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No. 22 救済

Pathwork Guide Lecture No. 22 
UNEDITED版 
1958年1月31日 


救済 
SALVATION


 主の御名のもとに、ご挨拶いたします。友人たちよ、私はみなさんに祝福をもたらします。この時間は祝福されています。

 神の天使たちは、いつでも人類に対して話したり、現れたりする機会を持ってきました。多くの人々が、未発達の霊による出現の可能性を受け入れますが、より高次に発達した存在-みなさんが彼らを何と呼ぼうとも-との交信が可能であることは否定します。これはとても近視眼的で、非論理的です。自然と宇宙の法則は、良いことにも悪いことにも、その中間の段階にも、同じように働くはずです。どんな条件が準備され、満たされているかの問題だけなのです。もしある人が、どんな転生から外れた存在との交信の可能性も否定するなら、この信念は間違っているかもしれませんが、少なくとも首尾一貫しています。しかし、ある可能性は認めるのに、他の可能性を除外するのは、不合理です。

 あなたが交信しているのがどんな霊なのかをテストするには、本当に沢山の方法があります。判断したい人は誰でも、全ての状況の下、霊をテストする方法という膨大なテーマを勉強する努力をしなければなりません。その時にのみ、その人は、その霊がどこから来たのかを決定する立場にいます。私はこのテーマについて話をしてきましたし、将来またするつもりです。さしあたり、これだけ申し上げたいと思います:もしあなたが、どんな霊と交信し、どんな法則が関わっているかを決定するための知識が、まだ不足しているなら、自分のハートに、今聞くことができます。もしあなたの疑念で感情を覆い隠さなければ、ある程度の答えを得るでしょう。もしあなたの感情が、受容的でオープンなら、調和や、愛、忍耐、慎み深さ-もしくはこの全ての正反対、を見つけ、感じることができるでしょう。しかし、あなたのハートは、もしあなたが受容的で、オープンで、その瞬間、全ての偏見を横に置いている場合にだけ、あなたに語りかけ、あなたが知りたいことを確かめることができるでしょう。

 さて、友人たちよ、私は自分が始めた一連の講義を続けたいと思います。前回、私は地球の創造、それがどのように存在するに至ったか、そして人類がどのようにゆっくりと進化したかについて話しました。私は、地球が、いわゆる堕落し、長い間、闇の世界で生きてきた霊たちの、切望の産物、もしくは映像であると言いました。私はまた、地球は等しく、神の世界に留まり、堕落した兄弟姉妹を神の御光へと帰る助けをしたいという、霊たちの切望の産物であるとも言いました。だから、ここ地球において、みなさんは、美と愛と調和と同じく、その中間のすべての濃淡と共に、その正反対も見つけることができるのです。これは、地球という領域が、神の世界と、堕落した霊の神との再結合に対する切望の産物であるという証拠なのです。

 地球の領域においては、あなたは発達することや、どちら側に従うかを決めるための自由意思とともに、可能性を持っています。あなた自身の性質の中に、あなたは勿論両方の流れを見出すことができます:かつて完全で、神から来ていた良い流れと、堕落の間と、その後に蓄積された邪悪な流れ。これら2つの流れの間に、意識的な自己が立っていて、最も抵抗の少ない流れ(それは常に人間の低次の性質なのですが)を取るか、高次の自己(これは困難で、狭い道なのですが)に従うかを決めることができます。

 私はまた、霊の世界との交信は、地球領域が比較的新しかった、時の始まりから、ずっと存在してきたと申し上げました。その時、人間にとって、神の世界との交信は不可能でした。何故なら、その魂にはまだ、あまりにも沢山の浄化されていない流れや態度、あまりにも沢山の邪悪な欲望、あまりにも沢山の無知があったので、必要な条件を満たすことができなかったからです。それが、神が堕落した霊ではない存在たちを、常に地球に送ってきた理由です。偉大な預言者や聖者は、このカテゴリーに属していました。彼らは、知恵と愛と純粋さをもたらし、この地球領域に彼らの痕跡を残しただけでなく、彼らの性質のおかげで、彼らは、神の天使と交信することも出来ました。これが、手短に、今晩話さなければならないことの準備を、みなさんにしていただくために、私が前回の講義で申し上げたことです。

