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Pathwork in Japan
No. 38 イメージ
Pathwork Guide Lecture No. 38
UNEDITED版
1958年10月24日
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神の名においてご挨拶申し上げます。この時間が祝福されたものとなりますように。友である皆さん全員に祝福がありますように。
このグループにいるほとんどの方は今我々が歩んでいる成長の道において真剣な努力を重ねており、それがゆえにここ霊的な世界では皆さんがより強力な良薬を受け取る準備ができたとし、ことを一歩先へ進めたいと思っています。私の友である皆さんの多くは、いえ実際にはほとんどの方が、この道での困難が少々落胆を感じるほどに難しく感じられるところに来ていると思います。あなたは自分自身の欠点に気づき始め、気づいた欠点を乗り越えるのにじゅうぶんな目的を持ち合わせ、小さな範囲ではあるかもしれませんが、乗り越えることに成功すらしているかもしれません。あなたが取る態度のうちのいくつかは間違っていると気づいていて、自由に使うことができる意志の力のすべてを使ってこれらの間違いを変えたいと思っています。しかしこの外側の意志は不適当であるという事実に向かい合わなくてはなりません。どれだけの最善を尽くしても、いくつかの変化はどうしても達成できないようであり、なぜ達成できないのか自問している様子です。この無力さの原因を知らないために、あなたはよくすべてを投げ出してしまう傾向があり、すべては無駄だと自分自身に言い聞かせてしまいます。このことこそが、あなたにとっての最大の間違いなのです。我が友よ、人生という行路においてすべての人格はある種の印象を形作ります。これは子供時代のもっとも早い時期や、幼少期でもよく起こることです。環境的な要因や影響、突然起こる予期せぬ経験などによって形作られる印象です。これらの印象や態度はたいていの場合、人格によって形作られた結論です。多くの場合これらの結論は間違った結論なのです。たとえば誰かが何か不幸なことを見た、もしくは経験したとしましょう。そしてこれは人生に起こる避けようのない困難だったとします。するとこの人は起こったことを一般化しようと試みます。つまりある種の先入観を形作るわけです。その時に形作られたであろう結論は、幼少期であっても起こりえるわけですから、考え抜かれたものではないのです。これらの結論は感情的な反応と呼んだ方が適切かもしれず、ひとつ、またはいくつかの視点からのみ人生を見ている一般化された態度なのです。これらの態度はまったく論理的でないわけではないのですが、限定的で間違った独自の論理に基づいています。月日が経つと、これらの結論や態度は奥へ奥へと無意識に沈んでいきます。そしてある意味ではこれらの結論や態度は当人の人生を造形していくのです。我々霊的な存在は思考というプロセス全体を霊的な形、もしくはイメージとして捉えるので、人々が形作る結論をイメージと呼んでいます。人はポジティブで健康的なイメージを魂に刻み込んでいることだってあるとあなたは思うかもしれません。これはある特定の意味においてのみ真実だと言えると思います。というのも間違ったイメージが作り出されていないということは、すべての考えや感情が変動的であり、ダイナミックに動きがあり、リラックスしたものだからです。つまり柔軟なのです。そんな時あなたは宇宙全体が数々の神聖な力や流れ、そして河口で貫かれていることを知っています。イメージに繋がっていない思考や感覚、そして態度はこれらの神聖な力や動きと調和し流れ、現在の必要性に応じて形を変え、そのときどきの突発的なニーズに自らを適応させていきます。しかし、間違ったイメージから発せられ形作られる思考や感覚は動きがなく鬱血しています。それぞれの状況に応じて身を預けることがありません。つまり混乱を巻き起こすのです。人間の内に流れる純粋な魂の流れは妨げられ、歪められます。こうなると漏電が起こるのではないでしょうか。これが我々の見方です。あなた方はこれを不幸せさや不安、または一見説明のつかない人生での出来事に困惑するという形で見たり感じたりするでしょう。変えたいと思っているのに変えることができないことがあるということ、特にこれといった理由なく定期的にあなたの人生で繰り返す事柄などは、たった二つですが挙げられる例です。この他にもたくさんの例があります。
