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Pathwork in Japan
No.15 スピリットの世界と物質世界との間にある影響
Pathwork Guide Lecture No. 15
1996年版 1957年10月25日
スピリットの世界と物質世界との間にある影響
INFLUENCE BETWEEN THE SPIRITUAL WORLD AND THE MATERIAL WORLD
前回の講義では、「ハイアーセルフ(高次の自己)」、「ローワーセルフ(低次の自己)」、「マスクセルフ(仮面の自己)」について話しました。どんな人にも先の二つの「自己」があり、最後の「マスクセルフ」についても、程度の差こそあれ、9割の人が持っています。ここに初めて来た方は、前回の私の講義を読むと良いかもしれませんね。そうすれば、今日の話に対する理解がさらに深まることと思います。ハイアーセルフがローワーセルフという自らの周囲に幾重にも重なった層を取り除き、本来の状態を回復すれば、いつでもそれは最も高次で至上の輝きを放つ領域へ至り、その場と自然につながることができます。そのときにみなさんが地球上に暮らしているとしても、そこが ― みなさんの言う「距離」で ― 何十万キロ離れていたとしても、そんなことは問題ではありません。一方、ローワーセルフの力が強く、厚い層が残ったままで、その下から溢れ出ようとするハイアーセルフの輝きを止めていると、みなさんは「闇の力」とつながることになります。「闇」の種類や深さは、みなさんそれぞれの姿勢や発達の度合いによって変わります。つまり、同じ「ローワーセルフ=低次の自己」でも、ある人は他の人よりもさらに「低い自己」を持っているという事態も起こりうるわけです。各領域には、その場に適した種類のスピリットが豊かに暮らしています。それゆえ、みなさんは私たちの暮らす世界 ― 神の領域 ― から生じる「力」と「流れ」に触れると同時に、個々の霊的な発達の度合いに応じ、それぞれにふさわしいスピリットと常に触れ合っているというわけです。
みなさんの中には、ローワーセルフが強いのを「邪悪なスピリット」のせいにして、自分には何の責任もないかのようにふるまう方もいますが、これは間違いです。確かに、邪悪なスピリットはみなさんに影響を与えることができますし、事実それは起こります。しかし、これはみなさんが楽な方へ楽な方へと逃げ、霊的な成長に向けての努力を怠り、邪悪なスピリットが放任されてしまったときに初めて起こることなのです。「自分の犯す過ちは、もっと低い次元の人たち ― 例えば犯罪者 ― のものほど悪くはないから、特に問題はない」― そう考えるかもしれません。しかし、それがどれほど些細なことでも、明らかな犯罪や罪でなくとも、みなさんは自分の「過ち」に対する責任を負っています。霊的な成長が進むほど、「自己を完全にする」ことに対する責任と義務が大きくなります。邪悪なスピリットまたは非常に「邪悪な傾向」から自由になるほど、みなさんの霊的側面は目に見えて発達します。それにしたがって、深い「悟り」と大いなる「力」が内側に宿り、それは次第にさらに深く大きなものになることが期待されます。つまり、霊的な悟りをほとんどあるいは全く持たない人々にとって、彼らの犯す「犯罪」が重い意味を持つのと全く同じように、みなさんの言う「些細な過ち」も非常に大きな影響を一人ひとりに与えているのです。ですから、自分の過ちや霊的原則から逸脱した行為について、他の誰かのそれと比較してはなりません。そんなことをしても、間違った回答を得ることしかできないかもしれません。というのも、他人と比較するためには自分の立っている位置を正しく見定める必要がありますが、みなさんにはおそらく、その判断が適切にできないからです。このような話をしている理由は、人はしばしば「私だけじゃない。他の人たちなんて、もっとひどいことをしている」と言い聞かせ、思い込むことで自分自身を甘やかしたり、何もかもを邪悪なスピリットの影響のせいにして、「全ては偶然の結果に過ぎない」と信じようとしたりするからです。同様の理由から、もしも神の言葉に溢れる高次の存在がみなさんを導き、助け、良い影響を与えることができるのならば、それはみなさんの内なる態度が彼らを呼び寄せたからに相違ないということが言えるわけです。
