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Pathwork in Japan
No. 31 恥について
Pathwork Guide Lecture No. 31
UNEDITED版
1958年6月6日
恥について
SHAME
神の名において皆さんにご挨拶申し上げます。友である皆さんに、祝福を。そして皆さんにとって大切なすべての方々にもまた、祝福がありますように。霊界のわたしたちが人間を観察してわかるのは、あなた方がどれだけ霊的な滋養を欲しているかということです。肉体や知性には養分が行渡っていて、感情も、最適ではないにしてもある程度には満たされてはいますが、それが霊的なこととなると、ほとんどの人間は飢えています。そもそも霊的な滋養とは何なのかというところに、大きな混乱が見受けられます。霊的な滋養とは、霊的真理や法則、また神や神の創造物について読んだり聞いたり学んだりすることでも、単に祈ること、または瞑想をすることでもありません。もちろん、祈りや瞑想は正しく行うことでその大切な一部にはなるものの、霊的滋養となる食物として最も大切なのは自己成長です。あなた方の中の一番奥にいる自分、その神聖な閃きは日夜この食物を渇望しているのですが、意識で動いている部分は耳を貸そうとはせず、拒否します。悲しみを感じているとき、憂鬱になっているとき、または人生に不満を覚えるとき(そこに現実的根拠があってもなくても)そんなときは必ず精神が飢えを感じているのです。自己の成長という最も大切な食物を取る者だけが真に充足して幸せでいられるのです。そして幸せになる機会を与えられていない人間はひとりとしていません。幸せはあなた方の手に、そして決断にゆだねられているにも関わらず、皆さんはよくあらぬところに幸せを求めようとします。自分の不運を誰か別の人、運命や神、または世の中の不正を述べ立て、そのせいにします。創造主があなたのためにと、今回の転生で意図したとおりに人生を送ることができた、という深い実感から充足感は来るものなのに、そこに至るための唯一の一歩を踏み出そうとしません。もちろん、皆が皆同じように人生を送るわけではありませんし、同じようなワークや努力が求められるわけではないので、個人差はあって当たり前ですが、ひとつ念頭に置くべきことがあります。それは、困難がそれほどあるわけでもないのにいまひとつ幸せが感じられないのなら、それは精神が求めているような栄養を自分にやらなかった結果だということです。そしてそれは十中八九、正しい自己成長、正しい自己認識、そういったものが不足したからです。今私がお伝えしていることを聞いたり読んだりしている人なら誰にでも、この食物を得る手立てはじゅうぶんにあります。
自己成長についてのレクチャーのシリーズを続けるにあたり、今夜は今までお話ししたことがなかった題材を取り上げたいと思います。少なくとも、公のレクチャーではまだお話ししたことがありません。以前の講義の中で、人間の魂の中にあるいくつかの在り方、神の栄光を遮蔽する、とでも言うような、そんな在り方について何度かお話ししてきました。プライド、身勝手さ、怖れがすべての人間の欠点の根底にあり、すべての不幸や、精神の中にひそむ虚偽の根源であることを説明しました。それぞれの個人で度合いや組み合わせに違いはあるものの、この三つは互いに手を取り合い、互いを強めあう形に働きます。そこで今夜は、恥という題材を取り上げお話ししようと思います。恥にも正しいものと、そうでないものがあります。正しい恥とは、心から悔悛することです。この種の恥がなければ、自己成長は絶対に誘発されないでしょう。それなしには、己のローワーセルフに克つという尊い戦いに挑むことなどできませんし、この種の恥が自己の内になければ、誰も浄化の道を歩もうとはしないでしょう。 真の悔悛はこのように、建設的且つ良きものです。しかし同時に、正しくない、誤った種類の恥もあります。人間はこのふたつの違いをはきちがえることが多いので、すこし時間をとって見ていくことにしましょう。