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Pathwork Guide Lecture No. 30 身勝手さ、プライド、恐れ SELF-WILL, PRIDE, AND FEAR
1996年版 1958年5月235日

 主の御名のもとにみなさんを歓迎します。このひとときに祝福がありますように。みなさんすべてに祝福がもたらされますように。

 この講義は、以前に行われた講義の内容に慣れていない人にとっては、完全には理解しがたいものでしょう。なぜなら、これは一連の講義の一部だからです。初めてここにいるみなさんのために、もう一度言っておきたいと思います。いくらかの人にとっては、このようなコミュニケーションが可能であると理解することは非常に難しいことです。神の創造において可能となる偉大な物事を理解しない人たちは、たいていの場合、この現象を説明するのに「潜在意識」という意味を取り違えた言葉をたやすく使います。友人のみなさん、お願いですから、人間を通してスピリットが現われることはない、そして自分が耳を傾けているのは霊媒師の潜在意識あるいは超意識 -- みなさんがどう呼んでもかまいませんが -- に過ぎない、という先入観を自分から切り離してください。スピリットの世界のどの領域とでもコミュニケーションは常に可能でした。そして、今も、これからも、常に可能です。このようなコミュニケーションを確立したいと願う人間によって必要な条件が満たされるとき、それは可能になります。そのコミュニケーションが本物でない場合はその限りではありませんが。

 まだ転生のサイクルにいる人間にとって、トランス状態に入っていく霊媒によって私が通信できるという事実を明らかにすることがなぜ不可能なのかについて、ここで詳しく説明できます。無意識を表面化するにはただトランス状態になるだけで十分だ、というような知識が人間の無意識に本当に浸透していたならば、トランス状態と通常の状態との間にある不一致はそれほど強くはならないはずです。しかし、このテーマにさらなる時間を取りたくありません。私はただ、みなさんにお願いしたいのです。みなさんの周りの大半の人たちがこのすべてが迷信だと信じているからといって、それが不可能であると、そして彼らが絶対に正しいのだと考えないでください。そして、今夜みなさんに話しているのは、目の前のこの人間(エヴァのこと)の無意識なのだと信じないでください。決してそうではないのです!

 さて、友人のみなさん、今夜の講義は最初のうちは前回の講義と似ているように思うかもしれません。みなさんの現在の在り方とはまったく関係ないような、とても抽象的で哲学的な講義と似ています。しかし、真実はその逆です。私が話すことすべてがどんなに自分の人生とかけ離れているように聞こえるとしても、私が講義を続けるにつれ、それが即座に直接関わっていることがわかってくるでしょう。

 私の友人が講義している「ピスティス・ソフィア(信心―知恵の意。3世紀のグノーシス派の聖典で、ギリシア語からコプト語に翻訳され、復活から12年後、地上に戻った際のイエスの教訓を述べている)」の中で、みなさんには計画や地図と呼ぶものがあり、そこでは霊的な領域がさまざまな階級で表されています。「恐れ多くて口にできないほどの神聖なるもの」あるいは神の家と私たちが呼ぶところのすぐ下は、「最も高次な光の世界」という名で表される領域です。この「最も高次な光の世界」の広大な貯水池には、無限の光の力が存在しています。これら光の力とは何なのでしょうか?

 光の力とは、創造におけるすべての神聖な側面や考え得るすべての良い質や善行を意味します。そのそれぞれが特有の光の力であり、それぞれにスピリットや天使として擬人化されます。前回の講義において、私は、12の能動的な力と12の受動的な力もまた擬人化されていることについて触れました。これは光の力と同じで、代表的なスピリットや天使は、その光の放射と同じように存在しています。これら放射された光の力は、非常にきめ細かい質感を持つスピリットの姿として固体化されてこれらの存在を創り出し、そしてこれらの存在がそれぞれの光の力を放射します。光の力は、広大な貯水池に集まります。それはちょうどすべてが神と一つであるように、すべてはこれら光の力とも一つなのです。それらの光が、一つの全体を構成します。それでもなお、それぞれの光の力は、独自の色、香り、音色、そしてそのほかの特質を持つ、個性的または独特なものとしてくっきり見えます。もし私がどれ程多くの知覚がこの高次の領域に存在するのかを話したとしても、みなさんはそれを信じることができないでしょう。なぜなら、みなさんの知覚範囲はとても限られているからです。この貯水池の中で、これらの光の力を個別化して捉えることは可能ですが、それらは一つの調和を持った全体を形作っています。それらは「最も高次の光の世界」という領域に集められ、その下にあるすべての領域へと、もちろん少しずつその力を弱めながら、その光を放射します。

