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Pathwork Guide Lecture No. 35 神に向く TURNING TO GOD UNEDITED版 1958年8月29日
神の名においてご挨拶します。我が友人たちよ、皆さん全員に祝福を。この時は祝福されています。短期休みが明けたばかりの今日、皆さんを歓迎します。人間である皆さんの時間の基準では、このグループがはじまってからおよそ一年になることを申し上げたい。私たちの霊的な視点から見て、多くの意味で生産的な一年でした。いつぞや私は皆さんに、全ての思考、努力、感情は、霊的な形を創り出すと説明しました。神の傍に近づこうと真摯に努力するこのようなグループは、霊的な世界に本物の寺院を建設しているのです。この寺院は、皆さんの努力によって創造されている形です。寺院とは、主を賛美する家という意味です。寺院の構造は出来上がり、壁のいくつかは築かれたが屋根は未だなく、同じように欠けている様々な部分があると、これまで皆さんにお話ししていました。グループの為に果たすべき課題への努力のみならず、ご自身の浄化プロセスにおける努力の内の最も小さなものも含め、今この寺院の建設は、貢献されている皆さん全員によって続けられています。ですから、寺院の建設は相当に前進しているのです。今や、屋根はほとんど完成しつつあります。そして来たる一年は、この素晴らしく美しい寺院の更なる進歩を約束します。最後の仕上げまで至る程の大きな進歩が見られるかもしれません。全ては、主と、救世主イエス・キリストを称えて。皆さんの寺院の進捗については、折に触れてお伝えすることにしましょう。さて、友人の幾人かの進歩について、私たち皆の喜びを表したいと思います。そして、皆さんに多くの喜びをもたらすであろう、実り多い季節が待っていることをお約束できます。時々起こる個人的な挫折を例え予見できなかったとしても、このような予言が可能な程に、皆さんの寺院の基本構造は十分に安定しました。建設に貢献しているこの寺院の現実を、皆さんの一人一人が、ご自身のハートと魂で感じられるようになることでしょう。ただ座って聞いていて、本当のところ霊的な利益を得ない多くの人々のことは気にしていません。これらセッションに大観衆が集まることよりも、ただひとつの欠点を乗り越え、ただひとつの短所を完全に認めるということの方が、皆さんの寺院の建設、そして救済計画全体のためにより大事なことです。そのような霊的進歩を一個人の中に見ることができるならば、それは、生ぬるい参加者が大勢いることよりも、私たちにとってより意味のあることであり、私たちを大変幸せにしてくれるのです。
友よ、この機会に、お願いしたいことがあります。常に、神を賛美してください。私を賛美することのないように。何故なら私は、自身の仕事、使命において幸せな奉仕者に過ぎないからです。そして、与えることを許された我々の助けによって、あなた方が啓示を経験する時、あなた方が神に、神のみに感謝するのと同じく、私たちは皆でこのようにして得られた幸福を神に感謝しています。決して忘れないでください。ただ神のみおり、神に負っており、その力と恩寵なしには、その創造物である我らは一本の指でさえも持ち上げることができません。
親愛なる友よ、神を間違った方法で求める人が多くいます。多くの欲望、努力、人格傾向、それ自体は立派なものですが、それらが間違った形で実行され得ることを、これまでもレクチャーで度々お話ししてきました。神を間違った方法で求める場合があるという私の発言は、皆さんにとっては驚きかもしれません。それが何を意味するのか説明してみましょう。この地球の領域では、相当量の失望があります。そして、他の人間とのコンタクトが不満足で、十分な愛が来ないことを示されただけで、神の方へ向く人間がいます。あなた自身、また他者の最奥の神聖なるひらめきの表現の中には常に、恐怖と警戒の要素があります。従って、人間とのコンタクトには、たいてい危険があります。あなたが望むであろう結果はもたらされません。多くの場合、あなたは傷つくかもしれません。そのような時、人はたいてい正しいやり方ではなく、神に向く傾向があります。その人は、このように感じるかもしれません。「神は私を失望させないだろう。神には十分な愛があるし、とても遠くにいて、とても漠然としているから、神を愛することに何のリスクも負わずにすむ。けれど、人間からは失望と痛みの経験しか得られないかもしれない。」さて友よ、これが間違った方法です。しかしこれはまだ、私が最も未発達な状態と呼ぶ後述の反応よりかは、比べ物にならない程ましな反応です。それは、自身の失望の中で自分の失望と他者の失敗を神のせいにし、苦々しく現実や創造主の存在を疑うようになる態度のことです。これこそが、最も未発達な反応です。この時点では、人間は未だに人生の学校に入学さえしていません。比喩として、このような人は「幼稚園」にいると言えるかもしれません。しかし、より失望や危険が少ないという理由で神の方に向く人は、小学校1年生を表していると言えます。
