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Pathwork Guide Lecture No. 19 イエス・キリスト JESUS CHRIST UNEDITED版 1957年12月20日

 神とキリストの御名において、みなさまにご挨拶を申し上げます。私の友人たちに、どうぞ祝福がありますように。そしてともに集う今このひとときにも祝福がありますように。さて親愛なる友人のみなさん、ここ数ヵ月に渡って、今ここにお集まりのみなさんにお話ししてきたわけですが、イエス・キリストとは誰なのか、彼が為し得た御業とは何だったのか、という点についてはこれまで話したことはありませんでした。キリストの生誕を祝う時節を迎えるにあたり、まさにふさわしいこの主題を選びお話ししましょう。

 この時節、キリストの光はこの地上をあまねく照らし出します。地上だけではなく、霊的世界においても燦然と輝きます。「霊的世界には、時間なんて存在しないのではありませんか」とおっしゃるかもしれません。確かにその通りです。けれども、地球での感覚よりはるかに長く続くこの時節のことについてみなさんに説明するのは難しいのです。みなさんの使う暦の上での1年と同じように、霊的世界においてもある一定の期間を経ると、今までになし得た中でも最も偉大な行いを記念すべく、キリストの光が新たなる力を携えて再来するのです。この光の強さとその貫く力、その威光は想像をはるかに超えています。大いなる祝福と喜び、幸せと叡智が光によってもたらされています!なぜなら、叡智と光はひとつなのですから。人間の言葉ではそれを「光明(enlightenment)」と呼びます!霊的世界では、光と知、そして光と愛はすべてひとつ、同じものなのです。そしてこの時期、キリストの光は闇の領域の最深部をも貫いて、わずかなりとも暗がりの世界の一部を照らし出します。それは一瞬の煌めき、ささやかな微光、刹那に垣間見える光に過ぎないかもしれません。けれども、光は流れ込み、そしてこの時期、闇の世界に住む存在がこの光と出逢い、その光に対して異なった反応を示します。霊的に進化する準備が整った人たちは光を歓迎し、光に従います。まだそれほど進化していない存在は尻込みするでしょう。その光は、彼らがとても耐えられないような激しい痛みを引き起こすのです。ですから、自らの内側に光を見出すことができた人であれば、闇の世界の存在たちから守られるのです。なぜならば、内なる光はキリストの光とひとつであり、同じだからです。

 さて、キリストとは誰なのでしょうか。キリスト教の中には、彼が神なのだと主張するものもありますがそうではありません。キリスト自身が聖書の中で自分は神ではないと言っています。彼は天なる父でも創造主でもありません。イエスは、歴史的に名を知られる数名の人物と同じく単なる賢者、偉大なる叡智を携えた偉大なる師であり、別の時代に他国に生きた数名の人物以上のものではない、という人もいます。これも間違いです。友人のみなさん、信じようが信じまいが、私は今真実をお話ししているのです。イエスという人間は、キリストの生まれ変わりなのです。そしてその霊は最高次、あらゆる被造物の中で最も高貴です。彼は神が初めて自ら創造された、生まれながらに神を宿した創造物なのです。イエスの持つ魂の物質は、神と同じです。すべての人がこれと同じ魂の物質を持っています。私はそれをハイアーセルフ、あるいは聖なる輝きと呼んでいます。それは霊的成長の過程を通してゆっくりと開かれなければなりません。ところが、キリストとまったく同じ魂の物質を持つ被造物など存在ません。それほどの違いがあるということです。

 「どうして彼なのか?彼が神の子であるなら、我々もまた神の子ではないか。なぜ彼のほうが優れているのか?あるいは、高貴で高次の存在だというのか?なぜだ。不公平じゃないか」と、人が何度も考えたり、感じたりする理由を私は理解できます。意識の上で考えているわけではなくても、このような考え方や感じ方が、多くの人々の魂の奥底に隠れています。まさにこの同じ思考の中に、堕天使の起源があるのです。この思考、この姿勢こそ、物質として地球が存在するようになる遙か昔に始まり、不調和と悪が存在するに至る原因となったのです。確かに、当時そうした考えを抱いた者は、誰ひとりとしてその態度の持つ危険性や、そのような態度がもたらし得る結末について少しも理解してはいませんでした。このような嫉妬心の奥には、神そして神が与えてくれる無限の愛に対する不信が潜んでいることに気づきませんでした。神はその初めての息子を最高次の存在として神の魂の物質のほとんどすべてを与えましたが、もしあなたが創造主が受けてしかるべき信頼と信仰を持っているならば、それが不公平であるとか、自分にはもともと何か足りないものがあるなどとは考えないはずです。今日では、ここまで極端に考える人は少ないかも知れませんが、多くの人の中にあるキリストへのわずかな抵抗感こそ、堕落の萌芽、悪の種子を表しているのです。

