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Pathwork Guide Lecture No. 28 神との対話 – デイリー・レビュー(日々の振り返り)
COMMUNICATION WITH GOD -- DAILY REVIEW 1996年版 1958年4月25日

 主の御名においてごあいさつを。いつものように、親愛なる友人のみなさんに祝福をおくります。生きとし生けるものは、神を求めています。人はみな、意識的また無意識的に、神を求めているのです。自らを無神論者という人でさえも、神を求めています。誰もが幸せを、愛を、安全を求めています。それが、神なのです! もちろん、今なお霊的な気づきが欠けている場合、人は得てして、目指すものは他のものの中に見つけられると思うものです。それゆえに、経済的な関係や感情的な絆を通して安全を求めるのです。人はまた、仕事で比類なき成功を収めることで、幸せを、愛を、安全を求めます。それにより、称賛や、感謝や、ある程度の権力が得られるかもしれません。ですが、真の安全を願うなら -- 望まない人などいるでしょうか? -- こうした目標はただのお粗末な代用品です。とりわけ、それが神との調和のとれた関係性のみが与えることのできる安全に取って代わる場合、そう言えます。経済的な成功、申し分のない感情的な絆、職業的な功績も、それが今生でのあなたの計画の一部であれば、あなたのものになるでしょう。ですが、しがみつかずにいられないのはそれらがすべてなのか、そうではないのか、そこが大きな違いとなります。

 愛も同じです。神の愛へと向かう流れの中で他者への愛を求めれば、常に虚しさや不満、失望までもが残るでしょう。ですから、神をあなたの人生の真の基盤とせず、世俗的な代用品を求めるならば、あなたが本当に満ち足りることはありません。それでも、あなたは確かに他者への、そして他者からの愛を感じているかもしれません -- まさしくそうあるべきです。この愛は、それにふさわしい価値があります。ですが、あなたのただひとつの錨にはなりません。あなたが何らかの理由で人の愛を失っても、心の中で神が正しい場所を占めている限りにおいては、あなたは自分の人生に価値がないとは決して感じないでしょう。

 誰もが神を探していると言いましたが、そうと気づいている人は多くありません。植物が光とあたたかさを求めて太陽に向かって伸びるように、人は神に向かって手を伸ばすのです。植物のように、ともすると無意識に。自らの内に神を見出したときにだけ、あなたの心はやすらぎ、不可解な人生は意味あるものとなるでしょう。神を見出すことによってのみ、知識の光はあなたのものとなります。その知識は必ずしも一般的でも抽象的でもありません。というのも、一般的、抽象的な知識はあまり重要なものではないのです。あなたが得るものは、個人的な知識なのです。あなたは、なぜこんなにつらいことを経験しなくてはならなかったのか、なぜこれほど多くの不可解な経験が、そもそも他者のひどい仕打ちの結果や「運命」としか思えないことが降りかかったのかを理解することでしょう。突如として人生が深い意味をなすものとなり、あなたはもう、その苦しみのことで誰にも文句を言わなくなります。その苦しみを抱えていたことを、嬉しく思うでしょう。親愛なるみなさん、それは、あなた方がその困難の持つ正当性をしっかり受け止めるからだけではありません。それらがいかに素晴らしいものであり、いかに自分を強くしてくれたかを悟るからです。そうです、必ずそうなります。

 神はさまざまな方法で探し求められています。ですが、神はあなたの外に、どこかの建物や空の上には見つかりません。みなさんはそのことをご存じです。神はあなたの中にのみ、見出されるのです。神はあなた方一人ひとりの中にいる、そう知っているにもかかわらず、みなさんの多くはいまだに間違った方法で神を求めています。どんな宗教や哲学を信じていようと関係なく、あなたはあなたのローワーセルフを通り抜けることによってのみ、自分の中の神を見出すことができるのです。大地の奥深くに隠された宝物があるなら、その宝にたどり着く唯一の方法は、地面を掘り返すこと。つまり、しばらくは埃にまみれなくてはならないのです。この土埃には取り組む価値があり、宝を手にするには対処する必要があると知っているあなたは、一気にこの不快な作業を行い、決着をつけようとします。宝を取り出すには、まずこの泥に立ち向かう以外、何ひとつ方法はありません。このシンプルなロジックは、誰にもわかることでしょう。

