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Pathwork in Japan
Pathwork Guide Lecture No. 41 イメージ:イメージがもたらすダメージ IMAGES: THE DAMAGE THEY DO
UNEDITED版 1958年12月5日
我が友である皆さん、神の名においてご挨拶申し上げます。いつもの通り皆さんに祝福をもたらしたいと思います。この時間が恵まれたものでありますように。人類のハートにはあまりにもたくさんの恐怖、恥、そして分離が存在しています。このことに我々は都度気づいています。これらの恐れや恥は人格が認識することができないほどに隠され、押しやられている場合が多く、そして人格は漠然と継続的かつ痛烈な痛みにさいなまれます。皆がこのように苦しむのを見ることがどれだけ悲しいことであるか。特に、この苦しみがまったく不必要であるがゆえに悲しく感じます。皆さん、こういった苦しみは幻でしかないのです。あなた方が休むことなく隠している恐れや恥には現実が伴っていないのです。にもかかわらず、これらはあなたの人生を台無しにしています。本来であれば楽しみそして霊的な力と成長を築きあげていくことのできる人生を台無しにしているのです。
人間の魂の内にあるイメージについてのシリーズを引き続き行いたいと思います。なぜならイメージ持ち合わせていない人間などいないからです(幼いころに形作られた内なる印象の上に間違った結論が引き寄せられます。こういった内なる印象のことを我々はイメージと呼んでいます)イメージはあなた方の苦しみの責任を負うものであり、あなた方が10年また10年と、もしくは転生から転生へと持ち越し続けている不必要な幻の責任を負うものでもあります。あなた方は皆神の光へ、そしてあなた自身を繋いでいる鎖からの解放へと努力をしています。しかしあまりにもたくさんの人がこの解放を外的な手段、つまり私たちの言うところの理知的な知恵または外的な出来事に求めています。しかしこのように事は成し遂げることはできないのです。あなたが得ようと努力をしている自由を手にする唯一の方法は、自分自身を掘り下げることです。このようにして暗闇のトンネルをくぐり抜け、真の独立という光に遭遇します。このトンネルを通過する間、あなた自身の闇の責任は自分にあるのだと気づくことでしょう。そしてこれは容易な経験ではありません。しかしこうして初めてあなたは本物の独立を手にすることができます。ですから解放を外側に求めてはいけません。これは何の役にも立たないのです。自分自身のイメージを解消できていない人は、イメージという網の目に捕まっている状態です。あなた自身が作り出した間違いや間違った結論のドラマを常に再び演じているのです。気づかぬ間にあなたはこのドラマに捕まっており、人生を通してひたすらに繰り返しているのです。実際には以前にもお話ししましたが、いくつもの人生を通して繰り返しています。あなた自身の間違った結論が導いていく先へと、そしてあなたに向かって引き寄せられるドラマを繰り返しています。イメージの探求をまだ始めていない人達全員に強調してもしきれないのは、この探求は価値あるものだということです!イメージを見つけることは人生で唯一意味のあることで、そして安堵をもたらす唯一の方法です。このような経験をまだしたことのない皆さんには、私がお祝いをお伝えしたいと思っているその他の皆さんから話を聞くことをお勧めいたします。そしてイメージ探しの努力が多少でも報われているこのような人々は、今夜この会場に多数出席しています。この探求がどのようなものなのか、道をすでに歩んでいる人々から学ぶこと以上に優れた証はありません。もしかすると、どのように始めたらよいのかわからないために、探求への抵抗を感じているのかもしれません。もしかするとアドバイスや助けを求めるための勇気が足りないのかもしれません。もしそうであるならば、あなたがとてもよく知っていて、この努力に対してすでに高い割合で成功している友人から話を聞くことから始めるのが良いかもしれません。イメージ探しをする人にとってしばらくの間大混乱を経験するのは避けられないことであり、また気が進まないこともあれば抵抗を感じることもあるでしょう。しかしこれらの感覚はあなた自身が自分の内に築き上げたものであり、あなたがどのような形でこれらの感覚を意識の上では正当化していようとも、苦しみを経験し、痛みの真の意味を理解し、間違った防衛のメカニズムを理解し、隠された意義の理解なしに取り去ることはできません。あなたがこの現実で抱いている他者への疑いや不信感は、あなた自身に対する不信感に他なりません。このことを忘れないでください。そして、なぜ自分自身を信頼していないのか、理由を見つけてください。
すべての根源にあるのは、あなた自身が自らに設定した基準に達していないと感じていること、そしてその事実を受け入れられないということにあると気づくでしょう。つまり、はじめのステップはシンプルで、あなたが現在とっている形が何であれ、自分自身を受け入れるということです。頻繁にこのことをお伝えしているのは承知ですが、この真実をあなたという存在にその都度また別のレベルで当てはめていく必要があります。もしもあなたの探求が成功しているのであれば、自分が実際以上になりたいと望む傾向があることに気づくでしょう。そしてこのためにあなたは不安定さを経験するのです。このために他者に対して懐疑的なのです。「自分を実際以上に見せたいと思っているということは、私は自分に誠実ではないということであり、つまり自分は信頼に値する人間ではないということだ。