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Pathwork in Japan
No.18 自由意志
Pathwork Guide Lecture No. 18
1996年版
1957年12月6日
自由意志
FREE WILL
友人たちよ、主の御名のもとにみなさんを歓迎します。このひとときに祝福がありますように。みなさんすべてに祝福がもたらされますように。自分の歩む道を見つけ、初めてここに来た人々にとって、ここにいる一人の人間を通してまったく異なる人格が話しているのを理解することは、容易ではないでしょう。このようなことが可能であると信じるためには、学び、そして自らを開くことが必要となります。
新しい友人たちが初めて加わるときの講義は、とても難しいものです。ですから、その言葉を記したレクチャーによってすべての人に、より明確な理解がもたらされるのです。もし私が新しい友人たちのことだけを考慮に入れているとしたら、定期的に私の講義に参加しているみなさんにとって公平ではないかもしません。一方で、もし定期的な参加者のみなさんのためだけに講義が行われたならば、新しい参加者がまったく講義についてくることができないという事態が起こります。みなさんよくおわかりのように、これは簡単に克服できない厄介な問題です。いずれにせよ、私はその状況下で最善を尽くします。
まず、毎回参加されている人にとってさえも、繰り返すということが基本であることをもう一度強調したいと思います。なぜなら、あなた方人間は、霊的成長にとって重要なとてもたくさんのことを忘れてしまいますが、そればかりでなく、あなたが気づいていることを心ではなく、単に知識として理解しているだけだからです。悟りと呼ばれるものと頭での理解との間には、非常に大きな隔たりがあります。例えば、同じ考えを25回聞くとします。それを毎回異なった角度で取り組むとしても、深くすべてに浸透する知識をあなたが獲得することはできないのに、26回目に聞くときに突然あなたはこの一つの側面についての悟りを獲得する、そういうこともあるのです。
今夜の講義で取り上げるテーマは、自由意志です。人間はこのテーマについて常に議論し続けています。あるグループの人たちは、自由意志などというものがあるはずがないと主張します。すべては運命であり、変えることのできないものなのだと。また別のグループは、この世に自由意志以外のものは存在しないと言います。さらに別のグループに言わせると、ある事柄は自由意志によって決定されるが、その他の事柄はそうではないのだそうです。さて、いったいどれが実際の真実なのでしょうか?
このテーマを、霊的な観点、また絶対的な現実という観点から一緒に調べてみましょう。現在の人生だけを信じ、前世や来世などの存在を信じない人や、スピリチュアルな世界とか神聖なる法則や秩序を信じられない人にとっては、いくつかの要因は運命によって決定され、その他のことはその人の自由意志によって決定される、というのが論理的な第三の考え方になります。このような人々は、自分がいつ、何者として生まれてくるのか、そしてどこでいつ、どのように死んでいくのか、そして、現在の人生でどのような明確な側面が花開くのか、自分にはこれらすべてを決定する選択権がないと信じています。しかし、原因と結果の法則の真実や転生の真実を感じ、理解し、そして経験した人々にとっては、そういった物の見方は正しいはずがありません。全体像の中でみると、現在の人生において自分でコントロールすることのできない要因が過去生によって決定されているために、一時的に自由意志が表出できないことはあります。そうだとしても、それぞれの個人は完全な自由意志を手にしています。自分でコントロールすることのできない物事というのは、自分自身が用意した原因によってもたらされた結果に過ぎないのです。
一つ例を挙げてみましょう。捕らえられ投獄された一人の殺人者がいるとします。その人は、神聖なる法則だけでなく、人間世界での法律にも反する行為を犯してしまいました。さらに彼は、この行為を犯したときから記憶喪失になってしまい、まったく何も覚えていないとします。ですから彼は、自分のしたことを思い出せず、なぜ自分が監獄にいるのかもわからぬままその中にいる状態だということになります。つまり「おまえはこのような罪を犯したのだ」と聞かされても、彼自身は全てを忘れてしまっているのです。とはいえ、このことによって彼が罪を犯したという事実が変えられるわけではありません。自分がそれを自覚しているかどうかは問題ではないのです。記憶喪失になり、自分が何をしたのかを聞かされてもそれを信じることができないのですから、彼は、今監獄の中にいるという状態を不公平な運命だと思い込むでしょう。なぜなら、彼には現在の状況というたった一部分しか見えず、過去とのつながりや連鎖反応は見えないからです。つまり、彼を現在の状況へと導いた過去の行動は、彼からは見えないところにあるにもかかわらず、現実として存在しているのです。投獄という状態は、因果関係によって形成された自由意志の創造物なのです。
今明らかになっている関心事に取り組んでいる中であなたの自由意志が妨害されるときはいつも、あなたはそれを思い出すことができないかもしれませんが、自分自身がもたらした原因の結果なのです。同じように、実益または実益となりそうなものに自由意志を使う可能性があるときは、自分自身で相応の原因を作り、それが作用することになります。この人生においても過去生においても、その法則の働きが変わることはありません。現在の自由、もしくは自由の欠如は、完全にあなたの過去の行動、考え、そして内面の反応によるものなのです。
こんにち、より多くの人々が、この法則が現在の人生に適用されているという事実に気づき、認識しています。あなたの人生で起こっていることの原因の多くは、今生の早い時期にさかのぼってあなたが取った外面的、内面的行動の中で明らかにすることができます。少し前まで、人間は、良きにつけ悪しきにつけ、また好むと好まざるとにかかわらず、このような隠された原因を探るために、魂の中を深く十分に探求する手段を持っていませんでした。私が述べたように、覚えていないにせよ、今の人生に由来する原因がたくさんあるのです。それを探し出し、明らかにするためには、多くの時間と努力が必要とされます。忘れたのだから自分には責任がないという主張は通りません。かつてあなたは、ある結果をもたらしたやり方で行動し、考えることを自由に選択したのです。
