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Pathwork in Japan
No. 39 イメージ探し
Pathwork Guide Lecture No. 39
UNEDITED版
1958年11月7日
イメージ探し
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神の名においてご挨拶申し上げます。友である皆さんに恵みがもたらされますように。この時間が祝福されたものとなりますように。
あなた方が生きている物質世界では目の前にとどまることなく障害が姿を現わすことでしょう。これらの障害は世界をありのままに見ることを妨げます。障害のうちのいくつかは時間であり、空間であり、動きです。皆さんがご存知のとおり霊的な世界では時間、空間そして動きはあなた方の世界での現れ方とはまるで違うのです。あなた方は時間や測定の仕方を絶対的に区切り、そしてこの区切り方は不変的で客観的なものです。1年は1年でありまた、ひと月、1週間、1日、1時間、1年、またはマイルは個人的な在り方から独立して存在しています。霊的な世界ではこうはならないのです。同じことが距離にもいえます。あなた方は絶対的に定められた方向という考えを持っています。右、左、上、下。ここでもまた同じに、霊的な世界ではこうはならないのです。そして今夜私は、この事に触れるのにじゅうぶんな理由を持ち合わせています。あなた方の世界の科学者のうちの幾人かは今私がお話している真実について原子物理学や宇宙空間の探検によって察知し発見しています。人類にとって宇宙への探検が可能になるのもそう遠いことではないでしょう。飛行機での旅が受け入れられているのと同じくらいに一般的になることでしょう。飛行機にパイロットが座るとき、上昇しているのか下降しているのかを示す機械は必要ないはずです。そこに座っているパイロットにとってはっきりとしたことだからです。しかしパイロットがやっとのことで宇宙空間へと飛び立つときにはこうはいかないのです。あなたの順番が来たときに今私が言っていることが本当だと分かるはずです。この地球の重力を離れる瞬間、人は上へ行っているのか下へ行っているのか定かではなくなるのです。機体が上昇しているとき人は船が下降しているという印象を抱き、その逆もまた同じです。皆さん、これはとても意義深いことなのですよ。
物質的な顕現の世界に生きつつ実際に宇宙空間を探検することは、霊的な法則に近づくことです。宇宙空間への探検は考えある人の目を開くことになるのです。ひとつ前のレクチャーで特に魂への探検がどれほど必要であるか話したと思います。人の魂が度重なる転生を経て形作る内なるイメージや内なる間違った印象、そして間違った結論についてお話ししました。イメージを見つけることが大切であるとお話ししました。
イメージを見つけることで初めて自分自身や自分の人生、さらには今までに起こったすべての出来事を理解することができます。そしてこれらの出来事はイメージを解消できるまで継続して起こります。宇宙空間でのことは、同じように自身の成長にも真実として当てはまります。つまり、下へと下がることによってのみ上へ上がることができるのです。深さを探り、あなたの無意識の中の最も暗い領域を探検してはじめて霊的に成長し、本当の意味で上昇することができるのです。
一時的に自分が以前にも増して悪くなっているように感じられるかもしれません。後退しているように感じられるかもしれません。真の自分を探すにあたって、一時的な鬱は避けることができません。しかし皆さんここであなた方の人類の科学が近い将来確認するであろう理論について考えてみてください。全く同じ理論が魂を探求する際に当てはまるのです。一見、下降しているように感じられるかもしれません。物理的な体にあって知覚できる最大限の自由と完全な真実に到達するために、無意識に降りていく必要があるのです。
イメージ探しの題材について今夜引き続き皆さんにお話しすることを約束しました。この探求に対して勤勉な方々が知っておくべきいくつかの大切なことがあります。私の言葉にほとんど耳をかさない人々、またはまだいまひとつ乗り気でない人々にとってはここで私が申し上げる事はあまり意味を持たないかもしれませんが、考え方や原理についての多少の理解を深めることはできるかもしれません。私がお話ししていることは、いつかは能動的に個人の探求への扉を開く手がかりとなりえますし、個人の探求は浄化を完了させるためにとても必要なことなのです。そして個人の探求への扉を開くことは暗闇から光へと自発的に一線を越えることなのです。まだこの作業を始めていない、しかしこれから始めたいと望んでいる人は、仲間内のグループの一人と作業をすることを心からお勧めします。以前にもお伝えしましたが、この作業はひとりでは完成できないからです。そして、大いなる調整が行われることでしょう。導きがやってきます。霊的な成長を望むすべての者に助けがやってくるのです。これはお約束できます。
