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Pathwork Guide Lecture No. 29 能動的な力と受動的な力 - 神の意志を見つける
THE FORCES OF ACTIVITY AND PASSIVITY -- FINDING GOD'S WILL UNEDITED版 1958年5月9日

 宇宙には、12の基本となる能動的な力と、12の基本となる受動的な力、もしくは原理があります。「ピスティス・ソフィア*」の教えによると、これらの力は最高次の光の領域に一同に集められ、能動的、受動的原理のそれぞれの代表または象徴である個々の存在に導かれています。それらの力はそれぞれの在り方としてまったく完全なのです。宇宙全体にこれらの力が行き渡り、無限の多様性を持ち、無限の組み合わせが可能です。ついでながらに言うと、「ピスティス・ソフィア」の中では『24の不可視のもの』という表現で、それらの存在と原理について述べられています。それらは、今私が述べた最高次の領域の下にある領域では見ることができません。しかし、その最高次の領域においては、これらの原理、存在だけでなくその力も実際に見ることができます。それらは、大気中に張られた美しい糸のような光線の形態で見ることができ、多彩な色や色調だけでなく、匂いや音色を持ち、人間の知らない他の知覚手段によってはっきりと分かります。

 私がこのことをお話ししているのは、ただ単にこれらの高次の領域についての情報をあなた方に与えるためだけではありません。なぜなら、それ自体には話すに足る理由がないからです。この知識が興味深いから、ということでは十分な理由にはなりません。というのも、これらのレクチャーからあなたが得るべきことはいつも、まさにここ、そして今、あなたの実際の人生において活かすことができる有益なものでなければならないからです。宇宙に存在するすべての力や原理は、個々の人間の魂にも浸透しているので、はるかに遠く、漠然としたもののように思える情報の断片からもあなたが引き出せる有益なものがあります。言い換えると、あなたはそれらとのつながりを作ることができますし、作らなければなりません。なぜならば、宇宙のすべてがあなたの中にあるからです。

 人間がこれらの原理や力をどのように使い、引き出し、管理しているのかがその人の人生、調和、そして幸せを決定づけます。私は折につけ、能動性と受動性が宇宙に存在する2つの基本の神聖なる側面だと申し上げてきました。ご理解いただけたと思いますが、能動的な原理も受動的な原理もひとつしかないのではなく、それぞれに12あるのです。ここで私たち人間にとって疑問が湧き上がります。私たちは、どのような場合に能動的でいるべきなのか、またいつ受動的な態度を持つべきなのか。能動性を得るために、いつあなたの自由意志を使い、受動性を得るためにいつ自由意思を使えば神の意志を満たすことができるのか、という疑問です。つまり、あなたはこのような表現でこれについて考えるのですが、ここには根本的な間違いがあります。神の意志を満たしたいとき、あなたが受動的になる必要があるというのはまったく真実ではありません。実際は、神の意志を満たすためには大きな能動性と意志の力とが必要なのです。

 受動的な状態の流れに向かう経路の中で能動的な力を使うと、そこに過密状態が生じ、その結果人間にとってそれがフラストレーションになります。一方で、能動的な原理が機能し自由に流れるべき経路に入りながら受動的な力が能動的な力と入れ替わると、過密状態は生まれませんが、今度はむしろ詰まりや停滞を生み出します。能動的な力の間違った使い方によって生じたこの不活発さ(停滞)は、全体的な進化だけではなく、人間の魂の特定の側面において、内面の人格の形成全体に少しずつ影響を及ぼします。

 特にこの道の途上にいる人は、その力が何に関して能動的であるべきで、何に関して受動的であるべきかを見つけ出さなければなりません。そこで、あなた方の理解を助けるために、このテーマに少し光を当ててみましょう。この先、あなた方も神の意志を満たすための受動性というものなどないことを理解するでしょう。あなたが能動的であなたの意志の力を使うべきとき、また意志の力を使わなければならない場合、常にあなたの知っている神の法則を順守しなければなりません。ここでいう意志の力というのはセルフウィル(身勝手さ)ではなく、この2つはまったく別のものだと理解してください。これを理解するのは、あなた方のように個人的なガイダンスや特別な教えを受けていない人にとってさえ難しいことではありません。現存する宗教や思想の中に神を見出す人びとや、高い倫理観や道徳観を持つ不可知論者や無神論者のように特に神に近いところにいない人々にとっても同じです。もし彼らが特定の問題に直面し、正直で探求心に満ちた問いを自己に問うているとしたら、何が正しく何が間違いなのかを彼らは知ることになります。そのためだけにでも、必ず意志の力は必要なのです。

