成熟というものが真に愛する能力だということです。さらに、私たちは、あなたの中にいる子どもが無制限の愛を要求するのだということについても話しました。この子どもは、すべての未熟な生き物と同じように、理不尽で、理解に欠け、要求が多く、一方的です。この子どもの無理な要求は、すべての人に愛されること、完全に愛されること、すべての願いがすぐに満たされること、どれだけ理不尽でもわがままでも関係なく愛されることです。まさにこの要素の中に、愛することを恐れるのはなぜか、という問いに対する答えがあります。
あなたの中の子どもが他者に要求するのは、他者が完全に自分を明け渡して降伏することで、それが愛なのだと本当に信じています。そのため、その子どもは自分自身を完全に明け渡すことに対して、抵抗する以外に何ができると言うのでしょう?あなたの中の子どもは、自分を愛して当然の人たち、そしてその結果服従的な奴隷のようになってしまう人に対して、あなたが絶対的な支配力を持ちたいと願うように仕向けます。
そして次に、あなたが自分自身の服従的な奴隷になってしまう、という時期が訪れ、自分の中にある奴隷の側面に気づくときが来ます。(このことは、文字通り受け取るべきことではありません。ある特定の感情的反応を指しています。)これが起こるのは、愛、受容、特定の人からの同意が自分の中であまりに重要になるとき、それなのにそれに対して喜んでもらえないときです。拒絶されること、打ちのめされることに対する恐れの中では、このような服従こそが自分の思い通りにするための唯一の選択肢に見えるのです。このような振る舞いが外側に表れるときには、表面的には真の愛に似ているように見えます。そのため自分がこのような陰鬱な状態にいるときには、いとも簡単に、これは自分が真に愛しているときの振る舞いだと都合よく信じてしまいます。
別の言い方をすると、このようにしてあなたは自分の内側の、そして大抵は無意識の、愛とはこういうものだという概念を作り出すのです。そしてそれは宗教や哲学で教えられた愛の一般的な概念と、少なくとも見かけ上は似ているのです。あなたが服従するとき、あなたにとっては、自分がわがままではなく、よろこんで犠牲を払っているように思えます。そして、他者が自分の世界の中心にいるように思えます。ある程度これは真実なのですが、本質においては真実ではありません。というのは、現実では、中心にいるのはあなただからです。あなたの関心事は、自分の子どもじみた概念に沿って、他者があなたを愛するように説得することなのです。その人はあなたをあがめ称賛することを求められ、あらゆる気まぐれに付き合い、その人の進むべき方向性をその人自身で決めることを手放し、自分の願いが軽んじられると内側で泣き叫ぶあなたの中の子どもによって支配されることを要求されるのです。あなたの精神に存在するこの無意識の要求を抱えながら、あなたが愛するのを恐れるということは不思議なことでしょうか?あなたの概念は、愛とは奴隷のような服従を意味するものであるため、あなたは愛することを望まないのです。この概念は、無意識で、それがためによりパワフルに作用します。あなたは別の人の意志に従いたくないのです。あなたは、別の人の決めたルールに服従して自分自身を失うなど、自己統制を手放したくはないのです。
したがって、愛について自分が無意識に持っている子どもじみた歪みを認識するときにのみ、あなたは他者の子どもじみた要求を感じ、認識できるようになるのです。そのとき、あなたはそれに影響されることはなくなります。自分を明け渡すことを強いられていると感じることがなく、明け渡さなくても罪の意識を感じることもなくなります。あなたは、このようなケースにおいては、もっと距離を保った別の種類の愛が与えられるべきだということをはっきりと理解します。
また、あなたの中の子どもの不当な要求の存在を発見し、経験すると、あなたはその子どもに道理を言って聞かせることができます。そしてあなたは、あなたの持つこの愛の誤認が、現実の愛と一切何の関係もないことを認識するのです。いったんこれを理解すると、あなたはもはや愛するのを恐れなくなります。なぜならば、愛とは尊厳、自己統制、自由を放棄することを意味しているのではないことに気づくと、愛を恐れなくなるのです。もしあなたが子どもじみた要求をせず、それゆえに徐々に、少しずつ成熟したやり方で愛することができるようになれば、あなたはそのお返しとして同じことを期待するようになります。このやり方で愛することには、何の危険もありません。その愛の中では、あなたは自由なままでいられます。奴隷のようにはなりません。これはそれほどにシンプルで、論理的に必然なことなのです。他者はこのように自分を愛さなければならない、という子どもじみた考えを手放すとき、あなたは他者を愛するのを恐れないでしょう。
成長と成熟というこのゆるやかなプロセスにおいて、あなたの魂が懸命に得ようとする大きくて包み込むような愛を経験する地点に直ちにたどり着くことはありません。なぜならばそれは、あなたの魂が抱える葛藤のひとつで、その愛を切望しながらも同時に恐れがあるためにそれから隠れてしまうのです。繰り返しますが、あなたの中の子どもは両極端だけしか知りません。偉大なる高みに至り、最終ゴールに到達するか、あるいは何もないか、という両極端のどちらか一方です。懸命に努力する魂が健全な本能をくじかれると、ますます強まる意志が、聞いてくれと騒ぎ立てるようになります。これは、まるで何かを欠いているような、不満足という漠然とした感情の中で現れ、あなたはそれが何かを知りません。あなたの精神のある部分が、別の部分の正当な要求を妨げます。あなたは最終地点、つまり頂点まで達することできないために、完全に引きこもってしまうのです。これは、あなた自身の未熟な部分に存在する「これかあれ(either/or)」という態度だけでなく、人間の魂が持つ脚色の傾向(ドラマチックな展開を期待する傾向)のためでもあります。もし偉大なるドラマでないならば、そのときあなたは完全に引き下がるのです。