イメージを形作っている間違った結論は、無知や中途半端な知識から引き出されたものなので、意識に留まってはいけないのです。人格が成長するにつれて、理知的な知識は感情的な「知識」と食い違い始めます。そこでこの感情的な知識を人は意識的な視界から消え去るまで抑えつけます。感情的な知識を隠せば隠すほど、その力は強くなります。これは今までに何度も皆さんにお伝えしてきていますね。
どのようにしたらこのようなイメージが自分の内にあることを確認できるのでしょうか。まず始めに言えることは、どれだけ強くあなたがある欠点を乗り越えたいと思っていても、そしてこれらの欠点があなたにとって間違っていて不徳だと分かっていても、どうしても乗り越えることができないということはこのようなイメージが存在していることを指し示すひとつのサインです。以前に何度か、人が自分自身の欠点を愛している場合があると話したことがあると思います。どのようにそしてなぜ、人は自分自身の欠点を愛するのでしょうか。イメージというものにのっとると、いくつかの欠点は自らを防御するための対策のように感じられ、また自身を守る覆いのように感じることがあるというシンプルな理由から、人は自分自身の欠点を愛するのです。もちろんこれは無意識の「知識」や理由です。欠点を乗り越えようとする意識的な努力は実らないままです。なぜなら事の根本に対して無意識であり、内で行われている理由付けのプロセスは知性から隠されたままだからです。イメージに気づきがもたらされるまで、このプロセスは隠されたままです。
イメージの存在を示すもうひとつのサインは人の人生で繰り返される特定の出来事です。イメージは何がどうあってもパターンを形作るものです。行動や反応、出来事のパターン、そしてまた本人が引き起こそうなどと何もしていないにも関わらず起こる外的な事象もまたサインのひとつです。実際、人は意識のうえではイメージの真逆を熱烈に求めることがあります。しかし無意識は常に意識より強いため、意識的に抱いている願望はいつも無意識に比べて弱いのです。本人が意識のうえでは望んでいるにも関わらず叶えることができない特定の事柄からその人を遠ざけているのは無意識の態度なのだということに人は気づくことができません。無意識が作り出す偽りの守護の代価は、正当な願望が叶うことへの妨げです。皆さん、これは理解すべきとても重要なことです。同時にまた、さきほど述べたように内側のイメージによって外的な出来事や人々が磁石のように引き寄せられるということも同じくらいに理解すべき重要なことです。理解することが難しいかもしれませんが、そうなのです。これに対する唯一の治療はあなた自身のイメージを探ることであり、どのような土台の上に築かれたものなのか、そして導き出された間違った結論とは何だったのかを探し当てることです。
友よ、人生の中での繰り返しやパターンに気づかないことはよくあることです。歴然としていることを見逃してしまうのです。ある特定の事柄は偶然であるとか、運命が恣意的に自分をためしているのだと推測することが当たり前になってしまっているのです。もしくはあなた自身の不幸は周りにいる他人の責任だと思っています。それぞれの出来事の小さな違いにたくさんの注意を払い、その元となる性質や、イメージによって起こる出来事を貫く共通項にはあまり注意を払いません。