 しかし、不幸にも時どき、受動的な力があるべきところでそれが能動的な力に置き換えられたりすることがあり、そのような場合、周りの状況や他の人びとを変えることができなくなります。人は物事が思い通りに行かなかったり、他人が間違ったことをすると、内心ではそれに抵抗します。こうして能動的な動きは、受動的なものに取って代わり始めます。あなたが感情を感じ、それを根源まで辿るとき、その背後には欲求があることを発見するでしょう。欲求とはつまり能動性です。あなたは正しい欲求を持っているかもしれません。その欲求とは、たとえば浄化の道を歩むこと、愛を学ぶこと、弱さを乗り越えることなどです。または、初めは痛みを伴うのですが、自分に誠実であることも欲求と言えます。これらはすべてポジティブで建設的な欲求で、それゆえに、能動的な力がこれらの欲求を満たすために使われます。しかし、ネガティブな欲求もあります。恨み、恐れ、憎悪やその他似たようなものが心の中にあるときは、いつもそこにネガティブな欲求があって、それにより能動的な力が受動的なものに代わって使われているということを示しています。間違った欲求は決して満たされることはないので、もしそれが満たされたように見えても、それはごく一時的なもので幻想であり、結局は欲求不満に陥ります。実際のところ、あなたが受動的な状態であるはずのとき、そのような状況の中でどのような態度をとればよいのでしょうか。状況や他人は変えることができません。あなたは頭ではそれをとてもよく分かっていますが、あなたの感情はいつもそれが理解できているでしょうか。もちろんできていません! 相変わらず、あなたの感情はあなたが知識として理解していることに従おうか、従うまいかという状況です。適切な態度とは、あなたが変えることができないものを受け入れること、すなわち、あなたのコントロールが及ばない他人の行動や態度、状況を受け入れるということなのです。これらの現実と真実を、あなたの表面上の知識同様、感情的にも受け入れることで、間違って使っていた能動的な力と受動的な力の流れの中に新しい流れを導くことになります。あなたは完璧ではなく、完璧ではありえないので、あなたの不完全さとは違っていたとしても他者の不完全さに腹を立ててはいけないということを知り、この地球という領域の不完全さを受け入れることでもあります。そしてそれは、あなた自身の不完全ささえも受け入れることを意味しています。けれどもそれは不完全のままでいるべきだという意味ではありません。あなたはただ、今の自分の不完全さを受け入れ、それらが実際に存在しているということを受け入れなければならないという意味です。あなたは今、まだ受け入れていない不完全さをたくさん持っています。ある意味ほとんど意識せずにその状態に抵抗し、抵抗することによって本来受動的な力があるべきところで能動的な力を使っているのです。この受動的な力が培われたあとでだけ、違う種類の能動的な流れを加えることができ、あなたは少しずつこの不完全さを乗り越え始めることができます。しかし、あなたが自分では変えることができないもの、または別の内面の活動でのみ変えることができるものに抵抗している限り、プレッシャーと内面の越えがたい壁に突き当たります。あなたが手放さず、間違った方向に押している力を緩めない限り、あなたの魂の中に秩序を作ることができません。あなたの欲求が間違った方向に突き進んでいることを認識できるように学んでください。もし間違った欲求からプレッシャーを取り除くことができれば、あなたは能動的な力が必要とされる良き欲求、適切な欲求のために残されている、より大きな強さを手に入れることができるでしょう。しかし、あなたのその能動的な力は、今、弱すぎるのです。それはなぜでしょうか? 他者に比べてあなたには少しの強さしか与えられていないのではなく、あなたが自分自身を上手く管理できていないからです。あなたは無秩序、混乱、不適切な管理がそこにあることを許しているのです。あなたには、可能な限りあなたの人生を満たすためにあなたが使うことのできる強さが、まさにちょうど必要な分だけ与えられているのです。この強さを無駄にせず、適切に使うかどうかはあなた次第です。

 そして、表面的には弱く、意志を持たないように見える人たちが、明らかに強い意志を持つ人や強情な人に比べて能動的な力を少ししか使っていないとは、一瞬たりとも信じないでください。しばしばそれは逆なのです。前者は、他のぶつかり合う心理的傾向があるために、単純に表面的には彼らの意志を出さないだけなのです。しかし内面では、欲求不満を抱いているその意志のために、まるで焼けているかのように怒りを抱えています。そのために、その意志が間違った方向へと押しやるのです。そのような人たちは、意識的にはこの状態に気づいていないかもしれませんが、その徴候は必ず彼らの健康や強さ、そして心の平安の状態として姿を現します。あなたが、思考の中だけでなく自分に嘘もつかず、あなたの中の最も深いところの感情において、直接的な行動では今すぐに変えることができないことを受け入れ、あなたの意志でプレッシャーをかけるのをやめて、受動的でいるべきところで本当の意味で受動的になる瞬間、あなたは今まで知らなかった新しい力や生命力を手に入れるでしょう。