 私は、イエスキリストによる救済が、本当に何を意味するかをお話したいと思います。本当に、その意義を十分理解している人はほとんどいません。少なくとも、すべての組織化された教会は、ほとんど完璧に救済とは何かを誤解していました。多くの人が、キリストは、ほかの全ての人の罪のために、そして誰も自分たちの罪や欠点、弱点に、責任を取る、もしくは義務を負わなかった結果として、十字架の上で死んだと信じています。というのは、キリストは彼の死を通して、罪を償ったからです。友人たちよ、これは勿論、そうではありえません。それは、全く馬鹿げているでしょう。救済の本当の話という説明の後、みなさんはこれが、都合のいい誤解であることが分かるだけでなく、この誤解がどのようにして起こり得たかを、はっきりと理解もするでしょう。

 私はまた、救済はこの地球領域だけでなく、存在のすべての領域において成し遂げられると申し上げました。地球領域が存在する遥か昔、いわゆる天使の堕落のあと(それについては、先日、より詳細に解説したのですが)、神の計画は究極的には、堕落した存在の一人残らずが、神の御元へ、光と調和へと戻る方法を持たなければならないというものでした。しかし、たとえそれが、堕落した創造物を呼び戻すという目的のためでさえも、神の法が決して破られないことが必須条件でした。これは、本当に、達成することがとても難しい使命でした。
私はまた、神によって創造された個々の存在は、ひとつのあり方において、完璧に作られたことを説明しました。個々の存在は、一つの神の側面を表現しました。その目的は、個々の霊が、この完璧さをほかの領域へと広げることでした。例えば、ある存在が、愛において完璧であり、別の存在は知恵において完璧である、などなど。その狙いは、かつてみんなが持っていた神の力を使って、他の全ての点において自分自身を完璧にし、やがては神のようになることでした。そうすることで、美の世界が、新たに存在するに至ります-霊の世界-、というのは、みなさんご存知のように、あらゆる思考、あらゆる感情、あらゆる野心、そしてあらゆる行動は、霊の中で形作られ、従って世界を創るからです。

 また、みなさんご存知のように、この目的のために、自分の神の力を使う霊もいましたし、反対の方法で自分の力を使う霊もいました。これが、堕落の発端でした。堕落の後、キリスト(もちろん、彼は、人として生まれるずっと前に霊の世界に存在していたのですが)は、特別な分野における、霊たちの力や完璧さの全てを使って、救済計画を助けるために、神の世界の全ての霊を組織しました。言い換えると、純粋な霊たちは、自らの発展しつつある完璧さを継続して広げる代わりに、自分の力を使うという究極のゴールを、救済計画の為に合意し、働くために延期したのです。そしてこの計画は、すべての領域に存在しています。もちろん今、私はまだ、神の領域について話をしています。

 闇の領域においては、何かが成され得る前に、いくらかの時間が過ぎる必要がありました。依然として、ルシファーの領域にいる間に、より明るい世界が存在するに至る前に、十分な数の霊たちが、光に対する切望を感じる必要がありました。この切望なしには、最初は、無意識で無知だったので、たとえ神の世界によって何を準備されたとしても、何も変わることはできませんでした。

 この切望のために、地球領域が徐々に存在するに至る前に、みなさんの言語で言う、何億万年もの歳月が過ぎました。まだ発達は低かったものの、それをする準備が出来たので、より沢山の魂が地球で生きるためにやってきました。それから、より一般的で個人的な発達が進みました単に地球領域で生きることによってのみ、堕落のあと初めて、彼らは神なる何かとコンタクトするに至りました。この現れは、ほとんどの部分が控えめではあったのですが。

 同時に、キリストは、どんどん先へと計画し、様々な純粋な霊たちを地球で暮らすために送りながら、神の霊的世界で忙しく準備し、働いていました。彼はまた、インスピレーションやガイダンス、または神の世界との交信を通して、もう転生していた純粋な霊たちが、人類へともたらすための教えを編成しました。みなさんには、全てがどれほど詳細に働き、全てが神の正義の法と一致するように、この仕事がどれほど骨の折れるものだったかを想像することは不可能です。