さて我が友よ、イメージを探し始めるにあたっていくつか事前に知っておくと良いとても使い勝手が良く、そして大切なことがあります。ひとつ目は説教をするような態度で無意識に近づいていかないということです。あなたの無意識はこれを好みませんし、抵抗します。無意識と折り合いをつけたいと願うあなたの意識的な望みが叶うのをより難しくしてしまい、反抗することでしょう。これまでの成長を通して浄化の大切さそして己を知ることの大切さに気づいていることと思います。あなた方は皆、自らの間違い、短所そして弱さについて考え始めています。そしてこれはあなたの存在のすべてのレベルに真実として当てはまるのです。そして私がすべてのレベルと言うとき、そこには複数の層があることを意味しています。意識と無意識の層があるだけではないのです。そこには複数の段階の意識や存在があり、あなたの態度や欠点、弱さそして質や強さなど考えうるすべてに対する層が存在しているのです。ひとつ前に行った分析で間違ったイメージや間違った内なる印象が硬直した形で存在し、あなたの人生やすべての出来事をコントロールしているとお話ししました。間違ったイメージは皆さんがよく認識しているご自身の欠点で構成されています。しかし同じ弱さがまた違ったレベルでも存在していることをあなた方は知りません。そしてこのことに説教をするような態度で向かうと、壁にぶつかってしまいます。新たな視点で始める必要があると前回皆さんにアドバイスしたのはこのためです。まずあなたの痛み、葛藤そして問題から始めてください。あなたの内の間違った態度を無知や間違えとして捉えてみてください。実際にすべての欠点の本質はそこにあるのです!これが最も良い始め方でしょう。あなたの偏った特異性、先入観、または人生のいくつかの場面で見せる硬直した感情について考えを巡らせることから始めてみてください。特定の何かに対してあなたが感情的に反応しているということ、そして人生を通して反応がパターンとして自動的に繰り返されていることを考えてみてください。一見あなたの行動や反応とは何の関係もない、がっかりとした意気消沈の気持ちをよく見るようにしてください。そして定期的に起こるこのパターンに気がつくことができたなら、パターンと自分自身の内なる態度の繋がりに気づくでしょう。この内なる態度は今までのところあなたの意識をすり抜けてきました。これが最も良い始め方でしょう。もっとずっと後になって、あなた方の内なる反応に気づき、同じ反応が周囲の出来事を生んでいるのだとある程度理解し気づいた後で、これは自らの欠点に他ならないのだと分かるでしょう。欠点はひとつまたは複数であるかもしれませんが、これは外側の人格からはかけ離れたものであり、深いレベルで存在しているものなのです。
あなたの内なる反応が自らの間違った態度から生じていることに気づくとき、そこにはふたつの可能性が存在しています。それぞれは意識から取り除かれるべき障害を象徴しています。ひとつ目の可能性は、あなたが以前に表面的なレベルで気づくことができた欠点を再び発見するというものです。もしかするといくつかの欠点に関してはすでにある程度乗り越えているかもしれません。再び同じ傾向を発見し、はじめから取り組み直さなくてはならないと気づき、あなたはぞっとするかもしれません。あなたの反応のひとつは、この欠点はすでに知っているというものです。実際には新しい欠点に遭遇しているにもかかわらず、この反応は新たな気づきを妨げてしまいます。どれだけ表面的にその欠点に親しみがあるとしても、新しいものとして取り組んでいくことが大切です。このように取り組まない限り感情を新たに感じ直しそして経験することはで難しく、また必要な理解を得ることができません。内なるイメージに対する慣れ親しんだ反応と欠点に遭遇したときには、すでに知っているという態度に注意してください。もしかするとすでに知っているのかもしれません。しかし欠点はまた違ったレベルで存在しているのであり、あたかも初めて遭遇したかのような新鮮な取り組み方で向かい合う必要があります。皆さん、これを覚えておいてください。