 この計画を先へと進むと、みなさんは「高次のもしくは中間の光の世界」を見つけることでしょう。そこでは、これらの光の力が再度集められ、わずかにきめの粗い質感へと固体化されます。わずかにきめが粗いといっても、みなさんの基準に比べると大変素晴らしい質感です。そこから、光の力がほかのすべての世界へと送られます。けれども「高次の、もしくは中間の光の世界」というこの領域において、スピリットの存在もしくは個々の光の力が擬人化されたものは、自分の組織を持っています。それは、「ピスティス・ソフィア」において言及されている「修道会」です。それぞれの修道会は一つの光の力を象徴し、個別化されたスピリットによって率いられ、一種のヒエラルキー(階層制)のようなそれぞれ違った階層で救済の計画のために尽力しています。これらの修道会は、「聖歌隊」と呼ばれることもあり、それぞれの特徴、例えば身にまとうローブなどによって互いを区別します。みなさん一人ひとり、すべての人間を含むそれぞれの創造物は、これら特定の光の一団の修道会に属しています。そして、みなさんの中の真なる部分は、これら光の一団や修道会の一部を成しています。もしある程度の成長を遂げているならば、深い瞑想の中で、みなさんは自分の根本の真なる存在が何なのか(どこに属しているのか)を理解あるいは感じることでしょう。もちろん、だからといって他の長所や特質、あるいは才能を排除するわけではありません。しかし、それぞれの存在、スピリット、あるいは人には、一つの基本的で重要な核となる要素があります。このような基本要素の持つ特質は勇気、愛、優しさなどです。勇気を持つことは、だからといって愛や愛する能力を持たないという意味ではありません。それぞれの力を代表する最高次の天使は、すべての他の特質も備えていますが、その中でもとりわけ際立つ基本的な特質を有しています。そしてその特質によって他のすべての神聖なる側面が弱められ、排除されるのではなく、むしろその神聖なる側面を強められます。みなさんは、自分という存在が持つ根本の真なるエッセンスや際立った特質を見つけ出すことができるかもしれないのです。

 みなさんは「創造」と「堕落」を扱った以前の一連の講義を聞いていますので、「創造」の中にあるすべての存在は、ある特定の面において完璧であるということをそろそろ理解しなくてはなりません。また、もし「堕落」が行われないで終わると、すべての存在に与えられている光の力と神聖な力は、真に神のようになるため、別の方法で完璧であることを補おうとするでしょう。しかし、このように神のような状態に到達するまで、神々しさは部分的なものに過ぎません。一度、「救済計画」が成し遂げられると、完璧に向かうさらなる拡張が続くでしょう。今では、すべての、数え切れないほどたくさんの存在たちが属する「修道会」は、ある意味では特に完璧です。これは堕落したスピリットたちにもあてはまります。彼らは、その根本にある決して損なわれることのないもともとの資質や才能の中に、その基本的な完璧性を有していますが、ローワーセルフ、そしてさまざまに異なる密度を持つ不完全な層に覆われているのです。根底の完璧性を明らかにするプロセスは、浄化の道なのです。このことは、この中のいくらかの人にとっては瞑想の良い材料となるでしょう。みなさんの成長の現段階では、自分のローワーセルフの真実の姿を見つけ出すことに集中する必要があります。つまり、自分の欠点を見つけ出し、それらの存在や意義、そしてそれらがみなさんの人生に与える影響を完全に認識する必要があることを意味しています。そして、みなさんのワークのある特定の段階で、自己の浄化のためにハイアーセルフを使い、その特別な力を認識するため、自分のハイアーセルフのそれぞれに特有な個性を知ることもとても重要です。