他者もまたきっと、私と同じだろう」と無意識のうちに理由づけをします。こういった自己認識が意識的なものでないとしても、人は常に自分自身に基づいて他者を評価します。これらの内なる理由づけを外に開いた形にできたとき、この理由づけのプロセスすべてを認識することができたとき、これはあなたにとっての大きな謎解きとなることでしょう。この謎解きがとても理にかなったものだからといって、自分の中で起こっているのはこのことなのだと考えるだけではじゅうぶんではありません。理由づけを発見し、感じ、体験し、個人的なケースでどのように作用しているかを知ることは必須です。この理由づけがどこに適用されているのか、どのような場合に今あなたが反応したまさにその反応を起こすのか。付け加える必要はないとは思いますが、始めのうちはこのような理由づけを自分の内に発見することに消極的になるでしょう。他者を拒み信頼せず、じゅうぶんな合理性で固めた論拠によってこの不信感を正当化する方が簡単でより快適に映るからです。ただし、本物の真実を求める探求者の心意気でもって、一度でも真実の手前この抵抗を打ち破ることができれば「私の内で本当に起こっていることは何だろう?」と問いかけることができれば、どんなに真実が最初不快なものに映ったとしても、それ自体がどれだけ喜ばしいものでなかったとしても、自分自身の真実と向かい合った者にのみ与えられる安堵と自由を感じることができるでしょう。程度の差こそあれ、自分の内に自己卑下が隠されている限りは存在している自尊心の欠如は自動的に消え去ります。そしてこれは、あなたの内なる真実と向かい合う勇気がもてたという単にそれだけのことで、内なる在り方がまだ変容する以前にも起こり得ます。
理解するべき大切なことはたくさんありますが、イメージにまつわることやイメージを探す際に考えるべきことについて今夜もう少しお話ししておきたいと思います。大抵の場合あなたは、なぜ間違った結論を形作るための土台となる印象を持ち続けてきたのか理解していません。あなたの理知やマインドは全体的に成長してきました。経験や、学んだこと、そして環境、さらには人生そのものによって変化を遂げてきました。しかしあなたのイメージがまだ生きてそこにある限り、あなたは変化していないのです。幼少期のどこかの時点であなたは何かしらショックな経験をしました。このショックは、今現在のあなたが想像するようなショックとして経験されたとは限りません。あなたが今ショックについて考えるとき、例えば事故のようなとても強くそして予測のできない衝撃的で突然の経験を思い浮かべることでしょう。これは特に子供にいえることですが、自分が愛着を抱き大切に思ってきた期待と事実が反していると、徐々に時間をかけて発見していく形のショックもあるのです。たとえば子供が両親は完璧であり全能であるという考えを持っているとします。そしてこれが違うのだという気づきがこの子供にもたらされたとします。これはこの子供にとってショックとして残りますが、この気づきは大抵の場合一連の出来事を通してもたらされ、新しい発見が新たな印象として以前作られた印象の上に刻み込まれるまで続きます。両親や世界に対して抱いていた信念が本当ではないと気づいたとき、その子供は安定を失います。子供は恐れを抱きます。子供は発見したことを好まず、この不快な発見を無意識に追いやります。そして同時にこの発見に罪悪感を感じ、恐怖を感じることに対して防衛を築きます。気づきが突然に起こったとしても、また時間をかけて起こったとしても、ショックに変わりはありません。皆さんはショックが麻痺を起こすことをご存知だと思います。あなたの体そして神経やマインドは麻痺し、ときには一時的に意識を失う、またはその他の症状を引き起こします。つまり子供は両親、世界または人生は自分が思い描いた通りではないと知ることからショックを経験するのです。ショックを生み出した印象が客観的に見て正しくても、間違っていても、この子供が導き出した精いっぱいの決断は正しいものではないと言えるでしょう。なぜなら子供は一般化する傾向があり、他のすべての選択肢に自らの経験を投影するからです。子供の両親は彼らの世界そのものであり、宇宙なのです。ですから子供がショックの後で出した結論は他のすべての人、そして人生全体に当てはめられます。これがイメージを作り出す間違った結論です。子供にとっての規則正しい世界やコンセプトが破壊されるときイメージが生み出されます。間違った結論は第一に一般化することから生じます。現実にはすべての人が同じ欠点の両親を持ったわけではなく、ある子供がある環境で抱いた発見と同じ状況に皆があるわけではありません。第二に、世界に対して限定的な理解しか持ち合わせていない子供がもつ防衛のメカニズムは間違っており、さらに、幼少期に経験した実際の環境を離れて他の人や場面に同じメカニズムを当てはめたとき、この間違いはより強固になります。皆さん、こうしてイメージは作り出されるのです。しかし自分の感情、反応、内なる意志そして自らが導き出した結論を即座に思い出すことはできません。先程お話しした理由から、理由づけの工程全体を隠す必要性を感じ、また両親とはこうあるべきと思い描いていた姿と実際の両親が違っていることに恥ずかしさを感じるためにこれらの感覚を思い出すことができません。子供の考えでは、自分における例は自分だけにあてはまるものであると推測し、他の皆は完璧な両親と家の環境を持ち、自分だけが特殊な経験をしていると思い込みます。自分自身、そしてもちろん両親や近しい人皆から隠さなければならないと考えます。この恥ずかしさは自分の例が自分にのみ当てはまるものであるという間違った考えの上に築き上げられたものです。そしてこれが元ですべての考えや感情のプロセスを隠し去ることになるのです。そして隠されたままであることによって、人格のこの一部分は残りの全体と共に成長することができず、変化し調整し、そしてより良きものを学んでいくことができません。なぜなら光に当たっているもののみが成長できるからです。もしもある植物が根に押し付けられ土の中に残されたままであったならば、この植物は成長することができません。これはすべての感情的な動きや傾向にとっても同じことです。イメージから生まれた結論が、成長を遂げている他の知性と釣り合わなくとも驚くにはあたりません。