 ここまでのところ、私の話はまだ分かりにくいかもしれません。それは、あなたが内面で本当には自分がどのように感じているのかを見つける方法や、それをどのように始めたらよいのかを知らないからです。それは、あなたが考えているほど、その半分も難しいことではありません。これに関して根底となる要素は、もちろん自分自身を知ること、自分自身に適切な問いを発することです。これを避けられない必要性として認識し、取り組むことをいったん決意すれば、これはとても簡単なことなのです。あなたが不愉快な感情や怒り、不安、恨みなどを感じるたびに-あなたの日常は、そんな感情でいっぱいでしょうが-他者が間違っているのだと考えてそれを正当化するのを止めてください。その代わりに、あなた自身に、あなたが本当には何を欲しているのかを問うてください。なぜなら、あなたの中に何らかの感情が起こるとき、そこにはあなたが欲する何かがあるからです。そうでなければ、あなたはそのように感じることはないでしょう。こう言うからといって、私はすべての感情が間違っていると言っているわけではありません。しかし、相手がどれほど間違っているとしても、不愉快な感情というのは、必ずどこかに間違った前提を有しているのです。すでに説明したように、この間違った前提とは大抵、受容が優勢であるべきところの能動的なプレッシャーであると言えます。このプレッシャー、欲求を見つけ出し、私が述べたこの視点からそれを調べてください。この視点から自分自身を観察するには、訓練と習慣づけをする必要がありますが、それができればあなたはこのことを私がお話ししたように考えることができるようになります。これがどれほどあなたにとって役立つことでしょう!いったんこれを始め、止めずに続ければ、これがあなたの第二の性質になります。そして、生きていく上で欠かせない良い習慣になります。それは、日々の魂の浄化の一部なのです。この方法を始める前には、あなたは絶え間ない混乱の中にいます。あなたは明晰ではいられず、自分の中で何が起こっているのか、自分が何を望んでいるのかということに気づくこともありません。しかし、いったんこの視点からこれらの感情にあなたの意識の焦点を当て始めると、感情の後ろに隠れている欲求が何なのか、本当にとても簡単に分かるようになります。これがもちろん、私が常にお話ししているデイリー・レビューの目的なのです。しかし、もしこのデイリー・レビューという方法でできなかったり、やりたくないという方がおられたら、他にも方法はあります。いつでも自由な時間を持てるときに、その前の数時間に思いを巡らせ、その間にあなたが本当に感じたことを考えてみてください。または、特定の経験について、自分が本当に感じたことを考えてみてください。そしてそのあと、あなたの感じたそれぞれの感情について自分自身に尋ねてみてください。「私の欲求は何?」と。答えが見つかるとき、あなたはすでに解決の糸口を手に入れているのです。その答えは、他者があなたに対して間違ったこと、もしくは間違っているように見えることをした、というようなものであることが多いでしょう。そこでは、あなたは自分がコントロールできないことを変えたいと能動的に欲しているので、受動的でいるべきところで能動的でいる、という状況を手に取るように観察することができるのです。間違った場所でこれらの絶え間ない活発な欲求が繰り返されるために、もしそれを見さえすればそれを変えるための力を持っていることをあなたは完全に忘れているのです。なぜなら、あなたには大きな力が与えられているのです!それはあなたがた一人ひとりに与えられているのです!けれどもあなたはそれに気づいていません。それはなぜでしょう?それは、あなたが常に自分の力を間違った方向に使っていて、無駄にしているからです。その力を非生産的に使い果たしているのです。あなたは自分の内に逃げの手段を作っているのです。そしてそれは矛盾した欲求から生じているのです。ですので、もしあなたがこのように自分自身を調べることを学べば、自分の中に間違った、そして決して満たされることのない欲求がたくさんあることに気づくだけでなく、相反する欲求も見出だすことでしょう。あなたは、2つの不可能なことを同時に望んでいるのです。重要なことは、ただあなたの内面にあるこの矛盾した状況に気づかなければならない、ということです。そして気づくためのただひとつの方法は、どんな形のものでもよいのですが自分が行うデイリー・レビューであり、自分に正直でいることであり、自分の感情やその背後にある欲求を調べることなのです。親愛なるみなさん、これが成熟へのプロセスです。なぜならば、あなたの無意識や相反する欲求は常に未熟だからです。それらはいつも、不可能なことを望みます。子どもがよくするように、手に入れられない何かを欲し、まだ代償を支払う準備のできていないことを望むのです。あなたがこの角度から問題を考えず、それゆえにそれぞれの欲求を満たすためには支払うべき代償があることに気づいていないということは、少したりとも状況を改めることにはなりません。自分の望む目標を達成するために必要な代償を支払いたくないと思うがために、あなたはその問題を無意識の中にとどめ、それゆえに子どものようにそれを避けて通ることができると思うのです。あなたにとって、正義の法則に気づき従うことは不快なことで、それを無意識の中にとどめ、その結果、身体的のみならずあなたの存在のすべてのレベルにおいて不健康になります。ですから、親愛なるみなさん、この視点からあなた自身を観察するように努力してください。あなたの本当の望みは何なのでしょうか。そして、その答えを見出すとき、あなたはその知識がどれほどの安堵をもたらすのかに驚くことでしょう。そして、あなたが本当に進んでそれに取り組み、いかなるごまかしもいい加減さもなく全力で向き合えば、その答えを見出すことができるのです。あなたは、そのほんの知識に過ぎないものに安堵します。というのも、それはあなたの人生の不運を明らかにし、神の正義、そしてこの宇宙の素晴らしい秩序への信頼を強めるからです。神はあなたに操り人形でいてほしくはないのです。そして、神にあなたの人生をまかせ、自分の思うように行かないと隠れたやり方で神を非難する、神に頼りきって生きるという間違った神聖なる概念に依存しないでほしいのです。神は、私がここで示している方法によってのみ実現できる、自立した強いあなたでいてほしいのです。あなたは、あなたの人生を満足の行くように導くことができます。しかし、神がそれをあなたに代わってやってくれることはありません。神は、あなたにあなた自身の人生を歩ませます。もしあなたの人生が混乱に陥るときには、決して他者や環境ではなく、あなたが変わらなければならないのです。しかし、受動的になるために過度に活発な流れを引き起こしたり、能動的になるために間違った受動的な流れを起こし始める瞬間に、あなたは環境や他者を支配することさえもできるのです。そしてそれはあなたから発散され、他者の潜在意識に間接的に影響を及ぼします。それは次第にあなたへと戻ってくるのです。

 さて、神の意志とは何かという質問がまだ残っていましたね。私がお話ししたのは、神の意志を満たすためには受動的にならなければならないと信じることは間違っているだけでなく、それは不可能なのです。そして神の意志を満たすということは、あなた自身の内にある抵抗を克服することを意味するので、その意志なくしては神の意志を満たすことはできません。そのためには、能動性が必要なのです。別の経路へと持ち越してしまったり、いわゆる違う道筋へと逸れてしまうこともありますが、やはりそれでも意志の力の能動性と強さが必要なのです。受動性は必要ですが、それは神の意志を満たすために必要なのではありません。あなたはセルフウィル(身勝手さ)と能動性を混同しているのです。まず、自由意志との比較においてセルフウィルとは何かを明確に定義してみましょう。セルフウィルとは小さなエゴの意志です。自由意志とはすべてを含みます。つまりあなたは、自由意志を良いことにも悪いことにも使えるのです。それはあなた次第なのです。誤解を招かないためにも、この言葉の定義を理解してください。セルフウィルとは小さな無知なるエゴであり、ローワーセルフの意志なのです。