成熟へと向かう中で、あなたは、最終的な愛の充足に到達したいと願うなら、この梯子の一番下の段から始めるしかないことに気づくでしょう。おそらく最初に上る段のうちのひとつは、他者がその人の思い通りに自分を感じることを許可する、という能力です。もしこの内なる「許可」が真に与えられたならば、あなたは、敵意を感じることなく自分の意志を手放すことを学ぶでしょう。あなたは、真に他者を好きになり、尊重できるという地点に達することができるでしょう。他者があなたの意志にまったく服従しなかったとしてもなお、他者を好きになり尊重できるようになります。これが本当のことには聞こえないかもしれません。実際のところ、自分はずっとこれを練習してきていると、たくさんの方がそう思うのではないでしょうか。けれども、本当に、真に取り組んできましたか?物事が間違った方向に行くときには、自分の感情を調べてみてください。これらの感情を分析し、自分の中の子どもが強く作用し影響を及ぼしていることを発見すると、そのときあなたはこの特定の側面にワークするためのツールを手にしたことになります。この微細な強要する流れ(フォーシング・カレント)を手放すことを学ぶとき、あなたはまったく新しい感情的反応が自分の中にあるのを感じるでしょう。まるで重荷が取り除かれたような、そんな感じがするでしょう。次に、このワークに取り組む中で気づいた、自分の中にある敵意を手放します。これに取り組むにつれて、あなたは自分が無意識の内に「無条件に明け渡してほしい(降伏してほしい)」と願っている人たち、そしてその無条件の降伏が自分に与えられなければ好きになったり尊重したりしなかった人たちに対して、新しく湧いてくる好きだという気持ち、尊重という感情が自分にあるのを見つけるでしょう。きつく縛られていた帯のようなものがほどかれます。そしてほどかれて消えて行くと、あなたは他者を自由にし、その人の愛や称賛を手に入れなくても人間としてその人を好きになり、尊重するようになるのです。友人のみなさん、これは成長へと向かう確固たる歩みです。そして現実の中では、外側から眺め得るものよりももっとドラマティックです。これは、いつかは自分のものになる高み、到達し得る高みに向かって、あなたがその梯子を上るように導きます。けれども、この一見取るに足りない、ドラマティックでもないその一歩一歩を飛ばすことは決してできません。このようにして、あなたの実際の日常生活に、今、そして自分が今立っているその場所で、愛についての普遍の真理の持つ偉大なる概念を真に当てはめることが可能だと理解するようになります。これは今可能なのです。最終的なゴールなのではありません。あなたは、自分自身を完全に忘れたり、自分のことを考えないでいたり、ある一定のわがままや虚栄心を持たなかったり、そういうことが今はまだできないだけです。これらの感情を持ったままで偉大なるゴールに到達することは、非現実的であるだけでなく、実行不可能なことで、それゆえに落胆し、やる気をそがれるのです。労を惜しまず懸命に自分の感情を分析して学び、徐々にその感情を成熟させていけば、そのゴールは手に入れられるのです。あなたが真に愛することができるようになる前に、あなたは、自分が望むことを手に入れなくても好きになり、尊重することを学ぶ必要があります。そうしてそれに取り組む前に、あなたは自分の内側の深いところに、実は自分がまったくこれをしていない場所があることを最初に見つけなければなりません。
すでに説明したように、高潔な理想の愛は、間違っていて、弱い、服従的な、見せかけの愛に一見似ているように見えます。あなたを怖がらせるのは、この偽物なのです。決して本物ではありません。けれども、その本物とはこうだと聞くだけでは、それを感じることは不可能です。自分自身の内側で、自分はどこで、そしてどのように、言葉にならない無言の期待と要求によって本物から逸れているのか、を経験しなければならないのです。もしあなたが、自分に対して真に正直であるならば、あなたは必ずそれらの感情を見つけます。これは誰に対しても、例外なく当てはまります。
あなたの中の子どもが、微細に、感情的に、そして無意識に他者を服従させようとするこの強い身勝手な流れ(エネルギー的な傾向)にしがみついている限り、あなたは甘い夢想のような考え、願望の中で現実性のない状況を作り上げることになります。そうしていると、あなたは、今いる状況が、非現実性を築いた子どもの果てしない要求に一致したものではないこと、つまりその子どもが欲していることでさえないこと、を見るのを自分に許さなくなります。この非現実的な状態は絶えず危険なものとなり、あなたはそれに対して強く目を閉じて見ないことになります。したがって、あなたはそれが本当は何なのかを決して見ないのです。もしあなたが、それが本当は何なのかを見ないなら、見たくないなら、あなたはどうやって自分の判断や直感を信頼することができるのでしょうか?あなたの精神は、自分との関係においてあなたが他者を人としてどう認識しているか、あるいは全体としてその状況をどう認識しているか、その認識の仕方が正確ではないことを完璧に知っています。あなたは見ないのです。それはなぜならば、見たくないからです。それゆえに、あなたは自分の判断を信頼せず、他の人が自分の期待に応えてくれると信じることもありません。したがって、あなたは漠然と自分は他者を信頼しないと感じることになります。これは、あなたがすべてを愛するのを控える原因になっている付加的要因です。もしあなたが他者を信じないのなら、あなたはどうやって、自分がそうすべきだ(自分もそうされたいと期待しているから)と感じているとおりに、まったくそれどおりに愛することができるのでしょうか?信じるためには、この特定の人物や状況が、そのような反応を招いているのかどうかを見ることを自分に許さなければなりません。