 イエス・キリストはいかなる意味において人類を救ったのでしょうか?キリストの御業はなぜかくも偉大なのでしょうか?たった一度の転生、この地球での彼の生にはどんな目的があったのでしょうか?教えを広めることだけが、彼がこの生で目指したことではありませんでした。その教えは真実で美しいものですが、形こそ異なってはいるものの根本では同じことを教えている他の教義を見つけることができます。ですから、教えを広めることが唯一の目的ではなかったはずです。イエスの人生の第二の目的、これもまた主要かつ最重要のものではありませんが、それは彼自身の生と死を通して、天の王国を取り戻したいと願う一人ひとりの人間に対して、成長の道筋と段階を象徴的に示すというものです。さまざまな試練、逆境の中でも神への信仰を持っていること、虚栄と身勝手さに満ちた個人的エゴを十字架にかけること --- これらはすべてキリストの肉体によって象徴されています。イエスの霊の復活は、エゴを十字架にかけたあとにもたらされる、霊的な存在である個々人が享受することのできる永遠に続く無上の喜びと幸福を示しています。それは苦痛を通してしか起こりえないことなのです。しかしながらこれとて、イエスが引き受けた使命の中では最重要のものではありません。ここで述べた二つの目的は、彼が達成しなければならなかった本当の目的の副次的なもの、付随したものと考えられます。いつか、どのような意味において彼の主たる使命が救済であったのかについてより詳しくお話します。なぜなら、彼は真に救世主だったのですから!現時点では次の事実だけをお伝えしておきます。もし、イエスが失敗に終わっていたら、別のスピリットがその目的を遂げようとしたでしょう。彼が使命をまっとうする確証が事前にあったわけではないからです。けれども、彼が最もふさわしかったし、もしこう言ってもいいのであれば、当然の結果だったというわけです。誰かがこの地に降り、たった独りで、聖なる守護のないときにも、悪そして自らの自由意志の誘惑をしりぞけ、これらの苦しみに耐え抜かなければならなかったのです。そうすることによってのみ、この霊的法則が破壊されることなく存続でき、公正さの中で、たとえ悪の力に向いているとしても、個々人が神へと戻る道を見つけることができたのです。神こそ力です。その力を持ってすれば不可能はなく、自らの法を破ることさえできます。けれども、神が自らの法を破ってしまうようなことになれば、まだ神のもとに戻る道を見つける準備ができていない無数の生き物たちは、永遠に神そして永遠なる命という祝福から切り離されてしまうことになったはずです。そしてそれはあなたをも含んでいたかもしれないのです。この広大で緻密な救済計画によってのみ、すべての人、堕ちたるものの最後の一人までもが、いつか神のもとに戻る道を見つけることができるのです。今私が話した言葉を聞くだけで理解するのは難しいかもしれませんが、いずれさらに詳しくお話しすることを約束します。けれどもこの使命が、どれほど重大で厳粛なものであったか、ということをみなさんに知ってもらうには今はこれで十分だと思います。この方法だったからこそ、誰も神が公平ではない、偉大ではないと言うことはできないのです。誰も、神が私たち一人ひとりに与えた自由意志を侵害するためにこのパワーを使ってきた、などとは決して言えないのです。そしてこれはそのような使命が果たされたからこそであり、つまりは自由意志が破られることなく、そのパワーが不当に使われることもなかったからなのです。イエス・キリストによって、このことは完璧に証明されたのです。

