


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No. 36 祈り
Pathwork Guide Lecture No. 36
UNEDITED版
1958年9月12日
祈り
PRAYER
神の名のもとにご挨拶申しあげます。親愛なる皆さん全員を祝福します。この時間は祝福されています。
神を探し求めることは、人間あるいはスピリットにとって、あらゆる活動の中で最も輝かしく満たされる活動です。そして必然として、神を見つけることはゆっくりとした緩やかなプロセスとなります。親愛なるみなさん、ご存じのように、神を探し、神を見つけることは解放・自由を意味します。すなわち、あなた自身の内側に存在する鎖からの解放を意味します。そこで神を見つけるためには、私たちが言っているように「道に沿って」行かなくてはならないのです。道と言うとき、既にそこにある道を歩いて行くということではありません。なぜならば、その道を行くことをあなたが決める時、そこにまだ道はなく、あなた自身がその道を作らなければならないからです。実のところ、あなたが「道を見つける人」であり、ジャングルの中を行く先導人(ガイド)として行動することが求められるのです。野生の低木や茂みをかいくぐり、あらゆる機会を捉え、ゆっくりとではありながらもしっかりとした足取りで一歩一歩進むのです。魂は常にあなたの思考と感情、そしてそれらが表面化する行動によって形づくられており、あなたが道に足を踏み入れようとした時、あるいは初めの段階を通り抜けている時に、その険しいジャングルの姿をあなたに見せます。普通の人間の魂の中には、このような本当のジャングルがあるからです。それ自体はまったく悪いことでも、罪深いことでもありません。それは単に、混乱、誤り、自己認識の欠如、聖なる法則からの逸脱、そしてその逸脱に対する無知にすぎません。そしてその無知が、この乱暴な荒地全体を作り出します。神が自分の最終目標(ゴール)だと決めるとき、あなたはその荒地を通して、自分自身の道を見つけ出さなければならないのです。ある事柄についての内面の頑固さとあなたの持つ偏見は、外面の生活の中で、そしてまた魂の中でも葛藤を生みだします。これらは、あなたが溶かさねばならない、岩、石、そして高い山々のように思えることでしょう。あなたのさまざまな欠点は魂の中で、まるで荒々しい低木地帯、有毒な茂みであるかのように思えるかもしれません。あなたがすべきことは、この道を行くと決める以前にしていたようにそれらから逃げることではなく、それらを超えて進む道を自ら切り拓くことです。そこには渡るべき川があり、その川は激しく流れる水であふれ、あなたは何とかうまく正しい方向へと流れを変えなければなりません。これは、コントロールが不可能なあなたの感情です。これは単に、あなたがその感情の素になったものとその真の意味を理解していないがために、コントロール不能な状態になっているだけです。友人の皆さん、そこには飛び越えるべき断崖絶壁があるのです。まるで本当に断崖のように現れる人生への恐れ、痛みと失望への恐れです。覚えておいてください。あなたは人生をマスターするために、未知の領域へと飛び込まないといけないのです。そして、恐れをなくすためには、恐れを通り抜けて進まねばならないのです。つまり、自分自身で作り出した断崖絶壁に背を向けないという意味です。その断崖絶壁は、あなたが最初の段階で、人生をあるがままに理解していれば本来は必要なかったものです。この「飛び込み」を行った後でのみ、断崖はないということに気づくのです!
私が話しているこのジャングルについては、単なる比喩ではありません。それは真実です。これらの形は実際の事実です。それらはサトル・ボディー(微細な体)の中に存在しています。この道で、あなたは自分の内側にあるこれらの困難を通して自らの道を切り拓いて行きます。これは簡単なことではありません。これは長い登山です。本当に長いのです。登る山道は、時には険しく、影があり、暗闇の中を登ることさえしばしばあります。またある時は、小さな勝利をおさめて太陽が昇り、しばらく休憩できる時もあります。周りに見える景色は前より少し親しみの持てるものとなります。というのも、この明るさの増した光景はこの勝利によって生みだされるからです。しかしこれが延々と続きます。長い間あなたにはゴールすら見えません。ゴールは何であるのかを知ってはいますが、そのゴールを見たり感じたりするには、あなたのいる場所は遠すぎるのです。最初のうち、かなり長い期間、あなたはまるで環のなかを回っていて、常に同じ風景に出くわし、スタートした場所から明らかに動いていないかのように見えます。これが幻想であるということを知らなければ、あなたは落胆するかもしれません。ただそのように見えるだけなのです。実のところ、あなたがこの環の中で動くときには、「螺旋(スパイラル)」と呼ばれる中を進むのです。この道において、それは避けられません。あらゆる欠点、誤り、無知、そしてそれらが混ざり合った複雑なものは、あなたの魂に大きな悪循環を作り出します。この循環は、互いに影響を及ぼし、作用しあう個々の欠点から形成され、その結果連鎖反応を引き起こします。この悪循環を断ち切るために、悪循環を成している個々の欠点を完全に理解しなければなりません。この循環内にある原因と結果の繋がりに気づくために、あなたは次から次へと起こることに集中する必要があります。この循環は一度回っただけでは、おそらく完全には理解できません。最初の一周を回り終えた時、またもう一度最初からやり直さなければなりません。けれども、新たな循環を始めるたびに、あなたは循環のいくつもの大切な部分と個々の欠点を少しずつ深く理解するようになります。これは、あなたがはっきりとマインドの中にあるこの循環の全体を理解し、内側にあるすべてのネガティブな資質の相互依存関係を理解できるまで続きます。そうしてついに、このネガティブな資質を分離されたものとして見ることを止めるでしょう。しかしこの地点に達するまで、何度もこの循環を繰り返さねばなりません。初めのうち、これは意味のない繰り返しで、進歩がないように見えるでしょう。しかしそうではないのです!この道において、最も重要なこの部分を切り抜けることなしには、あなたが解放され、光に到達することはありません。というのは、あなたはこの悪循環につながれているのですから。この方法でのみ鎖を断ち切ることができるのです。