神を探す正しい方法は、あなたの人生の充実から為されます。どうか皆さん、これが何を意味するのか注意深く考えてください。この発言は、表面的な印象を残すだけで片付けてはいけません。これには、見かけ以上のものがあります。人生の充実とは、臆病さなく人生に入っていくこと、人生がもたらす全てに対して自分自身を開くことを意味します。それが、困難であろうと喜びであろうと。不幸せであろうと幸せであろうと。暗闇の時であろうと光の時であろうと。他の人間に対する失望であろうと。そしてもし、他者がある行為をせずにはいられなかったその理由を無視しているならば、決して険しくなることなく、常に常に繰り返し信じ続けること。理解あるハートを持とうと心がけることです。そして何よりも、決して決して、ありのままの自分の感情、ありのままの人生を恐れてはなりません。それが、人生の充実です。しかしもし、神が最後の頼みの綱、また間違った形の逃げ場であるならば、その方が「安全」だからと神に向くのならば、そしてもし、あなたの感情の中で神が二番手であるのなら、神はそのような方法ではうまくいかないと示さねばならなくなります。そして、試練は多様なものになるでしょう。もちろん、自分のこの反応には意識的には気づいていないでしょう。しかし、そのような反応が自分の中にあるかどうか探ることはできます。自分の感情、他の人々に対する恐れ、人生と愛に感じる危険とリスク、これらを検証してみてください。それから自分自身に尋ねます。あなたの神を求める努力は、結局のところ、神を代用品にする試みになってはいないかと。友である皆さんの幾人かは、少なくともある程度は、このケースに当てはまるのではないかと思います。ご自身を誠実に検証することをお勧めします。これが、神を見つけたいというあなたの望みの唯一の動機だとは言っていません。動機は混ざり得ることを知っていますね。皆さんの発達段階においては大抵そういうものです。純粋な動機は意識されていることでしょう。しかし、ここで触れられたような不純な動機は、今述べたような点において自分の魂の内側を探索しない限り、意識されることはありません。
ここで、あなたはこう質問するかもしれません。「私たちが失望したら、その時に神に向くのではないのですか?」もちろん、そうすべきです!しかし、ここでも又、あなたがどのように向くのかが問題になります。もし、あなたが失望の中で神に向かってこのように問うならば、あなたは正しいことをしています。「父よ、このような出来事を避けられないこととしたのは私の内側の何なのか、このことから何を学ぶことができるのか、それを見つけることを助けてください。私の臆病さを乗り越えることを助けてください。人生と、その全ての痛みに、私が勇敢に向き合うことができますように。」そして、あなたは正しいことをします。しかしもし、あなたが他の人々から離脱し、恐れの中で自分自身の感情からも撤退しながら、そのような内的行動の理由として「世界を放棄」することが、より神を見つけやすいと信じ込もうとしているのなら、あなたは二つの形で間違っていると言いましょう。ひとつ目は、先ほど言ったように、あなたにとって神は代用品になっているからです。そして二つ目は、自分自身に嘘をついているからです。他の場合と同様に、この点において真実を見出すのは簡単なことではありません。これらは微妙で隠された感情です。最も厳密で誠実な自己検証のみが、この魂の反応についての真実を教えてくれます。真実の中で神を探し求める欲求の部分に目を奪われないよう、隠されたもう一方の部分を探しなさい。親愛なる皆さん、決して忘れないように。あなたの感情は混合されています。正しくて純粋な意識の部分は、隠されている誤った反応、感情、動機の可能性を取り除くものではありません。ですから、自分自身を検証してください。
神を見つけることができる最高の方法は、常に他の人々を愛することを学ぶことです。ご存知のように、これは長い道のりです。私たちはこのことをワークし始め、そしてワークし続けます。何故なら、あなたの仲間である生き物への愛以外に、あなたを人生の充実に連れて行ってくれるものはなく、またそれのみが、主を見つけるのに相応しい基礎なのです。