ほとんどの心理学者はこれが事実であることに気づいていますが、そのほとんどがイメージというものが人生のどれだけ早い段階まで遡ったとしても、今回の人生で形作られたものではないということには気づいていません。イメージは大体において長きに渡るものであり、人生から次の人生へと引き継がれていきます。この理由から、とある出来事は特定の葛藤から自由である人の内にはイメージを形成せず、またその逆に、同じ出来事でも今回の人生に葛藤を持ち込んでいる人の魂にはイメージを形成します。もちろんイメージを探し当て、今回の人生においての起源を見つけることはイメージを適切に解消するために必須です。しかしまた同時に、関連するすべての事実について知ることが癒し手にとってとても有用な場合もあります。別の言い方をすると、前の人生でのイメージの起源の知識がなくとも、イメージの治療に成功することができるのですが、また別のケースでは「持ち越された」法則を知ることが計り知れないほど貴重な助けとなる場合もあります。
あるレクチャーで、魂がいかに地上での生にむけて準備をするか説明をしたことがあると思います。ひとつ前の人生をもとに、次の転生で何が達成され乗り越えられるべきか、どのように計画されるのかについて説明しました。物理的な乗り物として転生された体を包んでいるオーラ・ボディが、その人が持つ内なる問題を葛藤として表面化するよういかに準備されるかについて説明しました。この目的のために家族が、そして人生のそのほかの状況が選ばれます。前の人生からイメージが引き続き存在している場合には、存在するイメージを刺激するような環境に転生することになっており、育ちゆく子供が周りの人々や両親に前の人生と似通ったイメージ抱き、反応します。このようにしてのみ、イメージは問題を表面化します。何かが問題にならない限り人はイメージに注意を払わずよそ見をしてしまいます。もしも人がイメージを無視した場合、地上での次の人生の状況はさらに難しいものになります。葛藤がこれ以上ないほどに圧倒的になり、イメージから生じる間違った結論や誤解によって負う痛みを自分以外の他者に責任転嫁することはもうできないと認めるところまで続きます。こうなってはじめて、人は上へそして内へと向かい始めるのです。
先にも述べましたが、唯一の解決策はこれらのイメージを意識化することです。どのようにして着手するのか、助言とヒントを与えることはできます。しかしあなただけの力では完全に実行することはできないでしょう。助けが必要なのです。あなたの魂のなかのイメージを発見し解消することに真剣であれば(人生に問題がないことはないわけですから)神に祈りなさい。神はさらなる導きを与えてくれ、またあなたに協力し正しい方向へと共に取り組んでくれる適切な人材に出会えるよう助け導いてくれるでしょう。これにはほかの大切な要素と並んで謙遜が必要で、謙遜が霊的な発展においてとても大切であり有利であることは私達が皆知っているとおりです。他者と取り組むことに常に消極的な人は、その点だけを例に挙げても、謙遜を欠いているといえます。同時に、イメージと対峙することに対する恐れが関係しているのだろうと思います。しかし、なんて短絡的なのでしょう、皆さん!無意識ではまったくそう思っていないとはいえ、イメージそのものがあなたに数々の問題をもたらしているというのに。イメージがあなたを守っていると無意識に説得されているのです。とても単純な例を挙げてみましょう。ひとりの子供がお風呂に入っています。お湯は沸騰するほど熱く、子供は怪我をしてしまいます。この子供が、お風呂に入ることは危険だという結論に至るとしましょう。避けられるのであれば二度とお風呂には入らないといった具合です。ここから、葛藤が生じます。幼い頃には、親は子供を強制的にお風呂に入れようとします。そして毎回これが起こるたびに子供は無言のうちにまったく必要のない惨めさを経験するのです。人生の後になると、ほかの葛藤が出てきます。この人は、幼い頃に培いすでに意識できず忘れてしまっている内なる結論を実際に実行するかもしれません。またはお風呂に入らないことに対してもう少し合理的な説明をするようになっているかもしれません。どちらにしても、この人が清潔でない状態でいることで新たな葛藤が生まれます。他者からの拒絶は新たな感情の連鎖を作ります。もしくはこの人は、子供の頃に起こったことを知ることなく、入浴に対する自分の抵抗は不合理だと思考の上では思うかもしれません。そして感情的に強い反発を感じながらも自らに入浴を強要します。結果的に入浴に関連する説明しがたい症状を発達させることになります。これらの「不合理な」謎の反応とそれに関連した不安はその人の人格に困難をもたらし、この困難はイメージを探し当てることでしか乗り越えることができないのです。