誤った種類の恥とはどんなものなのでしょうか。それは罪にまつわるコンプレックス、とでも呼ぶべきもので、疑いもなく破壊的でネガティブなものです。この誤種の恥が自分のなかにあると、意識的には絶対そんなことはない、と思っていても、感情の声はどんなことを言うでしょうか。「もう手がつけられないほど自分は絶望的にひどい」 そう言っているのではないでしょうか。このような態度によって、自己憐憫に浸るばかりか、より重大で害があることが起こります。このような態度はあなたが抱くすべての意志や目的に怠惰なよどみをもたらし、自分自身を奮い起こし、自分の中にある悪を排除しようと能動的に働きかけることを止めてしまうのです。そして、自分自身を尊び愛することがないにも関わらず、他人からはその尊敬や愛を要求するので、この態度はどんどん無分別、理不尽になっていきます。しかし、いいでしょうか、自分に欠点があるから尊敬し愛することができないのではないのです。あなたという存在の最も深い場所では、あなたは自分自身を尊んでいません。なぜなら、この間違った態度を持っているからです。能動的にならなくてはならない場面であなたを受動的にしてしまうこの間違った種類の恥を抱いているからです。悪循環とはそういうことなのです。つまり、建設的な恥の感覚は自分を奮い起こさせ、自己成長の基盤ともいうべき、現実的な自己認識を持って自己を磨かせるものなのに、それから自分を遠ざければ遠ざけるほど、いっそう自己嫌悪は増していくでしょう。その結果、自尊心の欠乏を補うためにますます他人から愛や尊敬を要求しなければならなくなるのです。自尊心というものは、魂の次元において基本的な霊的法則を満たし、あなた自身の霊的成長の度合いに応じてできることを精一杯やってこそ本当に身に付くものなのですが、あなた方の中の無知で無自覚で未熟な部分は、他人からじゅうぶんな尊敬を集められればそれで穴埋めできると信じているのです。こんなことを意識的に考えている人がいないということは知っていますが(考えるべきではあるのですが)自分の感情をよく見て、それが何を求め、何を表しているのかを見てみれば、今言った通りだとわかるはずです。大切なことなので忘れないでほしいのは、どんな欠点や弱点、罪があったとしても、そのせいで自尊心が損なわれるのではないということです。自尊心が損なわれる原因は、この間違った恥なのです。欠点や弱点がなくなるのを待たなくても、この誤種の恥が正しい恥に変わったその瞬間から、その度合いに見合っただけの自尊心は間違いなく育つことでしょう。自分を尊ぶのに完璧である必要はありません。自分の未熟さに対して現実的な態度を持ち、建設的な心の姿勢を取り入れるだけでいいのです。自尊心が築かれるにしたがって、他人からの尊敬を得ることに必死にならなくなるでしょう。なぜなら、あなたは自分自身の内に安心していられるからです。心の在り方や発する気にも大きな変化をもたらし、あなたが他人へ与える影響も変わってくることでしょう。結果的に、これまでとは比べ物にならないほど容易に周囲はあなたを愛し、尊敬し、これはあなたが元々望んでいたものなのだと思います。
この誤種の恥というものがあなた方のプライドから始まって、それをますます増長させるものだということを考えたことがあったでしょうか。一見それは矛盾しているようですが、次のように説明すれば分かるかもしれません。現在の現実から逃げたくなければ、ローワ―セルフが持つさまざまな欠点を忘れてはなりません。何度もお話ししていることですが、こういった欠点から逃げようとすればするほど、魂が病んでしまうのです。そしてこの誤種の恥を感じることで、あなた方は現実から逃げることになります。ありのままの自分を認めたくない、ということを感情が物語っているのであり、自分の性格の性悪な部分に絶望的に煩悶するその瞬間、あなたは自分をありのままには受け入れていないのです。つまり勇気をもって自分のすべてと向き合うという謙虚さに欠けているということであり、それがすなわちプライドなのです。再度強調したいのですが、頭では自分は不完全だとは分かっていても、感情的には分かっていないのです。自分が知っていること、意識的に考えることと、感情が主張することや望むこととの間には大きな溝があることが多いのです。