人が存在するところには必ず、さまざまな成長段階の霊的存在が数多くあり、常にその側に付いています。それぞれの領域にはあらゆる種類のスペシャリスト(専門家)が勢ぞろいしています。この話は以前にもしましたが、その重要性が十分には理解されていないようなので、もう一度繰り返したいと思います。スピリットの世界は、その発達の程度に関わらず、みなさんの暮らす地球に比べてはるかに専門化されています。神の聖なる領域と闇の世界、さらにはこの両者間に存在するあらゆる場に、これは当てはまります。そしてみなさんの一人ひとりに備わる「善」または「悪」の側面が、同じ資質を持つ霊的なスペシャリストをさまざまな領域から引き寄せるのです。まさに「類は友を呼ぶ」の言葉どおり、まるで磁石のようにお互いがお互いを引き付け合うわけです。人が成長すると、聖なる領域に属する複数の 霊的存在 ―「守護天使」― が神の命令を受けて、その人の回りを取り囲みます。天使たちは、自らが守るべき人間が神聖なる真実や意志を求めてより高い次元へと向かうため努力する時にだけ、その人の側に降りてきます。それ以外の時は、遠くからその人をじっと見続けています。天使たちにできるのは、過去の功徳に応じてその人を守ることだけです。それ以外の形で介入することは一切ありません。彼らにそう命じているのは「スピリットの世界の法」です。天使たちはこの法に忠実に従い、決してそれを破るようなことはしません。なぜならば、この法は愛であり、叡智であり、正義であり、完全さであるからです。一方、人は同時に、神の命令とは無関係の数多くのスピリットにも取り囲まれています。その中には、闇の世界に属するものも含まれています。このとき、その人が犯罪者、または真に罪深い魂の持ち主でない限り、この邪悪なスピリットたちが近付くこともありません。邪悪なスピリットたちは自らの専門、つまり得意分野である「悪の側面」をその人に対して十分に発揮することができないからです。
もちろん、みなさんの言う「些細」または「日常的」な過ちの数々にもそれぞれ「専門家」がいます。問題は、彼らもまた闇の世界に属しているという点です。彼らは独自の法に従って行動し、自らの目的を果たし、人々に影響を及ぼします。それはちょうど ― 言葉は悪いですが ― 「殺人のスピリット」がある人に対し影響を与え、その人を殺人者に導くのと全く同じことなのです。例えば、自己中心的行動や思考という過ちを犯す人には「自己中心」を専門とするスピリットが付いていますし、癇癪を起こす傾向の人はそれ相応のスピリットに囲まれています。スピリットはその人が「どうぞ私を支配し、好きに影響を及ぼしてください」と許可を与えるのを待っています。つまり、スピリットはみなさんを介して生きているわけです。活動する許可を与えられたスピリットは大いに満足します。使命を果たすだけでなく、自らが持つ「弱さ」の中に存分に耽溺することもできるからです。もちろん、これとは逆の場合もあります。例えば、みなさんの中には「羨望」を完全に捨てた方もいることでしょう。この場合、「羨望」を専門とするスピリットはその人の側には絶対に来られません。一方、別の人の回りには、この「羨望のスピリット」が見えるかもしれません。この人は前の人と比べて、総合的な成長という意味で決して劣っているわけではないにも関わらず、「羨望」という過ちを犯しているために、こうしたスピリットを引き付けているのです。
みなさんの犯す、あるいは持っている一つひとつの過ちが相応のスピリットを引き寄せます。そして、引き寄せられたスピリットたちは、みなさんを介して常にその活動の機会をうかがっています。この点はしっかりと心に留めておかなければなりません。みなさんにはこのスピリットたちと共謀することも、その反対に、自らの過ちを乗り越えるための努力を通じて彼らを排除することもできます。不要なスピリットを排除するには、これ以外に方法がありません。ですが、その前にまず、自分がどのような過ちを犯しているのかを認識する必要があります。みなさんはしばしば、無意識の内にこうした過ちを犯しますが、その理由は簡単です。「全てをありのままに知ることによって、重責を負いたくない」と思っているから、あえてその過ちを意識しようとしないのです。実際、自らの過ちを本当の意味で知りたいと願う者はほとんどいません。多くの人は自分が何らかの過ちを犯していることを認めはします。ですが、過ちを上辺だけで認めるのと、それに完全に気づくのとは全く別のことなのです。
ですから、みなさんは自らを守るために、本当の意味で正直になり、自分自身と向き合わねばなりません。みなさんはそれぞれ何かしらの過ちを抱えており、その過ちを専門とするスピリットに周囲を取り囲まれています。スピリットたちは、みなさんがその過ちに抗うのを諦めて、彼らの思い通りに事を運ぶための機会が訪れるのを待っています。まずはこの点をしっかりと自覚してください。実際、彼らに屈することにはそれほど大きなプレッシャーを感じることがないし、そうすることは楽で居心地が良いため、みなさんは頻繁に彼らの誘いに乗ってしまいます。そして、自分の抱える過ちが大きく、その重要性に無自覚であるほど、スピリットたちとみなさんとの距離は近くなるのです!先ほど述べたように、物質を超えた世界とスピリットの存在を知る人の中にも「全ては邪悪なスピリットの影響のせいだ」と言う方がいますが、この点に基づくと、その発言は正誤のいずれにも解釈されます。もしもその人が「自分のすることに全て責任を取る」という意味で言っているのならば、これは「正しい」ことになりますが、これが自己責任や犯した罪から逃れるための発言ならば、それは「誤り」となるわけです。