私たちスピリットの世界の者は、人類を見ていてしばしば悲しくなります。多くの苦しむ男女の誰もが愛されることを切望しながら、本当に望んでいるのは愛されることではなく、ただ愛することなのだと未だ知らずにいるのです。それを知らないだけなのです。神聖なるひらめきと物理的な肉体の間にある層、すなわち魂の粗い物質は、愛することへの切望を、愛を受け取ることへの切望へと変換します。何故なら、この層には、その全ての自惚れ、プライド、恐れ、その全ての野心と共にエゴが存在するからです。そして、このエゴの層で思う起こり得る最高のこととは、傷つくリスクなしに他者の愛を受け取ることです。遠ざかってい続けられることが望ましい状態であると考え、それが決してうまくいかないことを無視しています。そのようにして誤魔化しているのです。あなたは完全に与えることなく、何かを受けとりたがります。愛を受けとりたいという、自分の欲望が叶えられるために欠かせない分だけを与えます。それでもうまくいかないので、あなたは苦々しくなります。うまくいかせることはできないのです。時折うまくいったように見えたとしても、(良くて一時的にうまくいくだけですが、)あなたは他者から与えられる愛によっては幸せにはなれません。そうです。幸せにはならないのです!考えてみてください。他の人々が、彼らの知り得る最高の形であなたを愛したとしても、あなたが自分の臆病さを取り除いていないがために愛することができず、あるいは愛するつもりがないということであれば、他者の愛があなたを幸せではなくむしろ不幸せな状態にするということが人生ではよく起こります。他者の愛が、あなたの重荷になるのです。内側の何かが「私はこれに値しない」と知っていて、罪悪感を感じます。そして、結果を顧みることなしに愛を与えられる程十分に、自分のエゴ、プライド、恐れ、人生を誤魔化させる臆病さを乗り越えることを学ばなければ、あなたは、より多くの愛が与えられるほど不幸せになります。これについて考えてみてください。真の愛を与える以前であっても、一つの弱さを乗り越えて与えることを始めるならば、自分の特定の欠点を乗り越えることに起因するこの無私の与える行為は、あなたが我儘で欲深い状態で受け取る時には決して来ない、幸せと安心の感情をもたらします。分かっています。これらはあなたが何度も聞いたことのある古い真実でしかありません。しかし、その同じ真実を繰り返し見ていき、真実を単なる言葉に留めず、あなたの内側の人格における生きた現実にせねばなりません。友よ、この道の最も大事な要素の一つは、皆さんが既に知っている言葉から啓示を得ることの奮闘です。このことも考えてみてください。あなたの知識を深めるはずの何かが話された時、この真実を言葉としては知っていても、まだ自分の一部には決してなっていないが為に、内側の扉は自動的に閉まり何かがあなたの中でこのように言います。「ああ、それはもう知っている。新しいことではないな。」このようにして、あなたは自分に大きな害を及ぼします。もっとよく分かっていてもいい筈なのです。知っていることと、本当に知ること。そこには雲泥の差があるのです!あなたはどちらの方で知っていますか?あなたは、知っていると思っていることを感じ、それを生きていますか?常にまずはじめは、脳で知らねばなりません。しかしそれは、ワークの始まりでしかありません!マインドあるいは脳には、ただ持っているにすぎない相当量の知識があります。私たちの見地では、この知識は知っている内には入れません。魂の中に在り、どんどん奥へと入り、もはやどんな状況においても決してあなたを置き去りにすることがない知識とは比較的少ないものなのです。
私たちはまた、友人たちがしばしば何かの為に祈るのを観察します。熱心な祈りがなされ、飽きることなく辛抱強くさえあります。今は、正しい種類の祈りについて話します。皆さんが祈るべき事柄についてです。多くの場合、この祈りには答えが来ていますが気づかれていません。何故なら、祈りへの答え以外の何物でもない何らかの出来事が、不愉快な試練としてあなたの所に来るからです。友よ、そうです。これがそうなのです!もっと正確に言うと、これらの出来事は、祈っている結果が成される前に必要なものなのです。しかし、あなたはそれを知りません。あなたはどういう訳か、祈りへの答えは特定の方法で来るべきだと思っています。もし充実を欠いているならば、もし人生において何らかの困難があるならば、それは霊的法則のいずれかに反しているという事実を考えることもしません。