あなた方の中には、自分の欠点はもう知っていると思う人もいるかもしれません。すでに長い間この道を活発に歩んでいれば、それはある程度まで真実です。確かに、いくつかの欠点を知ってるでしょう。そしてまだ気がついていない他の欠点については、比較的短い期間で学ぶことになるでしょう。前回あなた方に申しあげたように、「知る」と「知る(識る)」との間には大きな相違があります。どれくらい深くあなたは知っていますか?どれくらいあなたの性質と欠点、そして欠点同士を関連づけることができますか?どれくらい深くあなたは自分の恐れに気がついていますか?それぞれの神聖なる法則からの逸脱に関連して、自分の欠点という観点から、恐れ、不安、複雑さを本当に把握し理解できていますか?このような理解に到達するまで、主となる悪循環を回り続けなければなりません。個々のケースで悪循環がいかなるものであっても同じです。なぜならば、これは人により異なるからです。あなたは今、あらゆる欠点は自尊心、身勝手さ、恐れから生じていることを知っています。しかしこの原則を知っているだけでは十分ではありません。自分の欠点のそれぞれが、この3つの基本的な欠点の内のひとつまたは全てからどのように生じているのかということを、はっきりと見て、感じることが必要です。共通するものを見つけてください。もし感情的にしか理解されないのであればこれは困難です。だからこそ、あなたは実際に一歩ずつ、何度も繰り返し、この悪循環の中を進まなければなりません。十分にこれを理解できるようになり、ある時点で循環を断ち切れるようになる最後まで、あなたはやり通さなければなりません。循環の一周を回り終え、次の一周をスタートする時はいつでも、上に向かって旋回する螺旋に沿って進んでいるのです。最初は、上に昇る傾斜はわずかなのでそれに気がつくとこさえなく、同じ場所をぐるぐる回っているという印象を受けます。しかし後になって、新しい一周を回り始めるたびに、自分の問題に関するより深い洞察を得ていることをはっきりと感じ、一見休止しているように思えても、もはや落胆することはなくなるでしょう。
しかし、本当の初めの段階では、自分の中にこのような悪循環があることを知ったり感じたりすることさえありません。どこから始めるべきかさえ分からず混乱します。自分の欠点のいくつかと外面的な問題の全てを知っていても、あなたはまだそれぞれの要素を繋げて関連づけることはできません。これが最初の段階で一番難しい部分です。全ては、あなた自身の内側で未だ非常に混乱しているのです。どこからはじめればいいのか、何にしがみついていいのかが分かりません。あるひとつの複雑化した感情または問題に集中した瞬間、明らかに何の関係もないように見える他の出来事が発生し、あなたは混乱します。自己鍛錬と忍耐のみが、このような悪循環の中で何が起こっているのかという状況を最終的に見ることができる地点まで連れて行ってくれます。一連の連鎖反応として、ひとつのことからもうひとつのことが引き起こされます。その地点に達する時、あなたはまさに重要な段階へと入ろうとしているのです。しかしどこからどのように始めたらよいか知らずに、先にあげたような混乱が最初にあっても、決して落胆してはいけません。しばらくすると、すべてが指の中を流れ落ちる砂のようであるとはもはや思えなくなります。その時、あなたはしっかりつかんでおくべき何かを手にするでしょう。これが、この循環の明らかな全体像です。まず、この循環はたくさんの要素から構成されています。しばらくするとそれらは凝縮し、ばらばらな要素が引き寄せ合い結びつきます。そうしてシンプルに見ることができ、さまざまなアプローチでワークすることのできる、いくつかの主要な問題を見せてくれるようになるでしょう。あなたがさらなる進化を遂げると、そこには自分自身の全人格への鍵となる重要なポイント、あなたの全ての問題への鍵となる重要なポイントがたったひとつあるのです。しかし、この鍵を見つけるの自分自身でなければなりません。そしてこれは、自分自身の努力を通して成し得ることです。それを私が言ってあげたとしても、あなたの役には立ちません。
皆さん、これらは形として存在しているのです。スピリットとしての私たちには、この形がはっきりと見えています。この道において現れてくる形は、ある程度、個人により違います。なぜならば、ひとりとして同じ人間はおらず、彼らの内面の問題が同じように外面に現れることはないからです。なぜならば、無限にあるさまざまな善と悪の流れは、お互いに影響を与える可能性があるからです。
私は今晩、祈りについてお話すると約束しました。祈りはこの道で成長し前進するために最も必要不可欠なもののひとつです。祈りがなければ、そして自らの意図を遂行するための行動がなければ何も達成できません。では祈りとは何でしょう?多くの人にとって、例え本当に理解していなくてもこの答えは明確です。彼らは何の疑問も持たず、これを鵜呑みにします。そしてまた、祈りを本当に理解できていない人もたくさんいます。彼らは自分たちの考えで、一見論理性をもって次のように言います。なぜ神が、ただ祈っているという理由だけで、ある人には助けや恩寵を与えて、その間、一生懸命働いて祈ることができない別な人には、助けや恩寵を与えないなどと言えるのか?これは一見すると論理性を持った議論にみえます。しかし、祈らない人は正しい祈りがどのようなものかを学んできた人のように行動すること、あるいは充足を体験することはできないという単純な理由で、このような議論は成立しないのです。他のことと同様に、祈りも学ぶ必要があることは明らかです!これからあなた方に、出来る限り祈りについてお話ししていきましょう。