同じことは動物にもいえます。例えば犬を例に挙げてみましょう。ある犬は毎回食物を受け取るときに飼い主が発する音を聞くとします。音を聞くたびに食物が提供される経験をこの犬がした場合、食物が与えられるのだと瞬時に理解し、そして反応することでしょう。音を聞けば自動的に所定の場所につくでしょう。つまりこの犬はイメージを形成したことになります。この場合、ショックによってイメージが形成されたわけではありませんが一定の習慣によって、印象や結論が形作られたことになります。また次のような例もあげてみましょう。ある犬が火で火傷をして怪我をしたとします。その後この犬は火を見るたびに怖がることになり、特にこれは一度きりでなく二度または複数の経験が重なった場合にいえることです。火は痛いものであるというイメージが形成され、そこから導き出された結論は、すべての火は痛みをもたらす、というものです。しかし同時に他の犬の場合では、火は心地良いものであると経験される可能性もあるのです。火が灯されるとき、この犬は火のそばで飼い主と共にあり、飼い主はこの犬を撫で、犬と遊ぶ時間があったかもしれません。するとこの犬は火にまつわるイメージを持ちません。動物であっても、同じ工程が当てはまるのです。もしも当てはまらないのであれば、動物を訓練することはできません。子供にとっても似たことです。乳幼児またはとても幼い子供は最も未発達な感情しか知りません。良いまたは悪いということを知っているだけです。そして自分の意志が通ったときに感じる愛と喜びを知っています。そして意志が通らなかったときの恨みそして痛みを知っています。これほどにシンプルなのです。人生のもっと後になって初めて自分自身の痛みや快感以外の客観的な基準で評価することを学びます。どれだけ人格の他の部分が進歩し学んでいたとしても、人の中でイメージが生き続けている限り子供じみた工程が継続されることになります。人の中の成長した人格は、理知的な領域では成熟した判断をする能力がありますし、イメージの影響によって見解が邪魔されないいくつかの場合においては感情的な領域に至っても成熟した判断をできる場合があります。しかしゆっくりであれ瞬間的であれ、ショックからもたらされた印象が人の魂に影響を与えている場合には、人は経験を意識的に消化することができず、考え方が子供じみたものとして維持されることになります。イメージと結果が形作られ無意識へと押しやられた時の状態に考え方は止まります。皆さんも覚えているかと思いますが、イメージに関するレクチャーを始めるよりもずっと前、私はあなた方に「感情的な成熟」についてお話ししたと思います。成熟した人の中に残る未成熟な部分がどのようなプロセスを経るのか、以前よりもより良く理解できるのではないでしょうか。実際この未成熟な部分は感情的そして無意識的に継続して、子供としての自分と同じ推測をし続けます。これはイメージが意識の上に持ち上がるまで続きます。つまりあなたの人格の大部分と一致しない内なる結論や間違った理由づけを発見することがどのように可能なのか、これで良くお分かりいただけたと思います。あなたの内なる感情的な理由づけがどれだけ未発達であるかに気づくことは、あなたにとって衝撃的なことでしょう。最低でもしばらくはそうだと思います。私がこれまでに説明してきたように、この発見を光の中で考えてみてください。あなたの中のいくつかの部分は無意識に取り残され、そしてその結果成長することができなかっただけなのだと理解することができるのではないでしょうか。あなたの大部分が学んできたことを吸収せずに、あなたの内側でいまだに生き続けている小さな子供を見つけたとしても、驚くにあたりません。このような理由からイメージとは、理知的な記憶をたどるだけでなく、感情的に自らの子供時代を改めて生き直し、不合理な無意識の層を貫通することなく見つけることはできないのです。これを可能にするいくつかの手順を踏まない限り、イメージ探しはまったく不可能でしょう。これまでイメージを見つけるのを可能にするいくつかのテクニックや方法を皆さんにご提案してきたのはこのためです。あなたのイメージが出す結論はその限界の中でのみ筋が通ったものであると気づくでしょう。無意識に存在している理由づけは間違ってはいるものの、その能力に驚くかもしれません。この理由づけはあなたの内側で生き続けている、だいたい10歳ころまでの子供が抱くものなのだと考えてみてください。そしてそのころあなたはこのように理由づけを行っていたのです。