もちろん今挙げたのはとても単純な例です。たいていの場合、より微妙で複雑な感情的反応が関与します。これはその後の人生での充実を失わせることとなるそのほかの感情的な反応と共に、イメージが形作られるときに生じます。自らが当時出した結論の裏にある元々の理論を既に意識できずに忘れてしまっていることは強調してもしきれません。もしも自分の魂の内に刻まれた内容に直面するならば、きっと人は笑うことでしょう。これはまったく真実ではないと、そしてそのことを指摘してくれた人に対してそんなものは狂った妄想だと言うことでしょう。そして、元々自分が持った印象から生まれた反応の連鎖や結果は特定の災難や困難を生み出すということも理解するべき重要なことです。無意識がこれを理解することはさらに難しいでしょう。なぜならある特定の行動や反応を避けることは人生の痛みから自らを守ることだと固く信じているからです。
では、個人的なイメージはどのようにして見つけることができるのでしょうか?症状がどのようなものであっても、症状に働きかけるのではなく、症状と共に取り組んでいきます。これらの症状とは、あなたのなかで乗り越えることのできない特定の欠点や態度であり、あなたの人生に定期的に起こりパターンを形成する出来事に対してコントロールが欠如していることや、ある特定の出来事に対する恐れや抵抗などが挙げられます。症状の根っこや源を理解せずに症状を取り除こうとすればするほど、無駄な努力によって自らを疲弊させてしまいます。症状は、あなた自身の内の間違っていて無知な結論に対して支払われなくてはならない代価のうちのほんの一部です。
イメージを探すには、人生を振り返り、そこにあるすべての問題を見つけ出します。書き出してください。どのようなものであっても、すべてを書き含めてください。白の上に黒で、簡潔に書き出すという面倒なしにここは通れません。考えるだけでは、この後にくる比較の作業に必要な概要が掴めません。この書き出しの作業は必須です。もちろんこれは過ぎた要求ではありません。一日で終わらせる必要はないのです。数か月かかったとしても、自分に必要な時間をとってください。まったく何もしないよりはした方がましなのです。すべての大きな問題や小さな問題を見ていき、無意味でまったく重要でないものも見ていき、そして共通項を探し始めてください。ひとつの共通項が、過去の問題のほとんどに見出すことができるでしょう。共通項はひとつ以上である場合もあります。人生においてイメージから独立した困難が生じないと言っているわけではありません。そういったことも可能です。あなた自身のイメージとは関係がないかもしれませんが、この宇宙におけるすべてのことがそうであるように、そういった場合でも原因と結果の法則が働いています。ただし皆さん、気をつけてください。ひとつの出来事を表面的に見ただけで横へ置かないことです。ぱっと見たときに個人的なイメージと繋がりがないように思えたというだけで横に置かないことです。可能性としては、いや、たいていの場合、繋がりのない出来事などないと言えます。すべての不快な経験はあなた自身のイメージと繋がっていて、直接でなければ何かしらの関係で繋がっています。
共通項を見つけることは簡単ではないかもしれません。大方のイメージを掴んだところで初めて、あなたの経験のうちのどの経験が(もしどれかが当てはまるのであれば)その共通項とどのような関係にあるかを判断できるに至るでしょう。それまでは、人生の出来事に最終の判断を下さず保留にしておきます。瞑想中に、または真剣に自らの内を調べることによって、過去や現在の感情の反応を調べることや祈りを通して、骨の折れる長い追求の先にあなたは共通項を見つけるでしょう。それはプライドなのです。あなたの身勝手さはあなたの内でこう語りかけてくるでしょう「私は人生にリスクを求めていない。人生の痛みは欲しくない。だから私はリスクや痛みから身を守ってくれるように見えるこの結論を導こうとおもう」しかしこれは安全装置などではなく、実際には限りなくたくさんの問題をあなたにもたらすものであり、あなたが避けたいと思っていたまさにその問題をあなたにもたらします。