 ではなぜ、この発掘作業を行い、みなさん一人ひとりの内に潜む神の宝の家を明らかにしないのでしょう? なぜあなたは、自分のローワーセルフに向き合うことなしに、何より偉大で何より貴重な宝を得たいと願うのでしょう? それは筋の通ったことでしょうか? もちろん、違います。けれども、みなさんの多くは、いまだにそう願っているのです。多くの人間が、神は自分の中にしか見つからないと十分わかっていて、魂の奥の片隅を漫然と探し続け、ひらめきを見つけ、神を体験しようとしています。おそらくあなたは、一般的で抽象的な神の知識を求めたり、ある霊的な体験をしたりすることで、これを得たいのでしょう。しかし、それだけが神を求める方法なら、他に何を得ても神だけは手にできません。どんなものであれ、あなたの目の前にある人生の難題を無視しようとしてはならないのです。難題に向き合ったうえで探し求めれば、思っていたよりずっと近くに神を見つけられるでしょう。ですが、それより他の方法で探そうとすると、神はあなたが及びもつかないほど遥か遠く離れていることでしょう。神を見出すには、隠された感情を認め、神の法においてそれを評価しなくてはなりません。真の理由とは異なる何らかの理由があって、別のやり方で反応させられていると信じ込むのではなく、あなたの真の反応を認めるのです。まずは、自分の欠点をしっかりと見つめましょう。これまで何度も話したように、あなたは今まで気づくことのなかった自分の一部を見つけなくてはなりません。真の感情に関わるあなた自身を試すのです。この道をたどり、ローワーセルフと正面から関り、向き合い、勇気と信念を持って少しずつ解放していくことによってのみ、神の内にあり、神と共にあり、神を通して得ることができる真の幸福と安全を見つけられるのです。

 「どうすればそんなことが?」と、毎回尋ねられます。友よ、私たちにできる初めの一歩は数多くあるのです。すでにこの道を行く人が口をそろえて語るのは、常に少なくともふたつの側面から、ややもするとさらに多くの面から、あらゆる問題に取り組まなくてはならないということです。欠点を克服しようと努力しない限り、神を見出すことはできません。とはいえ、あなたの意志がどれほど強く、どれほど良きものであるとしても、あなたひとりでは決して欠点を克服できません。あなたには神の助けが必要です。ですから、これは交互に行うプロセスなのです。

 まずは瞑想し、自らの欠点を認め、評価する必要があります。そこから橋を架けるのです。次に、自分の中で本当は何が起きているのか、正直に分析しましょう。心からそうしたいと願い、そうすることを選ぶなら、それはあなたが思うほど難しいことではありません。生きとし生けるものには上なる神を目指す進化の力が組み込まれていると同時に、誰の中にも怠惰な性向がつきまとうことを認めましょう。神を求める心は誤解され、曲解され、誤った経路に向かうことが多いのですが、なおもそこにあります。この思慕を理解し、それを正しい方向へと向かわせるには、霊的な気づきが必要です。障害を克服しようとすると、ローワーセルフの怠惰な性向があなたを抑えつけます。ローワーセルフは争いも望みませんが、不快な行動も我慢したくはないのです。自分自身の怠惰さの傾向を認めない限り、あなたは前に進めません。ですから、ある段階において、あなたのワークすべきことは自分のローワーセルフの一部をなす欠点に関するものとなります。またある段階では、あなた特有の欠点のためにいまだ神を身近に感じていないとしても、積極的に神の助けを求めなくてはなりません。神とのつながりがほぼないとしても、さらなる橋を架けるべく、あなたは自分に与えられた聖なる助けを求めることができるのです。このように交互に行うプロセスでは、常に初めは片側から、次いで向こう側から、橋を架けることが求められるのです。

 ですが、私が近道とさえ呼ぶ、神との個人的な関係を築き、神を個人的に体験するためのある確かな道があります。おわかりでしょう、親愛なる友よ。みなさんの多くは神を信じていますが、心の奥深くの片隅には不信感も抱いています。その不信感の片隅に向き合うのが怖いのです。これは、自分自身の魂を掘り下げていくことに抵抗があるためです。自分の中の不信感の片隅に蓋をして無視すれば、この疑いは消え失せる、または意味をなさなくなると、あなたは信じています。しかし、そうではありません。どんなものであれ、あなたが自分の中に発見するものが、完全な姿をとることはないのです。あなたという人は、多くの相反する流れでできているのですから。神を信じず、そればかりか不信感を強めたいとさえ本気で願っている自分の心の一部に向き合うことを怖れないでください。いかなる疑念も隠さないで下さい。なぜなら、そんなものは存在しないと言い聞かせることによって成し遂げられることなど何もないのですから。これだけが、あなたが自分の内側に向き合うのを怖れている原因だとは言いません。ですが、神についての疑いであれ自分自身のある側面についての疑いであれ、原則は常に同じです。向き合うのを怖れる限り、どんな感情も抑え込んで征服することはできません。約束しましょう。どんな感情も、ひとたび向き合ってしまえば、今あなたが思う半分も怖くはないのです。