もしかしたら、シンプルな敬意と愛情を捧げる方が適切だったのかもしれません。自分の欲しいものを少しだけ手放すことによって(ほとんどの場合無意識に)、あなたは進んでそれが何なのかを見たいと思うでしょう。このような態度で、あなたは現実の状況を認識することができるのです。その後、あなたは知的に違いが分かるようになります。自由の中で、敵意を持つことなく自分の欲しいものを手放す能力があるからというだけでなく、信頼に足る直感を手に入れられるという理由で、あなたは自分自身に敬意を払うようになります。本当のことは何かを進んでみようとすることで、あなたはその状況に対処できます。それゆえに、あなたは自分を、そして自分の判断を、他の人たちを信頼するようになります。それらを過大評価するのではなく、あなたの強制する流れのためでもなく、あなたは何が真実なのかを見て、観察して、感じることができるようになるでしょう。そして、あなたが真実だと信じたいことを単に信じ込むことはなくなるでしょう。
そうして、あなたが自分自身や他者を信頼するようになると、愛することはあなたにとって危険なことではなくなります。けれども、あなたの中の子どもが何かを切望することによって愛は危険なものになると考えるがために、あなたが意図的に目を閉じたままでいる限り、あなたはあらゆる理由を付けて自分の判断、自分の選択、そして他者を信じようとしません。それゆえに、愛されることには何の危険もないと思えたとしても、愛することをいっそう避けるようになります。
身勝手な強制する流れ(フォーシング・カレント)を手放すことは、他者への評価においてあなたが客観的になること、そしてあなたの意志を優雅に手放すことを学ぶという結果をもたらします。したがって、あなたはあなたの意志を邪魔する人に対する人間的な愛情と敬意を学ぶのです。本当のことを見ようとするのを妨げる非現実的な状況を作り上げることはなくなります。その非現実的な状況の中で、あなたは現実を無視するだけでなく、拒絶しているのです。現実を受け入れ、それが何であるかを見ることによって、あなたの直感はより信頼できるものへと成長します。その結果、自分自身に対する信頼が増すのです。
今の時代、この世界では「現実を受け入れること」がもてはやされています。これについては何度も話してきました。みなさんがもし人生に上手く対処し、それを最大限に活用するならば、この地球での生は完璧ではないというこの事実を受け入れなければならないことを知っています。今まではこれは一般的な概念でした。これからは、あなたは実際に、このことを自分の内なる人生の特定の側面にあてはめてみることが可能です。ある人たちはあなたが願うようにはあなたを感じないかもしれません。これは男女の間の恋愛関係についてだけ言っているのではありません。この明らかな不完全さはあなたの現実で、それを受け入れなければならないのです。それを受け入れることによって、以前に存在した悪循環と入れ替わる形で完全な良き連鎖が働き始めます。
直感は人間が得ることのできる最も高次の感覚的認知です。しかし、あなたが自分の中にいる子どもの存在に気づき、その子どもが強さを持ったままでいる限り、その力のすべてを得ることはできません。もちろん、あなたが人間である限り、あなたが直感と呼ぶものが100%完璧ではありえません。けれどもあなたが「確実なことは知らないし、もしかしたら間違っているかもしれない」と言う瞬間、間違う可能性があってもそこから学びたいというその意欲が無知を無害なものにします。なぜならばあなたはそれに気づいているからです。これもまた、気づきです。あなたがこのはっきりした答えのない問題、「私は知らない」ということに気づいていない場合、そのときそれは有害です。意識的で簡潔な思考、「私は知らない」の中には、見て、学んで、最終的には知るという可能性があります。直感というのは、鉄に覆われた動かぬ確実性をもつ、寄りかかることのできる壁ではありません。だからこそ、それはこれほど価値があるのです。友人のみなさん、これについて考えてみてください。瞑想の題材になります。
強制する流れから解放され、夢想から自由になって、自分の直感に意識的に情報を求めるとき、あなたはそこに潜在する可能性と制限を感じます。そしてそれ以外の残りの部分は疑問符(クエスチョンマーク)がつきます。そしてこの疑問符があることで、さらにそこを観察し、それを知覚したいと思い、そのためにオープンで、進んでそうしたいという意欲を持ちます。これもまた、成熟を示すサインです。なぜならば、未熟であれば、すぐに完全なる答えを得なければならないと考えるからです。つまり、それは、どんなものもオープンなまま、答えがなく疑問形のままで置いておくことができない、あなたの中の子どもだからです。
あなたは自分の愛する力を禁じます。それはひとつに、真の愛と、弱さから来る服従との間にある違いを理解できないからです。というのは、それこそ、あなたが自分を愛してくれるべき人に望むものだからです。そしてふたつめに、他者への信頼が欠けていることです。あなたには他者、そして他者のありのままの状況を見る勇気が欠けているのです。これら両方の要素があなたの直感を妨げます。少なくともあなたの人生のこれらの領域において、機能することができません。自分が欲しいものではなく、ありのままを見るための勇気は、直感、識別力、気づきを高め、そしてそれゆえに自己尊重も高めます。その勇気は不確実性を取り除きます。そのため、そこに正しい状況がある場合、愛することを恐れる必要はないのです。
ともすれば不都合なものを受け入れるという勇気は、現実を受け入れることを意味します。愛するための恐れを失くすこと、直感を成長する力(フォース)と捉えて育てることを意味します。それは自己尊重を意味します。物事を見分ける目をもって他者を信じ、結果としてより信頼できる感覚を持つことを意味します。