ふたつ目の可能性は、あなたの意識が知っている自己と完全に矛盾する傾向に遭遇することです。「ああ、しかしそんなことはない、そんなことはありえない。こんな欠点は持ち合わせていない。実際、完全に逆の性質が私の最も大切な美徳なのだから」と言いたくなるかもしれません。だからこそ、これは障害になり得るのです。より事を明確にするためにいくつかの例を挙げてみましょう。一見とても責任感のあるひとりの人がいるとします。この人は家族や仕事で付き合いのある人から徹底して責任感がある人として知られています。しかしこの人が自分自身の人生や人となりを理解しようと、自らのイメージを探し始めると、ある点においては自分が無責任であると気づき驚くかもしれません。この発見は困惑を引き起こし、そしてこの困惑は気づきが間違っていると否定する方向に導いてしまいます。なぜならこの気づきは自分の中の別の部分での存在の仕方と矛盾するからです。もしかするとこの人は探し当て、掘り起こしたものを急いで覆い隠してしまうかもしれません。もうひとり、素晴らしい勇気の持ち主として知られる人を例に挙げてみましょう。いくつかの感情的な反応、傾向そして内なる事実を暴いていくことによって、この人は自分自身の人格の中の臆病な部分と向き合うことになるかもしれません。この気づきがこの人をひどく驚かせる可能性もあり、辻褄が合わないと感じさせ、すべてに対して疑り深い態度にさせるかもしれません。この場合もこの人は、こんな事はありえないと自分自身に言い聞かせることでしょう。過去に自分が勇敢であると証明できた例をいくつも引き合いに出しますが、それでもやはり自分が臆病であるという感情的な反応を再び見つけてしまうのです。つまりここで大切なのは皆さん、外側の自分にはない、イメージとしての欠点が存在している可能性もあるのだと気づいておくことです。マスクとしてだけではなく、純粋な形で、外面的には全く逆の反応をしていることもあるのです。あなた方は二者択一の形で考える傾向があります。ようやく人類はひとりの人間を善か悪とするのは間違いであるということを学びました。ここまでは、進化してきたのです。しかし、どちらか片方という同じ排除の仕方が個人の傾向にも行われています。善か悪か。もしあなたがこの概括的な理解を手に入れることができれば、皆さん、もしこの知恵をあなた自身に吹き込むことができれば、目的地への到達ははるかに容易になることでしょう。このようにすればあなたの存在のさらに深い次元へと踏み入ることができ、ある一般的な事実に対して無知だったというだけで生じた困難を排除することができるのです。
最近では、あなた方が住む地球という惑星で人々は深層心理学について語り合っています。今ここで行っているのは深層心理学そのものなのです。ただ皆さん、この戦いに勝つためにあなた方はこれに加えて深層の祈り、深層の瞑想、そして深層の考え方を学ばなければならないのです。はじめは祈りや瞑想を行うとき理知的に考えを巡らせるでしょう。しかし自分自身の内なる自己を見つけ始めた暁には、より深い場所へと進んでいかなくてはなりません。まれに神や神の真実の法則に満たされる瞬間を経験することもあるでしょう。これはあなた方が深いレベルの意識を発見するよりもずいぶん前に時折起こることです。この感覚は自発的に強制できるものではありません。コントロールできるものではないのです。皆さん、これは気品なのです。そしてこの状態は無意識にあるすべての間違いを浄化することで多かれ少なかれより永続的なものとなるでしょう。私がここで言う深層の祈り、深層の瞑想または深層の考え方とは、あなたが見つけ出したすべての抑圧された反応または隠された反応を受け取るということです。発見した内容が今までにも繰り返し発見してきたあなたの傾向であるときも、また慣れ親しんでいる外面的な自分とはかけ離れた形の反応であるときも、共に受け取り、発見した事柄の意義や意味そしてあなた自身や他者に与える影響について考えるということです。霊的な法則と照らし合わせてみてください。霊的な視点と便宜的な視点の両方から考えてみてください。新しく発見したこの知恵をあらためて感じ、そして経験することによってワークをするようにしてください。そしてもう一度、できる限りの客観性をもって熟考します。神にあなたの間違った反応を変えるためのさらなる悟りと強さを祈ります。あなたはただ考えを深いレベルへとシフトし、一見繰り返しているように見える傾向、またはあなたを驚かせた今までとは違った新たな発見に当てはめていくのです。このことを理解するのは、そうたやすいことではないと思います。特にまだ探求を始めていない人々にとっては難しいでしょう。しかし私がお話している方向へ前進している人には理解できるのではないでしょうか。これはとても微妙であると同時に大切な事でもあるのです。今発見したばかりの理解をそのままにしておかないでください。放って置くと再び古いパターンへと後退してしまうことは大いにあり得るからです。