従って、あなたの中には、この充実が起こることを妨げるブロックが存在します。そして神は、あなた自身の充実への道に立ち塞がる困難が何であるのか意識化できるよう、あなたの祈りに答えるのです。その困難が物理的環境に顕現した時にのみ、あなたはそれを意識できるようになります。そうでなければ、それに気づいて自分自身の障害物を取り除くことはできないでしょう。ここには、そのようなことが一度ならず起こった友人の方々もいますね。その不快な出来事は、まさに彼らの祈りへの答えであり、その出来事なしには彼らが神の永遠の至福(神がその子供たちに楽しんで欲しいと願う至福)と、彼ら自身の間にある障害物を取り除くことができませんでした。これは更なる考察の糧としてください。
親愛なる友よ、次回はおそらく、祈りについてより詳細に話していきます。しかし、私たちのコントロールの及ばない所で、我が友人たちのニーズに合わせられるよう、計画は最後まで変更される可能性があります。
皆さんからの質問にうつる前に発表があります。皆さんのグループの中で新しい活動が始まるのを見られれば、私たちはとても嬉しく思います。友人の誰かが、何らかの問題を抱えてアドバイス、助け、支援が必要な時、その人が私と個人的にワークしているかいないかに関わらず、中心となるグループの友人たちの所に行き、ミーティングを設定できると良いでしょう。その場では、助けが必要な人はできる限り誠実に自身の問題について話します。そして、グループの人々はその問題を検討し、それぞれが自身の意見を述べます。その問題は、霊的、感情的、心理的に、どのようなことを意味するのか。浄化の目的の為に、そこから何を学べるのか。この問題によって、どの霊的法則が冒された可能性があるのか。この問題を扱うのに、最も良い方法は何だろうか等々。これらの観点から話し合うと良いでしょう。このようなミーティングを始める時には、神聖なるガイダンス、インスピレーション、啓示を求める参加者全員の真摯な祈りが最も重要です。このような奉仕の正式な組織化を望むことには、多くの正当な理由があります。理由のひとつとしては、神の世界のスピリットである私たちは、人間が自立することを励まします。私たちは、問題を見た途端すぐに「どうしたら良いですか?正しいことは何ですか?」と聞かれることは好みません。私と個人的にワークしている友人たちは、そのような行動パターンを私が思いとどまらせていることに気づいていることでしょう。「このようにしなければならない、このようなことは控えるように。」あらゆる場合にそう教えることは、皆さんを弱くします。私がしていることは、まず外的影響の責任を負う内的原因を理解するよう気づかせることです。そのような理解の探究にどのように取り掛かれるのかをお見せします。この目的の為には、あなたが自分の問題についてオープンに話すことが重要です。何故ならば、そのこと自体が既にその問題となる葛藤に新たな光を投げかけ、結果的として、霊的成長に必須のより深い洞察をもたらします。尋ねて従うことは何もないよりはましですが、それ以上のものでもありません。霊的法則に対する自らの違反をどのように見つけ、内なる流れをどのように変えるのかを尋ねること。それこそが、私たちが皆さんに望む本物の成熟した霊性です。そのようにしてのみ、神の意志、そして神の答えを受け取ることができる自立したチャネルにある障害物を取り除くことができるのです。これが私たちの考えていることです。その為に霊媒にならなくても良いのです。正しい道にいる全ての人間は、神からの答えを受け取ることができます。その為に皆さんを訓練することが私たちの仕事です。全ての決定の度に、私たちの所に尋ねに来るよう依存させることではありません。従って、ひとつの問題をこのように全体的に話し合うことは、まさにここで説明した内容を鑑みても、関わる全員にとって大きな学びになるでしょう。この道を歩む者は全員、内的また外的葛藤の原因と解決への正しい方向の探究に訓練と練習が必要です。私がここで提案したことはとても良い機会を提供し、皆さん全員を強めます。このような活動は「ノック(扉を叩くこと)」の別な形です。こうして参加する我が友人たちを通し、神聖なるインスピレーションがもたらされることでしょう。また、皆さんの中で可能な限り深くまで行った後、より深いところまで行けるアドバイスを差し上げるつもりもあります。この活動のもうひとつの目的は、このグループの友人たちをより近く結びつけることができるということです。これはとても大事なことです!兄弟姉妹愛の法則が促進されます。