 自然に次のような疑問が心に浮かぶかもしれません。「私たちは神を見つけ、そして神にたどり着くことはできるのだろうか?イエス・キリストを通してでないと、それは成就できないのだろうか?」友人のみなさん、その答えはイエスでもありノーでもあります。どちらの答えも正しいという一見矛盾しているかのように思えることがありますが、これはそのようなケースのひとつです。これが何を意味しているのかを説明しようと思います。この世界にはキリスト教ではなくても偉大なる宗教があり、その一つひとつ、どれを通しても究極の真実を体験するという段階まで成長を遂げることはできます。そして神の世界に住むいかなるスピリットも、あなたにあなたの教会、寺院、そしてあなたの信仰を離れなさいということはありません。あなたがもし、自分の幸せのために必要なもの、あなたが慣れ親しんだ信仰から得る霊的な栄養をそこに見出しているならば、そこに留まればいいのです。そこには、基本的かつ根本をなす真実、そしてあなたが霊的に成長するために必要なものが十分に含まれているのです。すでに言ったように、それはすべての偉大なる宗教の中にあります。自分の成長のために必要な、これらの真実とは何かを見つけ、その真実を実践するのはあなた個人の選択なのです。私が、信仰に対する満足と言うときに意味することは、表面的な良心を満足させることではありません。それでは十分ではないのです。それは、あなたのスピリット、ハイアーセルフを満足させなければなりません。そしてこのハイアーセルフは、たくさんのことを要求してきます。けれども、あなたの信仰する宗教の教えに従い、そこで本当に大切なたった一つのこと、つまり自己を知ること、自己を浄化すること、そして完全に自分に正直であること --- これがないと浄化は不可能です --- を学び実践するならば、そのときあなたが属し、あなたが選んだ宗教はあなたのスピリットを満足させるでしょう。浄化、つまりローワーセルフを十字架にかけること、それこそがたった一つの、何よりも重要なことなのです。そしてこれを成し遂げるための必要な助け、ガイダンス、インスピレーションを見つけられるなら、自分の信仰する宗教でキリストを認めないとしても、それはそれほど問題ではありません。自分を浄化することだけで、あなたが自分の意識を向上させ、その分だけあらゆる側面において真実に対して開いていることになります。その真実とは、キリストが創造の歴史において担った役割、あるいはそれに関するすべてについての真実です。ですから、この観点から、イエス・キリストを今すぐに認め、イエス・キリストを通してでないと神に到達することはできないのか、という疑問への答えは「否(ノー)」なのです。言い換えれば、いかなる疑問でも、完全なる真実への理解は、このような自己浄化のプロセスを経なければ起こりえないことで、その真実へと至るための何らかの因子は、この生を生きる間に来るかもしれないし、もっとこの生を終えたあとにもたらされるかもしれません。いずれにしても、悲しいかな、この自己浄化に取り組む人はほとんどいません。難しいけれどもこの自己浄化のプロセスを通り抜ける人は、完全なる真実をすべての側面から受け取り、経験する下地を準備しているのです。いくらかはこの転生で起こるかもしれないし、ある特定の状況があるためにその転生を生きたのちに起こるかもしれません。しかし、この下地は準備されなければなりません。つまりは、浄化を通して完全に至る、ということを意味します。魂の中に、たとえば頑固さが存在する限り、その頑固さが何に対するものであっても、完全なる真実を体験したり知覚することは不可能です。なぜなら、この頑固さ、そして身勝手さこそがあなたの意識を高めるのを妨げているからです。それはすべての不完全さが妨げとなるのと同じです。創造と神に関するいかなることも、その純粋な真実を知る準備ができているのは、自分のローワーセルフを十字架にかける人のみである、ということはどれほど強調しても足りないぐらいです。キリストこそが救世主であり、キリストがすべての創造物の中で最も最高位にあるという事実は、あなたがそれをどう思おうとも、偉大なる真実、そして創造の歴史の非常に重要な部分です。

 友人のみなさん、だからと言ってキリストに祈りを捧げるべきだと言っているのではありません。それは違います。祈りは、神に、創造主のみに捧げられるべきです。けれども神があなたに望むこと、少なくともある程度まで完全性を得て、成長していれば持っているはずのもの、それはキリストその人への感謝の念です。キリストの功績がなければ、誰も神聖なる光に戻ることはできず、神がそう決めたときにはまだ準備ができていなかった者たちが、神へと戻る流れが断ち切られていただろうからです。どこかの時点で、かならずその時はきます。たとえまだそれに対して準備ができていない人がいても、他にも成し遂げられるべきことがまだ残っているにしても、私が言ったように、それが他の宗教のもとでなされるにしても、組織化された宗教のもとでなくても、偉大なる功績へのこの感謝の念は、決してなくなることなく、あなた方を満たし、しかるべきその人に向けて感謝の念は捧げられるでしょう。そしてそれは神の意志なのです。忙しさにかまけてキリストをおろそかにすべきではありません。あなたが仮に「正式に」キリスト教を認めていないとしても、これらすべてを考えてみるべきです。すべての宗教が自己浄化を可能にするに足る真実を有しているように、宗教の中にはまた間違いもあります。ですから、大切なことは、あなたのスピリットが求めること、あなたのハイアーセルフが望むことに沿って進むことです。そうすれば、あとのことはおのずとついてくるでしょう。けれどもだからと言って、自分のハートを開くこと、そして神の次に最も恩のある人(キリスト)をわきに追いやって忘れることはないようにしてください。私の言っていることをみなさんが理解したことを願います。私が言ったまさにこの言葉を、本来私が言いたかったこととは違った意味で解釈しないでください。

