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No. 40 更なるイメージ探し:まとめ

Pathwork Guide Lecture No. 40
1996年版 
1958年11月21日 


更なるイメージ探し:まとめ MORE ON IMAGE-FINDING: A SUMMARY


 神の名においてご挨拶申し上げます。親愛なる皆さんに祝福を。この時間が祝福されますように。

 このレクチャーでは、少し前に始めたシリーズを続けます。このシリーズの以前のレクチャーを逃した人達の為に、浄化の道のこの段階での精神的取り組みについて少しお話ししたいと思います。

 真の意味で浄化とはどういう意味でしょうか?それは、神聖なる法則に反するあらゆる魂の流れと態度を取り除くことです。そのような流れは単に罪深いとみなされるだけでなく、例え無意識であっても、法則を侵す者に個人的損害および苦しみをもたらす原因となります。

 このグループに関しては、間違った行動も犯罪も心配していません。皆さんは全員例外なく、適切な行動が何であるかを知っています。そして大抵の場合、適切な行為だけを行なうよう最善を尽くしています。だが、これまでのところ、自己の感情をコントロールし、その隠された意味を理解し、その感情が人生にどのよう影響を与えたかを認識できる人はまだいません。

 皆さんの中には、神の正義を絶えず疑っている人が多くいます。何故なら、善良かつ慎み深くあろうと最善を尽くしているのに、非常に多くの苦しみに耐えなくてはならいからです。自分よりも倫理基準がかなり低くても、うまくやっているように見える他人のことを思い浮かべるからかもしれません。あなたには、その理由も「正義」も分かりません。その理由は、無意識な人格が反応と結論を生み出し、それが硬直した形をとるからです。私達はこの硬直した形を「イメージ」と呼んでいます。イメージは、一般的な結論を導き出す、ある種の印象から造られます。それは魂の中で連鎖反応を引き起こすだけでなく、最終的に外側の人生を支配し、方向づけます。イメージは無意識であるにも関わらず、また無意識であるが故に、そのように働くのです。この道では、人間の魂が抱く誤ったイメージを探し出すことをします。使命を果たす為に地球上に来たごく僅かな浄化された存在以外、このルールに例外は実質的にありません。

 前回2回のレクチャーでは、イメージをどのように探索できるのかを説明し始めました。それは簡単なプロセスではないでしょう。何故なら、無意識の内にあるものは、意識的な認識から隠されているからです。この無意識のイメージを表面に出す方法を紹介しました。友人の皆さん、それが人生をある程度コントロールする唯一の方法なのです。

 謙虚さの証しとしてどんな困難も受入れなくてはならないと考える人はいます。多くの場合、敬虔な宗教家です。しかし、これは自分が侵した法を受け入れた範囲においてのみ真実です。親愛なる皆さん、真の謙虚さとは、「法の不公平さ」を漠然と非難するのではなく、自らの責任を認め、困難を受け入れようとする姿勢なのです。真の謙虚さとは、あからさまな抵抗と同じく、完全に受け身な状態であってもなりません。一時的な苦しみは自らが招いたものと理解し、その状態を受け入れることに限り、受動的なのです。それは、働き、克服し、闘い、全ての苦しみに対する自己責任を可能な限り直接的な方法で認識する意欲において、完全に能動的です。これは、能動的な流れと受動的な流れが調和した相互作用の良い例です。

 従って、内側から変わらずに、手をこまねいて物事が変わるのを待つことはできません。人生にどんな不幸が起こっても、皆さんにはそれを変える力があります。自らの行動だけを変えて表面的に変えようとするのでなければ、人生を完全に変える力があります。内的原因、誤った結論、要するにまずはイメージを探す場合に限り、人生を変えることが可能なのです。

 自分の中で何があらゆる苦しみをもたらしているのか理解しなければ、何も変えることはできません。それができて初めて、徐々に自らの感情を再教育し、イメージを解消し、神聖なる法則に則った新しい生産的な形を魂に創り出すことができます。しかし、この素晴らしい可能性が手軽にはやって来ないことを十分に理解せねばなりません。本当に自らを支配する為には、あらゆる努力をし、考え得るあらゆる犠牲を払う価値があります。もしこれを進んで行なえば、助けは得られます。しかし、神が人生を変えてくれると期待してはなりません。神は皆さんに自由意志を与えたのですから、まずこれらの誤ったイメージが何かを見いだすのは皆さん次第です。次に、私が皆さんに与えた方法、助け、ガイダンスによって、そのイメージを変えることが可能になります。