イメージが悲劇となるのは、イメージが力を持ってしまうからです。イメージはイメージが生み出した結論に基づいてあなたに見てそして気づくように促します。このようにして後の人生でイメージは常に支えられそして強められることになります。イメージが出す結論はあなたの成熟した部分が人生に求める欲望や目標と相反することとなり、痛みを伴う矛盾を生み出すのみならず、あなたが意識的に設定している目標や人生での現実との間に隠された問題や葛藤を生み出します。感情や考えは、形や現実などではなく、出来事や人そして経験をあなたに引き寄せ、磁場を作ってなどいないとあなたが信じていたとしても、このことは理解していただけるのではないかと思います。感情や複雑な思考が無意識であればあるほど、イメージはその強さを増します。なぜなら無意識とはあなたのコントロールから外れたものであり、あなたの現実や意識に順応することはできず、あなたが意識的に抱く望みと相反するものだからです。イメージは柔軟性に欠け、こわばったものです。こうしてイメージやイメージが出す結論はあなたが意識的には望んでいない状況にあなたを繰り返し運んでいくのです。しかしながらイメージが出す結論は、このような状況を必要とします。皆さん、これらのすべてを理解することは非常に大切です。この探求に着手している皆さんは私が今お伝えしている内容をよく理解できるのではないでしょうか。他の方々にとっては理解が難しいでしょう。しかしながらこの道をいずれ歩む人にとって今私がお話ししている言葉は、たとえ後々になったとしても、有効となることでしょう。さて、こわばりがあり、頑固な性質を持ったイメージは次のようなことを引き起こします。つまり、自分の望みと一致した人生を求めるようになり、事が思い通りに進まなかったとき、あなたの内で成長をとどめている特定の部分が赤ん坊のように足を蹴り叫ぶのです。イメージが存在するところの未成熟さとはこのようなものです。成熟した存在は人生とは人生と共に進むことによってのみコントロールができることを知っており、これは人生があなたの要求に従うのではなく、自分自身が人生に従い順応していくのだと知っているということです。イメージが存在しているところでは、順応はなく、要求が満たされなかったときあなたは内側で癇癪を起します。あなたは要求通りのものを手にするかもしれませんが同時に、無意識に要求した事柄も受け取ることになります。ただしこの無意識の要求が存在したことをあなたは知らないのです。あなたはある特定のことを求め、それがどのようなものであるにしろ人生に特定の在り方を求めます。そしてこれは利益のために望むわけで、子供の頃にはこの要求は好都合であると考えたのです。しかし、あなたは長所には短所も同時に存在することを無視してきており、そして今でもそこから目を背けているのです。つまり、あなたが内側で泣き、そして要求する願いは、大抵の場合外面的な長所を手に入れると同時に短所も手に入れることになります。その上で、要求したという事実を意識の上では無視し、短所に関しては好ましく感じません。そして人生があなたを不当に扱ったと感じるのです。あなたがイメージを探求し気づくにあたってこれらすべてを検討することは非常に大切です。皆さん、これはあなたたちにとって大きな助けとなることでしょう。イメージ探しを実際に体験しないのであれば、これはただの言葉となってしまいますが、この探求をすでに始めている皆さんはこれを非常に建設的に使うことができるのではないでしょうか。そして今お話ししたような方法でこの人が考えを深めるならば、これらの言葉はより深く、より深遠な理解をもたらし、そしてさらなる一歩を踏み出すための助けとなることでしょう。
イメージへの気づきに近づいたすべての人は、以前にもお話ししましたが、強い恥を感じます。そして大抵の場合この恥は、あなたが突然ひどくとんでもない、またはいまわしいことを発見したから起こるわけではありません。違うのです。あなたは馬鹿げたようなことに対してより恥を感じることがあるのです。今あなたが恥ずかしいと感じている理屈は、イメージが形作られた子供のころの理由づけや考える能力に基づいて作られたものだと理解することです。相対的に見たときにのみこれは馬鹿げたことなのです。そして現在のあなた、頭の良い人間としてのあなたは、このような馬鹿げた反応が実際に自分の中に存在していることを受け入れることが難しいと感じるのです。そして今この時点であなたは、これが自分自身の推論だったのだと気づき、今まで自分にとってはこれが結論だったのだと気づきます。そしてこれがたとえ水面下であったにせよ、自分自身の考えや反応の一部であったということに今あなたは恥ずかしさを覚えます。この一部分において理屈づけのプロセスは潜在意識という暗闇の中に置き去りとなり、その結果子供のまま成長せずにとどまっているのだと考えることで、自分の状態を受け入れやすくすることができます。そして同時にあなたが知っている人のうち誰をとっても、イメージやイメージからくる矛盾を持ち合わせない人などいないと気づくことです。4歳から10歳くらいでしょうか、それくらいの子供に置き換えてみれば、このような理由づけにも驚かないのではなかと思います。これに気づくことができればあなたの恥の気持ちを乗り越えることができることでしょう。あなただけではないのだと気づいてください。ほとんどの人はこれに気づかないために自分自身のイメージを隠してしまいます。あなたは自己認識という優れた利点を持ち合わせているのであり、他の人たちが知らない自分自身の「愚かさ」を知っているということなのです。皆さん、この言葉はたしかに強く聞こえるかもしれません。しかし、あなたの意識的な思考、魂、そして理知と比べて発見することとなるこれらの部分はやはり愚かなのです。