結果を生み出さない行動、考え、感情などありはしません。結果がすぐに起こるものについては、原因をたどるのは簡単です。また、原因をたどるのに長い道のりを要するものもあります。それでも、人生において自分に原因のないことなど決して起こりません。本当は、みなさんはそのことを知っているのです。したがって、自由意志は部分的に存在するだけだという考えは基本的に間違っているし、多めに言ったとしても真実の半分程度というところです。今日あなたがすること、考えること、そして今のあなたの反応はすべて、明日、来月、来年、そして多くの場合来世にまで影響を与えます。ですから、友人のみなさん、みなさんは実際に、完璧な自由意志を持っているのです! みなさん人間は、自分の撒いた種を忘れてしまい、認識することができないとき、そしてそのような場所にいるときには、運命が作用したのだ、などと言うのです。
自由意志を持つことは、どんな影響を引き起こすこともなく、自分のやりたいと思うどんなことでも考え、することができるということだと考える人はたくさんいます。自由意志に対するこの概念は、はなはだしい間違いです。神は、宇宙をお創りになられました。そこは無数の法則によって統治されています。神は、神の子どもたちをお創りになり、子どもたちに自由意志をお与えになりました。そして神の子どもたちは、この地球、この物質世界が生まれるずっと前に、無限の法則を守るか守らないかを選択することができたのです。これらの法則を遵守すると、必然的に幸福、愛、調和、光、そして最高の叡智を得ることになります。なぜなら完璧なる神は、完璧なもの以外を創り出すことができないからです。しかし、まるで彼らに自由意志などないかのように、これらの法則の枠組みの中にとどまることを創造物が強要されれば、その法則はその本来の意味を成さないばかりか、神の本質と一致しないことになってしまいます。そこに、基本的な自由意志の法則と創造におけるその適用との間の矛盾が存在します。もしも美、調和、叡智、至福、そして愛の状態の経験が、個人の意志もしくは法則の持つ叡智と完全性に対する個人の認識に反して無理強いされるならば、美、調和、叡智、祝福、そして愛は存在することができません。このようなとき、たとえ神がお創りになった創造物が強要されたシステムの中で幸福になれるのだとしても、神は自由の神ではなく、隷属の神となってしまいます。このようにして、すべての創造物、つまり人間やスピリットは、その法則に沿って生きるか否かの選択の可能性を持っているのです。そこに、この問題に対する鍵が隠されています。これは、自由意志について付加的に理解するための鍵というだけではなく、悪、闇、残酷さ、つまり天使の堕落を理解するための鍵でもあります。ほとんどの人は、愛そのものである神がなぜ悪などをお創りになったのかと不思議に思っていることでしょう。けれども、神が悪を創ったわけではありません。今なら理解できると思いますが、神は、それぞれの創造物に神の完璧性の法則に従うか否かの自由な選択の機会をお与えになったのです。
神聖なる法則を遵守するのは難しいとあなたは言うかもしれません。実際、ある側面においてはとても難しいのです。どこかの時点で神聖なる法則を逸脱してしまったことのある人が、再びその法則に従うことはとわけ難しく感じます。しかし、神聖なる法則から外れたことのない人(非常にたくさんの人がこれに当てはまりますが)にとっては、難しいことではないのです。一歩一歩、かつて自分のものであった法則の遵守に何の困難も存在しないという状態に到達するまでの自己の浄化の過程の中に、難しさがあるだけなのです。みなさんは遵守するのが難しいという理由で神聖なる法則から外れることを選択しなかったのだ、ということを私はここで強調したいと思います。自分の人格の中の、神聖なる法則から逸脱したことのないどんな側面においても --- かならずしもすべての側面でそうであったとは言えませんが --- 、あるいは過去の転生において自分の本来の状態へと戻り自己浄化を成し遂げた自己のどんな側面においても、それらの側面においては法則の遵守はそれほど難しいことではありません。
それぞれの個人によって、何が難しいのかはさまざまに異なります。ある人にとっては、盗みを働かないことがとても難しいかもしれません。しかし、別のある人にとってはそこには難しさはなく、むしろ感情のコントロールを失うことに難しさを持っているかもしれません。また別のある人にとっては、他者を妬まずにいることがとても難しいことかもしれません。そういうことなのです。すべての想像し得る限りの側面において、霊的な発達と進歩を通して何の難しさもなく神聖なる法則の中で生きられる状態に到達することがあなたの目的なのです。そしてもちろん、この状態は、あなた自身の選択と自由意志を通してのみ成し遂げることができるのです。
今お話したすべてを使って、「罰」という考えをもはっきりと説明することができるでしょう。この「罰」というのはほとんどの人が嫌悪するようなものです。気まぐれに罰をばらまく神など存在しません。神は、その子どもたちにとって完璧な法則をお創りになりました。そして、彼らがその法則に従うも従わないも自由な、完璧な状態をお創りになりました。あなたがそれを「罰」と呼ぶかどうかは、あなたが選択することです。しかしあなたは、「罰」という言葉を使うことで、それが持つ本質とはまったく誤った観点を与えてしまうことになるのを認めなければならないでしょう。神の創造物は本当に完璧なものであり、そして神の法則はどんな人間もがなし得る至高の叡智、そして愛から成っています。たとえ神の法則から外れてしまった人であろうとも、究極的には神の法則、そしてそれにつながる完全なる至福と完璧な状態への道を見つけ出し、そこへと帰ってゆくことになるのです。その方程式は、到達したときに現れるかもしれません。いずれにせよ、それは起こるべきことなのです。人間がこれを理解するのは何よりも難しいことでしょう。それでも私は、私のようなスピリットの存在にとってとても大きな妨害を意味し、使うことの難しい人間の言葉を使って、みなさんに説明していこうと思っています。