こうした低い次元の存在と神の世界に属する高次の存在との間には、姿勢または態度の点でみなさんに良く似たスピリットたちがたくさんいます。その中には死去した人々もいます。彼らは「善」であろうとします。そして実際、明らかな「悪」ではありませんが、未だ聖なる神の命令を受けるには至らず、それゆえに多くの点で「盲目」の状態に置かれています。時に彼らはみなさんに何らかの影響を与える機会を探し求めることがあります。それが彼ら自身のためになるからです。または、ただ単にそれ以上他にすることがないからという場合もあります。そのようなときに、もしもみなさんが自己発展へとつながる霊的な道を歩んでいるのなら、彼らもまたみなさんから学ぶことができるのです。しかしながら、みなさんの方が彼らよりも弱い場合、今度はみなさんがその影響を受けることになってしまいます。その影響は必ずしも「有害」なものというわけではありません。ただし、彼らがいくら「善」であろうとしても、みなさんの霊的成長にとって最良の刺激を与えることはありません。というのも、彼らにはいろいろなものが「見えていない」からです。時には、彼らの導き(ガイダンス)がみなさんの物質的な利益につながることもあります。その「利益」がみなさんの霊的な進歩の妨げになる場合も、ならない場合もあります。同じように、彼らの影響が全くの無害の場合もありますし、一見無害でも、究極的には「有害」になることもあります。もちろん、その影響の程度は偶然によって決まるわけではありません。全てはみなさん自身の内なる姿勢次第なのです。
この点について、自分の人生、欲望、そして自分自身について、瞑想をしてください。そうすれば、みなさんの周りにどのようなスピリットが付いているのかが分かることでしょう。「完全」へと至る道、それはみなさんを本当の意味で守る唯一のものですが、その道を歩む人々は、どんな側面においても、神の意志にそぐわないスピリットによって悩まされたり、悪影響を受けたりすることはありません。みなさんを守る方法は他にもありますが、その効果はあくまで一時的なものです。誰かが「不調和」の中にいる ― 例えば、他者との間で揉め事が起きようとしているのを感じている ― とします。このとき、もしもその人が内なる神に向けて手を伸ばす、祈る、霊的なガイダンスを求めることができる「心の状態」を持っていれば、それは間違いなく効果がありますから、私はそうすることを強くお勧めします。ですが、これがうまく機能するのは特定の限られた状況下だけです。というのも、先ほど述べたような「心の状態」を常に保つことは不可能だからです。そうするのに疲れ、「もういいや」と諦めてしまうこともありますね。すると、みなさんの周囲に群がる「善」以外のスピリットたちの餌食となり、さまざまな悪影響を受けてしまいます。既に述べたように、そうしたスピリットたちはみなさんの中に「過ち」の部分があるからこそ、それに呼応して集まって来るのです。したがって、確実で永久的に効果のある防御法はただ一つ、「悪」の成長を根こそぎ廃絶すること以外にありません。これをするには、「完全」へと至る道、自己発展の道、幸せの道を歩むことです。自ら進んでそう決断する人には、神の導きとご加護があることでしょう。ですが、そのためにはまず、「意志」と「決断」を自分の中で明確に形成する必要があります。そしてあらためて、自分の中に「この道を進む」という気持ちがあることにはっきりと気づくのです。そうすると、神のお導き(ガイダンス)が何もしなくてもすぐさまみなさんの元へと届き、さまざまな形で指針を与えてくれます。その一つとして、適切な人からの援助を得ることもあります。それは、この道を歩み続けるためには不可欠なものだからです。みなさんは、それぞれの気質や性格に最もふさわしい場所や人の元へと導かれていくことでしょう。
このようにして、さまざまな領域に属する存在は人類に影響を与えます。もちろん、人類は彼らが与えようとするさまざまな影響に対して抗う術を持たず、ただその影響を受けるしかない、というわけではありません。人類は自らその影響を決定づけているのです。そして、神の領域と無関係の世界に属するスピリットたちの影響下に入るのを拒むことで、人は自分の人生を自らの手でしっかりと握ると共に、「闇の世界」の力を弱めることもできます。物質界でその「力」を発揮できなくなれば、闇の世界の影響力は次第に失われていくからです。