 ユダヤ教とキリスト教が分裂する必要はどこにもありませんでした。これは決して神そしてスピリットの世界が望んだことではありませんでした。これが起こってしまったのは、人間のせいです。人間がこれらの名前やラベルをつけて特別な意味合いを持たせたのです。私たちにとっては、ユダヤ教もキリスト教も、あの宗教もこの宗教も、何の意味も持ちません。キリストがイエスとしてある時期にある人々の間に誕生したとき、それにはしかるべき理由がありました。それはたったひとつの真実が広がり、発展することであり、そこに分裂などあるはずがなかったのです。分裂はカオス(混沌)です。分裂は堕天使の本質です。あるいは、その堕落の結果で、すべての苦悩と憎しみをもたらしました。分裂は神からの分離であり、地球が存在する遥か昔に起こったこの最初の悲劇は、やがていつの日かこの病が永遠に治癒されるまで、幾度も繰り返されているのです。神との統合、それは目的でありゴールです。統合は、分裂と分離の対極にあります。そしてもしユダヤ教とキリスト教の間にあるこの分裂が、イエスの生涯のあとに起こっていたとしたら、それはやはり人間の過ちであり、最初の分裂の悪の根源と同じところから派生しています。ユダヤ教とキリスト教の間にはワンネスがあるべきでした。それをどう呼んでもかまいませんが、すべてがひとつという全体性、ひとつの完成されたものです。ゆえに、キリストはあなたが神へと戻るためのこうした重要な役割を担っており、あなたからの感謝の念を受けるに値するのです。というのも、キリストは真の意味でみなさんが持つことのできる最善の友であり、最強の介助者なのです。結局のところ、キリストがいなければあなたは神へと至ることはできないのです。そしてこの意味において、キリストを介してのみ神へと至ることができるのか、という質問への答えは、「イエス」です。この事実を否定し続けることは、あなたのハートの頑固さを暗に示しています。そしてその頑固さは不完全さの現れで、いかなる不完全さだとしても、それらが自分の中にある限り、あなたは神とひとつになることはできないのです。

 さて、友人のみなさん、ここでみなさん一人ひとりに言っておきたいことがあります。あなたが何の宗教を信仰しているかということは本当に関係なく、あなたのハート、そしてマインドを開いてください。広い心を持つのです!すでに申し上げている通り、慣れ親しんだ信仰を捨てないでください。そうしたいと思わない限り、その必要はないのです。けれども、たとえもしこのようにあなたに話しかけているスピリットを、そしてこの地球にいるあなた方が持つことのできない、単なる意見ではない事実としてのこの知と洞察を持つスピリットの世界にいるスピリットを信じないとしても、私があなたに述べたことがもしかしたら真実なのかもしれない、と考えてみてください。あなたが疑いを持っているとしても、おそらくここにいるほとんどの人がいくらかの疑いを持っていると思いますが、もしかしたら本当にそうなのかもしれない、あなたの父親や先祖、あなたが信頼し、あなたの人生に影響を与える人たちが言ったことが完全に正しかったわけではないかもしれない、ということを考えてみてください。確かに、真実というのはどこにでも存在するので、そこにはいくらかの真実がありました。けれども、人間で誰一人として完全なる真実を手に入れた者はいません。そして霊的な探求を続けるあなたが、真実への扉を開くのです。その真実がどちら側からあなたに示されようとも。頑固さにしがみつかないでください。これを「降伏すること」だと信じないでください。あるいは、「個性の欠落」を表していると信じないでください。それは何という未熟な考えでしょう!ここではそんなことが問題ではないのです!問題は常に、「何が真実か?」です。つまり、神が真実です。叡智と愛もまた真実です。あなたがもし愚かで頑固で、子どもじみた考えのために真実を否定するなら、つまりあなたは、少なくとも自分の中のどこかの側面において、神を否定することになるのです。そしてこれだけが重要な問題なのです。他のどんなことも問題ではなく、どれほど上っ面では高尚な動機を持っており、表面的に美しく見えていようとも、その人のローワーセルフの一部でしかありません。

 さて友人のみなさん、みなさんにメッセージをお伝えしましょう。これは少し別のものです。しかしながら、このメッセージがどなたに向けてのものか、名前を示さないでおきます。それには十分な理由があります。けれども注意深く聞けば、そしてまた魂で聞くならば、このメッセージが誰に向けられているのか、自分だけがわかるでしょう。「これは自分へのものだ」と。おそらくこのメッセージのいくつかの部分は、最初は少し混乱を招くかもしれません。けれども自分自身を注意深く探求すれば、しばらく経つと最終的に腑に落ちて理解できるようになるでしょう。そして、あなたは注意深く探求すべきです。なぜならばそれが必要だからです!