神と完璧の法則から遠く離れるほどに、そこに戻る道を探すのは難しくなる、最初はこう思えるでしょう。ある意味ではそうなのですが、しかしあくまでもある意味では、にすぎません。おそらく「技術的な」難しさが増す、と言ったらいいかもしれません。なぜならば、かつてあなたが所有していた完璧という状態に向かって一歩一歩戻るためにはワークしなければならないからです。神から遠ざかるにつれてあなたは幸せからも遠ざかってしまうのですが、それゆえに、最終的には、この不幸という状態を通り抜けることであなたは神のもとへと戻ることとなるのです。法則を破り、その結果として不幸を経験することは、それ自体が治療薬であり、あなたの不幸な状態を緩和する手段でもあるのです。それは本当に大切なことなのです。人間としての現在の知覚からだけでなく、創造と絶対的現実という全体的な視点から人生や世界を見つめることによってのみ、この真実をつかみ取ることができます。このすべてが、あなたの瞑想のための素晴らしい題材となるでしょう。
特に問題も葛藤もなく、ごく平凡な満足の状態で生きながら、それでも真の幸福を欠いているたくさんの人々のことを想像してみてください。より深い叡智や真実、充足の探求のために自分を奮い立たせることのない人々です。このような人たちは、自己の霊的な進歩をより深めるための行動を起こしません。しかし、彼らが危機や何らかの不幸を経験するとき、それが彼らにとってより高いレベルの意識への到達、そしてまた幸福への到達に向かって何かを始める出発地点になります。この例は、不幸はそれ自身が治療薬である、ということを理解するのに役立つことでしょう。ごく少数の偉大な人々以外には一般的に認識されていませんが、これはとても重要な動機なのです。
自分にはコントロールできない外面的な幸せに依存している限り、あなたが幸福を知ることは決してないでしょう。一時的な充足感を覚えることはあるかもしれませんが、それを失うことを常に恐れるようになるでしょう。なぜならあなたには、あなた自身やその状況に対して影響を及ぼそうとする他者やその力をコントロールすることはできないからです。あなたが自己を発達させるとき、そして神聖なる法則から逸脱した、病んでいて間違った流れから自らの魂を浄化し癒すときにのみ、永続的で他者に奪われることのない幸福と、足元の確固たる基盤がもたらされるのです。それがもたらされるのは、苦労と困難を招いた自己の内面の原因を見つけ出すときなのです。残念ながら、不愉快な出来事が人生に起こらない限りあなたは見つけようとはしないでしょう。
神は、これらの不愉快な出来事を、故意にあなたにもたらしたりはしません。どこかの時点であなたが神聖なる法則から逸脱したために、それが現在の人生の出来事であっても過去生の出来事であっても、まさに今影響を及ぼすように、とあなた自身が準備した状況なのです。現在抱える困難の根本を見つけるために、過去生で自分がどこでどのように生きていたのかを知る必要はまったくありません。なぜならば、ある一つの傾向は、それが浄化されない限りあなたの中に存在し続け、ゆえにあなたが望みさえすればそれを認識することができるからです。自分の欠点や誤り、弱さを知るとき、直接的であれ間接的であれ、あなたは現在の人生において気に入らないすべてのことの根本を見つけ出なければなりません。もしも神聖なる法則からの逸脱を見つけようと取り組めば、あなたは浄化のプロセスをスタートさせることができ、長くて上に向かって曲がりくねったその癒しの道の途上で、他の誰でもなく自分自身の選択によって自らを置いていた暗闇から抜け出すことでしょう。
この話は私を意志の方向と意志の力というテーマへ導いています。意志の力とはどこで使われ、どこで使われないのでしょうか。あなたが、何よりも神の意志を全うすることを望んでいるという前提で話を始めましょう。神の意志が何なのかをどんな状況においても見つけ出すためには一体どのように歩んでいけばよいのか、ということについて、既に長々と議論してきました。人生においてある決定を下すための意志の力、ある進路をとるための意志の力というものがありますが、その他にもたくさんの微妙で捉えがたい内面の意志の流れが存在します。ですから、みなさんはそういった意志の流れに気づき、いつ、どのように使っているのかを学ぶ必要があるのです。
多くの人々が主張するように、意志の力によってほとんどすべてのことを成し遂げることが可能なのは真実です。かつて使われていた内面のサイキックな力は、現在みなさんが考えているよりもより強大な力を持っています。しかし、いつ、どのようにして、そしてどんな方向にこれらの力を使うのが賢明かというのは、また別の問題です。神の意志を、無理やりでなく心から受け入れるべきはいつなのか? あなたの中で眠っている力はいつ使われるべきなのか? 多くの人々は混乱していて、その可能性に気づいていません。
ですので、最初のステップは、あなたの中にこの混乱が存在しているのかどうかを見つけ出すことです。もしも混乱が存在しているなら、あなたの考えをはっきりと簡潔にまとめてください。あなたが欲するものに意識的になってください。もしもあなたの中に、自分の望みは神の意志と一致しているのだろうかという疑問があれば、まず、私がいつも教えているやり方でそれを見つけようと取り組んでください。つまり、あなたが求めているものに明快で簡潔な考え方を当てはめることによってです。いったんこの疑問があなたの中で解決されれば、あなたの内面はさらなる平和を得ることとなるでしょう。何であれ人生において何かを成し遂げた人は、この作業を行っているのです。神を何よりも重んじることのない人は、神の意志に沿わないことを成すことになるでしょう。しかしあなたには、永遠に、最初から神の意志を探し出すチャンスがあるのです。