ですので、友人の皆さん、これらすべてが、一本の糸にどんなふうに絡め取られているのかということが分かるでしょう。未熟さというのは、愛することへの恐れだと言えます。もう一方では、愛されるための過度の要求であるとも言えます。未熟さは、現実を受け入れないことです。その理由は、現実が常に完全ではなく、心地よいものでもないからです。未熟さは、この不完全さを非常に誇張して捉え、そのためにあなたの目は閉じられ、それに目を向けることはありません。結果としてさらに多くの葛藤を招くことになります。それゆえに、未熟さは役に立たない直感しか持てない原因となります。つまり、それは役に立たない創造性しか持てないという意味でもあります。というのも、直感のない創造性など考えられないからです。あなたが成長し、物事のありのままに向き合い、受け入れ、毎日の生活や感情にあてはめるときにだけ、あなたは愛することへの恐れを持たなくなります。この言葉だけ取って文脈を見誤ると、ほとんど意味が通らないでしょう。けれども、この話の中で明らかにされた輪の光の中でそれを考えてみれば、その意味は非常にはっきりするでしょう。
愛するということを考えるとき、あなたはたった一つの種類の愛を考えます。つまり最も高次で、最も完璧な愛です。あなたは、そこにはたくさんの段階、たくさんの種類や程度、そしてたくさんのバリエーションがあることを見ていません。この無知のために、あなたはたった今あなたが与えることができる種類の愛から逃げ腰になり、それがあなたに与えられたとしてもそれを愛とはみなしません。
あなたがこの道を進むにつれて、すべての点においてあなたは人間として機能の仕方が異なってきます。あなたの人生経験はもっと豊かになります。あなたは、瞬間瞬間に、とても生き生きします!自分自身や他者に気づきを持つようになります。そんなことが起こるなんて、あなたは決して知りませんでした。あなたが創造することができないような力(フォース)があなたの中で発達します。つまりそれは創造の力、新しい知覚です。そしてこれほどの進化を遂げた今の時点でさえ理解できないような、自分のよりどころとなる場所や安全を与えてくれる直感が育ち、広がっていきます。
もう一度言いますが、これらの言葉はあなたの脳に向けられているのではありません。今までのあなたの取り組んだワークによってあなたが発見した自分の人格のそれらの側面、あるいはあなたがまさに気づき始めている側面に向けられています。これらの言葉をそれぞれの感情にあてはめてみてください。これについては、将来的に、その必要が生じたときに、他の角度から議論しましょう。
それでは親愛なるみなさん、質問をお受けします。
質問:この新しい段階に入って、今シーズン、新しい一連のテーマが始まっているように私には思えます。前のシーズンが終わるまでは、私たちはイメージについて、そしてそれに関連する種々の側面についてたくさん話してきました。はっきりとは分からないのですが、今私たちは新しい段階に入ったように思えるのです。
答え:もちろん、これは新しい段階です。私は、あなた方が夏季休暇に入る前にそう言いました。前よりももっと直接的な方法で、あなた方の創造の能力を妨げている要素を扱うと言いました。言うまでもなく、このような創造の能力が妨げられるのは、ネガティブな側面、本来あるべき姿からの逸脱、イメージ、誤認によるものです。ですので、私たちはまだこのような要素を扱わなければなりませんが、この段階ではそのアプローチが異なるのです。あなたが正しく認識しているとおり、そして私が少し前に示したとおりです。このすぐ前の段階にいる間は、私たちは覆い隠し、禁じていた細部に意識を向けていました。現在私たちがいる段階においては、私たちは愛、成熟、創造性に関してより全体的な視野を得ることができるように、バラバラのピースをひとつにできるようになります。これは、私たちが二度と細部について議論しなくなることを意味しているのではありません。もし仮にそうであっても、そうするとしても、アプローチが異なるのです。
質問:私は、前回の講義に関することでひとつ議論したいことがあります。第2部で、集中力を高めるエクササイズについて、あなたは「潜在意識に命ずる」という言葉を繰り返していました。私はこの「潜在意識に命ずる」という考えが、ある意味矛盾してはいないし、私たちがその潜在意識の中に何があるのかを理解するのを許可する代わりに、潜在意識を抑え込むことにつながることはないとも思います。私はそれが矛盾していないと確信しているのですが、どのように矛盾していないのか、お聞きしたいのです。
答え:建設的で、良い質問です。なぜなら、私たちにとって、間違った極端からその対極へと行くことはとてもたやすいからです。進むべき正しい道を感覚的に知るための最も良い方法は、そのような「命令(指示)」を強制として使わないことです。あなたの内なる意志の表現として使うのです。あなたは、自分の中のある特定の感情がまだ正しいやり方で機能しないということを完全に知っている一方で、その感情が成長しなければならないという願望を表現するかもしれません。この願望は、圧力をかけず、急がせることなく、発せられるべきです。むしろ、感情というものは、そうそう素早く成長するものではないという完全なる理解の中で、静けさを保って表現されるべきです。さらに言うと、このような「命令(指示)」の重要な部分というのは、自分の感情が真実から逸脱しているその場所はどこか、どのように、そしてなぜそうなのかについて気づきを得たいと願うことなのです。また、自分がまだ混乱している場所、自分の内側の、まだ答えの出ていない問題は何なのかについての気づきを養うことも必要です。そして、本当に大切なことは、何の制限も自分に課すことなく、自己に十全にそして正直に向き合うことへのすべての抵抗を手放さなければなりません。こうすることで、あなたはまだ真実から逸れてしまっている感情が残ったまま、その上に正しい反応を上塗りしなくて済むのです。その結果、自己欺瞞や自己暗示の落とし穴を避けることができます。