 神の意志とは何かを理解するには、あなたはセルフウィル(身勝手さ)から自由になり、あなたの能動的かつ新たな意志の力を使わなければなりません。最初に、願望に満ちた思考や自己欺瞞なしに、真に神の意志を理解したいと願いましょう。次に、あなたのセルフウィルを脇に置きます。そして、神の意志を見出した後さらに能動的にあなたの意志の力を使えるように準備しましょう。そうすればずっと神の意志に沿って進むことができます。それぞれすべての物事の中にこの神の意志が宿るということを明らかにするために、まれに特別な啓示、つまり神秘的な超越が必要な場合もあります。神の意志は常にあなたの内に、そしてあなたの無知の背後にあります。あなたがマスク --- つまりあなた自身やあなたの動機、そしてあなたの人生を見るときにあなたが使っているバラ色のメガネ --- を取り去るとき、神の意志ははっきりと表れます。そしてあなたは何の疑いもなしに、あなたの本当の欲求を発見し、それらを書き出し、「私が自分自身に正直になるとき、これが私の本当に欲しいものだ」とあなた自身に対して言うのです。あなたはしばしば、あなたのこの欲求がいかに意識的な欲求とかけ離れているかに驚くかもしれません。あなたの本当の欲求が意識的な欲求と相反しているからといって、あなたのすべてが軽蔑に値するなどと信じてはいけません。違うのです。あなたはたくさんの層から成っていることを知らなければならないのです。つまり、おおまかに言うとハイヤーセルフとローワーセルフの層です。その両方があなたの中にあるということを受け入れてください。すべてはそれで正しいのです。そして、あなたは自分自身に対する評価において、どちらか一方を過大評価することなく、均衡を失うことはなくなるでしょう。

 さて、それでは、あなたのローワーセルフの欲求に向き合い、それらが再び無意識下に逃げ込んでしまうのを許さず、あなたの意識にその欲求をもたらし、その影響、意味、重要性、その結果を考えて、あなたが知る限りの霊的法則とそれを比べてみるのです。そのときあなたは、十中八九、神の意志が何であるかを知ることができるでしょう。必ずそうなります。あなたを今の状態に至らしめた種々の連鎖にしっかりと向き合う、それだけのことなのです。ですので、もしあなたが今、特定の状況の中にいて、その状況を変えたいのなら、もしくは決断を下すべき状況に直面し、その決断がどうあるべきか分からないのなら、あなたが神の意志に向けてそれを手放さないとあなたにはもちろん神の意志は分かりません。しかし、あなたがあなた自身や今の状況の原因であろうと思われる、あなたの内にあるこれらの欲求について、洞察の深い質問をする瞬間に、明確に、力強く、そして自明のごとく答えが導きだされます。この目的のために神の助けを求めると、ますます早く、より良くその答えが導き出されます。けれども、もしあなたがこの最初のステップを踏み出していなかったら、神はいかなる助けも与えません。この最初のステップとは、常に自分自身を知ること、自分に正直になること、浄化への真摯な良き意志を持つこと、そしてどんな場合にでも神の意志を行うことです。もちろんそこには賢明で成熟した態度が存在し、決してその日その日で変えることができるものでも、あなたの努力なしに変えられるものでもありません。もしあなたが現在あらゆることに不満を感じていたり、下すべき決断が明確でないのなら、重要なことは、神に決心させてもらおうとか、この不快さを取り除いてもらおうなどと期待しないことです。このプロセスにおいて、あなたの能動的なかかわりなしにそれは期待できず、あなた自身の中にまずはそこから始めるべき何かの間違いがあるはずで、それを見つけ変えようと望まなければならないのです。この間違いが必ずしも罪深い行いや思考なのではなく、間違った経路から湧き上がり、霊的法則を冒涜する未だに認識されていない感情なのだということを忘れないでください。神がもしあなたのこの良き意志を知り、そしてあなた自身が自分を見つめ、マスクを引きはがすことを喜んで引き受けるためのワークと祈りとを一緒に行うなら、神からもたらされる答えはかつてないほどに明確になり、あなたの中に疑いの余地を残すことはあり得ません。しかし、あなたがこの順序に抵抗し、ローワーセルフの怠慢、未熟さに負けてしまう限り、あなたは間違った反応や、抵抗しているローワーセルフに見合う解釈から来る間違った直観を持つことになります。口実や言い訳は通じません。正しくて良い直観と間違っている偽の直観とを見分ける確かな方法は、その直観を感じたとき、幸福感や安心感、自由、究極の正しさや平和を感じることができるかどうかです。もし、あなたの意志が自己中心的なものから解放されていて、純粋で謙虚なら、それがどのような形で表現されるとしても、神の意志は必ず明らかになります。大抵の場合、特定の啓示などは必要ではないのです。ただあなたの善良な努力や祈りとともに神の助けを求めれば、その答えを見つけ出すことができるのです。神は天使を遣わしてあなたを助けるでしょう。あなたは、スピリチュアルな世界からさらに多くのサポートと導きを得られます。あなたはただ、「私は、本気でそうしたい」と決意すればよいのです。そうすれば、神の助けが得られます。そして、神の意志を知ることに対して何の問題もなくなります。神の意志に関する答えと鍵はあなたの中にあります。それは、あなたの不完全さの中にあり、あなたが霊的法則から外れて、その法を破っているところにあります。それは、あなたの無意識の欲求の流れの中にあるのです。そして、その答えがもたらされると、それによってほぼ自動的に能動的なプロセスが正常に機能し始め、正しい方向へと流れ始めます。受動的な力にもこれと同じことが起こります。みなさん、この変化は必ず起こります。けれども、別の方法でこうなることはありません。そしてそれは、あなたの人生全体をより良いものへと変えていくのです。さてみなさん、別の質問をお受けする前に、このテーマに関して何か質問がある方はおられますか?