あなたの欲望が、神聖なる法則から逸脱していない地球上の何かに関わることだとしても、あるいは自己の霊的な進歩や自己浄化に関わることだとしても、あなたは、強い力をもって意志の力を使うことができるのです。この癒しの道をたどることを望む私の友人たちのほとんどが、その旅路で多くの出来事に出会っても、まだこの内面の力を使ったことがありません。あなた自身の中に、克服すべきたくさんの困難が間違いなく存在し、また気づき手放すべきたくさんの欠点、そして学ぶべきたくさんの事柄があります。適切な方法で適切な力を使えば、より簡単にこれらすべてを成し遂げることができるのです。
あなたは、知識から出たものも魂から出たものも、どちらも欲し、望むことができます。知的な意志の力は強いのですが、魂の意志の力ほどの影響力は滅して持ちえません。あなたは、自己の意志の力を、二つのまったく違ったやり方で使うことができます。一つは、あなたの平和を奪ってしまうような圧力と緊張を創り出します。そしてそれは、霊的、感情的な成熟にとても必要とされる自律した状態からあなたを引き離すことになります。もう一つの方は自由にそして極めて強く勢いよく流れながらも、決してあなたの静穏を乱すことはありません。それは内面深く、それでいてとても意識的に作用します。それは強く、粘り強く、意志の力を働かせます。そしてそれは、あなたを自由にし、何にもとらわれないのに決して受動的でなく、従順なだけでない状態をもたらします。一つの意志の流れはあなたのハイアーセルフから出てきたものであり、もう一つはローワーセルフから出たものです。もしあなたが何か神聖なる法則や神聖なる意志に反するものを望むのであれば、あなたのもとを平和が訪れることは決してないでしょう。しかし、あなたが何か自分にとって完全に正しいと思われるものを望むこともまた可能なのです。ただし間違った方法でそれを行ってしまうと、間違った流れや動機と入り混じってしまうことになります。
例えば、あなたは自分の仕事でベストを尽くしたいと思っていると仮定してみましょう。これは本物の、そうあるべき望みです。このような望みのない状態だとすると、そこにあなたのひらめきや生命力がないということですから、それは間違った状態だといえます。あまりにも望みを持たない状態で、かつ無関心の状態でいることは大変危険です。そのような状態では、まず、気づかないくらいにゆっくりとあきらめの状態に入ります。それから、何に対しても無関心な状態、もしくは生きていることを十分に感じられない状態になってしまいます。他のすべてと同じように、正しい中庸の道に到達し、それを維持し続けることはとても難しいのです。
両極の間に正しい中庸の道を見つけ、しっかりと手にするためには、毎日瞑想を行い、そして完全に自己に正直に、内面の動機を確かめることが必要です。あなたは、自分の虚栄心を満たしたいという理由でベストを尽くしたいと望んでいるのでしょうか? ベストを尽くしたいというあなたの望みは、利己的でくだらない理由によって弱まってしまうものでしょうか? これらの質問への答えをいったん自分に与えると、意識の中で自分の動機の方向を変え始めることができ、そして内面の意志の力を自由に流すことができるのです。いったんあなたの動機が偽りのないきれいなものになれば、あなたの意志の力の自由な流れを遮ってしまう、無意識的もしくは潜在意識的な苦しみを持つことはなくなるでしょう。もしもあなたの望みが間違った偽りのものであれば、あなたがより高みへと成長を遂げるほどに、あなたの潜在意識が意志の力に対してより不利になってしまいます。だから、もう一度言います。最初のステップは、これまであなたの無意識の中に置かれていたものを意識化することです。そうすることで、あなたがどこで自分の意志の力を手放し、捨てるべきなのか、そして、以前よりももっとその意志の力を使うことができ、使うべき場所はどこなのかを調べられます。自分のエゴが強く圧迫されていることに直面するとき、あなたは、そこからの離れることを学ばなければなりません。あなたのエゴを駆り立てるものを繰り返し見つめることによって、あなたは徐々に、それを手放すことを学ぶことができます。いったん自分の中のこれら二つの傾向を切り離す、つまりそれは仕事でのことやその他何でもよいのですが、「他者の役に立ちたいと望む傾向」から「利己的でうぬぼれた傾向」を切り離すということで、それができたならあなたは意志の力を正しい方向で発達させることができます。そうすることで、すべてのマスクや間違った動機を浄化することができるのです。
あなたは、脳からではなく、太陽神経叢から意志の力を流れ出させる訓練をすることができます。ここには、とても微妙で重要な違いがあるのです。ある程度はこの違いを経験したことがないと、私の言葉はあなたにとって単なる言葉、おそらく特別な意味など持たないような言葉に過ぎないでしょう。しかし、挑戦し続ければあなたはその違いを経験することができます。そしていったんそれを経験したならば、脳から望んでいるものと、魂から望んでいるものとの違いをとてもよく理解することができるでしょう。この二つの流れが混ざってしまうこともよくあります。浄化されたきれいな流れがそうでない方によって薄められ、役に立たなくなってしまうのです。どちらがどちらなのかが全く明確でない、もしくはこれら二つの非常に異なる流れが同時に自分の中に存在していることすら知らないために、魂の混乱が生じます。これらをはっきりと分けてください。はっきりと分けた後に、神聖なる法則に背いて行動するエゴの意志を手放してください。それがあなたにもたらすのは不調和だけです。生命のひらめきを復活させ、魂の奥深くにある意志の力を復活させてください。そうすることで、エゴを世界の中心に据えることのないあなたのきれいで偽りない意志が、優位になります。