 過去の講義で、私はすべての人に同じように当てはめることができる完璧さを妨げる3つの基本的な障害について話しました。身勝手さ、プライド、そして恐れです。「堕落」が起き、それが進行する中で、これら3つの特質はどんどん強さを増していきました。これらが、みなさんの基本的な光をかすませてしまったのです。この浄化の道の目的は、みなさん自身の基本的な光が何であるのかを知ることだけでなく、身勝手さやプライド、そして恐れがみなさんの中に存在することを認識し、その程度を知り、どのように互いに作用し合い、そしてそれぞれどのように依存し合っているのかを見つけ出すことでもあるのです。みなさんが本当にこのことを理解することによってのみ、みなさんとみなさんの基本的な光の間をさえぎる暗い壁を打ち壊すことができるのです。

 友人のみなさん、すぐにみなさんは「身勝手さとプライド、恐れはどのように関係しているのですか?残りの二つなしで一つだけを考えることはなぜできないのですか?」と尋ねるかもしれません。友人のみなさん、もしそのうち一つを持っているのならば、すべての3つの特質を必ずみなさんは持っています。そのうち一つを他より強く持っているのかもしれませんし、他よりはっきりとわかったり、意識しやすかったりするのかもしれません。しかし、そのうち2つだけを持っていて3つ目は完全にないということはあり得ません。心からこの浄化の道を歩む努力をすること、身勝手さとプライド、恐れの役割を理解することは、間違いなくこの道において不可欠です。身勝手さやプライド、恐れから完全に解き放たれた人間が存在するとは信じないでください。ですので、私の言葉はすべての人に当てはまります。唯一の違いは、ある人はより多く、ある人はより少ない、という程度だけです。このことについて次の説明を使って明らかにします。それらは、みなさんが自分を理解するために大変重要です。

 まず、身勝手さと自由意志との間には明確な違いがあるということを、もう一度はっきりさせておきたいと思います。みなさんがはっきりと理解しているかどうか確かめるために、自由意志は良い方向にも悪い方向にも使うことができるということを繰り返して言います。これは、とても重要です。自由意志は、良い目的にのみ仕えるわけではなく、今言ったように邪悪な目的に仕えることも可能なのです。しかし、自己成長が自由意志の完全な活用なしに成し遂げられないことは確かです。神の意志は、みなさんが自分の自由意志を使ってそれを自分のものとして、自分の選択として受け入れない限り、果たすことはできません。自由意志は神から与えられた最も偉大なギフトであり、これなしで神のような状態に到達することは決してできません。しかし、自由意志は身勝手さと区別されなければなりません。身勝手さとは、ちっぽけな自己あるいはちっぽけなエゴの意志です。身勝手さは、その結果や害、つまり自分が他者に与える害とそれゆえに究極的には自分自身にも降りかかる害を省みずに、欲しいものを手に入れようと躍起になります。ちっぽけなエゴは盲目で無知なためにこれを理解できないのです。身勝手さは盲目的で未成熟な状態で、自分の求めるものが霊的な法則にそむいていると認識するにはあまりに盲目なのです。そして、自分に困難を与え自分を投獄しているようなものです。霊的に未発達な人、例えば犯罪者を例にとってみましょう。このような人は、自分の利益と思えるものをすぐ手に入れるために、すべての法、霊的な法則だけでなく人間世界の法律をも無視してあからさまに身勝手さを用いるでしょう。なぜならば自分にとって利益になるように見えるものをその人は手に入れたいからです。