 質問:欲求はなぜ常にローワーセルフから来るのでしょうか?

 答え:私はそうは言っていません。それどころか、適切で大変重要な建設的な欲求もあると、はっきりと示しています。

 質問:おそらく私が誤解したのですね。

 答え:あなたにはその部分が耳に入っただけです。このレクチャーを読むと理解するでしょう。


 質問:しかし、ハイヤーセルフからくる欲求とローワーセルフからくる欲求はどのように見分けるのですか?

 答え:その欲求とそれらの本当の動機を調べてください。はっきりと簡潔に自分自身に問いかけてください。「私が欲しいものは何か?なぜ私はそれが欲しいのか?この欲求の背後にある本当の動機とは何だろうか?」と。ご存知でしょうが、それは次のような場合もあります。あなたは背後に良い動機を伴う正しい欲求を持っていますが、それにもかかわらず同時に不純な動機を含む欲求を持つことがあります。あなたがこれに気づいた瞬間に、あなたはすでに浄化に向けて何らかのことを成したことになります。浄化するということは、あなたがすでに完璧であることを意味するだけではありません。完璧になろうとするそのプロセスがすでに浄化なのです。「私には良い動機に加えて、この良い動機の下に隠されている利己的で虚栄心の強い動機もある」と言うことは、このプロセスにおいて不可欠な部分です。このことを自分自身に向かって言えることにより、あなたはある程度浄化されていることになります。ひとつ例をお話ししましょう。たとえば、ある人が霊的に大変能動的で、汚れのない純粋な動機を持って他者を助けているとします。これらの良い動機は間違いなく存在しています。けれども同時に、ローワーセルフの欲求の流れが入り込んできます。おそらくそれは、エゴであり、人より抜きん出ていたい、賞賛されたい、権威になりたいという虚栄心です。動機がこのように混在することを静かにそして率直に認識する瞬間、それはすでに浄化のプロセスなのです。そうすることで、あなたはあなたの意識をかなり高いレベルにまで上げたと言えます。それを認識するだけで、仮にあなたがまだ不純な動機を捨て去ることができていないとしても、そのような明確な自己認識があれば、あなたの身体と魂が反応を起こし、何かが変わり始めます。なぜなら、あなたは真実に近づいているのですから!最も深刻でよく見られる霊的法則への冒涜は、真実の中に生きるということを見過ごしてしまうことです。想像してみてください。私がこう言うと、あなたは私が嘘をつくべきではないと言っていると思うかもしれませんが、まったくそういう意味ではありません。人は正直であるべきで、嘘をつくべきではないというのは自分で作り上げた社会の通念なのです。しかし、自分に対して嘘をつくことは、しばしば他者に対して嘘をつくよりもはるかに危険で有害なのです。なぜ私は、それがはるかに有害だと言うのでしょうか?それは、あなたが他者に嘘をつくとき、少なくともあなたはそれに気づいています。そうですね。それゆえに、あなたは自分自身に対して嘘をつくときに比べて一歩真実に近いところにいるのです。あなた自身に対して嘘をつくとき、あなたは嘘をついていることに気づいていません。それは気づけないからではなく、気づきたくないからなのです!ですから、あなたは完全に真実から離れていることになります。自分に嘘をつくことは、神とあなたを分離させる大変深刻な冒涜なのです。あなたは背後に作られた暗い壁に苦しめられることになり、遅かれ早かれ不幸せで、この壁によって作られた外的な葛藤の一部となるのです。この壁の後ろ側で、あなたは孤独で自分を見失います。あなたが光を見つける唯一の方法は、この壁を壊し、たとえ不快なことであってもその壁の後ろにあるものと向き合うことです。この取り組みの最初の瞬間は戦いです。しかし、あなたがそれをやると決めた後、そしてあなたがこの壁の最初のいくつかの石を崩した後、あなたに訪れる安堵は途方もなく大きなものとなるでしょう。そしてあなたは、初めてこの道にいる意味が何であるかを真に知ることになるでしょう。みなさん、あなた方は最終的に、他のどんな方法でもなく、このようなワークの価値を知るでしょう。

 あなた方に理解してほしいのは、もしあなたが神の意志を満たしたいと決意すれば、あなたはもはや不自由な生き物ではないということです。まったく逆で、霊的法則に沿って生きると決意することは、意志の力の最も強くそして自主的な努力を必要とするのです。そのためには、何回もお話ししているように、あなたの最も深いところにある動機や隠された流れを認識することが必要です。何にも捉われない自由な人だけがそれをできます。一方で、人びとが常に彼らの小さなセルフウィル(自己意志)を使うと決めると、彼らはもっともっと縛り付けられ鎖につながれたように身動きが取れなくなるでしょう。なぜならあなたが神聖なる法則に沿って生きれば生きるほど、より自由になるからです。あなたが神聖なる法則を破れば破るほど、あなたはより奴隷となるのです。自分自身の隠された動機に気づかない人は、それ以上自分の人生を自由へと導くことはできません。そのような人は、完全にローワーセルフや後ろへ前へ、左へ右へと押したり引いたりしてその人を振り回す認識されていない欲求の奴隷となるのです。

 質問:今おっしゃったことは、何かやりたいことがあるときはいつも神に「これはあなたの意志ですか?」と聞くという意味でしょうか?もしくは、自分がやりたいことが神の法則からはずれていないのか、いつも調べなくてはいけないのでしょうか。