親愛なる友人たちよ、これが実に難しいということはよくわかっています。みなさんの中には、これらの言葉がまったくちんぷんかんぷんだという人もいるでしょう。しかし、より深い理解を持つ人々は、私が話したことを少しでも理解することができると思います。そのためには、真の、深い理解が成されなければならないのです。それは、単に一度講義を聴いただけでもたらされるものではありません。それで十分だということはあり得ないのです。私が述べたことは、あなたが自らを押し込めている牢獄からあなたを解放するためのたくさんの鍵の一つです。そして、自分で自分をがんじがらめに縛っている鎖を解くことでもあります。これらの鎖から自分を解き放ち始めないと、あなたは自分の人生にフラストレーションや不幸、そして不満を感じることでしょう。今、始めましょう。そうすることで、神聖なる法則に背くのではなく、すべての内面の流れの中にそれと共に入っていくことができるのです。神聖なる法則には、殺すべからず、盗むべからず、わかっていながら罪に手を染めるべからず、という部分が含まれます。これらはより広範囲で極端なケースです。しかし、これらの傾向を過去の転生の中で克服したために、このような極端な法則がもう適用されない人々は、外面的行為だけでなく、自己の魂に、内面の傾向に、魂の流れに、感情的反応に、神聖な法則を適用することを始めなければなりません。考え方を変えるだけでは十分ではなく、感情も変化させるべきなのです。自分をあるがままに見つめない限り、これは成し遂げられません。
親愛なる友人たちよ、ここで、みなさんのご質問に答える準備が整いました。用意してきた質問をする前に、この問題についての質問をお願いします。
質問:例えば映画界やビジネスの世界などで偉大な経歴を成し遂げた人々について考えています。このような人々は自己のエゴでいっぱいで、霊的に成長しているとはとても思えません。このことについて何かコメントをいただけますか?
答え:病んでいて無知な流れを育てる人、そして自分が現世に転生した理由として自分の運命を全うしない人は、その人の人格のいくつかの側面においては、まだ霊的な進歩の途上にいるのかもしれません。まあその側面は、その人の魂のどこか全く別の場所にあるのかもしれませんが。そういう人たちは、計画に沿って自分の人生を生きていなかったとしても、また間違った流れを促進していたとしても、何か他の点において欠点や過ちを克服しているのです。霊的な観点から見れば、今の人生が完全に無駄なものであるとは言えないのです。
質問:脳に対立するものとしての太陽神経叢とはどのような意味でしょうか?
答え:望みは、知識もしくは脳、またときには魂と呼ばれるものから生まれます。太陽神経叢の領域の中の、人間の目では見ることができない放射物質中に霊的な磁場があります。そこは、すべての感情だけでなく、その人の存在の完全なサイクルに付随するすべての要因が深く刻まれている場所です。過去生の意義、功績、そしていわゆる罪業が、生命の書と同じようにこの領域に含まれます。感情、望み、あるいは思考というのは、脳の領域からのみ発展するのではなく、この領域からも発展するのです。ほとんどの人はまだこれを経験していません。彼らが何かを望み、もしくは考え、アイデアを形作るとき、それは脳で起こっていると彼らは信じています。しかし、いったんある程度の段階まで霊的な発達を遂げることができれば、自分が霊的な磁場の領域で望み、考えることもできると感じることでしょう。そこから生まれる思考は、脳から生まれる思考とはまったく違った性質と特性を持っているのです。
同じことが、意志の力にも当てはまります。脳の領域からくる意志は緊張状態を誘発します。そうならないのは、その意志が霊的な領域やその磁場から生まれる場合だけです。もちろん、最初に脳から正しい考えが生まれることもありますが、脳の領域だけに留まっている限り、その考えが人格全体に浸透する力を持つことは決してありません。霊的な領域から生まれ出た望みや思いは、その人のハイアーセルフや神聖なるひらめきとつながっています。こういった経験を持つ人は誰でも、それと確信することができるでしょう。霊的な領域から生まれ出た思考や望みを得ることができれば、誰もが完全な幸福と確信で満たされることでしょう。その思考が真のものであり、その真実は今この瞬間に魂の中で生きているのだという事実に疑う余地はないことを、その人は知るのです。
脳から信仰が生まれることはありません。もしもそれが単に知識的な信念の問題であれば、それは弱い信仰です。しかし、霊的な領域や神聖なるひらめきから生まれた信仰は、強い信念であり真の体験であると言えます。ですから、信仰を持つことは個人の好みの問題だ、と信仰を持たない人々が考えているとすれば、それは誤りです。真の意味での信仰とは常に、個人的な体験がもたらす確かなものです。もちろんその体験は、それを経験したことのない他人に伝えられるようなものではありません。多くの人々が間違った種類の信仰を持っているという事実は、真の意味での信仰が存在しないということではありません。
同じように、感情的に不安定で未成熟な人が、強く衝動的な内面の願望を持つこともありえます。その願望は一部無意識かもしれませんし、全てが無意識かもしれません。こういった願望は脳から生まれたものでも霊的な領域から生まれたものでもありません。人間の無意識をひも解いていくと、病んでいて悪く歪んだ流れが、無知で見通しのない態度とともに外に現れてきます。それだけではありません。私がローワーセルフと呼ぶその人の欠点や誤ち、弱さも現れてきます。そしてさらに、その人は自己のハイアーセルフとも遭遇するのです。ときにそれは深いところに隠れ、その人の真の性質とは何の関係もない偽りのマスクに守られ、さらにローワーセルフの下に隠されていることもあります。最後の最後になってやっと、力を働かせることが許されていなかったハイアーセルフの一部が浮かび上がってくるのです。このハイアーセルフもしくは神聖なるひらめきの中に、叡智、真実、そして愛が存在しているのです。そしてこのハイアーセルフは、誰の中でもある程度までは解き放たれています。だからこそ、頭の中で考え、欲することと、霊的な核(コアの部分)で考え、欲することとの間にはとても重要な違いがあるのです。後者はもちろん磨かれなくてはならないものであり、自己浄化のプロセスの厳しいまでの発達を経ずには機能させることのできないものなのです。
質問:精神療法(サイコセラピー)とあなたの手法とが共同で何かを成し遂げることはできるでしょうか?