 探究とそれに続く変化の間、依然として不完全な自分に腹を立てず、自ら生み出した不幸を受け入れるには正しい謙虚さが必要であり、精力的かつ積極的に自己認識の流れへと自ら向かわねばなりません。現時点で自分は不完全であることをあらゆる感情レベルで受け入れることを学ばなくてはなりません。

 友人の皆さん、これに関しては幾度となく述べてきましたが、はっきりさせておきたいのは、皆さんは全員、自らが誤りやすいことを意識的には知っていますが、感情ではそれに気づいていないことです。感情は、完璧でありたいと考えています。そして、自分にとって新しく思われる不完全さを発見すると、内面のあらゆるものが、その認識に反抗します。この反抗に数多くある症状のひとつは罪悪感です。内なる隠されたイメージ、つまり苦しみの原因や人生を通して繰り返されるあらゆるパターンの原因に近づくと、まず不快な感覚を与える内的誤解に直面することを予測する必要があります。罪悪感を持ちながらそれに出会っても、何の解決にもなりません。実際、罪悪感とは現時点で自分が置かれている状況の拒絶であり、ありのままの自分を受け入れようとしない姿勢であると認識してください。

 このワークに取り組むことに不快を感じたら、「私は何を感じているのか?」と自問してみましょう。多くの場合、感情的反応が罪悪感であることにも気づいていません。もし気づいていたとしても、罪悪感が本当は何を意味しているのか気づいていません。実際、それは謙虚さや悔悟と混同されることがよくあります。何が予測できるのかの知識、この健全な態度、自ら感情の分析は、あなたを大きな認識へと導くでしょう。

 感情を定式化してください。不快な反応は、その認識が実際に何であるかを自覚する前に起こることが多いことに注意してください。皆さん、この道におけるワークの主要部分は、感情を簡潔な思考へと定式化することです。このことはいくら強調しても足りません。感情の定式化によって、過ちを犯したことへの罪悪感を感じていることに気づくでしょう。そして更に、自問してください。「何故私は自分が誤りやすいこと、間違いを犯すこと、欠点があることに罪悪感を抱くのだろうか?」答えはこうでしょう。「今の自分以上になりたいから。もっと完璧になりたいから。より進化したいから。内なる何かが、私の無知や利己心、簡単な逃げ道を見つけたいという願いを受け入れない。」このようにして自らの反応を分析すれば、物事は非常に円滑に進むようになるでしょう。

 イメージの探索への更なるアドバイスがあります。この課題は困難です。皆さんの為にそれを簡単にしようとは思っていません。非常に素晴らしく完璧な宝物が容易に手に入ると聞けば、間違いなく不審に思うでしょう。しかし、皆さんの多くが既に見つけ出し、確認しているように、皆さんの努力は十分に報われます。少なくとも初期の段階を過ぎれば、この道を進む程に、素晴らしい力、大きな安心感を与えてくれるものは何もありません。

 まず内なる反応について膨大な量の孤立した情報を集めます。感情を脇へ押しやったり、覆い隠したりするのではなく、感情を表面に出し、簡潔な言葉にすることで、これまで気づかなかったことが見つかります。それは、あなたを驚かせるでしょう。暫くの間、この孤立した情報の断片は、結びつくことはないかもしれません。それらをどう扱って良いのか分からなくなります。そして、こう言いたくなるでしょう。「次はどうするんだ?違う動機を考えていたのに、実際にはこのように感じていたと発見したことは、どのように私の役に立つのだろう?」

 がっかりしてはいけません。むしろ、最初は意味をなさなくても、情報の断片を見つけることは非常に役に立ちます。探し続ければ、必要な助けを得られるでしょう。もう一度言いますが、このワークをひとりで出来る人はいません。不可能です。しかし、やる気のある人なら誰でも援助は得られ、チームとなれるようにこのグループの別なメンバーと引き合わせる方法が見つかるでしょう。