これとは別の形でも、人類はスピリットの世界に影響を及ぼすことができます。ここで全てを伝えることはできませんが、少しでも理解してもらえるように、何とか話してみたいと思います。みなさんの「思考」と「感情」が霊的な創造物だということは、私が何度も述べているので既にご存知のことと思います。みなさんの考えや心の動きが、スピリットの世界においてあらゆる形を取って現れるのです。例えば、もしもこれまでの人生が自分の「運命」と寸分違わぬもので、自らの成長の度合いの範囲内でできることをすべてやりつくしているのならば ― これは非常に稀ですが ― その人の周囲のスピリットの世界には、見事に調和した空間、構造、景色が創り出されています。みなさんの中には「そんなこと信じられない」と感じる方もいることでしょう。ですが、これは本当なのです。私が保証します! みなさんにも、この真実を理解する日が訪れることでしょう。実際、この真実を目にしたときに、それまでずっと魂の中では知っていたことを知ることになります。これは、現世に肉体を与えられて生まれてきたときに一時的に意識の中でぼやけさせられただけなのです。一方、ローワーセルフに屈した者は、その資質、強さ、種類などに応じた創造を行いますが、同時に、その人のハイアーセルフが機能できる程度に応じて、調和の取れた美しい創造物も生まれます。
全人類、つまり個々の人間の誰もが自らのローワーセルフに屈し、それと戦うどころか、逆にその存在を育み始めたらどうなるのでしょう?そこで起きることは、私たちの目にはどのように映ると思いますか?まず、先ほど述べた「重複して存在している複数の世界」がその姿を変えます。さまざまな世界間のバランスは人類の手によって乱され、不調和がますます拡大されます。光、真実、愛、幸福といったこれまで完全な調和を保っていた世界に翳りが差し、次第に後方へと追いやられ、それにしたがって人類に与える影響もますます少なくなります。そして最終的には、「不調和の力」だけが人々に影響を及ぼすことになるわけです。このようにして、「闇の世界」に必要とされる素材を常に供していると、それがさらに大きな悪影響となって人類の元に返ってくるのです。一方で今度は、一人ひとりが「完全さ」へと至るための道を歩んでいることを想像してみましょう。もちろん、その道のりは各個人によってずいぶんと違うはずです。ある人にとって必要なことが、別の人にとっては難し過ぎてできないという場合もあるからです。ですが、神の子であるみなさんが ― その発達段階はそれぞれ違うにしても ― それぞれに最善を尽くせば、闇と不調和、悪と羨望、憎悪と偏見、戦争と強欲といった領域は徐々に小さくなり、最後には完全に消えてなくなるはずです。他方、神聖なる創造物は決して消滅することがありません。一時的に後方へと押しやられているだけなのです。物質世界をネガティヴな姿勢が支配しているときには、神の領域に属する創造物たちはその影響を人類に届かせることができないだけなのです。だからこそ、「不調和」は全面的に破壊し、完全に消滅させなければならないのです。みなさんにはそれができるのです。これで、スピリットの世界がみなさんに影響を及ぼす仕組みだけでなく、逆に、みなさんの側からもスピリットの世界に影響を与えられることがご理解いただけたことと思います。みなさんとスピリットの世界の間には ― 「善」であれ「悪」であれ ― 永遠に続く循環運動が存在しています。物質世界が存在する以上、この関係が変わることはありません。言い換えれば、これ以外に、両者を繋ぐ形はありえないのです。
例えば、もしも人々が ― おそらくはかなり少人数が ― 「神に仕え、その偉大なる計画に寄与したい」という誠実かつ正直な願望を抱いて集まるとします。すると、スピリットの世界に何が形成されるのと思いますか?私たちには、そこに大変美しい寺院が建立されているのが見えるのです。そして今、ここに、私の目の前に集まっているみなさんが、一つひとつ石を積み上げながら、まさにそれと同じ寺院を建てているのです。もちろん、まだ完成はしていません。天井も、調度品もありません。ですが、建設は非常に順調に進んでいます。「象徴的な話ばかりしている」と思わないで下さい。今、私が話していることは真実なのです。この寺院は、私たちの属するスピリットの世界に既に存在しています。私の友であり、この集団に属するみなさんにはぜひ知っておいてもらいたいのですが、肉体がいわゆる「休息」あるいは「睡眠」を取っている間に、みなさんの魂はこの寺院へと導かれ、自分の積んだ石をその中に見つけて、大いなる喜びを味わっているのです。正直かつ誠実にこの聖なる歩みに挑み、それを続けている人それぞれが、礎となる沢山の石をその寺院に運び込んでいます。霊的媒体(ミディウム)だけでなく、私の支援を受けながらこの歩みを続けるあなた方全員が、これを行うのです。
さて、みなさんからの質問を受ける前に、人の心理的側面にさらに触れる事柄について話しておきたいと思います。先ほどと同じように、今回初めて来た人たちはこれから話すことをより深く理解するために、以前の講義を復習した方がよいでしょう。