人生とは、ごまかすことができないものだからです。これが慈悲深い神の法則だからです。神の慈悲深い法則なしに低い次元の暗闇から脱することは到底できないからです。あなた自身の間違った結論や恐れと対峙し、人生をありのままに受け入れる準備ができて初めて、魂を癒すことができるのです。あなたの発達にとって必要である今現在の人生の形を否定したいと願う身勝手さのうちのいくらかを、ここで始めて手放すことができるでしょう。あなたは人生のリスクや苦難から守られたいと願うのではなく、謙遜を手に入れ始めるのです。あなたが勇敢に困難を受け入れ背負うことができるようになると、困難がそこに存在する必要性がやんでいくのです。
あなたの問題すべてを簡潔に列挙し、人生を顧み始めるのに良いスタートでしょう。そして次に共通項を探してください。一見、問題とは無関係に見えることでも急いで目を逸らせたりしないでください。よく調査してみてください。結果に驚くかもしれません。もっとも無関係に見える事柄にこそ探している共通項があるという場合があります。共通項が見つかったとき、あなたは探求の道で大きな一歩を踏み出したことになります。イメージにまつわるヒントを手に入れたからです。ただし、共通項自体はイメージを開く鍵ではありません。もちろん共通項を見つけたということは向かうべき方向を強く示すものなのですが、人生全体を完全に理解するための扉を開くものでは決してないのです。イメージ自体に辿り着くには、イメージが形作られるまでの曲がりくねった道のりに辿り着かなくてはなりません。そしてイメージが形作られたときの自分の反応のプロセスを理解するには、より徹底的に無意識を探求する必要があります。
これを成し遂げるにはさまざまな方法や手法があります。あなただけでやろうとしても出来ることではありません。無理なのです。ここで私が提案したように作業を始め、その後の導きをもらえるように祈り、自分自身のプライドを乗り越える準備を整えなさい。そうすることであなたを助けるために霊的な世界から選ばれた人材にオープンになることができ、さらなる勝利に向かって神があなたを導くことができるでしょう。
あなたの内にある抵抗によって思いとどまることのないようにしてください。その抵抗もイメージと同様、完全に間違っており、無知であり、目先のことしか考えていないものだからです。実に、今あなたを抵抗させているのと同質なものがそもそもイメージを生んだのであり、あなたが知らないうちに底知れぬ苦悩を作り続け、あなたが意識のうえで抱いている望みを妨害し続けるのです。実際に、この抵抗は本来あなたが手に入れるべきものを失わせているのです。ですから、この抵抗を見通すのに足る叡智を持って、自分の内にある抵抗が自分にとってどれだけ価値あるものなのか査定するようにしてください。抵抗に制覇されないようにしてください。もしもあなたがこんなにも痛々しいイメージを形作る無意識の力や非論理的で間違っていて無知な結論に制覇され続けるのだとしたら、どうしてあなたが霊的に発達し正しい意味で超然とした人になれるのでしょう。イメージはあなたの人生の不幸せすべての要因です。イメージの責任を負う者はあなた以外にいないのです。そうですね、イメージが形作られたとき、ほかのより良い方法をあなたは知りませんでした。しかし今は知っています。つまり、あなた自身の不幸せの源を取り去る素養を、今は持ち合わせているのです。そしてどうか「どうして他者が何度も何度も私に同じ態度を取ることの責任を私が負わなくてはならないのですか」と言わないでください。前にもお伝えしましたが、あなた自身のイメージがこういった出来ことを引き寄せるのであり、地球という次元では昼に続いて夜が必ず来なければならないのと同じくらいに必然です。磁石のようなものであり、化学の法則のようであり、重力の法則のようなものです。イメージに対するあなたの反応を構成する要素は、あなたの個人的な人生の領域に入ってくる宇宙の流れに影響を与え、ある特定の結果が伴わなければならないように働くのです。これはつまり宇宙の動きに対してあなたが行った設定に従って結果が起こるということです。