 ワークを続けると、すべての孤立した情報が繋がっていくことが分かります。自分の内に、連鎖反応や悪循環が見つかります。その循環が閉じるまで、ある反応は別の反応へと繋がり続けます。このような悪循環がいくつか見つかれば、それは大きな前進の一歩です。ゆっくりと、しかし確実に、自分自身と人生について理解し始めます。しかし、これでも十分とは言えません。あなたは単に剥き出しの構造、作業を続けやすくしてくれる全体計画を見つけたに過ぎません。詳細を教えてくれるワークはまだ始まっていません。この時点ではまだ、自分の人生や葛藤が何を意味するのか、そして自分がそれをどう引き起こしたのかを、自らの存在のあらゆるレベルで把握することはできないでしょう。ある程度は把握できても、全てではありません。

 友人の皆さんの中には、既にこの段階に達している人もいます。従ってここからは、どのように進んで行くべきかお話ししたいと思います。このテーマを初めて聞く人は、これから述べることを理解できないかもしれませんが、それでも魂に響く何かを受け取ることもあります。私の言葉が扉を少し広く開げ、新しい友人達も又、無意識の動機への依存から、自由な神の子としての独立へと敷居をまたぐことができるかもしれません。

 親愛なる皆さん、最初のアドバイスです。これらの悪循環を見つけたら、それに含まれる誤った結論を簡潔な言葉し、それを忘れないよう書き留めることです。そうすれば、この誤った結論が人生にどのような影響を及ぼしたかについて瞑想を始めることができます。皆さんは、イメージほどパワフルなものはないと知っています。非常に大切にしている意識的な願いに相反する願いがイメージの中にある場合、その意識的な願いがどんなに強くても、イメージの願いによって覆されることを知っています。そしてイメージに対応する状況に引き込まれます。イメージが人と状況を引寄せるのです。したがって、誤った結論を定式化する時、人生の問題の原因は何であったかを理解することは、それほど難しくない筈です。

 言うまでもなく、問題や葛藤をリストの形にして手元に置いておくべきです。まず、これらの葛藤すべてに共通する特徴を見つけてください。何が原因であり、どのようにして生じたかはまだ分かりません。それでも、これらの悪循環を見つけさらに深く探ることで、ひとつの共通の特徴が明らかになります。

 リストを作ると、おそらく一定の問題が繰り返し起こっていることに気づき、困惑するでしょう。様々な形を取ってはいても、常に繰り返されるパターンがあります。これが、イメージが関与していることを示す最初の兆候です。問題が一度しか生じなければ、必ずしもイメージとは関係ありません。しかし、それを判断には注意が必要です。意識的になった誤った結論が、どのように自らの様々な葛藤に影響を与え、引き起こしているのか明確に理解すべきです。共にワークしている友人の皆さん全員、慎重にこのプロセスに取り掛かるべきです。このようにして、イメージの破壊点は示されます。

 誤った結論がマインドの中で明確になり、それが人生にどのような影響を及ぼしてきたを理解したら、この時点では未だ理論的にのみですが、その循環と結論を正反対のものへと逆転させることを始めてください。勿論、感情は未だ正しい反応に従って生きることができないからです。しかし、誤った結論を感じて意識的にあらゆる感情を再体験することで誤った結論に向き合えば、何が正しい結論なのかに気づけます。毎日このことを瞑想すれば、最終的にはあなたの反応も変わるでしょう。

 考え方が変わるだけでは十分ではありません。そもそもイメージが何かを見つけるずっと前から、考え方は完全に正しかったかもしれません。重要なのは、感情が変わることです。誤った結論には常に自分の欠点がいくつか含まれています。そのいくつかに気づいてはいたかもしれませんが、それが自分のイメージにどのように関わっているかは自覚していませんでした。あなたのイメージには、欠点の核心が含まれているかもしれません。しかし、イメージを探す時に自分の欠点を探すべきではありません。無意識は道徳的な態度を好まないからです。現時点で、イメージの剥き出しの構造が意識的になったら、どの欠点がそれに一役買っているのかを理解すべきです。

 イメージの普遍的な要素のひとつは恐れです。特定の恐れが自らの欠点にどのように結びついているかを分析すると同様に、自らの無知が何処にあり、誤った結論にどう至るのかを理解すれば、イメージの解消に向けて、又大きな一歩を踏み出したことになります。