感情に気づくのは、感情をはっきりとした思考に置き換える手間さえいとわなければ決して難しくはないのですが、ある程度の努力が必要です。あなた方の感情は、それがまだ手に入っていないうちから、完璧を求めます。自分がそれまで払ってきた努力に見合う以上の品格を自分に与えようとします。一方で、意識的にこれに気づき、到達したい場所を目指してゆっくりと努力を重ねる代わりに、自分が今の自分であることに怒りを感じ、それを自身や世界に向けます。そしてなりたい自分になるための内なる努力を拒否するのです。結局、誤種の恥とはプライドや怠慢、ずるさ、そして現在の現実からの逃避ということになります。これがあなたにうしろめたさを感じさせるのであり、自分が抱えている欠点のせいではないのです。もしもあなたがここに正しい恥の感覚を取り入れるのであれば、欠点があなたに罪悪感をもたらすことはありません。正しい恥とは、現実から逃げることなく謙虚に今の自分を受け入れるということです。そしてそこから一歩一歩ゆっくりと進むことです。 これが、自分が変わり、成長していくことを可能にする唯一の現実的で建設的な方法なのです。
それにひきかえ、間違った心の姿勢はさらなる危険を持ち込んでしまいます。プライドがあって、また他人から愛と尊敬を要求するために、自分自身に関する偽らない考えや感覚から身を引き、それを壁のようなものの陰に隠してしまうのです。あなた方の感情は自分のままでいると軽蔑されると思っていますから、堂々と自分らしくすることなどはもってのほかなのです。すでに話したように、自尊心が足りないほど、他人から尊敬されることが大事になってきます。つまり、マスクを作り出すことになるのです。微妙な形で、偽物になるのです。するとそれがまた煩悶の種となり、ますます自分が嫌になります。このような悪循環が全力で展開し続け、これを断ち切るための謙虚さと勇気を身につけるまで、あなたをどんどん深い感情の葛藤へと追い込んでいくのです。ローワーセルフをも含んだありのままの自分らしく堂々とすることと、ローワーセルフから来る衝動に任せて行動することを取り違えないようにしてください。外の世界に対して自分を良く見せるために違う人格を作ることと、シンプルに自分というものに気づき、受け入れるのでは、大きな違いがあるのです。人はよく、今説明したような理由から偽りの自己を作り出すものです。
自分の欠点を見つけたとき、悲しんだり、苦い思いをしたり、挑戦的であったり、少しでも心を乱されるようなら、それは自分自身をあるがままに受け入れることがまだできていないということです。ここでも中道をとることが大切で、まずは受け入れることを学ぶわけですが、未熟なままでいることをよしとするわけではないのです。また、自分には変わることなどできないという思い込みの穴埋めに、自分の欠点は悪くないと人から思ってもらい、それによって自分も自分が悪くはないと思いたいという、そんな欲求が感情のどこにあるか調べてみるべきです。そんなふうに理に適わない自分の感情をはっきりと自覚できたなら、それを良い方向に転換することも容易になるでしょう。
自分を、あるがままの自分以上によく見せたがったりせずにそのまま受け入れることができれば、この修行の道を歩むための基本的な必要条件を満たしたことになります。それまでは道を歩んでいるのではなく、そこへ通じる重大な門をくぐるための準備をしているだけなのです。言い換えれば、この誤種の恥をあなたが感じている限り、正しい恥の感覚と入れ替えない限り、この道を先に進むことはできないのです。