 答え:次にお話しする方法をお勧めします。まず、あなたがこの道にいるとき、いつもお勧めしているように、あなた自身についての棚卸しをすることから始めます。あなたの欠点や特質、長所、言い換えるとあなた自身が何者であるかということだけでなく、あなたが欲しいと思うもの、そしてあなたの欲求が本当は何であるのかと言うことをも見つけるのです。それをやり終えたら、毎日のあなたの感情を自己分析する継続的なプロセスを始めてください。しばらくすると、どのような点であなたが感情の流れの中で神聖なる法から明らかに逸れているのかが自然に分かるようになります。あなたは、これほどまでに遠く隠された欲求の本質を発見するとすぐに、特別の形而上学的な知識などなくても、それが神の意志とは正反対にあることを知るでしょう。他のケースでは、同じ欲求の流れの中にある純粋な動機と不純な動機をもう少し深く調べ、区別することが必要かもしれません。危機に瀕している問題について考えるときに、あなたが真剣に考えているその行動が正しいか間違っているか、ということを自分自身に問いかけることによって答えが見つかることはほとんどありません。誰も反社会的で罪深い行動を取ろうとは思わないのです。それゆえに、あなたが直面する決断は、原則的にはどちらにしても正しいということがあり得るのです。しかしながら、それぞれの人にとって、正しいやり方はただひとつだけで、そのほかはたくさんたくさんの間違ったやり方だということになります。ですので、見かけ上良い動機の背後にある本物の正直な動機を考えてみなければいけないのです。行動そのものの道徳的な価値観ではなく、あなたにとってその行動が正しいのか間違っているのかを決定付けるのは本物の動機です。あなたがそれぞれの欲求のすべての動機を見つけない限り、あなたにとっての正しい行動を知ることはできないでしょう。自分自身の努力を怠り自己を知るためのワークに取り組まずして、神に向かってこれこれをすべきかどうかを教えてくださいと単に尋ねることは正しい方法ではありません。確かにそれが正しいという稀な状況もありますが、一般的には、そしてパターンや葛藤に関係する何かがあるように見えるときには正しくありません。正しい方法とは、動機の後ろにある動機を見つけたいと心の底から決心することです。それが神の助けを求めて祈るということです。そしてそのとき、神はあなたを助けてくださるでしょう。理解していただけますか?

 さて、まだ質問が残っていますね。本当の動機を見つけ出してください。それは、表面にある動機を消してしまうという意味ではありません。本当の動機と表面上にある動機とが混じり合う別の部分を見つけ出す必要があるということです。そしてそのときあなたは答えを得るでしょう。

 一般的な質問に戻る前に、このテーマについてもうひとつお話ししておきたいことがあります。意志には、外的な意志と内面の意志があります。内面の意志とは、潜在意識下にある意志だけを意味するわけではありません。ここでお話ししている内面の意志とは、比較的容易に意識化できるものです。私はよく、第3チャクラや霊的な領域の自分の内面の声を聞いてくださいとアドバイスしています。あなたはそこで答えを受け取ることができるからです。もしあなたが、正しい方向性で抵抗や戦いを乗り越え対処することを心の底から決意すれば、あなた自身の内にあるこの部分から、正しいか間違っているかという感覚を得ることができるでしょう。もしあなたが、とても穏やかでリラックスし、あなたの内にある声に耳を傾ければ、そこから出てくるもうひとつ別の意志があることを発見するでしょう。さらに言うと、その意志の欠如を見出すかもしれません。この意志、またはその欠如は、しばしばあなたの外的な意志または意識的な意志と衝突しています。例をあげてみましょう。仮にある人が、その人の友人を真剣に愛したいと望んでいるとします。その人はそれが正しいと知っているためにそうしたいと望むのです。この欲求は外的な意志の中に存在しています。その人がもし静かになり、内面の意志に助言を求めたとしたら、その人は内面の意志がそのことと一致していないことを発見するでしょう。このような不一致を発見することは極めて重要です。というのは、あなたの内側にあるものを知らずして、どうしたらあなた自身をコントロールできるのでしょうか。自分自身をコントロールすることによって何かを抑制するということを言っているのではありません。むしろ人生の手綱をしっかりわが手に握るということを言っているのです。そのことを最初に発見しなければ、どのようにして間違った流れを癒すことができるのでしょうか。別の例、今度はポジティブな例を申し上げます。内面の意志は奥深くに大変静かに存在していますが、意識として存在します。ある人が自分にできることの他にその人に課されたことを実現し、現在の状況で自分にできることの他にその人の欠点を克服するために、自分の最善を尽くしたいと願っているとします。内面の意志はプレッシャーもなく、急がされることもなくそれに向けて導かれます。しかし、外的な意志が強要せずリラックスしていることが大切です。外的な意志の中のプレッシャーは、その人を緊張させプロセスを遅らせるだけです。内面の意志は正しいことや究極の目的のために必ずそこに存在しなければなりません。外的な意志は、ある特定の計画に沿って迅速に進むことを不可能にする人生の妨害や不完全さに対して穏やかでなければならず、余裕を持っていなければなりません。反対に、見るからに明らかな障害は成長を加速し、自分では変えられないことを受け入れることを学び、謙虚さやその他のことを学ぶための手段として自発的に経験されるべきです。そしてそのとき、障害は障害でなくなり、成長への踏み台となるのです。外的な意志は柔軟でなければなりません。つまり、変化に対して準備をしておかなければならないのです。外的な意志は、あるときには行動するためにより能動的になる必要があり、また別のときにはより受動的にならなければなりません。内面の意志は、その人の人生のすべての土台として、能動的でありながらも静かでいなければなりません。これらの言葉の意味を真に理解するためには、あなたはこのことについて深く、そしておそらく頻繁に瞑想をする必要があります。それでは別の質問に移りましょう。

 質問:戦争という場合においては、兵士が人を殺すという行為は神聖なる法則に反していないのでしょうか?