みなさん、神の恩寵、神の助け、神の光は宇宙全体に存在しています。そしてそれらを与えたり、さし控えたりする決定を神が下している訳ではありません。神の恩寵、神の強さ、神の慈悲、神の愛、またその他全ての神聖なる特質と、ローワーセルフとの間の分離の壁を克服するのは、個々の人間とスピリットにゆだねられています。祈りはこの目的を達成するために必要なのです。どう必要なのか、とあなたは尋ねるかもしれません。まず祈りは集中するために最も良い訓練です。私たちは皆、浄化と自己成長の道を歩む必要性について理解しています。集中する力がなければ、人生において何も達成することができず、取るに足りないちっぽけなことさえも達成できません。この道を歩む時、あなたは確実に集中力を必要とします。あなた方の世界には、特定のそれぞれに異なる集中の練習方法があります。しかし私の助言は、祈りと集中の練習は組み合わせられるということです。集中を学ぶのに、体系だった祈り以上のやり方はありません。何か対象に集中するだけでは、あなたが祈りたいと思う内容に集中する以上に、それを学べる方法はありません。そしてまた必要ではないことに集中して時間を無駄にすることなく、他の点においても祈りの利点を得ることができます。これについては、これからお話しします。肝心なことに集中する方法を学ぶことは道の一部です。しかし、対象への集中は重要ではありません。神への信仰がなかったとしても、集中力を学ぶために何もないよりはましと捉えられているにすぎません。しかし皆さんには、このような無駄な時間は必要ありません。日々の祈りが重要な理由は、浄化のプロセスが集中と訓練を必要とするからです。もし必要な訓練を定期的に自分に科すことができないなら、集中力がないなら、あるいはあなたの集中力が偏っていて不要なものに使われているなら、いかにしてこの道を歩むことができるのでしょうか?あなたの人生の本流、つまりあなた自身の成長に集中する力がなければ、いかにしてこの道を歩むことができるのでしょうか?
あなたは例えば愛する存在のために祈る時に集中を学びます。最初は思考的プロセスとして愛する存在を思うことに集中します。そして、その思考的プロセスから、あなたの願望に感情と魂の深さを持ち込めるよう集中を進めます。他のことと同様に、集中には積み重ねやレベルがあります。同じことをあなたの敵に対しても練習しなくてはなりません。思考的なプロセスは、それほど難しくないかもしれません。しかし、感情を統合するためには、非常に長い訓練となるかもしれません。人類と宇宙のスピリット全体のために祈るのと同様、個人的に知っている人のためにも祈ってください。平和、真実の普及、そして救済計画の達成のために祈ってください。まだ闇の中にいる全ての盲目な存在たちのために祈ってください。さらに多くの人々の浄化のプロセスのために祈ってください。これまで学んできたあらゆる思考の形態に集中してください。つまり、自己認識を通しての自己成長の必要、ローワーセルフの克服、誤った流れを再び良い方向へ導くこと、これら個々の発展によって可能となる愛、兄弟姉妹愛、謙遜を達成することです。これらの思考は、明確で軽い良い形態を生みだし、それは確実に影響を及ぼします。この最も創造的な活動は別としても、マインドは確実に強化されるでしょう。もちろん、初めは思考が揺らぎます。もちろん、注意を集中させる難しさも感じます。それこそが必要なワークです。もし避けられない最初の障害で落胆してしまわなければ、結果的には少しずつあなたは学んでいくでしょう。思考がさまよっているのに気づいてもがっかりしないでください。自分を非難せずに、できるだけ思考的にも感情的にもリラックスした状態で中断したところから再開します。これはあなたの成長の一部となる訓練です。
祈りにより達成できる集中と規律という恩恵の他にも、もうひとつ、とても大切な理由があります。あなたのマインドの枠組みが、祈っているときには自動的に変わるのです。このことの現れ方は、単一ではありません。まずは、一定期間毎日、一定の努力をはらい、他者に集中する時間をとります。祈りの中にある完全に無私なる望みは既に、あなたのサトル・ボディー(微細な体)の有機体において、そして最終的には肉体においても確かな変化を起こしています。さて、大多数の人々は日常生活で思いやりのある良い思考を作り出すことができません。祈りを成功させる一方で、外的には過ちを犯した魂という悪しき習慣に引き戻されます。愛、善意ある無私の親善は祈りのなかで表現されますが、祈っていない間に表現されるのは一瞬です。何か悪いことが起こると、祈りの間に真摯に感じていることを感じることができなくなります。これもまた訓練なのです。そこで祈りの大切さとは上記にまとめた事実、つまり集中し規律を保つ能力を訓練するのみならず、祈っていない時には作ることのできない思考を作り出すことなのです。祈りの中であれば、あなたを傷つけた人に対しても真摯に幸せを祈ることができるかもしれません。祈り以外ではあなたはまだそれができないでしょう。最初は祈りの中であっても、人によっては難しい場合もあります。しかし何度も何度も試みれば成功するでしょう。この意味で、祈りはあなたの魂にすばらしい浄化の効果をもたらします。もちろん究極の目標は、人生が祈りそのものとなることです。あなたは常に、祈りについて考え感じるでしょう。しかし、その目標はいまだ遠く離れています。友である皆さんの誰も、いまだ真剣に祈りを生きるという地点には達していません。ここまで達していると、あなたはもう毎日座って一定時間祈るということはありません。なぜならば実際の一呼吸一呼吸、マインドを通り過ぎる全ての思考、そして深い無意識の感情それぞれから祈りが発せられるからです。ええ、私は近ごろ特に、ポジティブ思考を自らに強いる人がたくさんいることを知っています。しかし、そのようなことを言っているのではありません。もし祈りがハート、無意識のマインドの奥まった場所から起こり、感情の流れがこれらのポジティブな思考に沿うことがなければ、そこには自己欺瞞があるだけです。それは、自分の立ち位置であるマインドを明確にすること以上に、大きな反響をもたらすかもしれません。そして祈りは、自分自身の真実を見つけるために一層必要となります。つまりあなたの思考の世界と感情の世界の間にある裂け目です。