答え:もちろんです! 心からそれに興味を持ち、開かれた人であれば、それを成し遂げることは可能です。私は喜んで、私の用いるシステムとアイデアをあなたに与えます。あなただけではありません、このことに興味を持つすべての人々に恩恵をもたらすことになります。今後私は、精神科医や心理療法士、セラピストたちのグループと共に働く機会を持つこととなり、いつの日か、私たちはこのような学びのためのコースを行うことになります。スピリットたちのように魂を見通すことができない人間の医師にとって、本当にこのシステムを用いることできるのだろうか、とあなたは疑問に思うのではないでしょうか。私たちが人間を見通すことができるというは確かに大きな助けであり、成功への道のりを縮めることができます。しかし、そうでありながらも、このシステムを人間が使うこともまた可能なのです。人間の医師がこのシステムを使うことで、少なからぬ成功を、そしてよりよい結果をもたらすことができることに疑いの余地はありません。
質問:前回私は、神秘主義とオカルトとの違い、黒魔術と白魔術の違いについてお尋ねしましたが、残念ながら時間の関係でお答えをいただけませんでした。今お答えいただけますか?
答え:わかりました。みなさんはすでに、黒魔術と白魔術の違いについてはとてもよく知っているでしょうから、ここでは神秘主義と魔法との違いについての質問に答えたいと思います。おわかりのように、私は、これらを明確にする言葉や用語を持っていません。しかしあなたの質問の意味するところは理解しています。人間ですら、これらの言葉や用語に対しては混乱してしまうと思います。このような言葉の意味に対する考え方は、それぞれの人によってとても違っています。したがって、これらの言葉を使うことは誤解につながる可能性があります。
神秘主義の真の意味とは、転生した存在が可能な限り神にたどり着き、神を経験することです。したがって、神秘主義的な道とは完全な浄化を意味し、そしてそのゴールは完全で唯一の神です。そして神の意志を全うし、神を経験することなのです。しかし真の神秘主義者が、究極のゴールとしてこれらすべての経験の高みを求めることはありません。なぜなら、これは利己的な到達点であり、利己主義とはまさに神秘主義の対極を成すものだからです。したがって、私たちの視点から見た真の神秘主義のゴールとは、他者への奉仕です。共に生きるすべての創造物に対し最高の奉仕をするという幸福の状態、完璧なる状態へたどり着くことこそが、まさにゴールなのです。そして、とても健全で統合され調和の取れた人間、とても幸福な人間だけが、真の意味で与え、愛し、そして助けることができるのです。したがって神秘主義が目指すものとは神そのものだということになります。しかしその理由は、神との統合が言い表せないほどの幸福であり、想像できないほどの至福であるからではありません(もっともこれは素晴らしい副産物ではありますが)。そうではなくて、人生の一つひとつの小さなことの中に宿っている神の意志を完全に全うすることで自分と共に生きる人々や生き物に奉仕し、そしてまたそれを通して神に奉仕するのです。魔術とは単に、霊的な力の探求です。白魔術師であっても、魔術師が目指すものサイキックな力の探求と使用です。確かに、白魔術師はその力を良い目的のために使うでしょう。しかし魔術では、サイキックな力をコントロールすること以上のことはできません。神秘主義者の意志は、その究極のゴールへと向かう道の途上で、魔術師のそれと同じサイキックな力と遭遇します。その力を使うこともときにはあるでしょうが、彼の目指すものは彼のマインドの中では常に明確であり続けるのです。魔術の魅力は大きな誘惑となり彼の道を見失わせ、使うべくして学んだそのパワーを誤用してしまう危険性をはらんでいますが、神秘主義者が本来の道から逸脱することはありません。真の神秘主義者であれば、驚きに満ちた革新的な経験が道を見失わせることはないのです。神秘主義の道を歩みだす人はたくさんいますが、それを放棄してしまう人もいます。なぜなら彼らは、その道のどこかの時点で使えるようになる魔術の力にあまりに強い影響を受けてしまうからなのです。
質問:オカルト主義についてはどうですか?