あなたの魂の中で重要で意義のある知恵のかけらをひとつ見つけたからといって、それが必要なすべてだと自らを欺くことは簡単です。理論的な知恵を手にしてもまだ以前と同じ古い反応に飛びついてしまうということは大いにあり得るのです。隠れた傾向や反応に対する内面の理解を見つけただけで、そこに留まっているだけではじゅうぶんではないのです。発見した後からが実際のワークなのです。そしてこのワークとはあなたの気づきのレベルでの瞑想と、そしてさらに深いレベルでの瞑想をさしています。この深い瞑想なしには、手にした事柄を維持することこそできるでしょうが、これは徐々にあなたから遠ざかり、脳の中に残る理論的な知恵の姿となってしまうことでしょう。そして間違った感情的な反応や内なる結論を統合することに成功することなく、以前と同じような反応に飛びついてしまうことでしょう。よくお話しすることですが、外面的な傾向に比べて感情とはより習慣とつながりのあるもので、とてもとらえどころのないものです。つまりあなたの努力とは裏腹に感情は簡単にあなたの注意から逃れ、古いパターンが直ちに稼働してしまうのです。あなたは無意識の領域に不快な知恵を押し込めることにあまりにも慣れているので、この癖から1日やそこらで逃れることはできないのです。高い集中や努力、または訓練が必要なのです。意識に上がる必要のあるあなたの内なる傾向の存在に気づくまで、新しい習慣のパターンがしっかりと確立されなくてはなりません。これには特殊な繊細さを培う必要があり、そしてもちろん時間がかかるのです。また、対極に向かってしまう可能性もあり、これは古い反応と同じくらい有害であり、また同じようにイメージと結びついたものです。無意識のうちにあなたは短気になり、性急にそして激烈な形で魂を調整したいと願う場合によく起こります。そしてもちろんこのようなやり方はうまくはいきません。もしくはあなたが自分自身に怒りを抱き、自分や世界に対して反抗の精神で行動している場合にも起こりえます。このやり方は確立された古いパターンと同じくらい間違ったものです。別の形で現れているに過ぎません。皆さん、このふたつの落とし穴に注意してください。そしてこのためにはこれまでに手に入れてきた理解と共に作業をする以外に方法はありません。静かに、忍耐を持って、着実に、別の反応をすることができずにいる一時的な自分の無力さを受け入れ、ゆっくりとした成長が唯一可能な方法だと知ることです。この新たに発見した知恵を様々な角度から眺め、祈り、瞑想し、今までに作業をしてきた表面のレベルでワークを行わないことです。もしかすると祈りや瞑想に対してもある種のパターンが確立しているかもしれません。ひとつ前の成長の段階では使い勝手が良く、良いやり方だったかもしれませんが、今はレベルをシフトしなければなりません。より深い領域へと入っていかなければなりません。
今までお話ししたことと同じくらい大切なことのひとつとして皆さんに注目していただきたいことがあります。とても変わった現象なのですが、内なる間違ったイメージと繋がりのある事はすべて、人に急性の恥をもたらすということです。客観的に見て恥じるべきことなど何もない場合もあります。この羞恥心には何の根拠もないかもしれません。つまり、他者が同じ羞恥心を抱いている場面に遭遇したとき、その人の態度や行動が羞恥心に値するなどとは思えないかもしれないのです。この羞恥心をオープンに話す勇気を持てたならば、このきまり悪さや羞恥心が完全に消えてなくなるのを経験することができるでしょう。しかしまだこの問題と葛藤しているうちは、羞恥心をとても強く感じることでしょう。羞恥心を抱いている問題よりもよっぽど悪い欠点をあなたは持ち合わせているかもしれないのですが、とうの昔にこの欠点に気づいているために、すでに受入れているのです。折り合いがついているのです。つまりあなたはもうこの欠点に対して恥ずかしいと感じなくなっており、他者とオープンに語り合うことさえできるかもしれません。しかしながら折り合いがついていないというだけで、より小さな欠点、もしくは罪や欠点とは一見何の関係もない傾向が急性の羞恥心を呼び起こすのです。例えばあなたが両親のどちらか片方にとても強い影響や依存をしていることに気づいたとします。それ自体は何も恥ずかしがることのない、日々一般的に人々の話に持ち上がるようなことです。これまでのところあなたがこの傾向に気づいたことはありませんでした。どのくらいそしてどのような形で自分が影響を受けてきたのか、そして今でも似たような感情に依存しているという事実に意識を向けたことはありませんでした。しかし最初にこのことに気づくとき、急性の羞恥心があなたの中に起こるのです。