さらに、祈りでおそらく最も大切な要素となるのは、自分の注意を自分に集中する必要があるということです。あなたの注意は霊的な視点から問題に集中するのと同様に、自己中心的ではなく前向きに注がれるべきものです。この道で前進したければ必要なことです。祈りの中であなたは、自分自身そして自らの欠点や問題や体験を、いつも大抵はあまり霊的ではない環境の影響下にある状態とは異なる光の中で自然と見ていくことができます。自らの問題に関して、自分自身を簡潔に理解することは、また別な要件です。祈ることは、この方向に向けての絶え間ない努力なしには創造することができない魂に、秩序をもたらすのです。そうしてあなたは、外的な問題が自らの短所の表れに他ならないことを深く理解するようになるでしょう。この理解に到達することは簡単ではなく、これは明確で簡潔な表現によって(少なくとも思考形式だけでも)この地点に到達することができます。自らの問題と短所には繋がりがあるという理論と原理を知りながら、皆さんの内どのくらいの人が、このふたつを分離させているでしょうか?このふたつを繋げる線を見出すのにどれほどのワークが必要でしょうか?これは祈りの中で行われるべきワークです。瞑想と呼びたければそうしてください。同じことです。ここに示されているような正しい方向で日々祈ることなく、答えを見つけて成長することはできません。普通は思考が暴れます。原因に向かうかわりに、効果を過度に重視して、おそらく取るに足らない詳細に集中し過ぎることになります。祈らなければ集中できない、本当に重要なことがあります。祈る人誰もが、これを行っていると言っているのではありません。「既成の祈り」あるいは自ら作った祈りもあるかもしれませんが、本人の浄化のために最も重要なことをしないまま、日々祈る人々は数多くいるからです。けれどもこの道を歩みたいと思う人は、しばしば祈りの中で、このことを行う強さと望みを見つけます。なぜならば神の御前で確かに神の意志であるところを行う義務が自らにあると感じる一方、祈らないと以前の思考や反応の流れに従い、現実の問題から責任逃れをしようとするからです。自分の問題に集中することを学ばねばなりません。
マインドの枠組みで最も重要な他の要素として、祈りの中で神に近づく人は、無意識にさらに謙虚な姿勢をもちます。この道で必要なことです。まだ謙虚であることを学んでいない人、つまり自分の不幸のために常に他人や世の中、運命や神などを非難して人でさえも、祈りの間は考え方が変わりもっと謙虚になります。そしてゆっくりですが確実に、この姿勢はつねに自分のものとなるでしょう。また自分自身をとても強く感じ、分別を持ちながらも無意識の内に、世界は自分のエゴを中心に回っていて自分は最も重要な存在であると感じている自らの感情に気づいていない人々も、祈りの中では、感情の流れと人生の見解全体に次第に影響を及ぼす考え方を育てていくことで、違うように感じることを学んでいきます。自分が世界の中心であると考えている人々は、自らの視点から全てを主観的に判断する傾向があります。彼らがもし正しいやり方で定期的に祈れば、少しずつ違う感じ方をするようになるでしょう。このタイプの人々には、自己成長に向かう良き意志を表す人が多くいますが、その内的イメージの中で自分自身を最も高次で、宇宙で一番重要な存在であると感じ、神の概念さえもが浄化されていない彼らの欲求に応じて型どられます。誇り高すぎて助けを求められない人もたくさんいます。彼らが祈る時には、そのことを学ばなければなりません。自分自身より強い誰かに助けを求め、それを受け入れるためには、特別な種類の謙遜さがいります。どれだけの人がこれを恥じ、この反応を誇りにさえ思うでしょうか?これはプライドの兆候ではありませんか?祈りの中で、あなたはこれを学びます。なぜなら、これは魂にとってもうひとつの健全な薬だからです。もうひとつの浄化の要素です。これもまた、魂に流れ込む時を待つ神聖な力と自分自身との間の壁を薄くする助けとなります。しかし、自らの努力を通してこれを可能にしなければなりません。あなたのネガティブな反応と思考が、私が述べた混乱の形を作り出すように、祈りであなたが育んだ思考や感情は、良い、清い、調和的な形を作ります。これらの形は最終的には、誤り、プライド、身勝手、恐怖という最奥のそして大抵無意識の態度を変えていく助けとなるでしょう。これらの形は、自分自身のジャングルと荒れ地の道案内となるために必要とされる技能を示します。ですから皆さん、「私は神を愛しており良い人間になろうとしています。特別にインスピレーションを受けた時でもなければ祈る必要はありません。」などとは言わないように。友よ、これは完全に間違っています。あなたは成長すればするほど、さらなる成長が求められ、やり遂げねばならない務めはより偉大になり、それはあなたにとって最も難しいこととなるでしょう。神は必需品のインスピレーションやムードをあなたに送ることで、この日々の規律を簡単に得られるようにはしないでしょう。あなたはこの日々の浄化プロセスを自身の人格の習性とすることの困難を学ばなければなりません。日々の祈りのために規律を奮い起こすことが困難であればあるほど、規律がもっと必要ということです!あなたがこの道で何を無視していようと、またどこで生命の計画から逸脱していようと、人生への反動は強く出ます。これはよく知られている事実です!