答え:オカルトとは、「隠されている」ことを意味します。その言葉は単に、あなたにとって未知のものや科学的に証明されていないもの、もしくはあなたの世界と私たちの世界との間のカーテンがまだ閉められている場所を表しています。20年前、原子力エネルギーはオカルトでした。
質問:エクスタシー(恍惚状態)とは何ですか?
答え:恍惚状態において人間は、神聖なる力、神聖なる存在、もしくは神でさえも経験します。これは簡単に起こることではありません。しかし本気で神秘主義の道を進み続けるとき、この状態が起こる瞬間が訪れるのです。
質問:それは、ドラッグを使って経験することもできますか?
答え:その方法では不可能です。それは偽のエクスタシーです。あなたの世界では、些細で意味のない「エクスタシー」があります。例えば素晴らしい料理を食べたとき、ついでに素晴らしいワインを飲んだとき、あるいは他のことでも何かをとても楽しんでいるとき、あなたはそれを恍惚の体験と呼ぶことがあるでしょう。それは単に、程度の問題なのです。一方で、私の言うエクスタシーは人工的な方法で引き起こされることは決してありません。そして本当のエクスタシーを経験した人だけが、神を体験することによる恍惚と、それ以外の、地上または天国で感じる恍惚の違いを確かめることができるのです。その違いは途方もなく大きなものです。このエクスタシーは、想像や潜在意識とは全く関わりがありません。もっと言えば、人工的な手段を用いて再現することも不可能です。人工的なエクスタシーなど、完全に無益で、非論理的で、宇宙のすべての法則に反していますから、貧しい代用品、それも最低なものを手にすることしかできません。個人的な努力や成長、浄化を通じてのみ、真のエクスタシーが起こるのです。あなたのハイアーセルフがローワーセルフの層から解放されるとき、神聖なる力と一つになれるほど強く輝きます。そうやって神聖なるエネルギーが流れ込むための準備が整います。それから、真のエクスタシーが起こるのです。他の方法では起こり得ません。
質問: 喜びに満ちた状態に向かってゆるぎなく継続的に自分の人生を向上させていくことが真のエクスタシーを証明することになるのではないでしょうか?
答え:もちろんその通りです! ただ、継続的に自分の人生を向上させていくという道のりは、たいていの場合エクスタシーに到達するずっと前から始まるものです。浄化と完璧の道を真摯に歩む人は誰でも、それらが確かに向上しているのを感じられる地点まで必ず到達します。それは比較的短い時間で、おそらくあなた方人間が思っているよりももっと短い時間で起こり得ます。この状態は、まずその人の精神状態の中で起こり、そのあとに常に明確な形となって外側に顕現します。そのプロセスの中で、避けることのできない試金石につまずくこともありますが、全体的に見れば、ゆるぎなく継続的な形での真の向上への道のりは、エクスタシーの状態に到達するよりもずっと前に、もっと言えばサイキックな力の探求よりずっと前に気付くことができます。
質問:あの世へと旅立ってしまった人々が、まだその人の子どもたちや親族たちへの愛情を持ち続けているのかどうかをお聞きしたいです。
答え:これは、「はい」とか「いいえ」で答えられる問題ではありません。亡くなった人個人によるところが大きいからで、一般論として話すことはできないのです。もちろん死ぬまでずっと愛と共に生き、死後も親族との長年に亘るつながりを感じているスピリットたちは存在します。かといってこれが必ずしも良い状態であるとも言えないのです。霊的な発達が進むにつれて、その存在は親族や過去の縁から自己を切り離すことを学んでいきます。これが愛の終わりを意味しているわけではありません。しかし、霊的な成長とは、近しい者への親愛の情だけでなく、すべての創造物が徐々に一つの愛の中に含まれることを意味しているのです。霊的に未熟な人は、愛することを少しずつ学ばなければなりません。成長が進むにつれて、人はますます一つの愛の内に含まれるようになるのです。正しいやり方であれば、より多くの人を愛したからといって、少数の人への愛が減るわけではありません。あなたはまた、「スピリットの世界に戻って最初に出会うのは、この人生でめぐり会った全ての愛しい人たちだろう」と考えているに違いありません。そしてあなた自身の意図と望みによって、あなた方が死と呼んでいる瞬間の状態に居続けることになります。しかし、あなたがより高みへと成長し始めると、たくさんのスピリットたちと出会うようになります。その中には、過去生でとても親しかったスピリットだとか、もしくはこの地上ではなく別の次元にいるときに親しかったスピリットもいることに気づくでしょう。あなたはそこで、つながり、愛していたものたち、そして古い友人たちを再発見するのです。そして、もはや転生が必要でなくなるとき、現時点では少数の人々にだけ送っている愛が、すべての創造物への愛になります。。つまり、亡くなった後もなお生前に関係があった人々に対し強いつながりを感じているスピリットもいれば、このような愛を持ちながらももはやそれに縛られていないスピリットもいます。そういったスピリットは別のタスクに向かって進みます。そしてその方がはるかに良い状態なのです。
質問:霊的な世界においても、スピリットたちは彼らのいた国や名前にいまだに縛られているのでしょうか?