誤種の恥は先に述べたように、不健全な精神状態を引き起こすだけでなく、あなた方をどんどん孤独にしていきます。分かってもらえず寂しいと感じるときは、少なくともある程度には今私が言ったようなことがその原因であり、他人の愛や理解のなさのせいではないということを自覚してもらいたいと思います。他人がどれほど愛や理解に欠けようとも、この間違った心の姿勢が自分の内にはびこることがなければ、孤独感はおとずれないでしょう。ですから、解決を外にもとめず、内面に方向転換をして、今お伝えしているような観点から自分をみてみるべきなのです。
あなたがどんな人物であろうと、何かしら恥ずかしいと感じることがあるだろうと思います。大きなことでも小さなことでも、重要でも取るに足らなくても、それは問題ではなのです。隠したり誤魔化したり、恥じていることなどないようなふりをするでしょう。これがあなたを他人から隔てる壁なのです。しかしこのようなやり方では、愛されているか、認められているか、一向に分かりません。なぜなら自分の内の小さな声が「もし自分が本当はどんな人間なのか、どんなことをしてきたのか人に知れてしまったら誰からも相手にされなくなる」と言っているからです。これがあなたを孤立させ、苦しませ、冷たくするのです。自分に向けられる好意すべてが本当の自分ではなく、見せかけの自分の方に行ってしまう、と感じるのです。これでは不安で寂しいのは当然です。しかしこれを変えることができるのは他の誰でもない、あなただけなのです。すぐに分かると思いますが、この孤独や不安、増すばかりの自己嫌悪から抜けだす唯一の解決策は、あなたが最も難しいと思うもの、つまり恥を打破って自分自身をさらけだすことなのです。もう一方の策である微妙な偽り、これはやればやるほどさらに深い窮地にあなたを追い込んでいきます。すでに経験しているのではないでしょうか。ですから、本来の自分になる一歩を勇気をもって踏み出し、本物の安心を手に入れ、真の評価を友人から得てみましょう。なぜなら、霊的に成熟し、人を愛すことができる人であれば、あなたを嫌いになることなどないからです。その逆です!未熟で人を愛することができない人々にそもそも彼らから愛はもらっていなかったのであり、今彼らからの愛を失ったわけではないのです。こういった人々は、やはり本来の自分でいる勇気がないために自尊心に欠け、それを緩和するために愛や親しさや尊敬を他人から渇望するという、まさしくあなたが今いる立場にあるのです。こういった類の愛は最初から幻想だったわけです。しっかりと立つための基盤を築くためには、これまでの生涯をかけてこつこつと積み上げてきた見せかけを止めるしかないのです。最初は難しく思えることでしょう。再度念を押しておきますが、誰彼かまわず自分の秘密を打ち明けろと言っているのではありません。心を開ける人物、力になってくれる人物を選ばなくてはなりません。そして本当に親しい人達、つまりは、あるがままの自分を知る必要のある人達を選んでください。そうでなければ本当に自分らしくなどなれません。あなたが何を話すかが問題なのではなく、あなたが何を感じるか、つまりあなたの内面の態度が重要なのです。感情を誤種の恥から正しい恥の感覚に調整していくためにすることはただひとつ、自分の感情を掘り下げ、私がいつも言っているようにそれを簡明な思考に置き換えることです。そうすることで自分の魂の未熟な部分の理不尽さが見えたとき、感情を再調整することができるようになるのです。次の段階に進むのはこの作業が終わってからしかできません。これなしには安心や自尊心は手に入りません。偽りの壁の後ろに隠れている限り、自己嫌悪は免れず、しかもそれは、あなたよりたくさんの弱さを持ってはいても、見せかけではない本当の自分らしく生きる勇気のある兄弟姉妹の自己嫌悪よりはるかに深刻でしょう。あなたの自尊心を決定するのはどれだけ善良か、ということでもなければ、まだどれほどの弱さが残っているか、ということではありません。自尊心は、自分がどれほど自分に正直であるか(結果的にはそれが人の尊敬を呼ぶのですが)どれほど自分を欺き、自分自身から逃げているか、どれだけ見せかけの壁の後ろに隠れているか。こういったことでしか測れないのです。この見せかけの壁というものは外からはなかなかわかりにくく微細な内なるもので、これまでに説明をしてきたやり方で、自分自身の感情とその意味を調べ探らなければ気づくことはできません。