 答え:いいえ、それは神聖な法則に反してはいません。なぜならば、キリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言いました。この地球上の人類が、戦争が必要なほどに進化が遅れているのであれば、人は自分の国のために戦わなければならないでしょう。たとえすべての人が戦うことを拒んでも、拒むことによって悪がなくなることはありません。戦争は一時的に避けられても、決して悪はなくならないのです。戦争というのは数ある悪の表現のひとつにすぎないのです。戦争は原因ではなく、単なる結果なのです。それはまるで、父親が防御もせずに殺人犯が家に侵入し彼の妻と子どもたちを殺すのを許すのと同じことです。彼は愛するものを守らなければならないのです。そして悪と戦わなければならないのです。あなた方の現在の成長段階においては、残念ながら戦争はしばしば悪と戦う手段となっているのです。霊的な成長が進むにつれて、あなたはより深く問題の根源へと向かうことを学び、より良い方法で悪と戦うことを学ぶでしょう。現状では、人類はしばしば、自由意志や神聖なる法則を悪用する勢力と戦争で戦うことを強いられます。もし権力を使って他の人びとが神の望む生き方で生きるのを妨げる人びとが存在するならば、そしてもしあなた方の世界がこの間違いを取り除く手段を見出せないならば、その場合戦争はまだましな悪だと言えます。霊的な観点から見れば、死とは最も悪いことではないということをあなたは知っています。肉体の死ではなく、霊的な死こそが最も悪いことなのです。すべての人はその人が生きる状況や環境を含んで個々に判断されます。スピリットの世界においては、真の動機が行動よりも重要視され、その審判は一般的に集団的になされることはありません。それぞれの人が個別に判断されます。もしある人が国を守るために戦争に行くなら、それはその人が罪を犯したことにはなりません。その人の内なる態度、感情や反応、そして動機における良識や責任感が評価されるのです。

 質問:殺人罪による死刑宣告の場合、人間の法と一致する霊的法則とはどんなものですか?

 答え:霊的な見地からすると、極刑は間違っています。これは、先の戦争に関する質問の答えと矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。戦争の場合、国や人を守ることが問われます。人間にとって戦争は最後の手段です。攻撃する側の国家に住む人びとでさえ、大抵自分たちは義務を果たしていると思っており、全体像が見えていません。彼らは彼らの社会の法に従わなければならないのです。さもなければ、彼らは自分自身の人生をまっとうすることができなくなるだけでなく、彼らの周りの人びとの人生にまでさらなる困難を招くことになります。もう一度言いますが、すべてを一般化することはできません。というのも、神の法を満たすために人間の法を犯すことがその人の義務であるというような状況があるかもしれません。しかしそのようなケースはごくまれで、特別な使命を受けて地球に送り込まれた強く、高度に発達した存在にのみ課せられるものです。一般の人にはこれは当てはまりません。しかし、極刑は必要なものではありません。戦争というものは大抵あなた方の現在の成長段階に属するものです。あなた方は、未だ戦争をなくす方法を見つけていないのです。あなた方個々の魂の中に恨みや憎しみ、恐れがこれ以上宿ることがなくなること、それだけが戦争をなくすための唯一の方法です。これこそが平和の土台です。しかしながら、極刑は必要なことではありません。

 質問:個人セッションのときこの質問をおっしゃっていました。愛のさまざまな側面とは何でしょうか。

 答え:それについてはとても多くの面があるので、すべてを挙げるのは無理ですが、そのうちのいくつかをお伝えします。たとえば、思いやりと同情 -- これは同じものではありません --、尊敬、賞賛、やさしさ、守ることや助けること、親切や真実などです。そうなのです、みなさん、真実がないところに愛はありません。今のところは、このあたりで十分だと思います。

 質問:個人セッションの中でお話しされた大事なことに関係があるのですが、今あなたにはそれが見えますか?ある特定の現象や出来事は実際に起こったのでしょうか、それとも、私が想像しているのでしょうか?

 答え:それに関しては、少し時間が必要です…実際に起こりました。

 質問:私の質問に対する答えは、レクチャーを読んである程度得ることができました。そのレクチャーは、仕事をしている分野と霊的な進化で起こりうる矛盾とをどう調和させていくかに関するものです。そこで質問なのですが、人生において見かけでは非生産的なことは自分が間違った方向を目指しているという局面や徴候であり得るのでしょうか?その人の進化の程度を表しているのでしょうか?もしくは、間違った方向に向かっていることを示しているのでしょうか?

 答え:それは、どちらでもあり得ますが、間違った方向に向かっているのを示していることが多いと言えます。また、ある特定の状況下では、あなたの意志は欲望と恐れという相容れない特定の潜在意識によって妨害されるという状況にある可能性もあります。これを意識下にもたらさない限り、適切に扱い処理することはできません。ですので、唯一の方法は私がお勧めする方法です。もちろん一般的にお話ししていますが、私にはあなたに答えを与える権利がありません。それをすることで、あなたの力を弱めてしまうからです。自分で答えを見つけることであなたは成長します。私が教えていることを用いれば、容易に答えを見つけることができます。実際に、あなたの言った2つの選択肢が全体を形作るのです。あなたの人生の方向性について自分の中で葛藤がある限り、あなたは自分の選んだ仕事の分野で成功を収めることはできません。あなた自身の中に葛藤がないところでだけ成功することができるのです。そしてあなたの欲求、つまり無意識の欲求と意識的な欲求との対立を解決するとき、自動的にあなたにとっての正しい方向とは何かを見つけることができるのです。そのあと欲求が変化するのです。あなたの現在の欲求の背後にある本当の動機を見つけてください。恐れでしょうか。または心の底から代償を払いたくないという欲求でしょうか。そのどちらがあなたを引き留めているのかを理解してください。これは必ずしも悪いことではなく、良いことにもなり得るのですが、霊的な観点から言うと、ときとして価値があるというにはその代償は高すぎます。ときにはある特定の方向性において成功を妨げるのは、ローワーセルフであることがあります。またその成功が良くないと分かっているがためにそれを妨げるのがハイヤーセルフであることもあります。答えを見つける唯一の方法は、あなたのエゴを甘やかしたり過敏になりすぎることなく、確固たる強い正直さを持ってあなた自身の動機を検証することです。みなさん、あなた方をうんざりさせると知りながらも、これが強くお伝えせずにはおれない唯一の方法なのです。