 今、私たちはこのように簡単に認識できるような例について議論しているわけではありません。平均的な人間が犯罪や反社会的行為に手を染めることはありません。その理由の一つとして、本人はそれが悪いことであると知っているからです。それは倫理観であり、信心のない人でさえも、すでにこのような望みを持つローワーセルフの欲望に深入りすることを思いとどまれるほど十分に成長しています。別の理由としては、本人が周囲と衝突するのをただ恐れているからです。しかし、私たちは身勝手さによって駆り立てられる人の明らかな外側の行動を議論しているわけではありませんし、この中の誰もそのようなことをする人ではありません。私たちは、みなさんそれぞれの内にある感情の流れに焦点を当てているのです。浄化されていないそれぞれの存在は、おそらく無意識に、悪いこと、そして霊的な法則に反するようなことを望んでいます。意識的な欲望と無意識の欲望との葛藤は、みなさんの発達においてもっとも大きな妨げになります。したがって、勇気を奮い起こして自分の感情を試し、それらを理解するために明確で簡潔な言葉で解釈するのはとても重要です。「ここに、私の欲望がある。これは私のちっぽけなエゴや身勝手さから生まれ、本当の私の性質の他の部分とは一致しない」と。

 このことは、恐れとどのように結びついているのでしょうか?もしみなさんの身勝手さが強いのであれば -- そしてもしそれが無意識であれば、類を見ないほど強いものになりえます -- みなさんは恐れの中にとどまり続けることになります。その恐れを持っていると自己の身勝手さから来る欲望が満たされることはありません。このように、身勝手さと結びつけることで、恐れを見つけ出すのです。心の奥底では、みなさんは身勝手さの持つどんな欲望も満たされることはないと知っているのです。それらの欲望のほとんどは、不可能で不条理なものです。特にみなさんのケースにおいては、少なくとも現時点で、過去生や自ら魂の中に置いた障害物を見つけ出し取り除かない限り、みなさんが望んだものが叶えられることはありません。

 みなさんの中にある流れは、異なる方向へと進んでいます。身勝手さは、何か悪いもの、不可能なもの、もしくはみなさんの中の他の流れと矛盾するものをとても強く望んでいます。その一方で同時にあなたは自己の深い部分の存在、つまりあなたのハイアーセルフの内なる知識を持ち、これらの欲望が叶えられることはないことをよく知っています。この知識が恐れを作り出します。なぜなら身勝手さがいまだに自己の満足を要求しているからです。

 友人のみなさん、ここで語られる言葉について瞑想するならば、みなさんは自己の魂や人生、そして現在の状況に対するより深い洞察を十分に手に入れるでしょう。もう一度言いますが、一度聞いただけでは、このことを本当に理解するのに十分ではありません。それらの言葉について瞑想し、自分自身に当てはめるならば、みなさんは、自己の内にあるこのような願望を持つ場所を捜し始めるでしょう。そして、どのようにして身勝手さの欲望から自動的に恐れが生み出されるのかを知るでしょう。このようにして、みなさんは階段を一歩一歩上へと上っていきます。しかし、みなさんはその方向に捜しに出かける勇気を持たなくてはなりません。なぜなら、自分自身の鎖からの解放はそこにしかないからです。

 さて、次にプライドの話に入りましょう。プライドとはどのような意味でしょうか? それは、自分のエゴが他者のそれよりも重要であり、自分が優位であることを望み、虚栄心を持っていることを意味します。もしみなさんが他者の屈辱感を自分のそれよりも感じないのであれば(つまり自分の屈辱感の方をより感じる)、それはみなさんがまだとても強いプライドを持っているということです。友人のみなさん、いったい誰がそんなふうに屈辱を感じるでしょうか?いったい誰が自分自身の屈辱とまったく同じように他者の屈辱に対して反応をするでしょうか?そんな人がいるはずはありません!もしみなさん自身が屈辱を受けたならみなさんは傷つきます。もし他者が同じ方法で屈辱を受けたならば、みなさんは気の毒に感じるでしょう。けれどもその反応は間違いなく異なります。どれだけそうはならないと自分に言い聞かせたところで同じです。自分に正直になってください。その正直さは、どんな自己欺瞞よりも確実にみなさんのためになります。感情は間接的に変化します。力ずくで変えることはできないし、自分がそう感じてもいないのにそう感じていると自分にいいか聞かせても変えることはできません。したがって、このような自己評価は、この側面においても、徐々にみなさんの感情を変化させるために最適な手段になるでしょう。