心からの積極的な悔悛、それは改めたいと深く思いながら反省し、現時点での自分の弱さをあるがままに認めることに他なりません。同時に、自分の内に深くしみこんだ欠点を自覚し、間違った感情反応と、真に理想的な在り方とを比べる作業を常に新鮮さをもって何度も繰り返さなければ変化は起こらないことも受け入れなければなりません。欠点とはそんなに早くに乗り越えられるものではなく、必要があって永らえる欠点と向き合うことで謙虚さを身に着けることに繋がっていきます。自分をよりよく見せたいという思いが心の中からもなくなれば、それは自分を高みにまつることをやめたということです。この偽りの館を取り壊さないうちは新しいものを築くことはできません。同じ欠点に何十万回でもつまづき、そのたびに自分を立ち直らせる勇気があれば、神に借りを返すことになり、あなたは神の恩恵にふさわしい者、この修行の道を本当に歩む者となるのです。人格のすみずみまで完璧になるのを待たなくても、そのずっと前にあなたはこうして自分のプライドや見せかけを捨て去るのです。なかなか消えないしぶとい欠点が残っていても、この方法であれば思っているよりもずっと速く完璧さに近づくことができるでしょう。勇気を持ち、感情の指揮を今お伝えしているようにとるならば、あなたは勝利するでしょう。しかし、同じ欠点につまづくたびに意気消沈して自分に絶望し、こんなことは無意味だと思ってしまったなら、あの破壊的で人格を弱める誤種の恥に陥っているのであり、誤種の恥からは何の進展も望めません。すぐに希望を失うのは自分のうちにプライドが在りすぎるからで、それでは自分の欠点をそれ以上でもそれ以下でもないあるがままに観察するという癒しの行為が、あなたの魂に働きかけることはできません。ですから、長い期間自分の欠点を直すことができなくても希望を失ってはなりません。ここまでくればおそらく分かってもらえたと思いますが、欠点を直すことに長いこと不成功なのには、偉大なる癒しの力が存在しているのです。そしてこれは、単に欠点を直すことよりもはるかに大切なのです。つまり、正しい恥の感覚と自己受容を育み、謙虚さを学び、プライドを克服し、自分の現実に沿って生きることを教えてくれるのです。あまり早く上手に欠点を克服することに成功してしまうと、あなたはさらに大きなプライドを持つようになり、これはさまざまな欠点よりも有害です。それに、克服しようとしている欠点の多くは何生にも渡って魂に刻み込まれてきたもので、数年で取り除けるようなものではないのです。自分の欠点に向き合い、それにつまづきながらも目をしっかり見開いて健全な態度でそこから学び、過大評価も過小評価もなく今ある自分と向き合うなら、まだ完璧ではなかったとしても、それは健全で自然な内面の姿勢ができるための基盤を作っていることになるのです。どうかこのことを深く考えてみてください。私がお伝えしていることを一度聞いたり読んだりするだけでは足りないのです。それだけではあなた方が自分の感情がどこで理想的な在り方から外れるのか見つける助けにはならないのです。日々の努力、日々の霊的修行で自分が何をすればいいのか、それを教えてくれる魂の響きを、自分の内に聞き取るようにしてください。そうすることであなた方は自分の精神に必要な食物を与えることになるのです。