人は「空想」または「夢想」と呼ばれる行為に耽ることがあります。みなさんはそれが悪いことだとは思っていませんね。自分で楽しんでいるだけで、誰かに迷惑をかけるわけではないのだから有害なはずがない、と信じて疑いません。ところが、「空想」や「夢想」はみなさん自身にとって有害な行為なのです。これからその理由を話したいと思います。みなさんは幼い頃よく空想に耽りましたね。こうした空想癖はみなさんの成長と共に消えていきます。ところが、大人になってもそこから抜けられない人がいます。これは、その人が真に成熟していないことを意味しています。もしも本当に大人になっているのなら、人は幻想の中ではなく、現実界に生きるはずだからです。「空想」や「夢想」に耽っている人は、現実から逃げています。みなさん自身にとって非常に有害だという理由はそこにあります。例えば、みなさんの人生が困難に満ちた辛いものだとしますね。みなさんは、「こうなったら良いのになあ」という絵空事ばかりを思い描き、現実の人生や問題から逃避していませんか?これでは現実の問題を解決することはできません。自ら進んで問題を見つめ、その根を掘り下げようとしていないからです。
ご存知のように、実体を伴わない「思考」は存在しません。つまり、「空想」あるいは「夢想」もまた、自らの「姿形」を創り出しているわけです。そしてこの創造物は「充足(フルフィルメント)」がみなさんの元にやって来るのを阻みます ― もしかしたらそれは本当に現実のものにすることができるかもしれないのに、それを最初から不可能にしてしまうのです。この一見無害な行為の中に逃げ込むのは、みなさんにとって大変魅力的かもしれませんが、どうかその誘惑に負けないで下さい。これは私からのアドヴァイスです。「空想」や「夢想」によって生まれるものは、みなさんが真の「充足(フルフィルメント)」を手に入れる邪魔をするからです。加えて、空想に耽ることでみなさんは時間を無駄にしています。この「慰みの行為」に投資する時間を、真の瞑想、自己認識、自己開発に費やして下さい。みなさんにはそれができるはずです。空想や夢想に耽ることは、ある意味「薬物」に頼るのと同じです。麻薬を一度試しただけで、肉体や精神を害することはないでしょう。ですが、これを始めたことで、みなさんには中毒になる危険性が伴います。実際、みなさんの中には空想や夢想の中毒になってしまった方が大勢います。そうした人々は、幻想を創り上げるために全てのエネルギーを使い果たしてしまっているのです。彼らは現実から逃げています。目の前にある現実から、さらには空想や夢想に耽ることがなければ創造することができるかもしれない「別の現実」からも逃避しているのです。
それでは質問にお答えします。これまで話したことについて、何か分からない点はありますか?
質問:今おっしゃったことは、広告や宣伝にも当てはまりますか?
答え:今回の「空想」というテーマからは少しずれますね。ただし、違った形ではありますが、あなたが言う「広告」や「宣伝」も確かに有害です。ここでも言えるのですが、全ては個々の受け取り方次第です。例えば、ある人が宣伝から得たものを「現実」と思い込むとします。すると、その人のマスクセルフを刺激するような何かがそこに生まれるというわけです。これは、空想や夢想の場合とは少し違いますね。先ほど話した幻想の世界は、宣伝や広告が生まれるはるか昔から存在しています。宣伝によって影響も受けるかもしれませんが、二つは別物です。宣伝は空想の直接の原因ではありませんが、それを刺激することはあるかもしれません。
質問:芸術家の抱く構想や概念と「空想」との間の境界線は?
答え:とても良い質問ですね。「芸術家が自らの空想を現実の創造物に置き換えた瞬間、それはもはや『空想』ではなくなる」とお答えしましょう。芸術家が幻想の世界と戯れるとき、その目的が創造や充足、あるいは他者に何かを与えることであり、決して不快な現実から目を逸らすためにそうしているのではない場合、その人は正しい道を歩んでいます。境界線を越えて、空想の世界に浸っているわけではありません。ただし、その「境界線」を見定めるのは、その人自身にしかできません。自己を厳しく鑑みることによって初めて、それが適切にできるようになります。
質問:しかるべき「善」の理由がなければ、スピリットが物体に焦点を合わせることは難しいということですが、どうしてそんなことがお分かりになるのですか?
答え:それは、文字に含まれる思考が一つの「形」だからです。あらゆる思考には形があります。それが文字であっても、話し言葉であっても、デザインや音楽であっても、違いはありません。私たちはそこに「思考の形」を見るのです。
質問:それはつまり、あなた方は文字そのものを見るのではなく、その裏の「意味」を見るということですか?