 神を知るための近道に戻りましょう。もしも自分の内に信念を欠いている部分があることに気づいたなら、神の実在と存在を経験するための、確かで素晴らしい早道があります。神の霊的世界はとても強く、あなたの疑いはすべて太陽の前の雪のように溶けてなくなるでしょう。友よ、それは犠牲の道です。あなたがもし神のために何かを犠牲にできれば、あなたはこれを経験できるでしょう。犠牲を払うという経験から得る知識や確信、実感は、あなたが諦めて投げ出したしたものとは比べ物にならないほど価値あるものとなるでしょう。

 犠牲を捧げるにはどうすればいいのか、そして何を犠牲にすべきかさえも、みなさんは知らないことをよくわかっています。その方法をお教えしましょう。何も芝居じみたことを求めるわけではありません。実を言えば、あなたが犠牲を払うとき、または犠牲を払おうとしているときには、その犠牲について知る人が少ないほどいいのだと強調しておきたいのです。知っているのはあなたと神だけでなくてはなりません。助けが必要なら、あなたの霊的な指導者も加えていいでしょう。どんな形であれ、その犠牲があなたのエゴに仕えるものであってはなりません。ですから犠牲とは、目を見張るような華々しいものであってはならないのです。私の話には、どんな形の殉教も登場しません。

 決断を思い悩んでいるなら、または自分の人生に長く続く不調和があるのなら、何かが間違っている兆しとしてそれを役立てるべきです。あなたが何をしていようと、神の恵みがあれば調和がとれ、周りの人たちと絶えず衝突することはないでしょう。何かの想念や、望むもの、手放したくはないと思うものにとことんのめり込めば、それも目的として機能するかもしれません。それが何であれ -- 問題であれ、決断であれ、行き過ぎた執着であれ -- 神の前に示すのです。完全に自分自身を開き、まずは自分に問いかけてください。「私が本当に欲しいのは何だろう?」と。この問いに対し、明確な答えを見つけることが重要です。なぜなら、本当に欲しいものが明確になっていないと、必ずや問題が生じるからです。

 ひとたび自分で答えを出したら、つまり自分の願いと優先事項を明確化したなら、こう尋ねてください。「私が望むものは、おそらく神のご意志ではないのでは?」このとき、あなたの疑いが隠れている心の片隅が姿を現すでしょう。そこで極めて大切なのが、湧き上がる反応や感情を意識化して許し、明確に表現することです。こんな声がするかもしれません。「そう、これはどれもすごく良いことだけれど、おそらく神はいないだろう。神がいなければ、好きなものをあきらめるべき理由などない。なぜ犠牲を払うべきなのか?」この内なる疑いをはっきりと口にできたなら、親愛なるみなさん、あなたはすでに一歩踏み出したということなのです。信じられないかもしれませんが! こうしてあなたの奥深くにある霊的な問題、隠された不快さは正確な形を取り始め、理性的に取り組むことができるようになります。

 自分自身と討議を重ねるうちに、あなたの中の論理的な面がこう言うかもしれません。「いいだろう、もし本当に神がいないなら、問いかけても何の危険もないわけだ。神からの答えは受け取れないのだから。神に決定を委ねることを考える前に、まず神ご自身に存在するかどうかを尋ねてみよう。親愛なる神よ、私のある面はあなたを信じており、別の面は信じておりません。どちらが正しいのでしょう? お助けください」。初めにあなたと神にまつわるこの問いかけを解決しておけば、光明を得ることでしょう。ただし、この問いを避けるのではなく、問いに向き合わなくてはならないのです。

 続いてあなたはこう言うかもしれません。「あなたが神だとわかれば、私は犠牲を払う用意がありますし、自分の意志を手放します」。ですが、あなたは進んで犠牲を払い、自分の意志を手放すでしょうか? そうする用意があるのでしょうか? もしあなたが、神は生きており、あらゆるものの最高の現実であり、真に存在するという悟りを心の底から経験せずにいるなら、逆に、神のために犠牲を払う用意ができていても、あなたが受け取れる知識はまだこれだけです。あなたは常に、まず神が姿を現すのを待っています。そして、神が姿を現して初めて、ようやく神の手に人生を委ねるかを決めるのかもしれません。ですが、こうしたやり方で神へと近づくと、堂々巡りを続けることになります。あなたが自分の意志を捨て、神のご意志を第一にしない限り、この問いが解決されることはないでしょう。神のご意志を優先すれば、一度にふたつの問題を解決することになるでしょう。それは、神が存在するという現実と、神のご意志とは相いれないものへの執着です。日々の営みの中でこの道をただ進むことによって、どんな形の不利もありません。あらゆる面で、すべてが順調だと感じるでしょう。この感覚によって、あなた方人間の道(やり方)と神の道とを見分けることができます。ここで今一度、プロセスが双方向に働きます。まずはあなたの準備がすっかり整い、あらゆる思考と意図において自分の意志と神への欲求を手放すときにだけ、神のご意志が明確に示され、答えを受け取れるのです。