この道における兄弟姉妹たちに対して自分自身を開くという寛大さと勇気を持つことは、魂にとってどれほど健全なことでしょうか!また一方、話を聴き、アドバイスを与え、熟考し、助ける人々にとっては、彼ら自身の学び(ありえなそうに思えても、常に何らかの共通点があります。)によってのみならず、少しの時間と努力を提供するという利他的行為により、強さを手に入れることができます。ですから、これは皆にとって良い働きとなるのです。そして今、私が強調したいのは、あなた方の誰も恥を感じるべきではないということです。恥ずかしさがあなたの道を阻むならば、それはあなたの自惚れの大部分がまだ乗り越えられていないということです。もし、この浄化の道を歩もうと真剣に心がけ、また誠実に助けたいと願う友人たちに問題を相談することができないならば、自惚れやプライドを乗り越えようと努力する度合いに応じて受け取れる聖なる恩寵は、あなたの元へたどり着くことはできません。何故なら、全ての欠点は聖なる恩寵への道を直接的に妨げます。そして、僅かな欠点であってもそれを乗り越えるための全ての努力は、そのような恩寵の直接の流れの扉を開けることを意味します。あなたがその恥ずかしさのことを考え、その根本まで行くならば、プライドがあなたを恥ずかしがらせていると認めざるをえないでしょう。このことを言い過ぎるということはありません。私の親愛なる、親愛なる友人たちよ、もし困っているのなら話してください。このグループの友人たちのもとにおいでなさい。そして、あなたがそうすることを神がどれだけ望んでいるのか、自分自身を納得させてください。何故なら、あなた自身がこの体験をつくり出すのです。あなたはその果実(結果)をゆっくりと、しかし確実に受け取ることでしょう。そのような方法で助ける人々のグループ、またそのような助けを求める人に、大いなる祝福がもたらされます。親愛なる友人たちよ!このような定期的な奉仕は、グループ全体を大いに強めるでしょう。
それでは親愛なる皆さん、質問の方にうつりましょう。
質問:人間に、A型やO型などの血液型があるのは何故なのか教えてもらえますか?
答え:我が子よ、その理由は説明しやすいものではありません。人間の皮膚の色や体形の違い等、それをまとめて尋ねられるのと同じです。違いはある筈なのです。何故その違いがあるのかという事を短い言葉で説明するのは不可能です。神は、多種多様な己が子供たちを皆、それぞれの完全さの中でお互い違うように創造されました。従って、不完全さの中でも違いは存在しなければなりません。生物的な違いは、霊的な違いに沿っています。基本的な特質と同様に、はじめに魂に顕現される逸脱、心理的な補償、最終的に物理的な領域にも顕現します。従って、血液型の違いは内的特質の反映であり、その基本的な分類の中での振動です。不完全さの領域における違いの全ては、障害物を生み出します。人が適切な態度で行く手にある障害物を取り除くことを選ぶ時、この障害物じたいが、その人の霊的発達を進めることができます。どの障害物であっても、例えそれが一見何の関係もなさそうに思えても、最終的には霊的成長という一つの目的に奉仕しています。
質問:スピリットの世界では、死後の肉体を私たちにどうして欲しいと思っているのか、お尋ねしたいと思います。
答え:スピリットの世界では、そのことについて、あまり拘りはありません。肉体は、その人とは何の関係もありません。その点について私たちが提案するのは、以前まとっていた殻を人類のために、研究のために役立てる。これだけです。そのことは確かにお勧めできます。さらに、火葬は肉体的な死から三日以上経ってから行うことをお勧めします。何故ならば、サトルボディーが完全に自由になるのにその程度の時間がかかるからです。医学的に死が宣告されても、まだ肉体にサトルボディーがゆるく繋がっている場合があります。早すぎる火葬は、サトルボディーを傷つけるかもしれません。もちろん、破壊されることはありませんが、損傷させる場合があります。この話との繋がりで別な提案をするとすれば、私たちは、肉体と土との出会いを遠ざける重い棺には賛成しません。肉体が崩壊した後できるだけ早く、その殻は生まれてきた土へと戻ることが、進化のプロセス全体のためにより良い方法です。これらの物理的な物質は土の中に入り、植物やミネラルの栄養となります。とても重要だということではありませんが、もし、皆さんの地球領域全体の習慣として物理的な物質の融解が促されるならば、植物と鉱物の世界の進化のプロセスのスピードがある程度早められるでしょう。
質問:それであれば、火葬されるよりも、埋葬される方が良いのではないでしょうか?