皆さん、これはイメージに対する典型的な反応です。再びここでも言えることですが、事前にこれを意識することができれば、事はあなたにとって容易に運ぶでしょう。世界の中で自分ひとりがこうなのだと、このような感情を抱いているのは自分ひとりなのだという感情的で主観的な印象に押しつぶされずに済むのです。なぜなら、あなたの感情は自分ひとりがこうなのだと信じており、これが非常に恥ずかしいと感じる理由だからです。これが間違った防衛が築き上げた分離感であり、置かれている状況であなたが苦しみを感じるところなのです。しかし、今あなたが感じていることはよくあることで皆が経験することなのだと分かれば、この症状は予測範囲内だと分かれば、主観的で当てにならない感情が抱く印象を心に留めることなく、感情に征服され続けることなく、中和することができるのです。こうすることで始めて、あなたを暗闇の中、孤独の中、恐れや罪の意識そして間違った羞恥心に閉じ込めていた分離の壁から自らを自由にすることができるのです。あなたが内に抱いている印象や間違った羞恥心に征服され抑圧される代わりに、頭を高く掲げ自由の身として進化することができるのです。これにはあなたが一見非常に恥ずかしいと感じていることを、自分自身のあるがままの姿と面と向かうことによって経験する、その一瞬の勇気のみが必要なのです。これが、これまでのところあなたがまったく現実とは関係のない恐れや羞恥心という幻の世界に生きてきたのだということを発見する唯一の方法です。忘れないでいてください。
皆さん、あなた方が下へと降りて行くとき、魂の影について明晰さと理解、そして影の存在意義を知ることになるのです。内なる間違った感情的な結論を見直すとき、霊的に上昇し、実際的かつ完全な真実と共に上昇を経験するためには、忍耐や努力そして意志の力という手段を用い、想像の世界に存在している羞恥心や抵抗と戦うのが唯一の方法だとわかるでしょう。この外面的な下降を避けながらにして霊的な成長を手に入れようとすることはまったく非現実的です。これは自己欺瞞であり、希望的観測です。そのようにして事は成し遂げられないのです!
さて皆さん、ご質問をしていただいて結構です。
質問:人類は皆同じだけの時間を与えられているとあなたはおっしゃいました。それぞれの霊的な存在にとって時間とは違ったものだということなのでしょうか?
回答:私がお伝えしたかったことはこういうことです。例えば1時間あるとしましょう。あなたにこの1時間がどのように映ったとしても、1時間はやはり1時間のままですね。心地よいときも不快なときもこれが真実です。あなたはこの時間を測ることができ、この時間はどのようにしてもやはり客観的に1時間です。この時間に何を考え感じたかというあなた自身の印象はあなたの主観なわけですが、これは過ぎ去った客観的な1時間とは何の関係もないものです。そして霊的な世界では、これが完全に逆さまになります。霊的な存在にとっては主観こそが効力を持ち、主観以外のすべての尺度または価値は二の次なのです。お分かりになりますか?
質問:はい、ありがとうございます。
質問:瞑想や祈りを深く捉えるということについて理解することがとても難しいと感じています。すでに問題に対峙したことがある場合、どのようにしてさらに深いレベルで取り組むことができるのでしょうか。
回答:このワークを続けていくと、同じかつ古い問題に対する深いレベルでの取り組みは自動的に起こってきます。ただし自ら同じ問題に対する新たなアプローチを暴露したときには、発見した新たなアプローチと共に考え、瞑想し、そして祈り直さなければなりません。以前に気づいたことのある同じような傾向を発見したときも、部分的に気づきがもたらされていた事柄を発見したときも、もしくはまったく新しい反応や感情を発見したときも、発見に対して新鮮な精神や高まり、新たな見解や感覚で取り組まなくてはなりません。そして次にそれについて考える必要があります。新たに発見した素材をきちんと吸収できるよう祈らなくてはいけませんし、発見が自分自身の人格と統合され、人格がより円熟するよう祈らなくてはなりません。大抵の場合この新たな発見はあなた自身が思い描いてきた自分の姿にうまく納まりません。ズキズキと痛む尖った先のように目立つのです。このように捻じれた感情が統合され健康的になるためには、発見した事柄についてこのレクチャーで私が説明したように考え、そして発見を活用しなければなりません。
質問:あなたは今夜、解脱と欲望、そして自制の問題をお話ししたかったのではないかと思います。