 ここにおられるある方に申し上げます。あなたは傷ついていますね。深く傷ついています。真の悲しみの中で傷ついています。幸い、あなたの中に苦しみはありません。あなたはひどい扱いを受けてきました。そしてこれがあなたに深い傷を負わせました。けれども、あなたにがんばれと言いましょう。あなたの魂を傷に向けるのです。苦しみや憤りなしに傷を受け止められれば、それは魂に与えられる素晴らしい薬となります。もしあなたがその薬を正しく摂り、苦しみが忍び込むのを許さなければ、それはあなたの魂を害することは決してありません。それはあなたを強くさせ、闇がふたたび姿を消した後には、新しい喜びがあなたのハートの中にもたらされるでしょう。そしてあなたのために太陽もまた再び輝くことでしょう!神があなたを見捨てたとは思わないでください。ひとりぼっちだとは思わないでください。友よ、これはあなたが通り抜ける必要のあるトンネルです。この言葉は、あなたが背負っている重荷を運ぶのを助ける小さな光を与えるでしょう。あなたが理解してくださったと思います。

 もう一人の友よ、あなたにもお伝えしたことがあります。ここに一人のスピリットが来ていて、その人の妻に挨拶をしています。長い間、その人を待ち望んでいて、その人からのサインを待っていましたね。その人が妻に、次のようなメッセージを伝えています。彼はスピリットの世界で幸せにやっています。彼は働いており、懸命に学んでいますが、とても幸せです。そして多くのことを学んでいます。ここでの生活に合わせることは彼にとってはそれほど難しいことではありませんでした。というのも、彼は霊的真実に対して常にオープンでいたからです。けれどもまだ、彼にはたくさんの学ぶべきこと、再調整し、自分自身の中で、そしてまた彼の過去生との関連の中で、認識すべきことがあります。そのときには彼にとってもあなたにとっても大して重要に思えなかったことが、今違った意味を持ち、反対に重要だと思っていたことが、彼の新しい物事の見方からはまったく重要ではないのです。彼は今3つのことを妻に尋ねています。まず、生きている間に、ささいではあるけれど、やむにやまれず傷つけてしまったことを許してほしいと言っています。あなたは、私はすでに許しているし、今はそんなささいなことを考えることもない、と言うでしょう。それはわかっています。けれども、これらの「ささいなこと」は、その人の魂の中でより重要なものとして現れていて、今の彼にとっては重要なことなのです。したがって、彼はあなたが表面上は許したかもしれないそのことがとても気にかかっています。おそらくそれらのことは潜在意識の中で何らかの跡を残したと思われます。次に彼が伝えてほしいと言っていることは、先に言ったことと逆で、あなたが時々折に触れ感じている「私はこうすべきだった、ああすべきだった」というのはよくないということです。こうすれば、ああすればもっと彼を幸せにできたはずだとあなたが考えることは、自分を拷問にかけていることで、それはやめるべきなのです。表向きの良心でだけでなく、内側の深いところで考えることもやめるのです。最近はあまり考えなくなってはきていますが、それでもまだ彼を思うときにそのような考えや感情があなたの中に浮かび上がるときがあります。彼が伝えてほしい3つ目のこと、それはあなたの目に巻いている包帯を取ってください、ということです。もっともっと見やすくなります。目隠しを取るのです。何度頼んでも十分だと言えないほどに、本当にそうしてほしいのです。

 もう一人、メッセージを受け取ってほしい人がいます。そのメッセージを、あなたは長い間探し続けてきました。あなたは、この道、そしてあの道と歩んできました。たくさんのことを見つけ、そして学んできました。それなのに、まだあなたの心の中には真の平和がありません。けれども、あなたは自分が成長したことでいくつかのことを成し遂げました。だからこそ神はあなたがさらに先に進むため、助けてくださっているのです。あなたに別の道を示してくださっています。あなたを助けようと差し伸べられたその手を拒まないでください。なぜなら、その方法でのみ、あなたは出てくることができ、真に光の中にいることができるのです。そして認めようが認めまいが、まだあなたを包んでいるすべての闇を捨てることができるのです。親愛なる友よ、これしか方法はありません!それは、自分を認識すること、ローワーセルフを十字架にかけること、これらを通り抜けていくだけです。この方法しかないのです。そして自分一人でそれをすることはできません。それができるほどに強い人などいないのです。この転生のチャンスを逃さないでください!友よ、どうぞ逃さないでください!このように表現しましょう。あなたの手の中には、すべてのトランプのカードがあるのです。あなたはたくさんのことを成し遂げてきました。いつか「なぜ、本当になぜ私はこれをしなかったんだろう?」と言ってしまうような、そんなことを許してはなりません。それはあなたが考える、半分も悪いことでも難しいことでもないのです。どうぞそれに懸命に取り組んでください!これは急を要する呼びかけです。