一方で、祈りをすでに日々の規律としている人にとっては、もう一方にある逆の極端さに気をつけなければなりません。すなわち極端な習慣です。この習慣や日課は、多くの素晴らしいものに隠された危険です。全てにおける幸せな中庸をみつけ、お粗末な誘惑として常に待ち伏せしている極端さに抵抗することは、神聖なる調和の中の完全性を見出す困難のひとつであることをあなたも知っていますね。あなたが自分自身で、適切なバランスを見つけるしかないのです。習慣というのは、同じことに対して祈りを唱え、「成された義務」に対するある種の満足が伴うもののことを言っています。日々の習慣を行うのが困難である限り、あなたは習慣を身につけるために戦う必要があります。しかし一度それが「第二の性質」となれば、なんとしてでも日々の祈りを続けてください。祈ることをやめることなく、あなたの祈りが生きたものとなるように目覚めていてください。それが良い言葉であっても、新しかった時のように強く感じられなくなっていたら、習慣になっている言葉をただ唱えないようにくれぐれも注意してください。さらに日々のニーズによって祈りましょう。特に道を進んでいるあなたは今や、同じ地点には留まりません。このレクチャーの始めに説明したとおり、あなたの成長段階は変わっていきます。あなたは悪循環の中で、ひとつの場所からもうひとつの場所に進みます。そこで人生はあなたに挑戦と経験をもたらします。大きな挑戦であっても小さな挑戦でもあっても、あなたの人生の成長のニーズによってもたらされるのです。そこで異なる問題が異なる時期に表出します。ですから、あなたはその時に応じて、祈りを注意深く適合させていく必要があります。このようにして、あなたの祈りはいつまでも新しく生きているものになります。あなたの悪循環を構成している全ての多様な要点は、時が経つにつれて順番に浮かび上がってくるでしょう。それぞれの要点は、一定期間表面に留まります。あるものは数週間、場合によっては数カ月続くかもしれません。この循環の中で主要な課題を集約できる局面にまで達していなければ特に、同等の力で全ての要点に集中していくことはおそらくできないでしょう。その全体図への集中は、あなたがこの循環についての主要な認識を見つけてから、徐々に可能になっていきます。
あなたの成長が集中を求めているその局面に祈りを整合させていくために、日常生活における出来事と自分の反応が、悪循環に関わる観点から何であるのかを注意深く見ていきます。このようにすることで、祈りを慣習化したいという誘惑に抵抗できるでしょう。あなたの変わっていく道に従い祈りを変えることで、生きた祈りであり続けます。それだけではなく、日々必要なものに集中することでより集中でき、気を散らすことはなくなります。直接自分自身に関わらないことを祈る時、多くのことを無視しないように、覚えておきたいことを強調するかもしれません。この点に関しても感情を生かしておくよう注意してください。祈りの言葉を変え、常に自分の感情の強さに耳を傾けていれば、より簡単に行えるでしょう。祈りを生かすため、日々のニーズ(物質的なものではなく)を祈りに持ち込み、霊的な成長の観点から出来事を見直し、神に助けと理解を求めることが必要になります。理解を求めて苦闘があるかもしれません。さまざまな角度から思考形態を形成することにより、新たな見識の思考を潜在意識に浸透させていく必要があります。実際に学ぶ必要のあることを毎日神に話し、その助けを求めることは、良い祈りの実質的な部分です。これは徐々に潜在意識のマインドに影響を及ぼし、あなたの中で良いイメージの形成が可能になります。つまりそれは潜在意識への指示となるのです。マインドの目前にいて、今や目に見えるようになった当座のゴールが何なのかというアイディアを明確にし続けます。デイリーレビューの中で自分自身を観察する時も、どれだけこのゴールから未だに逸脱しているのかという、より深い認識を与えてくれるでしょう。
このように取りくむ人は、魂の周りにある分離している壁を徐々に取り除きます。神聖な力と助けは間違えようもなくその人の中に注がれるわけです。これはそうならない筈がなく、あなたはそうであることを感じ知るでしょう!しかし親愛なるみなさん、まずはそれをやり始める必要があるのです。
それでは友よ、質問にお答えする準備ができています。
質問:祈りは神への信仰を確認するものでもあると言えませんか?