 その当時、人類はどれほど霊的に進歩していようと、あの世に帰ると、彼らは依然としてルシファーの支配下にありました。というのは、私が前回説明したように、あらゆる神の側面が正反対の性質に変わっていたからです。それ故に、神性である自由意思は、支配へと変わっていました。そして、もちろん、ルシファーは彼の信望者の上に保持していた支配を諦めるつもりはありませんでした。例えば、もしある人間が、態度の変化と神との調和の発展によって、霊の世界に光と美の領域を作り始めたとしても、これらの領域さえも、依然としてルシファーの王国に属していました。何故なら、ルシファーはこの人間に対する力を緩めなかったからです。更に、その当時は、光だけの領域を作るのに十分発達した人は、一人もいませんでした。人々は、調和した領域や、不調和な領域を作り、所有していたでしょう。

 ついでに言うなら、これは、みなさん一人ひとり、あらゆる人間に起こります。欠点や弱点、無知のあるところにはどこでも、それに対応する領域が存在するに至ります。あなたが純粋で浄化されている場所にはどこでも、美しい領域を作り出します。そして、あなたは、自分の作った最善だけでなく、最悪も所有するでしょう。従って、比較的高度に発達した人間は、いくつかの光の領域に住んでいたかもしれませんが、これらの領域さえも、救済計画がこの観点において終了しない限り、まだルシファーの支配下にあったのです。ところで、みなさんが地獄と呼ぶものは、単なる一つの悲惨な闇と苦悩の世界ではありません。神の領域が多くのグラデーションがあるように、ルシファー的世界においても同じようなグラデーションがあります。

 十分な存在が準備でき、神を認識し、神との完全な合一を持つことを意識的に欲したとき、キリストが労をとった救済計画の、最も重要な部分が起こるための機が熟しました。キリストには、彼の堕落した兄弟姉妹に対する、その無限の愛と哀れみ以上の理由を持っていました。

 堕落のプロセスの間、堕落した最初の霊であるルシファーは、キリストに対して激しい嫉妬を募らせました。従って、キリスト本人が、彼の偉大なる犠牲と働きによって、すべての他の堕落した生き物たちに対してだけでなく、ルシファー本人に対しても、キリストの愛を証明すべきであるということは論理的でした。ルシファーは、キリストの行いを通してのみ、遠い将来のいつか、神の御元に戻る可能性を見出し、そうして究極の幸せを見つけるでしょう。神は、キリストを宇宙の王にし、そしてそのようにして、キリストは最も高い特権だけでなく、最も強い責任も備えていたました。キリストの高貴な地位と一緒に、最も重い荷物を背負うことによって、彼は世界に、従うべき別の手本を与えました。

 このようにして、機が熟したとき、キリストはルシファーと対面しました。さて、友人たちよ、私はみなさんに、この全てがあまりにも人間的に聞こえるという理由で、そんなやり方であったはずがないなどと考えないようお願いしなければなりません。みなさんが、人間として持っているものや知っていること全ては、抽象的、具体的考えや、言葉における主題や物体に関してだけでなく、みなさんの知っているあらゆる種類の形も、この物質世界の前に、霊の世界や、もっと沢山の多様な世界において存在していたものの、限られた単なる模倣物に過ぎません。

 私たちが、霊が話す、もしくはある物質を所有していると話すとき、人間は、あまりにも人間的すぎる、または余りにも具体的すぎると考えます。しかし、霊においては、私が繰り返し申し上げたように、全ては具体的で、形を持っています。みなさんの世界においては、物質的物体のみが形を持ち、いわゆる抽象物は、形を持っていません。というのは、それらは皆さんには見えないからです。霊においては、これはそうではありません。愛は、一つの形です。あなたが美しい考えを持つとき、それは一つの形を作るでしょう。あなたが邪悪な考えを持つとき、それは別の、私たちにとっては具体的な形を作るでしょう。

 みなさんに、これを心に留めておいていただき、ルシファーとキリストが2人の人間のように、一緒に話すことはないだろうという理由で、私の話していることを、子供っぽいと思わないようお願いします。それは、2人の人間が話し始める時と全く同じではないかもしれません。順序は違うかもしれません、それは霊的な順序です。これは勿論、人間の言語に翻訳することは不可能です。従って、私が使わなければならない言語は、みなさんの理解にとって限られているに違いありません。