答え:その通りです。もちろん、私たちは文字も見ます。みなさんの肉体が見えるのと同じです。ただし、繰り返しになりますが、そこに特定の目的がある場合だけです。それ以外では、私たちは「思考の形」だけを見ます。
質問:書かれた文字の中に色を見ることがありますか?その筆者がどんな人物であれ、その人の思考の形が現れたものとしての「色」です。
答え:いいえ。見えるか見えないかは、その人の人間性によります。というのも、色や振動や周波数など、以前に申し上げたものは全て、その人の性格や人間性、気風、全般的な態度や姿勢などによって決定されるからです。それら全てが一つになって、全体を創り上げるというわけです。
質問:ということは、二人の人間が同じものを書いたとしても、それは全く別のものだということですか?
答え:ええ、全く違います。
質問:今の話に関してお聞きしたいのですが、それはある種のサイコメトリック・リーディング(psychometric reading)、つまり、物やなんらかの創造物からその人のオーラを見定められると信じている人が行う心理測定に近いのでしょうか?
答え:はい、その通りです。
質問:空想と幻想についてお聞きしたいのですが、私はエジプトでの過去生について戯曲を書いたことがあります。私は以前、エジプトに生まれたことがあるのでしょうか?
答え:良い機会なので、今日初めてここに来た「新しい友」であるみなさんのために、少しだけ説明をしたいと思います。よろしいですか?神の聖なる命令に属するスピリットたちは、それが明らかに「善」の目的にかなうものでない限り、つまり、その人の自己発展にとって重要でない限り、今あなたが言ったような「情報」を伝えることはありませんし、実際にそうすることはできません。ですからあなたの場合も、その情報が真に必要ならば、私や他のスピリットを介して、あるいは悟りという形で直接的に、何らかの知識を受け取るはずです。ですが、それが単に「おもしろそうな推量」の範疇を出ない限り、私たちは何もしません。というのも、こうした「啓示」をあまりにも軽々しく扱ってしまうと、一つの人生から次の人生へと移る際にみなさんの記憶を消し去る意味がなくなるからです。この点に関して、かなりゆるい態度のスピリットたちがたくさんいることも承知しています。ですが、彼らは私たち「神の領域」に属する仲間ではありません。こうした一見「啓示」に思えるような知識はみなさんの好奇心を簡単に満たしてくれます。ですが、みなさんにはそれが本当に正しいのかどうかを証明することもできません。こうしたスピリットたちは、いとも簡単に「そうだよ」とか「違うね」などとみなさんに囁きかけるかもしれません。みなさんにはそれが正しいか否かを知るすべがないのですが、それでも一応の満足感を味わってしまいます。私たちはそのようなことは決してしません。みなさんが私たちからそのような「知識」を受け取った場合には、それは必ず真の意味を伝えています。みなさんの現世にとって何らかの「鍵」となるものに違いないはずです。時には、何度も繰り返した過去生の中に流れていた一つの「主題」について、悟りがやって来ることがあります。みなさんがどこの国にいたかはあまり問題ではありません。その他の環境や状況が重要な意味を持っているのです。自分の過去生に関する真実がみなさんの中に広がるとき ― それは誰の元にも訪れるはずです ― みなさんは勝利、あるいは解放の感覚を得るはずです。ちょうど鍵穴に鍵が差し込まれてドアが開いたように、みなさんはご自分が現世で抱えるたくさんの事を、多くの困難、問題、試練の理由を一瞬にして理解します。ですから、もしもこうした感覚がその「情報」に伴わないのならば、それを信用してはなりません。
質問:スピリットの世界の考えでは、人はいつ「イニシエーション」を受けるのですか?
答え:この質問はこれまでに何度も受けているので、簡潔に答えたいと思いますが、その前に一つだけ伝えておきたいことがあります。みなさんは大切なキーワードを聞くと、すぐに何らかのレッテルを貼り付け、まるで全てを知っているかのようにその言葉を乱用しますが、これは非常に危険なことです。それは、みなさんにとって非常に有害な行為なのです。時には、こうした言葉を知らない方がはるかにみなさんのためになる、という場合さえあります。
人が本当の意味で、ハート全てで ― 思考や理論だけでなく、実践して ― 自らの人生を完全に神に捧げるとき、初めてイニシエーションが起きる、と私たちは考えます。人生を完全に捧げるとは、他の一切に惑わされず、常に神を一番に置くということです。「狂信的になれ」ですとか、「隠匿者のような生活をしろ」などと言っているのではありません。それどころか、神は狂信的行為を嫌っています。神に全てをゆだねる(サレンダーする)とは、物質的な快適さやエゴの欲望を全て脇に置き、神とその壮大なる計画、さらには神の意志に従って現世を充分に生きること(フルフィルメント)を第一義的に考えるということです。みなさんがこの点に気づき、それを意識的に実践に移す段階に至るとき、あなたの言う「イニシエーション」という言葉を初めて使うことができるのではないかと思います。
質問:霊的媒体(ミディウム)が聞きたいと言っているのですが、生物学的な理由や民法とは別の次元で、兄弟姉妹間の結婚に関するスピリットの世界の法はありますか?