 イメージに適用される一般論がいくつかあります。ひとつは、人間は傷つくことを恐れ、自らの意志に反するものを恐れます。身勝手さとプライドがある為に存在し得るこの恐れの為に、人格はディフェンスを築きます。人は、ある種の態度を取り入れることで、痛み、苦しみ、失望といった人生における恐れが回避できると考えます。ディフェンスを築いても苦しみを避けることはできないだけでなく、実際に苦しみが悪化すると認識できない為、誤解や誤った結論が生じます。人格の未熟で子供っぽい側面である無知なローアセルフには、その防衛策は非常に優れて論理的だと感じられます。それでも、この角度から問題全体を見て、意識的にじっくりと考えてみれば、イメージを構築した時のディフェンス機能にいかに欠陥があったかに気づかずにはいられません。痛みを避けることができなかっただけではなく、長期的に見れば、このイメージがディフェンスを築かなかった場合よりもずっと大きな痛みがもたらされたのです。

 友人の皆さん、この段階まで来たら、この視点からイメージを見ることがとても重要です。自らに問いかけてください。「何故イメージを作ったのか?どんな理由で?何から自分を守りたかったのか?現実ではどうなったのか?この偽りの防衛手段、このイメージがなかったら、私の人生はどのように機能しただろう?」

 答えはいつも次の通りです。痛みを回避する鉄壁の策などありません。痛みを伴わずして人生を歩むことはできません。皆さん全員、このことを知っています。普通の人間は純粋ではない為、痛みはある程度避けられないものです。しかし、痛みを伴う人生を受け入れ、痛みを引き起こすものを理解するよう常に努力し、進んでその痛みと向き合えば、痛みは遥かに少なくなるだけではなく、避けられない痛みも半分以下になるでしょう。皆さん、このことを覚えておいてください。そしてこの角度から、自らの結論、ディフェンス機能、イメージを見てください。「私は何を避けようとしていたのか?それは、どれ位うまくいったのか?」

 次に、痛みについて少し違う角度から考えてみましょう。できるだけ俯瞰して、新鮮な気持ちで考えてみてください。痛みもまた相対的であることを認識するでしょう。痛みへの恐れは、常に痛みそのものより遥かに酷いのです。肉体的な痛みも同じです。抵抗したり筋肉が緊張したりすると、リラックスした状態よりも、切り傷は遥かに痛みます。自らの心や身体をそのようにコントロールして、痛みを感じることなく酷い怪我に耐えられる人々もいます。迫り来る痛みに抵抗せずに身を委ねて、受け入れることを学んだのです。彼らは非常に高次のリラックス状態に在り、通常なら酷く痛むであろうものに最早痛みを感じません。魂の痛みも全く同じです。これとは別に、自分自身と自らのイメージを理解していれば、問題や心配の多くは存在しなくなるでしょう。

 親愛なる友である皆さん、自分自身に責任があると気づくことがこのワークの重要なポイントです。この概念については、多くの誤解を生む可能性があります。まずは、自己責任の概念が神を排除していると考える人が多くいます。彼らは、人生を導く神は存在しており、苦しくてもじっと耐え忍ばなくてはならないと考えるか、無神論者になるかいずれかです。

 大事な皆さん、そのようなことは必要ありません。内なる誤りを見つけ出して罪悪感を感じる限り、自己責任は重荷となります。しかし一度、抵抗や怒りもなく、間違った種類の恥や罪悪感もなく、あらゆる点に関して自分自身でいる勇気を持って、今のありのままの自分を受け入れることによってこの誤りを乗り越えれば、自己責任が皆さんを解放してくれるでしょう。自らの内にある問題、心配、不満、不幸の原因となるものへの理解は、これまでのどんな防衛(偽りの安全)よりもあなたを強くしてくれます。この偽りの安全を他者との関係、観念、歪んだ神への概念、何に求めていたとしても違いはありません。自己の感情、イメージ、習慣的な内なる反応が変化できるようになるずっと前に、強さと自由はあなたに訪れます。それは、自分自身の原因と結果を完全に理解した瞬間にやって来るのです。

 親愛なる皆さん、このことには自己責任が極めて重要です。自ら招いた自由の欠如に対して抵抗しているにも関わらず、何らかの形でそれを避けたいと思わない人は殆どいません。何故、どのように、より楽に見える生き方を選ぶ為に自己責任を放棄し、自らの自由を狭めてきたのかを見つけ出すことによってのみ、この葛藤は解決できます。