 ですから、続きを言いますと:キリストはルシファーに対面し、彼にこう言います:「さて、あなたに忠実でい続けたくない、これそれの沢山の霊がいる。彼らは神の御元へと帰りたがっている。従って、あなたは彼らを自由にすべきだ。」ルシファーは、それには従わなかったでしょう。彼は神の法を認めず、自分が適当と考えたように、自分の力を使うことを維持しました。

 ですから、キリストはこう言いました:「この場合、私たちの間、あなたの勢力と、神の世界の勢力の間で、戦争にならなければならない。」機会は公平に配分されたでしょう。つまり、善の勢力は、悪の勢力よりも非常に強い、恐らく20対1の強さであるという、単純な理由で、神の勢力は数的に少数でなければなりません。もしあなたが、一人の絶対的に純粋な存在に対して、20人のとても不純な存在を持っていたとすると、この一人の純粋な存在の強さは、20人の不純な存在の強さより強いということです。

 ルシファーは言いました:「たとえそのような戦争が起こり、神の勢力が勝って、私の力を取り去ったとしても、私は依然として神の法を正義であるとは認めないだろう。」私の前回の講義から、みなさんもご存知のように、この問題は、救済計画の非常に重要な部分を構成しています。何故なら、誰一人として、ルシファー本人でさえ、永遠に地獄に落とされるべきではないからです。そして、永遠に地獄に落ちることは、決して起こってはならないので、ルシファー本人が、神の法の絶対的正義を、どんな時も認めなければならないのです。

 それゆえ、キリストは彼にこう聞きました:「どんな方法において、あなたは神の法が正義であると考えるのか?」

そして、ルシファーはこう答えました:「もし一人の存在-もしあなたが望むなら、神の世界からの存在が、-人間のように地球で暮らし、極めて重大なときに神の世界からの保護や導きなしに、その人の知識の大部分が消え去り、物質が邪魔をしている状態で、それでも、私の誘惑にもかかわらず、そして考えられる限りの最も困難な状況にもかかわらず、神に対して忠実でい続けられるなら、私は、そのような戦争を戦うだろう。私は、もしこの人物が神を見捨てるなら、可能な限りの世俗的な力を与え、あらゆる困難から開放するだろう。もしその人物が、このような条件下でも神に忠実でい続けられたなら、-私は、とても疑わしい、実際、不可能だと思うが-、その時は、あなたと戦い、神の法が全くの正義であると認めるだろう。」

 友人たちよ、皆さんはご存知に違いなのですが、あらゆる生きている存在は、神の世界からの守護霊を、常に持っています。しかし、態度次第で、こられの霊が、あまりにも近くには寄れない人たちもいます。従って、例え背景にいるだけだとしても、彼らはそこにいて、正義なる神の法に従わない事や、もしくはその人があまりにも弱くて耐えられないことが、彼らの守護するものに起こらないように見ているのです。この地球領域に、神の霊的世界のサポートなしに、一人置き去りにされ、しかも、闇の力が考えつく限りの、全ての攻撃や挑戦、困難、誘惑に抵抗することは、本当に成就することが不可能な使命に思われました。そのようなことを通り抜けなければならなかった人間は、今まで一人もいませんでした。従って、キリストは、どれほどその教えが純粋で素晴らしかったとしても、それまで生きてきた、他のどんな人とも比較することができません。キリストは他の人が教えたことを、行いと事実で示しました。そして、彼はそれを、今まで他の誰が耐えてきたことよりも、はるかに難しい状況下で、それをしたのです。

 ですから、これらが、ルシファーが、神の法が正義であると認めるために、キリストに対して課した条件でした。もしこの不可能に思える使命が、本当に成就したなら、その時戦いが起こせるのです。ルシファーが戦いに負ければ、その時キリストは、条件を満たし、ルシファーは、いかなる点においても神の正義を疑わないでしょう。これがその時の計画でした。そして、ルシファーは、キリストでなければならないと明示しなかったのに、キリストは上に述べた理由で、自分自身にそれをしたのです。