回答:ひとつ前のレクチャーで私は、解脱という言葉は簡単に誤解され、そして間違って解釈されうるとお伝えしました。これは特に人が生きることへの恐怖、感じることへの恐れ、または愛することへの恐れのイメージを持っている場合に言えることです。この人が霊的な教えを通して得た外見的で理知的な知恵は、まさにこの人が持つイメージに響き、合理化や正当化のために使われる可能性があります。合理化や正当化はこの人が無意識のうちに常に見張り、注意を向けているものです。前回のレクチャーから今回のレクチャーの間であなたが手にした知恵を持ってすれば、あの時私が解脱は注意を持って取り組まなければならないとお伝えした理由が以前よりもよく理解できるのではないかと思います。そうでなければ解脱は助けとなるどころか、さらなる害になってしまうからです。お話ししたようなイメージを持っている人にとって世界と、そして自分自身の感情や避けようのない絶望と向き合うことはとても恐ろしいことなのです。ですからこの人は解脱という言葉を使って自らの身を引き、自分のイメージと合わせるように言葉をカモフラージュとして利用するのです。これはとてもよく起こる現象です。このような恐れがない人のみが解脱や自制といった言葉を歪みのない本来の意味で理解することができます。もしもこのようなイメージがある場合、そして本当にたくさんの人が多かれ少なかれこのようなイメージを持っていますが、本当の意味で解脱に到達するには生そして愛への恐れに面と向かうことが唯一の方法です。成長に必要なこの段階を力ずくで避けるよう努力する代わりに、まずはリスクを犯し、イメージの痛みを抱くことが大切です。欲望と繋がりのあるこの痛みを自発的に味わった後で始めてあなたはそこから成長し抜け出すことができるのです。皆さん、回り道をして抜け出ることはできないのです。まだ到達していない状態に自らを強制することはできません。これは嘘でありごまかしです。あなたが欲望を抱いている限り、欲望を認めそして経験することによって真摯な意味で欲望から抜け出すことができるのです。霊的な成長が常にそうであるように、時間をかけて有機的な成長の形でこの欲望を経験することで、痛みは軽減されていきます。この痛みの軽減は、欲望を恐れまた避けているからではなく自らの欲望と対峙する意思があなたにあるから起こるのです。これが間違いや自己欺瞞なしに自制や解脱を手に入れる唯一の方法です。そして今現在あなたにとって解脱をテーマに瞑想することがどれだけ有益か判断するのはあなたという個人のみができることです。親愛なる皆さん、痛みや絶望に対する恐怖を完全になくすことがもしもできたならば、それが機が熟しているときであり、それ以前ではありません! あきらめの状態にご自身を強制するとき、自分が恐れている事柄から逃れようとする動機を無意識に選ぶことになります。これから申し上げることが唯一の有効な方法です。まずまだ欲望があると受け入れること。そして欲望の代償を受け入れることです。この受け入れによって、霊的な目的を持たない人々の欲望とあなたの欲望に違いが生まれるのです。霊的な目的を持たない人々は、身勝手さでもって事を押し進めます。このような人々は自らの欲望の満足の邪魔となるすべての人や事に反抗し、自分自身の欲望にコントロールされてしまうでしょう。しかしこの道を歩むあなた方は、これら欲望の流れをじっくりと評価し、距離を置いて眺めることができ、そして意識的にこれらをコントロールすることができます。これは欲望にはけ口を設け、抑圧することなく行われるでしょう。もしもあなたが自分自身の内なる声を聞き、自らの感情を解釈することができれば、自分の中にある身勝手さやプライドがどこに存在しているかが分かるでしょう。そしてエゴが欲望の満足を要求することで、ハイアーセルフが間違っているとすることを見抜くことができるでしょう。自らの身勝手さを満足させることが人生の目的ではなく、人生のすべての目的が幸せにあるわけではないと知っている人々は(そして幸せとは幸せと不幸せから学ぶことによって得るものであることを知っている人は)ローワーセルフの欲望に打ち負かされることはありません。もしもその時にどうしようもなかったとしても、そこから追加の学びを得ることができることでしょう。不幸せから逃げることのない者のみが幸せになれるのです。不幸せから逃げない者のみが本物の解脱を成し遂げることができるのですが、これはきっともっと後のことです。友よ、あなたの質問に対する答えがあったのではないでしょうか。そしてこれらの言葉において、あなた方が解脱や自制といった概念を、人生や愛そして傷つきに対するあなたの内なる恐れから逃れるための正当化に使わないことを願います。お分かりになりましたか?
質問:はい。
質問:祈りの自分勝手な態度という問題についてはいかがでしょうか?