 人生に責任を持つことへの反応は個人によって異なります。誰もが、異なる関係において異なる相互作用をする様々な流れ、欠点、資質によって成立しています。その為、同じ基本的な理由があったとしても、ある人は別の人とは全く異なる反応をするかもしれません。しかし、どちらも自己責任から逃れたいという願いが動機となります。内なる人生において自己責任から逃げようとすればする程、更に捕らわれることになります。この連鎖の中で足掻いて、不当だと感じて世界に反発し、自己憐憫に浸りながらも、鎖を断ち切ろうとしないのです。

 自由への第一歩は、自分がどのように、何処で、何故、この依存を自分自身に与えたのかを認識することです。内なる動機を理解し、その動機が避けたいと思っていた以上の苦しみを実際にもたらしていることを理解すれば、あなたは解放されます。ですから暫くの間、今示した角度からイメージ探しに取り組んでください。

 (1) 自己責任: (a) 自ら苦しみを引き起こしている所を見つけ出し、(b) それが出来るだけ変化できるよう、どのようなものかを見つけます。

 (2) 傷つくことを恐れている自分に気づいてください。それが、あらゆる不幸の原因であることを理解してください。この過剰な恐れが、死を恐れるあまりに自殺する人のような振る舞いをさせるのです。友人たちよ、皆さんは自らのイメージでそのようなことをしています。傷つくことを恐れるあまり、皆さんは、防御せねば降りかかると想像する痛み以上の不必要な痛みを生じる形を魂の中に創り出します。

 友よ、痛みは受け入れなくてはなりません。何故なら、それは神が与えたものではなく、自分が自分に与えたものだからです。しかし、そのことが、自分自身や、その状態を生み出した賢明なる法則に反旗を翻すことに繋がってはなりません。自分は不完全であること、その不完全さの程度に応じて苦しむことを受け入れる必要があります。浄化に向けて努力をすればする程、苦しみは軽減されます。他の条件としては、一夜にして起こる奇跡を期待しないことです。この段階にいる限り、痛みに向き合い、受け入れることから学ぶのだと理解してください。よりリラックスして自分自身や自らの苦しみを捉え、原因を見つけ出し、それを取り除くことができれば、より迅速に苦しみを乗り越えられます。そうすれば、痛みに対して適切な態度が取れるでしょう。痛みを受け入れること。これがマゾキズムや身がすくむような抵抗の両方を避ける唯一の健全な方法です。そして、痛みを受け入れることでのみ、ようやく痛みが終わるのです。痛みを完全に受け入れる時、あなたはそれを通り抜けることになります。通り抜けることによってのみ、それを超えることができます。この世界の偉大な哲学者達は皆、痛みと喜びは絶対的なものにおいてひとつになると教えています。私は、その状態に至る方法を示しているのです。

 痛みを避けることでは、喜びを得ることはできません。しかし、どのようにして自らが痛みを生み出したのかを十分に理解し、その痛みを通り抜ければ、喜びが得られるのは確かです。誤解を避ける為にもう一度強調します。痛みを受入れたとしても、この浄化の道において痛みを避ける力を否定するものではありません。全く逆です。しかし、痛みに表面的に対処することは不可能なのです。痛みは、魂の奥にまで入り込む、懸命で忍耐強いワークを求めます。このワークは、皆さんの最善を要求します。何故なら、それが人生の最善を受け取る唯一の方法だからです。

 それでは、親愛なる友人達、質問をどうぞ。

 質問:あなたは、病気の原因は自らの内にあると何度も言いました。このテーマについて瞑想していますが理解できません。例えば、骨の奇形のような…

 回答:カルマの病気とそうではない病気とは区別せねばなりません。これは肉体的な病気のみならず、人生におけるあらゆる困難に当てはまります。霊的に話せば、困難とは常に病気と言えます。因果関係の細かい仕組みは、カルマにおいても、ひとつの人生においても、同じように機能します。どちらの場合も、否定的な原因を取り除くのはあなた次第なのです。

 しかし、今生では克服できない困難もあります。ただ耐えねばならないというような。それは、原因を取り除くことができないという意味ではありません。原因を取り除くことは、いつかは為されなければなりませんが、いずれにせよ、原因からの結果は担われねばなりません。