 まるでほかの人間が屈辱を受けたときと同じように傷ついた虚栄心を奮い起こしなさいとみなさんに提案しているわけでは決してありません。むしろ、自己を重要視しすぎないことを学んでください。なぜならばみなさんのちっぽけなプライドとエゴは、みなさんの感情が伝えてくるほど重要ではないからです。もしみなさんが自身の虚栄心から自分をさらに引き離すことを学べば、そのときにだけ、自己と他者を比較するのに釣り合いの取れた適正な感覚を持つこととなり、それゆえに、自分自身への反応と他者への反応が同じになるのです。それが、「自己を愛するのと同じように他者を愛せよ」という言葉の意味するところなのです。自己に対して感じることと他者に対して感じることが異なっているかぎり、霊的法則である「公正の法則」を侵し、兄弟姉妹愛の法則からも遠く離れていることになります。なぜならばみなさんの反応は、決して公正ではないからです。みなさんはおそらく公正に行動しているのかもしれません。それは真実ですが、ある人々にとってはそれで十分であってもおそらくみなさんにとっては十分ではないのです。自分の行動、そして考えさえも、公正さの純粋な光の放射が浸透するのを許すのに十分ではないと知っています。みなさんの光の力は、みなさんの感情が霊的な法則に一致しないかぎり、解き放たれることはありません。したがって、みなさんは自己の感情において公平ではないのです。みなさんは、自分を他者よりも高い位置に置いているのです。みなさんの虚栄心やプライドがこのような重要性を真実だと決めこむ瞬間、みなさんはもう一度絶え間なく続く恐れの中にいることとなります。つまり、自己のプライドが、自分の周りの人々によって認められることがないということを恐れるのです。ですからみなさんは、感情的に、自分という人間を他者より上のレベルに置きたいという欲望を手放さなければなりません。この方法によってのみ、みなさんは恐れから自由になれます。

 身勝手さとプライドとの間にあるつながりについて、みなさんに詳しくお話する必要はありません。とても簡単だからです。みなさんは自分で考えることができます。それを瞑想の題材として使ってもよいでしょう。しかし、抽象的または非個人的に瞑想するはやめてください。自分自身に直接当てはめてみてください。どこで自分がそう感じているのか、調べてください。身勝手さと恐れ、あるいはプライドと恐れの間にあるつながりに関しては、私は今までにもそれをみなさんに示してきました。毎日の中で、まさにこの方法を使って自分の感情を観察する機会は、とてもたくさんあります。

 残念ながら、みなさんは自分を知り浄化するためのこれらの機会のほとんどを回避しています。みなさんは、これらの機会を逃しているのです。もし不愉快な感情が浮かび上がってきたら、みなさんはすぐにそれを脇へ追いやります。その言い訳は簡単です -- 他者の欠点や誤り、不完全さがみなさん自身の不調和と内面の葛藤の原因になっていると言うのです。しかし、誰のことも責められないときもあります。だから、みなさんはすぐにそれを覆い隠し、すぐにこう説明します。自分は今機嫌が悪い、なぜ自分がこんなにかき乱されているのかわからないと。いつも人生は困難なのだ、あるいは天気のせいなのだと。違うのです、みなさん!自分を乱す何かがあるときには必ず、先ほど私が話したような光の中で、みなさんはその答えを見つけ出すことができるのです。友人のみなさん、この観点から見つめてみてください。そうすれば、自己完成と自分の自由を手に入れることでしょう。身勝手さとプライド、恐れという罠にはまっているかぎり、みなさんが幸せになることは決してありません。それは不可能です。みなさんは、自己の欲するすべてのもの、外部に求めるすべてのものと戦うかもしれません。しかし、外側の症状を取り除くだけで、内側の癌を切り取るわけではありません。これらの言葉をよく考え、瞑想してください。これらの言葉の中に、自分の問題の助けや鍵となる宝をみなさんは実際に持っているのです。