時としてこの道において、資格保持者に、次に本当に親しい人達に、隠すことなく話すことがどれだけ必要なことかを理解し始めているのではないでしょうか。内に何かを秘めている限り、すべてが本来あるべき姿から外れてしまいます。あるものは誇大化され、あるものは過小化されるのです。しかし、あなたの問題や内なる葛藤に感情的な係わりを持たない者は、事を正しい光のもとで見ることができるかもしれないのです。特に個人セッションで何度もお伝えしてきたことですが、心理分析と懺悔の両方に等しくあてはまる霊的法則があります。それは同胞意識の法則で、誰かに心を開くとき、それは謙虚さなのです。少なくとも、話している相手に対しては。その人と接するとき、自分をもっと完璧に見せたいなどと思わないことです。これは人間の持つ最も有害な傾向のひとつなのです。ことはじめとして、程度に差はあるにせよ、誰かに自分のありのままをさらけ出すとき、その人から何の助言もなかったとしても、あなたの方では精神がこれまで渇望してきた安堵を瞬時に感じるものなのです。精神はこの同胞意識の法則に反した行動をとると苦しみ、謙虚に自分を見せることができると突然気分は良くなります。これが同胞意識の法則です。そんなとき自分のなかの何かがこう言っています。「いまここで自分を実際以上に見せたくはない。恥じるものを持っているがために得られるはずのない愛や尊敬を求めたりせずに、ありのままの自分をさらけだしたい」 と。しかし、こんなふうに思うのも間違っているのです。愛や尊敬はすべての生き物が享受するものだからです。この間違いに気づかないと孤立感に苦しみ、かすかなところで見せかけを続けてしまいます。誤った恥の感覚は、これまでに述べてきた反則と共に、同胞意識の法則も犯しているのです。このように、内面のどんな感情も、神性に裏づけられたものであるかが分かると思います。とはいえ同じ感情が悪魔的な力に歪められることもあり、恥の感覚でもこれは同じです。
ここでお伝えしたいのは、本当にこの道に沿って成長していきたいと心から思うのであれば、ある時点で導きがあるだろうということです。この導きは、ぎりぎりのところまで追い込まれ、自分自身の利のために、自分自身を救済するために受け取るという形でやってくることでしょう。もちろんあなた方にはいつでも自由意志があり、我々霊の世界ではいかなる場合も、たとえあなた方には難しくて表現できないようなことが我々には分かっていても、その自由意志を尊重し、それを犯すことはありません。しかし話をするのはあなた方で、我々があなた方のためにそれをやることはありません。いつでも拒んでもっと自分の世界に入り込み、追い込まれたことを恨む自由もあるということです。しかし、導きは神の好意だということに気づき、機会を生かし隠れ家から出て、目を開き、自分自身の救済がそこに転がっていることを知ることもできるのではないでしょうか。あなた方次第なのです。
導きが不快な試練としてもたらされるときには、何が起こっているのか理解できないかもしれませんが、これは必要なことをあなたが行うための手助けなのです。そうやって自分の殻から出て自分を開放することは必要なことであり、癒しであることを、あなた方は理解しないがために、こういった導きがやってくるまで取り組みません。こういった経験をあなた方は苦難と捉えるのです。一度理解ができれば、このような見方はしなくなるでしょう。あなた方は子供のように、自分にとって何が良いか知らないのです。そして、あなたの周りにはいつでも神の手伝い人がいます。とりわけこの浄化の道を自らすすんで歩みたいと望んでいる人の周りにはいるのです。そしてあなた方にこのような気づきの機会をもたらす状況を作るように、人々を導き、インスピレーションを与えるのです。それでも、その状況から学びたいかどうかを、あなたは自由意志で決めなければなりません。その状況の意義に目を開き、光の下で状況を見ることも、問題から目を背けてこの呼びかけを無視することもできます。これはまさしく呼びかけです!ですから、決断しなくてはなりません。勇気を自分のなかに奮い起こすか、それとも臆病に隠れ続けるのか。