祈りが正しく理解され、使われるならば、祈りがそれと非常に似た方法で作用します。あなたが祈るとき、あなたは自己に向き合うことができるように、あるいは強さ、自分の道の上にある現在の問題への理解がもたらされるように、助けを求めることもできます。あなたは、小さな、一見どうでもよいような日常の不調和をこの道におけるワークに使って、自分自身へのより深い洞察を得たいと祈るべきです。同様に、あなたはこれらの願いを自分自身の潜在意識に向けて発し、あなたの精神の健全な側面を強めながら、不健全で子どもじみた、抵抗している側面を弱めるのです。結局のところ、あなたの内側の深いところで、神は生きているのです。あなたが祈るとき、あなたは空の彼方に向けて祈るのではなく、自分自身の深いところに向けて祈っているのです。私はそう思っています。ですから、実のところ、祈りとそのような「命令(指示)」の間にはそれほど大きな違いはないのです。アプローチが少し違うだけです。祈りは、あなたの意識的なマインドから最も深く隠されている部分、つまり超意識(super-conscious)あるいは神聖なる輝きと呼ぶこともできますが、そこに向けられます。一方で、すでに述べたように、命令(指示)はあなたがよりアクセスしやすい部分に向けられることになります。
このような命令(指示)は、真っ先に、自分自身と向き合いたいという願い、自分の中にあるものを理解し、それを自分のものにしたいという願い、理解を欠いているがために感情が未だに真実から逸れてしまっている場所を見たいという願いを扱うべきです。理解したいという欲求は、静かで穏やかなマインドを持って形成されるべきです。張りつめたような切迫感の中で形成されるべきではありません。変化と成長はゆっくりしたプロセスだということを事前に肝に銘じ、受け入れなければなりません。
質問:前回のレクチャーに関して、「幻想という奈落」というレクチャーに関連する質問です。その中であなたは、「あなたはあなたの人生、運命のマスター(主人)です。そして、あなた以外の誰もあなたの幸せや不幸を作ることはできません」と述べています。そしてその同じレクチャーの中で、あなたは「この基本的な霊的真実は、時代を超えて昔からあまりにぼんやりとあいまいなものでした。けれども、友人のみなさん、それには理由があります」と説明しています。そして、「その発達過程において人類は、ある基本的な霊的理解を求められます。人がその知識を正しい方法で使えるようになる前に、まずはその理解が必要なのです。というのも、誤解してしまうこと、そのことが実際にはとても有害なことになり得るからです」と続けています。これについて、明確に説明してもらえますか?私たちにとって、前回のレクチャーの光の中にいる今、そのことが助けになると考えています。それは、個々の存在へと、そして人類へと至る大きな一歩になると思われます。そして社会に生きる個人にとって、新しい霊的成長の完全なるサイクルが始まるように思われます。というのも、科学と哲学は霊的法則の中で統合を見ることができ、それを受けて神のうちにいる自分という存在をポジティブに知覚することができるからです。
答え:あなたの質問のうちのひとつは、このような知識、そして結果として誤認になってしまったものからくるダメージが、まだ霊的に準備のできていない人間にとってはどんなものなのかを聞いているように思います。まずこれについて見ていきましょう。潜在意識の存在とパワーを無視する人は、表層的なレベルでこのような知識を受取ります。これは2つの点において危険であると言えます。もし人が、自分の運命を作り出すのは自分だと信じているとすれば、そしてもしそのような人がその環境や状況がもともとどのように作られたのか、その起源を見ることなしに、そのパワーを所有するに至るとすれば、その人は、自分が自分の人生や運命を作り出すのだということを根拠に、これらのパワーを乱用しがちです。次に、このようなパワーを手に入れられなかった人たちは、極端にフラストレーションを感じることになり、自分は不適切であるという感覚が減るどころか大きくなります。これまでに気づいていない感情の意味を探求することによって、彼らは内面世界、その法則、その現実、そしてこの感情という内面世界の内側で、人間関係における原因と結果の相互作用への理解を得ることになります。
したがって、この事実、つまり人は自分自身の運命を作り出すという前提の中にある真実を理解するためには、自分の中に答えを探すこと、潜在意識を探求することが必要です。人類は宇宙の、スピリチュアルな、普遍の真実を使えるほどには十分に成長することは不可能だなどと思わないことです。このような真実は、もしそれが半分だけ理解され、消化されているとしたら、危険なものになり得ます。そして人類全体への、そしてまた個々人へのダメージへとつながります。
私たちの生きるこの時代で高まりを見せている、潜在意識の存在を受け入れそれを探求しようという傾向は、そこに落とし穴(潜在的な危険)、誤解、探求と表裏一体の半分だけの真実があるにもかかわらず、人間全般が着実に成長してきていることを示しています。これは、すべての生命体が通り抜ける成長の痛みの一部なのです。この全体の成長と気づきが続いていくと、人類はもっともっと現実、そして内面の宇宙の現実を知覚するようになり、それゆえにより全体的な部分で、その霊的法則とともに宇宙への理解も増して行きます。内側にある宇宙とその無限の可能性、人間の内側、そして人間とその仲間の間で働く論理的な法則を知覚することによってのみ、人は神と神の創造物を真に感じることができるのです。その結果、合一がゆっくりと、その努力の上に、少しずつ成し遂げられるのです。これがすべての科学、宗教、諸分野に渡る人間の知識のすべてを結びつける共通項で、この時代にすべてが別々に機能しているのです。