 親愛なる友人のみなさん、私は最善を尽くしてみなさんの質問に答えます。

 質問:神に仕え、より良い人間になるという意志も利己的なのではないでしょうか?なぜなら、それは私たちが幸せになることを意味しているからです。

 答え:これはとてもよい質問です。答えましょう。このように少し不純な動機をもってこの道に足を踏み入れる人も中にはいるのですが、近寄らないよりはずっと良いのです。この道を進み続けることによって、遅かれ早かれ、自分は隣人であり、そして隣人は自分であるという認識が必ずやってきます。もしみなさんが幸せになれば、みなさんは他者をも幸せにします。そして、私の言う幸せとは、みなさんの身勝手さの欲望が満たされる場合に自分のものになるとみなさんが信じている類の幸せではありません。私は、みなさんがこの自己浄化の道を進み続けることで必ずみなさんのものになる、より大きな幸せについて話しています。一度ある高さまで達成すると、自分自身の幸せはもはやゴールではなくなります。それは目的を達成するための手段となるのです。

 この理解がみなさんのものになる前に、そしてこのように感じることができるようになる前に、ここで私が言っていることを理解するためだけに祈ることはやめるようにアドバイスします。強さに、悟りに、そしてこの癒しの道を辿るのに必要なすべてのものにも祈ってください。ただ単に自分自身のためだけに祈るのではなく、みなさんが与え、助けとなり、役に立つ源となることを祈ってください。これは、本質的に、究極的な目的は自己の幸福ではなく、他者の助けとなることであるという意味です。しかし、自分をだますことはやめてください。みなさんの感情が、まだみなさんの祈りからほど遠い場所にあることに気付いてください。この矛盾を見つめ、それでもなおこの目的のために祈り、自己を分析し、自分に正直でいるためのワークの継続を祈ることによって、いつの日か、自分がすべての創造物と一つであることを感じる日がやってくるでしょう。

 質問:もし私たちの魂が睡眠中に教わるのであれば、なぜ起きた状態で私たちの魂が学んだことを覚えていないのでしょうか?

 答え:それにはたくさんの理由があります。まず、以前の生の記憶が次の転生では奪われるときに働く理由と同じです。あるいは、転生するまでの間の霊的な世界での魂の存在の記憶が消されるときの作用と同じ理由です。もし魂の存在の知識、地球という領域をはるかに超えた場所に存在する広大な世界、そして転生の事実がそれほど簡単に理解できるものであれば、自分の人生を満たすことなどとてもできないでしょう。なぜなら簡単すぎるからです。

 知識という最も崇高な宝物は、戦って手に入れるもの、そして自己成長とローワーセルフからの勝利をもってその対価として得られるものです。そのテーマについて書かれたものをいくら読んだところで、自分が神聖なる悟りを得たのかどうか確信することは決してありません。神聖なる悟りは、自己のワークを通じて得る何かです。みなさんはそのための代償を支払わなくてはならず、それによって得られる崇高なギフトには、代償を払うだけの価値があります。もしみなさんの過去生とスピリットの世界の知識が、記憶の保持もしくはほかの方法で何の労もなく手に入ったら、そこに戦いはまったく存在せず、したがって成長もありません。また、自分の前世でのある要因を知ることは妨げになることもあります。そのための準備が整わないかぎり -- この準備は成長を通じてのみ起こるものです -- ある一定のことを知るのは、みなさんにとって有害になるかもしれません。