 その他、カルマ以外から来る結果は取り除くことができます。カルマの負債は、単発の出来事として現れます。取り除ける結果は、大抵の場合、一定のパターンで絶え間なく繰り返されます。厳密に言えば、その原因は前世に起因するものではないからカルマ以外だという話でもありません。しかし、あなたは今生で出発点を見つけ、このワークを通して人生を変え、葛藤を取り除くことができます。更に、皆さんはそのことを知る必要さえありません。どんな悪影響もいずれにせよ自ら解消せねばならないので実際には全く同じであり、カルマ的な借りであるのか、前生から持ち込んだ種が今生で芽を出したことが原因になったのかに関わらず、同じ精神で自己浄化に取り組む必要があります。

 特定の状態がカルマ起因であるという確信的な知識は、原因が何であろうと、必要なワークを行うことに対して、あなたを怠惰にするだけでしょう。

 友人の皆さんの中で、変えられないカルマ的な境遇にある人は殆どいないと断言できます。この部屋には大勢の人がいますが、誰一人として完全に幸せな人はいません。意識的な「これの代わりにあれが欲しい」といった顕著な変化ではなかったとしても、何らかの変化をも望まない人は誰ひとりいないでしょう。おそらく、不幸、不安、不調和、恐れ、不安、孤独、切望を感じているかもしれません。この言葉を読む人々を含めた皆さんは全員、変えようと思えば変えられる力を持っています。皆さんの無意識で未熟な性質が、努力のない変化を望むような理不尽なものでなければ、もっと遠くに進んでいたことでしょう。

 この入口で未だ葛藤している全ての人々への助言です。以下のように、自らに問いかけてください。「私が本当に欲しいものは何だろう?私の疑念や優柔不断は、一体何を意味しているのだろうか?不幸に抵抗し、変化を望んでいるにも関わらず、それを自らに与えようとはしないということなのか?」このような抵抗がある人は皆、この問いを立てるべきです。

 これに答えられれば、最初の勝利を獲得したことになります。何故なら、その時あなたは、心の中にどんな理不尽で幼稚な一面が生きているのかに気づきます。それこそ、実際に望んでいるものなのです。そうです、友人の皆さん。それが、皆さんが望むことです。皆さんの為にワークが済まされており、天国の愛する神が変化を与えてくれるということです。

 質問:私の生徒の一人が尋ねたのですが、一般知識、科学、宇宙、顕在している世界についての知識と、感情的な自己認識の内、より重要なものはどちらですか?明らかに、感情的な自己認識がより重要ですが、何らかの形で科学を軽視する霊的な生き方を志す人々に言いたいことはありますか?彼らは、霊的成長だけが、顕在の世界の認識と一体化しないままで、最高の善をもたらすと主張します。

 回答:主に霊的成長に集中することに呼びかけられ、そうすることで使命を果たす人々は多くいます。それについては疑いの余地はありません。確かに、これは全ての人間にとって非常に重要なことです。しかし、自分の使命を他者に転嫁したり、一般的な原則にしたりするのは間違いです。

 普遍的な力の展開は、多種多様で変化に富んでいます。何も制限してはいけません。多くの場合、ある人は芸術、ある人は科学に、といったように様々な役割があります。ワンネスは、最終的に創造を通したこのような多様性から生じる違いありません。理想的なケースは、科学者、芸術家、最終的なワンネスに貢献する者が皆、特定の才能や役割に取り組むのと同時に、自らの霊的成長を続けることです。これは確かに実行可能です。実際、浄化と自己啓発が結びつけば、仕事の質や創造性は何倍にも高まります。しかし、まだそこまで進歩していない才能のある人が多くいます。彼らはある方向での素晴らしい才能で、最終的には霊的な力の展開に貢献するかもしれません。すぐにその繋がりが常にすぐ発見されるとは限りませんが。一時的に科学がどれだけ濫用されようとも、回り道をしながら科学の進歩は自己認識と同じ霊的現実をもたらす筈です。それ故、全員に自らの傾向を主張するのは間違っています。

 ある人は霊的成長と科学を結びつけ、ある人は芸術と結びつけ、ある人は台所や自然の中で結びつけるというように。ずっと後の段階で、これらは全てひとつとなります。しかし、まず自分自身とひとつでなければ、このワンネスは決して達成できません。