 友人たちよ、みなさんがもし、この観点からすべての聖書を勉強するなら、全く違う理解を得るでしょう。キリストの生と死の理由は、今みなさんにとって意味を成すであろうことを、全く確信しています。キリストが、他の人が犯した罪のために十字架で死んだことは、何の意味も成さないでしょう。もしあなたが罪を犯したなら、あなた本人がそれを正さなければなりません。他の誰も、あなたの為に、それをしてくれたりはしないでしょうし、するべきではありません。もし他の誰かがあなたの為にそれをすることになっているとしたら、あなたは浄化を得ることはないでしょう。あなたは、再び罪を犯すことからあなたを守るであろう自己浄化のプロセスを通して、強さを受け取ることはないでしょう。悪の根っこが引き抜かれない限り、それは再び不純な果実を作り出すに違いありません。あなただけが、自分の悪の根っこを引き抜くことができるのです。従って、それはキリストが苦しみ、死んだ理由ではありません。

 あなたはまた、なぜキリストが長い間、完璧に孤独のまま置き去りにされたかを、理解するでしょう。当然、人として、彼は、彼が霊として持っていたのと同じ知識を持っていませんでした。もし彼が同じ知識を持っていたとしたら、使命はそれほど難しくはなかったでしょう。勿論、彼は創造における最も高次の存在ですので、ある程度の知識は持っていました。加えて、彼は大変な霊的強さと知恵を持っていました。しかし、もし転生していない時に持っていたと同じ霊的知識が、肉体を持った時に利用可能であったとしたら、-これは誰にも適用するのですが-地球上における人生は何の目的もないでしょう。

 ですから、キリストは、地球で生きている間、彼が何に関わっているかを正確には知りませんでした。数年のうちに、彼はある程度の知識を受け取り、自分が達成することになっている使命の漠然とした考え-ちょうどみなさんの誰もが漠然とした考えを持っているように-を持ちました。それが何から生じるのか、どのように終わるか、その正確な意味は何なのか、みなさんは知ることがないでしょう-そして、彼もそれを知りませんでした。彼は、転生の間、それを知ることにはなっていませんでした。ある一定の時間のあと、神のすべての天使たちは、彼の元を去らなければなりませんでした。天使たちは、彼の人生のある時期、彼と共にいましたが、本当に難しい使命が始まった時には、いませんでした。

 私が説明したように、彼がもたらした教えは、重要で素晴らしいものでしたが、これは彼の人生の付加的な一面でした。それは副産物でした。神の意思と完全に一致して、もの事が起こる時にはいつでも、たった一つの理由や目的は存在しません。何故なら、多くの要因が役割を果たし、多くの良い目的が、一つの神の行動で成就するからです。これはまた、誰にでも適用されます。しかし、単に教えをもたらすことは、キリストが人間として生きるための最大の理由ではありませんでした。教えは美しいですが、それらは新しくはありませんでした。本質的には、他の人たちも同じ教えをもたらしていました。彼は、彼の時代に従って、人類がずっと進化発展し続けることを考慮に入れて調整しましたが、それが全てではありませんでした。

 私が説明したように、使命は、-全くの孤独に置き去りにされ、神の世界と完全に切り離されながら、彼はルシファーの誘惑に抵抗しなければなりませんでした。ルシファーは、彼のゴールであるキリストを堕落させるために、想像しうる限りの最大の労力を注ぎました。彼は、可能な限りのあらゆる趣向を使い、そうしながら、全ての自分の助手たちを組織しました。私を信じてください。ルシファーは、たとえ知恵や洞察を確かに欠いているとは言え、決して愚かではありません。そして、彼自身の闇の力において、大きな供給源を持っていないとしてもです。

 一方では、キリストは苦しみ-肉体的、精神的の両方、並びに、みなさんが想像出来ない程の屈辱しか経験しませんでした。屈辱と精神的苦しみは、肉体的苦しみよりずっと酷く、それと同じくらい悪いものでした。他方では、彼は、闇の世界の全ての誘惑を差し出されました。

 勿論、キリストはみなさんが呼ぶところの、最大級のサイキックでした。彼の霊媒的資質は、単に一面においてだけでなく、全ての点において、あまりにも強く発達していたので、その資質は、後にも先にもいかなる人よりも偉大でした。これは、神の世界がキリストの近くにある限り強みでした。しかし、彼が神の世界から切り離されたとき、これはさらなる困難に過ぎませんでした。なぜなら、彼のもとにやって来る全ての現れは、闇の世界に源を発していたからです。