 そしてもうひとつ、ハートがたくさんの喜びであふれている親愛なる友人のために、メッセージがあります。このように申し上げましょう。もし物事があなたがそうなってほしいと思うようには行かなくても、どうぞがっかりしないでください、と。それもまた、学びの一部なのです。そして必要なことでさえあるのです。その中には隠された結び目があります。正しくそれを通り抜けると、それがなぜなのかを見つけるでしょう。とはいえ、あなたにとってはすべてがうまくいくでしょう。

 私が特別なメッセージ、心に触れる個人的なメッセージをお伝えしなかった、ここにおられるすべての方々に申し上げます。今あなたのすぐ近くに、スピリットの世界に住む愛する者たちがいます。ふだんはこの輪の中に来ることのない、たくさんのスピリットたちが今晩ここにきています。彼らは、学ぶために、そして彼らの愛する者たちに愛を届けに、彼らのガイド、教師、あるいはガーディアンたちに導かれてきたのです。もしあなたが自らの内側を静かに保ち、感じることを許せば、みなさんそれぞれに誰が来ているのかを感じることができるでしょう。このようにして、誰が来ているかを知ることができます。特に言いたいことがあると伝えている父親がここにいます。彼は自分の子どもに、自分は今比べ物にならないほどよくなっていると伝えたいのです。もう以前の暗闇ではない、そして彼は自分の子どもに感謝しています。この部屋にはたくさんの生物もいます。今私が言った、愛する者たちだけでなく、友人たち、みなさんの親類たちもいますが、特に神の使いの天使たちがこの夜を祝福しています。その祝福によって、みなさんがスピリットの世界からの贈り物を家に持ち帰ることができるから、そして魂の内でその霊的な贈り物を育てることができるからです。けれどもあなたはその贈り物を大切に世話し、育てなければなりません。そうすると、それはあなたに新しい方向性を与え、人生における足がかりとなる強く美しい何かへと育つでしょう。それは今までのあなたにはなかったものです。

 さて、それでは親愛なるみなさん、質問にお答えしましょう。

 質問:私が聞こうとした質問はすでにこの講義の中で答えていただきました。その代りに、世界の半分、おそらく半分以上の人はキリスト教徒ではありません。いつかこの人たちもキリストを信奉するようになるのでしょうか?

 答え:それについてはすでに講義の中で答えました。すでに話したとおり、すべての存在は、どの宗教を通しても個人的な完成を遂げることがでます。もちろん、宗教にしがみつく人もいます。それは表面的な良心を満足させるため、自分で自分の義務は果たしたと言いたがるためだったり、実際には霊的に怠け者だったり、あるいは自分の考えを持つことができないために群れの中の羊でいようとしたり、どちらも考えられます。ここではこのような人たちについての議論は控えますが、キリスト教でもそのほかの宗教でも、このような人は必ずいるものです。しかしながら、真剣に真理を求めて成長しようと願っているのに、ハイアーセルフが表れることを許さず、ローワーセルフがハイアーセルフの努力を台無しにするのを許してしまったら、半分の努力しかしていないことになります。つまり、信仰する宗教のルールに従うことや、ある種の高揚をもたらす美しくはあるが抽象的でしかないことについて瞑想すること、そのようなことはある意味では霊的に能動的ではあります。けれども、その人は真の霊的成長、つまり浄化に必要な唯一のことをしていないことになります。どんな信仰を持っていようとも、それをしない以上、この課題は将来の転生で達成されるべく持ち越されることになります。しかし、どんな信仰を持っているかは関係なく、これに取り組む人は、ついにはすべての点において真実に開かれた意識の状態に至るのです。たとえば誰かが仏教徒として生涯を終え、キリストの真実について少しも聞いたことがなく、そんな機会すらなかったとしましょう。けれどもその人が自分自身から逃げることなく、すべてのマスクをはぎ取るこのプロセスを通り抜け、すべての誤った動機を明るみに出したとしたら、生前の信仰と符合しようがしまいが、その人はスピリットの世界の偉大なる真実のあらゆる側面の中で自分を開いていることができるでしょう。しかし、心半分で、頑固さのような不完全さが残ったままでこの道を行く人は、スピリットの世界に行き、自分がどんな点において不完全なのか、それがどんな欠点であったとしても、そのことを学ぶための領域に留まることになります。そしていかなる欠点も、このことや他のことにかかわる完全なる真実と直接的に関連しています。スピリットの世界で浄化された状態になるまで、1回あるいは100回、何度転生が必要かはわかりませんがそのときが来るまで、そして魂が完全性へと到達するまで、真実は隠されたままでしょう。完全性が欠けた状態は、真実を知ることができるかどうかに直接関係するからです。けれども、この完全性へと至ると、すべての障害物は取り除かれます。問題は、天の王国にたどり着く前に、こんなことあんなことを受け入れなければならない、ということではないのです。これは非常に子どもじみた、原始的な考えです。問題はこうです。あるがままのものに対してオープンでいられなければ、まだ自分の内側に何か不完全なものが存在しているということです。そしてこの不完全さを克服しなければならないのです。わかりますか?