イメージの探求を始めたばかりのころは、内なる葛藤、問題、そして間違った結論などにより思いを巡らすことでしょう。あなたは自分自身の反応を省みて、間違った感情を改めて経験し、そして理論的に正しいと自らが思っている原理と比較するでしょう。そしてこれはもちろんそうあるべきなのです。ただしこれらすべてをよく理解した後にはワークをさらに進めなければならず、そしてそこには多くの成されなければならないワークがあるのです。あなたはこのことを知っているはずです。どのような点でイメージをパターンからパターンへと何度も行動化しているのかに気づくだけでなく、あなたの人生で起こるすべての事を見直し始めなければなりません。例えば一見あなたがしたこととはまったく関係のない出来事、自分の周りで起こった事などです。あなたの中の常識や倫理的な意志は人生で経験したさまざまな出来事を例に挙げるでしょう。「私は一体この出来事と何の関係があるのだろうか?」「私は指一本触れてない。向こうからやってきたのだ」しかしイメージを見つけ出した後では、すべての出来事は、どれだけその出来事があなたのコントロールの範疇を超えていたとしても、あなた自身によって呼び起こされたものだと理解することになるでしょう。初めてこのことを発見した瞬間は、衝撃を受けるかもしれませんが、いつもそうとは限りません。この初めての気づきの瞬間に、すでに安心を感じることの方が多いでしょう。もしも最初の瞬間には一見不合理で信じられないと感じたとしても、この安心は必ず次にやってくるはずです。こうなると、あなたは自分自身のイメージと、完全に偶然と思っていた一見不定期に起こる出来事の間にはっきりとした繋がりを見てとるようになるでしょう。あなた自身が自分の人生をどのように管理してきたか理解したその瞬間に、そして今までは被害者だと思ってきた出来事をあなた自身が起こしていたと理解したその瞬間に、あなたは大嵐の大洋に浮かぶ風に運び去られ漂う小さなボートではないのだと、はっきりと理解することでしょう。あなたは人生に不正などないのだと気づき、この気づきはあなたを強くそして安全にすることでしょう。この気づきと、自己責任という真実、そして法則を自分自身で証明するというただそれだけのことであなたは成熟した存在となることでしょう。無意識の欲望、傾向、そして態度が今まであなたの人生を征服してきたのだと理解するでしょう。しかしたくさんのことが意識的になった今、あなたは意識的に自分自身の人生をコントロールし、征服し、導くことができるようになっています。つまり自分自身の船の船長となるのです。このようにして、我が友よ、あなたは喜びと強さと共に人生に向かい合っていくことになるのです。強い確信の気持ちを抱くこととなるでしょう。あなたにとって初めて足の下にしっかりとした地面があるように感じることでしょう。
皆さん、この題と関連した質問がいくつかあると思います。
質問:イメージとコンプレックスはどのように結びついていますか?
回答:コンプレックスとはイメージの結果、または症状です。コンプレックスとは本来の意味をごまかすために顕在化したものです。例えばある人が知性の欠陥というコンプレックスを持っていたとします。これは表面に現れた形です。これはこの人が自分自身に対して知っていると思っている部分です。実際にはこの人はコンプレックスの下にまったく別の自己卑下の感情を隠し持っています。多分このレクチャーの始めに触れた話ですが、この人は自分自身に忠実でないと知っていて、実際の自分より優れていたいと思っています。コンプレックスはもちろんイメージと繋がっています。イメージの一部分なのです。コンプレックスが存在していることを伝えるメッセージなのです。自分、そして他者の中のコンプレックスに気づくことは簡単です。人の魂の中でイメージは硬い形として見て取ることができます。イメージを持ち合わせていない健康的な魂は我々の前に光り輝く姿として現れ、そしてこれは宇宙のように常に動きの中にあります。すべては柔軟で流れています。宇宙全体を流れ、人の魂を貫く神聖な力は、その魂が持つ性質や特徴、そして個人的な傾向と調和する形で多色の光彩の中に流れています。しかしイメージが存在するところでは、人の魂の力は固まり、締め付けられ、捻じれ、こわばり続けてしまいます。魂が蘇るために必要とする宇宙の健康的で美しい強さと力は、魂を貫くことができず、活気づけることができなくなってしまいます。この力は魂の周りを回らなくてはならなくなり、そしてこれが不調和を生み出すのです。皆さんご存知だとは思いますが、すべての性質はそれに対応する宇宙の強さと対となる強靭さを持っています。すべての欠点は強さが捻じれたものです。コンプレックスも強さが捻じれたものではありますが、表面にシンプルな形で現れる欠点とはまた違った捻じれ方をします。コンプレックスとはイメージから生まれたものなのです。私が説明しようとしていることが視覚化できるでしょうか?あなた方の中にアーティストの方がいらっしゃると思いますが、もしかするとその方はこのイメージを絵に描こうと思いつくかもしれません。イメージの周り、その外側ではこれらの多色の宇宙の力が美しく調和された動きの中で流れています。同時にイメージが存在する場所ではこれらの動きは淀み、鬱血し、何か固まったものとしてそこにあるのです。そしてこのイメージから尖って捻じれた力が出現します。これがコンプレックスです。
質問:あなたはイメージとは一般的なものであり、皆が持っているとおっしゃいます。なぜ我々はイメージを持たなくてはならないのでしょうか?
回答:持たなくてはならないということではないのです。あなた方がイメージを作り出しているのです。
質問 成長のためでしょうか?
回答:いいえ、成長のためではありません。イメージは無知から生まれます。自己中心的な態度とプライドから生まれるのです。落ち度がもたらすすべてを、自らが選んでそうしているのです。
質問:私は今あなたがおっしゃったことを正しく理解できているでしょうか。私達が本当に何も手出しできないと感じる出来事すべては、イメージが原因で生み出されたということですか?