「ひとつになる」という表現をよく耳にするでしょう。実践において、どのようにそのようになれるでしょう?イメージを探すワークによってです。自分のイメージを見つけると、今どれだけ「ひとつ」でないか、ずっと簡単に理解できます。そうすれば、自らの為に考え出した合理化によって、どれだけあなたの知性や意識の層が、自らの良い動機を納得させられているのかが分かります。しかし、より深く掘り下げると、自らの反応や願望は、全く異なる方向を向いていることに気づくでしょう。つまり、皆さんはいくつかの点で分裂してい流のです。

 このワークでしかできないことですが、自らの内でひとつになれないのであれば、後になってからも、全ての神聖なる顕現の中でどうしてひとつになり得るでしょう?まず最初にすべきことがあります。

 今、この部屋にはいくつかの思考が起こっています。「なぜこの方法でしか浄化できないのか?イメージについて何も知らない人々も、同じように成長している。」友よ、その通りです。しかし、究極的には常にここに戻ります。歴史上どの時代でも、地球上のどこに住んでいようとも、どんな名前で呼ばれていようと、考え方は常に同じです。つまり、どのようにして無意識の内で、意識的なマインドから逸脱するのかを見つけ出すことです。

 今この素晴らしい機会を利用しない人は、後日このワークから逃れられません。もっとも、スピリットの世界でも同じような浄化を行うことは可能です。また、その存在が人生に教えられることで徐々に解消されるまで、同じイメージで転生に次ぐ転生を繰り返すことも可能です。しかし、このワークに意欲的に取り組むことで、どれだけ自分が救われるのかを考えてください。自らのイメージのいくつかを理解した人だけが、学ばねばならないことを学ぶまでどれだけかかったであろうことか、そしてこの探求で何が学べるのかを感じとることができます。

 皆さんは常に過去の転生を知ることばかりに気を取られています。瞑想して、未来について考える方が、もっと役に立つでしょう。自らのイメージを知り、見つけ、本当に理解することで、この素晴らしい機会を利用しなければ、未来の転生がどうなり得るのかを良く理解できます。

 質問:健在的な知識をほとんど持たなくても、最高の領域に達することができる人間はいるのでしょうか?

 回答:勿論です!成長を助け役に立たない限り、博識であることは自己認識と何の関係もありません。博識になること自体が目的ならば、霊的発達が進むことはありません。勿論、この道では一般的な知性を必要としますが、それは全く別のことです。博識であることは、時として利点ではなく障害となります。ごまかしや合理化、更には逃避として使われるかもしれません。

 質問:また、博識はモナド(哲学用語:単子)に留まりません。言い換えると、続かない可能性があります。それは本当ですか?

 回答:その通りです。表面的なものは何であっても続きません。あなたの存在のより深くに届くものだけが残ります。だからこそ、良くあることですが、それがより高い倫理観に従っている場合には、表面的で外的な知識を自分の感情と統合することがとても重要なのです。

 これがこの道の要点です。皆さんが死ぬ時には、肉体が崩壊するだけではなく、その後に外側のサトルボディーも崩壊することはご存知ですね。そのどちらも、真の人格を構成するものではありません。これらの外側の層は、この地球上での役割を果たす為に必要で、それは内側の人格を引き出すものでなくてはなりません。内側のサトルボディーは残ります。これがまさに、自らの感情を掘り進めることで到達する層なのです。

 実体はある程度の知識と共に生まれ変わるかもしれません。現在の環境が、更なる知識を与えてくれるかもしれません。それをどうするかは皆さん次第です。表面的なレベルで使いますか?その場合、外側の神秘体が崩壊すると、この知識は失われます。しかし、成長の目的で、この新しい外的な知識と真の自己を統合する為に使えば、あなたがこの環境で吸収する機会に恵まれた知識は、唯一価値のある用途を果たしたことになります。

 ここに集う私の親愛なる人間の兄弟姉妹達の皆さん、皆さんに降り注ぐこの神聖なる祝福の流れを受け取り、吸収してください。外に出て、牢獄の壁を破ることができるよう、この祝福が皆さんを強めるがままにしてください。進んでそれを行い、それから神の元に向かってください。しかし、神が皆さんの代わりにそれを行ってくれると期待しないように。神は愛と救いの光を示します。この探求に「はい」と答えた人は、勇敢で気高い人です。更に多くの親愛なる友人達が、この敷居をくぐり、暗いトンネルを後にすることができますように。愛の喜びに満ちた祝福が皆さんを包み込み、浸透しますように。親愛なるものよ、平和の内に。神の内にありなさい。


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