回答:もちろん、そうです。そのような言い方はしませんでしたが、それは私がお話したことの一部です。
質問:毎日の祈りのなかで強調すべき部分を三つ四つ教えていただけますか。
回答:そうですね、私は既に、これら強調すべき部分について少し述べてきました。しかし今一度説明させてください。人間に広がる真実、不幸な魂や人間一般について祈ること、愛するもののために祈ることは簡単です。しかしまた、あなたの祈りは好きではない人間のためにも行われるべきです。彼らを嫌えば嫌うほど、彼らに対してさらに祈るべきなのです。彼らの幸せを望む時、自分の感情を観察してみてください。自分自身を欺かないように。自分自身に言いましょう。「私の一部はこれを望んでいますが、別の一部では、まだある人たちの幸せを祈る気持ちに葛藤しています。」このようにすれば、あなたは嘘に生きることはありません。やってみてください。そして少なくとも祈っている間は、あなたの中で皆に対する愛を心から感じられるように祈ってみてください。
それから皆さんは、平和、愛、兄弟愛、正義、そして神聖な法則の拡散について祈るべきです。自分自身の中でこれらの要素を培うことでのみ、あなた自身がこれら全てに貢献し得るのです。あなたの中に憎しみ、恨み、不寛容さがある限り、あなたは自分の祈りに反することに貢献しています。自分が宇宙の一部であり、神聖な真実、平和、愛などを促進させることも妨害することもできるのだと自覚していれば、より責任を感じるでしょう。そしてこれらの素晴らしさへの祈りは、もはやあなたの成長、そして存在する他のすべての生き物との関わりから切り離されたものではなくなります。もう一つの重要な事柄としては、身勝手さ、プライド、恐れ、これら人間に内在するものが、謙遜さ、愛、全てにおいて神の意志を実行しようという意欲の通り道を開くことです。しかし、これが起こることを大まかに祈るだけではなく、神を喜ばせることとは異なるような反応、思い、感情が正確にどのような時に起こるのか、自分自身をよく観察してください。特にあなたの恐れが何なのか、気がつけるように祈ってください!この祈りに答えが来て、それが何であるのか完全に気が付いたら、その恐怖を乗り越えられるよう祈ってください。それが恐怖を極める唯一の方法です。恐怖しているものを受け入れることが可能になります。それはあなたに対する神の意志であり、あなたの発達と霊的成長に良いことです。幸福と同様に、痛みも受け入れることができるように祈ってください。エゴを愛し過ぎて、ヒーリングの因子として正しいやり方で時々訪れる痛みから回避することがないよう祈ってください。そうできるよう勇気を求めて祈ってください。究極の意味では、痛みは幸福と一体です。神への道でさらに進化した地点に到達した時には、痛みと喜びの違いを分からないでしょう。痛みは幸福であり、幸福は至福の感覚の中での痛み、不健康なものではない痛みとなるでしょう。というのも最終的に全ては一つだからです。皆さんにとって、今はこれが言葉だけだと分かっています。もしかしたら、一部の皆さんにとっては、危険な言葉でさえあるかもしれません。ですから、私がここで述べている状態を自らに強制すべきではありません。このような存在の状態を強制することはできません。ゴールである自然な結果を強制することで不健康な逸脱が起こります。それは常に真実から手が届くところにあります。何であっても道から逸れることはあります。強制されている時には特にそうです。ですから私がここで述べていることを強制しないように気をつけてください。あなたは一歩一歩、自らの道を歩き続け、日々何かしら成し遂げていくでしょう。そしてそれは良いことです。特定の結果を焦らないでください。このことは、人がその時に把握できる当座のニーズと努力の中から、有機的に展開していく形でのみ現れてくるものです。これら全てを祈り、それに加えて先ほど要約したような個人的課題を祈ることで、果実を収穫することができるでしょう。
質問:日々の祈りという規律を達成するために、毎日同じ時間を確保すべきだという考え方があります。これは、あなたが警告していた、慣習的なものに繋がるように感じるのですが。どちらが正しいのでしょう?
回答:一般化することはできません。このやり方が正しい人もいれば、他のやり方の人もいます。この点に関して、規律を守ることにまだ難しさを感じていれば、同じ時間に同じ場所で毎日行うことは役立つかもしれません。しかしながら、人がもったいぶって自らを縛り付けることをしないことで、より規律の面で成長できる場合もあります。これはさまざまな状況、個人による人生の道のり、その人格などによります。これはとても個人的なものなので、これに対してルールを決めることはできません。
質問:一日を祈りで始めると一日にスピリチュアルな感覚がもたらされます。そしてまた夕方は平和を感じるのに良い時間となります。そうではないでしょうか。
回答:その通りです。誰でも、起床時や就寝時に少なくとも2、3分は祈りに捧げるべきだと言えます。しかし祈りが本人のスピリチュアルなワークに不可欠である時、必ずしもその時間であるべきということではないのです。人によっては、別の時間の方が良いと感じる人もいますが、どちらにしても、神と共に起き、神と共に眠りにつくことです。これには数分もかかりません。このことは、少なくとも30分以上の長い祈りに加えて行われるべきことです。ある人にとっては起床や就寝時が一番良い時間であるかもしれませんが、誰もがそうだとは言えません。長い祈りで重要なことは、完全にリラックスできるように十分な時間があること、そして誰もあなたを邪魔しないということです。人によって時間は異なります。これが規則的に行われる限り、何時にするのか、あるいは日によって違う時間にするといったことは問題にはなりません。しかしながら、定期的に行った方が良い人もいます。それぞれ各自のリズムと反応を見つける必要があります。
質問:私達はギータで始めたので、痛みと喜びに関して話された部分に戻りたいと思います。相反するものを越えた状態を意味していますか?