答え:それには、何の違いもありません。灰が土に入ることと、どんなものであっても自然な体に入ることとの間には何の違いもありません。
質問:私は、祝福が与えられ受け取られる時に何が起こるのか質問したいです。祝福されると、祝福を受けたものには、本当は何が起こっているのですか?
答え:人間に関する限り、様々な神聖な力や力の種類があることは知っていますね。例えば、ここで祝福を与えることが許されている時、私はある種の力を持ち込みます。私の援助者達*1も、これらの力を持ち込みます。いつも同じ力ではありません。その時のグループ全体のニーズ、または一部の個人のニーズに従って持ち込まれます。そして、この祝福が浸透するかしないかは、受け取る人間の態度にとても依存します。あなたがオープンであればある程、あなたの魂は神まで持ち上げられます。魂の中に、苦々しさ、抵抗、硬化が少なければ少ないほど、この祝福はより大きな影響力を持つでしょう。それはあなたの肉体を強め、魂を強め、スピリットを強めることができます。また、肉体、魂、スピリットに、どのような力が与えられるべきかには異なる分類があります。ある時には、自己認識に必要な特定の種類の強さを受け取ることが相応しい場合があります。別な時には、忍耐力をより必要とする場合もあるでしょう。枚挙にいとまがありません。これらの力をどのように受け取るのかは、あなた次第です。そして、あなたの受け取る能力に従って、あなたはその力、あるいはその祝福を保つことができます。いく人かの友人たちは、それを一週間ほど保つ力があります。ある人々が保つ時間は、それよりも少ないでしょう。あるいは、祝福が与えられた時に全く受け取れない人々もいるでしょう。それは、ただ跳ね返るだけになります。人間の祝福には、とても多くのことが関わります。そしてもちろん、物に対しての祝福も可能です。祝福を与えられた物の近くにいる人間が、その力に対する感受性を十分に持っていればいつでも、物に与えられた強い力は多かれ少なかれ、持続的な影響を持つこともあるかもしれません。この点で、物質的だけで存在する物はないことを覚えておくと良いでしょう。物であっても常に同じく、サトル体や霊的な形があります。原子科学においても、この事実はある程度は発見されています。そのことは、はじめに霊として創らない限りは、物質的に物を創り出すことはできないという事実によって、スピリチュアルに説明されています。あなたが思いつくアイディアは霊的創造であり、そこからあなたは奮闘して物質的な世界にそれを創り出すことを始めます。
ただ、特定の種類の物に与えられるのは、特定の種類の祝福です。そこには、基本的な関係性がなければなりません。宇宙に存在する全てのものは、元は、基本的な力あるいは光線の内の一つから来ています。それらには多くの区分があり、他の基本的な力との分離の過程でしばしば混ざり合うこともありますが、祝福や力は、それを受ける物固有の基本的な力と同じである必要があります。これは理解するのが難しいかもしれません。例えば、石を考えてみましょう。自然な石であろうと、貴重な石であろうと、単に道に転がっている石であろうと、石には生きた力が入っています。過剰な精製過程で、その基本的な生命が殺されてしまわなければ、その基本的な力は未だ内側に存在し、従って、祝福の中で与えられた特定の力と融合することができます。それ自体の本質に合う区分の力を吸収してから、その力を他の生命体(他の鉱物、植物、動物、あるいは人間)に受け渡すことができるのは、物質的な形の後ろにある霊的な形なのです。生命力を含むいかなる物、石や木材であっても、そのような方法で使うことができます。分かりましたか?
質問:ひとりの人間の祝福が、例えば、あなたや、あなたの援助者*1の祝福と同じだけ強いということはあり得ますか?