 質問:スピリットの世界では想像力の不足は個性の欠如と捉えられますか?そしてそれを克服するには、何をすべきでしょうか?

 答え:それは、この想像力の欠如がそれ自体どのように現れているのかによります。霊的な視点から見ると、完全性というのはもちろん想像力をも含みます。どんなことでも鍛錬することができるように、想像力もまた鍛えることができます。もしあなたが他者の立場に自分を置いて、それについて瞑想し、洞察と可能な限りの十全なる理解を与えてほしいと神に求めるなら、そしてもしあなたがこれに継続して取り組めば、他者への想像力が育つでしょう。しかし、もし単なる芸術的な想像力のみを考えているのであれば、それは誰もが手に入れられるものではありません。というのは、一人ひとり、違ったタスクと違った才能を持っているからです。同胞に対するある種の想像力は、完全性と成長によって必然的に生まれるものなのです。それゆえに、鍛えられなければなりません。

 質問:ここにいる私たちのような平均的な人間に、四次元や五次元を知覚する方法はあるのでしょうか?

 答え:親愛なる友よ、もちろんありますが、それは決して言葉を介してではありません。言葉では絶対にそれはかなわず、成長を通して、私がいつも言っている個人的成長を通してのみ可能なのです。そこまで自分の意識レベルを上げると、あなたはそれを、そしてすべての霊的真理、聖なる真実を感じ、知覚するでしょう。けれどもそれを他者に伝える方法はありません。そのようにしか知覚できません。

 質問:分裂について質問したいと思います。この分裂は人間の自由意志に起因していると理解していますが・・・

 答え:いいえ、それは人間が存在するよりずっと前の、スピリットの自由意志です。

 質問:ではなぜ全知全能の神がイエス・キリストを含め、今日に至るまでこれほど大きな苦しみをもたらす分裂を許したのでしょうか?

 答え:神がそれを許さなかったとしたら、自由意志はなかったでしょう。そして、霊的な生物は、自由のない生物のままでいては、決して神のようにはなれず、神とひとつにはなれず、神と結びつくこともできないのです。苦しみというのはそれぞれ個人のスピリットの自由意志によるものなのだから、この苦しみを通り抜けることに価値があるのです。そしてまた、神とひとつになるためにその苦しみを通り抜けることに価値があるのです。神とひとつになるためには苦しみを通り抜ける価値があるのです。けれども強制されたのでは、自由でない生物が神とひとつになることは決してできないのです。

 質問:「その果実によって汝はその者たちを見分けるであろう」と聖書にありますが、私たちはどのようにして霊的な道を歩む人を見分けられるのでしょうか?

 答え:友よ、これはあなたの非常に個人的な質問にかかわっていますね。このことについては個人セッションでさらに深く個人的に扱いましょう。今の時点では次のことだけお伝えします。それを見分けるのは主に直感です。ヒントになるような答えはたくさん与えることができますが、それで解決とはならないでしょう。なぜならば、あなたの中で問題なのは、もしかしたらそれが偽物ではないかもしれない、あるいは嘘ではないかもしれない、ということで、それこそがあなたの恐れていることだからです。あなたがすでにこの学びの道を歩むために必要だと知っていることを、あなたに言ってくる人がいるかもしれません。けれどもそれはただの知識に過ぎないかもしれません。ある人は、ひかえめで無口だけれども、その人の方がはるかに真摯にこの学びに取り組んでいるかもしれません。真実はその人からにじみ出る愛や誠実さ、調和、人生への深い喜び、そしてもちろんある種の叡智 --- 知性ではなく叡智と謙虚さ --- によって知ることができます。これらすべてのことを、脳だけではなく、ハートで判断しなければなりません。でも、あなたの中に恐れがある限り、ハートで判断することはできません。そういうわけで、この質問についてはいつか将来、おのずとその答えがあなたに示されるでしょう。

 質問:あなたは、キリストのスピリットは最高位のものとして創造されたとおっしゃいました。キリストのスピリットは例外的で、それほどに最高位であるために成長や転生を経る必要はなかったという意味に理解していいのでしょうか?