 透視能力的に、キリストは、最初にルシファーの世界からの高貴な使者と、後で美しい存在に見せかけたルシファー本人とコンタクトしました。ルシファーは、もしキリストがルシファーを受け入れ、神に対する彼の考えを諦めれば、キリストが望むであろう全ての世俗的利益を与え、苦しみから即座に開放すると申し出ました。ルシファーは、苦しみの最もひどい瞬間に、キリストを嘲りました:「愛と正義とやらのお前の神はどこにいるのだ?もし神がいるなら、神の愛する息子に、この全てを経験することを許すだろうか?もしお前の神が、より多くをお前に差し出すことができないとしたら、私と一緒にいる方が良いのではないか?私がお前に差し出したものを見てみよ。お前の神は、お前に、すべての可能性の点において、酷い苦しみと困難を与えることしかできないのだ。」

 これが何を意味するのか想像できますか?もしキリストが、彼の使命の正確な意味を知っていたなら、抵抗することは、半分も難しくはなかったでしょう。しかし、これがまさにポイントだったのです。この極めて重大なときに疑いを持つこと、全てについての疑い、彼の本当の正体についての疑い、その時彼には理解できない全ての困難を耐え忍ぶことにおける、賢明で善なる目的があることについての疑い、-要するに、それまでの歳月に、彼が学んだ全てについての疑い-は避けられませんでした。彼はしばしば、自分はある幻想下にいるのではないか、そして自分の今までの知識は、想像の産物だったのではないかと考えました。この疑いの時の間、ルシファーは即座にキリストの側にいて、そのような考えを強化したのです。

 人間であり、自分と絶対的真実の間に物質を挟んだ状態のキリストにとって、神に忠誠を尽くし続け、困難によってさらに悪化したこれらの誘惑に屈服しないでいることは、どれほど極めて難しかったに違いないことは、容易に見て取れます。もしキリストの使命の条件が、彼でさえ時々疑ってしまうようなものでなかったとしたら、彼の使命は、それほど無限に崇高ではなかったでしょう。それゆえ、キリストはほかの人間たちと同じ物質という障害物を持たなければならなかったのですが、彼の場合は最大限まで強められていました。物質的実態は、カーテンであり、カーテンを開けるためには手探りをしなければなりません。イエスキリストは同じことをしなければなりませんでしたが、その極端な難しさは、たとえこれらの説明を持ってしても、みなさんには漠然としか認識できない条件下だったのです。友人たちよ、十分に理解しないまま、これらの状況下で正しい道にとどまることが、何を意味したかを、みなさんは本当には理解できません。そして、屈辱を受け、全ての通り過ぎる疑いの考えにもかかわらず、すべての上に神を置くこと、自分の苦しみの上に、そして、自分がその理由を知らないことの上に神を置くことが、使命だったのです。それは、本当に、どんな人であろうと、それが出来ることはほとんど不可能に思われました。しかし、イエスキリストはやり遂げたのです!

 これをすることによって、キリストは闇の世界が、いかなる時も、神の法が不正であると主張することのできない条件を満たしただけでなく、同時に、彼の後に生まれる全ての人に、一つの手本を打ち立てたのです。ですから、あなたが苦しんでいて、なぜだか理解できないとき、救済の真実の物語というセッティングの中で、イエスキリストのことを考えなさい。その時、彼の苦しみを、想像上の伝説としてではなく、現実的なものとして、あなた自身の苦しみと同じくらいリアルで、ただもっとずっとひどい苦しみであったと想像して、自分自身にもたらしなさい。その時、キリストの足跡に従い、神に身を任せ、謙虚でい続けることが、ずっと簡単になるでしょう。

 地球領域で、キリストが使命を成功裏に果たした後すぐに、人類に、創造の歴史における一つの主要な段階が終わり、重要な新しい段階が始まることになることを示す、いくつかの所謂「奇跡」が地球上で起こりました。友人たちよ、私は地球におけるキリストの人生、彼の苦しみや、彼の死について、何時間でも話し続けられます。しかし、みなさんが今聖書を読めば、ご自身の想像力が、以前より深い意義と、この全ての現実についてのより良い考えを与えることができます。