回答:はい、その通りです
質問:前回、あなたは魂の過剰な能動性について、今夜最初に尋ねられるべき質問であるとおっしゃいましたね。
回答:以前のレクチャーにより、全宇宙そして人間の魂には、基本的に能動的または受動的な流れがあると知っていますね。人間の魂の不調和は、能動的であるべき多くの流れが受動的であること、そしてまたその反転した状態も存在するという事実にこそ起因しているとご説明しました。ではこれらの誤った能動的な流れとは何でしょうか?能動的であるべきではない能動的な流れは、身勝手さから来ます。身勝手さは、いつも悪いことや不道徳なことを望んでいる訳ではありません。ここにいる私の友人たちは誰も、意識的に他者に対して悪いことや傷つけるようなことは望まないでしょう。一般的に話しますが、あなたの身勝手さは、例えばあなたの周りの世界、そして自分自身の不完全ささえも受け入れることができないという事実から顕現します。誤った意味で、あなたは低次の性質を受け入れません。身勝手さはこう言います。「私は違うことを望んでいる。どんな不正もあってはならない。この人は間違っているし、そうあってはならない。私は受け入れない。」神があなたを置いた世界を受け入れながら、謙遜の中で誤りを知ることとの間には、微細ではありながら確実な違いがあります。理論的には、皆さんはこれら全てを知っています。しかし、実践には移していません。親愛なる友である皆さんの一人一人は、この人生が不完全なものであるという事実に対し反抗する時があります。自らの人生とは類似はしていても、異なる不完全さの中にいることを良いことであるとは考えません。それは、あなたにとって成長し発展する可能性そのものなのです。あるいは、あるがままの状況に対して反抗する時、本当は自分が神と口論しているのだということにも気づきません。あなたが謙遜の中で世界をありのままに受け入れ、他の人たちが間違えることを感情的に許せるようになった時、あなたの過剰に能動的な流れは徐々に、その定められたチャネルで流れるようになるでしょう。実際あなたは変えることはできませんが、感情においては常に反抗しています。私が他者の誤りを許すべきだと言っているのは、立ち上がって弱い兄弟姉妹を守るべき場合ではありません。このような「許し」は、能動性があるべきところに受動性があるというような、間違った極端さの真逆にあるものです。ひとつの例が正しく他方が間違っている場合も、決まったルールに当てはめることはできません。あらゆるケースは異なっており、自己成長における適切な努力によってのみ、個々に与えられたそれぞれの出来事の真実を見つけることができるでしょう。受容的になるべきところで能動的な人、つまり受け入れるべきことに対して感情的に葛藤している人こそ、他者の低次な性質が周囲を利用することに対して立ち上がり止める勇気に欠けていることもよくあることです。ですから受容に対しての止むべき葛藤について話す時、それは状況を変える力も権利も自分は持っていないということを受け入れるべきだという意味です。内面ではもだえ苦しみ抵抗しているのに、あなたの常識は変えることは不可能だと言っており、表面的には何もできない事実により、この葛藤は一層強く生じます。この抵抗は過剰な能動性なのです。これは過剰な能動性の最も一般的で頻度の高い例で、その他となる全ての過剰な能動性の例は、この主要テーマからの派生であると言えるかもしれません。あらゆる活動には力が必要ですが、このような力の消費は、力を必要とする能動的になるべき場所での力を減らします。そうなるべき場所で能動的であれば、そうある必要のない場所で能動的であるよりも、内的な力の源が枯渇することは決してないでしょう。例えば、あなたには愛する力、勇気などが必要です。しかし、あなたの力が誤った流れで無駄にされ、必要とする場所にそれが十分残っていなければ、魂に不調をきたします。このことを全て知ることで、誤った流れを再調整することができるでしょう。抑圧と抵抗という内面の感情を見てください。この観点から分析すれば、その意味をよりよく理解できるでしょう。よく理解すればするほど、これらの流れをもっと変えていくことができます。多くの場合、人々が内面で感じている圧力は受け入れるべきものを受容する能力の不足、また違う言い方をすれば、魂の過剰な能動性に起因します。明確になりましたか?
質問:死への願望の心理的そして霊的な意味は何ですか?
回答:霊的な意味では、ローワーセルフが霊的感覚において生命を拒絶する願望です。霊的感覚における生命とは、葛藤と努力、そして闇や霊的な死から出るための必要条件です。光、自由、永遠の光へは、道での葛藤なしにたどり着くことは不可能です。これはあなた自身の努力によってのみ成し遂げられます。誰もあなたのために達成することはできません。神があなたの為にそれをやってくれることはありません!達成したいという真剣な望みを持つならば、神は助けてくれます。尻込みして後回しにしなければ、神は計り知れない助けを送るでしょう。しかし、神はあなたの代わりにやってはくれません。それは不可能なのです!あなたの尻込み、後回し、最終的には必要でないかもといった希望的観測は、魂の不活発から生じる死の願望の症状です。これは不必要であるとか、死後の状況はおそらく全く違う筈だなどという隠された思いは、死への願望です。友よ、あなたが自身の本質として望んだそれが真実であれば、永遠の至福、光、生命はないでしょう。もちろん、あなたはこれらを望んでいますが、それは適切な努力によるワークをしたくないからです。もしこれが、あなたなしで達成され得るものであれば、そもそもこの死への願望そのものがないでしょう。無神論者はこの死の願望をもつ最も典型的で強い例です。なぜ無神論者は、死後は無であるという盲信のブランドに頑固にしがみつくのでしょう。無神論者は、信心深い人は希望的観測をもつ者であり、夢想家で理想主義者であると言います。私は、それは逆だと言います。無神論者こそが希望的観測者です。彼は死んだ時全てが終わり、永遠の無意識状態の中で眠りにつき、責任をとらされずに済むことを望んでいます。これこそが最強の希望的観測です!そして全ての無神論者はこのように考えるべきです。皆さんの中で、繰り返し疑いが湧き上がっている時は常に、内面の障害を克服することは必要ではないかもしれないという希望的観測を人に抱かせる、死の願望があなたに話しかけているのです。死の願望は様々な思想の心理学派により異なっが解釈がされています。ここでは論じませんが、基本的に死の願望とは今私が述べたことです。
質問:それでは、なぜほとんどの人が死を恐れているのか知りたいです。それは単なる未知からくる恐れだけではないはずです。何か他のことがありますね?