この話を聞いてもまだ、勇気を奮い起こさないまま、この道を進めると思っているでしょうか。ひとつだけあなた方に約束できることがあります。今お伝えしているような作業を一度行ってしまえば、ある段階に辿り着けば遅かれ早かれ訪れる、霊的に生まれ変わったような感覚の前触れを味わうことができます。この呼びかけをそれと認識し、従うことが難しいほど、またそのために払う努力が大きいほど、試練が終わり、そこからどう進むべきか分かったときの安堵感、勝利、充足感、自尊心、そして内なる喜びや平安も大きいものです。是非覚えておいてほしいことがあります。何とか問題と向き合わずにすめば状況も消え去るのではと、そんなことを密かに思って、私が言ったことを忘れようとしてはなりません。もしもこのような決断を前にすることがあれば、そしてそのようなときは、毎日今日の言葉を読んでください。
私達が取り組もうとしているのは、あなた方がすでに知っていることや知っていながらも隠したりしていることだけではないのです。こういったものとの取り組みは比較的簡単です。いったん意識して隠している考えや感情をさらけだすことができたら、今度は私達の力を借りて、その後ろにどのような無意識の気の流れがあるのかを探らなくてはなりません。それが次にやらなければならない作業です。もちろんこれはひとりでやれることではありませんし、すでに知っていることを明るみに出す勇気を示してからでなければできない作業です。大抵の人間は、意識に出ているのと同じような形で無意識にも何かを抱えています。こちらの方を探し出すのはもう少し複雑です。第一の必要条件は自分という人間にまつわるすべてを自由に隠さずに話すことができることで、これなしには隠れた動機や気の流れ、感情に触れることはできません。この必要条件を満たせば助けは必ずやってきます。そして、あなた方が必要なこの助けというのは神の恩寵です。それなしには無意識にも、それを立ちふさいでいる頑なにしまい込まれた恥の数々にも、手を伸ばすことはできません。しかし、この神の恩寵も「なぜ自分には来ないのだ、なぜ自分にではなく他人に行ってしまうんだ。ずいぶん苦しんで努力もしたんだからもう来てもいいはずじゃないか」こんなふうに苛立ったり憤ったりして待っているのでは謙虚さがなく、恩寵が来る潮時を自分から押しやっているようなものです。あなた方は判断を自分で下そうとしますが、それはできないのです。どれほど自分が苦しんだか、いつ恩寵が下るか、どれほど自分が一所懸命にやったか。このようなことを自分で判断することはできませんし、まして他人と比較して判断することなどできません。比べるものがありませんし、そもそも完全な自己認識に欠けているというのに。無意識に隠されているものを掘り起こさなければ、自分のことは分かりません。自分のことも分からずにどうやって比べ、判断するというのでしょうか。真の謙虚さや忍耐の精神を内に育てていくのなら、恩寵はもっと近くまでやってくることでしょう。困難に遭遇したら次のことをよく考えてみるといいでしょう。自分に取り組み、できるだけのことはしているのに前に進めないことがあれば(他にできることがあるにも関わらず実行しないために前に進まない人は多いので、これは恩寵に欠いている、という問題ではないわけですが)自問してみるといいでしょう。行き詰ってどうしても通過できないようなことがあれば、自問してみるといいでしょう。「自分の態度はどれほど謙虚だろうか」と。何か困難にぶつかってすぐに、神に背を向ける代わりにこのことを心にとめておくとよいでしょう。大切なあなた方への、わたしからの助言です。
質問があるようですが、その前に、もうひとつ述べておきたいことがあります。先にも話したように、あなた方は自分の欠点を恥じています。大抵の場合、これは本当です。そのほとんどは自分になければいい、と思うようなものばかりです。しかし、もうひとつ違った分類に入る恥があり、欠点は欠点でもあなた方がそれに自惚れているような欠点のことです。この新しい観点から自分の欠点を見ることは大切であり、あなた方にとって大きな助けとなります。ある特定の部分でなかなか成長が進まないのもこれで説明がつくのです。自分では認めないと思いますが、自分の欠点のいくつかについては実はかなり誇らしくさえ思っているのです。言うまでもありませんが、それがあるかぎり克服することなどできません。これを克服する唯一の方法は、このことがどう自分に当てはまるのかを調べてみることです。