無意識を掘り下げていく勇気がなければ、イメージと対峙し、イメージを解消し、あなたの中から本当に新しいあなたを作る勇気がないとすれば、この人生であなたが自由になることは決してないでしょう。あなたは常に鎖で繋がれ、閉ざされたままでしょう。自由への代価はあなたの勇気と、事に直面するために必要な謙遜です。必要なすべての段階を踏んだとき、自由への勝利のあまりの嬉しさに、外で何が起きようとも、この幸福を台無しにできるものは何ひとつとしてないでしょう。さらに、今回の人生で解消することができないイメージは次の人生で解消しなければならないと思って間違いありません。皆さん、これを脅しとして捉えないでください。単に合理的な結論なのです。あなた自身の鎖から解放してくれるものが脅しだなんてあり得るでしょうか。そのように捉えてはいけません。単に現実的に捉えてください。あなたが元々自発的に作り出したイメージを見つける時期が早ければ早いほど、人生は楽になります。イメージがさらに捻じれを作り人生が耐えがたいものになってしまうまで待つのではなく。こちらの考え方は安心して、信じていただけるだろうと思います。
人生のうちではこう思うときもあるかもしれません「また同じ問題を抱えて次の人生に生まれるということ自体が推測かもしれない。次の人生なんてそもそもないかもしれない。なぜ今すべての面倒をこなさなければならないのだろう」と。しかし、もしそう考えるのだとしたら、今生のためにこのワークに取りかかるべきではないかと皆さんにお伝えしたいと思います!なぜなら取りかかるのに遅すぎるということはないですし、努力の甲斐があるからです!人生の残りの時間が違ったものになります。鎖に繋がれ続ける代わりに自由になるのです。転生という現実について迷いが吹っ切れている人にとっても、このワークは追加の動機として捉えてみるべきものです。実際にこのワークは、あなたの次のカルマがどのようなものになるかについて瞑想するのにとても良い課題になるのではないかと思います。あなた方は前世のことに極端に多くの注意を向けますが、次にくる人生について思いを馳せた方がより有益なのではないでしょうか。自分自身に関するいくらかの霊的な知恵と直観をもってすればさらに利を得られることでしょう。加えて、自身のイメージを見つけることによって、完全ではなかったとしても次の人生がどのようなものになるのかなかなかに正確な予測を立てることができます。それは多分、詳細にというわけではないでしょうが、これから先自分の内で何をまだ満たしていかなくてはならないか、基本的な予測はつくはずです。そしてそれを満たすために、どのような周りの状況があれば自分自身の葛藤に気づくことができるのか考えてみてください。もちろん、実際の次の人生は、今回の人生の残りであなたがどれだけ発展できるかにかかっています。
すべての魂は問題や葛藤、そして不調和をもっとも楽な境遇で解決するチャンスを与えられているという因果の法則とカルマの法則の影響の側面を忘れてはなりません。この境遇で勇気と意志の力が奮い起こされなかったとき、次にくる人生は必然的に少し難しくなるのです。そしてまた次の人生で勇気や謙遜、そして意志の力が奮い起こされないとき、そのまた次の人生がさらに難しくなります。時が来て、あまりにも道が厳しくなってくると、逃げる代わりに向かい合うしかなくなるのです。人生は難しさを増していきますが、これは法則に基づいたものなのです。あなたが自分自身と向かい合う代わりに自分自身から逃れるとき、あなたは神聖な法則を破ることになるのです。