 キリストの肉体的死の後、彼は霊の世界に戻りました。条件を満たし、比較的少ない人数の専門化された霊と、闇の世界で霊的戦争を戦いました。

 友人たちよ、霊たちが戦争をするということは、みなさんにとってあまりにも人間的であると、再び聞こえるかもしれません。みなさんの戦争はどこから来たと思いますか?それらは、単に霊的戦争を外に映像化したものに過ぎません。勿論、霊的戦争は、地球上の物質的戦争と全く同じ方法で起こりませんが、それでも本質はそこにあります。それがどのように起こるかは、やはり説明することは不可能です。なぜなら、私が人間の言語で、私自身を表現する十分な能力を欠いているように、みなさんは、知覚や理解を欠いているからです。ですから、私にできるのは、象徴的に聞こえるかもしれない、そしてある程度は象徴的な、幾分要約した方法で説明するだけです。

 ですから、戦争はキリストとルシファーの間で起こりました。あなたは、ご自分の内側の視覚を使って、まるで地球上のように、銃や剣での戦争が、全くその形で起こったと想像しなければなりません。勿論、これは、そうであった方法ではありませんでした。しかし、霊的戦争はあったのです。再び、ルシファーは、前述したように、神の世界の方法という正義を認めなければなりませんでした。キリストは平等な条件の下、戦いに来ました。より大きな強さと、より多くの助手によって少しの危険も起こさない力が、キリストにはあったでしょう。しかし、彼はそうしませんでした。そしてこれは、神の正義が-ルシファーの目にさえも-守られるために、彼が地球での人生に着手したのと同じ理由のためでした。互角の勝負であり、これはあまりにも明らかなので、ルシファーでさえそれを否定することはできませんでした。それは重要でした。なぜなら、計画は、過去も現在も、ルシファー本人が究極的には、彼もまた、全ての堕落した生き物の最後の一人として(彼は神の法から背を向けた最初の人だったので)、神の元へと戻るであろう場所へ来なければならないからです。

 イエスキリストは、救済計画を、あらゆる領域で成し遂げました。彼の使命は、多くの領域のそれぞれで、様々でした。なぜなら各々は、違っていたからです:多方面の準備がされた神の世界において、地球上で、そして闇の世界において。戦いが終わったあと、新しい条件が設定されました。その条件が、それ以来ずっと支配しています。

 みなさんの歴史においては、彼の地獄への降下後、第3日目に、キリストは天国へと昇天されたと読み取るでしょう。聖書に保たれた様々な詳細が、時間的要素はあまり正確ではありませんが、ある程度、あなたにこの全てを確証します。時間は、常に所謂「翻訳」なのです。なぜなら霊においては、時間-もしそのようなものがあるなら-は、個人的で、心理的で、とても違うからです。しかし、これは重要ではありません。というのは人間が、これら3日のシンボルを作ったからです。

 新しい条件は、全ての人間が、次々と転生を繰り返しながら、地球上で発達する間に、神へと戻るチャンスを与えられることを意味しました。ルシファーは、人間が自らの低次の性質に屈服することによって、ルシファーに屈服するための誘惑をする、全ての権利を保持しました。人間が抵抗するなら、彼らはもはやルシファーの世界の対象ではなくなるでしょう。なぜなら、今や創造主と一体となり、もう一度神の世界に住むための扉は開かれたからです。ルシファーが使うことができる策略や誘惑さえも、その時以来、制限されました。神の法に従って、神の霊的世界は、今や干渉する権利を持っているのです。神の法は厳格に守られなければならず、闇の力の活動は制限され、神の管轄下に、究極的に立たなければなりません。

 ルシファーが、ある程度の自由を未だに持つことは、今何度も説明してきた、彼が常に神の正義を認めなければならないという理由のためだけでなく、発達のための必要な手段としても必要です。悪は、自由意思で、自ら進んで克服され得る前に、多くの場合において、十分に経験されなければなりません。克服したいという強いのぞみは、個々の魂において、高まり続ける悟りを通して増大しなければならず、これは多くの場合、闇を通り抜けた後にのみ、可能なのです。

 言うまでもなく、そのような悟りは、一回の生涯では、やって来ることはできません。神の王国へと入るために必要な完全さ-堕落を通して失われた完全さ-を達成し、魂へとやって来た全ての闇を振り払うことは、一回の生涯では決して成し遂げることはできません。何度も何度もの人生もしくは転生が、本当に必要なのです。地球上の人生は、一つのクラスから別のクラスへと発達する学校のようなものです。時には、一つのクラスにしばらく留まるかもしれません。そして、大きな成功を成し遂げる、一つ、もしくは連続したいくつかの転生を持つかもしれません。