回答:これについても以前に幾度かお話ししましたが、再びお話しすることにしましょう。今回は少し違った観点からお伝えしたいと思います。祈りを捧げることは自分勝手なことに過ぎないと恐れを抱いている人がたくさんいるのだと承知しています。ここでお伝えできることは、どのように祈りそして祈りの動機が何であるかに大きく関わっているということです。すべてに当てはまることですが、これが自己中心的でこれは違うとは言えないのです。ひどく愚かな行動を除いて、すべての欲望や態度において重要なのは動機なのです。この質問に対する答えはとてもシンプルです。もしあなたがただ単に欲しいから、愉快だからという理由のみから祈るのだとすれば、それはもちろん自己中心的な祈りです。またそれとは別に、この祈りはまったく功を成さないでしょう。なぜならあなたの魂から生まれる純粋で霊的な力のみが影響力を持つからです。あなたが故意に嘘をついたわけではなかったとしても、このような祈りは人生に対する誤解を示しており、結局は不真実だからです。この祈りがどれくらい無邪気で誠実なものであっても、真実でない考えは宇宙の本当の力と出会うことはありません。似たもの同士が引かれ合うのであり、この法則を変えることはできません。この道において始めの頃にあなたが学ぶのは、自分自身の動機を自問するということです。なぜあることを望むのか、そして特定の感情的な反応が起こるのはなぜなのかを問うことです。そしてその問いに答えを見出せないのであれば、恐れず誠実に、気づくことができるようになるよう祈ることは良き始まりとなるでしょう。これは自己中心的とは解釈されないでしょう。自分の動機が純粋なものとなるよう祈るのです。さらには、自分以外の生き物のみに対して何かを願う場合、これはもちろん自己中心的ではありません。あなたを傷つけた者に対して祈ることができれば、そして心から祈りを意味することができれば、その祈り自体が浄化となることでしょう。自分の臆病さを乗り越えられるよう、自分自身と向き合えるよう、そして自らが成長することへの抵抗を乗り越えられるよう、強さと理解を求めて祈ることはまったく自己中心的ではありません。いくつかの成長の段階を経たあとに、浄化の結果として必然的にやってくる幸せを求めることが利己的だと信じるならば、それでも浄化されずに残っている不幸せは高き目的を持ち合わせているといえるのではないでしょうか。なぜならこれらは無私だからです!これに関しては、神の法則が次のように働くのだと理解する必要があります。つまり、自分自身が幸せである者のみが他者に幸せを与えることができるということです。ここで言う幸せとは安っぽく、たやすく手に入る幸せのことではありません。大変な労力の後にやってくる本物の幸せのことであり、何者もあなたからこの幸せを奪うことができない、そんな幸せのことです。不幸せな人間が本当の意味で他者に幸せを与えるのを目にすることはないでしょう。不可能なのです。もしかするとこの人は他者に良き行いをするかもしれません。自己中心的でない何かひとつの行いです。それでもこの人が他者を幸せにすることはできないのです。もしもあなたが自らの浄化や成長の結果として幸せを手にすることが自己中心的であると恐れを抱くのであれば(他者への祈り以外のご自身への祈りにおいて、浄化と成長は中心的なものとなるべきものですが)この幸せは副産物であると考えるべきではないでしょうか。つまり目的を達成するための手段であり、目的自体ではないということです。
もしもこの道で上方へと昇っていくとき自己中心性、すなわち幸せになりたいという欲望が入り込んできたとしても、ただそれに気づくようにし、あまり気にしすぎないようにしてください。今の自分の状態を受け入れることです。あなたはまだ不完全なのです。今の自己中心的な動機は、幸せを副産物、または目的を達成するための手段としてのみ求めるという態度に比べて純粋ではないかもしれませんが、それでもこれは真実の実現に向かう前進の一歩なのです。自分自身の浄化によってのみ幸せになることができます。しかし意識の度合いが低い人にとって幸せとは、低い性質からくる欲望すべてに応じる結果であると信じています。もしもあなたが自己中心性から解き放たれていないのであれば(ほとんどの人間がそうであるように)これを強制的に抑えつけるより、はっきりと向き合う方が断然健康的です。なぜなら強制的に押しやるときこの自己中心性はあなたの魂の影に隠れてしまい、その存在を明晰かつ勇気ある形で気づくよりも有害となるからです。目的はより高きにあるということを理解し、同時に自分自身は情緒的にまだそこに達していないと気づく必要があります。そしてまた、隠遁した幸せは不可能であるということに気づく必要があります。分離の壁は崩れなければならないのですが、あなた方は皆これを恐れています。壁の崩れはあなた方を脅すのです。