 自分自身を手放そうという意欲が、ドアをノックします -- 他の何物でもなく、これだけがドアを開くのです。あなたの意志(身勝手さ)が神を第一に据えようとする望みよりも強いうちは、神の存在の確かさを知ることはないでしょう。どれほど神について語り、考え、祈り、瞑想しても、そのときまで神はあなたにとっての現実とはなりません。神はおぼろげで抽象的なものとなり、日々の生活に息づく現実の存在とはならないのです。ですから、みなさんにお伝えします。今なお疑いの根が潜んでいても、神の前に、あなた個人の意志を犠牲にする用意をしてください。もしも本当に用意が整い、その選択肢がまったく気に入らないとしても受け入れる準備ができ、神のご意志にかなえば、あなたは霊的な進歩を通して最も重要な節目を越えることでしょう。そこに至るまでのことは、どれもあなたの道の上にある偉大な神の境界を超えるための理屈や準備にすぎません。

 手放しましょう、親愛なるみなさん!もちろん、神はまだあなたにとって未知のものです。ですが、その姿を見ることができなくても、神を信じるのです。あなたに与えられる選択肢がたとえ気に入らなくても、それは自分のために、神のご意志によるものだと証明されるかもしれないのです。みなさんにお願いするのはそれだけです。日々、種々の方法でこのアドバイスを実行できない人などひとりもいません。これはささやかなものの場合と同じく、重大な決断にも当てはまります。ある意味では、本当に大きな決断から始める方がやさしいかもしれません。それはあたかも冷たい雨の中に踏み出すようなものでしょう。ゆっくりと、段階を踏まえて進む方がやさしいと思う人もいれば、早く終わりにしてしまいたいといきなり飛び込む人もいます。ひとたび踏み出してしまえば、初めに想像していたのとは違い、雨はまるで冷たくないことがわかり、さらには、むしろあたたかく心地良いものにさえ感じられることでしょう。あなたのあらゆる問題に、あらゆるレベルで癒しの力が与えられ、これまでの人生で知り得なかった素晴らしい調和が、安全が、勝利がもたらされます。あなたがプロセスと共に歩み、そこで要となる一歩があなたの霊的な生を理論から実践へ、非現実から現実へと向かわせるなら、人生の中の小さな問題の領域で自分の意志を手放して段階を経て雨の中に足を踏み入れるのか、ひと思いに雨の中に飛び込み大きな問題に対処するのかは問題ではありません。ひとたびあなたが自分の意志を犠牲にし、心の底から神があなたにとっての現実になったなら、すべての疑いは消滅します。

 友よ、みなさんの多くは、自分が神に対して実際はどのような無意識のイメージや信念を抱いているのかさえ知りません。自分に問いかけてみれば、どれほどたくさんの異なる答えがありえるのかに驚くことでしょう。ある人の潜在意識、または無意識に隠れた神のイメージ -- もちろん、頭で考えたものではなく感覚的なもの -- は、あなたに向かってちっちっと指を振る、とても厳しい物知り顔の教師のぼんやりした印象であって、人間の問題の多くを理解していませんでした。そうした神の概念は、どこか別のイメージから来たものかもしれません。今生か、過去生の父親のイメージということもあるでしょう。こうした概念は危険なまでに神のイメージを染め上げるかもしれません。その危険性は自覚しておくべきです。神は自分たちの人生に関心がないのだから、自分の問題が神に示されることなどありえないと思う人もいるでしょう。これは真実から程遠い見方です。どんな些細なものであれ、あらゆる決断が、あなたのあらゆる行為や姿勢が、ひとつ以上の霊的法則と直接つながっているからです。ある問題を抱えて神のもとに赴くのは、不敬とも言える行為ではと思う人もいます。これもまた、大きな間違いです! どんなものであれ、神の前に携えることができない問題などありません。間違いなく、神はどんな人間よりも、精神分析医、医師、科学者よりも、あなたのことをおわかりです。どんな問題を手に神のもとに赴こうと、神に助けを求め、自分よりも神を信頼しようとすれば、神は自分を理解し助けてくださるのだと、しかと心に刻んでおくべきです。ですから、神と向き合うのをためらわないでください。あなたが抱いている可能性のある誤った神のイメージは、家庭での影響や、同じくそうした概念に影響を受けた宗教指導者の影響から来ていることが多く、そのイメージはとても有害です。