答え:前の質問に対する答えがここでもあてはまるでしょう。それは本当に、人それぞれなのです。もちろん、現世に執着のあるスピリットたち、もしくはまだあまり発達していないスピリットたちは、世俗的な束縛を手放せないことが多いものです。生前の熱狂的な愛国心、家族のプライド、職業など、束縛されるものが何であれ同じことです。死んだら自分の存在のあり方が変わってしまうのは、肉体を抜け殻のように現世においてきてしまうからだ、と想像すべきではありません。あなたの人格全体、思考、感情、あなた自身の深いところに根ざしている物の見方、特異な性質や強迫観念、こういったものはどれも、死んだときに抜け殻となるあなたの体の一部分ではありません。それは、死後も生き続けるあなたのオーラ体の一部なのです。今あなたの人格がどのようであれ、死後も同じ人格となります。そのため、例えば熱狂的な愛国心を持っている人は、亡くなった後も同じようにその感情を持ち続け、それゆえにその感情に縛られることになるのです。ですが、自分自身をそういったことから切り離し、そして物事をより広い視点から見始められれば、その人はより良い形で死後の世界での霊的な進歩を遂げることができるでしょう。導きを受けることがもっと容易になり、より喜びに満ちた人生を送ることになるのです。もしあなたが恐怖の状態の中で死んだとしたら、死後も恐怖の状態の中にいることになるでしょうし、穏やかな状態で死んだならば、死後も穏やかであることでしょう。死ぬ瞬間の状態がどういうものだったにせよ、あなたは死後も感じ、経験し、生きているのです。そしてそれが、あなたの世界となるのです。なぜならあなたの考えや意見、感情、そして態度が、あなたの周囲の世界を創り出すからです。これを精神的世界だと言うこともできますが、だからといってファンタジーの世界だと言っているのではありません。現実なのです。あなたにとって、抽象的な考えとは、形を持たないものなのでしょう。しかし、霊的な世界においては、抽象的な考えもすべてその形を持ち、実体を伴っています。このようにして、それぞれの個人がそれぞれの人格によって、その世界を構築するのです。
質問:今おっしゃったようなことは、天才ではあるけれども例えば……スプートニク(旧ソ連の人工衛星)を発明したような人にも当てはまるのでしょうか? つまり、良い目的を果たしているとは思えないような場合のことですが。
答え:親愛なる友よ、どんな人にも適用されるのです。天才が何か偉大なものを発明し、それを悪い目的のために使ったとしても、それとこれとは別の問題です。もちろん、最終的には考慮に入れられるでしょう。そのときには、その人の本当の、そして最も深い部分の動機が明らかにされ、言い訳や正当化のための弁明はそこに存在することはできません。その人は、人間世界ではありえないほど厳格かつ深遠な方法によって裁かれることとなるのです。今私たちが議論しているのは、死後にどのような状態になっているかということでしたね。そう、もちろん、さっきの話がここでも当てはまります。すべての人に適用されるのです。その人は、今自分が、自分を導いた本来の動機とは違った動機を持っていることを知っていたかもしれません。このような間違いもまた、それに見合ったものを作り出します。しかし、死後の世界でいつ、何が、どのように裁かれるのかを人間が見極めるのは不可能です。例えば、ふと何か漠然とした考えが浮んだとしても、一体何が今お話ししたようなことに関わってくるのか、あなたには知りようもないのです。あなたが、他人の魂を本当に覗き込むことはできませんし、その人の発達や過去生、現在持っている内面的・外面的な障害物、その人の価値などをあなたが知ることはできません。あなたに見えているのは、本当に小さな小さな部分だけで、残りの物語はすべて隠されていてあなたには見えないのです。
質問:自分のいた国に強い愛着を持っている人は、同じ国にまた戻ってくるのでしょうか?
答え:それは、スピリットとしてということですか? それとも来世でということですか? (質問者が「両方です)と答える)その人によるでしょう。スピリットとしてであれば、戻ってくることはあるかもしれませんね。もしもその人が地上に強い執着がある、もしくはまだどこにも属さないスピリットである場合(つまり神聖なる世界に属していないということですが)、その人は行きたい場所へと行くことのできる自由をある程度持っているので、おそらく執着を持っている場所へ行くことを選ぶでしょう。何であれその人の中で一番強いものによって、死後の世界でのその人の運命が決まるのです。もしもその人の神に対する愛が他の何よりも強かったならば、この愛を通じて、生きていたときに自分がいた国への執着に打ち勝つことができるでしょう。しかし、もし国を愛する心が何よりも強いならば、これがその人の運命を決定するのです。何らかの理由から、行動の自由が制限される場合もあり得ますが、今それを説明すると話が複雑になるのでやめておきましょう。もしもスピリットが故郷へと戻る場合、どのくらいの間そこにとどまるのかについては、これもそのスピリットの姿勢によります。人はいつでも、自分の姿勢を変えることでよりよい方向に進むことができるのです。もちろん、スピリットが神聖なる力の秩序の中にいて、ある国やその人々に対して全うすべき任務を携えてそこに行く場合はまた別の話です。しかし、そうではなくて、あまりにも強い執着のために自らその国に行くという場合、そのスピリットが幸福になることはないでしょう。転生に関して言えば、スピリットが同じ国に転生することはほとんどありません。妥当な理由があるときに時々起こる程度です。しかし、先ほど取り上げた愛国心の強い人のようなケースにおいては、その人が執着を持っている場所以外の他のどこかで生きることに、もっと理由があるのです。それはおそらく、その人が前世で最も嫌っていた国かもしれません。なぜなら、転生のサイクルの理由は霊的に成長し完璧になることで、そしてこれがまだ欠けているときには必ず、変化に富んだ経験を通じて調和が起こる必要があるからです。
親愛なる友人たちよ、みなさんに祝福がありますように。みなさんが神の内にありますように。
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