質問:私はずっとこれらのことについて考えてきました。そして、これまでの人類のたゆまぬ努力はその存在を正当化するためのものだったのか、また人類の創造性はその目的のために用いられたのか、ということについて知りたいのです。あなたの答えに沿って言うと、この創造性は、それを禁じている縛りを取り除くことにより、魂は霊的法則に沿って自由にその表現が可能になるという、あなたの言う霊的な理解とともにあります。私たちが最も高次の現実、つまり神とともにいるということを知る現実の中にいれば、そのとき私たちは真に自己責任を果たすことができるのです。「幻想という奈落」というもの、そして神が源となって生まれる愛や創造性についてあなたが言っていたことを深く考えると、私には、私たちの自己責任というものが、神が源となって生まれる愛と創造性の再表現を受容することの中にあるように思えます。この点において、自己を極める(自己習熟/自己統制)こと、ここに混乱があります。それをうまく表現できませんが・・・
答え:どこに混乱があるのか、はっきりさせようと努力してみてください。その混乱がどこにあるのかを明確化することはあなた自身にとってとても役に立ちます。それに、その混乱が何なのかを知らない限り、私はあなたの質問に答えられません。
質問:それは自己責任についてです。そして、失うことへの恐れ、未知への恐れの両方を含む、私たちが持っているように見えるある哲学的な固定観念についてです。これは基本的に、あなたが今夜話したように、愛と信頼を結びつけます。私は今、それがどのように結びついているのかを理解しています。そしてこれがあなたの質問への答えになるのですが・・・
答え:ここであなたが言ったこと、つまり「未知への恐れ」は、ほとんどの人間、ある意味すべての人間において、非常に重要な要素です。けれども、未知のものというのは、私がこれらの講義であなたに話してきたすべてのことを実際に経験するにつれて既知のものになります。そしてこれは、もちろん、自己探求において非常に真摯な努力が必要なことを意味しています。これらの言葉をただ聞いているだけでは十分ではありません。聞くことで、まずは始めてみようという気持ちになるような刺激を与える場合を除いては、あなたが自分の魂の内側で生きながら、ここで私が述べているすべての感情を経験しない限り、実際に何の意味もありません。あなたがそれに取り組むとき、未知のものは既知のものとなるのです。そして未知として残る部分、それにはもうあなたを怯えさせる力はありません。なぜならば、そのとき、あなたは「私は知らない」ということを自分自身に認めているからです。これは本当に大きな違いです!
これらすべてを理解すると、自己の行為を統制する自治の意志が、「せねばならない」という在り方ではなくなり、それは名誉となり、そして自由になります。それに対して、あなたの中の子どもはそれを未知の危険と受け取って拒絶します。
未知への恐れというこの同じ恐れから、人は真の概念から逸れた固定観念を作ります。その結果、その真実がなくなっていきます。そこには非常に重大な誤認が存在します。これを言葉に置き換えて表現することはとても重要です。真実と言うのは柔軟です。その本質として、固定化されません。真実は決して硬直せず、静的ではなく、固定化されません。それは常にしなやかです。まさにこの柔軟性が人には脅威に映るのです。人は、もたれかかることができる石の壁の、固定された偽の安全性を欲しがります。この傾向は、宗教を歪められたドグマ(教義)にしてしまいます。それは、人間の魂の中にある、このまさに合理的でない、何の根拠もない恐れを静めます。人は、固定化されたものが安全で、柔軟性のあるものは安全ではないと考えるのです。すべての生あるものと同じように、真実は生きているので、それは柔軟なのです。だからこそ、人は真実、光、生命を恐れるのです。柔軟であることは安全ではないというこの非現実は、幻想の奈落のもっとも大きなもののひとつです。このワークを進めていくと、あなたは最初に、この特定の恐れが自分の中に存在していること、そしてあなたもまた一定の規定上で仮想の安全性にしがみついていることに気づきます。あなたはまるでその壁にもたれかかれるかのように感じているのです。それは心強いサポートであるかのように見えます。けれども、少しすると、そうではないと認識するのです。そしてそこには、自己責任についての混乱が存在します。一定の規定に頼ってしまうと、責任というものは規定へと変わります。あなたがそんなものはないと理解するとき、あなたは恐怖を感じます。なぜならば、あなたは自分の振る舞いや態度をどのようなものにすべきか、常に新しい決断が求められるからです。柔軟な真実とともに、責任は自動的に自分自身へと向けられます。自己の責任をもはや恐れなくなると、あなたの中の自己卑下や自己不信がなくなるために、あなたは柔軟な宇宙を恐れなくなります。固定されたもの、硬直した法則にしがみつく必要はなくなります。あなたは柔軟性のあるしなやかな法則が働いていることを理解し、それはあなたにとって危険なことではなくなります。柔軟性がなく、固定化された規則や法則は、自己責任を負うことができない、あるいはあえて負おうとしない子どものためのものです。この観点において、未知への恐れは、本当のところ、「私はそれに対処できるのだろうか?私は適切な判断ができるだろうか?私の反応は正しいのか?私は間違いを犯してしまうだろうか?間違いを犯す勇気などあるのだろうか?」という、これらに対する恐れなのです。別の言い方をすると、自分自身を知らないことは未知への最も深い恐れなのです。この恐れがなくなるにつれて、自己責任を恐れなくなります。そしてその結果、柔軟性のある法則、宇宙の真実を恐れなくなります。常に柔軟ば人生を恐れなくなります。そして最終的に、柔軟性は、まさにその本質において不変のものとなり、それでいて決して静的なものではなくなります。