答え:それは、その人間の霊的発達と、その人物の神への近さによります。その人の浄化度合いに依存するのです。
質問:前回の私の個人セッションの中で、あなたは魂の過剰な活動について触れました。魂の過剰な活動の後ろには何があるのか、それにどうやって気づくことができるのか、人間はそれに対して何ができるのでしょうか?
答え:親愛なる友人よ、次回はその質問からスタートすることを提案します。何故なら、今夜入っていくには、その話は長すぎます。次回、その質問の為に、ゆっくり時間を充てられるようにしましょう。今残っている以上の時間が必要になるので、今夜それに答えることはできません。この質問は、端折りながら短く答えるには重要すぎる質問です。他に、これほど時間がかからない質問はありますか?
質問:少し前に、神智学協会のあるメンバーと、ある医師から問われた質問です。彼らは、何千年も転生しなかったスピリットが、何故この地球領域にまだ入り込むことができるのかが理解できないと言っていました。彼らにどう答えることができるでしょうか?
答え:人間が一つの点においては特定の知識を持ち得るのに、別の点においては非常に独断的になり、最も無知に至るのを見るといつも驚かせられます。もし誰かが先入観を持っていれば、その人を説得するのは殆ど不可能です。どういうことかと言うと、その人が説得されたいと思っている時にだけ、説得は可能だということです。特定の啓示、様々な結論に到達すると、人々はそれを見出すことを可能にした同じ情報源から来るものは何でも、他の点においても受け入れる傾向があります。それは、人類共通の欠点です。そもそも、転生のサイクルの外にいる存在が地球領域に入らないというのは完全に間違っています。聖書で語られているように、最高次の神の天使たちは、地球との繋がりの中で絶えず使命を持ち、多くの方法で出現しています。さらに、数千年は霊的な視点から見ると何でもないのです。千年は一日にすぎません。あなたはそれを知っていますね。しかし、この話題で最も重要なこと。それは、スピリットが顕現するか、あるいは人を通して出現できるかどうかを決定するのは、そのスピリットが転生のサイクルの外にいた時間の長さが問題ではないということです。それは何の関係もありません。その他多くの重要な検討事項があります。しかし、それは確かに時間の長さではありません。人を通して顕現できないスピリットは、神とキリストのみです。神あるいはキリストが直に霊媒を通して話した場合、波動が強すぎて誰も生き延びられません。それは不可能です。しかし、キリストと神以外の全てのスピリット、最高次の大天使たちは、それが起こることが望ましい場合、(既にそれは起こっていますが、)顕現することができます。殆どの霊媒に、転生のサイクルから外れていないスピリットが出現していることは本当ですが、それがルールだということではありません。より低い発達段階にあるスピリットが顕現することが殆どであることの理由のひとつとしては、自己成長の道を進む霊媒が非常に稀だということです。人間はあまりに頻繁に興奮を求めるので、歴史上の有名な人格が出現した時の方がより興味を持ちます。一方で、霊媒が正しい道を進んでいる場合でも、転生のサイクルから出ていないスピリットが神聖なる秩序に組み込まれて使命を果たすこともできます。しかし、このような顕現を可能にする為には非常に多くの条件が必要とされると同様に、神霊の世界が念頭に置く使命の段階を踏むことも求められます。もし、既に地球領域を訪れる必要がなくなったスピリットによってこれら全ての条件がより良く満たされる場合、スピリットが生まれ変わらねばならないかどうかの点は考慮されません。もう転生しなくてもよいスピリットであっても、地球領域をつい最近離れたばかりであるが為に、神聖なる世界の力をより必要としており、地球領域に近づく使命を引き受けるつもりがないという場合もあり得ます。一方、十分な力を受け取ったスピリットは、そのような使命を引き受けるつもりがあるかもしれません。何故なら、神の世界の一部である全ての存在には、神の意志を満たすという一つの目的が念頭にあります。神の意志を満たすことが、救済計画の最速の実行です。言い換えれば、ここでの質問は以下の通りとなります。「もう地球で生きる必要がなくなったスピリットが、人間の霊媒を通して出現することは可能ですか?」はい!「それは必要で望ましいことですか?」多くの場合、転生のサイクルの中にいるスピリットもその仕事ができますが、常にという訳にはいきません。