 質問:ある国において輪廻転生が起こるとおっしゃいますが、短い間しかいなかった場合でも生まれた国に意味があるのですか。それとも、人生のほとんどを過ごした国に意味があるのですか?

 答え:人生の大半を過ごした国です。あなたのルーツがどこにあるのか。あなたは、どの国を自分の母国と考えるのか。もし人生を通じて複数の国があれば、それらもそう言うことができるでしょう。しかしもし、あなたがひとつの国にずっと住む場合は、あなたがつながりや絆、カルマの連鎖を作ってきたその国が輪廻転生の場だということです。

 質問:これは占星術と一致しますか?

 答え:占星術とは違います。占星術では、世界の地理に基づいてチャートが計算されます。ですので、また別のものです。

 質問:戦争と殺生に関連した質問です。殺生をしないという勧告に従い、いわゆる「国家防衛」を求められる部分よりもむしろ宇宙全体を同胞だと考える良心的兵役拒否者をどのように見なすべきでしょうか。

 答え:そもそも、人は地勢の一部を守っているのではなく、目の前の同胞を守っているのです。戦争に行くのを拒むことにより、長い目で見れば良いことより害を生じることの方が多いかもしれません。こう言うことで私が戦争を支持しているという印象を決して持たれたくありませんが、戦争は拒むことによってなくなることはあり得ません。この癌のようなものは別の方法で扱われるべきで、ゆっくりとすべての人びとが成長し、取り除かなければならないのです。もしその良心的兵役拒否者の動機が純粋であるなら、彼はそれ相応に審判を受けるでしょう。ですから、もしその人の心が純粋でその信条が誠実であれば、戦争で殺生をする人と同じく、このことで彼が咎められることはありません。しかし、そのことが彼の判断が間違いであるという事実を変えることはありません。もっと正確に言えば、彼の目的や努力は、兵士の目的が良いものであり得るのと同様に、良いものなのですが、彼は悪を追い払うために間違った手段を選択しているということです。戦争に行くことを拒むということは、戦争に対して効果的な治療法とは言えません。個々の魂の中に憎しみがある限り、自己認識の欠如から生じる無知がある限り、人びとが自らを浄化せず神に向かうため努力を怠る限り --- 唯一神に向かうとみなされる努力はこの浄化のプロセスなのです-- 、そして感情を浄化しない限り平和は訪れません。それは不可能です。戦争は多くの個々の性格の中で起こっていることが現実の世界に映しだされたものです。戦争は、できる限りそれぞれの人が正しい霊的態度を持たない限り、集合的な意識だけではなくすことはできないのです。個々の内面から始めなければなりません。さもなければ、戦争というひとつの症状を除くことには成功しても、他の症状が現れます。みなさん、これは病気と同じです。戦争とは病気以外の何物でもありません。人間の歴史、そして人間の科学において、どれだけの薬が病をなくすために発見されたことでしょうか。少し前には存在した多くの病が今日根絶していますが、あなた方が癒すことができず、またこれからもこの地球上にかなりの浄化が行われるまで、たとえ科学と医学がどれほど素晴らしい進化を遂げたとしても、なくすことのできない他の病が現れています。病が内面から癒されない限り、戦争や他の病は存在します。それが戦争でなくても、他の同じようなひどいものが現れるのです。個人の場合においては、判断を誤ることがあります。そして間違うこと自体は責めを負うことではありませんが、自分自身の動機のうわべを取り繕っていいもののように見せかけることはしばしば起こります。人がある考えを持っているとき、宗教、政治、その他どんなテーマでも確固たる考えは、いったん固まって狂信的かつ融通の効かないものになってしまうと、必ず内なる本当の動機を検証しなければなりません。そうすればその人は、その考えが最初に考えたほどには一般的かつ客観的ではないということを発見するでしょう。もしあなたが深く誠実に掘り下げて考えれば、どれほど頻繁にあなたの信念に結びつける個人的、感情的、主観的な理由が存在しているのを発見し驚くでしょう。

 質問:虚栄心の反対となる面は何でしょうか?

 答え:それは愛と謙虚さです。なぜなら、もしあなたが見栄をはっていれば、自分のエゴを優先させるからです。個人的なこととして話しているのではありませんが、あなたは賞賛がほしいのです。あなたは他者より優れた人間になりたいと望んでいるのです。今夜はもう時間がありませんので、次回はあなたが最初に質問してください。

 親愛なるみなさん、神はあなた方に祝福を与えられています。そして神の愛はあなたへと注がれています。私があなたに伝えた言葉はいつか実りとなってあなたの道に役立ち、あなたを強くするでしょう。平和のうちにいてください。愛のうちにいてください。神のうちにいてください。


注*:ピスティス・ソフィアは3世紀に書かれたグノーシス派の聖典

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