回答:あなたは正しく理解していますよ。ただし以前にもお伝えしましたが、確かひとつ前のレクチャーだったと思いますが、確実に前世のカが働いている場合は別です。しかしそれでも原理はまったく同じで、その原理とは、自分が撒いた種だということです。ただしこの場合は前の人生で種蒔きを行ったわけで、今回刈り取っているというだけのことです。これに関しては一度きりの出来事であり厳密にはイメージとは関係のないことかもしれませんが、しかし皆さん、このような場合でもイメージの中に根本を見つけることができます。なぜなら清算されていないカルマがあるということは、その根本があなたの内側にまだ存在していることを示しているからです。もしもカルマが清算されているのであれば、根はもう存在していないはずです。前世で死に至ることになった同じ欠点や傾向を今でも持っているかもしれないのですが、今回の人生ではあなたが成長を遂げているためにもうそこまで行動化せずに済んでいるのかもしれません。しかし同じ根がまだ存在しています。なぜならそうでなければあなたに今あるカルマは存在しないはずだからです。その根はあなたの魂の深い部分で見つけることができ、イメージにも編み込まれています。
質問 つまり、カルマとイメージは悪循環を生み出しているということでしょうか?
回答:もちろんです。イメージについて学んだ今、もう一度少し前に私が行った誕生についてのレクチャーを読み返していただければ、仕組みを理解することができると思います。当時私が説明したことを覚えていらっしゃるかもしれません。魂が人生の準備をしているとき、ある特定の問題が流動的な体のより表面の部分に残されます。そしてこの問題に基づいて両親、国、人生の条件が選ばれ、そうすることでイメージを抱えることになります。そしてもしもあなたがそう選択するならば、このイメージに意識的になることができるのです。つまりカルマとイメージは協力的な関係である必要があるのです。あなたがある経験を子供の頃にしたとしましょう。この経験はあなたがある両親のもとに生まれ、そしてある特定の環境にあったから起こったことです。そしてこの経験はあなたの転生の歴史全体にとって最適で、成長と浄化の目的を果たすために問題が目に見える形となったのです。まず意識的にならない限り、あなたは浄化されず、そして問題を排除することができないのです。そして意識的になるためには何かしら不快なことが起こる必要があります。そうでなければ内側に存在している不調和にあなたが目を向けることは決してないでしょう。皆さんがご存知のカルマとは、因果の関係に他なりません。同じ法則がひとつの人生の期間中にも働きます。現在の人生の中であなたが自分自身のイメージや間違った結論に気づくとき、あなたは自分自身の中に原因と結果の法則と、その真実が明確に現れていることを理解し、見、そして経験することでしょう。これによってカルマが同じ法則に基づいて働いていることを知るでしょう。ただカルマの場合は時間軸がいくつかの人生をまたがっているのだと理解できるはずです。
質問:例えば誰かが強制収容所で亡くなり、これがカルマの結果だとします。この場合にカルマとイメージはどのように組み合わさるのでしょうか?またどのようなイメージがあるのでしょうか?
回答:ああ、皆さん、イメージには数百通りもの可能性があります。そのすべてを列挙するのは不可能です。より深く理解するためにはふたたび、自分自身のワークを続けることのみならず他者とのワークも続けることです。神聖な法則を犯している「よりやさしめのケース」をより強いケースへと置き換えるとき、イメージが出す結論の因果の法則がより重たいカルマにも同様に働いていることを容易に想像することができるでしょう。どちらのケースも間違った結論に基づいた出来事を引き寄せているのであり、間違った結論は常に神聖な法則と真実に対する冒涜なのです。両者の違いは度合いの差だけです。法則と真実からの逸脱が無知や間違いから生じたものであっても、もしくは意図的に行われたものであってもそれぞれに違いはないのです。どちらにせよ原理はひとつです。もしもある人の霊的な成長の段階がまだとても低く、神聖な法則から意識的に逸脱した場合、ここからイメージが生じることはありません。イメージは無意識の理由づけや、推論、そして結論から生じます。意図的および意識的な法則の冒涜は、外的な結果を引き寄せます。これをあなた方はカルマ的な結果と呼びます。無意識の中に隠された感情面での内なる冒涜は、イメージを作り出し、カルマとは違った結果を伴います。この場合、法則の冒涜の程度は低く、そしてこれは無意識の中で起こります。つまり我々が今扱っているふたつは同じ原理の上に成り立ってはいるのですが、同じものではありません。犯罪者が殺人を犯すとき、これは無意識に行われるわけではなく、自業自得の結果に対してイメージを引き合いには出しません。しかし次の転生でこの人が人を殺したいと思いながらも実際の行動にはうつさず、自分自身の欲求を抑圧し、例えば人生の痛みや望みが叶わなかったことに対する想像上の自己防衛をするとしましょう。この場合にはイメージが生まれます。しかしすべての犯罪や犯罪に対する罰がイメージから起こるとは限りません。イメージは無意識の中にある間違った理由づけや事柄に存在しています。そしてイメージは欲望や結論を含んでおり、より未発達な人々はこれを意識的に行動化します。
質問 例えばシカゴでたくさんの子供たちが火事によって命を落としました。小さなスピリットが霊的な世界へと入っていくとき、このような死は非常なショックをもたらすのではないでしょうか?
回答:愛しい人よ、子供たちが死亡するという事実は皆さんがご存知のとおりで、そしてこれについては今までにもよくお話ししてきました。もしもショックが生じたのであれば、それはその魂にとって良いことだったのです。その魂はそのショックを経験しなければならなかったのです。もしも魂にとってこの経験が良き事でなかったならば、経験することもなかったでしょう。これは確かだといえます。
質問:小さな子供のスピリットが、一体どのようにして分別できるのでしょうか?