しばしば、もう地球領域に入ってくる必要がなくなったスピリットの方が適任であることがあります。ここで三つ目に出てくる質問としては、「そのスピリットは、それを望むでしょうか?」これに対する答えは、ある特定の発達においては、自分の領域に留まって使命を果たす方が幸せであったとしても、最も助けになることを何よりスピリット自ら望む場合があります。神の意志に基づく素晴らしい計画を助け、働くことは、やはり最大の幸せなのです。私たちの至福は奉仕にあります。そしてここで、もう転生しなくなったスピリットが、何故そのような使命を果たす必要があるのか疑問を感じるかもしれません。多くのものたちがいるのです。確かに、同じ仕事ができる他のものを見つけることもできるでしょう。その選択がすごく素晴らしいということではないのです。そもそも、全ての人間を通して全てのスピリットが出現できる訳ではないことを理解する必要があります。これは、発達の問題ではなく、神聖な領域とコンタクトするのに霊媒がこの道(パス)を歩んでいなければならないということでも全くありません。これは自己理解の問題です。非常に多くの異なる種類の賛美の力、顕現するスピリットと霊媒の間で調整されるべき様々な種類の基本的な光線から来る波動があるということを言いたいのです。それに加えて、この霊媒に与える教えとワークにふさわしいスピリットでなければなりません。私がここでお見せしているのはふたつの考察だけです。我が友人たちよ、信じてください。皆さんが全く知らず、人間のマインドでの理解が欠ける部分であるが故に、私から説明できないことがもっと沢山あるのです。例えばそれに加えて、自らの為にはもう必要ではない使命であっても、スピリットがカルマ的な要因から使命を引き受けることがあるかもしれません。以前にそのスピリット自身との繋がりがあったグループと共にその種類の仕事を果たすことが、スピリット自身の望みである場合もあります。友よ、これらは全て真実です。しかし、ある人々は時にあまりにも硬い意見を持つことで扉を閉めており、納得させることはできないのです。
質問:私たちが所属している、スピリチュアル・ファミリー(霊的家族)という言葉が何を意味するのか、もう少し詳しく説明してください。
答え:家族にはふたつの種類があります。ひとつは、堕罪*2よりずっと以前、あなたが創造された原初の時に創られました。あなたの周りには友達、家族のサークルがありました。それは人間の家族よりもずっと大きく、あなたは同じタイプのスピリットたちと共に生き、同じ興味を共有し、特定の類似性と同じように相補性も共有していました。これが、元来のスピリチュアル・ファミリーです。それから、発達と進化のコース、転生のサイクル、それぞれの人生の中で何を学ぶ必要があるのかによって、別な種類のスピリチュアル・ファミリーが形成されました。そこから、多くの新たなコンタクトが創られました。それら全てが、元来のスピリチュアル・ファミリーから来ている訳ではありません。あなたの元来のスピリチュアル・ファミリーが皆、堕罪*2に参加した訳ではないかもしれません。ですから、無限に長い年月の流れの中、共通の霊的使命で繋がっており、カルマ的なリンクがあり、興味のあり所が類似している、新しい家族が創り出されました。従って、これら二種類のスピリチュアル・ファミリーは区別されなければなりません。
さて、友よ。私は、もう十分に皆さんに与えました。皆さん全員に申し上げます。私が皆さんにもたらすことを許されている神の力と、最高次の祝福のために、皆さんのハートと魂をどうか開いてください。神へと繋がるあなたの道で、この力が、もう一歩先へと進むことを助けてくれますように。我が友よ、恐れを捨て、神の中で喜びなさい。何より、あなたが愛するつもりもない人たちへの愛を自らのハートの中に見つけて、毎日彼らの為に祈ってください。それでは、皆さんに私の祝福を残して去ります。平和の中にいなさい。喜びと愛の中で生きなさい。神の内に在りなさい!
*1:「援助者」は原文でヘルパーと書かれています。後の参加者の質問から、人間のパスワークヘルパーではなく、ガイドを援助する立場の霊的ヘルパーを指すのではないかと思われます。
*2:「堕罪」“the Fall”については、パスワークガイドレクチャー21番”The Fall”の中で語られています。
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