そして自分の欠点のいくつかには感情的な愛着があることが分かったなら、なぜそうなのか、その背後に何があるのか、それが分かるように神に助けを祈るのです。そんな欠点に対して正しい恥の感覚が出てくるように、そのためには自分のこの在り方を客観的に観ることができるように祈るのです。自分に本当に正直になってすべての欠点とそれに対する自分の反応を調べるのです。自分の欠点を挙げたリストを順番に見ていくと、あるものは本当に嫌だと思うのに、あるものには理由はどうあれ何か好ましく感じることに気づくでしょう。この惹かれる気持ちがあるところでは自分にこう聞いてみるのです。「誰か他の人がこの同じ欠点をまったく同じように、もしくは少し違った形で持っていたとしたら、自分はどう反応するだろうか」自分でいいと思っている欠点と同じものが他の人に顕れるのを見ると、癪に障るものです。欠点にこのように向き合っていくと、今までそこに感じていたプライドは少なくなっていくことでしょう。しかしそこにプライドが残る限り、この欠点を克服することはできないのです。
次からのレクチャーで、どのような欠点でもいいので、ぜひ分析のために自分の欠点を持ってきてください。どれひとつをとってもそこにプライドと身勝手さと怖れが絡んでいることをお見せしましょう。欠点をどう分析すればよいのか、それがどのようにまた他の欠点と繋がっているのか、何が関係しているのかを、よりよい自己理解への手助けとしてお教えしたいと思います。瞑想の方法や、自分自身の霊的修行の道を私が伝えるこの方法でどう歩んでいけばよいのか、お教えしたいと思います。また、どんな欠点や弱点、未熟さも、そのひとつひとつが愛すること、転じて神を知ることの障害になることを説明したいと思います。すべての欠点はもともと善良で純粋なものの歪んだ形であるゆえに、それぞれの欠点の背後には必ず良いものがあるということを説明したいと思います。自分でも練習してみてください。もちろん、自分の欠点に当てはめて行うのです。というのも、霊的な修行が抽象的で非個人的であるときは、使い物にならないからです。それでは、他の質問に移る前に、このことに関してなにか聞きたいことはありますか。
質問:資格保持者に心を開く、ということが強調されていました。心を開いて謙虚でありたいと願いながら、無差別に誰にでもそうしてしまって結局何も得られない、かえって悪い結果を生んでしまう、そんな問題についてもう少し詳しく話していただけませんか。
回答:言うまでもなくこれは極端に反対の方向に走った場合のことですね。あなた方も分かっているとは思いますが、何でも極端なのは良くないわけです。今言ったような者には精神が渇望する深い欲求があるのですが、真の欲求が自覚されていないので、間違った方向でそれを満たそうと探し求めるのです。しかし、このようなケースはあなたが思うほど極端なものではありません。人間はあまり重要でないさまざまなことを打ち明けますし、ときには自分の欠点さえもさらけ出しますが、実は本当に見なければならないことを隠しておくためにそうすることが多いのです。
質問:そうですよね。ちょうどそのことを言おうと思っていたのですが、もしも同じ人が自分の本当の欠点は隠して、公言するための偽りの罪の意識を作り出しているとしたらどうなのでしょうか。
回答:そうですね。そういう者にはいくら人を選んで打ち明けるように言っても無意味でしょう。どんな人が打ち明けるべき人物なのかが分からないのだから。健全な知的判断も直観も欠いていて、このどちらの能力も、本当の理由を隠し、理屈をこねる限り機能することはできないのです。こういう人はまずこの事実に気づかなければなりません。もちろんこれは時間をかけてゆっくりとしかできませんし、そうしたいという欲求がなければまず不可能です。しかし欲求が育っていくことは可能です。
それでは皆さんに祝福を。神とともにあってください。
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