回答:なぜできないのですか?このスピリットは転生する前、子供のスピリットではなく、成熟したスピリットでした。そして自発的に短い人生を引き受けたのです。もしかするとこのスピリットは暴力的で不快な死を率先して選び、手早く済ませてしまいたかったのかもしれません。そうすることでまたすぐ転生し、より高いレベルで始めることを選んだのかもしれません。皆さんご存知のように大きな視点で見たとき、魂は自由意志と選択を与えられています。他のスピリットは、よりゆっくりと時間をかけることを好むかもしれません。この出来事がショックの状態で起こったとしても、それが子供もしくは成熟したスピリットに起こったとしても(これがあなたの道理にかなっているかは分かりませんが)この経験は後に評価され吸収されます。魂がどのような体験をするにしろ、すべてに実りがあり、何にもならないということはないのです。ここで再び例を挙げてみましょう。たとえばある人が無数の残酷な死の責任を負ったとします。強制収容所の死などです。この例が先ほども挙げられていたので、ここで再び取り上げてみましょう。このスピリットが霊的な世界にいるとき、自分には債務があることを知ります。たくさん学ぶべきことがあることを知るのです。このスピリットは地球でいうところの200年から300年の間、霊的な世界に留まる選択も与えられますが、この期間はこのスピリットにとってあまり心地よいものではありません。自らの考え方や、感情の形、そして行動によって作り出した存在の球体は暗くそして陰鬱なものです。しばらくしてふたたび転生が用意され、いくつかの可能性が提示されます。しかしこれらの可能性は自らが生み出すものにそぐっているため、再び限定されたものです。どれも心地よいものではなく、そして簡単でもありません。このような魂はこう問うかもしれません「より素早く終わらせる道はないものだろうか」そしてこう答えが返ってくるかもしれません「そのような道がないわけでもありません。あなたはすぐに転生することができます。例えば10年または15年、20年のうちに。自らの子供を失うという困難を経験する必要のある両親の運命を満たす手助けをするのです。そしてあなた自身も暴力的で不快な死を耐えることによって大きく債務を返上することができます。他にもある選択肢ではなくこちらを選び、さらなる成長のためにこのより白紙に近い状態の人生を始めることを望みますか?」多くのスピリットはこれを望みます。これはたったひとつの可能性であり、他にもいくつもの可能性があります。しかしこれで、不正や偶然は存在しないということがおわかりになったかと思います。
質問 ;正義の問題を無視し、強制収容所のようにたくさんの人々が大量殺戮され、無数の人々が火で殺されることは、理解しがたい偶然のようには見受けられないでしょうか?そこには間違った考え方や行動が存在しているのではないでしょうか?
回答:そこに偶然は存在しないのです。歴史を振り返ってもひどい残酷さが存在し、大量殺戮が起こった時期があったことが分かります。そしてある期間をおいてまた起こるのです。次に起こるときにはもしかするとまた違ったグループによって、違った国で起こるかもしれません。以前に拷問を行った者は次に来る時代では被害者となっていると言って間違いないと思います。なぜなら被害者となることを自らに引き寄せるからです。これがすべての場合に当てはまると言っているわけではありません。天罰または原因に対する結果が発動し、人の運命に対してまた別の形で実行されることもあります。その他の被害者の場合においては特別な課題を引き受ける可能性もあります。つまりより早く成長したいという欲求から、普段は経験することのないような大きな出来事を自発的に引き受け、耐えるということです。ひと掃きでいくつものレベルを踏み越えるためです。しかしここでひとつ確かなのは、ひとつの大虐殺はまた次を引き起こし、拷問者から被害者へと役割を変えながら、すべての人が学ぶべきレッスンを学ぶまで行われます。このような債務の返上はひとつの転生では成功しないこともあり、いくつかの人生に渡って原因と結果を行き交わなくてはならない場合もあります。皆が忘れてはならないのは、このような残酷な時期を数十回前の転生で、もしくはもっと最近の転生で皆が経験しているということです。大きな災害や事故でたくさんの人が亡くなるとき、多種の魂が関わり、ひとつの運命が自由意志によって選ばれていることが多く、この出来事は霊的な世界が完全な正当性に基づいて判断し実行したことであると捉えて間違いはないでしょう。
質問:イメージとはカルマ的あるいは非カルマ的なものであるということで間違っていないでしょうか?
回答:もしもカルマ的な根源がなければ、そもそもイメージが形作られることはありません。ですから、イメージはカルマ的根源をもっています。カルマ的な根源は表面に現れるので、見つけるのはたやすいでしょう。イメージの探求では、イメージと同じ原理に基づいて働く思考的なプロセスが引き起こす小さな反応も見つかると思いますが、これらはあまり重要ではなく、意義あるもの、深く根ざされたもの、または大した重きが置かれているわけではないためにイメージとはいいません。もしも見つかったものが意義深く、葛藤を生み出すものである場合、そこにはカルマ的根源が存在します。ただし、過去の人生でこれが何であったのかに考えを巡らせても役には立ちませんし、この考え方はあなたをどこにも導きません。なぜならもしもあなたが正しい方法をとるならば、あなた自身の記憶を溯ることでこの人生での同じ根源に立ち戻ることができるからです。そしてこれで充分なのです。もしもいくつかの場合において、以前の人生で得た知識が成長の助けになる場合に知識はあなたに与えられますが、これは必要なその時に限ったことです。
質問:そもそも可能なことかは分からないのですが、子供の中に形作られたイメージに光をもたらし、イメージを軽くすることはできるのでしょうか?どれくらいの年齢でできることでしょうか?