今述べていることは、スピリチュアルな人生に興味を抱いている人々の間で議論の的となっている問題に明晰さをもたらすことでしょう。人生に起こるテストや試練、そして困難にどのようにして向かい合い、反応をすればよいのか人類は多くの不確かさや混乱を抱いています。ある考えを教える学校では神は我々を試すテストなどもたらさないと伝えます。神は愛であるゆえに、どうして神が我々に不幸を望むだろう、と。皆さん、これは真実です。そしてまた別の考えを教える学校ではテストを経験することは必要であるゆえにテストは神の意志なのだと伝えます。テストが来たら、自分達が神の慈悲と恵みに足る存在だと証明されたという気持ちで謙遜と共にテストを受け入れるべきだと。これはまた前者と等しく正しいのです、皆さん。しかし、完全な真実はこれらの真ん中、あるいはこのふたつの考え方の延長にむしろあるのです。神は完璧な法則を作り、神の子供達に自由意志を与えました。この自由意志をして法を破ることができないとすれば、自由意志など存在しないのです。そしてこの反則から生じる結果が長い目で見たときの救済だというところに神の法則の完璧さがあるのです。つまり、これらの法則を意識的であれ無意識的であれ、捻じれば捻じるほど法則はあなたの望みに反して働きます。もうこれ以上捻じることはできない、ついには意志の方向性を変える必要があるというところに達するまで働き続けます。なぜなら神にのみ永遠が存在するからです。神に対する厳粛な信捧のみが永遠となりえるのです。どのような形であろうとも神聖なものを破るということは、必然的に有限となるのです。あなたが永遠にこの法則を捻じり続けることはできないのです。そして神聖な法則をあなたが破るということは結果的にまた善への奉仕をすることへと自動的に繋がっていくのです。
もちろん、テストを謙遜の精神と「父よ、みこころのままに」という態度で受け入れることは正しいことです。しかしさらに高いレベルに達しようとするとき、これだけでは足りないのです。もっとも高くそして最良のやり方は、このような気持ちでテストを受け入れ、加えて自分自身のイメージを探求することです。どんなときでもあなたが直面しているテストの直接の原因は、潜在意識の内にある間違った結論なのです。そしてイメージを探し当てるためには、短気であってはなりません。というのも、短い期間でイメージを見つけ、理解し、そして解消することはとても無理だからです。これは長く、長引くプロセスなのです。イメージを理解した後も、長い間ひとつの方向に向けられてきた感情的な流れや反応を再教育することは時間がかかり、努力を必要とし、そして忍耐が必要なのです。先程挙げた学校が言っていたように、忍耐と謙遜は確実に必要です。あなたは不幸に反抗するかもしれません。しかし神や運命を責めるのではなく、あなた自身を責めるべきなのだと気づくとき、あなたの反抗は自分自身へと向かい、自らに対して短気になることでしょう。しかしこのやり方ではイメージを見つけまた解消することは決してできません。くつろいだ精神状態でなくてはならないですし、そしてこのくつろいだ精神状態とはこの探求にかかる時間の長さを理解し受け入れてはじめて手に入るものなのです。すぐに完璧になることができないことを受け入れることができると、一時的な不幸を謙遜と共に受け入れることができるのです。
人生から身を引き、理由を理解することなく不幸を受け入れることと、ここで私が示している道には遥かに大きな違いがあります。神からのテストをその奥にある根っこの部分を理解せずに献身の精神で受け入れることはこれ自体で、ある一定の人達にとっては大きなことです。このような献身の態度は、ここで示したワークに取りかかる準備ができたときにはとても必要となってくる忍耐と謙遜を人の魂に条件付けます。もちろん、魂が神や創造に対して反抗しない方が健康的です。しかし、我が友よ。最後の、そして最良であり、この地球という次元においてもっとも高い段階の取り組みは私がここで示したものなのです。浄化は安っぽいものではありません。しかし実際、欠点と乗り越えるべき試みが書き連ねられたリストのみが浄化を構成している要素なのだとしたら、安っぽいものになってしまいますね。浄化とはそれ以上なのです。あなた自身の潜在意識を理解しコントロールできるようにならない限り、あなたは浄化されないのです。そしてこれは長い道のりでなくてはなりません。ただし、あなたがやる気であれば、助けを受け取ることができます。そしてあなたは神と、自分自身のためにこれをしているのだと理解する必要があります。神に自分を犠牲にするのではなく、神があなたに望むものはあなたにとって最大の利である必要があるのです。神と真実のあなたはひとつなのですから!考えてみてください、皆さん!