答え:人が一つの家族、一つの環境の中に転生するには必ず、相応のカルマ的理由があります。その理由は、何らかの課題(タスク)を達成する(フルフィル)ことと関係があります。現在、兄弟姉妹という形で転生する人々が多いのは、その人々の魂が兄弟姉妹関係の中で「愛」を学ぶことを求められているからです。それ以外の場合は、そこに夫婦という関係が生まれるはずです。愛の情熱や性別が自らの役割を果たすとき、かつて憎しみが存在したところでも、人は愛を学ぶことができます。それゆえ、「愛」を学ぶには「夫婦」の方がより容易だというわけです。一方、兄弟姉妹の関係からは、この要素が取り除かれています。なぜならば、兄弟姉妹というカルマ的関係の段階では、「エロス」の助けを借りずに「愛」を学ぶことが求められているからです。それこそが、彼らの課題(タスク)ということです。兄弟姉妹として転生した魂同士の結婚を禁じる霊的な理由は、ここにあります。
質問:「Thy will be done 御心の成る*1」と、個々の意志の充足(フルフィルメント)との関係を説明していただけませんか?
答え:何も難しいことはありませんよ。歩みの途中、何かを求めるときにはまず、「父よ、それがあなたの意志でしょうか?私は自らを開き、あなたのお答えをお待ちします」と神に尋ねることです。そして、真に自らを開けば、つまり、いずれかの方向に「心」を固めたりせず、たとえ神の答えが自分の欲と正反対でも、それを喜んで聞き入れる準備ができているなら、あなたにも神の言葉を受け取ることができるはずです。これが唯一の「正しい行い」です。何も難しいことは無いでしょう?
質問:自分の願望とは逆のものでも神の答えを受け取る、とおっしゃいましたが、それは「自らの権利を主張する」というあなたの教えとは結びつかないのではありませんか?
答え:まず、あなたの権利は神の意志に沿ったものでなければなりません。それに、私はまず、いついかなるときでも神の意志に対して自らを開くことを学びなさい、と教えているはずです。これはつまり自分の意志を捨てることから始めなければない、ということです。神の意志を常に優先し、自己を愛する以上に神を愛すれば、その術を学びさえすれば、あなたにも常に神の御答を受け取ることができるはずです。そしてそれができたときに始めて、あなたの言う「自らの権利を主張する」こともできる訳です。
質問:霊的な人生を求める強い衝動が人の中に存在するのはなぜですか?
答え:それは、みなさんの中にハイアーセルフ、または聖なるスパークがあるからです。それが、霊性を求めるようにとみなさんを駆り立てるのです。みなさんの成長の度合いが低いと、ハイアーセルフを覆い隠すローワーセルフの層がそれだけ厚くなります。すると、この聖なる衝動も隠され、最後には存在しないも同然になってしまいます。ですが、ある段階まで成長すれば、ハイアーセルフの持つ願望がみなさんを強く後押ししてくれます。そのとき、ロウアーセルフの声が再び聞こえ、みなさんをそこから遠ざけようとします。ここでの戦いは、みなさんがそれぞれの内側で行わねばなりません。成長の度合いが高くなるほど、ハイアーセルフの声、またはそうするようにとインスパイアする聖なるスピリットの声に従わないと、みなさんはますます不幸になってしまいます。
今述べたような高次のスピリットは、各自のハイアーセルフが少なくともある程度解放されて初めて、みなさんの周りに近づくことができます。彼らの声に耳を傾けず、他のことばかりを考えていると、その「他のこと」が何であれ、必ずみなさんの邪魔をします。その結果、みなさんは不幸せになるのです。フラストレーションを感じ、心に平安を抱くことができなくなります。一方、この声に従うことを選択し、何があろうとも聖なる道を進むと決意すると、幸せは必ずみなさんの元にやってきます。みなさんをその道へと向かわせるのは、常に聖なるスパーク、ハイアーセルフなのです。そして、自分が見つけるべきものが分からず、自らの行く手に何があるのかを知らなければ、平安を手にすることもありません。扉を叩く者は必ず入り、探し求める者はいつか見つけるのです。
質問:自分自身を本当の意味で知るために、ハイアーセルフとローワーセルフを分けようとするのですが、ハイアーセルフの一部がローワーセルフの一部と一緒になってしまったり、またはその逆が起きたりすることがあります。これを理解するのに、そして両者をしっかりと区別するのに役立つようなヒントがありますか?