分離の壁を保つことであなた自身の目的を挫折させ、そして成長したいという望みに矛盾を生んでいることにあなたは気づいていません。成長したいという望みは、それに対する恐れと同じくらい強くそこに存在しているのです。あなた方は皆幸せを望み、そして幸せを他者に与えたいと願っています。しかしこの分離を手放さないことにはそのどちらも培うことができないのです。ではどのようにして分離を手放すことができるのでしょうか?それはあなたが最も難しいと思っていることによって成し遂げられるのです。プライドを手放し、一見恥ずかしいと感じる事を経験することで成し遂げられるのではないでしょうか。このようにして問題に立ち向かうとき、このような形の祈りには自己中心的なところなど何もないことに気づくでしょう。なぜなら神はあなた方に幸せを望んでいるからです。信仰の厚さとは不幸せになることや厳格であることだと長きにわたって誤解されてきました。信仰を深めるとは、殉教を意味すると。このイメージは人類全体に刻み込まれています。しかし皆さん、これは間違いです。ですからあなたが幸せになったとしても、罪悪感は必要ありません。もちろん、直接幸せを祈るべきだと言っているのではありません。あなたと幸せの間を邪魔する、自分自身が作り出した障害を取り去る力と能力に対して祈るべきです。障害を取り去ることとはつまり、間違いと無知によって自らが招いた不幸せを経験することを意味し、回避することによるものではありません。このトンネルを通過した結果、他者のどのような行動にも影響されない平和、調和、美しさそして喜びの、澄んだ光がやってくるのです。あなた方が祈りを捧げるときに持つべき心意気とはこのようなものです。
質問:祈ると言うこと自体がとても難しく感じられる時があるのですが、そのことについて伺ってもよろしいでしょうか?
回答:皆さんもご存知の通りあなた方の成長は上昇またはいわゆる下降、そのどちらにおいても不変的な一線を辿るということではありません。変動するのです。成長の過程は螺旋を描き上へ下へと進んでいきます。そして時には、下降する曲線の上の一歩は以前上昇の曲線の上を歩んでいた時よりもひとつ高い段階を歩んでいるのだと気づかないこともあります。以前歩んだ上昇の曲線は、全体から見て、現在あなたが歩いている下降の曲線よりも低かったにもかかわらず、すべての上昇の曲線は心地よく感じられるものです。これまでのところあなた方が取り組んできた下降の曲線では感じることのない意気揚々とした気分と解放感を、上昇では感じるのです。下降の曲線ではいつでも、いまだ未解決な葛藤、問題そして矛盾に遭遇します。これらはあなたの心を乱し、そわそわとさせ、恐怖心を煽ります。そしてこれは骨を折って取り組み、理解に至るまで続き、今の段階で提供されうる最大限の全体像にこの理解がしっくりと馴染むまで続きます。そしてこれがなされると、再び上昇の曲線が起こってくるのです。あなたは少し先の真実を手に入れたことによる澄み切った空気を楽しむことになります。しかし再び下降の曲線がやってくるとき、混乱と間違いの闇へと分け入らなければならず、これは神聖な流れからあなたを切り離すことにつながります。あなたはこの状況に行き過ぎた単純化を当てはめ、こう思うかもしれません「すべてが憂鬱だ。私は不快を経験している。そしてこれが理由で私は神聖な流れから切り離されている。」確かにあなたは正しいかもしれません。ただしこれは半分だけの真実であり、そして半分の真実とは常に危険なものです。あなたが今経験している不快はあなた自身が内側に持つ原因の反映であり、経験はこの原因に必要な結果だからです。そしてこの内側に存在している原因は掘り起こされるのを待っています。これが理由でこのような下降の曲線にあなたがあるとき(下降の期間の長さは、人格や解決されるべき問題によって違ってきます)流れが断ち切られるのです。こんなときあなたは、顕現する世界に対する強い印象に再び取り囲まれます。これ以前に味わうことのできた現実の感覚に達することができなくなってしまいます。あなたの内に戦いを引き起こし、再び勝利を手にするよう扇動するために、この断絶は必要なのです。すべての勝利は次なる新たな上昇の曲線を意味します。このような一時的な闇の期間にあなた方が神の完全なる真実を感じられない、そして神の完全なる真実と共鳴できないことはごく自然です。意志によって神の完全なる真実を感じるよう強制することはできません。このようなときにあなた方ができること、そしてすべき事は、これまでに得た知恵がたとえ一時的に脳だけに形として残る姿となっていたとしても、光のうちに明晰かつ合理的に熟考し、そしてまた再びこの知恵によって自分自身が満たされるその時まで待つということです。
わが友よ、祝福があなた方と共にありますように。
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