ある一定の人々はとても自分勝手で、自分にとって都合が悪い場合、神に対しては何もしたくないと思っています。こういった人達はとても盲目であるともいえるでしょう。神が自分に望んでいることと自分の幸福は矛盾していると信じているのですから。そしてまたほかの人達は、どんな犠牲を払っても、神に何でもするという人達もいます。しかし、自分自身のイメージへの理解なしに、これは絶対に成功しません。自己犠牲から生じる幸福は、人の内で本物の幸福が受け取られるまで、罪悪感を増します。こういった罪悪感はイメージと繋がりのある情動の捻じれです。実のところ、イメージと罪悪感を理解し解消する前に幸福がやってくることはないのです。しかし、こういった人達の今の精神状態では献身と罪悪感が混ざると、英雄になった気分になるのです。
さて親愛なる皆さん。質問をしていただいて結構です。
質問:意志と勇気について今夜は2回言及されています。祈りによって意志と勇気の電池は充電されますか?
回答:もちろんです!確実に充電されるでしょう!良き目的のために具体的に意志の力と勇気について祈れば(このレクチャーで概説した祈りのように)その祈りに対するお返しは必ずやってきます。もしも祈りが良きものであり、法則に即したものであれば、あなたがほかのことに対して祈れば、その祈りに対してもまた別の答えを獲るでしょう。何に対して祈るのかを知ることが発展の途上のどこにいようともとても大切である理由はここにあります。人が先に進むためにこれとこれが必要なのだと知って、それに対して祈るということは滅多にありません。たいていの場合あなた方は発展のさまざまな段階で何が今もっとも必要なのか不確かです。他にも価値がありそうなことに強調をもっていったりしますが、これは二か月前に重要だったことで、今重要なことではなかったりするのです。キリストがこう言っています「叩けよさらば開かれん」叩くということは、この道でのさまざまな段階において何がもっとも必要であるかを知りたいという興味がじゅうぶんにあり、そして注意が向けられていることを示しています。道は絶えず変化しています。すべてに対して同等に集中して祈ることはもちろん、できないでしょう。
質問:我々の限界のすべてはイメージの結果といえるのでしょうか?
回答:ほとんどはイメージの結果といえますが、すべてではありません。あなたが転生の循環にいるかぎり、そして神性の状態にまだ到達していないかぎり、限界はあるといえるでしょう。宇宙的な天才ではあれないのです。大きな枠組みで見たとき、限界はイメージとは無関係です。しかし、才能があるのにじゅうぶんに使い切れていない、もしくはその才能があるために壁にぶつかっている場合には、その限界はもちろんあなたのイメージと関連しています。
愛しい皆さん、あなた方ひとりひとりに向けて送られる特別な恵みをもって私はここで退こうと思います。この恵みとは、勇気の恵みであり、これは皆さんがひどく必要としているものです。そしてこの恵みを正しく使ってくださるように皆さんにお願いをしたいと思います。あなた自身を、ハートと魂を、この部屋を満たし皆さんひとりひとりへと流れているこの強さに開くことで、勇気を感じとることができます。そしてこの強さを持ち帰れば、しばらくの間この強さは続くでしょう。あなたにとって本当に必要なところに使ってください。重要でないところに使わないように!どのように使うかはあなた次第です。あなたはこの勇気を受け取り、自由意志で勇気に自らを開くことができ、そうすれば自ずとどうするべきか分かるはずです。今ここで進んでこの強さを受け入れるならば、どのようにこれを使うかが試されます。神の愛があなた方皆に触れています。平和のうちにありなさい。神のうちにありなさい。
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