 みなさんの睡眠中、つまりみなさんの魂がスピリットの世界にいるとき、多くの場合、みなさんは自分の過去生への洞察や現在の人生を送ることになった理由、そしてこの人生で自分が何を成し遂げることになっているのかということを洞察します。痛みに満ちた知識と、自分が今世において建設的に使うことができない洞察とが結び付けられます。そしてそれはみなさんを意気消沈させ、成長を抑制してしまいます。神はみなさんに、重荷や苦しみのない、真っ白の状態で新たに始める機会をお与えになったのです。この地球という領域での功績により、みなさんが眠り、魂が自由でいるときに、みなさんは魂の世界で指示やガイダンス、そしてアドバイスを受け取るでしょう。この知識はみなさんの無意識に残り、みなさんが目覚めているとき間接的にみなさんに影響を与えます。なぜみなさんがあるやり方で反応するのか、なぜみなさんがある決断をするのかがわからないとしても。意識的にみなさんは、自己の霊的な発達のために戦うことと同じように、すべてのために、知識を得るために戦わなくてはなりません。戦うとは、もちろん、自分のローワーセルフと戦うことを意味します。また、もしも誰かがすでにある程度まで発達しているならば、睡眠中に、その人は肉体から離れている他のスピリットとの任務、もしくは同じく眠っているほかの人間との任務を果たすかもしれません。これは他者を助けすることであり、ゆえに救済計画そのものなのです。しかし、状況が特別でないかぎり、はっきりと思い出すことはありません。これは起こりうるのです。

 質問:より高次の魂は、未発達な魂にとってはどのような形で見えるのでしょうか?

 答え:未発達なスピリットが高次のスピリットとコンタクトするとき、天使や光の存在として見ることはありません。とても簡単なことです。もう一度、ここでも、同じ法則が当てはまります。高次のスピリットが計画にのっとって一定の間隔で低次の領域に下りる場合、彼らは流体を変化させ、その光を見せることはありません。なぜならばそれらの生物にとっては、神の言葉を受け入れることはとても簡単なことなのです。なぜなら、天使が話しているからです。例えば、みなさんの中でどれだけの方がこう言いますか?「もし神を見ることができるなら、もし天使を見ることができるなら、私は信じるでしょう」と。しかしみなさんは、私の話している言葉を聞いていません。これら未発達なスピリットにも同じことが言えるのです。そこにはわずかな違いもありません。彼らは学ばなくてはなりません。みなさんが、正しいことと間違っていること、真実と真実でないことを、権威を持つように見える人が言うから簡単に信じるのではなく、それ自体の価値によって学び区別する必要があるのと同じです。どれだけの多くの人たちが、尊敬される権威が言った言葉を受け入れ、自分が下に見ている誰かが話したまさに同じ言葉を拒絶していることか!それは、その人たちが発達しているということにはなりません。発達とは、自立、すなわち偽りの中から真実を選び取る能力を意味します。したがって、低次の領域にいるスピリットが、天使をその本来の姿のまま見ることはありません。高次のスピリットは彼らと同じ姿で姿を現し、そのようなやり方で話すのです。そして、自分に伝えられたことを自分が信じたいのか、信じないのかを決めるのは、個々のスピリットに委ねられます。彼らは、自分が聞いたものを、その独自の価値観によって受け入れるはずです。したがって、これらの考えが自分と同じレベルの誰かからもたらされるものだと信じるのは、彼らにとって都合の良いことなのです。

 人間にも同じことが言えます。さまざまな成長段階にいるたくさんのスピリットたちがこの地球上に転生してきます。しかし、人間の姿や外見では、その存在の発達を知ることはできません。真に自由に、そして自立することが唯一の方法なのです。しかし、この点では、ある例外も存在します。「自立した選択と認識の必要性の法則」に例外はありませんが、ある特定の時期、暗闇の世界に、光がある程度浸透します。そのとき、神の天使がその姿を現します。これには素晴らしい理由があるのですが、低次の領域で創造物に真実を教示するという目的のために起こるものではありません。

祝福あれ。


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