 親愛なる友人のみなさん、ここで話したことは「霊的なダイナマイト」です。やり抜くのは難しいでしょうし、自分との戦いを意味することになります。ですが、もしあなたが真摯に自分の意志を神のご意志に委ねれば、人生のすべてが変わるのがわかるでしょう。ですから、今日の話を聞いた方は、誰もが自分の内側に入り、尋ねるべきなのです。「私の人生で、神はどこを変えたいとお望みだろう?」と。そして、戦いに備えましょう。じっくり時間をかけ、慌てたり、表面的にすませたりしないでください。中途半端に取り組んで、答えを受け取っていないと言い張り、自分をあざむかないでください。心から向き合わなければ、何も受け取れないのです。あまりに強く望んでいるがゆえに、それが神のご意志に違いないと自分に言い聞かせ、そうだと思い込もうとしないでください。手の内をすべて神に明かし、自分を空っぽにするのです。すべてを手放す準備をするのです。数週間、または数か月かかってもかまいません。これを今のあなたの目標としてください。今なお、あなたの中の何かが望まずにいるためにそうできないのなら、それを認めてください。その方が遥かに良いのです。「今の私は、準備ができていません」と言うといいでしょう。そして、他のやり方で歩み続けるのです。低次の段階で歩を進めるうちに、おそらく1年もすれば、ずっと遠くにたどり着いていることでしょう。ただ、何かを言い訳にして、神に身を委ねるのを完全にあきらめてしまわないでください。この方法で正直になり、霊的な進歩の偉大な節目を超える準備をするのです。ただし、もしあなたが犠牲という近道をとることができれば、あなたにとって多くの、とても多くの意味で、素晴らしい解放となるでしょう。

 今日のレクチャーを終わりにする前に、デイリー・レビュー(日々の振り返り)という強力なツールを使う練習について、みなさんに思い出していただきたいと思います。やり遂げるために、極端に自己成長を遂げている必要はありません。誰にでもできる練習です。その日を振り返り、いかなる振る舞い、状態、形であれ、不和を生じた事柄をすべて思い浮かべる、それだけです。初めはなぜそうするのかわからなくても、何が起きて何を感じたかをただ書き留めてください。しばらく続けていると、あるパターンが見えてきます。それでも、あなたの内なる性質のどこが間違っているのか、まだ手がかりはつかめないかもしれません。ですが、繰り返されるパターンを見るうちに、どれほど相手の方に落ち度があったとしても、自分の内に不和を引き起こすものがあるに違いないことがわかってくるでしょう。不幸な出来事や感情が何度も繰り返されるなら、それはあなた自身の魂を解き明かす手がかりです。繰り返される出来事は、その反応も合わせて2、3通りに変化しますが、そこには基本的かつ内在する問題があるはずです。あなたはそれを認め、学ぶことができるのです。

 振り返りには毎日10分または15分もかかりませんし、間違いなくみなさんにもできるはずです。1日の中で調和を乱したことをすべて書き留める必要はありません。特定のキーワードだけでいいのです。続けるうちに無意識を意識化できるようになり、自分自身の内なる傾向を発見するでしょう。何よりも、あなたの人生にある明白なパターン、振り返りをやらなければ気づくことのなかったパターンに気づくことは間違いありません。今あなたがすべきなのは、それだけです。そこに手品の種はありません。しばらくこのデイリー・レビューを続けたら、メモをすべて読み返し、それぞれの出来事や自分の反応を思い出すのです。少なくともパターンに気づけるかどうかを確かめ、自分自身に問いかけましょう。「自分の内に、神の法則から逸脱している点が見つかるだろうか?」と。

 こうしたパターンを、発見済みの自分の欠点の一覧と照らし合わせるのです。自分の感情はどんなものか、自分の欲求のエネルギーの流れが本当に望んでいるのは何なのか、こうした感情と傾向は本当に神の法に従うものなのかを、自分に問いかけてください。このパターンの中で、遠くから、または間接的にあなたの欠点とつながっているものについて、神に教えを乞うのです。これは、この道の只中に至る方法です。神の助けなくしては、この道の本質であり、鍵であり、それなくしては自分の内なる神聖さに達することはできない自己についての知識を得ることは極めて難しく、不可能とも言えるでしょう。ごくわずかな時間しかかかりません。みなさん、お願いです。ご自身のために、どうかやってみてください。


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