 答え:決してそうではありません。けれども、その点について言えば、これはキリストだけに限ったことではありません。スピリットの世界には、転生のサイクルを経験したことのないたくさんの存在たちがいます。転生したことのない者もいるし、ある使命を果たしに自ら進んで地上に来た者もいます。すべての存在たちが地球での生活を経験する必要はないのです。いわゆる天使の堕落に含まれていた者たちだけが、地上での経験を必要とするのです。キリストはもちろんその中のひとりではありませんでした。キリストは、すでに言ったように、神の最初の創造物であり、その直系です。神とキリストの間にある唯一の違いは、神は創造主であり、キリストはその創造物であることです。そうでもなければ、神とキリストは魂の物質、愛、そして叡智においてひとつです。

 質問:キリストは、人間として、彼がしなければならなかったこと、そして自分が誰だったのかの記憶を持っていたのでしょうか?すべてそれを知っていたのでしょうか?

 答え:のちになってある種の記憶がよみがえったこともありましたが、すべてを思い出したわけではありませんでした。もし彼がすべてを完全に知っていたとしたら、彼の使命があれほど困難でも、あれほど偉大なる称賛を向けられることもなかったでしょう。けれども、その一部を彼は知らなければならなかったし、徐々に学んだのです。

 質問:イエスの言葉「神よ、なぜ私をお見捨てになるのか?」というのは、どのように理解すればいいのでしょうか?

 ガイド:それこそが、イエスが人間として、彼の使命のすべてを知らなかった証拠です。彼はあの暗闇を通り抜けなければならなかったのです。彼が神として知っていることと同じようには、人間としてはすべてを知らずにこれらの過酷な試練を通り抜けなければならなかったのです。この言葉の中に、イエス・キリストが神ではなかったことを証明するものがあると主張する人もいます。さらに言うと、人間としてのイエスは、自分が何を通り抜けなければならないのか、そしてそれはなぜなのか、その確かな目的は何なのかを完全に知っていたわけではないということの証しなのです。この不確実さこそが、彼の試練や苦難がどれほど困難なものであったかということであり、それが計画の一部、使命の一部分でもあったのです。知性ではすべての事実がわからなかったために、彼の苦しみはそれほどにも激しいものでした。もし最初から彼がその全体像を知っていたなら、もっと容易だっただろうし、自由意志という要素もそれほど強くはなかったでしょう。神への完璧な信頼というものを、難しいながらも彼は証明しなければなりませんでした。そのことによって、他の者に手本を示しただけでなく、先にも述べたように、それは彼の使命の中でも最も重要なこと、つまり救済だったのです。そして彼はその使命を成就させるために地上に生まれたのです。

 質問:今答えられることではないと思いますが、今までに天使の堕落についてこのグループに語ってくださったことがないので、多くの人はそれについて知りません。

 答え:それについてはもう少し時間をみてお話すると申し上げました。いつになるかはわかりません。今このテーマを選ばないのには理由があります。けれども必ず話すことを約束します。

 友人であるみなさん、この言葉を最後に、今晩はここを去ります。すでに言ったように、ここにいるみなさん一人ひとりのためにここに贈り物、霊的な贈り物があります。あなたは労をいとわず、その包みを開けなければなりません。それには少し手間が必要ですが、もしその労をいとわないのであれば、豊かな恩恵を受け取ることになるでしょう。そしてその少しの労力こそがこの贈り物を最大限豊かに活用することを可能にする鍵なのです。神はみなさんに、到底想像できないほどの寛大さを与えてくださっていることを理解するでしょう。そして、ここに集うみなさんだけでなく、この贈り物を受け取ったすべての友人たち、今晩ここに来ることはできなかったけれど私の言葉を読んでくれる人たち、海の向こうで完全性へと向かうこの道の途上で誠実に戦う私の親愛なる友人たち、すべての人たちが含まれています。

 まさにこの時期に、救世主を讃え、彼が救ってくれたのは自分なのだということを、彼がいなければあなたのゴールからあなたを分離する暗闇を突き破ることはできなかったのだ、ということを考えていただきたいのです。感謝の気持ちを育てましょう。彼は感謝されるに値するのですから。平和のうちに進み、神のうちにいてください!


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日本語版の取り扱いについて
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