回答:個人の計画において、最大限の達成ができていない人は、スピリットの世界に戻ることを恐れるでしょう。その人は無意識の内にそれを知っていますが、真の理由と共に感情が表層に表れることはなく、全般的な死の恐れとして出現します。できること全てをやっていない人は、人生を振り返りながら、自分が今回も同じ理由で戻って来ており、同じ困難あるいは更に大きな困難に出会うためにまた戻って来なければならないことを知るその瞬間をひどく恐れるでしょう。100パーセントやるべきことを本当にやっている人は死を恐れません。お分かりですか?
質問:恐れが愛の反対で多くの人は死を恐れています。人は愛が何かを知らないということでしょうか?
回答:もちろんです!ええ、何度でも言いましょう。具体的な愛の実現、そして完全性の実現も多くの場合、ゆっくりとした進みで現れるものです。あなたは段階的な進みで到達します。一日二日の話ではないのです。従って、愛する能力の程度は個人により異なります。いくつかの恐れは、本人の愛の欠如に直接関係しているように見えないかもしれませんが、人を愛する能力を持てば持つだけ、その人の恐怖は減ります。またエゴが強ければ強いほど、愛する能力は弱くなり、すなわちまた多くの恐れが現れます。
質問:死の恐怖も私達の生命を保つため、すなわち生存本能として与えられた肉体的・心理的感覚と言えませんか?
回答:そうです。ある程度までそれは全く正しいです。このように言いましょう。あなた方が学んでいるようなことを理解し、知ることができるような霊的発達段階まで至っていない人にとって、この生存本能は根本的なものです。あなた方にとっては、これはもはや必要ではありません。少なくとも大幅には。しかしながら、この知識が全て麻痺するような大きな危機の時には、あなた方にとっても生存本能は重要になるかもしれません。しかし大概は、あなたは何が何なのか知っているし、自分の人生にしがみつく為だけに、死を恐れることはもはやありません。ここで発達に関わる問題があります。子供は霊的な感覚でも実際の感覚でも、防御本能としてこの死の恐怖を必要とします。しかし成熟するにつれて、この本能は徐々に異なる流れに変わるのです。
質問:これは客観的な恐れに似ていますか?
回答:はい、その通りです。
質問:精神面の病気との関連について質問してもよろしいですか?統合失調症の霊的な背景は何ですか?
回答:答えをひとつにまとめることができない多くの可能性があります。一般化できるとしたら、極端な分離の壁がある場合に、このような病、愛する能力の極端な欠如、極端な自己中心性をもたらすと言えるでしょう。これはおおまかに言って、すべての精神病の元です。
質問:言いかえると、ハイヤーセルフとローワーセルフとの完全な分離でしょうか?
回答:そうですが、ハイヤーセルフとローワーセルフの間の分離だけではなく、自己と他者との間の分離でもあります。自己と現実との分離も同様です。
質問:それは完全な愛の欠如ですか?
回答:はいそうです。
質問:人生を大いに愛している人の多くは、人生を愛していない人よりもっと死を恐れます。それはどうしてでしょう?
回答:いいえ、それは違います。それは全く真実ではありません。真の感覚で生きている人は決して死を恐れませんが、誤った感覚で人生を愛している人は恐れるでしょう。私が常に言ってきたように、全てはどのようにという部分によるのです。この場合、どのように人は人生を愛するのでしょう?
質問:有限の生命と無限の生命の違いですか?
回答:そうです。
質問:短期間にすべてを手に入れたいと望むような人生への愛ですか?
回答:その通りです。これは人生に対する誤った愛の種類です。
質問:私が質問したいのは、前回のレクチャーで、あなたは祝福について話しました。とても興味深かったのですが、完全には分からない部分がありました。ここであなたが対面で人に祝福を与える時、私達が受け取れる祝福があります。テープで祝福を聞く時など、あなたの存在がない時、または活字で祝福を読む時、どのような違いがありますか?
回答:私が祈りの中で要点としてあげたことと原則は同じです。祝福は常にあり、それはあなたの祝福を受け取る能力に依存します。理論上、ラジオ、本、またはその他の遠距離の方法により祝福を受け取るのと同じに簡単です。しかしオープンになり受容的になるための刺激があれば、更に受容的になりやすいという事実はあります。自然の美しさの中にいる時や、美しい音楽を聞く時、またこのようなレクチャーを聴いた後には、あなたのハートと魂はオープンで受容的になり、私が与え、もたらすことのできる祝福があなたに流れこむことができるのです。スピリットには時間がないのと同じく距離もないことをあなたは知っています。ですから距離による違いはありません。例えば、スイスにいる我々の友人たちは、ここにいる皆さんと同じようにオープンでいることで、まさにこの瞬間この祝福を受け取ることができます。これが重要な点です。
質問:波長を合わせるということでしょうか?
回答:その通りです。
親愛なるみなさん、私はまた自分の世界に戻ります。最後に、皆さん一人一人のどんな小さな努力であっても認識されているとお伝えしたいと思います。良き思い、あるいは良き意図に続くあなたの思いが仲間に分かってもらえないとしても、それが失われたとは、たとえ一瞬でも思わないでください。これを皆さんにお伝えします。神は知っており、見ています。そして、あなた以外の誰もそれを知らなくても、その良き思いの果実は間違いなくやって来ます。ですから親愛なる皆さん、一人一人に向かっているこの強い愛の光線を受け取ってください。ここにいる人も、離れたところにいる人も。この愛をハートの中に受け、平和と共に進み、神と共にいなさい!
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