質問:「恐れ」という言葉が今夜何度も出てきました。そしてあなたは「合理的でない、何の根拠もない恐れ」という言葉を使いました。このことは、合理的で根拠がある恐れというものがあるに違いないと信じることにつながります。私たちはここで、例えば、恐れはネガティブな意味を含んでおり、破壊的な感情を表すということを教えられています。そしてここで、私たちは聖書の「主を恐れることは知識の初めである」という聖句を読みます。また、ゾーハル(「光輝の書」/ユダヤ教神秘思想<カバラ>において中心となる書物)の中で、「神への愛と恐れから鳥の翼への愛と恐れ」の比較があります。この2種類の恐れについてもう少し説明していただけないかと思います。
答え:ここには2つのはっきり異なった質問と答えがあります。最初のものは、合理的な恐れと非合理的な恐れについて。あなたがもし何らかの危険の中にいるとすれば、恐れに対するあなたの反応は健全です。それは自分自身を危険から救うために何かするためのチャンスを与えてくれる、いわばサインのようなものです。別の言い方をすると、それは破壊的というよりはむしろ建設的です。この危険のサインなしでは、あなたは滅ぼされてしまうかもしれません。これは、私たちが一般的にこのワークの中で述べている心理学的な、不健全な、破壊的な恐れとは明らかに違います。
神への恐れについて言うと、これはちょうど今お話しした健全な保護の役割を持ち、恐れとは一切何の関係もありません。聖書の中で神への恐れについて言及されているのは、間違った、表面的な層で解釈がなされたためです。けれども、なぜそのような間違った解釈がこの特定のつながりの中で起こり得たのかというより深い理由は、未知への恐れと同様に、人間の持つ神へのイメージとおおいに関係しています。一方では、その結果が不健全な恐れです。そしてこれは常に、成熟と自己責任がないがために起こることです。あなたは報復する神、人生、他の人間、あるいは自分自身を恐れており、それはすべて同じことです。
外面的には、いくつかの言葉について、単に誤解があるのです。現実的に、「恐れ」という言葉の本当の意味はまったく違ったものです。おそらく、この言葉を説明するときには「名誉」あるいは「尊敬」という言葉がもっともふさわしいのです。最も高い知力、叡智、そして愛に与えられるのは尊敬であると考えられます。この無制限の偉大さから、すべての生き物は畏怖の念(awe)を抱くことでしょう。けれども決して恐れの念(fear)ではありません!このような感嘆に出くわすと、人は畏怖の念を抱かざるを得ません。それはすべての理解を超越しています。この状態が間違って翻訳され「恐れ」と言う言葉で伝えられているのです。けれども、言葉通りの意味ではありません。はっきり理解していますか?
質問:はい、はっきり理解しています。今あなたがおっしゃったことに関連し、それをサポートするあるひとつの考えを付け足したいと思います。カバラの教えの中で、私たちに与えられた「恐れ」を意味する言葉に関しては、ヘブライ語で「yir'ah」という言葉です。この言葉は、10のセフィロ(光の放射)の9番目のもの、「基礎」を意味するものと結び付けられます。ここは、退化が終わり進化が始まる分岐点なのです。ここは神へと向かう上昇のスタート地点です。神への気づきは叡智の始まりなのです。
答え:はい、それはまさに真実です。他に質問はありますか?
質問:はい。意識と無意識のマインドの間で作用しているサイキックな法則は何ですか?はっきりした境界線はありますか?そして、意識の下に留まったままでいるものと上がってくるものとを調整する法則は何ですか?
答え:意識と無意識のマインドの間にはっきりとした境界線はありません。このワークの中で、あなたは、自分にとって完全に未知のものとはこういうものだ、という認識を見つけたいと思う自分の期待に気づいているかもしれません。これは本当に良く起こることです。しかし、ある意味、今あなたが新しい認識を発見し、その意義を理解していると思っているものは、実は新しいものではないことをあなたは知っています。あなたは単にそっぽを向いて目をそらしているだけで、それは常にそこにあったのです。それは、意識と無意識のマインドの間のどこかにあったのです。意識と無意識のマインドの間にははっきりとした境界線はありません。言ってみれば、時間とともに相互に影響し合いながら変動しています。
人格全体、精神あるいはマインド、つまり意識と無意識の両方を円形のものだと想像してみてください。人が進化し、成長すればするほど、この形はぼんやりとかすんだ状態でいることはなくなります。その人が成長していなければ、より多くの部分が霧の中にいる状態です。そして意識的に機能する部分はより小さな領域になります。スピリチュアルな哲学や教えは「意識を高める」という言葉を使います。まさにその通りの意味なのです。もしあなたがこのような形を視覚化すれば、意識が高められるかのように、意識が無意識の霧の中から出るのを想像できます。次第にそのもやもやしたものはなくなっていきます。そしてあなたは自分自身に対しもっともっと意識的になります。宇宙があなたの中にあるからこそ、またあなたがあなたの宇宙であるからこそ、宇宙の意識というものはまさにこの、霧を払うことにより自己を発見するというプロセスによって手に入れることができるのです。脳みそだけで勉強していることに集中していてはそれを手に入れることはできません。それは価値のあることかもしれません。もしかしたら、自分を発見するというこのワークにとって、それはツールなのだと分かるかもしれません。そのワークは、霧を減らしていくプロセスで、それによって無意識の部分が意識的なものになるのです。物事が隠されているか、知られているかを決めるものは、大まかに言えば、基本的にはひとつの要素です。つまり、現実に向き合うという自分の意志、自分自身に向き合うという自分の意志です。そして、みせかけの、一見すると不快な結果を前にしながらも、変わるんだという意志、成長するんだという意志です。
質問:忍耐は熱意を妨げますか?