 闇の世界から転生した人間は、最初、とても低くて粗野な本能とともにやって来ます。多くの転生と、カルマの負債を返済した後にのみ、-そして多くの場合、いくつかの苦しみと、かなりの神の影響の後にのみ-ゆっくりと、しかし確実に、態度は変わり始めます。感覚がほんの少し洗練され始めたとき、自己発見と自己浄化の本当のワークが始まります。そして、この段階のためにもまた、変化する条件や状況を伴いながら、多くの転生が必要です。

 この第二段階においてさえ、多くの存在が現実の中に神を見出す強さを、まだ持っていません。彼らは未だに、あまりにも沢山の低次の自己があるため、ルシファーの世界の影響(直接的インスピレーションという形をで来るか、無意識の人間の道具を通してくるかに関わらず)に負けないではいられません。その時もまた、極めて重要な自己浄化のプロセスのために、その人の意思を強化するために十分に目覚めるため、かなりの数の人生が必要になるでしょう。その時にのみ、とてもゆっくりとした浄化のプロセスが始まる、更なる段階がやってくるでしょう。個々の人生において、低次の自己の、ある特定の側面が、最もよく変容する機会を持てるように、条件が準備されます。

 他のどんな方法でもありえないことが、お分かりになるでしょう。何故なら、神の王国に常に入るのに必要とされる、必須の完全さに、一回の生涯で到達することは不可能だからです。個々の人生とともに、最悪の場合でさえ、何かが得られます。たとえその利益が、後の段階にのみ、十分経験することができるとしても、ある存在が、「私の道は、神へと導かれている。私は自分の低次の自己(常に、磁気的に闇の世界と接触を持っている自己)に耳を傾けない」と、ついに宣言する時、何かを得るのです。しかし、高次の自己は、それは背景のずっと遠くにいて、不完全さのすべての層を通して到達するのがずっと難しいのですが、神の世界と、絶えずコンタクトの状態にあります。

 外側の人格は、何らかの方法で決定する意思や能力とともに、怠惰さや、気楽さ、自分の欠点に屈服する最も抵抗の少ない方法を無視して、いつか決定的一歩を踏み出す手段を持っています:「私は、神のため、私の高次の自己のため、そして、それに伴う全てとともに、自分自身に宣言する。」欠点が、未だに殺人や盗み、邪悪さであるか、今は単なる利己的さや嫉妬心、妬み、憤り、もしくは他のどんなものであれ、原則的に違いはありません。本当に宣言し、決断し、神への道-つまり、キリストの救済-に従うという決断に留まるいかなる人も、ルシファー的世界の対象であり続けることはできません。ルシファーは、このような存在に対して、地球上であろうが霊の世界であろうが、力を持つことはないでしょう。

 これが、キリストが扉を開いた方法です。みなさんは今、なぜキリストが、あなたを、あなたの罪から救ったと言われるのかを、理解されたかもしれません。これは、みなさんの堕落、神に忠実でいなかった、そして一時的に闇の世界の一部になったという大罪が、結果として、神の世界から永遠に排除されないという感覚においてのみ、正確です。このことから、キリストは本当にみなさんを救いましたし、このために、みなさんは、世界において、キリストに対して感謝すべき全ての理由があります。キリストを通して、みなさんは今、ご自分の努力と発達によって、入口を横切る可能性を持っています。その意味で、キリストがみなさんの罪のために死んだというのは正しいのです。しかし、キリストが,みなさんの全ての罪と、すべての欠点のために死んだという解釈は、とても間違っています。

 そういうわけで、これが、とても簡単ではありますが、宇宙の創造、堕落、この地球領域の創造、そしてイエスキリストを通した救済の物語です。

 友人たちよ、このシリーズの最初に、私はみなさんに、これらの講義の間にお答えできなかったこのテーマについて、みなさんの心にある全ての質問をするよう、奨励しました。私は、みなさんに、私が申し上げたことについて考えるよう提案したいと思います。私の言葉を、再度読みなさい。というのは、みなさんは初めて講義を単に聴く時、とても多くを聞き損なっているからです。それから、ご自分の質問の準備をしなさい。そうすれば、私はそれらや、他のどんなことにも喜んでお答えするでしょう。
私の親愛なる者たちよ、祝福されなさい。神の中にありなさい。キリストの中にありなさい。



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