回答:もちろん可能です。もしも両親が道を歩んでいる者であれば、彼ら自身の問題が何であるか知っているはずであり、これはつまり問題から子供がどのようなイメージの素を吸収する可能性があるか分かるということです。これを知っていることによって、子供が出した結論がまだ表面的であるうちに意識上に持っていく手助けができ、イメージが形作られるのを大きく避けることができます。こうすることで問題をすぐに意識上で扱うことができ、子供の成長と共に、この結論は成長のプロセスへと形を変えることができます。さらに、道を歩んでいる両親は子供の反応を観察することができ、それによって感受性を高めることができます。これが理想なのですが、このような例は非常に稀です。
質問:何が自分のイメージなのか分かるテストはありますか?
回答:イメージが存在しているとき、それがイメージであるということが存在の髄まで分かるので、そのようなテストは必要ありません。どのような方向からイメージを扱ったとしても正しい式を導きだすことができます。等しい方程式が導きだせるはずです。ただしよくある例では、イメージの意識があなたに近づいているにもかかわらず、人格があまりにしぶっている場合や、抵抗でいっぱいだった場合にはイメージが見えないこともあります。このときにあなたがするべきことは、様々な視点からワークをひたすらに続けることです。するとあるとき突然、知識が得られるのです。こうなると、これだ!とただ分かるので、確認など必要なくなります。突然、あなたの人生全体の辻褄が合うようになります。自分自身の人生や欠陥を理解し、あなた自身を理解することができるようになるために周囲の人達のことも理解できるようになります。謎が解け、パズルが完成し、すべての駒ははまるべきところにはまります。そこにはテストも、技も、魔法も存在しないのです。どのような確認も大して必要ないのです。なぜなら、あなた自身の中心となるイメージを知っていれば、他はすべてしかるべき位置につくからです。そしてイメージを解決する前であっても、イメージが存在していると知っているというだけであなたは自由になります。この自由の感覚は、 中心となるイメージがはっきりと表面化する以前にも起こる場合があります。イメージに対する認識は少しずつ起こりますが、この認識は中心となるイメージを統合する重要な一部分です。このようなイメージの小さな断片を手にするとき、時には先程述べた開放的な自由を経験することがあるのですが、イメージの全体を完成したときにはどれほどの自由を経験することでしょう!
質問:今夜友人が、初めてこの会に参加しています。彼女は、どのようにしたらサイキックな力を発達できるのか知りたいと言っています。
回答:まずはこのご友人に伺いたいと思います。何が目的でしょうか?
質問:子供達や年老いた人など、助けが必要な人達のためです。
回答:良い動機ですね。サイキックな力の発達のために本当に良い方法は唯一、次に示す通りです。まずこのこと自体に考えを巡らせることを放棄すること、そしてあなた自身の霊的、思考的、そして感情的な発達およびあなた自身の浄化の道に集中することです。さらなる探求によって潜在意識が意識へと上がることで、チャンネルはより澄んだ状態になります。私は今、一般論をお話ししており、これはあなただけに当てはまることではありません。このような形で手助けをしたいと願っているすべての人に当てはまることだからです。サイキックな力の発達は常に副次的であるべきです。このような力がどのように顕現するかは神の意志にお任せするべきです。そして力の顕現が強くなればなるほど、より厳格な自己成長の道が必要となってくるでしょう!このことを強調してもしきれません。自己認識の力がある程度に達していない限りサイキックな力は危険なのだと知り、このことはしばらく横に置きましょう。そしてこれを神の名において行う場合、時が熟したときに神は100倍にしてあなたにお返しをしてくださるかもしれません。あなたが身勝手さを横に置くことを学び、次のことを真に意味し、発言するならば、あなたの在り方は神にとって心地良く適切で健全なものとなるでしょう。「父よ、御心が行われますように。私が望む通りではなく、あなたがお望みになるように私をあなたの道具としてください。あなたの世界の道具となるためには、この道を辿る必要があることを私は知っています。そして道での困難を避けはしません」これが唯一の方法であり、他のすべては危険とされているほどです。良き意志だけでは守りの力が足りません。さまざまな無知が深刻な問題や不真実をもたらします。このようなワークでは特に、いまだ探られていない無意識が大きく働きます。サイキックな力から危険性を取り除きたいのであれば、自己認識は必ず成長を伴っていなければなりません。
皆さんが用意していたであろう他の質問に今夜お答えできないことをお詫びいたします。次回まで質問をとっておいてください。
今夜私が退く前にもうひとつ、大切で愛しい皆さんに伺いたいことがあります。スイスにいるあなた方の兄弟姉妹の皆さんのイメージ探しの手助けをしていただきたいのです。どのようにしたら手助けができるか考えてみてください。いくつかのご提案はすでにしているのですが、そこから発展させて考えていただけないでしょうか。
愛する皆さん、クリスマスが近づいてきています。キリストの光がすべてに広がっており、この地球にも触れています。すべての人にとって喜びである自己探求の道の、止まることなく更新されるスタミナを探し当てるために、この光を、この素晴らしい力強さを取り込んでください。ふたたび、神の恵みを受け取ってください。平和のうちに、そして神のうちにあれ!
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