答え:忍耐、もしそれが本当に忍耐であれば、たとえば無気力のように、それが歪みでなければ、何を妨げることにもなりません。もちろん、人はよく間違いから美徳を作り上げることがあります。無気力な人は、もしかしたら自分をだまし、自分は忍耐強いと考えるかもしれません。忍耐のない人は、自分をだまし、自分は活動的でエネルギッシュだと考えるかもしれません。ですので、問題は常に本当の傾向あるいは感情を見つけることです。しかしながら、価値あるものが有害であることなどありえません。が、忍耐がないことは熱意を妨げます。なぜならば、忍耐がない状態は、それはひとつの未成熟の形だからです。大人の人間の中にいる、すべてを欲しがる子どもは、その子ども自身の意志に沿って欲しがるだけでなく、今すぐに欲しがります。子どもは待つことができません。前回お話ししたように、それは、今というその瞬間にだけ、間違ったやり方で生きる子どもです。その子どもは、明日の現実を感じることはありません。それゆえに、子どもは今実現できないことには価値がなく、現実性もないと考えます。成熟した人は待つことができます。自分が望むゴールが今すぐに達成されないとしても、それには理由があるに違いないと理解します。いくつかの理由は、自分自身の中にあるかもしれないと理解し、だからこそ待っている時間を建設的にそれらの理由を見つけるために、そしてその原因を取り除くために使います。待つことに費やされるべき時間は、必要でありながら自分に欠けている洞察、能力、あるいは理解を得るために使われます。ですので、忍耐は、もしそれが本当に忍耐であれば、純粋に建設的なもので、無気力、不活発さ、あるいは怠惰を意味するものではなく、強みになります。真の忍耐は常にいかにして見分けるのかを知っています。あるときには、ただ待つことが必要で、また別のときには、行動を起こすことが正しいことがあります。けれども、もっとも集中を要する活動をしている間にでも、忍耐は何にも勝ります。なぜならば、それは真に内なる状態であり、外的に現れるものとは何の関係もないからです。行動を起こす人は、内的に忍耐強いことがあります。外側でまったく活動的ではない人は、忍耐のない内的状態にいる場合があります。分かりますか?
質問:はい、ありがとうございます。私は忍耐というものの定義を聞きたいと思います。
答え:いかようにも定義することが可能です。けれども今の私たちの議論の枠組みの中において、このように定義したいと思います。人は常に、自分が欲しいときに、自分が欲しいと思うまさにそのものを得ることはできません。それを知っていること、それが忍耐です。忍耐は、魂のプレッシャー、緊張、不安によって妨げられることはありません。もしあなたがそれを分析するなら、私が言ったことを受け入れなければならないからではなく、自分がその感情を経験することによってその通りだということを知ると思いますが、忍耐強くいられないと感じるときはいつでも、緊張や不安、内なるプレッシャーのような感情が伴っていることが分かります。これらの感情はすべて自分が不適切だという感情がもとになっており、すべて「私はこれをやり遂げることができない」という感覚、それが何であれやり遂げることができないという感覚と結びつています。これが、忍耐がないということです。したがって、忍耐というのは、自分の限界を知り、同時に自分の可能性をも知る人、そして自分を信頼する人、そのようなしっかりと成熟した人の中にのみ存在し得るものです。あなたの目指す成熟という状態は、たくさんの価値あるものをもたらしますが、その中のひとつとして忍耐をもたらします。
質問:恐れと本能の間違った使い方についての質問に戻りたいと思います。本能というのは、普通に機能している人間においては自然なことです。その点から、本能の間違った使い方について何かコメントしていただけますか?
答え:それは、先ほどお話しした、自分を信頼するというまさにその問題と結びついています。もしあなたが自分の本能を妨げれば、今話しているとおり本能の間違った使い方により、あなたはそれを信頼しなくなります。たびたびあなたはそれを見てきたと思いますが、あなたの恐れは正当なものではありません。その結果として、あなたは、それを理由に、本能に耳を傾けるのを止めるのです。そしてみなさんは、自分の直感あるいは本能をいつ信頼すべきなのか、いつすべきでないのかを知ることなく、もっと恐れに飲み込まれます。非現実的な理由で恐れに支配されたままでいることを手放し始めると、恐れが上がってくるとき、恐れを埋めてしまい見ないようにする代わりに、知性をもってそれが何かを問うようになります。
今回の講義と同じように、前回の講義においても、あなたのさらなるワークのためにたくさんの題材が提示されています。そしてまた、質問や議論のための題材も提供されています。
親愛なるみなさんに祝福を贈ります。あなた方が、自分の中のどこで、どんなふうに、そしてなぜ今自分は愛さないのかを見つけることによって、成熟と愛を理解する道を見つけられますように。愛と人生を恐れる、という不必要な重荷から自分自身を解放するための勇気を見つけられますように。最愛の友人たち、平和のうちに歩み、神のうちにいてください!
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