答え:はい、あります。今はその時間がないのですが、この点については、人間の魂の心理的性質について話をした後に、それを補足する意味で一度講義をするつもりです。かかりつけの精神分析医や精神科医がいらっしゃるのなら、その方たちがこの点を理解することは非常に大切です。前回の講義でハイアーセルフ、ローワーセルフ、マスクセルフについて話しましたが、次の講義では、ハイアーセルフの「流れ」について話します。ハイアーセルフがいかにして生じ、ロウアーセルフを突き抜けるのか、ある部分ではその「流れ」が純粋でクリーンな状態を保つ一方、別の部分ではローワーセルフによって、みなさんの抱く「過ち」を通じて、その「流れ」が変性させられ、誤った流れ(チャンネル)にされてしまうのかについて、詳しく説明したいと思います。
質問:睡眠中の「夢」と「夢想」には何か関係がありますか?
答え:ある意味、関係があると言ってもよいかもしれません。また、夢想や空想は個々の内に存在する心理的要素を照らし出すこともあります。
そうですね、良い機会なので、みなさんに一つ提案をします。ワークの一環として自分の夢想や空想をノートに記してみてはいかかでしょうか?そして、書いたものを個々のセッションに持ってきてください。ここに来られない場合は、毎月のレポートに書いても構いません。というのも、まさにあなたが言ったように、夢と夢想には関係があるからです。夢は潜在意識下の欲望を少しだけ姿を変えて映し出しますが、その人の内なる性質に備わる他の側面もまた浮き彫りにするのです。それゆえ、自分の夢想の性質について考えることは、みなさんの進歩にとって大変有益となりうるわけです。どうかみなさん、他の課題の中にこれも加えてください。
質問:次の講義も英語ですか?
答え:ええ。今は全て英語で話すつもりです。
質問:あなたのおっしゃった「距離」と「地理学上の長さ」について質問があります。あなたが今いる、そして暮らしているスピリットの世界ははるか遠くの星々、例えば銀河の中までも伸びているのですか?
答え:ええ。全ての中に、全宇宙中に広がっています。
質問:つまりそれは、宇宙のどんな空間にでも簡単に行くことができる、という意味ですか?
答え:空間は私にとって障害ではありません。
質問:ですがその場合、何らかの「距離」がそこには存在するのではありませんか?
答え:あなたの言う「距離」は、あくまで人類の目で見た存在です。あなたには想像できないのですね。良く分かります。
質問:要するに、200万光年という距離であっても、それはあなたにとって「長さ」という意味を持たないということですか?
答え:その通りです。同じように、今ここにいる私がスイスに行きたいと思ったら、その瞬間、そこに行くことができます。そして、また次の瞬間に、あるいはその半分の時間、いえ、もっともっと短い、そのかけらのような時間の内に ― 私たちには「時間」を測定する単位がないのですが ― またここに戻ってくることもできるのです。私にとっては、霊的な距離がない以上、あなたの言う「距離」は存在しません。ただし、もしかしたらここからその扉までの間には、スピリットにとって越えがたい距離が存在するかもしれません。
質問:媒体の密度のせいですか?
答え:スピリットの持つ態度が「距離」なのです。
質問:それはつまり、ラス・アルゲチ*2や他の偉大なる星といったはるか遠くまで行くのも、私にはすぐ近く見える所に行くのも、あなたにとっては同じだということでしょうか?
答え:どちらでも同じことです。スピリットの世界にはあなた方が持っているような「時間」と「空間」の尺度がありません。私たちが持っている尺度は、純粋に個人的、霊的、心理的なものです。「心理的」という言葉を使ったからといって、それが単なる「考え」だと勘違いしないで下さい。これは事実なのです。ある段階まで発達したスピリットは、それぞれが到達した領域に応じて、宇宙をある程度思い通りにできます。相応の段階まで達しない限り、その程度が上がることはありません。
質問:つまり、未発達のスピリットにはそれができないと。
答え:どんなスピリットも、それぞれの発達の範囲内、またはそれ以下でなら、これを行うことができます。その中にいるスピリットは自由だからです。
質問:読書が私たちを数百万年もの昔に戻すのと同じように、どこかに行きたいと思えば、たとえそれがどこであれ、その思いがスピリットをその場所に送るということですか?
答え:そうです。ただし、「思い」ではなく、それは実際に起きるのです。
質問:ですが、人間の頭(マインド)では、それは想像できない ― そうおっしゃるのですか?
答え:自分でそれを感じない限り、瞑想の中でしっかりと感じない限り、想像することはまず不可能です。ですが、それでは自分の知識を誰か他の人に伝えられないことに気づくはずです。
愛しい友のみなさん、これをもって、私は自分の世界に帰ります。みなさんの元に神の祝福を置いていきます。みなさんが平和に包まれますように。神はいつでもみなさんと共にいます。
*1 Thy will be done on earth, as it is in Heaven (天に御心の成る如く、地にも成させたまえ)の一部。聖書からの引用
*2 Ras Algheti ― ヘラクレス座の星の一つ
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